山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

筑波山登山の記(第31回)

2014-04-28 04:25:23 | 筑波山登山の記

<第31回 登山日 2014年4月25日(金)>

   昨日は、11時頃に登山が終わってしまい、その後明日まで待つべきなのかどうか、もう一度登って、今日の内に帰宅した方が良いのかと迷った。結局もう一晩泊まって、暗闇登山をして早や目に帰宅することにしたのだった。午後からの時間が長くて、記録の整理などしてもまだ時間が余って、困惑するほどだった。うっかり昼寝をし過ぎたりしたら、夜の時間をどう過ごすかが問題となるのである。電源が確保されていれば、TVなど見て気を紛らわせることが出来るのだが、昨日に引き続いて何時間もTVを見続けるほどのバッテリーの余力はなく、旅車の場合は、日の出とともに起き、日が沈むと共に眠るのが原則なのである。普段は太古の暮らしからは遠い日々の過ごし方をしているので、こんな時は戸惑いが大きいのだ。ま、そのような前夜だった。

  暗闇登山とは、ヘッドランプを点した登山のことである。冬の間は、日の出が7時近くになるので、ご来光を拝もうと5時頃に登り始めても暗闇登山となるのだけど、今のこの季節は日の出が5時20分頃であり、その1時間ほど前には夜明けとなるので、暗闇登山は3時台の出発となる。夏場になると、日の出はもっと早くなるから、ご来光を拝むためには更に1時間くらいは早い登山開始となるのであろう。まだ、夏の暗闇登山を経験したことはなく、この時期の暗闇登山も今日が初めてである。  3時半過ぎに駐車場を出て、4時丁度神社脇の登山口に着く。今日は御幸ヶ原コースを男体山まで往復して戻り、直ぐに車に戻って帰途に就くつもりでいる。

駐車場を出ると直ぐに動物が駆け回る音が耳に入った。イノシシだ!このところ随所でイノシシが荒らした跡を見ているけど、イノシシを見たことはなかった。彼らの活動時間は夜であり、今逃げてゆくのに直面して、この時間が間違いなく暗闇の時間帯なのだと確信した。持っている杖でガードレールの鉄板を叩くと、連中は大慌てで藪の中に逃げ込んで行った。この先どれほどイノシシたちがいるのか判らず、襲われたりしたら迷惑なので、慎重に歩を進めることにした。

  登山口までの間は空に細い三日月(実際は二十六夜の月)が鋭く光っていたが、そこから先は林の中で、まさに真っ暗闇の中である。時々フクロウらしき鳥が、突然近くで羽音を鳴らし飛び立ったりして驚かされたが、その時以外は自分の足音と息遣いだけしか聞こえない静寂の中だ。念のため手元にも懐中電灯を点して周辺を窺いながらの登山だった。心配したイノシシなどは、この辺りには餌になるものがないらしく、全くその気配はなかった。中間点を過ぎて間もなく男女川源流と思しき頃に夜が明け出し、電灯などは不要となった。その頃に早や下山をして来る人に出会って驚いた。時計を見たら4時48分だった。今日は自分が一番乗りではないかなどと密かに考えながら登っていたのだが、その考えが甘かったのを思い知らされたと同時に、上には上がいるものだと、人間という世界の深さのようなものを感じたのだった。自分と同じくらいの歳回りの方だった。何かの願でも掛けての執念の登山なのかもしれない。挨拶を交わして、更に登り続ける。

  いつもよりかなり早いペースで登り続け、御幸ヶ原には5時10分に着いた。更に男体山頂上へと向かったが、ちょうどその途中で、ご来光を迎える。ご来光といっても地平線の彼方からではなく、女体山の左脇からの日の出だった。それでも久しぶりのご来光はやはり荘厳に満ちたものだった。思わず立ち止まり、何枚かの写真を撮った。頂上到着5時20分。登山口からは80分で、今まででは最速のペースでの登りだった。いつものようにご本殿に参拝し、今日の登山の感謝と安全を祈った。直ぐに下山を開始する。

    

男体山側から見る、女体山左横からの今日のご来光。今ごろの季節のご来光は、霞の中の朧が加わって、温かく、柔らかに見える。久しぶりにご来光を拝し感動した。

  御幸ヶ原までは何と、5分ほどで降りてしまった。引き続き登山口に向かっての下山を続ける。途中歩きの筋道が良く見えて、快調のペースで降り続けて、登山口には6時20分に到着。いつもよりも10分も早く着いて、50分で降りて来てしまった。特に膝には問題なさそうで、やれば出来るのだなと、ちょっぴり自信を持てたが、過信は禁物である。このような登山の仕方は毎回チャレンジするものではないなと思いながらも、内心は密かに快哉を叫ぶ声が何処かにあるような気がした。駐車場には6時35分に着いて、出発の準備をして帰途に就く。帰宅は7時50分だった。ゴミ出しに十分間に合う時刻だった。今回は時刻ばかりの記述となって失礼。

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筑波山登山の記(第30回)

2014-04-26 23:34:16 | 筑波山登山の記

<第30回 登山日 2014年4月24日(木)>

  昨夜はここへ泊って初めての大荒れの天気を体験した。日中は暖かくなって、まあまあの天気だったのだが、夕刻なると積乱雲が発達して、それが筑波山のてっぺんの上あたりで悪意を込めての活動をし始めたらしく、22時頃になると気温がかなり下がり、突然ドカンと一発雷を落とし始めた。最初は何のことか判らず、何か付近で車などの事故でもあったのかと不安になったが、引き続いてのドカンに、これは雷鳴なのだなと気付いた次第。それにしても雷には雨が付きものなのに、雨は降らずただ少し風が騒いで、傍の桜の木を揺らしていただけだった。ところがどっこい、間もなく車の天井が大騒動を開始し、とんだ大雨が降り出した。それに合わせて、筑波山が真っ二つになるかと思うほどの雷がズシーンと重い音を立てて、車と大地を何度も揺るがしたのだった。暗闇の中で、広い駐車場に泊っているのは自分だけなので、雷に集中攻撃されたらとんでもないなと思ったりした。落雷体感の経験は、旅の中で能登のブリ起こしの集中砲火を浴びた経験があるので、そう簡単には驚かないのだが、昨夜の筑波山の落雷劇もかなりのものだった。これで、明日は視界も少し良くなるのではないかなどと、図々しく考えながらの寝床の中だった。

 さて、今日は今回の2回目。予定としては白雲橋コースを往復するつもりでいる。ただ、それだけでは物足りないので、一度女体山頂から御幸ヶ原に降りて、自然研究路というのを大石重ねとかいう名所まで往復しようと思っている。本当は自然研究路を一周したいのだけど、途中崩落個所があり通行禁止との案内が出ているので、折り返すことにしようと思ったのである。

 5時少し前に起き出して、軽く食事をし、出発の準備をする。今頃は5時になればもう明るくなっており、日の出も間近という感じだ。脚の調子を確認しながら歩き始め、登山口に着いたのは5時45分だった。昨夜の雨が地面を濡らして、所々に水溜りが出来ていのを見ると、かなり降ったらしい。滑って転倒しないように気をつけながら慎重に歩を進める。このコースは最初の40分ほどが、単調だけどかなり急な登りばかりが続くので、これが結構厳しいのである。ようやく一息つける平らな場所に着いて、ここまで来れば、もう弁慶茶屋跡までは直ぐである。1時間ほどで弁慶茶屋跡に着いて、休憩なしで先に進む。ここからは巨岩・奇岩の連続で、岩場のきつい場所なのだが、楽しみがついているので、あまり疲れを感じない。大仏岩の近くまで来ると、頂上はもうすぐそこである。一気に登って、山頂には7時30分に到着した。

 少し眺望に期待してきたのだが、途中で大気が暖まり出してボワッとなってきたので、こりゃあダメだなと思ったのだが、やっぱりそうだった。前回にはまだ残っていた眼下の桜源郷ももう終わったようで、代わりに田植えの準備をしているのか、田んぼに引かれた水がおちこちに光って見えた。山頂周辺の樹木たちの芽吹きも始まったようで、膨らんだ芽のつぼみが少し割れ始めていた。一息入れて、御幸ヶ原に向かう。

     

女体山頂からの下界の眺め。筑波の北条米の産地の水田には水が引かれて、今年の田植えの準備が始まったようである。

     

山頂付近のブナの芽吹きが始まった。樹木にも個体差が大きくて、未だ眠ったままの木も見られるけど、芽のふくらみは皆もう弾けそうだ。

 途中のカタクリの里の周遊路は、既に閉鎖されていた。昨日見たよりもイノシシの悪さは一層ひどくなっている感じがした。筑波山のイノシシは、放置しておくと動物愛護を超えての問題を惹起するのではないかと思った。このカタクリの里以外でも、あちこちにイノシシの荒らした跡が見受けられるのである。

 御幸ヶ原に降りて、自然研究路を大石重ねに向かう。この道は桜川市側にある薬王院というお寺さん近くからの登山コースに通じている道でもある。まだそこを通って登ったことはないのだが、いずれはチャレンジしてみたいと思っている。自然研究路は男体山の下辺りを囲んで一回りする1.5kmほどの散策路なのだが、今日が初めてのチャレンジである。どんな感じなのだろうと期待が膨らんだ。

 案内板に従って研究路に入る。思ったよりも急坂の少ない歩きやすい道だった。道の両側にはカタクリや二輪草の花がまだまだ元気に咲き誇っていた。カタクリの里よりもはるかに落ち着いた雰囲気でそれらを味わえて嬉しかった。少し坂を下ると、大石重ねというのがあった。名称からは巨石の様なものが重なって見られる名所なのかと思ったのだが、それは全くの期待はずれで、何と大石ではなく小石の山がそこにあった。説明によると、筑波山に上る時に小石を懐に入れて登ると、身が軽くなって楽に登れるとか、罪や過ちが許されるとか、或いは神棚に筑波山の石を拾って上げておけば、子宝を授かるなどといった信仰が盛んだったとか。この塚はその名残だとのことだった。それにしてもなぜ、大石重ねなのかなと思った。今日はここまでで、写真を撮りながら来た道を戻る。

     

大石重ね。丸くて平べったい、すべすべした石が重ねられていた。現代でもこれら小石を持って祈願する人が多いのかもしれない。大いなる願いの籠った石なので大石重ねと呼ぶのかも。

 御幸ヶ原に着いて、さてどうするか少し迷った。まだ8時20分なのである。このまま来た道を戻るのもつまらないなと思い、帰りは昨日と同じおたつ石コースから迎場コースを通って戻ることにした。二度同じ道を引き続いて通れば、いろいろ気づくことも多いのではないかと思った。もう一度女体山頂近くまで戻って、脇の下山道から先ずは弁慶茶屋跡を目指す。まだ昨夜の雨の水たまりなどが残っていて、滑りやすいので要注意である。女体山下は岩場が多いので、慎重に歩を進める。

 間もなく弁慶茶屋跡に着いて、そこからはロープウエイの下方駅のあるつつじヶ丘に向かって降りる。昨日の歩きの途中で、何か野草の発見がありそうな気がしたので、今日はカメラを抱えながら注意深く道端を見ながらの下山だった。二輪草やカタクリやタチツボスミレなどは写真の対象からは外すことにした。しばらく行くと白っぽい花を咲かせている小さなスミレを発見した。何という名なのかは判らない。スミレにはかなりの種類があるので、それらの特徴を正確に覚えていないとダメなのである。エイザンスミレというのも筑波山にあるというので、もしかしたらそれなのかなと思ったりした。少し下ると、小さな背丈のボケが鮮やかなだいだい色の花を咲かせていた。その少し先にはキジムシロが爽やかな黄色の花を咲かせて春の光を浴びていた。もうロープウエイの駅までは200mほどで、観光バスから降りた子どもたちの歓声が聞こえてくる。筑波山は、子どもたちには格好の鍛練遠足の場所として利用されているようで、昨日もそうだったけど、今日はもっと多い子どもたちがこれから頂上を目指すようである。

     

スミレは種類が多いのでそのどれなのかよく解らない。これは、葉の形からは叡山スミレではないようだ。ツボスミレか或いはミヤマスミレなのかも?

     

クサボケの花。ボケは樹形がもっと大型だけど、これは小さくて地を這うようにして花を咲かせている。花の真紅の鮮やかさは、見れば見るほど美しい。

 ロープウエイ傍の駐車場まで降りて、そこからは昨日と同じ迎場コースを歩く。このコースは筑波山万葉古路と名付けられているらしい。道脇の所々に万葉集に収められた歌を刻んだ碑が建てられていた。大樹の森なので、その中を行く道は昼なお暗いという感じである。木の下に生えている灌木や下草たちも何だかひょろっとしていて、虚弱体質の様な感じがするのは、仕方のないことなのであろう。それらの灌木の中では、真っ赤な実をつけているアオキと新芽を出し始めたユズリハが目立った。ここのユズリハは、街路樹などのそれとは異なっており、正式には何というのだろうかと思った。家に帰ってから調べることにした。静かな森の道は、心身を浄化されてくれるかのようで、清々しく気持ちのいい時間だった。

 間もなく今朝の登山口に到着する。坂を下って少し先が筑波山神社の境内である。昨日その石垣の脇に紫色の塊を見つけている。ツクバキンモンソウである。今日はそれをカメラに収めるつもりで来ている。今朝は縮んで固まっていた花たちも、今は春の光の中で伸び伸びと花を広げていた。ツクバキンモンソウは、ジュウニヒトエをもっと小さくしたような、小さな植物で、株が大きくなっていないとなかなか気付かないものである。これは筑波山神社の境内にあるのだから、本物なのだろうと思った。先週と比べて周辺の新緑は量と輝きを一層増したようである。アカネも伸長を始め、冬の間縮こまっていたヤエムグラなどもいつの間にかすっかりおとなの草に生長しているのに気付いたりしながらの帰り道だった。11時少し前に車に戻り、今日の登山はこれで終わり。明日は暗闇登山を予定している。

     

ツクバキンモンソウの大きな一株。筑波なのだから何処かにあるはずだと探していたら、神社の境内の石垣の下の陽だまりの場所に咲いているのを見つけて嬉しかった。

 

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筑波山登山の記(第29回)

2014-04-25 14:00:34 | 筑波山登山の記

<第29回 登山日 2014年4月23日(水)>

  先週に引き続いて、2泊3日の車中泊での登山にチャレンジする。前回は3日間で4回の登山となったが、今回は一日1回の登山に止めようと考えている。先回は帰宅後体重を計ったら、何と、4kg近くも減っており、60kgの大台を割ってしまったのである。さほど疲れたという感じはなかったのだけど、調子に乗り過ぎると、どこかに溜まっていた疲れがいつ何時どんな悪さをするか判らないので、自制することにした。その代わり、同じコースを単純に往復するのではなく、筑波山神社をベースとする複数のコースを取り入れての登山をしようと考えている。

  筑波山には正確に幾つの登山コースがあるのかわからないのだけど、筑波山神社周辺では、ケーブルカーの脇を行く「御幸ヶ原コース」と、ロープウエイの下を行く「おたつ石コース」、それに神社の右脇から女体山を目指す「白雲橋コース」がある。更に、ロープウエイの下方駅のあるつつじヶ丘と白雲橋コースの登山口近くを結ぶ「迎場コース」というのがあり、これらを適当に組み合わせると、少し違った登山の楽しみを味わうことができるのである。今回はその幾つかを試してみようと考えている。

  いつもの駐車場に7時少し前に着いて、前回と同じ場所に車を止め、さっそく出発の準備に取り掛かる。今日は、先ず登りはいつもの御幸ヶ原コースを行き、男体山に登った後、御幸ヶ原を横切って反対側の女体山に登り、その後の下山は、白雲橋コースを弁慶茶屋跡まで下り、そこからロープウエイの下方駅のあるつつじヶ丘まで降りて、更にそこからは迎場コースを辿って白雲橋コースの登山口まで行き、神社脇を通って車に戻るというのを考えている。いつもよりも少し距離のある構成だけど、それは下山の方なので、疲れの方は大したことはないと思っている。

  ケーブルカー駅下の登山口を7時25分に出発する。今日は野草などの観察は止めて、登山に専心することにしている。毎度通い登っている道なので、淡々と登るだけである。先週から5日ほど休んでいるので、体調の方はすこぶる調子が良い。膝の方も大丈夫だ。30分ほどで中間点を過ぎ、少し歩きのペースをセーブして、一歩一歩を噛みしめながら登ることにした。岩場の一つ一つが道案内をしてくれるようで、こんな時は疲れも少ないのである。男女川源流を過ぎて、しばらく行くと最後の胸突き八丁の階段が待ち受けている。ここから900歩を数える内に御幸ヶ原に出るのである。ただひたすら足元だけを見つめながらの歩数勘定だった。間もなく御幸ヶ原に出て、休むことなく男体山頂を目指す。8時45分山頂へ。

  一息ついて、すぐに下山を開始する。御幸ヶ原に降りて、女体山頂までは700mほどの楽な登りである。途中、カタクリの里を覗いたら、もう花の方は終わりかけていて、マムシ草の直立する姿が異様に映った。それに、イノシシの獣害は一層ひどくなったようで、花畑の6割以上が掘り起こされて荒らされていた。来年は、かなり花数が減るのではないか。困ったことではある。セキレイ茶屋を過ぎ、ガマ石を通過して、間もなく女体山頂へ。犬を連れて登っているご夫妻が先着していた。犬はポカンとっした顔付きだったけど、彼が嬉しいのか、迷惑なのかその気持ちは判らない。ハアハアやっていたから、少し疲れたのかも。登山に犬連れというのはどうなのかなと思ったりした。一息入れていると、俄かに気温が下がり出した。上空に悪意のある雲が急に膨らんで現れたので驚いた。直ぐに下山を開始する。

  女体山からのコースは岩場が厳しい。慎重に足を下ろし続ける。奇岩の続く場所を通過して、弁慶茶屋跡に着いたのは、9時50分頃だった。ここから先は初めて通る道だ。しかも下りである。どんな状態なのか確かめながらの下山となった。割と勾配はきつくなさそうで、足場も悪くはなさそうだった。途中の道脇にある道標を見たら、このコースがおたつ石コースと呼ばれていることが判った。実のところ、この時までそのような名称がつけられているというのを知らなかったのである。中間点くらいまでは登るのも降りるのも比較的楽なコースのように思ったのだが、ロープウエイの駅が近づくにつれ次第に勾配の急な坂となった。登山者は、登り始めの頃が息が上がって厳しいのだろうなと思った。しかし、筑波山のどのコースも最初は皆急な登りなので、その中ではこのコースが一番楽なのかも知れない。途中で、集団で登って来る小学生の高学年と思しき子どもたちに出くわした。急な坂を皆、ワイワイ言いながら懸命に遅れないように頑張って登っていた。元気な子供たちを見ていると、自分も何だかうれしくなってしまう。

  間もなくつつじヶ丘のロープウエイ駅まで降りて、そこからは白雲橋コースの酒迎場分岐までの道を下ることにした。この道は、登山というよりも林間のハイキングコースという感じである。道も良く整備されており、所々に屋根つきの休憩所も設けられていた。ただ、ずっと大樹の林の中を通る道なので、陽ざしはなく眺望も全く効かない。森の静寂さを味わい、小鳥たちのさえずりを味わうには絶好の道だなと思った。30分ほど歩いて、酒迎場分岐に出る。ここからは先回より世話になっている道なので、やれやれという感じだった。10分ほど歩いて、白雲橋コースの登山口の鳥居の場所に着く。ここで日陰から抜け出し、一気に温かく明るい雰囲気に変わる。坂の途中に満開の花を躍らせたオドリコソウたちが並んでいた。白雲橋を渡り、神社の石垣の脇を通る時に、紫色の小さな帯の地面を見つけた。ツクバキンモンソウである。こんな所にあったのか!と一瞬感動した。

  神社の石段を下って通りに出て、そこから1kmほど歩いた所に駐車場がある。駐車場到着11時25分。今日の登山行動はこれで終わり。この後は、食事と眠りと記録の整理の時間である。明日は、さてどのコースを行こうか。楽しみである。

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筑波山登山の記(第28回)

2014-04-20 10:50:18 | 筑波山登山の記

 <第28回 登山日 2014年4月17日(木)>

 

二晩泊って三日目、第4回目の登山となる。昨夜は珍しくTVを設定して2時間ほどドラマを見た。もうだいぶ長い間旅車のTVを使っていないので、大丈夫かの確認の意味もあった。面倒なのでBSの方は止めて地デジだけにした。思ったよりも受信状態が良いので安心した。ここは標高が300mは超えているし、中継アンテナの位置の方向に障害物がないので、受信には好条件なのだなと思った。昼寝をしているので、TVの後もなかなか寝付けなかったのは昨日と同じだった。

 今日の登山を終えたら、やはり帰宅することにした。5時過ぎに起き出し、軽い朝食の後に少し休んで出発する。今日は御幸ヶ原コースを登り、男体山頂のご本殿を拝したのち、その後のカタクリの里の様子を確認してから下山するつもりでいる。野草たちの写真も撮りたいので、カメラを背負って行くことにした。登山口には6時10分に到着。そこからはいつものように淡々と登るだけなのだが、今日も足の方は眠っているのか重い。3日間で4回目の登山なので、疲れも溜まって来ているのかもしれない。そのような自覚はあまりないのだけど、身体の方が正直なのであろう。

 中間点をいつもより少し遅いペースで通過する。男女川源流に着く頃には身体も目覚め出したようで、足取りも少し楽になってきた。しかし、このコースではここから先がまさに胸突き八丁なのである。10分ほど登って、最後の階段の登り口に到着する。ここからは毎度歩数を計ることにしている。凡そ900歩で御幸ヶ原の平坦地に出ることが出来るのである。歩数を数えながら登っていると、歩きに集中することが出来て、1から始めて、900を数えれば目的は達成されるのだ。そう思いながら一歩一歩を運ぶのが結構楽しい。間もなく御幸ヶ原に出る。そこからは休憩なしで男体山頂上へ。7時35分だった。

 ご本殿にご挨拶をして、直ぐに下山を開始する。 御幸ヶ原に着いて、今日はカタクリの里を訪ねる前に、自然研究路という1.5km弱の男体山頂下の周回路があるので、そこを歩いて見ようと思った。まだ一度も歩いていないコースなので、春になって何か新しい野草を知るチャンスがあるかもしれないと思った。しかし、その入り口まで行って見ると、何と道の途中に崩落危険個所があり、一周出来ないという案内板が立っていた。途中から折り返すのもつまらないので、今回は諦めることにしてカタクリの里に向かう。

 前回訪ねてから1週間が経っており、カタクリの里はどんな状況になっているのかと興味津々だった。女体山登頂の際の道端のカタクリの花はもう咲き終わろうとしているのが殆どだったけど、こちらは未だたくさん咲き残っているのだろうか。周辺の緑もたった一週間で、随分と濃さを増して来ているのが実感できた。少し歩いて現地に到着する。やはり、花は峠を越えていた。それでもまだかなりの数の赤紫の花びらが点在していた。心配だったイノシシの獣害は、一層度を増したようで、花畑の中が好き放題に何カ所も掘り起こされていた。困ったものである。何枚か写真を撮った後、ゆるりと下山を開始する。

     

今日のカタクリの里の様子。花は盛りを過ぎていたけど、まだ赤紫色を点在させていた。写真は、イノシシが掘り起こした跡。前回よりも数カ所増えていたのが気になった。

 下りには層倍の気を使うのは毎度のことである。少し下ると二輪草の群落があり、その脇辺りには、凡そトラノオとは思われぬようなハルトラノオが小さな愛らしい花粒を目一杯開いて輝いていた。更に少し下るとこの辺に多いのかタチツボスミレが楚々とした花を咲かせていた。タチツボスミレはやはりこのような山中にあって輝く花だなと思う。何年か前に家に持ち帰って育てたことがあったが、山の中とは似ても似つかぬ育ちとなり、花の風情がすっかり変わってしまい、がっかりした経験がある。厳しいようでも、自然界に生きる生きものは、そのままが一番いいように思う。一番狂いたがるのが人間なのではないか。この頃はそのようなことを思ったりする。

     

タチツボスミレの小さな群落。山の中では日射しも少なく土地も痩せているため、却って生命の輝きが鮮やかに見える。

 今回は何としてもミスミソウの花を撮りたいと思っている。ミスミソウは、樹々の陰の中にあって、日の光の弱い場所で、ひっそりと純白のうつむいた花を咲かせている野草なのだ。実(まこと)に地味なので、登山者の殆どの人は気づかないで通り過ぎてしまうのではないかと思う。東北辺りの山地では、少し大型の花を咲かせるものもあるけど、筑波山には小形のものしか無いようだ。花をかせているのはあまり見受けられないけど注意して見ているとかなり自生しているのが判る。とにかく光の少ない場所にいるので、写真を撮るのが難しい。それに三脚無しなので、なかなか上手く撮れないのである。今日は何とかして一枚でもいいからものにしたいものだと思いながらの下山だった。

 男女川源流の近くまで下った時、少し日射しのある場所に珍しく花を咲かせているミスミソウがあるのを見つけた。これを何とかものにしなければと懸命にシャッターを切ったのだが、どうしても身体がブレテしまい、納得ゆくものが得られなかった。やっぱり三脚がなければダメだなと改めて思い知らされた。葉までは何とか写るのだけど、肝心の花がどうもすっきりしない。課題を残しながらの下山だった。近くにミヤマシキミが花を咲かせていたのでカメラに収めた。こちらの方は同じような場所にあるのに、あまり苦労しないでも撮れるのが不思議だった。もしかしたら、自分はミスミソウとカメラにもてあそばされているのかもしれない。

     

ミスミソウの花一輪。葉が三角形をしているのでミスミ(=三角)草と呼ばれているようだ。花はうつむいているものが殆どで、顔を上げて笑顔を見せているのを見つけるのは大変だ。

 その後もゆっくり下り続けて、駐車場に戻ったのは10時丁度だった。家に帰ったら真っ先に風呂に入りたいと思った。家内にその旨をメールして、帰宅の準備をしてから出発となる。11時30分頃の帰宅となる。やれやれ。3日で4回の登山、実際は3日で4.5回くらいの内容の気がする。風呂から出て体重計に乗ると、出発前に比べて4kgも減っていた。これが今回の宿泊付き登山の所為なのかと思った。この後も何回かチャレンジしてみる価値は十二分にあるなと思った。今回は一先ずこれで終わりとなる。

     

最後のおまけにミヤマシキミの花を加えてみた。筑波山にはよく見られる常緑の小低木である。秋になると赤い実をつけるらしい。去年はそれを見る機会がなかったので、今年は是非お目にかかりたいと思っている。

 

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筑波山登山の記(第27回)<つくば道チョイ歩き>

2014-04-19 07:02:14 | 筑波山登山の記

<第27回 登山日 2014年4月16日(水)>【つくば道チョイ歩き】

  昨日に引き続いての登山である。何しろ現地に泊まっているので、自宅からの時よりも1時間は動きに余裕がある。昨夜は、最初は爆睡だったが、22時頃に目覚めた後は、もう一度熟睡というわけにはゆかず、何だか中途半端な寝床での時間を過ごすことになった。明け方にうとっとして目覚めたら、外が明るくなっていたので、慌てて飛び起きた。既に5時を過ぎていた。軽く朝食を済ませ、出発の準備をする。急ぐこともないのだが、何故か何かに乗り遅れそうで、せわしない気分なのはどういうわけなのか、自分にも解らない。昨日の2回の登山が少し効いているようで、足が重い。歩いている内に調子が出るだろうと思いながら登山口に向かう。登山口到着5時40分。

 このコースが何故白雲橋コースと呼ばれているのか判らなかったが、観光案内の資料を読んでいて解った。筑波山神社脇の、登山口に向かう道の左手にある砂防ダムの下に小さな橋があり、もしかしたらこれが白雲橋なのかと思いながら通っていたのだが、そこには橋の名称など何も書かれてはいなかった。僅か5mほどの長さしかないコンクリートの架橋なのである。資料を読むと、昭和の初期にこの沢(千手沢)で山津波が起こり、そこにあった虚無僧寺二つが津波で流されたという。その後砂防ダムが築かれ、その下部に架かっているのが白雲橋なのだという。ということはやっぱりこの小さな橋がそれだったのだ。せめて判るように名称の表示をしておけばと思った。砂防ダムの方は、建築学会関係の何やらの賞を貰ったとかで、しっかりその旨の表示がしてあった。つくば市内の観光に関する資料などを読んでいると、いろいろ参考になるのだけど、現地に行って見ると、何の案内も表示もない場所が多くて、戸惑うことが多い。何かが抜けている感じがしてならないのは、自分一人だけの曲解なのであろうか。

 さて、そのようなことはともかく、登山口からは、呼吸を整えながら、ゆっくりと歩を進める。酒迎分岐から白蛇弁天にかかる頃には足の重さも次第に取れて、ようやく眠りから覚め出した様である。それでも昨日よりはペースが遅いのは、やはり疲れが残っているからなのであろう。70分ほどかかって弁慶茶屋跡に着く。誰もいない。取り敢えず一息ついて、汗を拭い、直ぐに出発する。ここから先は、毎度おなじみの巨岩・奇岩が様々な姿形で迎えてくれるので、きつい岩場の登りもさして苦にならない。最後の奇岩の大仏岩の下まで辿りついて、もう頂上は直ぐそこである。7時20分女体山頂に到着。

 今日の眺望も昨日と同じように下界はボヤっとした霞の中に浮かんで見える。遠くの方は雲の中という感じで、空気の温かさだけが伝わってくる。山麓を見ると、つくばに連なる峰から裾に向かって、山桜の花の帯が山襞(やまひだ)を染めていた。しかし、ボワッとしているので、それが桜なのだと気づくのに時間がかかった。今日も、日中これからは、かなり気温が上がるのであろう。さて、降りてからあと、今日も2回登山にチャレンジするかどうか、などと考えながらのひと時だった。

     

今日の女体山頂から見た筑波山麓の桜咲く山襞の景観。朧な霞の中に咲く桜は桃源郷ならぬ桜源郷を作っているかのようだった。

 帰りには少し野草たちの花でも撮ろうかとカメラを抱えての下山となった。もうカタクリは終りに近づいているし、二輪草もキクザキイチゲも最盛期は越えたようだ。これからはミスミソウ(=三角草)の花が目立つようになるのかもしれない。それらをカメラに収めておこうと思った。下山は自分にとっては常に要注意である。登りよりも下りの方が遥かに恐ろしいと思っているのは、膝に爆弾を抱えているからである。40歳代の頃、ジョギングをやり過ぎて膝を痛め、水がたまり、歩けなくなったことがある。リハビリに努めて、元に戻るまで1年近くかかったが、それ以降走ることは諦めている。下山はうっかりすると走る時よりも膝へのショックが大きいように思う。もし膝をやられたら、登山はそこでお終(しま)いになり、家に帰れるかどうかも判らなくなってしまう。慎重の上にも慎重を期しての下山だった。野草たちの写真はなかなか上手く撮れず失敗ばかり続いている。下山時は、疲れからカメラを抱える手が震え気味となり、どうしてもブレてしまうのである。三脚を車までは持参しているのだが、どうも担いで来る気が起こらず、横着している。まだ、本気でいい写真をなどとは考えないからなのであろうか。ゆるりと下山して、9時半には駐車場に戻る。

     

     

今日の野草たちの花二つ。上は二輪草。二輪草は殆どは純白の花をつけるが、中にはこのような淡いピンクに頬を染めているのもある。  下はマムシグサ(或いはウラシマ草かも。ムサシアブミにも似ている)一見動物に近い脅しの表情を持った変わった花である。

 さて、この後どうするか。とにかく一休みして考えることにした。汗を拭いて着替えを済ませ、あれこれ考えた結果、今日は2回登山は止めて、その代わりにこの筑波山麓近郊を歩いて見ることにした。無理をすれば2回登山も可能だと思うが、何しろ身体は老人なのである。ということで、昼食時までの間、寝床に横になることにした。休息は足を伸ばして眠ることが第一等である。これに勝るものはない。

 

【つくば道チョイ歩き】

 昼食休憩の後、つくば道の散策に出発する。取り敢えずの目的地としては、以前訪ねたことのある平沢官衙遺跡まで往復してみようと考えた。ここからだとせいぜい5kmくらいであろうか。正確な地図がないので判らないが、行って見れば何とかなるだろうと思った。平沢官衙遺跡というのは、奈良・平安時代の常陸国筑波郡衙のあった所で、要するに往時の役所跡である。幾つかの復元建物などもあり、以前に行った時には建築中のもあったので、その後どう変わったのかなどを見てみたいと思ったのである。このような大昔の政庁跡は全国にたくさんあるのだろうけど、その後の政変によって、今では跡かたもなくなっているところが多いのではないか。

 さて、その平沢官衙へは、先ずは筑波山神社への朱塗りの大鳥居を右に進んで少し行くと、小さな案内板に筑波山口と書かれていたので、それを行くことにした。端(はな)からいきなりの急な下り坂である。30度くらいの傾斜があるのではないかと思った。細い道の両側には民家が連なっており、少し行くと旧筑波第一小学校というのがあった。とんでもない所にあるなと思った。でもここで暮らしている人にはそれは当然のことだったのかもしれない。今は車で移動するので、このような急坂の場所に住んでいても買い物に苦労することはないのかもしれないけど、昭和の中頃までは大変だったろうなと思った。どこまで行っても急な下り道が続いていて、これじゃあ帰りは大変だなと思った。筑波山に登るのと変わらないほどの坂道で、岩石がなく舗装されている分だけ、却って歩くのには厳しいなと思った。20分ほど歩いて、ようやく平地らしきところに来た。

     

つくば道の降り口付近の景観。写真では判りにくいが、いきなり石段付きの急坂が続いている。この写真は、帰りに撮ったもので、往路はこの道ではない方を下った。

 両側が田畑の道を少し歩くと、逆川という名の小さな川に架かる橋を渡る。そこから先が神郡(かんごおり)という集落で、ここにはその昔の面影が残っているという。持参のパンフレットに写真が載っている場所である。信号のある交差点の少し先にそのような雰囲気のある家が何軒か並んでいるのが見えた。振り返ると、筑波山の男体と女体の山頂が正しく見えた。正しく見えるとは、筑波山の絵や写真は、何故か男体山の方が高くなっているものが多いのだが、実際は女体山の方が高いのである。ここから見るとその正しさが判るという景色なのだ。この集落は江戸幕府の三代将軍の家光公が、筑波山の中禅寺(現筑波山神社)の堂社を一新する工事を行った際に造られた道の中間ほどにあり、その後その道が参詣道となって発展した場所らしい。何枚かの写真を撮った。

     

つくば道、神郡(かんごおり)集落の景観。このような瓦葺きの家屋が並ぶのはほんの数軒で、あとは写真の対象とはなりにくい家の連なりだった。

 神郡の集落は思ったよりも残っている昔が少なかった。現代にまで家並みを残すというのは歴史の上で至難のことのような気がする。国の重要伝統的建築物群という文化財があり、茨城県には唯一桜川市の真壁の町並みがあるけど、この神郡はとてもそれには及ばないなと思った。つくば道と呼ばれて残っている往時の参詣道も、今はこの道を通って参詣する者は皆無であり、自分のような気まぐれ者が時々訪れるくらいで、観光案内のパンフレットが強調するほどの魅力には欠けているなと思った。つくば市内の観光案内は、前にも書いたけど、案内書などはいいとしても、現地の案内が不備過ぎていて、極めて雑である。せめて見どころについては、案内板で示し、凡その距離などもきちんと表示すべきではないか。歩いて回ろうとする時、それらの指標が何もないというのには、何度もがっかりした。

 ところで、肝心の平沢官衙なのだが、何とここから先4kmもあるという。つまり往復すればこれから8kmあるということだ。既に2km以上歩いて来ている。日射しはきついし、カメラは重いし、これじゃあ帰りがエライことになると思った。帰りにあの急坂を登りきれるのか自信がぐらついた。こんな時は無理は禁物だ、と心に言い聞かせて、神郡の町並みをしばらく歩いた後、引き返すことにした。

     

正しい姿の筑波山。筑波山は見る方向によって、二つの山頂の高さが逆転して見える。女体山の方が877mと男体山よりも6m高い。これはそのことが判る位置からの眺めである。

 帰り道は、初めは筑波山を正面に見て、やたらに電線があるのが邪魔になったが、それでも山の大きな景色に満足しながらの歩きだった。ところが、解ってはいたものの、いざ坂道に差し掛かると、次第に息がはずんで来て、こりゃあ、エライところを来たもんだなと、改めてそのしんどさに恐れ入ったのだった。半端ではない。その昔この急な坂道を参詣の人々はどんな思いでお寺さんを目指したのだろうか。明治の廃仏(はいぶつ)毀釈(きしゃく)の愚法によって、中禅寺は筑波山神社となったけど、今はその信仰心は昔と比べてどうなのだろうか。信心の心の少ない自分には往時の人々の心の動きはとても読めない。とにかく早く坂が終わることのみを念じて、ひたすらに歩を進める。ようやく県道まで戻り、息を鎮めながらしばらく歩いて、車に戻ったのは16時少し前だった。登山よりも厳しかったなと改めて思った。つくば道は、参詣の筋よりも本道から脇に逸れた場所に見ものが幾つもあるように感じた。改めて機会を設けて訪ねてみたいと思った。

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筑波山登山の記(第25回・第26回)

2014-04-17 18:19:13 | 筑波山登山の記

<第25回 登山日 2014年4月15日(火)>

 24回目の先回までは、単発的に家から車で往復しての登山だったが、今回は初めて旅車を使っての車中泊の連続登山にチャレンジすることにした。というのも、消費税アップに加えてガソリンの価格が高騰したため、毎回家から通っていたのでは、交通費がバカにならない金額となり、家計の負担を大きくするからである。連休明けまでは旅に出かける予定もないので、気分転換にもなるだろうと、2泊3日の登山計画を立てた次第である。

というわけで、梅林下の駐車場に泊らせて頂くことにして、第1日は、少しゆっくりとした6時半過ぎの出発となった。7時半ごろ駐車場に着いて、これからの基地となる場所を選んで車をとめる。それから10分ほどかけて出発の準備をして、登山口に向かう。しっかり施錠をしておかないと、悪戯や盗難にあったら困るので、慎重にチエックしてからの出発だった。今回のコースも前回同様白雲谷コースである。

登山口に8時半丁度について、登山の開始である。今日もカメラ撮影などは必要最小限(=登山の証明写真)にすることにして、小さなデジカメだけを持参することにし、ひたすら登山に専心することにしている。家からの車の中での筑波山は、昨夜の気温が高かったせいなのか、守谷近郊からは全く見えず、つくば市の山の近くになって、初めてぼやっとした姿を現した。今日も日中の気温はかなり上がるようだ。汗をかくのは覚悟の登山である。

2日間の休養の所為か、足が快調に動いてくれる。膝の調子もまずまずのようだ。石ころだらけの登山道だが、今日は登る筋道が良く見えるので、足を運ぶのに苦労が少ない。こんな時は調子に乗り過ぎて思わずとんだ災厄に見舞われることもあるので、気をつけながらの足運びとする。弁慶茶屋跡には55分で到達。ここまで来るとこのコースでは、この先巨岩・奇岩が迎えてくれるので、気分がずっと楽になる。このコースも三度目となり、それらの位置もすっかり頭の中に納まっている。弁慶七戻りから大仏岩までは、結構岩場の急坂が多いのだが、いつの間にか通過してしまう。道脇のカタクリやスミレ、ハルトラノオなどの野草たちにも救われる気分になる。大仏岩からは200mほどの急坂となるけど、ご本殿が神通力を出されて吸い上げてくれるのか、さほど苦労しないで山頂に導いてくれる。

     

今日の登山証明写真。女体山ご本殿。一見青空が広がっているのだけど、それは上空だけで、遠くの平地帯はボヤっとした霞の中。

9時40分山頂に到着。今日も空気全体がぼやっと膨らんでおり、眺望はさっぱりである。登山の証明写真だけ撮って下山を開始する。帰りも淡々と下るだけ。特記することなし。1時間で登山口に戻り、車には11時過ぎに戻る。

今日は泊りなのだが、温泉には入らない。筑波山のこの辺りには幾つかホテルがあり、日帰り入浴のできるところもあるのだけど、いずれも料金が高額なので、止めにしている。旅の時でも入浴料は基本的に600円までと決めている。汗をかいているので、急ぎ着替えを済ませ、ついでに身体を水拭きする。少し早いけど昼食。餌はカップラーメンと手を抜いた。その後は仮眠。調子がいいので、13時過ぎにはもう一度、今度は御幸ヶ原コースから男体山に登ることに決めた。

 

<第26回 登山日 2014年4月15日(火)>

  初めての一日二回登山に挑戦することにした。同じコースではつまらないなと思い、今度は神社の左脇からの御幸ヶ原コースから男体山に登ることにした。13時半丁度、登山口に着いてさっそく登山を開始する。午前中の登山で、休息が2時間足らずだったのでまだ少し疲れが残っている感じがしたが、膝も特に異常ないようなので、無理をせずゆっくりと時間をかけて登るつもりでいる。このコースは慣れているので、遅い出発時刻でも日暮れまでには戻れるだろうとは思っている。

 思ったよりも足の運びは順調で、歩き始めてから10分ほど登った辺りで、降りて来る方から声をかけられた。「今日、二度目の登山じゃないですか?」「ええ、まあ」と答えると、「凄いですね!」と半ば呆れかえったような顔をされていた。「どこかでお会いしたのですね?」と訊くと「登っている時に降りて来られて、その杖が印象に残っていたんですよ」とのこと。どうやら自製の金剛杖(といってもまっすぐではなく、曲がっている)が注目を惹いたらしい。6尺近くの長さの杖は、下る時に威力を発揮してくれる。この杖を上手く使っている限り、滑落や転倒などの事故は避けられると思う。二度の登山を感嘆されるよりも、杖が認められているのを嬉しく思った。同時に少し元気が出た。

 中間点のケーブルカーの脇の地点にはいつもと同じように35分ほどで到達。その後も順調に登り続けて御幸ヶ原には14時45分に到着する。そこから男体山頂上まで、一気に登ろうとしたのだが、ご婦人の饒舌団体さんにかなり邪魔をされて辟易した。4~5人のグループで、とにかく元気が良くて賑やかなのだけど、足の運びの方がムラなのである。頂上には15時少し前に着く。帰りに少し野草たちの花でも撮ろうかとカメラを取り出して下山を開始する。オバサン達より少し遅れるようにして、途中に見かけたカタクリやキクザキイチゲの花の写真を撮った。

     

カタクリの花たちも最盛期を過ぎ始めたようだ。群生しているのよりも孤を保って咲いている方に魅力を感ずるのは、自分の性格なのか?

 御幸ヶ原まで降りて、この先は下山に専念しようと歩き始めたら、たちまち先ほどの団体さんに追いついてしまった。このまま後尾を守り続けるのは大変だと考え、隙を見つけて追い越させて貰う。とにかく彼女たちの話題は豊富で、マンションの管理の話や老後は一人で生きなければならないなど、千変万化に富んでいる。およそ山の話などとは無縁である。筑波山はたくさんの神が宿る神聖な山なのだけど、当面の生きものの心のカタルシスのためであれば、饒舌もお許しあるのだと思う。とにかくその騒音から逃れ出て、その後は人に出会うことも殆どなく、1時間ほどで登山口に戻る。駐車場到着16時25分。まだ夕時にはなっていない。

 今夜はここに泊るので、これから先の時間はいつものくるま旅くらしと同じようなものだ。相棒がいないので、自炊ということになる。出発前に研いでおいたご飯をガスコンロにかけて焚く。おかずは家で食べるのを忘れていたメザシ。メザシは外にコンロを出して焼くことにした。車の中だと臭いが残ってしまい、あとで異常嗅覚の相棒からたちまち発見され、大いなる文句を言われるのは必定なので、気を使う。焼け終わる頃にはご飯も出来上がり、さっそく水割りで一杯やって、二度登山が叶ったことに祝杯をあげる。その後は、バタン、キューで寝床へ直行して爆睡。しかし、22時頃にはパッチリと目覚めてしまい、それから朝までの時間を使うのに困惑した。とにかく第1日目は無事に終了。

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筑波山登山の記(第24回)

2014-04-13 20:58:23 | 筑波山登山の記

<第24回 登山日 2014年4月12日(土)>

 今年の登山も12回目となり、昨年の5月からの12回と並んだ。通算計24回となる。3月の穴を埋めるべく、少しハイペースの登山間隔となったが、体調の方は回を重ねるごとに慣れて来ているようで、ふくらはぎの痛みも次第に減少して来ているのはありがたい。今回も白雲橋コースである。

 今日は土曜休日なので、日中は混むのではないかと考え、一般の方が登り始める頃には終わらせようと考え、久しぶりの暗闇登山を敢行することにした。家を3時10分に出発する。まだみんな眠りの中なのだが、国道294号線は、物資を運ぶトラックが断続的に走っている。その中に混ざって、事故などに巻き込まれないようにと注意しながら車を走らせ、いつもの駐車場に着いたのは4時丁度だった。さすがにこの時間では登山者も少ないようで、先着らしき車は1台だけだった。

 筑波山神社の右脇を登って、登山口に着いたのは4時20分だった。さあ、ここから登山の開始である。今日はカメラ撮影も巨石・奇岩の観察も行わずに、ひたすら登山のことだけに集中して往復することにしている。何時ものリュックよりも小さなリュックに着替えと小さいペットボトルの水だけを持ってきただけでの軽装で、あとはいつもの自製の金剛杖だけである。頭にヘッドランプを点けているのは勿論である。このコースの暗闇登山は初めてなので、慎重に歩を進める。

 このコースの女体山頂上までの標準所要時間が2時間だというので、それより少し早いペースで登り、6時頃に山頂に着けばご来光を拝むのも可能かなどと考えながら、ひたすら登り続ける。50分ほどで弁慶茶屋跡に着いたのだが、まだ5時を少し過ぎたばかりなのに、どうやらもう日の出は間近かいらしく、東の方が赤く染まり出した。えっ、こんなに早くなっているの!と、ちょっとの間に夜明けも日の出も、もう夏のそれにぐんと近づいているのを知り、驚かされた。5時20分に国割り石に着いた時は、太陽は既に顔を出し、樹間の向こうにボワッと霞んで見えた。あと30分早く登り出ださなければ、ご来光を見るのは出来ないのだなと思った次第。

   

日が昇って間もない頃の樹間の太陽。下に輝いているのは、霞ヶ浦。春霞の日の出はこれからしばらくは鮮明さは期待できないようだ。

 国割り石の辺りの巨岩・巨石のある場所からは頂上はもう直ぐで、そこからは何だか元気が出てきて、坂を坂とも思わぬペースで、一気に頂上まで登ってしまった。時計を見たら5時45分だった。これは95分で登ったことになる。早いペースでの登山は避けるようにしているのだけど、今日は無理をしなくても標準よりも早く登れたので、少し足に自信が持てる感じがして、真にありがたい。

今日の山頂には、何故か外国からの若者たちのグループが先着していて、賑やかに英語で談笑していた。筑波大学辺りに遊学している人たちなのかもしれない。どこの国でも、若者たちの会話は笑顔と一緒で、他愛ない内容が殆どである。ま、自分たちが若い頃もそうだったなと、懐かしく思ったりした。

 登山の証拠のご本殿の写真を撮って、直ぐに折り返して下山を開始する。登りよりも下りの方が自分は苦手である。というのも、若い頃からかなり膝を痛めて来ているので、下りの足の使い方を誤るなどして、一発膝に衝撃が来たりしたらとんでもないことになりかねないので、慎重にならざるを得ない。とても飛ぶように降りるなどという真似は出来ない。それでもただ下りるということだけに集中しているので、何時もよりは足の運びの道筋が見えて来て、かなり早く下山を終えることが出来た。登山口到着6時50分。丁度60分で下りて来たことになる。そこから駐車場までは1.5kmほどあり、15分ほどで車に戻り、帰途に着く。

 今回の記録はこれだけである。本来の登山というのは、つべこべ言わないで、ただ黙って登り、下るというのがその姿ということなのであろう。今日は無心に返っての登山だったように思う。今月はあと数回はチャレンジしたいと思っている。

   

今日の登山の証明写真の女体山ご本殿。このご本殿は、正面から撮るのが難しいため、上から見下ろす姿になってしまう。神様に申しわけなし。

 

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筑波山登山の記(第23回)<筑波山の巨岩・奇岩>

2014-04-11 21:59:08 | 筑波山登山の記

<第23回 登山日 2014年4月10日(木)>【筑波山の巨岩・奇岩】

 一日置いての登山となった。前回は定期受診の直前の登山だったため、以前の御幸ヶ原コースからのカタクリ探訪中心の登山だったが、今回は再度白雲橋コースに戻り、このコースでは2度目のチャレンジとなった。最初の時は多少の不安もあって、とにかくコースの様子を確認しながら登ったのだったが、今日は前回初めてお目にかかった、たくさんの巨岩・奇岩をじっくりと見てみたいと思っている。それに、カタクリやキクザキイチゲの他にも何か新しい野草に出会えたらいいなとも思っている。

 今回も4時45分と、早朝の出発となった。予報ではかなり気温が上がるということなので、登山は早い出発に越したことはない。何しろ登山口まで1時間以上かかるので、出発は暗くても到着時は日の出近くになってしまう。もし、登山口近くに住んでいたら、毎回頂上でご来光を拝めるのになあ、などといつも思う。それにもっと近くだったら、毎日の歩きの代わりに、毎日登山が出来るのになあ、と思ったりしている。いつ登っても、必ず途中で出会う人もおられるので、その方は恐らく毎日登っておられるのではないかと思う。もしそれが出来たら、糖尿病なんて、あっという間に克服出来てしまうのではないか。そんなことを思ったりした。

 5時半少し前に駐車場に着いて、そこから登山口までは20分ほどかかった。白雲橋コースと呼ばれているが、その白雲橋がどこにあるのか判らない。神社の脇に砂防ダムが築かれており、その下に名前の表示のない小さな橋があるのだけど、もしかしたらこの橋が白雲橋というのかなと思ったりした。筑波山には橋が必要な場所があるようには思えず、不思議な思いにとらわれている。何れ判明する時が来るのであろう。

 登山口には小型の石の鳥居が建っている。勿論筑波山は信仰の山だから、この鳥居は女体山のご本殿に向かう案内の目印ということなのであろう。直ぐ脇に民家があり、こんな急坂の脇で暮らすのは、大変だろうなと思った。ま、住んでしまえば坂道などどうってことは無いのかも知れない。長崎や尾道の人たちのことを思い出したりしてしまう。その鳥居を潜ってしばらくは舗装仕様の階段を歩き、酒迎場分岐というつつじヶ丘方向へ向かう道と別れて左折し、しばらく登ると白蛇弁天があった。先回は後ろ側から写真を撮っただけで通過してしまったので、今回は表側に回りちゃんとご挨拶して行くことにした。それにしても白蛇というのは全国の至る所に出没するようで、人間はそれをありがたいと敬い、弁天様にして祀り上げて、財貨の恵みを願ったりしてしまうのだから、考えてみれば、愛すべき存在ということなのであろう。この地の白蛇は、今ごろはどの辺りに潜んでこの社を守っておられるのだろうか。もはや財貨欲などからは遠くなっているジサマは、無心にこれからの登山の安全を願って祈っただけである。

 白蛇弁天を過ぎてからは、だらだら坂というのか、急なだらだら坂というべきなのか、杉林にモミの木が混ざる樹間に、どこまでも似たような石と根っこの混ざった急な坂道が続いている。このような連続は結構厳しい。一歩一歩を踏みしめながら、ゆっくりと登り続ける。1時間ほど登り続けていると、いつの間にか杉君たちの林が終わって、ウラジロ樫の多い樹林帯に変わった。その辺りから登山道の方も下りの混ざった登りとなり、歩きながらも一息つける道となった。もうここまで来れば弁慶茶屋跡は間近かだ。このコースでの登山では、これからは、このだらだら急坂をどう登るかが、課題だなと思った。

 弁慶茶屋跡の少し手前の道脇に小さな沢のような箇所があり、そこにニリン草の群落があるのを前回確認しているのだが、前回は殆ど花を咲かせておらず、もう終わったのかなと思ったりしたのだが、今日見てみると小さな純白の花が一面に群れ咲いていた。今が最盛期らしい。帰りにカメラに収めることにして、先に進む。直ぐに弁慶茶屋跡に到着する。汗をぬぐって一息いれて直ぐに出発。

 ここから先は今日の目当ての巨岩・奇岩の連続である。標高は既に700mを超えているのではないかと思う。筑波山には巨岩・奇岩が多いが、特にこの辺りに集中しているらしい。今日はそれらをカメラに収めるつもりでいるけど、写真を撮るのは帰りにすることにして、取り敢えずどこから撮ったらいいのか、撮影のポイントなどを確かめながら行くことにした。直ぐに弁慶七戻りがあり、その少し先に高天原があり、更に進むと母の胎内潜りという場所、それから陰陽石、国割り石、出船入船、裏面大黒、北斗岩、大仏岩と続いている。大仏岩の直ぐ上が女体山の頂上であり、そこからは右手をぐるっと回って10分ほどで到達できる。頂上到着7時40分。登山口から110分かかっての登山は、このコースでは少し遅いというところか。競争心など全くないので、あくまでもマイペースである。山頂は無人だった。今日も大気全体が霞んで膨れ上がっており、眺望はよくない。富士山も日光男体山も全て霞みの中である。久しぶりに汗を掻いたので、着替えを済ます。カメラを取り出して、ここからは撮影しながらあの下山となる。

 先ほどの道を慎重に下山開始。女体山の方が岩場が多くて厳しい。巨岩・奇岩が多いというのは、その分足場に岩石が多いということになる。このような場所の下山には自製の金剛杖(?)がその威力を発揮する。180cmほどの樫の枯れ枝を見つけて、その皮を剥いで、ニスを塗ったものなのだが、岩場を降りる時の支えとして重宝している。右手にカメラを提げているので、今日は左手を多く使っての杖遣いとなった。杖は、使い込むことで次第に自分の力となって来てくれているのが、この頃ようやくわかるようになった。間もなく大仏岩の下に到着。………、以降順次巨岩・奇岩の写真を撮りながら下山し、麓の登山口に到着したのは9時40分だった。20分ほど歩いて駐車場に戻り、帰途に着く。巨岩・奇岩について、引き続き紹介したい。

 【筑波山の巨岩・奇岩】 

 筑波山は火山ではない。隆起した深成岩が風雨で削られて出来上がったものらしい。しかし、深成岩というのはマグマが固まってできる岩石なのだから、隆起する頃は火山活動があったのかもしれない。太古の地球のことは、興味はあっても想像を超えた世界なので、知るすべもない。現在の関東平野に進出して来た八溝山系の膨らみの最南端に位置する場所が筑波山の原点だったということなのであろうか。いずれにしても深成岩を代表する花崗岩が主体になって形成された山なので、風化浸食によって生まれた巨石・巨岩がたくさん見られるのは、自然の成り行きということになるのであろう。山全体が巨大な花崗岩の塊なのだと考えると、屋久島を思い出してしまう。屋久島は離島なので、花崗岩の風化浸食された場所に、独自に育まれた生態系を持っているけど、筑波山は、それとは違った植物や昆虫などの生育帯があるのかもしれない。昔からよく知っている山なのだけど、実のところは知っていたのは山の名前だけで、この歳になるまでその実態は何も知らなかったのである。これからの登山を通じて、少しずつこの山についての見聞を広げてゆきたいと思っている。

 ということで、今回は白雲橋コースを登り始めて、初めて知った巨岩・奇岩の幾つかを紹介したい。このコースはTVなどでよく紹介されているので、ご存知の方から見れば「何だ、あれか」ということになるのは承知の上である。全部で9カ所を取り上げるけど、山頂から下る順に並べてある。

<大仏岩>

     

高さが15mの自然が作り出した仏像である。その荒々しい造りっぷりは、人間の造り出す仏の姿よりも逞しく映る。仏の慈悲に満ちたこころというのは、真の強さに由来するのかもしれない。大自然は、そのことを教えようとここに姿を表現したかのようだ。

 <北斗岩>

     

北斗とは、北斗七星のことであり、天空の北の中心にあって不動の存在というイメージからこの岩の名前が付けられたようである。5mを超えようかという巨岩が天空に不動の形で聳え立つのは、これまた大自然が作り出した造形モニュメントの一つであろう。

 <裏面大黒>

     

何ともまあ、愛嬌のある名称であり、又それに相応しい形をしているのが面白い。大黒様の後ろ姿を拝したことは一度もないのだけど、確かにこのような格好に違いないように思う。よくもまあ、このような楽しい姿をつくり出したものだと、真に以って大自然の力というのは不思議である。

 <出船入船>

     

説明板を読むまでは何のことかわからなかった。そこには「元来『熊野の鳥居石』といわれ船玉神を祀り、石の姿が出船と入船とが並んでいるように見えることから呼ばれている」と書かれていた。熊野に船玉神社があることは知っているけど、この石が何故熊野の鳥居石なのかが良く解らない。しましまあ、出船入船とはよく言ったものだなあと感嘆せずにはいられない。

<国割り石>

     

ちょっと目には、庭に適当に並べられた大小の石としか思えないけど、説明によると、諸神がここに集い、この石の上に線を引き神々のゆくべき地方を割り振ったと書かれていた。古事記の国生みの話に連なる古からの言い伝えのようだけど、何だか眉唾ものに思えるのは、素直でない証拠なのかもしれない。

<陰陽石>

     

このような形での陰陽石というのはあまり見たことがない。陰陽とは、中国古来の思想で、万物は陰と陽の気質でバランスをとって出来上がり動いているという考え方だが、身近ではプラスとマイナス、男と女などがすぐに思い浮かぶ。この石のどれが陰でどれが陽なのか判らないけど、何かを暗示しているには違いないなと思った。

<母の胎内潜り>

     

巨岩の祠(ほこら)の中に潜り抜けるのを邪魔している石が嵌っており、そこを潜りぬけることによってもう一度生まれた姿に戻れるという、修験道の修業の場の一つになっているとか。巨岩の圧力を感じながら敬虔な気持ちで狭い空洞を潜ることが、現世の汚れを拭い去って、新たな出発につながるのだという考えは、それなりに首肯できるものがある。でも、自分はもう生まれ変わらなくてもいいと思っているので、ここを潜る気持ちは湧いては来なかった。

<高天原(たかまがはら)>

   

高天原がどのような世界なのかはわからないけど、神様たちが住む世界であることくらいは承知している。下界を見下ろせる小高い岩場がここではそれらしい。両側に巨岩が迫る細い坂道を登ると、右側に視界が開けた小さな広場があり、そこには天照大神を祀る稲村神社というのが建っていた。それらの関係はさっぱり判らないけど、神様というのは、全国至る所に分身を派遣して、超忙しいのだなと思ったりした。

<弁慶七戻り>

   

これは前回にも掲載したのだが、今回は反対側から撮ったのを掲載した。光が樹木たちの葉影を映して少しわかりにくいものとなったが、巨石が岩を塞いでいるのが判ると思う。さすがの豪の者の弁慶も通るべきかどうかと七度もためらったということで名が付いたというが、本物の弁慶さんなら決してためらい迷う様な事などするはずがないなと思った。この呼び名は、弱虫の言い訳のように聞こえて、弁慶さんの名誉を回復すべきではないかと思った。

 

以上、今回は9カ所の巨岩・奇岩を紹介させて頂いた。筑波山にはこの他にもまだまだ幾つかの巨石の不思議な存在があるのだと思う。まだ2コースしか登っていないので、これから順次訪ねて、回り逢うのが楽しみである。

 

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筑波山登山の記(第22回)<カタクリの花のこと>

2014-04-09 22:09:23 | 筑波山登山の記

<第22回 登山日 2014年4月8日(火)>【カタクリの花のこと】

 今月2回目の登山である。2日の登山の時にカタクリが咲き始めたのを知り、本当はもっと早く登ろうと考えていたのだが、所用があったり天気が崩れたりして、延びてしまい、あっという間に一週間近くが過ぎてしまった。筑波山の御幸ヶ原の少し上の方にカタクリの里というのがあり、カタクリが自生しているというのは知っていたのだけど、昨年登山を開始した時は既に開花期は終わっており、花を見ることが出来なかったので、今年は何としても見たいと意気込んでいるのである。今日は持病の定期受診日であり、本当は登山を控えるべきなのかもしれないのだが、予約が11時15分しかとれなかったため、それまでの時間がもったいないと思い、先に登山を済ませてから受診するのもいいのではないかと勝手に決め実行することにした。11時前にクリニックに着くためには、6時半までには登山を開始しなければならないと逆算して、今日は前回のコースを止めて、以前のコースに変更して登ることにしている。その方が登りはきついけど、距離が短いので、往復では30分以上時間にゆとりが持てるからなのである。

 ということで、家を出たのは4時40分頃だった。家を出る時は未だ夜だったけど、それでも夜明けの兆しはあって、何となく東の方が明るみかけていた。途中から夜が明け始めて、いつもの梅林の駐車場に着いた5時半少し前は、もはやヘッドランプなどは無用の明るさとなっていた。ちょっとの間に夜明けが急に早まった感じがした。日の出は6時近くになっているのかもしれない。

 先回は違うコースだったので、たった1回だけの実績なのだが、何だか懐かしい感じがするのは、どういうことなのだろう。何時もの登山口に来て時計を見たら5時42分だった。当初の目論見が6時だったので、それよりもかなり早い出発となった。計画を立てると、常に前倒しにしなければ気が済まないという習性は、サラリーマン時代の悪癖なのだと思うのだが、リタイア後10年以上も経っているのに、それが未だに抜けないというのは、もしかしたら、これは生まれつきの習いなのかも知れないなと己を呆れ返って思ったりした。

 なれた道を淡々と登り続けて、中間点を過ぎ男女川源流地点を通過して、間もなく御幸ヶ原に到着。その少し手前の道脇にニリン草の群落があり、そこに交じって幾つかのカタクリが花を咲かせていた。脇の方にはキクザキイチゲの花も見られた。まだ日の出から時間が経っておらず、寒いので花を開いているのはほんの少しで、花びらを細くしてうなだれている姿がいじらしく思えた。御幸ヶ原に出て、休まずにそのまま男体山の頂上を目指す。その途中にもカタクリやキクザキイチゲの花を幾つか見ることが出来た。筑波山の現在では、標高800mくらいの地点が、これらの植物の開花の目覚め時となっているようである。山頂のご本殿に参詣し、裏手の岩場で汗をぬぐい、カメラを取り出す。ここから先しばらくは、景色や野草たちを撮りながら下山までの時を過ごすことにした。今日は望遠レンズを着装してリュックに入れて持参している。

 一息いれて下山を開始する。御幸ヶ原に下りるまでの間にカタクリやキクザキイチゲの花を何枚かカメラに収めた。日が差して来て空気も暖まり始めたためなのか、花たちは敏感にそれに応えて表情を明るくしているのを感じた。カメラに収めるのにちょうどよい状態で生えているのが少なくて、2本以上の株の花をまとめて撮るのは難しく、どうしても一株だけの花を撮ることになってしまう。特にカタクリは滅多に並んで咲いていないので、撮るのが難しかった。

 御幸ヶ原に出て、今日のメインの目的である、カタクリの里に向かう。御幸ヶ原から女体山に向かう坂の入口付近に、ロープで囲われた300坪ほどの林の下の草地がカタクリの自生地のようで、そこがカタクリの里と名付けられた名所らしい。丁度今はカタクリの花まつりということで、何本かの幟(のぼり)が風に翻(ひるがえ)っていた。で、肝心のカタクリはといえば、まだ寒さで眠っているものが多いようで、花を咲かせているのも開いているのは少なく、昼頃になれば賑やかになるかなという感じの状態だった。草地一面がカタクリの花で赤紫色に染め上げられるというレベルには行かないけど、それなりにカタクリの里と呼べる場所のようには思えた。しかし、草地の一部が異常に掘り起こされて、カタクリの花が踏みつけられている箇所が二つもあり、これは一体何なんだ!と思った。ロープで囲われている内側の場所なのだから、幾らなんでも関係者が今時このような作業をするはずはない。しかも花の密集度が高いような場所が掘り起こされていたので、これはイノシシの所業に違いないなと思った。そういえば筑波山のイノシシが増えているという話を聞いたことがあり、この里が彼らの絶好のターゲットとなってしまったのかもしれない。カタクリの根が彼らの好物なのかは知らないけど、人間だってその昔はこの根からでんぷんを抽出して食料にしていたのだから、イノシシたちにもそれを嗅ぎわける本性が備わっている筈である。こりゃあ困ったことになるのではないかと思った。花を楽しむよりもそのような獣害のことが心配になったりして、複雑な心境で何枚かのカタクリをカメラに収めたのだけど、自信はない。

     

筑波山御幸ヶ原近くにあるカタクリの里の花まつりの幟。この道の左右がカタクリの群生地となっている。

     

カタクリの里の花の様子。まだ日が昇ってからあまり時間が経っていなくて花たちは今日の活動を始めていない感じだった。それなりに点在しているのが判ると思う。

     

イノシシが荒らした跡。とんだ花園への乱暴狼藉である。ここの他もう一カ所荒らされている場所があり、これから先が心配である。

 20分ほどをカタクリの里で過ごして、下山を開始する。しばらくはカメラをそのまま持ったまま道端の野草たちを撮ることにした。先ほどの里の花よりも、こちらの方が写しやすく、何枚かをものにした。それらの花の中で、一つだけ名前の知らないものがあり、登ってきて写真を撮っている方に訊ねたのだが、やはり知らないとのこと。草丈が10cmほどと低く、花の形も小さな白い集合化で、ちょっと見にはイブキジャコウソウに似た姿形をしている。しかし、花の色は違うし、この花の方が花数が多いように思えた。拡大鏡を持参していなかったので、花を覗くことが出来ず、確認できなかったのが残念。(帰宅後図鑑を調べたら、ハルトラノオと判った。)この外、ミスミソウなども小さな花を咲かせており、久しぶりの野草たちにも逢えて、満足しながらの下山だった。ゆっくりと降りて、9時半過ぎ駐車場に戻る。その後クリニックを受診して帰宅したのは13時少し前だった。受診前に登山をしたというのは初めての経験だったが、一つの自信になったことは間違いない。糖尿病の場合は、このようなことが可能なので、これからもチャレンジして行きたい。

     

下山の途中で見たカタクリの花。花びらがツンと反りかえって咲いている様は、穏やかさよりも気性の激しさのようなものを覚えさせる。

     

カタクリの花たちとほぼ同じ場所に咲いていたハルトラノオの花。草丈が10cmくらいの小さな植物で、うっかりすると見落としてしまいそうな存在である。良く見るとなかなか美しい花を咲かせている。

【カタクリの花のこと】 

 今回初めて筑波山のカタクリの里を訪れて、久しぶりに群れ咲く花たちを見たり、或いは登山道脇に何気なく咲く花を見て、カタクリのことについて少し書いて見たい。

 私がカタクリという植物があるというのを初めて知ったのは、子供の頃に、片栗粉を使って調理をする母から教わったように思う。もうその時は片栗粉がジャガイモでんぷんだというのは知っていたのだけど、何故片栗なのかを疑問に思ったからだった。母の話では、昔はカタクリという植物の根からでんぷんを採って食べていたので、片栗粉というのは、そこから来ているのだという。今ではジャガイモから採れるでんぷんが主流になっているので、それを片栗粉と呼ぶようになったのだと。しかし、片栗粉は知っても、その後ずっとカタクリという植物を見たことはなかった。戦後引っ越しして来て育った、茨城県の北部の常陸大宮市の片田舎の家の近くの山野には、カタクリという植物は自生してはいなかったのである。

 カタクリの花を初めて見たのはいつだったのだろう。図鑑を見てそれがどんなものかは知っていたけど、本物に逢わない限りは、なかなか覚えるものではない。どこかの園芸の店などで販売されているのを見たのが初めてだったのかもしれない。それが、いつどこだったのかはさっぱり覚えてはいないのである。そのようにして少年期から青年期に入り、壮年期を迎えても花などのことはさほど関心事ではなかった。それが次第に野草たちに注意を向けるようになったのは、糖尿病を宣告されて、歩くことを余儀なくされてからだった。ただ歩くだけではつまらないので、歩きの時間を使って道端の野草たちの名前を覚えることにしようと決めたのである。普段何気なく見ている道端の雑草と呼ばれる草たちにもちゃんと名前はあり、それなりの個性があるのである。図鑑を頼りに彼らの名前を片っ端から覚えることに努めた結果、やがてかなりのところまで彼らの名前を覚えることが出来たのだが、何しろ植物界には無数といっていいほど彼らが存在しているのである。とても覚えきれるものではないが、しかし、野草たちへの関心だけは並々ならぬものとなり、それは今でも消えることはない。そのようなことを経験していると、やがては野草たちの方から、その存在をアピールして来てくれるようになるのが不思議である。例えば、図鑑で見て、是非逢いたいなと一途に思い込んで探すと、ある時その野草の方から自分の前に現れてくれるのである。それは車で全国を旅して歩きまわるようになって、初めて知った不思議な体験なのだ。カタクリもその一つだったと思う。

 カタクリの花は北国に多く、そこに住む人たちにとっては、山に入ればどこにでも自生している野草なのである。都会に住む人にはその気にならない限りは滅多に見られない花ではないかと思う。私がカタクリに出会って、強烈なインパクトを受けたのは、十数年前くるま旅を始め出した頃、東北の春を訪ねていた時に、秋田県の大曲市近郊の山の中だったと思う。「だったと思う」というのは、その後もカタクリが谷を赤紫色に染めて群生している場所を何カ所か見ているので、その当時はデジカメもなく、しっかり記録を録っていなかったため、記憶が混雑してしまって場所を確定できないからなのである。とにかくその頃はくるま旅を初めて間もない時であり、足にまかせてどこでも構わずに走り回っていたのだが、うっかり道を間違えて山奥に入り込んでしまった時に、思いもかけない場所でそのカタクリたちに出会ったのだった。車で走っていると、カタクリやキクザキイチゲなどが咲いていても、殆ど気づかずに見落とすことが多い。よほどたくさん咲いていないと目には入らないのである。しかし、赤紫色が谷を染めているような場所に出会うと、一体何だろうと車を止めずにはいられなくなるのである。

 いやあ、あの時の感動は忘れることはできない。今までに見たどんなカタクリの名所などよりもはるかに抜きん出たカタクリの群れ咲く天国だった。ほんの少しの花を見ている限りは、その昔この花の根からでんぷんを取り出したなどと到底想像できないのだけど、谷を埋めて群生しているカタクリを見ると、片栗粉が嘘ではなかったことが確認できたのだった。その後、群生して他場所を訪ねていないので、今どうなっているのかは分らないのだが、そのまま残っているとは思えず、いつもカタクリの花を見る度にあの場所を思い出すのである。

 東北の春を旅していると、道の駅の売店などで、様々な山菜類に混ざって、カタクリの花が食用にと束ねて売っているのに出会うことがある。都会の人たちには想像もつかないことだと思うけど、地元の方たちはカタクリの花を茹でて酢のものにしたり、吸い物に入れたりして食するのである。美味というわけにはゆかないけど、優雅な珍味といったところか。いつだったか、青森県の道の駅では、リュウキンカの花も食用として売られていたのには驚いた。リュウキンカというのは、水生の植物で、春に黄色い花を咲かせるのだが、これを食べるとは凄いなと思ったものである。カタクリなら花を食べるのに抵抗は少ないのだけど。

 ところで、カタクリの花というのは不思議な形をしているなと改めて思う。優雅な色合いなのだけど、花びらの形からは、実はよく見るとある種の不気味さを感じさせられることがある。何故なら、花びらが反りかえって上を向いており、それは怪しげな女性が髪の毛を振り上げた形相を呈しているかのように見えるからである。花芯部のおしべやめしべを顔とみなすと、妖女の般若面のようにも思えて、気持ちがちょっと後ずさりしてしまいそうになる時があるのは、自分だけなのだろうか。

ここ数年、東北の春を訪ねる旅に出掛けていない。大震災の影響もあって、遠慮がちだったこともあるけど、今年こそは是非出掛けようと思っている。カタクリたちにも是非逢ってみたい。デジカメを活用するようになってからでは、2005年に秋田県の西木村(現仙北市)の赤倉クリ園という所のカタクリの群生が一番記憶に残っている。この連休明けでは、もう開花期は終わってしまっているかもしれない。でもちょっと覗いて見たいなと思っている。

     

2005年5月に西木村(秋田県仙北市)の赤倉クリ園を訪ねた時のカタクリの花たちの様子。この時は既に開花が終わりかけていたので、あまりいい写真ではない。広大なクリ園の下を埋めるようにびっしりとカタクリが群生していた。

筑波山のカタクリの里は、小さい分だけこの山にとっては貴重な存在なのだなと思った。イノシシ君たちの食料の標的となってしまったことに対しては、何か強固な対策を講ずる必要があると思う。どこがそれを担当されるのかは判らないけど、早急に対処して欲しいと願っている。あれこれ、カタクリの花について思いつくままを述べた。もう2~3回は筑波山のカタクリの花を楽しみたいと思っている。

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インターネットじいちゃんへの憧れ

2014-04-05 06:21:54 | 宵宵妄話

 先に老人の定義などという大それた話をし、それが未来との断絶度でレベルが決まると書いたりしたのだが、その後も老計とか死計などということにあれこれ思いを巡らしている。そのような中で、先日ネットのニュースを見ていたら、見出しの中に「インターネットじいちゃんが亡くなられた」との記事があり、俄然目を引いた。

これは一体どういう方なのだろうと読んでみた。それはイギリスのピーター・オ―クレイさんという方で、3月末に86歳で亡くなられたとのことだった。

この方は、奥さんに先立たれての一人暮らしの中で、78歳の時に偶然YouTubeという動画サイトに出会い、自らも動画を投稿されたとのこと。その初めて投稿した動画が300万回近い再生回数を超す人気作となり、大変な反響を得たとのことである。一時はYouTubeのチャンネル登録者数1位を記録したこともあったという。その後次々と動画の投稿を続けられて、お亡くなりになるまでに434本もの多くを作られたと書かれていた。

 私はあまり動画には関心がなく、YouTubeを滅多に見ないので、このような凄い方がおられることを全く知らなかった。一体どの様な内容の投稿をされたのかと早速YouTubeを覗いてみた。英語での話なので、残念ながら意味は良く判らないのだけど、書斎らしき場所で、淡々と話されるその語り口からは、誠実さと優しさが伝わってきた。どうやらご本人の過去の思い出などを多く語っておられるようだった。geriatric1927というユーザー名を用いられての投稿だったというから、1927年生まれの老人ということになり、それを強く意識しての投稿内容だったのだと思う。最初の投稿というのが今から8年前の2006年であり、その頃ではイギリス国といえども80歳近い高齢者の投稿は珍しかったに違いない。それは現在でも同じように言えるように思う。ネット社会への高齢者の参加は、まだまだ普通のできごとにはなっていないように思う。

 そのような社会環境の中で、この方が「インターネットじいちゃん」と親しまれ、「あなたが僕のお爺ちゃんであったら良かったのに」とか「あなたのお話は、面白くて気持ちが豊かになって来るんです。頑張って続けて下さい」という様なたくさんのコメントが寄せられて来ているというのは、真に素晴らしく、これからの世の老人の鑑のような生き方だったと讃えたい。

 ところで、この方の存在を知って改めて気づかされたことが二つある。その一つは、学ぶこととその実践の大切さということであり、幕末近い江戸時代の大儒佐籐一齊の言志晩録「三学戒」の一項「老にして学べば、死して朽ちず」であり、もう一つは、老人が学ぶ力はその人の持つ過去の中に埋蔵されているということだった。

 最初の一齊先生のことばは、既知のことだったけど、再確認をさせて貰った。オ―クレイさんは、まさに「老にして学べば」を実践されたのだと思う。妻を亡くしてのちの78歳という年齢は、落胆の力が上回って無力・無気力の世界に落ち込むのが普通のように思えるのに、この方はその壁に対してgeriatric1927を堂々と名乗って、見事に乗り越えられたのだった。それは学びと実践のお手本のように思える。ネット社会を趣味で覗くなどというレベルを乗り越えて、自ら実践行動を果たしているのである。その本質は学びにあったに違いない。そうでなければ、世界中の多くの人の共感を得るような話は決して出来ないからである。

 もう一つの学ぶ力のエネルギーは何かということなのだが、私自身はこのことについて、長い間誤解をしてきたことに気づかされたのだった。というのは、老というのは未来からの断絶度が高まることによって深刻化すると考えており、そのためには老人は未来をより以上自分に引き付けておかなければならないと考えていたのである。そしてそのためには、過去を振り返らずきっぱりと忘れ去って、新しい現実の中に生きればよいと思っていたのだった。事実、リタイア後の人生はその考えを中心に過ごしてきたと思う。それは決して誤った生き方ではなかったように思うけど、このオ―クレイさんの生き方を知って、老人の力とは、そのエネルギーの源泉は自分が積み上げて来た過去の中にこそあるのではないかと思ったのである。というのも、YouTubeの動画の中での彼の話は、過去を現在につなげる仕事だったように思えるからである。Geriatric(=老人、おいぼれ)だからこそ価値がある話なのである。1927年からの様々な経験、体験を積み上げたからこそ現在と未来につなげなければならない話が出来るのである。そう思ったのだった。

 これは、今までやや意固地になって過去のことに触れなかった自分にとって、大きな刺激を受けたことだった。自分の持っている過去の中で、過ごした時間が一番大きかったのは、一企業に勤務し、関わった42年間である。この42年間に関して、今まで殆ど触れたことがない。しかし、オ―クレイさんならずともこの42年間には、現在や未来につなげるべき体験や経験が、それこそ山ほどあるのである。これを無理やり閉じ込めておくのではなく、緩やかに開放し、自在に語ってもいいのではないかと気づかされたのだった。

 今まで過去を封じ込めようとしていたのは、そこからの話題は同世代以下の若い人たちには、老人の愚痴や繰りごととして受け止められるだけだという思いがあり、そのような行為は断じて避けようという考えがあったからなのである。しかし、オ―クレイさんの話を聞いて、過去の材料の中にも現在や未来とつながるものは幾らでもあり、むしろそれを為すことが老人の特権と考えてもいいのではないかと思ったのである。改めてよくよく考えれば、若い世代とつながるために老人が出来ることといえば、過去を力とするしかないのであって、若者を凌ぐような未来を語る老人など気持ち悪い存在となるに違いないのだ。そのような老人はインチキに決まっているからであろう。オ―クレイさんからは、そのような大切なことを学んだように思う。と、言ってもさし当たって無理に何やら為すこともない。気持ちの上で、肩の力を抜くことが出来たと感謝している。

 それにしても、偉大なるインターネットじいちゃんだったと思う。もしかしたら、日本国内にも同じような方がおられるのかもしれない。実のところ、私はブログやYouTubeなどの他人様の作品を殆ど読まないので、どこに、どのような方が、どんな作品を作られているのか知らないのである。他人様のことを知るよりも、自分のものをどうするかのほうが気になっており、この習癖はまだ当分続くのではないかと思っている。YouTubeのような動画専門のブログの方が、世界を相手にする場合は、一段と優れていることは承知していても、今のところそれにチャレンジするつもりはない。今までと同じようにくどくて稚拙な文を書き綴ってゆきたいと考えている。とてもオ―クレイさんのような存在にはなれないけど、ずっと彼が残した「朽ちないもの」に憧れて行きたいと思っている。

 お亡くなりになられたピーター・オ―クレイさんに、心から哀悼の念を捧げると共にご冥福をお祈りいたします。

 

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