山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

ブルーベリーとナツハゼ

2009-06-30 02:32:41 | 宵宵妄話

嬉しいことに、今年はブルーベリーが初めての豊作です。守谷に越して来てから6年目を迎えていますが、庭のブルーベリーは、引越して間もなく、近くのホームセンターから買って来て植えたものでした。1本では実りが悪くなると聞いていたので、5本買って来て植えました。そのときに囲いなどを作って、早くも小さなブルーベリー園を夢見ていたのでしたが、1本500円の背丈30cmにも満たない小さな苗木を見て、この人は一体何を考えているのだろうかと、家内にバカにされたのを覚えています。

   

今年二回目のブルーベリーの収穫。あと2回くらいはこれ以上の収穫が期待できそう。でも最後はヒヨドリたちのものとなるに違いない。

その小さかった木は、年を追う毎にすくすくと生長してくれて、早いのは2年後には幾つかの実をつけてくれたのでした。しかし笊(ざる)に入れるほどの量ではなく、ちょっと味見をするという程度のものでした。それが、去年あたりから急速に背丈が伸び、大きいのは自分の背丈を超えるほどとなり、5本が狭い場所に絡み合って、まさにブルーベリーの園というか、ブッシュを作りつつあります。

去年も結構実った筈なのですが、何しろ肝心な時に旅に出ていて不在なため、一体どれくらい実ったのか判らず、その殆どは賑やかにやってくるヒヨドリたちのご馳走となってしまったようです。今年は北海道への旅までに少し時間がありそうなので、ヒヨドリ君たちには気の毒だけど、花が終わるころには早々に防鳥ネットを掛けて、稔りを待ったのでした。

   

我が家のブルーベリーのブッシュ。防鳥ネットはもう少し掛けておく必要がある。来年はこのブッシュはもっと拡大するに違いないと信じている。

その甲斐があってか、一昨日は中程度の大きさの笊にほぼ一杯の収穫がありました。まだ青い実のものがかなり残っており、あと三倍くらいは採れそうなので、北海道への旅に出発するまでには、もう一度笊一杯は期待できそうです。

ブルーベリーというのは、変わった実り方をするのを知りました。食べることができるブルーの実に変身するのは、収穫時の1~2日前で、それまでは到底食べられない青く堅い実をつけているばかりです。スイカやトマトやバナナなどのように、ある程度大きくなったら収穫し、そのまましばらく置いておけば中が熟成して色づいてくるといったものではないのです。ですから早く収穫することは不可能で、とにかく熟してから採らなければなりません。これはブルーベリーを専門に栽培している農家などでは、一挙にたくさんの手間が必要となり、大変だろうなと思ったりします。

我が家では今は、私よりも家内の方がブルーベリーに大いに期待している風があります。6年前にバカにしていたことを反省する気配は少しもありませんが、豊作の現実を前にしては、そのような過去の話など眼中になく、ただひたすらに目一杯収穫してジャムを作ることだけを考えているようです。家内はこの頃何故かジャム作りに妙に関心を持っており、手当たり次第に獲物を見つけてはジャムを作っています。先日は旅先でゲットしたグズベリーを煮て酸っぱいジャムを、そして私が汗を流して採ってきた桑の実ではヨーグルト用のジャムを作ったりしていますが、今度はブルーベリーに挑戦するつもりでいるようです。只今は母の介護で留守ですので、採ったものは果実についた水分をきれいに取り去ってパックにいれ冷凍保存しています。介護から戻ったら直ぐにでもジャム作りに取り掛かり、旅の友とするに違いないと思います。

ところで、ブルーベリーというのには少年の頃の思い出があります。私は茨城県の北部の農村で育ったのですが、子供の頃裏山に入ると、子どもたちが「ハチマキボンボ」と呼んでいた木の実がありました。その実が好きで、秋になると一人山に入ってはその実を探して歩いたものでした。ハチマキとは鉢巻のことであり、ボンボとは丸いものを指して呼ぶこの地の方言だったと思います。ハチマキボンボというのは、従って鉢巻をした丸い実というような意味なのです。そして、鉢巻ボンボの木というのは、ナツハゼの木のことなのでした。紅葉のきれいなナツハゼの木は、最近は庭木としても結構人気があるようですが、その昔の農村での暮らしを思い出すと、裏山に幾らでもあったナツハゼが、気の毒なような気もします。

   

ナツハゼの木。もう早くも、少し葉が色づき始めているようだ。もう実も付いているから、もしかしたら子どもの頃食べたのは、秋ではなく夏だったのかもしれない。

その当時の付近の子どもたちの中では、自分が恐らくナツハゼの実の一番の愛好者ではなかったかと思います。かなり酸っぱいものが交ざっているので、子どもの味覚にはフィットしなかったのだと思いますが、そのようなことに頓着せず、甘いのも酸っぱいのも美味いなあと思いながら口に入れたのでした。昔から相当に卑しいというのか、食べ物に対しては鈍感、貪欲だったところがあり、私はその意味では少し変わっていたのかもしれません。

その変わった奴が大人になって、ブルーベリーという名を聞き、その木を目にしたのは、それほど遠い昔ではなかったように思います。初めてその苗木を見たときは、これはどこかで見たことがあるぞと思いました。しかしそれがどこだったのか思い出せず、ある時植木屋さんを覗いていて、ナツハゼが実をつけているのを見て、「なんだ、ブルーベリーって、このナツハゼと同じじゃないか!」と気づいたのでした。

   

ナツハゼの実。ブルーベリーの実は青いけど、ナツハゼは赤っぽい色をしている。

ナツハゼは、鉢巻というか実を取り巻く一本の筋のようなものがありますが、ブルーベリーはそれがなく、のっぺらぼうです。勿論味の方も栽培品種なのですから、ナツハゼよりは数段上まっています。この頃は目に良いというので、結構人気も高いようです。

しかし、私は本当はブルーベリーよりもナツハゼの実の方が好きです。堅く酸っぱくてもナツハゼの実の方が好きです。なぜかといえば、勿論その中には懐かしいふるさとの思い出が一杯詰まっているからです。もう庭のブルーベリーのブッシュは家内にそっくり譲って、別の場所に、ナツハゼを一本買って来て植えようなかと思ったりしています。やがて付けてくれるであろう実を、毎年数粒でいいから、じっくりと噛みしめて味わいたいなあと思ったりしています。(でも、植木屋で見て来たナツハゼの木は、庭のブルベリーほどの小さいもので1万円近くもするので、この夢は実現しそうもありません

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

書くことの意義

2009-06-29 04:57:27 | 宵宵妄話

ちょっと旅の長い掲載を終えて、一息ついたところです。今日は、書くことについて、今思っていることを少しばかり記すことにします。

毎日書き続けることは結構しんどいのですが、去年の一年間と比べれば大したことはありません。去年は1日5千字以上書くのが必須の日課でした。ブログ掲載の有る無しに拘らず、1日5千字が目標でした。年間では182万5千字以上書いたことになります。一見多そうですが、プロの作家のならこの倍以上は書かれているのではないかと思います。

 何故このようなことをするのかといえば、思ったことを自在に書くための訓練を自分に課してみようと考えたからなのです。元々仕事もいわゆる事務屋でしたから、書くことは仕事の基本でしたが、これがいけませんでした。実にビジネス文書というものは、自分の個性を消失させるものかと、それは今でも後遺症として多分に残っており、反省しきりなのです。

ビジネス文書というのは、先ずは形式のようなものがあり、それを踏まえてビジネスの意思を伝えるということになりますので、油断も隙も見せない文語(もんご)となってしまいます。どこかに自分という書き手を隠すという意図が秘められているのです。表に出すのは自分ではなく、会社であり組織であるからです。当方(=自分ではなく組織であり、会社である)の意思を、礼儀を失せず、且つ簡潔にして、如何にうまく、正確に相手に伝えるか、というようなことばかり考えていると、どうしてもコチコチの計算された文章となってしまうのです。これはビジネス社会の文書としては、ある意味で必要不可欠の要件なのですが、普通の人が自由に生きている社会では、そのような計算された文章など埒外(らちがい)の話であり、親近感などとは無関係の特別扱いとなってしまうのは当然かも知れません。

 ま、そのような習癖というか、職業病から逃れるためには、何でもいいから好き勝手なことを自由に書きなぐってみることが必要なのではないかと思ったのでした。それで1年間ほど無茶な訓練を続けたのでした。とにかく旅に出かけていないときには、手当たり次第にテーマを見つけて、思いつくままにいろいろなことを書き綴ってみたのでした。

 ものを書くというのは、自分の気持ちを書く、自分の考えを表現するということですから、その基本は何でも正直にことばに表わせば良いということになります。テーマが決まればそれにまつわる自分の体験や思いなどを絡ませて自分の気持ちを披瀝しているうちに、何となく言いたいことの結論のようなものが見えてきて、収まるようになるということが解ってきました。

 年間100万字以上書いていれば、自然とそのようなスタイルが身についてくるような気がしました、しかし、書くというのは読まれるということを前提としているわけですから、ただ書いていれば良いというわけには行きません。つまり、読み手のことを意識した書き方が大切となってきます。ここで気がついたのは、我が文章のくどさということです。解り易くしようと説明をたくさん加えれば加えるほど、却って読み手には解り難くなるということがハッキリしてきました。必要最小限のことばで最大の成果が期待できる伝わり方を工夫することが肝要であり、そしてやがては、工夫などしなくても自分の書き方のスタイルとして、自然とそれが身についている必要があることに、今頃ようやく気づいたところです。まだまだ前途多難です。

 ここで、ちょっぴり夢の話です。実は私は密かに小説のようなものを書いてみたいと思っています。その対象は同世代もしくは先輩世代と考えています。いわゆる高齢者と言われ、簡単に言えば老人という世代です。若い人たちの世界に向って何かを発信するという考えは殆どありません。化石が情報化の真っ只中にさ迷っている若者に何かを発信しても、それが届くとは考えていないからです。

 我々の先輩を含めた同世代のこれからは、今までかつて経験したことのない高齢化社会であり、老人生活の時代だと思っています。家族が崩壊し、心を失う病などが溢れてきている世の中は、今までにはなかった恐るべき新世界のような気がしてなりません。生き過ぎというような言い方は不謹慎なのかも知れませんが、生きているということの意味や価値が、死という終焉よりも軽く、薄く受け止められるようになったとしたら、それはあながち不謹慎とは言えないような気がするのです。今、少しずつそのような考え方が増えつつあるような気がしています。

 私は自分を含めた同時代の人たちが、死ぬ直前まで、自分が生きていることの価値をしっかり確認できる生き方(=本当に生きてきてよかったと実感できる生き方)をしたいものだと願っています。私がくるま旅くらしをするのも、提唱するのも、そのための大切な手段だと考えるからです。

 何だか少し話が脱線しかかって来ているようです。同世代の人たちに、仲間世代に向って何が言えるのか、まだまだはっきりしているわけではありませんが、書くこと通して、何かが見えてきているような気がしています。今年の書くことへの取り組みは、ただ徒(いたず)に書きまくるばかりでなはく、少しずつ量から質への転換を図ってゆかなければならないなと思っています。

旅の記録の掲載が一つ終って、今日は、目くらましのような見当違いの話となりました。

   

私の仕事場の様子。これは机の上の乱れたありさま。直ぐ後ろが書棚で、椅子を回すと360度何でも必要と思われるモノに手が届く狭さ。天国ではあるけど、時には焦燥の苦しみを味わう場でもある。暗いのは夜の所為ばかりではなさそう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

甲信越ちょっと旅:第8日(最終回)

2009-06-28 04:40:02 | くるま旅くらしの話

第8日 <6月18日()

道の駅:はが → (県道・R294)→ 道の駅:下妻(下妻市) → (R294) → 自宅  <72km>

今回の旅の最後の一夜が明けて、今日はただ家に帰るだけ。宇宙を除いては、初めがあれば終わりが必ずある。宇宙というのだけは際限もなく拡大し続けているらしい。というような話をどこかで聞いたか、読んだ気がする。

ここの道の駅は、昨日は休みだった。今日は大丈夫。というのも、芳賀は野菜や果物の産地で、地元で採れた新鮮な野菜がリーズナブルは値段で販売されている。それを手に入れるのがここに泊まる最大の理由である。8時半に店がオープンするのだが、並んで待つというレベルでないと、いいものを早く手に入れるのが難しくなるからである。今日も数人の人たちが開店前に列を作って並んでいた。

8時半になって、店の中に。キャベツ、ナス、キュウリ、トマトなどの他にシソの葉なども手に入れる。シソの葉は、酢に氷砂糖と一緒に入れて、シソ酢を作るため。これは先日大阪のAさんから頂戴したそれが、格別美味で重宝したので、習って作ってみる考えでいる。本当は青紫蘇の方が良いのだけど、今は梅漬けの最盛期だから、赤シソが豊富で、安価である。因みに作成の基本レシピは、黒酢1升に青紫蘇の葉100枚を、水分を良く取って入れ、それに氷砂糖200gを加え、しばらく(4~5日)置き、氷砂糖が溶けたら、青紫蘇を搾って取り出し、その酢を調理などに使うのである。酢味噌和え用の酢としては最高だったし、その他どのような調理にもフィットする万能調味料となる。1週間分ほどの野菜を買い込み、守谷の我が家に向け出発する。

今日も曇りで、いつ雨が降るか予断を許さぬ天気である。ここからは我が家まで2時間足らずである。真岡でR294に入り、そのまま二宮町、筑西市と通過し、下妻の道の駅にちょっと立ち寄り、その後はひたすら我が家を目指し、到着したのは11時丁度だった。総計1,048kmの旅だった。

 

<旅から戻って:後楽>

たった1週間程度ででは、旅から戻っても家の周りがさほど変わったというほどでもない。雨季の真っ最中で、晴れの日も少なかったので、雑草の生育も思ったより抑えられて、すぐさま除草にかかるほどのことはなかった。1週間を一番感じさせたのは、畑のラディッシュだった。出かけるときが丁度食べ頃で、帰るまで大丈夫かなと心配だったのだが、案の定お化けラディッシュになっていて、赤い株の玉が、通常の倍くらいの大きさになってしまっていた。こうなったら、そのまま食べるのは無理なので、漬物にして食べることにした。ラディッシュの赤い玉をきれいに水洗いした後、薄くスライスしたものをフリーザー用のジップロック(ビニール製のチャックのついた袋)に入れ、そこに梅酢を注いで封をし、冷蔵庫に入れて2~3日置くと、真っ赤な株の漬物が出来上がるのである。少し砂糖などを入れると食べやすくなり、独特の味がして結構気に入っている。しかし、我が家で喜んで食べているのは、自分一人だけである。とんだ、脱線となった。

今回の旅は仲間の集まりの参加を利用したものであり、その集まりを除く前後は全くの思いつきのちょい旅だった。前半は簡単に言えば、いつもと違ったコースを通って、会場の入笠山の麓にある富士見パノラマスキー場に行ったということであり、その内容といえば、久しぶりに八ケ岳山麓の雄大な景観を味わえたということであろう。八ケ岳を群馬県側から訪ねたのは本当に久しぶりだった。旅車では初めてのことである。その雄大な景観は昔とそれほど変わっていない様な気がした。清里などの観光別荘地は、早く拓けたので開発も大きなビルなどを建てるような愚かさに届かなかったのかも知れない。総じて自然と調和のとれた景観がそこにあった。

久しぶりのTACOSの仲間との出会いはそれなりに楽しく、充実した時間だった。たった一晩泊まりで、慌しく散ってしまうのが少し勿体ない感じもしたが、殆どのメンバーが現役であり、仕事のことを考えないわけにはゆかず、このようなスタイルでの集まりはやむを得ないのであろう。くるま旅の知人との出会いと比べて、深まりが浅いままに止まってしまうのは、ちょっぴり残念だけど仕方がない。でも仕事を離れての仲間との交流という点では、参加されたメンバーがそのチャンスを大切にされているのが良くわかる。人は様々な変化の中に、様々な経験を積むことで成長するのであり、職場の限定された人間関係から、時に解放されて新たな出会いを形成するというのは、人生を豊かにする上でとても大切なことだと思う。週末のたった1~2日を過すための目的で、高価なキャンピングカーを買って、その他の時間の多くを車庫に眠らせておくというのは、合理的に考えれば不都合なことかも知れない。しかし、それを批判する人には、人生の豊かさを否定する針のような心が潜んでいるように思う。無駄の中にこそ豊かさが潜んでいるのであるから。そのようなことを考えながらのクラブキャンプの2日間でもあった。

集まりの後の3日間が、今回の旅のメイン行程だったと思う。霧ケ峰は青春の終わりごろの最大の思い出の場所である。青春時代が終っても機会がある度に出かけたのだったが、転勤で東京を離れることになってから一挙に疎遠になってしまった。最近では数年前に孫たちを連れて来ただけだった。今回は美ヶ原とあわせて訪ねることが出来、わずかな時間だったけど、これから又行けるような気がしてきた良い時間だった。美ヶ原に道の駅ができたことで、泊りがけでの夏の訪問が可能となったのは嬉しい。今年の夏は北海道へ行きっぱなしとなる予定なのでダメだけど、来年は出来れば孫たちと一緒に訪ねたい。

霧ケ峰を訪ねた後のルートは、今まであまり行ったことが無い場所や初めての場所だったが、これは結構楽しかった。毎日、真昼の無料温泉入浴付きだったというのも、考えてみれば豪気なものだった。別所温泉の老舗の湯宿の、畳の洗い場の風呂は印象的だった。和風とは斯くまでのものかなと思ったりした。くるま旅では、滅多に宿に泊まることもなく、大浴場以外はなかなか立ち寄り湯も難しい。その意味でも別所温泉の柏屋別館の風呂は格別だった。良い思い出となった。

小布施は残念ながら遅刻をした感じで、町のアウトラインも全くといっていいほど掴んでいない。今度行く時は、泊りがけで裏の方も含めてじっくりとこの町の有り様を見てみたい。小布施から後の時間は、未知のエリアを訪ねる楽しみで満たされていた。山ノ内の道の駅の早朝のりんご消毒車事件には辟易(へきえき)したけど、今度は草津温泉の方から志賀高原に抜けて、湯田中温泉などを訪ねてみたい。季節は秋の方がよかろう。しかし、りんごを食べるには勇気が要るけど。

松之山温泉から松代にかけての棚田の風景は、自分よりも邦子どのの再訪の第一候補地となったようである。今回は車でメインの道路をざっと通っただけだから、写真に収めるに相応しい場所を見たわけではないと思う。土地の人に話を訊いて、少しあの辺りを歩いてみれば、必ず日本の原風景のような景観に出会えるに違いないと思う。旅の後楽の一つである。

十日町のへぎ蕎麦は美味かった。麺類なら種類を選ばない人間だけど、海草入りというのはなかなか良い。地元に行かなければなかなか味わえないのだと思うけど、棚田の探訪時には是非もう一度立ち寄りたいと思う。本当は冬の十日町を訪ねてみたいのだが、車では無理だし、列車で行くのはもっと無理のような気がする。雪国というのはどういうものなのか、関東の2~3日間の大雪は知っていても、雪国の暮らしは体験したことがないし、体験したといえるほど長く滞在したこともない。これは永遠の憧れのまま終るのかも知れない。

国境の大して長いとも思われない車道用のトンネルを潜って、三国峠から大雨の中を上州に入ったのだが、麓近くの水上町や月夜野町(今は双方が合併して水上町となっている)などを訪ねたことはまだなかったので、幾つかある道の駅も初めての訪問だった。その中で一番の魅力を感じたのは、道の駅:たくみの里である。集落全治が道の駅のテーマを盛り上げているという感じで、農村工芸の体験場所が集落の中に点在しているというのが面白い。ここには機会を作って必ず行ってみたい。比較的近くに四万(しま)温泉もあるし、1週間もいれば、そばもこんにゃくも豆腐も我が手のものとなるかもしれない。そんな気がした。(気がしただけである)

日光白根山のシラネアオイは、いつか必ず会いに行きたいと思っている花である。その行く手立てが、今回の旅ではからずも明確になってうれしい。丸沼高原のスキーリフトに乗れば行けるというのが分かった。今度はちゃんとトレッキングの用意をして行き、カメラにその優雅な姿を存分に収めたいと思う。来年が楽しみである。

……、というように旅の思い出はあれこれ際限もなく続いている。これが後楽というものだと思っている。そして最大の後楽は、実はこの記録を書いていることなのだ。ブログを書きながら一番旅を楽しんでいるのは自分自身なのである。実際の旅が終ってもう10日も経っているのだけど、これを書きながら気分は旅をしているときと大して変わっていない。ある意味では旅以上に楽しんでいる所がある。というのも、地図や資料を引っ張り出しながら、デジカメ日記の写真を何度も繰り返して眺め、時に辞書を引き、ネットで調べ物などをしながら、旅先の思い出をより正確に、且つ拡大して味わっているからである。旅の現楽では曖昧なことが多いのだが、帰ってきてもう一度記録を整理し、書いてまとめることを通して層倍の旅の楽しさを味わうことが出来るのである。何もそんなめんどくさいことをしなくても、旅だけを楽しめばいいんじゃないかという考えにも賛成だけど、自分としてはやっぱり後楽が一番だと思っているのである。

とにかくこれで今回のちょっと旅は終わりである。再来週の終わりから待望の北海道への旅が待っている。それが今何よりの楽しみである。人生、楽しみがある内が華だと思っている。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

甲信越ちょっと旅:第7日

2009-06-27 04:03:28 | くるま旅くらしの話

第7日 <6月17日()

道の駅:白沢 → (R120)→ 丸沼高原ロープウエイ乗り場駐車場(片品村) → (R120) → 菅沼脇駐車場(片品村) → (R120・金精峠トンネル) → 戦場ヶ原・三本松駐車場(日光市) → (R120) → 龍頭の滝(日光市) → (R120) → 立木観音脇駐車場 → (R120・いろは坂・R119) → 日光市内・杉並木公園 →(R119R461)→ スーパー・ベイシア(日光市) → (R461R4・県道) → 与一温泉ホテル(大田原市) →(県道・R293) → 道の駅:きつれがわ(さくら市)→(R293・県道)→ 道の駅:はが(芳賀町)(泊)   <171km

旅も今日が実質最後の日となる。今日は尾瀬の脇を通って、丸沼高原から日光白根山の隣にある金精山の脇の金精峠を越えて中禅寺湖に至り、その後は大田原市の郊外にある、「与一温泉ホテル」という、これも温泉博士掲載の場所であるけど、これに入ってそのあと喜連川を経由して芳賀の道の駅に泊まる予定でいる。

昨夜あまりに降り過ぎたのか、さすがに雨は止んで、雲は多いけど何となく晴れてくる予感がする朝だった。近くには一夜を過した旅車が何台かあった。山口県から来られたご夫婦は、全国の名山を登られているとか。北九州から来た人は、唯一つ大間からのフェリーは大丈夫かという質問だけをして、まあ代わりの会社が運営しているから大丈夫でしょうと答えると、そのまま自分の車に戻ってしまった。世のかなにはいろいろな人がいる。波長の合わない人とは会話も成り立たない。面白いなあと思った。出発の準備が終ったのは9時少し前だった。一路金精峠を目指す。

白沢の道の駅には何度もお世話になっているが、そこから先日光まで行くのはこれが二回目である。何しろとんだ山道なので、なかなかその気にはなれない。金精峠は標高が2,000m近くもあるのである。実はまだ尾瀬に行ったこともない。邦子どのは高校時代にクラブの旅行で来たことがあるらしい。自分は青春時代の山といえば、奥多摩と秩父と南アルプスばかりで、高原や湿原といえば霧ケ峰や美ヶ原ばかりだった。今ならその気になればいつでも行けるのだと思うけど、なかなかその気になるチャンスが無い。それは富士山登山も同じである。とにかく今日は、関東の奥地に向うことになる。

しばらく走って坂を登り、下って老神温泉の側を通過する。その少し先に吹き割りの滝がある。尾瀬の方から流れてくる片品川の抉(えぐ)った渓谷にある滝で、東洋のナイアガラなどと呼ばれている。まあ、随分とオーバーな呼び方をしたものだ。以前一度行って見たけど、それなりの迫力はあったが、まさかナイアガラだなんて、ましてや東洋などというのは恥ずかしすぎる話であろう。中国には行ったことがないけど、この程度の滝など幾らでもあるのではないか。ナイアガラを見たことがない人が、自己中心的に発想するとこのようなことになる。落語・お笑いの世界だなと思った。この滝見物には不愉快な思い出がある。それは、見物のための駐車場が、全てといっていいほど土産物屋などで占められているということだ。土産を買えば無料などと書いている所もあった。あまりにも滝に依存して見物者の懐を狙いすぎるのではないか。公共の駐車場がどこにあるのかもはっきりしない。今回も寄って見ようかなと思ったのだが、やっぱり以前と同じような雰囲気なので、パスすることにした。

しばらく走ると、尾瀬に行く道と別れることになる。尾瀬は左側の道を行って、どこか車をプールしておく駐車場に入り、そこから歩くということになるのであろう。自分の心の中では、依然として霧ケ峰のイメージの方が強いので、まだ尾瀬を訪ねる気にはなれない。尾瀬は「夏の思い出」という歌がとりわけて有名化するに貢献しているように思う。あの唄は尾瀬を実力以上に憧れの地に仕立て上げている感じがする。しかし、批判する気持ちはない。尾瀬が少し可哀想と思うだけである。

次第に急な登りになってゆく坂道をしばらく走ると、山の中に別荘地のような場所が出現する。丸沼高原スキー場である。坂道続きを1時間近く走って、車もシンドそうなので、少し休むことにして、ロープウエイの下の駐車場に車を停める。もうこの辺りは1,500mを越えているのだろうか。かなり涼しい。ロープウエイ乗り場まで歩いてみた。案内板に「只今シラネアオイ開花中」とあった。シラネアオイは憧れの花である。確か日光白根山が最初に発見された場所ではなかったか。是非行って見てみたいなと思った。今回は何の準備もしておらず、思いつきで行くのは無謀で危険なので思いとどまった。ロープウエイでかなり近くまで行けるらしい。何としても一度は訪ねなければと、思いを新たにしたのだった。

再び車に戻って出発。金精峠の手前に菅沼という小さな湖があり、ここでちょっと止まって写真などを撮る。良い天気で、春ゼミなのかヒグラシのだみ声のような鳴き声が山の中から伝わってきた。その後は金精峠の下のトンネル潜って、そこから出ると栃木県の日光市である。日光市は平成の合併で日本有数の面積を持つ市となった。飛騨の高山市には及ばないけど、行政単位としてはその広さは3本の指に数えられるのではないか。何しろトンネルを抜ければもう日光市内なのである。男体山が際立って見えて、やがて下るにつれて光る中禅寺湖も見えてきた。大きな景色である。

   

金精峠を越えて下る坂からの景観。正面は男体山、湖は中中禅寺湖。

坂を下りてしばらく走って、平らになったところが戦場ヶ原である。ここで少し休憩を取る。戦場ヶ原の湿原には様々な植物が見られるのだろうが、今の時期ニッコウキスゲなどはまだ蕾(つぼみ)にもなっていないようだ。歩くのは止め、写真などを撮った後、再び下って、竜頭の滝を覗く。左右二つの川からの流れが小さな滝となって合流している。竜頭という名称は、滝の形ではなくここに竜頭観音が祀られていたところから名付けられたらしい。そのようなことが案内板に書かれていた。竜頭(りゅうず)というようなものに変身する観音様も居られるのかと、珍しさを感じたのだった。ここには大勢の観光客が押し寄せていて、駐車場も満杯近かった。写真を撮った後は、中禅寺湖湖畔をしばらく走って、華厳の滝の上の方にある立木観音の傍の駐車場に車を入れ、しばし中禅寺湖の景観を味わう。男体山は半分以上が雲に隠れていて、時々頂上が見えそうになるのだけど、もう少しという所で又見えなくなってしまう。晴れの天気だけど、なお山の上の方は不安定な天候なのだろう。湖面を走る遊覧船などを眺めながらしばらく時間を過ごす。中禅寺湖というのは、周囲が25kmにも及ぶ大きな湖で、水面の標高が1,269mもあるというから驚く。筑波山の山頂よりも400m近くも高いのだ。男体山の火山爆発で出来た堰止(せきとめ)湖ということだが、その時代は地獄絵図そのものであったに違いない。いまは穏やかにその男体山を映す鏡となっている。

11時半、出発して本格的な下山に入る。華厳の滝見物はパスして、いろは坂を下り続ける。まあ、よくもこのような道を作ったものよ、という感じである。20分ほどかかって下りを終え、日光東照宮を脇に見ながら市街を通過する。下界は雨だった。東照宮は一昨年だったか来訪しており、パスしても未練はない。日光から代わったR119を少し走ると、日光杉並木があった。しばらく杉並木に沿って走っていると、公園の駐車場があったので、車を停めしばらく杉並木の中の道を歩くことにした。先ほどまで降っていた雨も上がって、歩くには好都合だった。

日光杉並木は有名だが、実はまだ一度もその中を歩いたことがない。いつもバスや車の中で見るだけで、確かに杉の巨木だというのは判るけど、傍に行って実感することはなかった。実際にそこを歩いてみると、実に清々しく、人間などというものは、これらの植物たちの力によって生かされているというのが良くわかるように思った。家康公の墓参というか、神になった人の参詣道に杉を植えるという発想は、どなたが気づかれたのか知らないけど、東照宮というお宮以上に、今の世にその力を伝えているように思う。この文化遺産は自然遺産でもあり、大切に保存されなければならないなと思った。

   

日光杉並木の景観。鬱蒼と繁る大木の醸す空気は、人が安心して生きられることを立証しているかのようだった。

杉並木から別れて、大田原に向う道に入ってしばらく行くと大型スーパー店があったので、ここで昼食休憩とすることにした。今頃は郊外に広い駐車場を持つスーパーが続々と造られており、我々も時々休憩地としても利用させて頂いている。ちょっと買い物をと中に入ったら、書籍売り場があり、そこにAC誌が置いてあった。早速購入する。先日の御所の記事が乗っていたけど、邦子どのの期待する写真などは気づかなかった。ところが、後になって邦子どのが二人とも載っているのを見つけ出したのだった。虫眼鏡で見るとそれらしき人物が写っていた。それにしても、いやあ、邦子どのの執念のようなものには恐れ入りました。コロッケなどを食べていると、一発雷が鳴って再び雨が降り出した。どうやら下界の方の天気は不機嫌らしい。早々に食事を済ませて出発する。

雨の中、R461を矢板に向って走り、R4に出て直ぐ右折して県道に入り、大田原市の佐久山という所にある与一温泉ホテルというのを目指す。R4を曲がって県道に入った頃から猛烈な雨となった。昨日の白沢での豪雨にも引けをとらない酷さである。あっという間に側溝から溢れた水が、道路の半分を占領して流れるといった状態である。温泉まで無事辿り着けるのかと、早くも邦子どのは大げさな心配を口にしていた。まさか水に沈むこともなかろうと、とにかく道を間違えないように、安全運転を心がけ前進する。その雨の中を20分ほど走り続けて、温泉に辿り着く。樹木に囲まれた静かな雰囲気の宿だった。ホテルと名付けられているように、和風ではなく洋風の建物だった。とにかく猛烈な雨なので、しばらく待って小康状態となってから温泉に出向く。

なかなか良い湯だった。100%掛け流しの五つ星の温泉で、「源泉湯宿を守る会」というのの会員だとか。45.5℃の源泉が毎分330Lも湧出しているという。浴槽は内湯も露天も皆源泉掛け流しというから、温泉好きの人にはたちまちお気に入りの湯となるに違いない。泉質はアルカリ性単純泉で、入るとすべすべして女性が喜びそうなお湯である。まだ少し降っている雨を気にしながら、露天風呂にしばらく浸る。今日で連続4日間も無料の優れた温泉に入ることが出来、真に満足である。お湯それぞれの特徴があって、どれも甲乙付け難い。皆名湯だなと思った。ここはもし温泉博士がなかったら来ることの無い場所であろう。兄弟会の宿にもいいなと思った。

風呂を出る頃までには雨は上がって、駐車場を取り巻いて植えられているもみじの若葉から雨の残した水玉が滴(したた)り落ちていた。これからは隣のさくら市にある喜連川の道の駅に寄り、その後今夜の泊まりを予定している芳賀の道の駅に向うつもりである。

喜連川には思ったよりもかなり早く到着した。10kmくらいしかなかったのではないか。道の駅の売店などもまだ開いていたので、ここで名物の温泉パンなどを買う。温泉饅頭というのはどこの温泉でも定番だが、温泉パンというのは珍しい。喜連川の温泉パンは、普通のパンと違って、ずっしりと重い。ドイツ菓子風のなかなか風格のある食べ物で、レンジで温めたりしても美味なのである。ここを通るときは必ず寄って買求めることにしている。この他この地では温泉を引いた地熱を利用した、温泉ナスと呼ばれるのが作られており、冬を通しての栽培が行なわれていて、このナスが又美味なのである。今頃の季節では、温泉ナスはもう終ったのかも知れない。明日、芳賀の道の駅で野菜を買うことにしているので、温泉ナスは買わないことにした。

喜連川からは40分ほどで芳賀の道の駅に到着。駅近くになって妙に渋滞しているなと思ったら、何と交差点で事故があったらしく、レッカー車が来て車を積んでいるその向うに、へし折れた信号機のコンクリート製の柱の下に軽自動車が潰されかかっていた。信号は倒れたままでちゃんと動いていたが、なんとも珍妙にして危ない風景であった。もし我々が運悪く通りかかっていたらと思うと、ぞっとした。どうやらレッカー車に積まれていたのは信号機を倒した車らしく、その後に通りかかった軽自動車が倒れてきたコンクリート製の柱にやられたということらしい。それにしてもかなりの渋滞となっているのに、警察も来ていないというのは一体どういうことなのだろう。何だか、今日の終わりの出来事としては、あまり見たくないものを見てしまった感じがした。

      

 交通事故現場。軽自動車はとんだ災難だった。信号は青になっているけど、本当に大丈夫?ようやく警察も来たようだ。

ここは温泉も隣接して作られており、夜間にトラックも結構多いので、騒音を避けるべくトラックが来ない場所を選んで泊まりの準備をした。久しぶりにTVでも見ようかとセットしたのだが、さっぱり映らない。何か問題があるのかもしれない。帰ったらチエックする必要があるようだ。何もすることがないので、今夜も早めの就寝となる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

甲信越ちょっと旅:第6日

2009-06-26 02:28:40 | くるま旅くらしの話

第6日 <6月16日()

道の駅:北信州やまのうち →(R292R117)→ 道の駅:ふるさと豊田(中野市)→(R117)→ 道の駅:花の駅千曲川(飯山市)→(R117)→ 道の駅:信越さかえ(栄村) → (R117R353・県道) → 松之山温泉:ナステビュウ湯の山(十日町市) → (県道・R353R253) → 道の駅:まつだいふるさと会館(十日町市)→ (R253R117) → 道の駅:クロス10十日町(十日町市)→ (R117R253R17・県道) → 道の駅:たくみの里(みなかみ町)→ (R17R291) → 道の駅:月夜野矢瀬親水公園(みなかみ町) → (R291R17R120) → 道の駅:白沢(沼田市) (泊)     <220km

今回の気まぐれ旅も終わりに近づいている。来週から邦子どのの介護当番が始まるので、遅くとも18日までには帰宅しようと思っている。今日は未だ行ったことの無いエリアの下見をした後、上州に抜けて沼田の先にある道の駅:白沢に泊まろうと考えている。下見の中では、温泉博士に載っている松之山温泉に入るのを楽しみにしている。何だかんだ言いながら、気がつけばいつの間にか温泉めぐりのようなことになってしまっているようだ。やっぱり年寄りには温泉が一番の楽しみとなってしまっているのかもしれない。

早朝ものすごい騒音に外に出てみると、りんごの消毒をするダンゴ虫みたいな作業車が、隣接するリンゴ園の中を煙のような霧を吹いて動いていた。この作業車には、青森などの旅先でも毎度お目にかかっているけど、いつも思うのは、あれを運転している人は良くもまあ無事で生きておられるものだということだ。虫が駆除される前に運転している人そのものが駆除されてしまうのではないか。たちまち消毒薬の臭いが流れてきて、異常過敏な邦子どのが体調不良を訴えたので、すぐさま道路の反対側にあるもう一つの駐車場に移動した。しかし、100mほど移動しただけではダメらしく、又この隣もりんご畑であり、新たな消毒薬散布車がやってくるかもしれないので、急遽この道の駅を離れて、もう一つ近くの道の駅:ふるさと豊田の方へ向うことにして出発。落ち着きの無い早朝からの出来事だったが、生命にも関わることなので、仕方が無い。豊田の道の駅には20分ほどで到着。こちらの方は、薬害は大丈夫のようである。まだ6時半だった。ここでゆっくり朝食とする。それにしても、あの消毒ぶりを見ていると、りんごを食べるのには勇気が要る感じがする。そのようなこともあって、最近はりんごを殆ど食べない。我が家の年間消費量は10個にも満たないのではなかろうか。どうも白っぽい液の乾いた粉らしきものなどが残っているのを見ると、あの赤いダンゴ虫のような散布車を思い出してしまい、買う勇気が萎えるのである。

朝食の後もゆっくりして、出発は9時近くになった。この間、先ほどの移動中にエンジンオイルの警告灯が点滅したので驚き、急遽オイルの補給をする。ディーゼルエンジンはオイルの消損が多いというので、要注意である。オイル交換時にたっぷり入れて貰うように頼んでいるのだが、たっぷりの意味が人によって受け止め方が違うのかも知れない。常に補給用のオイルを持っているので、よほどのことが無い限り、焼損などという事件は起きないと思う。先ずはR117をのんびりと北上することにする。

千曲川に沿っていい気分でしばらく走ると、道の駅:花の駅千曲川というのがあった。勿論初めての駅である。ちょっと覗いたが、地元の優れた農産物などが数多く並べられていた。まだ新しい駅なのか、農産物を運び入れる農家の人たちや店の人にも活気が見られた。てんぷら用にズッキーニの花が売っているのを見て、邦子どのはかなり関心を持ったらしいが、今回は天ぷらの用意をしてこなかったので、見送りとなった。自分は、濃い紫色の花を咲かせているホタルブクロがあったので、それを一鉢買った。家に帰って大事に育てたい。思いがけなく珍しい野草などが手に入るのも、くるま旅の楽しみである。大いに満足して出発。

千曲川というのは、どこから信濃川に変わるのだろうか?どうも良く解らないけど、長野県では千曲川、新潟県に入って信濃川となるらしい。どちらも著名な同じ川なのに、県が変わると呼び方が違うというのは何だか変な感じだ。その県境にある長野県側の栄村の道の駅:信越さかえに立ち寄る。道の駅の直ぐ下が崖になっているようで、そこを千曲川が流れている。この川が300mほど隣の津南町に行くと信濃川となるわけである。しかし、信濃というのは長野県のことなのだろうから、新潟県なら越後川とでも言うべきではないか。ヒマなので、運転しながらつまらぬことを考えたりしている。道の駅:信越さかえは、生憎と休みだった。何か山菜の類はないかと期待していたのだったが、残念である。

   

鮮緑に染まる千曲川。新潟県との県境の栄村付近のこの辺りは千曲川だが、あと数百メートル足らずで信濃川となる。

津南に入ってしばらく走り、十日町市に入って直ぐ左折して信濃川を渡り、山道をしばらく走って松之山エリアに入り、温泉の方に向う。この辺りは雪が深いと聞く。津南町は山菜の名所でもある。春先に一度来て見たいと思っている場所でもある。今日通過して見た感じでは、相当の山の中のようで、さぞかし山菜は豊富に違いない。そのようなことを考えながら松之山温泉の日帰り入浴施設の「ナステビュウ湯の山」に到着する。良い天気で、かなり暑くなってきている。温泉に入るのには少し場違いな時間でもある。このところの入浴は、殆どが日中になっているけど、今日は又なんと10時20分である。この時間に風呂に入るのは初めてのような気がする。さすがに1時間も入るのは無理で、早めに出ることとなった。良い湯だった。今度はもっとゆっくりと、ここに泊まるつもりで来訪したい。この近郊は魚沼の米どころだが、その一部を担う棚田が多くあるらしい。邦子どのはその写真を撮りたいと話していた。来年辺りにもう一度来たいなと思いながら、温泉におさらばしたのだった。

松之山温泉からは、少し先にある道の駅:松代ふるさと会館に向う。このあたりは平成の大合併で、皆十日町市になったようである。道の駅:松代ふるさと会館は、ほくほく線発祥の地だとかで、鉄道の駅と一緒に造られていた。ほくほく線というのは、あまり良く知らないけど、JRではないらしい。六日町と上越市とを結ぶ60kmほどの区間で、東京方面からこの鉄道を経由するとかなり時間が短縮されるとかで、JRの特急が走っており、それで潤っているらしく、黒字路線だとか。これは後で調べたことではある。発祥の地というのはどういうことなのか良く解らないけど、立派な石碑にそう書いてあった。10分ほどで直ぐに出発。

松代の道の駅を出て少し行くとトンネルが幾つかあり、少し下って平野となり、再び信濃川に架かる橋を渡ると、そこが十日町市である。ここで昼食にすることにして、道の駅:クロス10十日町に車を停める。今日の昼食は今回二度目の外食で、この地の名物であるへぎそばを食べることにした。名物なのは知っていても、自分としては始めての土地であり、へぎそばも食べたことがない。皆、邦子どのから聞いた話である。邦子どのは何年か前、フォークダンスのクラブの団体旅行でこの地を訪問したことがある。道の駅の駅舎の中にもその蕎麦屋さんの店があり、市内の様子が判らないので、とりあえず空いてきた腹を満たすべく、そこに入ることにした。へぎそばというのは、そばの中に海草を入れて作るらしく、少し色が緑がかっている。健康に良さそうだ。今まで蓬(よもぎ)でも入っているのかと思っていたのだが、見当違いだった。2人前が大きな木枠に入って出てきて、かなりのボリュームだった。食べてみると、美味い!蕎麦だけの味とは少し違うけど、海草が蕎麦を引き立てている感じで、滑らかで良い食感である。若いときなら一人で全部を平らげるに違いないと思った。しかし今はこれで十分である。

   

へぎそば2人前。二人では少し物足りないが、一人では多過ぎるといった感じの分量である。あと1列くらい増やしてくれればいいのにと思ったりした。美味なり。

蕎麦を食べた後は、30分ほど別行動で好きな所を見ることにする。自分は駅舎から出て、市内のアーケード街を歩いてみた。これらのアーケード街は、冬の間の雪に対処するために作られているのであろう。メインの商店街に連なって作られている。以前栃尾市(今は長岡市)を訪れた時、それらは雁木(がんぎ)と呼ばれていたのを思い出す。栃尾ではかなりの昔から木製で作られていたとか。十日町も雪の深い所だから、このようなものが必需品なのだなと思いながら、商店街を往復した。この街の商店街は、シャッター通りにはなっていないようだった。雪と車社会との関わり合いを垣間見た感じがした。13時半、三国峠の方に向け出発。

R253を六日町方面に向って走ると、やがて長岡と東京を結ぶR17にぶつかる。それを右折して塩沢・石打などスキー場で有名な場所を通過する。このあたりは合併して南魚沼市となった。少し走って湯沢町の宇佐美で給油を済ます。石打も湯沢も、スキーに縁のない自分は、未だ来たことが無い場所である。東京近郊に住んでいて、スキーをやる人ならば、誰でも一度くらいは来ている所なのだと思う。湯沢などはすっかり都市化されていて、冬のリゾート地の賑わい振りが見える感じだった。

川端康成の小説「雪国」の書き出しの文章は有名だが、自分たちの今日は、「国境の長いトンネルを抜けると雨だった。」ということになる。坂を登って三国峠の下のトンネルを潜って群馬県側に出ると、雨降りの世界がそこにあった。方向も天候も「雪国」とは違うし、乗っている乗り物が列車ではなく車であるというのも、時代の変化を映しているなと思いながらの運転だった。九十九折れの長い坂を下って、猿ヶ京温泉を過ぎると、道の駅の案内板が現れた。R17からは右折して少し中に入った所である。「たくみの里」という駅名である。初めて聞く名なので、ちょっと寄ってみることにした。

道の駅:たくみの里は、なかなか魅力的な、特徴のある場所だった。様々な体験工房などがあり、それが集落全体に亘っている感じがして、ちょっと寄ったくらいではその良さが十分判らないと思われるほど、スケールの大きな文化交流地のようである。短い時間だったけど駅舎付近をざっと歩いてみて、今度来る時はここに数日滞在して何か体験してみるのもいいかなと思った。豆腐作りや蕎麦打ちなどの体験の他にこんにゃく作りなど、農村の手工芸を体験できるということである。通過するだけの、仮眠するだけの道の駅とは少し違う雰囲気があり、とても親近感を覚えたのだった。

その後は、再びR17に戻って、少し先にある道の駅:月夜野矢瀬親水公園も覗いてみた。ここは駅舎だけではその良さがわからない感じがした。親水というのは利根川の水に親しむということなのだろうけど、駅舎からはそのような気配は感じられない。16時近かった所為もあり、農産物などもあまり魅力を感ずるようなものは見出せなかった。直ぐにR17に戻り、沼田市を目指す。もうこの辺りまで来ると、山が少し遠くなって、平地が増えてきている感じがする。利根川の浸蝕がこのような地形をつくり始めているのかもしれない。沼田市の郊外で利根川を渡って、日光へ向うR120へ入る。沼田市外を抜けて少し走ると間もなく道の駅:白沢である。水上町辺りでは止んでいた雨が、沼田市街に入る頃から再び降り出し、道の駅に着く頃は篠つく豪雨となった。ワイパーを高速にしても追いつかないほどである。まだ17時前だというのに、まるで冬の季節のように暗闇がかっていた。この旅の間、必ずしも良い天気ばかりではなかったけど、これほどの酷い降り様は無かった。

とにかくここに錨を下ろし、夜を迎えることにする。この道の駅は温泉もあり水も汲めるしゴミ箱もある。そして販売されている野菜なども新鮮で価格も良心的である。くるま旅の者にはありがたい場所である。ファンの人も多いのではないか。我々もファンの一人であり、何度かお世話になっている。もう一度温泉に入ってもいいかなと思っていたけど、この雨では外に出るのも大変である。それに温泉のはしごというのは、贅沢すぎるかなと風呂は思いとどまり、早めに休むことにした。その後少し小止みとなった時間も合ったが、深夜近くまで断続的に豪雨が天井を叩いて、大荒れの天気だった。明日は金精峠を越えて日光へ出るつもりでおり、大丈夫かなとの不安を抱えた一夜だった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

甲信越ちょっと旅:第5日

2009-06-25 04:52:26 | くるま旅くらしの話

第5日 <6月15日()

道の駅:マルメロの駅ながと → (R152・県道)→ 別所温泉(北向き観音・臨泉楼柏屋別館温泉~上田市)→(県道・R18)→ 道の駅:オアシスおぶせ(小布施町)→(県道・R403R292)→ 道の駅:北信州やまのうち(山ノ内町)(泊)   <101km

さて、今日はどうするか。昨日の邦子どのとの相談で、先ずは近くにある別所温泉に行き温泉に浸った後、小布施を訪ねることにし、その後は近くの道の駅に泊まって、翌日は未だ行ったことがないJR飯山線やほくほく線の走るエリアの下見をして、越後湯沢から三国峠のトンネルを潜って日光に抜けて帰宅するという大雑把なコースを決めたのだった。今日のメインは別所温泉と小布施である。

別所温泉は、ここからは1時間足らずの近距離にあり、あまり早く行ったのでは旅館さんも営業しておられないので、出発はゆっくりで良い。10時過ぎまで過すことにした。この道の駅にも水を汲む場所が無く、ゴミを捨てる場所も無い。温泉があり、何店かの地産物や土産などを売る店はあるのだけど、来訪者は少なくあまり活気があるようには見えなかった。構内にコンビニがあったので、そこで買い物をした際に水を汲む許可を貰って、散水用の蛇口から少し水を分けてもらって水槽を満たした。9時過ぎ構内の端の方にある農産物の売店で、ご老人たちが野菜などを持ち寄って売っている店があるので覗いたら、割と良い野菜が廉価で売られていたので、にんにくや芹(せり)など何点かを買うことにした。爺さんばあさんの他若い人はいないようで、この道の駅では野菜の販売などには大して力を入れておらず、老人運営ショップという感じだった。お婆ちゃんが今採って来たという大束の芹は、少し硬い感じがしたが、おばあちゃんの丹精に応えようと1把買い入れ、時間があるので早速茹でて冷蔵庫に収納した。これを酢味噌和えにして食べれば、今夜の肴の一つとなる。空いた時間があれば、野菜などのこのような作業はためらい無く行なっておくことが車旅では大切に思う。

   

道の駅:マルメロの里ながとの農産物販売所。真に質素で、老人任せであり、町などが力を入れていないことが判る。でもご老人たちは楽しそうだ。(私も老人である)

10時40分別所温泉に向けて出発。別所温泉へは、自分は一度来たことがあるけど、温泉には入ったことが無い。邦子どのはグループの旅で泊まったこともあるらしい。山の方から行くコースは止め、丸子町の方からの県道を通って行こうと町に入ったら、その予定していた道路が工事中で橋を渡れないのである。丸子町を流れている依田川という千曲川の支流を渡らないと別所の方には行けない。迂回路があるというので、その案内に従って進んだのだが、橋を渡ることは出来ず、再び元のR152に戻ってしまった。ナビも無いし、地図では細かいことがわからないので、じゃあ止めにして小布施に向おうかと少し走ったら、別所温泉への案内板がある交差点にぶつかったので、再び思い直してその道を辿ることにした。何という県道なのか判らなかったが、結局その道が別所に行くには一番よかったらしく、その後は迷いもせず1時間足らずで到着することが出来た。

別所温泉といえば、温泉の他で有名なのは、何といっても北向観音であろう。北向観音は、長野の善光寺と向き合う形で建てられているそうで、善光寺とセットになってのお詣りが推奨されているらしい。つまりどちらか片一方では片詣りとなってしまうということで、まあ、昔の人は智恵があったものだなと思う。善光寺の人気が高まれば、北向観音の人気も高まるというわけである。その北向観音の下にある駐車場に車を停めて、早速参詣する。

   

北向観音の佇(たたず)まい。本尊の千手観音は、北斗に位置し、善光寺本尊の阿弥陀如来と相対しているとか。

なかなか貫禄のある境内の雰囲気だった。境内には樹齢千年を超える桂の老樹があり、愛染桂の名で親しまれている。今も尚若々しく青葉を目一杯つけて、元気な姿を見て安心した。銀杏の木などの老木は多いが桂は珍しい。北海道の大雪山の麓に、「森の神様」と呼ばれる、やはり千年を超える桂の老樹があるが、ここの桂は彼よりはずっと恵まれていると思った。但し、人間どもがやたらにやって来て足元を踏みつけることを除けばの話である。

   

愛染桂の枝ぶり。とても千年以上も経っているとは思えぬ、若々しい青葉を目一杯つけて、境内に聳(そび)えていた。

参詣の後は、温泉博士に載っている「臨泉楼 柏屋別館」という老舗の温泉宿に出掛ける。12時前で、旅館は未だお客さんの受け入れ準備中のようだった。それでも掲載内容では11時からとなっているので、訊ねたらOKだという。滅多に入れそうも無いような貫録のある建物と庭だった。いつも無料で温泉に入らせて頂くのは、何だか申し訳ないような気がしているのだけど、このような立派な宿でも入れさせて頂けるのはまことに有難いことだ。案内頂いて浴場へ行ってみると、驚いたことに浴槽の洗い場が畳なのである。勿論本物の畳ではなかったけれど、このような洗い場は初めてだったので、何だか和風過ぎて落ち着かない感じもした。寝転がるには好都合かも知れないけど、自分にはそのような趣味は無い。露天風呂はもみじの若葉に囲まれていて、重なった葉の間から空が覗いて見えていた。若葉も素晴らしいが、秋の紅葉の時もいいのだろうなと思った。泉質も良く最高の雰囲気の温泉だった。自分の他に誰も入る人は無く、全くの貸切で無上の恩恵を味わった気分だった。

   

別所温泉:臨泉楼柏屋別館の温泉。洗い場は畳、ガラス窓の向こう側が露天風呂となっている。糖尿に効くというので、お湯を2~3杯飲んでみた。(これが後でホンとに効いた様だ) いい湯だった。

別所温泉には、誰でも150円を払って入れる外湯という温泉施設もある。石湯、大師湯、大湯の3ケ所がそれである。こちらの方にも入って見たいと思ったが、それはこの次の機会にすることにした。

車に戻って、邦子どのの帰るのを少し待った。昼食を作るのが面倒になり、邦子どのがおやきを買ってきたのでそれを食べて済ます。その後、邦子どのがせっかく来たのだから、近くにある安楽寺を見たいという。ここには変った三重塔があるらしい。八角の形をしており、それは国宝でもあるという。その写真を撮りたいというので付き合うことにした。数百メートル歩いて、森の中の安楽寺へ。正式には安楽禅寺というらしい。三重塔は有料なので、邦子どのだけが中に入っていった。自分はお寺さんが拝観料などといって衆生からお金を取るのは邪道だと思っているので、よほどの好奇心を覚える場合以外は中に入る気がしない。そういうわけで、未だ京都の殆どのお寺を見たことが無い。それでいいと思っている。このひねくれは死んでも治らないと思う。

30分ほど待っていると邦子どのが戻ってきた。あまり良い写真が撮れなかったらしく、不満げな顔だった。光や撮影場所が思うように行かなかったらしい。写真撮りの理屈もカメラの性能も彼女の方が自分よりはずっとレベルは上だ。

   

安楽寺:国宝八角三重塔(邦子撮影)どう見ても四重塔に見えるけど、解説によれば、一番下の部分は屋根ではなく、庇(ひさし)に相当する裳階(もこし)であるという専門家の見解から、裳階付き八角三重塔として認定されたということである。

自分の写真は、デジカメ日記の記録に過ぎず、ブログなどに掲載できればそれで良いと思っている。車に戻って、長野方面に向って出発。

上田の市街を通らないで済んだので、車の流れは順調である。邦子どのが、中途半端なお昼だったのでやっぱりお腹が空いたという。偶々いつもの中華そばのファミレスがあったので、そこに入ることにした。オーダーをして待っている間に、自分だけが近所の本屋にAC誌の7月号が出ていないかと見に行く。しかし、どうやら入荷は未だらしい。というのも、先月御所で行なわれたキャンカーの集まりが、今月号に掲載されるはずだからである。もしかしたら自分たちの写真などが載っているかもしれないというのが、邦子どのの最大の期待・関心事なのである。残念でした。(後で購入したのを見たら、何と載っていたのでした)

長野市内に入って、善光寺にもちょっと寄って行こうかと考えていたのだが、街の中は結構渋滞気味なので寄るのを止めることにし、そのまま小布施に向う。小布施はちょっと変った雰囲気の町だというのを聞いている。以前、町おこしの事例として、アメリカから来られたセーラーという若い女性の方の活躍のことが書かれていた本(「セーラーが町にやってきた」)を読んだことがあり、一度訪ねてみたいと思っていた。小布施には上信越道のハイウエイオアシスあるが、以前そこに寄った時に、小布施名物の栗を使った菓子などを買ったという縁しかない。どんな町なのか、できれば時間をかけて歩いてみたい。

小布施の道の駅に近づいた頃、急に腹が差し込んできて、トイレに行きたくなった。自分には、このような事件がよくある。今回は先ほどの温泉のお湯の飲みすぎなのかも知れない。ま、便秘になって何日も出るものが出ないよりは、早く出たがって困る方が、身体のためには良いような気がする。勿論一番良いのは「快」がつくものでなければならないけど、…。七転八倒直前の状態でどうにか間に合って小布施の道の駅のトイレに駆け込む。やれやれ、参ったぜ。用を足した後は、町の中心街へ。

この町の中心街へは初めての来訪だったが、雰囲気としては彦根のオールドニュータウンの京橋通りのような感じだった。要するに現代という時代の中に、江戸の面影を残した昭和初期や大正の現実が残って息づいている、といった感じである。しかし、残念なことに殆どの店や施設がもう閉店や閉館の時刻になっていて、駐車場に車をおいてしばらく歩いてみたのだったが、無反応という感じだった。古いものが残っていてもやっぱりそこに生きた人間がいて動いていないとダメなのがっ良く判った。セーラーさんは未だこの町で活躍されてるのだろうか。彼女が拠点とした酒蔵もあったが、閉まっていてはどうにもならない。この次はもっと早く来て、じっくりと町の中を散策することにして、今回は下見の下見ということで引き上げることとした。

   

小布施の町の景観。古い町の佇まいの中に、カブトムシなどの巨大でリアルなオブジェが迎えてくれた。なんとなく懐かしさと親しみを覚える町のムードである。

小布施から近い道の駅は2箇所あるのだが、泊りには湯田中温泉のある山ノ内町の道の駅を選んだ。といってももう今日は温泉に入る予定は無い。ただ泊まるだけである。30分足らずでその道の駅に到着。道の駅は志賀高原に向うなだらかな傾斜地に造られていて、少し斜めなのだが、寝るのに支障があるというほどではない。ここも水場もゴミ捨ても無く、一晩限りの仮眠の場所という感じの雰囲気だった。スピードを出して走る車が多くて、舗装の切れ目を通過するときの音が耳障りだったが、いつの間にか眠ってしまった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

甲信越ちょっと旅:第4日(その2)

2009-06-24 04:00:48 | くるま旅くらしの話

<6月14日(日)その2>

霧ケ峰に向う途中の、和田峠を越えた辺りから雲行きが次第におかしくなり、降り出した雨が本降りになったかと思うと、ものすごい豪雨となった。八島湿原の側を通るころは、湿原を散策されていた人たちが、お気の毒にも、ずぶ濡れになって駐車場に戻っている姿が目立った。せっかくの湿原探訪もツツジもこの雨ではどうしようもない。道端に時々現れる、レンゲツツジの橙色の花を見つけては車を停め、写真を撮ったりした。とにかく酷い雨なので、車の中からカメラを構えるしかないのである。14時50分、霧ケ峰のドライブインに到着。雨も一息ついたようなので、我々も一息つくことにした。

霧ケ峰に最初に来たのは、就職して上京し、2年ほど経った24歳の頃だったと思う。当時はまだまだ車社会からは遠い時代で、マイカーなどは特別な階層の人たちだけの話で、現在のように誰でもが車を当たり前に所有するという時代ではなかった。東京新宿から鈍行に乗って下諏訪まで来て、そこからバスに乗って山を登り、歩いて山小屋まで来て2~3日ご厄介になったのである。下諏訪の駅前からのバスの乗車時間の長かったこと。山間の急な坂道を1時間以上かけての来訪だった。バスを降りたときは、どの方向へ行けば山小屋があるのか見当もつかず、晴れていたのを幸いに地図を頼りにようやく辿り着いたのだった。名物の霧が出ていたら、途方にくれたに違いない。

7月半ばのその頃は、霧ケ峰はニッコウキスゲの真っ盛りの時期で、霧の中から現れた一面の黄金色の世界は、初めての私にとっては夢を見るような清新な感動の世界だった。ヒュッテ御射山というのがその宿で、そこのご主人には霧ケ峰のあれこれをいろいろと教えて頂いたのだった。霧と風のもたらす変幻の世界に浸るのは、新人社会人を何とか抜け出そうとしていた自分にとって、浮世の憂さを忘れることが出来る最高の時間だった。終日車山の麓を歩き回り、高原の花畑の中で昼寝をし、霧に脅かされて目覚めたりしたのを、今でも良く覚えている。私にとっての霧ケ峰は、南アルプスなどの登山とは違った、青春時代の癒しの場所だった。

それから40年以上が過ぎて、今はこのように自分でさえも旅車に乗って簡単にここまで来られてしまう時代となった。駐車場には雨宿りをしていた、たくさんのバイクと車が並び、その喧騒は広大な草原すらも吸収するのが難しいのではないかと思うほどである。40年前では想像も出来ない世界である。10年ほど前、久しぶりに霧ケ峰に来て山小屋で一夜を明かし、八島湿原を一周したのだったが、その時の印象は、40年前とはかなり違って、霧ケ峰のスケールが少し小さくなり、湿原の植生も縮小してしまったような印象を受けたのだった。ニッコウキスゲもかなり数が減ってしまったし、その外の植物も何だか元気が無いような印象を受けたのだった。ヒュッテ御射山は健在だったが、代替わりがしており、どなたが経営されているのか、昔を思い出すのが難しかった。

さて、今日はといえば、何しろいつ又降ってくるか判らない空模様なので、高原を歩くのは無理なのである。今はレンゲツツジの開花期に入っているはずで、歩けばツツジの群落を楽しめるはずなのであるが、ドライブインの周辺の草原には、わずかなツツジしかなく、それらしい株があっても花をつけるどころか、葉もつけていない。黒っぽく点在しているだけなのは、もう枯れてしまっているのだろうか。少し寂しい風景だった。ニッコウキスゲの開花はもう1ヶ月ほど後になるのであろう。草原はどんよりとした黒い雲の下にだだっ広く広がっているだけだった。

   

レンゲツツジ近影。霧ケ峰には、このツツジの株の大群落がある。

しばらく休んだ後、白樺湖の方に向う。これからビーナスラインを走って終点まで行き、大門峠からR152に入って山を下り、立科町の権現の湯という温泉に入り、そのあと道の駅:マルメロの里ながとに泊まるつもりでいる。

車山の側を通過する辺りから周辺の高原にツツジの株の群落が多く目に付くようになった。まだまだレンゲツツジは健在だった。山全体が真っ赤に染まりかけている箇所も望見された。レンゲツツジというのは、山ツツジなどと違って、葉も花も大振りで厚ぼったい感じのするツツジである。山ツツジの中に交ざっていると、ちょっぴり違和感を覚えるときがあるのだが、こうやって山全体がレンゲツツジの大群落となると、様相は一変し、山ツツジよりもスケールが大きくなる花の世界を感じるのである。天気がよければ歩けるのに、残念である。時々車を停めカメラのシャッターを切ったのだが、何しろ広すぎてこの世界を写すのは至難の業である。

   

レンゲツツジの群落の様子。向うの山に大群落があり、これから開花の最盛期を迎えようとしている。この写真では残念ながらその様子が良く判らない。見たい方は是非現地へどうぞ。

俗化が進む白樺湖を下に見ながら、大門峠からR152に入り、一気に山を下る。立科町というのは随分細長い形をした町だ。蓼科山から浅間山が良く見える辺りまでという地形である。権現の湯というのは、最初蓼科山の麓近くにあるのかなと思っていたのだが、地図で良く調べると、20km以上も離れた所にあるのである。観光案内図というのは、時々実態とは違うとんでもない内容があり、鵜呑みにするととんだ振り回しを喰らうことになる。ナビなし主義は、急な思いつきの行動の場合は、どうも不都合で、やっぱりナビを取り付けた方がいいのかなあと思ったりした。しかし、まだその気は無い。それにしても最近は書店の店頭に良い地図の本が並んでいない。それがナビの所為だとすると、これは真に残念至極な話である。便利というものは、人間の思考を堕落させることに、もっとしっかり気づいてもいいのではないか。ちょっと脱線。

ようやく権現の湯を探し当てて、到着。16時を少し過ぎていた。1時間足らずで霧ケ峰の世界から来てしまったことを、少し不思議な気持ちで受け止めた。諏訪の方から登って行くよりも、こちら側の方から行った方が霧ケ峰は楽なのかもしれない。今度行くときは浅間側から行くことを考えようと思った。権現の湯は勿論温泉博士の手形に紹介されている湯である。駐車場は殆ど満車で、少し離れた所にある第3駐車場というのに車を停める。準備をして温泉施設の建物への坂を登っていると、演歌を歌うおばさんたちの歌声が聞こえてきた。田植えも終って、近所の皆さんが集まっての慰労会なのかも知れない。車が混んでいるのは入浴だけではなく、宴会なども行なわれているからなのであろう。混雑を心配して入った温泉の方は、思ったよりも空いていてのんびりとお湯を楽しむことができた。もう雨は大丈夫のようである。

   

権現の湯。立科町の福利厚生施設の一つでもあるようだ。軽トラの人なども多く、気軽に温泉を楽しんでおられた。

温泉を出て邦子どのが戻ってくるのを待っている間、近くにパークゴルフ場のようなものがあるのに気がつき、行って見ると、「マレットゴルフ場」と書かれた看板があった。

   

マレットゴルフ場の看板。この向うの赤松林の中にコースが作られている。

赤松の林の中にコースがあり、ゲートボール用のスティックに似たものを持ったご夫婦がプレーを楽しんでいた。はじめてみるゲームである。パークゴルフから比べると開放感に乏しいなと思った。いろいろなゲームがあるものである。今年は北海道でパークゴルフを存分に楽しむつもりでいる。10分ほど経って邦子どのが戻ってきて、今夜の宿道の駅:マルメロの里ながとに向う。

途中からうっかり道を間違え、何だか変だなと思っていたら、丸子町(今は上田市)の方へ行ってしまっていた。良くやるドジである。少し遠回りとなってしまったが、一つ新しい道を覚えたと思えば、大して悔いは無い。この頃はそのように考えることにしていて、道に迷うことをあまり不名誉とか心配することがなくなってきた。これはいつでもどこでもその気になれば泊まれるという、宿を背負っているくるま旅ならではの恩恵だと思っている。間もなく道の駅に到着。丁度18時だった。

夕食が終って、一段落し、そろそろ寝床に入ろうかなと思っていると、携帯が鳴り、出てみると、なんと北海道に滞在している福島県の旅の知人Iさんからだった。お話によると、現在虫類(幕別町)の道の駅に滞在中で、今日は先日福井県の高浜町の道の駅で会った、Fさんが隣の隣に泊まっているとか。Iさんとは先月の旅先で、高浜町の道の駅:シーサイド高浜で一夜を共にし、一杯やって旧交を温めたのだったが、その翌日別れ際に滋賀県在住のFさんご夫妻(最初は奥さん)がやって来られて、くるま旅についていろいろ訊かれるので、我がSUN号の中に入って頂き、旅のあれこれについてほんの少し話をさせて頂いたのだった。その時、くるま旅の良さというか、体験をされるのであれば北海道を訪ねるのが一番ではないかとお勧めしたのだったが、そのFさんがもう早速北海道を回っておられるというのである。いやあ、驚いた。Iさんの話では、Fさんはあの出会い以降、小生のブログをお読みになり今はファンなのだという。これまた嬉しく、びっくりしてしまった。

Iさんが、これからFさんの車に行って電話に出て頂くからと気を使って頂き、その後ちょっぴりFさんと会話を交わしたのだった。Fさんの奥さんの話では、北海道は寒くて、どうにも我慢が出来ず昨日毛布を購入したとか。旅を楽しむというよりも、見当違いの気候に少し戸惑っておられるような印象のお話だった。今月中には家に戻られるとか、どうか気をつけて残りの旅を楽しんで欲しいなと思った。

北海道には梅雨が無いと思っていたが、6月の気候は内地とさほど変らず、7月には蝦夷梅雨というものがあるらしく、7月も下旬近くにならないと暑い日は少ないのである。以前、7月半ばでも防寒服を着ないと夜の外での宴会ができないということがあったのを思い出す。北海道は、夏のシーズンであっても寒さ対策だけはしっかりしておくことが大切である。これはやっぱり体験してみないとなかなか理解できない。Fさんにはそこまで話が出来なくて申し訳ないような気がした。それにしても、もう北海道に向って飛び出したという、その決断と実行のスピードには、大いに賞賛のエールを送りたい。これからいろいろ体験を積まれて、大いにくるま旅を楽しまれ、人生を豊かなものとして頂きたいと思う。

びっくりに次ぐびっくりで、感動がゆっくり眠りを遅らせてくれた一夜でした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

甲信越ちょっと旅:第4日(その1)

2009-06-23 01:49:57 | くるま旅くらしの話

第4日 <6月14日()

 富士見パノラマスキー場 → (R20)→ L.T.キャンパーズ工場(諏訪市)→(R20R142・ビーナスライン)→ 道の駅:美ヶ原高原美術館(上田市)→(ビーナスライン)→ 霧が峰ドライブイン(諏訪市) →(ビーナスライン・R152R142)→ 権現の湯(立科町) → (県道・R152) → 道の駅:マルメロの駅ながと(長和町)(泊)   <142km

昨夜は深更に雨が降り、慌てて起き出して外に置きっぱなしにしていた椅子とテーブルをしまい込むなど、飲みすぎの割には結構動き回って、もう一度寝なおして朝を迎えることとなった。雨は大丈夫らしいけど、もしかしたら今日行く予定にしている美ヶ原や霧ケ峰などの高原は、大雨の中なのかも知れない。ちょっぴり不安が頭を掠める。朝食の後、三々五々に後片付けなどをし、一同揃って記念写真を撮って解散となる。

さて、今日これからは気まぐれ旅である。今日はなつかしの霧ケ峰や美ヶ原を訪ねる予定でいる。その前に、販売社の社長から教えて頂いた諏訪のキャンピングカー会社に行き冷蔵庫を修理して貰うことにする。10時少し過ぎ諏訪のL..キャンパーズに到着。初めて訪ねる会社である。早速事情を話し修理に取り掛かって頂く。諏訪にこのような会社があることを初めて知った。自分はキャンピングカーという車にはそれほど興味が無い。新しい車がどんどん生まれているけど、自分が一番気に入っているのは今使っている車であり、それ以外は欲望や願望の対象とはしていない。修理が終るのを待つ間、久しぶりに店頭に並べられている新旧幾つかの車を見せて頂いたが、皆それぞれ良く工夫されていていいなと思った。

キャンピングカーは最近素晴らしい進化を遂げていると思う。そのすばらしさは、作る側と使う側が本当に一致していればいいと思うのだが、実際は一長一短で、なかなかぴったりというのは無い。だからどこかで妥協しなければならないのだが、自分の場合は、今の車がその妥協の結果一番だと信ずることにしている。残念ながら今年の3月不況の煽(あお)りを喰らったのか、それとも経営の失敗だったのか、我がSUN号のメーカーは倒産してしまった。この後は、真に信頼できる技術者のいる所に相談をするしかないと思っている。

私はキャンピングカーと旅車とは必ずしも同じではないと思っている。くるま旅に必要なのは旅車であって、キャンピングカーではない。旅車というのは、英語で言えばモーターホームである。モーターホームというのは何よりも安全性と居住性が重要と考える。居住性というのは、快食・快眠・快便が叶う場所であるかどうかということだと思う。これには各人の暮らしのスタイルがあるから、皆同じだとはいえないけど、くるま旅においては、特に快眠と快食が出来る環境が重要だと思う。そしてそれらに一番関わるのがいわゆるライフラインというものであろう。すなわち、エネルギー源としての電気やガスの設備であり、給排水機能がしっかりしていることが肝要だ。特に電源の確保というテーマがくるま旅においては最重要だと思う。発電機を積めば全て解決するなどと思う無かれ。発電機は無人の場所での滞在ならば問題は少ないけど、周囲に人がいる場所では、使う時間や場所が相当に限定されることを念頭に置かなければならない。このような細かい事柄は、旅をしている人でなければ解らないと思うのだが、メーカーの多くはそのようなくるま旅の環境の実態を意外と知らないままに車のグレードアップを目指しているような気がする。そのようなことを思いながら、車を覗かせて頂いているうちに1時間が過ぎ、修理が完了した。実に感じの良いスタッフの皆さんで、修理は完璧だった。ありがとうございました。

11時過ぎ、先ずは美ヶ原に行ってみることにして出発。資料によれば、最近美ヶ原に道の駅が出来たという。確か2000m近い高原だったと思うので、とんでもない所に生まれた道の駅だなという印象である。でもこれからの季節は、あの高原で一夜を過すことができるのは真に有難いことだと思う。今日、様子を見ておき、機会があれば孫たちを連れて来て高原で遊ばせてやりたい。今年は来月から2ヶ月ほど北海道に出かける予定で、孫たちの夏休みに付き合ってやれないのが残念だけど、いつか連れてゆく機会を作らなければと考えている。

さて、出発して諏訪の市街を走っていると、何とかなり大粒の雨が降ってきたではないか。R20を右折してR142に入り諏訪大社下社の脇を通る頃はかなりの本降りとなった。しかし和田峠に近づくにつれ雲は途切れ出し、時折晴れ間も見えるようになり出した。どうやら天気は下界の方が悪いようである。山の天気は判りにくいが、そのことを学んだのは、もう40年以上も前となるけど、毎年霧ケ峰や美ヶ原にやって来てのことだった。特に霧ケ峰が好きで、欠かさず訪れていた。ニッコウキスゲやレンゲツツジの花の世界に浸りたくてのことだった。それらは今どうなっているのだろうか。和田峠からビーナスラインに入って美ヶ原の道の駅を目指す。

ビーナスラインは有料道路だったと思うけど、今は料金所も取り払われていて、無料の道となっていた。まことに有難い。美ヶ原は、霧ケ峰と比べると自分の来訪回数が少ない。どちらも優れた高原の景観が広がっているけど、花の広がりのスケールでは、霧ケ峰の方が上のように思う。それにしても最近はすっかりご無沙汰してしまっている。くるま旅という新しい生きがいを見つけてしまったものだから、特定の場所を定期的に訪れることがなくなってしまったからである。美ヶ原は10年ぶりくらいになるのだろうか。もうすっかり道路の状況などは忘れていしまっていて、何とまあ登り下りの多い道だったのだろうと呆れるばかりである。2,000m近い標高の案内板を見ながら最後の坂を登ると、道が二手に別れていて、左は山本小屋の方へ、右は高原美術館の方へとなっていた。何時もは山本小屋の方へ向うのだけど、今回は道の駅が造られたという美術館の方へ行くことにした。

実は未だ美術館の方へは一度も来たことがなかったのである。行って見ると、広大な駐車場があり、そのそばの美術館の入口のある建物が道の駅となっていた。

   

道の駅:美ヶ原高原美術館の駅舎。美術館の受付・入口の他レストランやみやげ物売り場などがある。

駐車場は数百台が駐車OKという規模である。駐車場の南側は本来ならば、眼下に安曇野などを眺望できるスケールの大きい展望箇所なのだと思うが、今日は雲が多くて下界の様子は全く見えなかった。北側には美術館の建物が幾つか建っていて、その周辺には様々な芸術作品が野外展示されて点在していた。それらは無料で見ることが出来るのだが、この種の作品に疎いというかオンチの自分には、何だか奇妙な作り物が散らばってこっちを見ているような感じがして、心が安らぐよりも却って落ち着かない。通の人たちから見れば、何という愚か者かということになるのであろう。今回は館内に入るのはやめ、先ずは腹を満たすことにする。昼食は野菜たっぷりの焼きそばである。

   

   美術館の野外展示場入口の建物。

   

野外作品の立ち並ぶ風景。私の場合は、未だこれらの作品を見る視点が決まっていない。よって、何だか奇妙なものが点在しているという印象しかない。

昼食の後は1時間ほど自由解散()。邦子どののことは考えずに、自分としては周辺の野草を見に行く。何か珍しい高山植物でもないかなと探したけど、これはと思うようなものは見出せなかった。ウメバチソウに似た花をつけていたのがあったが、少し開花期が早すぎるので、多分別の植物なのだろう。ミツバツチグリという黄色い花を咲かせるのが結構多く見られた。

   

ウメバチソウに似た小さな野草。茎の様子からはウメバチソウではなさそうである。帰って図鑑を調べたが判らなかった。

野草たちと話をしていると、時間の経つのが早い。ときどき下の方から霧が吹き上げてくるので、寒くなってどうも落ち着かない。もう少し天気が安定してくれればいいのにと思った。美術館の方は、1日掛けて見るほどの規模であり、今度来る時はここに1泊して、じっくり見学することにしたい。14時、霧ケ峰に向け出発。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

デジカメを買う

2009-06-22 04:55:06 | 宵宵妄話

ちょい旅の方は、今日は休みです。今日はデジカメの話です。

私は、毎日デジカメ日記というものをつけています。つけているといっても、単にカメラで撮った写真をパソコンの中に記録しているだけです。ただ、記録しているだけでは後になって思い出すのが難しくなりますので、ほんの少しタイトルめいた見出しを付けることにしています。このような記録を始めてからもう4年が経ちました。

 この方法はものを書く場合に、特に紀行記録などを書く時にとても役立ちます。メモを取ることも大切ですが、それ以上に画像の持つ力というのは大きいように感じます。百聞は一見にしかずということなのかも知れません。1枚の画像から、そのときの状況をありありと思い描くことができるのです。

さて、デジカメ日記をつけるためにはデジカメが必要なわけですが、どうも迂闊(うかつ)が過ぎる性格らしくて、カメラを落としたり、汚したりして壊してしまうことが多く、今回も旅の間に飲み過ぎて注意力が緩慢(かんまん)となり、同じ愚を繰り返してしまいました。デジカメ日記を始めてから3台目のカメラだったのですが、残念なことをしました。

今の私にとって、デジカメは生活の必需品なものですから、ついに特別給付金を取り出して、今日買ってきました。記録のためのカメラとしては、あまり高画素数のものは要らないのですが、店頭で見てみるとどれもこれも1千万画素前後のレベルとなっていて、選ぶのに戸惑いを感じました。画素数のレベルを下げて使えばいいだけの話なのでしょうが、何だか使い方では損をするような感じで、もっと画素数が低くてもいいから、値段を下げて欲しいなと思った次第です。パソコンのメールやブログ等で使う写真のレベルは300万画素くらいが普通ですから、どうせハイレベルで撮影してもサイズダウンをしなければ使えないのですから、何だか残念です。技術の進化のバランスがとれていない故の現象なのかもしれません。

ということで、しばらく迷った上で、今回はペンタックスの製品を選びました。値段も予算内で、文字などが大きいので使い易いように思って選びました。今まではずっとニコンを使っていましたので、本当はニコンの製品が欲しかったのですが、旅先で毎日カメラを使う生活では、その電源のあり方が結構問題になります。今回見たニコンの製品は電源が充電式のものだったので、敬遠することにしました。使い勝手上からは、単三の電池2本で使えるものが一番安心です。ポケットにスペアを入れておけば、充電などしなくてもいつでもその場で交換して使うことが出来ます。メーカーが違いますので、操作の仕方などが少し変わってしまい、慣れるまでに時間がかかるかもしれませんが、それはまあ、大した問題ではないだろうと思っています。

何でもそうですが、新しいものが手に入ったときは嬉しいものです。早速雨の中を歩きに出かけて、写真を撮る練習をしました。このカメラは少なくとも2年以上は持たせようと思い、明日からは首に紐をつけてそれにぶら下げて使うようにしようと考えています。他愛も無い話でした。明日から又旅の記録を続けます。

   

試し撮り1:我が家の前の舗道の、街路樹(ハナミズキ)の根本に植えたグラジオラスの花が、只今満開です。最初の年は6球ほど植えただけなのですが、3年目の今年は倍以上に増えて嬉しい限りです。

   

試し撮り2:道端のアジサイ。まさに今はアジサイの季節です。暮れかかった雨の暗い藪の中から、憂いをこめた艶やかな花の塊が、散歩道のどこにでも点在しています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

甲信越ちょっと旅:第3日

2009-06-21 04:06:09 | くるま旅くらしの話

第3日 <6月13日()

道の駅:信州蔦木宿 → (R20)→ 富士見パノラマスキー場・駐車場(富士見町) (泊)      <11km

昨夜は思ったより静かだった。この道の駅はトラックの出入りや宿泊が多い。以前は夜間にエンジンを掛けっぱなしの車が多かったのだが、ここも不景気の所為なのか静かだった。朝は、雲が多いけど雨降りに心配はなさそうで、まあまあの天気のようだった。外に出てみると、数台のキャンカーが停まっていた。中に同じキャンカークラブのKさんやHさん、Iさんなども居られて、しばらく歓談する。キャンカーが多いのは、ここばかりではなく昨夜の中央高速道双葉SAもそうだったということで、我々のクラブだけではなく、AC(オートキャンパー)誌主催の大会が同じ富士見町の別の会場で行なわれるそうで、そちらには全国から150台ものキャンカーが参加するという話である。我々の方は30台ほどであろうから、その5倍の台数といえば、これはもう壮観というべきであろう。TACOSの集まりは、諏訪の方向に向ってR20の左側にある富士パノラマスキー場であるけど、AC誌の方は右側にある富士見高原のスキー場ということらしい。最近はあまりAC誌を読んでいないので、その情報は知らなかった。そういえば、今度発売される号には、先日の御所での大会の記事が掲載されるに違いない。間もなく発売になるので、手に入れなければと思ったりした。

食事の後しばらく休んで、9時過ぎに会場に向って出発。同じ仲間のHさんも一緒である。10分ほどで到着。富士見パノラマスキー場というのは初めて来る場所である。このようなイベントでもない限り、スキー場を訪れることは無い。何故なら、自分は全くのスキーオンチだからである。スキーだけではなく、スケートも水泳も、水に関わるスポーツや遊びは全くダメな人間なのである。辛うじて水の中に放り出されても浮くことだけは出来る。泳げないのに、潜って海底の獲物などを探すのが好きで、これだけが水との関わりの中で唯一の救いである。但し、水を飲むということに関しては結構うるさいことを自認している。ま、どうでもいいことなのだが、久しぶりのスキー場への来訪であった。

このスキー場は、入笠山の麓にあって、想像以上に来訪者が多いのに驚いた。入笠山(にゅうかさやま)は、ここへ来て初めて知ったのだが、この辺では人気大の山らしい。1,955Mの頂上からの展望が素晴らしいとか。また頂上近くまでゴンドラが敷設されており、これを使って自転車(マウンテンバイク)で上まで行き走り下るという、何というスポーツなのか、それができるというので、若者たちに人気がある場所でもあるらしい。スキーシーズンでもないのに、大勢の人たちが来訪して活気に溢れていることに驚かされたのだった。

会場はスキー場の広大な駐車場の一角ということで、着いてみると副会長のMさんとメンバーのHrさんだけが先着で我々を迎えてくれた。早速指示に従って車を停める。何しろ広いので、大らかな駐車の仕方でも大丈夫である。明日までの定住()の準備をした後、付近の状況を確認しようと少し散策する。山裾なので、駐車場は何段かに別れて造られており、我々の位置は下方だった。トイレや水場を確認する。少し遠いけれどその分良い運動になって好都合でもある。運動のために通常の道の駅などでもわざわざ遠い場所に駐車するように心がけているので、遠いのは気にならない。要するに水場やトイレがありさえすれば、もうそれだけで十分という考えなのである。それにしても大勢の人たちである。若い世代は自転車を組み立てている人が多く、年配の世代は登山のスタイルが殆どである。スキー場というのは、北海道の夏では無人化されているような場所が多いのだが、ここはそのような常識とは無関係な場所らしい。やっぱり無人の場所というのは落ち着かないものがあり、このような活気を呈している場所が安心だなと思った。

お昼近くなっても意外とメンバーの集まりが遅い感じがして少し気になった。冷蔵庫のことが気になり、空いている時間Mさんに見て頂いたら、どうやらガスの火口にゴミなどが付着していて炎が小さくなっており、それが着火の不具合の要因らしいということがわかった。しかし、それをどうクリアするのかが解らない。以前も不調のことがあり、掃除をしっかりやるようにアドバイスを受けたのだが、どう掃除したらいいのかがよく解らないのだから、我ながら処置無しである。我が身の無知さ加減に呆れながらも、販売店やメーカーはアフターサービスやメンテナンスに関してあまりにも無神経なのではないかとも思った。購入時には、操作等の取扱いマニュアルは辛うじて作られているけど、故障やメンテナンスなどのアフターケアに関しては、殆ど書かれてはおらず、トラブルが発生した時には、一々購入先などに問い合わせなければ何も出来ないというのは、少々時代遅れの対応ではないかと思うのだが、中小企業のレベルではそのような言い分は、聞くのはとても無理ということなのであろうか。淋しい思いがする。

   

会場風景。一般車の向こう側のキャンピングカーの集まりがTACOSの会場。

夕刻までは特にすることも無いので、先ずは昼寝をすることにした。今日の集まりのメインイベントは、夕刻の一品持ち寄りのパーティである。その外に子供たちを対象とした大カルタ大会などが計画されているけど、我々の場合は、孫なしなので参加する気分にはなれない。オークションなどもあるようだけど、それは邦子どのに任せておけば良い。というわけでその後夕刻近くまで惰眠を貪った。この間、邦子どのはカルタ大会やオークションなどで結構楽しんでいたようである。

   

一品持ち寄り会場。中央のテントにご馳走をおき、それを囲んで各自がテーブルと椅子を持ち寄って、夜のひと時を楽しむ。

17時を過ぎて、いよいよ会のメインイベントが始まる。一品持ち寄りの料理を夫々が所定テーブルに供出し、後ほど各自がそれらを自分のテーブルに持って来て頂くというやり方で、この種の集まりの定番といって良い。我が家では、邦子どのが下仁田で買ったこんにゃく玉の煮付けやキャラブキなどを供出した。子どもたちには人気の無い代物だと思うが、酒飲みには向いているはず。キャンカーが30台くらいで、100人近いメンバーの集まりなので、かなりの規模になる。我が家では、1品の他にも、長らくのご無沙汰を免じて貰うべく缶ビールを1箱提供させて頂いた。

   

いよいよパーティ開始。会長の挨拶から始まり、新規参加者の紹介へと続き、その後は自由歓談となる。

間もなくイベントが開始され、新しい参加者等の紹介があった。いつの間にか我々も古手になり、見渡せば顔も名前も知らない方が殆どなってきている。たった7年ほどしか時間が経っていないのだが、その変化はとてつもなく大きいような感じがした。時代の流れというのは、本人の意識とは別のスピードを持っているなと思った。

その後のことは途中までは覚えていたのだが、アルコールが入り、特に「明るい農村」などというラベルの焼酎などがあって、それが気に入り調子に乗って飲みすぎてしまい、デジカメを落として壊したところまでで、その後は良く覚えていない。このごろは真にだらしなく、しまりの無い酒飲みに成り下がってしまった。参加メンバーの中に俳優の山谷初男さんがいて、隣合わせで歓談していたのだが、お話の中ではアルコールは只今飲まないことにしておられるとか。飲むと自分と同じような症状となり、危険だからということだった。そろそろ自分にもそのような自戒行動が必要なのかも知れないと、これは翌日の反省である。

私は酒席で動き回るのが嫌で、現役時代からよほど特別な状況でない限り、一度坐ったらトイレ以外は行かない主義である。一々酒を注いで回るなど真っ平ごめんだと思っている人間なので、このようなパーティでも、もし邦子どのがいなかったら、一品持ち寄りの食べ物も一度きりしか取りに行かず、酒だけを飲むということになりかねない人間である。とにかくアルコールが入ると動くのが嫌なので、酒は飛びっきり好きなのだが、宴会やパーティは苦手なのである。3、4人でじっくり話しながら飲むのが、正しい酒の飲み方だと思っている。真に我ながら困った愚かな人間だと思っている。しかし、この考えというか、性格はあの世に行っても変わらないのではないかと思う。

というわけでこの夜も動かず、皆さんの活動を観察しながら結局は飲みすぎて、我を忘れて寝床にもぐりこむといった状況でした。

   

山谷さん(ハッポンさん)(右)と筆者。顔が良く判らないのがいい。

   

山谷さんとの記念写真。女性右が相棒なる邦子どの。左はI夫人。右手前にある明るい農村という焼酎の一升瓶が曲者だった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする