山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

明日出発です

2012-06-30 08:55:36 | くるま旅くらしの話

  北海道に向けての出発がいよいよ明日となりました。今日はこれから最後の準備に取り掛かります。と言っても大した仕事ではなく、残っている荷物類を積み込むだけです。

 長いこと杜撰なブログの取り組みでしたが、明後日からは毎日書き込みを考えており、老人にはちょっぴり忙しい毎日となりそうです。いつものように1日遅れの旅日記と当日の予定をお知らせすることにしています。従ってブログへの掲載は明後日からということになります。一老人夫婦のくるま旅での暮らしぶりをご笑覧頂ければ幸甚です。そして少しでも楽しんで頂き何かを感じて頂ければ、そして出来得るならば、新しい出会いや刺激を求めて同じ仲間としてくるま旅に飛び出して頂ければ嬉しく思います。

 消費税の増税は最早決定的ですが、これとても社会保障のための財源確保ということであり、その背景には老人(高齢化という人もいるようですが)といわれる私たち同世代の大群が控えているわけであり、その負担を少しでも軽減するためには、老人世代はあの世からのお迎えが来るまでは、活き活きと健康に生き続けることが最重要な社会貢献なのではないかと私は考えています。

老化というのは全ての生物にとって不可避的なもので、それに連れて何らかの病がついてくるもののようです。斯く言う私自身も糖尿君とは平和協定に基づいて僅かの薬品を使わなければならない存在なのですが、それは単に長生きしたいとかあの世に行くのが嫌だということからではなく、くるま旅を介しての様々な出会いと活き活きと生きる時間をもう少し味わいたいという、ささやかな望みからのものなのです。薬品のお世話になることが即ち社会保障費の膨張につがなることなのだと思いますが、活き活きと生きることによって投下された費用以上のものを回収出来れば、病の渦の中に埋没してしまう老人よりは、世の中に役立っているともいえるように思うのです。

ま、そのような理屈などを思いながら、とにかく今年も北の大地の夏を自分なりに味わい過ごしてきたいと思っています。

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間もなく北海道行です

2012-06-25 03:50:21 | くるま旅くらしの話

  6月も残りあと1週間となりました。5月の半ばに九州1カ月半の旅から戻って、ドタバタしている内にもうこんな時間になってしまいました。1週間後には北海道に向かって出発します。時間の経過は老化のスピードと合わせて、真に早いものです。ブログの方は長いことグータラを決め込んでいますが、あと1週間後からは北海道での暮らしの様子を毎日お伝えしようと考えています。今までのグータラは、そのための準備のようなものだったのかもしれません。出発の日が近づくにつれて少しずつですが予楽の緊張が高まってきているようです。

凡その日程ですが、出発は7月1日。東北道を寄り道しながら北上し、いつものように大間からフェリーに乗って、函館上陸は7月4日予定です。フェリーの乗船券も予約・入手済みです。上陸後は道南や道央エリアにお住まいの何人かの知人を訪ねながら、7月の11日頃には基本拠点と考えている別海町のふれあいキャンプ場に入る予定です。今年の北海道はとにかく移動するのを極力抑えて、道東に腰を据えて北の大地の夏の涼の恵みを心行くまで味わいたいと考えています。別海町に入って以降の予定は全く決めていません。決めているのは帰宅期限日だけで、それは9月の18日をリミットとしています。つまり、この日よりも早く戻ることを心がけるということです。何しろこの頃は二人とも投薬のお世話にならなければならなくなってしまっており、本当なら北海道の秋を堪能してから戻りたいのですが、それを実現するには出発を遅らせるしかありません。ま、致し方のないことではあります。

北海道の夏を訪ねるようになってから、早や10年以上が経ち、正確には何回目となるのか古い記録を見ないとわからないようになりました。この間旅の形も次第に変化し、当初は下見の下見なのだなどと公言しながら、欲張って何でも見てやろうと北の大地の隅々まで走り回っていたのですが、それがやがては訪問先を絞るようになり、気に入った場所での滞在を心がけるようになりました。この間の主な旅の内容としては、観光や自然探訪それにパークゴルフなどの運動競技を楽しみながら、新たな仲間との出会いのチャンスを求めるといった暮らしぶりでした。それがこの頃は動き回るのを極力抑えて、じっくりと北海道という場所の歴史や文化といったものを掘り起こしてみたいなどと考えるようになっています。勿論今までと同様に大自然の美を心行くまで味わいたいという好奇心は変わらないのですが、そればかりではなく、この北国のくらしの歴史などにも目を向けて見たいと思うようになったのです。

今年は別海町に落着いたら、しばらく図書館通いをしたいと考えています。別海町には加賀家文書館というのがあり、地元で江戸時代から活躍した加賀家の文書が収蔵されています。古文書を読解する力は、残念ながら持ち合わせてはおらず、主に解説書などにお世話になると思いますが、それらの資料に首を突っ込んで、往時のこの辺の暮らしの様子などを覗いてみたいと考えています。昨年も「別海町百年史」をお借りして読んだのですが、真に大部でとても1週間などで読めるものではなく、江戸時代に至る前の何億年も前の、摩周山の大噴火などの地学的な記述を読むのに辛うじて届いた程度で、とても江戸から今日の暮らしにまでには至りませんでした。どうしてもつまみ食いならぬつまみ読みとなってしまいますが、今年はよりじっくりと読み取れるように心してかかろうと思っています。

もう一つ宿題にしているのは、先の九州の旅で得たエッセーのテーマをものにするという仕事です。九州の思い出を北海道でまとめるというのは少し贅沢過ぎる気もするのですが、こんなことが出来るのもくるま旅くらしならではのことですので、是非実現させようと思っています。九州の旅では60以上のエッセーのテーマを拾うことが出来ました。この中から特に写真を使って表現できるものに力を入れてエッセーをまとめてみたいと思っています。

この二つのメインテーマの他にも楽しみはたくさんあります。その第一は自然観察です。毎朝の散歩での野草の観察は例年のことですが、少し足を延ばして、野付や霧多布それに小清水やワッカなどの原生花園を訪ねるのも楽しみです。特に今年は到着早々の7月中旬になると思いますが、霧多布の散布(ちりっぷ)という所にあるハクサンチドリの花の群生を見るのを楽しみにしています。今年の冬は寒かったので、咲く時期が昨年よりも少し遅れるのではないかと予想していますが、何としてもジャストタイミングであの可憐な花たちの喜びの歓声を見届けたいと考えています。この他にも2カ月ほどの滞在の間には、未だ気づかなかった野草たちにも出会えるかもしれません。やたらに変化の多い世の中ですが、その中で変わらないもの、忘れてはならないものに気づけるような暮し方をしてみたいものだと思っています。

人との出会いについては、動かなくてもきっと新しい出会いがもたらされるに違いないと思っています。自分は動かなくても他が動けば出会いは無尽蔵なのです。この頃は人との出会いというものは、偶然ではなく必然なのだと思うようになっています。無理しなくても会うべき人には会うようになっているのがこの世なのだと考えることにしています。逆の発想では、会えない人には会えないようになっているということなのかもしれません。今年の夏の出会える人がどんな方なのかとても楽しみです。

あと1週間。逸る心を抑えるのはとても難しいことですが、無事に出発できるように、努めて平常心を保てるようにしたいと思っています。

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小さな旅から:その4(おわりに)

2012-06-21 05:03:18 | くるま旅くらしの話

 【TACOS第50回記念クラブキャンプ参加所感】

今回の小さな旅はその最終目的がTACOSというキャンピングカークラブの集まりに参加することでした。TACOSというのは、メキシコ料理のタコス由来の名称ではなく、Tokyo、Auto、Camper、Outodoor、Serviceということばの頭文字をとったもので、これはキャンピングカーの販売・ビルダー会社の名称に由来するものです。我がSUN号もこの会社から購入したものです。

この会社から購入して早や10年が過ぎ、走行距離も16万キロを超えてSUN号は益々健在ですが、購入した時からこのクラブキャンプに参加して来ました。最初に参加したのはまだ10数回にも至らない頃だったと思いますが、それが今回で50回目を迎えるということになったのは、真に喜ばしいことです。最近は旅の方が本格化してきているため、なかなかクラブキャンプに参加できない状況なのですが、今回は丁度いいタイミングで、50回の記念大会に参加することができました。場所は富士山麓本栖湖湖畔にある青少年スポーツセンターです。

昨日までのしょうもない出来事の後、昨夜は大雨に見舞われて、一応は降りやんでいる朝を迎えて、さて今日は一体どうなるのかと心配しながらクラブキャンプの会場に着いたのは、10時過ぎでした。今のところ雨の予報にも拘わらず、雲は空を覆って居ても落ちてくる雨粒は最小限に留まってくれているのは幸いでした。入場の開始時刻が10時なのですが、到着した時には既に10台を超えるキャンピングカーが並んでおり、いつものことですが、このクラブのメンバーには、心逸(はや)る人たちが多いようです。会場は青少年スポーツセンターのグラウンドの端の方にある広場で、普段はテントを張ってキャンプするために使われている場所のようでした。水場もトイレも近くにあり、一夜を過ごすには支障はないようですが、電源がないのが残念といったところでしょうか。ま、キャンプというのは、そもそも電源があるなどというのがおかしい発想なわけであり、今日はくるま旅ではないのですから、これは我慢しなければなりません。

クラブキャンプにはいろいろな過ごし方のスタイルがあると思いますが、TACOSの集まりではメインが夕刻からのポトラックパーティとなっています。いわゆるおかず等の一品持ち寄りの晩さん会で、参加者の家族単位での思い思いの手料理が提出され、それを皆で分け合って楽しみながら食べ、歓談するといったスタイルです。この他にも幾つかのイベントが用意されているようで、今回は参加者にペット同伴者が多いこともあって、ワンちゃんやニャンちゃんたちの一芸大会なども用意されているようでした。この他にもオークションなども開かれ、盛りだくさんのようです。

夕刻までには60台近くの車が集まり、車を離れて出掛けると、帰りにはどれが自分の車なのか一瞬迷うほどの混みようでした。初めは余裕のあった広場も、大小様々のキャンピングカーで埋め尽くされている感じで、壮観と言って良いながめだったと思います。広場の中心にはメンバーが思い思いに持ち寄った簡易テントが幾つも並んで設営されて、雨に備えての夜の宴の準備が着々となされたのでした。今まで何度かこのクラブキャンプに参加して来ましたが、これほど多くの車や人の集まりは初めてのことでした。

夕刻になっていよいよパーティが始まりましたが、ここ2年ほど参加しなかった間に、メンバーの大半は新しい方たちとなっていました。改めて世の中の動きの速さに驚き、戸惑いを覚えるほどでした。参加者は総勢で150人を超えていたのではないかと思います。老人には若い世代との交流はなかなか難しくて、結局は昔からの知り合いの方たちとご一緒させていただき、久しぶりの邂逅を楽しんだのでした。TACOSには芸達者というか、そんなレベルではなくてプロのアーティストの方たちも時々参加されており、今日は自分の席からは遠くて良く判らなかったのですが、どなたかギターの弾き語りや歌を歌われていたようでした。間もなくアルコールの方も身体全体に行き渡り、宴は最高潮に達し、富士山麓の湖の傍の一角に、和気あいあいの灯りを灯し続けたのでした。とても良い時間でした。

たくさんのキャンピングカーを見ながら思ったのは、キャンピングカーと旅車の違いを巡る思いのあれこれでした。今日ここに集まっているのは、一夜のキャンプを楽しむために集まっている人たちであり、その目的に用いられているのがキャンピングカーなのです。改めて考えてみれば、これは随分と贅沢で豪勢な所持品なのだなと思います。アウトドアライフをこのような車を用いて楽しむというのは、今の時代ならば当たり前の発想につながっているのかもしれません。しかし、その稼働率というか使える頻度といえば、年間で50日にも満たないのではないでしょうか。真に勿体ないと思います。

私の場合は同じ車種の車でもキャンピングカーではなく、旅車即ちモーターホームだと思っています。オフ会などに参加する時はキャンピングカーとなりますが、不断の姿はモーターホームです。モーターの付いている家という発想であり、それは旅車を意味しているのです。くるま旅というのはキャンプの連続ではありません。家を出て別の世界に行くということではアウトドアということにはなるとは思いますが、キャンプとは異なるのです。新たな出会いや再会を求めての人生の宝探しなのだと思っています。

キャンピングカーと呼ばれている車を旅車として使わない、或いは使えないということは、コスト的に大きな負担を強いられるものであり、一時の楽しみに自分や家族の強い思いを実現しようという勇気がなければ、購入する決断が難しいように思います。勿論セレブでリッチな人には無関係な話ですが。ま、人それぞれであり、夫々の人生の楽しみ方を享受することに何の異論もありません。

でも、敢えておせっかいを申し上げるならば、キャンピングカーではなくモーターホームとしての旅車の活用をお勧めしたいと私は思っています。現役で仕事をお持ちの方には無理な話ですが、リタイア後の人生を豊かに過ごそうとお考えの方には、キャンピングカーではなく、モーターホームとしての活用をお勧めしたいのです。今日の集まりでは、大半は現役世代の方たちでしたが、リタイア後の方も或いは間近にそれを控えている方もおられるようでしたから、是非とも一歩足を踏み出して、残された時間を人生の宝探しに参加して欲しいなと思ったのでした。

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小さな旅から:その3

2012-06-16 02:13:23 | くるま旅くらしの話

【富士川】

 道の駅:とよとみを出た後は、笛吹川に沿って少し走ると、市川三郷町でR52に出ますが、彩甲斐街道として秩父の厳しい山地を通って来たR140はここで終点となります。出くわした所に流れているのが釜無川で、ここで合流した笛吹川は釜無川と共に新たに富士川となって富士山麓沿いを駿河湾に向かって流れ下るわけです。釜無川は日本アルプスや八ヶ岳連峰の水を集め、笛吹川は秩父連峰の水を集めて、これらが皆一緒となるのですから、それに富士山の水を加えれば、富士川というのは実に水量の豊かな川となるのは当然なことだと思います。しかし、普段の富士川というのは水量の多さを実感させるような流れではなく、河川敷に石や砂が多いのが目立ちます。これは流れが急なのだということを語っているような気がします。

ま、あれこれとこの辺りの急峻な山との関係を思いながら富士川に沿ってR52を南部町の道の駅:とみざわまで行きました。R52はこの辺りから富士川街道と呼ばれているようです。この道はあまり通ったことがなく、かなり以前に身延山の久遠寺に参詣した時と静岡に住む姪の結婚式に出る時に通ったきりだったと思います。今日は適当にぶらつきながら行き、どこか温泉でもあったら入るつもりでした。しばらく走って身延町にある道の駅:富士川ふるさと工芸館に寄りました。今夜はここに泊ってもいいなと考え、下見を兼ねてでした。ここはクラフトパークとなっており、木工に関心のある方には必見の場所なのかもしれません。物作りには全く自信のない自分にはその方に向かう元気はなく、ただ高地にある広い施設から富士川を見下ろして、ここならばトラックも入って来ないだろうから静かな一夜を過ごすことが出来るのではないか、などと思っただけでした。

【落胆タケノコ&温泉の話】

直ぐに下見を終えて坂を下りてR52に戻り道の駅:とみざわに向かいました。その目的はタケノコを手に入れることでした。秩父の両神の道の駅で買うのを控えた分だけ、それを求める気持ちが強いのです。途中温泉も探そうと考え、先ずはAC誌の付録の道の駅案内に載っている門野の湯というのを候補に入れてあります。寄るのは帰りにすることにして、とにかく道の駅:とみざわまで行ったのですが、いやあ、全くの期待外れでした。この道の駅に期待したのは、何といってもタケノコを売りにしており、道の駅には巨大なタケノコのモニュメントの館のようなものがつくられているからなのです。以前ここを通った時はタケノコとは無縁な季節でしたが、今頃なら必ずあるのではないかと思っていたのです。確かに孟宗竹はとっくに終わっているし、真竹は少し早いしというところですが、タケノコを特産と銘打っているのならば、淡竹(はちく)もあるに違いないと思ったのが間違いでした。僅かにタケノコの加工品やご飯があったくらいで、これじゃあ全く話にならんなと思いました。ここは恐らく孟宗竹だけを売りにしているのではないかと思いました。自分的には孟宗竹には殆ど魅力を感じません。早採りのものは値段が高いし、通常時期の収穫では大味で繊細さがなく、気に入りません。淡竹や真竹の方が遥かにタケノコの味を賞味できると思っています。孟宗竹でも京都のタケノコの新物などは別格ですが、あれは庶民の口に出来るものではなく、埒外の話です。せっかくわざわざここまで来たのにと、そのがっかり感は殆ど怒りに近いものでした。

引き返して温泉に入ろうと、候補の門野の湯というのを探しました。付録の案内には今年から道の駅近郊の入浴施設を紹介されるようになり、先日の九州行でも参考にさせて頂いたのですが、時々見当外れの所があり、ありがたさよりも失望感を抱かせてくれることがあるので、ダメ元の精神が肝要なのだと、そんな気持ちで探したのですが、今日はモバイルのPCを持参しておらず所在場所を調べる手がかりが電話しかありません。紹介されている入浴施設の住所も記載して頂くとありがたいのですが、今の世は電話優先となってしまっているのでありましょう。門野という地名を地図で探し、当てずっぽうでそこへ行ってみることにしました。これは上手くいって一発で探し当てることが出来ました。ところがそこは入り口が狭い急な坂道で、旅車では中に入るのが厳しい状況であり、更に「高齢者保養施設」という看板がかかっているのです。我々も高齢者の一員なのですが、どうも年寄りばかりの湯に入ると元気を失う感じがして敬遠したくなるのです。相当にガッカリして諦めることにしました。2連続のがっかりでした。

【愚かなる逆転勝利・下部温泉】

今日はどうしても入浴したいという家内の要望を満たすには、後は以前に立ち寄り湯をした下部温泉に行くしかありません。下部温泉は先ほど寄った道の駅:富士川ふるさと工芸館から富士川に架かる橋を渡ってしばらく行った所にあります。とにかくそこに向かうことにしました。以前一度来て温泉にも入っているのですが、それがどこだったのか全く覚えていないのです。家内の方も曖昧な感じで確信のないようでした。身延線の踏切を渡り、しばらくうろついたのですが、ホテルや旅館は幾つかあっても共同浴場のようなものは見当たらないのです。ホテルや旅館でも立ち寄り湯はOKなのかもしれませんが、高額な所が多いので、なかなか訊く気になれません。一旦諦めることにして泊りを道の駅:しもべにしようかとそちらに向かったのですが、途中から道を間違え再び下部温泉街に戻ることとなったのでした。

もう一度と探している内に、目の前にあるその建物から入浴を終えて出てこられた人を見て、なんだ、ここだったのかと気づいたのでした。最初にここへ来た時から車を停めた眼の前にある下部温泉会館というのがそれだったのです。温泉会館とあるので、温泉関係者の事務所見たいなものかなと思いこんでしまっていたのでした。共同浴場とも何も一切表示していないので、気づかなかったのです。家内は最初からそうではないかと思っていたらしく、後になってから盛んにそれを言うものですから、又またムカついて来て口論となるのは我が家の常なのであります。PCを持参して調べれば直ぐに判ったものをと、まあ、以前入っているのを忘れ果てている自分に呆れ返りながら、その信玄の隠し湯などといわれる温泉に浸ったのでした。山梨県には数多くの温泉がありますが、それらの全てが信玄の隠し湯だったと思えるほど多くて、武田信玄という人は湯を隠すのが好きだったようです。

何はともあれ、相手のエラーによる逆転勝利のような感じで、自滅しかかっていたゲームを救われて、ようやく温泉入浴を果たし、今夜の宿はやはり先の道の駅:富士川ふるさと工芸館に行くことにして、来た道を戻ったのでした。いやはやとんだ一日でした。

【二つの南部町】

 一つだけ真面目に感じたことを書くとすれば、旅をする者として二つの南部町がつながっているのを実感したということでしょうか。二つの南部町というのは、この山梨県南巨摩郡南部町ともう一つは青森県三戸郡南部町です。南部町はこの他にも鳥取県と和歌山県にもあるようですが、鳥取県は合併で生まれた新しい町であり和歌山県は南部と書いてもみなべと読み、この二つは無縁の南部町です。

 青森県の南部町は東北(=陸奥)の雄である南部氏の発祥の地であり山梨県の南部町はその家祖の南部光行という人物の生誕の地ということなのです。つまりこの二つの町はその昔の為政者の出身地であり移転先としてつながっているわけです。南部氏といえば、盛岡市が拠点であるように思われますが、平安時代の末期にその家祖である南部光行が甲斐の国から向かったのは陸奥の国の糠部という所であり、そこが現在の南部町だったということなのです。南部氏は移転した当初は経済的にも恵まれず厳しい状況だったようですが、その後次第に力をつけて、城を三戸(三戸城)へ移し、更に二戸(福岡城)から盛岡(不来方城)へと本拠を移しながら幕末・明治へと時代を縫ってつなげてきたわけです。現在でも三戸町や二戸市にはそれらの城跡が残っており、かなり大規模だったことが判ります。

 東北の旅では一戸から九戸までというへのへのの旅(=戸の戸のの旅)をしたことがあり、四戸という自治体はないのですが、それ以外の各地を巡って南部氏のことを学んだことがあり、大いに興味を惹いたのでした。そもそも一戸から九戸までの戸という呼び名は、南部氏がその名産とした駒を育てるための土地の区割りを行ったことに由来しているという説もあり、広大な陸奥の地を治めた南部氏の出身地が甲斐の国だったというのは、一体どの様な経緯があったのかと興味津々です。

話は飛びますが、先日の九州の旅で人吉市を訪れた時に人吉城址を歩いたのですが、後でその資料館を訪ねた時に歴代の治世者である相良氏が駿河の相良出身であると知り、一体どういう理由で静岡県から熊本県の山奥へと移って来たのか、これまた興味を覚えたのでした。平安や鎌倉という時代の治世者の移動というものがどういう仕組みで行われていたのか、学校で学んだ歴史の中身には大ざっぱなことしか書かれておらず、旅で現地の歴史などを通して情報を得ることが、この頃は一つの楽しみとなってきています。

二つの南部町のつながりを思う時、その昔のこの国に生きた人々の思いがより鮮明に伝わってくるような感じがして、改めて旅の楽しさを実感したのでした。

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小さな旅から:その2

2012-06-14 05:30:00 | くるま旅くらしの話

 【道の駅:両神温泉薬師の湯】

二日目は道の駅:両神温泉薬師の湯から始まりました。この道の駅には文字通り温泉がありますが、その名前の薬師の湯というのは、近くにある法養寺薬師堂にあやかったものではないかと思います。ここの薬師堂は日本三体薬師尊なのだという石碑が建っていますが、日本三体というのが何なのかは解りません。ご本尊の薬師如来像を見るのは暗くて難しいのですが、それが収まっている建物全体の雰囲気は落ち着きがあって、この辺りでは群を抜いた存在なのではないかと思います。ここの道の駅に寄る時には、必ずこの薬師堂に参詣することにしています。今回も早朝の参詣となりました。

薬師堂の脇には両神神社があるのですが、薬師堂の脇役的な存在に見えてしまいます。両神という名称からは、背後に控える両神山をご神体として祀った神社なのかもしれません。その神社の脇の道を少し登って行くと左手の谷に沿って小さな公園があり、そこにはアヤメの植えられた棚田のようなものが幾つかありました。丁度今がアヤメ祭りの会場となっていました。植えられているアヤメや菖蒲の数はさほど多くもなさそうでしたが、それ以上に祭りという案内には相応しくない咲きぶりで、未だ花をつけているのは数本程度でした。今年はいずれの地方でも植物たちの生育の回転が遅れてしまっており、その影響なのかもしれません。満開までにはあと2週間は掛かるなと思いながら朝の散歩から戻りました。

道の駅の野菜売り場を覗いたらハチク(=淡竹)のタケノコがありました。間もなく真竹のタケノコが出てくる時期ですが、守谷市近郊ではやはりセシウムのことがありますので、除染など手つかずの竹藪から生えて来たものは、食べるのには少し不安があります。私自身は最早そのようなことを気にしても無駄な年齢レベルに来ていますので構わないのですが、家内の方は医療上余計な放射線を浴びており、要注意なのです。そのような事情もあり、このハチクを見た時に買おうかなと心が動いたのですが、いや待てよ、今日はタケノコを売りにしている道の駅:とみざわ(山梨県南部町)にも行こうと考えているので、そこで買うことにしようと思い止まった次第です。

 【雁坂道(かりさかみち)】

9時過ぎに出発して県道をしばらく走ってR140に出て、間もなく三峰神社参道を横に見て雁坂峠に向かいました。この雁坂峠を越す道を雁坂道(みち)と呼んでいます。昔からの秩父から甲州に抜ける往還の一つだったと思います。雁坂峠は、秩父連峰の主峰ともいえる甲武信岳の東南にあって2千メートルを超える高さにあり、トンネルが開通するまでは相当の難所でした。というよりも車では通れない道だったのです。

若い頃には秩父の山を縦走したこともあるのですが、50年ほど前の5月の連休を利用した登山の最中に大雪に見舞われ往生したことがありました。その時は何人もの方が遭難して亡くなられたのですが、その時避難小屋の中で、捜索の状況が無線から流れるのを聞いたのを思い出します。あの時は縦走するのを諦め、長いこと雪の中に閉じ込められて精根尽きて、往時の雁坂峠から甲府側に下りたのを思い出します。50年も昔のあの当時から比べると、今の雁坂道は想像もつかない変化に見舞われています。秩父側からの登り口には滝沢ダムという巨大な水瓶が出来上がり、少し行けば一般国道としては日本では最長の雁坂トンネル(6,625km・1998年開通)が通っており、車ならあっという間に山梨県側に入ることが出来るのです。50年前に埼玉県側から山梨県に行くには東京や群馬県など、大きく遠回りしなければ行くことが出来なかったのです。ここを通る度にその昔のあり様と今日の変わりようについて思いを馳せないわけにはゆかず、家内にはいつも同じ話をしてしまうので、又か、と敬遠されてしまうのですが、これはもうどう仕様もありません。

雁坂トンネルを抜けて緑の世界を駈け下りて行くと山梨県側にも廣瀬ダムというのがあり、その近くに道の駅:みとみがあります。ここは全くの山の中の道の駅で、何か山の幸でもないかと立ち寄ったのですが、目ぼしいものは見当たりませんでした。更に下って行くと道の駅:花かげの郷牧丘があります。ここからは晴れた日には富士山が見えるのですが、今日は残念ながら雲に包まれて何も見えませんでした。小休止して駅の構内を歩いていたら、片隅に何かモニュメントがつくられていましたので行って見ましたら、「彩甲斐の石」と書かれており、平成10年に雁坂トンネルの開通によって彩の国(=埼玉県)と甲斐の国(=山梨県)が時代を超えて出会ったとありました。そして小さな池の周りに彩の国の石と甲斐の国の石とが左右に置かれていました。彩甲斐は又再会に通じる言葉であり、人と人との出会いの道でもあるとして、この道を彩甲斐街道というのだという主旨のことが書かれていました。つまり、雁坂道は今は彩甲斐街道となったということなのでした。トンネルの開通を期して両県の関係者の長年の懸案が実現された喜びがそこに記されているなと思いました。

 【山梨県の中央は日本の中央?】

平成の大合併で山梨県にはたくさんの市や新しい町が生まれた感じがします。土地勘のない私には、どこがどうなのか良く判らないのですが、その中で中央市というのがあり、これが山梨県の真ん中に位置しているのか、或いは日本の真ん中になっている場所なのか、どうでもいいようなことが何故か気になりました。確か四国には四国中央市というのが新たに生まれたようですので、山梨県の場合は全国の真ん中を自負した命名だったのかもしれません。でも栃木県にも佐野市に「どまんなかたぬま」という道の駅があり、ここが日本列島の中心だとかいう話もありますから、やっぱり山梨県の中央に位置すると考えた方がいいのかもしれません。しかし、山梨県の真ん中というのがどの辺りなのかというとなると、これはもうお手上げです。日本人というのは、真ん中とか東西南北の最先端などという場所が妙に気になる人種なのかもしれません。勿論私自身もそうなのです。

その中央市に道の駅:とよとみがあります。道の駅:花かげの郷牧丘を出てR140をそのまま辿って行くと、やがて笛吹川に沿った道となり、とよとみの道の駅に着きます。とよとみは豊富であり、中央市となる前は豊富村でした。ここの道の駅で昼食休憩としました。今回初めての来訪でした。ここにも農産物の販売所がありましたが、先ほどの二つの道の駅と比べると品揃えも豊富で、なかなか魅力的なものに溢れていました。その中で眼を惹いたのが二つあり、その一つがヤングコーンであり、もう一つが掘りたてのジャガイモでした。ヤングコーンというのは、トウモロコシの身がまだ育っていないものを食べるという食材です。どうやらこの地はこの食材の特産地となっているようで、明日はその出荷のお祭りがあるというチラシがありました。早速これを手に入れました。ジャガイモの方は、直ぐに茹でて昼食にしようと思い、キタアカリを一袋買いました。これは大成功でした。収穫したばかりのジャガイモは文句なしに美味なのです。ヤングコーンは家に持ち帰って食べることにしました。これらの野菜類も守谷市の地元ではやはりセシウムのことが気になり、なかなか手を出せないのですが、まさか山梨のこの地までは汚染されてはいないと思いますので、家内までもが手を出して賞味していました。日射しが強くなって日影が恋しいほどの天気となったのですが、富士さんの姿は見えず、中央市はあまり展望の利かない場所のようです。

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小さな旅から:その1

2012-06-12 00:43:22 | くるま旅くらしの話

  さる7日から10日まで秩父から富士山麓の緑の世界を楽しもうかと、小さな旅をしてきました。所属するTACOSキャンパーズクラブの50回記念キャンプに参加するのが目的でしたが、富士山麓の本栖湖での開催でしたので、ただ往復するばかりでは勿体ないと考え、少し欲張って遠回りして途中や付近を訪ねることにしたのでした。主な行程は次の通りです。

 <第1日>

自宅 →(県道・R16)→ 川越市:重要伝統的建造物群保存地区:商家町(埼玉県川越市)→(R254・R140・県道)→ 道の駅:龍勢会館(秩父市)→(県道)→ 道の駅:両神温泉薬師の湯(埼玉県小鹿野町)(泊)

<第2日>

道の駅:両神温泉薬師の湯 →(県道・R140)→ 道の駅:みとみ(山梨県山梨市) →(R140)→ 道の駅:花かげの郷牧丘(山梨県山梨市) →(R140)→ 道の駅:とよとみ(山梨県中央市) →(R140・R52)→ 道の駅:とみざわ(山梨県南部町) →(R52・R300)→ 下部温泉会館(山梨県身延町) →(R300)→ 道の駅:富士川ふるさと工芸館(山梨県身延町)(泊)

<第3日>

富士川ふるさと工芸館 →(R300)→ 本栖湖青少年スポーツセンター:TACOSキャンパーズクラブ50回記念大会(富士河口湖町)(泊)

<第4日>

本栖湖青少年スポーツセンター →(R300・R139)→ 道の駅:なるさわ(山梨県鳴沢村) →(R139)→ 河口湖IC →(中央道)→ 談合坂SA →(中央道・首都高・常磐道)→ 谷和原IC →(R294)→ 自宅

 4日の日程でしたが、最終日は移動だけでしたので、旅としての中身は3日に過ぎません。存分に緑の世界を楽しんだ旅でしたが、その中から感じたことなどを幾つか拾ってみたいと思います。それらを何回かに分けて紹介したいと思います。

 先ず初日ですが、今回は秩父経由で雁坂道を甲府側に抜けて、富士川沿いに身延山辺りまで行ってから本栖湖のキャンプに参加することにしました。秩父を通るコースではいつも飯能市を経由することが多いのですが、今回は秩父まではなるべく平らな道を行こうと考え、久しぶりに川越に寄って商家町の町並みを覗いて行くことにしました。川越からは寄居町経由で秩父に向かい、小鹿野町となった両神村の道の駅:両神温泉薬師の湯に泊ることにしました。

この日思ったことなどを二つほど書きます。その一は川越訪問のことです。川越にはその昔小平市や東村山市などに住んでいたこともあって、何度かお邪魔しているのですが、守谷市に越してからはずっとご無沙汰していました。今回の九州行で各地の重要伝統的建造物群保存地区を訪ねたこともあって、埼玉県唯一の川越のこのエリアを改めて見直してみようという気持ちになり、立ち寄ったのでした。守谷に越していつの間にか8年目を迎えており、この間に川越の街の様子をすっかり忘れ果てており、行ってみると駐車場の場所はおぼろとなっており、どこに車を留めて良いのやら見当もつかない有様でした。30分ほど街の中をうろつく内にようやく駐車場を探し当てて、見つからなかったらパスしてしまうところを辛うじて抑えることができたのでした。しかし、毎度の感想ですが、道を間違うとか迷うというのは実に偉大なる学習法であって、目的が叶った後からは迷いの正体が解きほぐれて、川越市街の凡そのあり様が把握できるようになるのですから、不思議なことです。

少し離れた駐車場に車を置いて、15分ほど歩くと目的の商家町の通りに出ることが出来ました。途中城跡や喜多院などがあるのですが、今回は時間の関係もあって、そちらの方に寄るのを止めることにしました。川越の商家町と言えば、小江戸などと言われますが、私の中のイメージとしては駄菓子屋さんの一角が直ぐに思い浮かばれます。そのようなこともあって、先ずはその駄菓子屋さんの横町からの探訪開始でした。

駄菓子屋さん街は昔と少しも変わってはいないようで、遠足に来たらしい中学1年生と思しき子どもたちが、黒棒という1mほどもあろうかと思われる麩菓子のようなものを抱えて、あちらにもこちらにもと動き回っているのが目立ちました。まだ小学生のくらしが抜け切れてない様子が良く判り、まあ、駄菓子屋さんには良く似合う風景でした。

     

川越商家町の菓子屋横丁の景観。子どもたちにも人気があるけど、今頃はずっと昔子どもだった人たちの方がより多く訪れる場所となっているようだ。

その後は商家町の表通りを往復して散策しましたが、途中から家内が行方不明となったのは毎度のことであります。川越の商家町は、九州の福岡県うきは市の筑後吉井商家町や同じく八女市の福島商家町などと比べてスケールはむしろ小さい感じなのですが、町並みに人が溢れている様子は、東京という巨大都市の人々が集う場所として、真に恵まれているなと思いました。本物の小江戸を実感できる住宅などはそれほど多くないのに、平日のこの人混みは何だか変だなと思うほどでした。都会にくらす人々が、一時の昔を懐かしんで寄り集まって来るのだと思います。本当は筑後吉井や八女福島町の方が遥かに昔を偲ばせる家屋などが多いのに、そちらの方には人は殆ど見かけられず、何だか不公平な感じがします。これは、ま、仕方のないことなのですが。大都市近郊の小江戸に暮らす人たちは、自分たちが大へんに恵まれているという自覚がもっともっと大切ではないかと感じました。

     

重要伝統的建造物群保存地区:川越商家町の景観。中央に見えるのはこの町のシンボルともなっている時の鐘。商家町並みはこの左手側がメインとなっている。

買い物などには興味がないものですから、一通り歩き終わるとたちまち退屈となるのですが、家内の方はいろいろ思いがあるらしく、1時間半では到底満足できる散策ではなかったようでした。改めて1日ぐらいかけて見て回りたいなどとのたまわっていました。やや中途半端な小江戸探訪となりましたが、久しぶりにお邪魔して忘れ物を思い出した感じがしました。

その二は豆腐の話です。川越の後は寄居町を経由して秩父の方に向かったのですが、次なる目的は秩父市の旧吉田町にある道の駅:龍勢会館にて販売されている七平衛豆腐を手に入れることでした。豆腐については何度も言い触らしていますが、私の好みは固い木綿豆腐なのです。関東にはそのような豆腐が少なく、先日の九州の熊本県五木村では大感激で超一流の固豆腐を味わったのですが、秩父のこの豆腐は固さはそれに遠く及ばないとしても、関東の中ではトップクラスではないかと思いこんでいます。道の駅に着くのが遅くなると、売切れたりしてしまうのではないかと少しやきもきしたのですが、16時半頃の到着でしたので、先ずはセーフでした。豆腐も在庫があったのでホッとした次第です。1袋に大型なのが2丁入ったのを2つ買いました。本当はもっと欲しいのですが、3日以内に食べることと注意書きがあり、食べ過ぎにも問題がありますので、我慢したというところです。

七平衛豆腐は秩父の清水を使って作られるせいなのか、身がきゅっと締まっていて、五木村や五箇山のものほど固くはないのですが、歯触りは抜群なのです。又味の方も大豆の香りがほのかに口の中に広がって、酒呑みには何だか安心できる気分となるのです。子どもの頃味わった村の手造り豆腐の味につながるものがあるからです。秩父という所は大へんな山奥ですが、その昔は気骨のある人たちの住む所でもあったといえます。旧吉田町辺りが秩父事件の中心地だったようですから、彼の人たちのパワーを支えた源にはこの豆腐が深くかかわっていたのではないか、などとつい思ってしまうのです。この植物性タンパク質の溢れた優れた食べ物は、ことを為そうとする者には不可欠の活力源だったに違いありません。そのようなことを思いながらその後の二日間豆腐の刺身(=冷や奴)を楽しみ味わったのでした。

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卯の花の季節

2012-06-03 00:22:48 | 宵宵妄話

 「卯の花の匂う垣根に、時鳥早も来鳴きて 忍音もらす 夏は来ぬ」は、「夏は来ぬ」という唱歌の一節ですが、これは歌人佐々木信綱の作詞によるまぎれもなき日本の名歌の一つだと思います。歌詞は5番までありますが、そのいずれも歌詠み人の詞は美しいなと感じ入るばかりです。ここには日本という国の原風景が動と静の言葉をちりばめて詠われています。

さて、今丁度その卯の花の季節です。卯の花をご存知でしょうか。勿論豆腐の搾りかすなどではありません。ウツギの木に咲く純白の花です。学術的にいえばアジサイ科のウツギ属を代表する樹木です。樹木と言っても落葉低木で、花の無い普段はさっぱり目立たない存在です。ウツギとは空木とも書きますが、これはこの木の幹の中が空洞になっているところから来ている名称とのことです。アジサイ科の樹木は皆幹が中空になっており、冬などは枯れてしまっているように見えるのですが、今頃の季節になると身一杯に若葉を膨らませ、美しい花を咲かせます。

      

ウツギの花。純白に黄色の花芯がほんの少し目立つ。にぎやかに咲いているように見えるけど、全体的には清純さの溢れる楚々たる雰囲気を持つ花だと思う。

空木には幾つかの仲間がありますが、その中で私が一番好きなのがノリウツギです。ノリウツギは北国に多いウツギの仲間で、この花をアイヌの人たちはサビタと呼んでいました。本土のウツギは花の数が多いのですが、サビタはどちらかと言えばアジサイに似ていて、アジサイよりも花の姿が小さく、ウツギよりはその数が少ないと言えるような気がします。北海道の原野や山間、或いは牧場の隅に咲いているこの花を見出すと、今自分が北の大地に居ることを実感できるのです。

ウツギの仲間で一番派手で見栄えのする花をつけるのはと言えば、それはタニウツギやハコネウツギではないかと思います。今まで最も印象的だったのは、秋田県のにかほ市の鳥海山麓に鎮座しているブナの大木「あがりこ大王」に会いに行った時に、谷川の畔(ほとり)に鮮やかな装いで迎えてくれた幾株かのタニウツギの花たちでした。思いがけない出会いに、人は一瞬心を奪われることがありますが、その時のタニウツギとの出会いはまさに驚きでした。

ところで、話があちこちと飛びますが、ウツギと言えばもう一つ思い起こす言葉に「卯の花腐し(=うのはなくだし)」があります。この言葉には日本的季節感が溢れています。腐(くだ)しというのは勿論腐るという意味ですが、卯の花が腐るというのは、梅雨時の長雨にせっかくの卯の花が地に落ちて泥にまみれて消えて行くという、梅雨時のうんざりするような気候のあり様を言い得て妙なりという表現ではないかと思うのです。江戸時代に生まれた言い方なのではないかと思いますが、卯の花腐しというのは、今の世にも鋭く当てはまる季節の言葉のような気がします。

        

卯の花腐しのことばは、この季節の長雨で、せっかくの花が地に落ちて泥まみれになって朽ちて行くという、暗いイメージを言い得ていると思う。

当世を卯の花腐しの言葉で表そうと思いましたら、次の二つの十七文字が浮かびました。卯の花が可哀そうだなと思いました。

卯の花を腐(くだ)して昭和流れ去り  馬骨

平成は腐(くだ)す卯の花ばかりなり  馬骨

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