山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

筑波山登山の記(第19回)<筑波山は世にもつまらない山か?>

2014-02-27 09:40:52 | 筑波山登山の記

<第19回 登山日 2014年2月26日(水)>【筑波山は世にもつまらない山か?】

 前回18日に引き続き今月2回目の登山となった。前回は残雪に悩まされ、頼みの杖を無くしたりして、復路の下山は自力での歩きを諦めて、ケーブルカーを利用せざるを得ない羽目となったが、今回はそのようなことがないよう、アイゼンも用意してのチャレンジとなった。

前日は、明日は夜が明けた頃の登山開始にしようと、家を5時頃の出発と考えていたのだが、どうも熟睡が叶わず、浅い眠りのままに4時過ぎに目覚めてしまったので、ヘッドランプを使ってもいいからと、思い切って早めに行くことにし、4時半過ぎの出発となった。出がけの玄関先には、東の空に鋭い鎌の形の月と明けの明星が光り輝いていた。空気がピリッと締まって、この分だと今日はいい登山日和になるのではないかと思いながらの出発だった。

5時半前にいつもの駐車場に着いたが、駐車場は観梅用に有料化されており、しっかりと区切りのポールなどが立てられていた。無人なので、500円也の料金は支払えなかったが、帰りには支払うのを覚悟しての出発だった。まだ足元は暗くて、しばらくはヘッドランプの光を頼りの歩行となった。登山口の辺りから中間点の辺りまでは残雪は殆ど消えており、その分だけ解けた雪の水が大地をぬかるみにしていて、凍結とは異なった歩きにくい状態となっていた。それでも凍結して雪の上を歩くのとは大分違って、使う神経も少なくて済むのはありがたかった。

しかし、中間点を過ぎる辺りからは、残雪の量が少なくなっているとはいうものの、高度で次第に気温も下がるのか、凍結している箇所が多くなり、男女川源流の辺りまで来ると、前回と大して変わらない厳しい残雪状態となっていた。前回無くしてしまった杖を探そうとしたけど、登り道では、辿りついている杖の位置の見当がつかず、周辺を見てもどこにあるのか全く判らない状態だった。帰りにもう一度探すことにして、先ずは御幸ヶ原を目指す。

中間点辺りで、せっかく持参しているアイゼンを取り付けた方が良いと思ったのだが、何だか面倒になり、このままで行くことにして登り続ける。御幸ヶ原に出て、そのまま一気に男体山頂上へ。順番では今回は女体山なのだが、男体山にしたのは、次回以降3月に入ると観梅のため駐車場が使えなくなるので、別のコースに切り替えるつもりであり、そうなると女体山への登山が多くなる可能性が増えるからである。ま、毎回500円也を払えば、そのような考えは無用で済むのだけど、年金暮らしには、500円也は気にすべき額なのである。

男体山頂上で、先ずは登山証拠の写真を撮る。今日は天気が良さそうなので視界が開けているのかと思っていたのだが、下界はもとより直ぐ近くの女体山の山頂までもがボヤっと霞んでおり、霧がかかっているわけでもないのに、今日の眺望は全く期待外れだった。何だかこの天気は異常だなと思った。〔後で、この日はPM2.5なるものの飛散が異常なほど多くて、各地に注意報が出されたと知った〕

     

今日の筑波山・男体山御本殿。背景の青空は本物なのだが、少し先の方を俯瞰すると靄のようなもので視界は閉ざされていた。

     

男体山の山頂付近から見た女体山方向の景観。劣悪な墨絵のような景観は、今まであまり見たことのない景色だった。後で、中国から飛来のPM2.5とかいう奴の仕業と知った。不気味な悪魔の存在を感ぜずにはいられない。

一呼吸して、直ちに下山を開始する。杖の使い方が上手になったのか、いつもは15分ほどかかるのに、今日は御幸ヶ原迄10分で下りて来てしまった。ケーブルカーの頂上駅脇の休憩台の椅子に腰を下ろし、アイゼンを取り付ける。アイゼンは10本爪のものと4本爪のものとがあるけど、筑波山のこの程度の状況では4本爪で十分だろうと、それしか用意していない。取り付けた後は直ぐに下山を開始する。思った通り、アイゼンは4本爪で十分だった。登りではきつかった場所も問題なく足を運ぶことが出来た。但し、本格的な雪山では通用しないであろう。でも、もはやそのようなチャレンジは諦めているので心配は無用である。

下山を開始して、男女川の源流に近づいて、前回杖を失った箇所まで来て、慎重に下方を見渡し、下山道のどの方向に杖が滑って行ったのかを再確認した後、もう一度探しながら降りることにした。30mほど下って、この辺りかなと道脇を見ると、何と、あった!ではないか。登山道から3mほど脇の雪の中に、1週間前に我が手から離れて滑落した杖が、オーク色の肌を見せて、残雪に半ば埋まった状態で見つかったのである。直ちに駆け(?)寄って手に取る。間違い無し、ニスを二度塗りしたまだら模様の出来栄えの杖は、誰にでも作れるものではない。他の人ならもっときれいにつくり上げるに違いないけど、自分にはまだら模様の塗りあげレベルの技量しかない。何はともあれ、今まで心の奥底に淀んでいた残念感のようなものがいっぺんに消え去って、俄然元気が出たのだった。

そこから先は、杖の二刀流での下山開始となる。考えもしなかったのだが、杖の二刀流は、岩石の多い登山道の下山の場合は、大いに威力を発揮するものだと合点した。利き腕の右手に長めの杖、左に短い杖をもって、バランスを取りながらの下山は、今までにない快適な歩きとなって、いつもは1時間ほどかかる下山が今日は何と10分ほども短縮できたのだった。不思議な気分となった次第。

下山を終えて、駐車場に戻ったら、既に営業が開始されたらしく、交通整理のガードマンや、料金徴収のアルバイトらしき若者が待ち構えていた。車に行く前に料金を払おうとすると、歩きの人は支払わなくていいという。自分は確かに歩いて山を下りて来たのだが、車はここに置いてあるのに、いいのかなと思った。ま、そういってくれるのだから、余計なことは言わずにありがたく承っておこうと、そのまま車に戻って帰宅の途に就いたのだった。バイトの若者は勘違いをしたのではないかと思いながらも、駐車料金を取られずに助かったことはありがたい。杖は戻ったし、駐車料は無料で済んで、めでたしめでたしの今回の登山だった。

 

さて、ここで一つ筑波山について、この山の名誉のために一言いいたいことがある。先日、筑波山の登山ルートなどについてより詳しく知りたいと思い調べていたら、ネット上に筑波山の登山などのことについて書かれているブログの中に、「筑波山という世にもつまらない山を登ってきた」という見出しの記事があった。「超音速備忘録」というブログの中の記事のようだったけど、この超音速備忘録という意味がさっぱりわからない。超音速というからには、音を超えるほどの、つまりマッハ級のスピードというイメージは湧くけど、それが備忘録すなわちもの忘れ防止のメモなるものと、どういう関係にあるのかが判らない。直ぐに忘れてしまうので、ほんのちょっとメモしただけという様な内容なのだろうか。

ま、それは措くとして、そのブログ記事を読むと、というよりも見るといった方が正確かもしれないのは、文字よりも写真の方が前面に出ている記事だからである。自分のようなジジイとは違って作者はお若い方らしく、大きな写真のコメントには、何やら短絡文字らしきものが幾つか使われていて、例えば「ミスド」などというのは意味不明だったのだが、後でそれがミスタードーナッツとかいうファストフードの店と判ったりして、大分に感覚の違いを覚えた。すなわち、我はジジイなりなの再確認である。

写真を見ながらコメントを読み、本文らしき文章を読みながら思ったのは、これは気の毒な人・気の毒な記事だなということだった。しかし、気の毒といっても同情心が湧くような人物には思えず、恐らくご本人も気の毒だなどとは余計なお世話で、心外な話だと思われるに違いない。都会に住む人の、つかの間の思いつきの遊山が、同じ思いつきでやってきた人間の溢れかえる状況の中で、それにうんざりする思いが積もり積もって、ついには、開き直ってダダをこねて大声を上げたのが、「筑波山という世にもつまらない山を登って来た」というタイトルになったのではないかと思う。五月の連休の新緑シーズンに手軽に遊山を楽しもうとするからには、予めの覚悟のようなものが必要なのに、不用意に来てしまったという迂闊さを、筑波山という山に責任を被せようとする感じがして、やはりこのタイトルは不適切だなと思った。

筑波山をこよなく(それほどではなくても)愛し、大事に思っている人から見れば、このタイトルは明らかな冒涜であり、挑発的な罵詈雑言だと思う。何故なら筑波山という山そのものは、つまるとか、つまらないとかの存在などではあり得ず、そのようなコメントは全て人間の世俗の為せる業であるからである。つまる・つまらないは、皆人間どもが勝手にそう思い、しているだけの話に過ぎない。世にもつまらないというのは、筑波山そのものではなく、そこに群がりそこに一緒になってぶつくさ言っている人間世界の愚痴に過ぎないのだ。

ところで、このブログの内容はなかなか面白い。筑波山のことではなく、世俗のできごととして目を向ければ、取り上げられている写真とコメントは、興味深い部分がある。どうやらこの方は写真に関心が大でかなり力を入れられているようだ。カメラアングルにもそれなりの鋭さもある。このブログ記事だけでは判らないけど、写真に関しては何か面白い作品などを残しておられるような気がする。見てみたい気もするけど、深入りはしたくない気分もある。何しろ、「筑波山という世にもつまらない山」などという言い方を改めて貰わぬ限りは、このジジイの心は動かない。

ひょんなことから筑波山を冒涜する様な記事を見つけて、はじめは怒りを覚えたのだが、中を見るとタイトルの付け方が間違っているだけで、存外にまともな内容だったので安堵したのだが、今様のマスコミなどのなりふり構わぬ人寄せ見出しのようなものは、やめて貰いたいなと思った。筑波山がつまらないのではなく、そこに集まる人間どもの仕業の中に、つまらぬことどもが溢れているということを、より正確にタイトル化して欲しいものだと思った。

 

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筑波山登山の記(第18回)

2014-02-19 22:27:54 | 筑波山登山の記

<第18回 登山日 2014年2月18日(火)>

 2月に入って、野暮用が続き、加えて登山にチャレンジしようかと決めた途端に雪などが降り、しかもそれがとんでもない大雪で、残雪や凍結の心配が重なって、とうとう半月以上、登山には手も足も出せない状態が続いた。先週末に降った今月2回目の大雪は、未だに山梨県や奥多摩・秩父地方それに群馬県の山沿い内陸部に甚大な被害や影響を及ぼしているけど、幸いなことに関東平野東南部では降り積もった雪が後半の雨で大方解け去って、消えたので、今日は思い切って今月初の筑波山登山を決行することにした。今週も又雪降りの可能性が週半ばにあるというので、まさに今日行かなければ、いつになる、という意気込みだった。

まだ少し雪が残っているかもしれないので、早朝の暗闇登山は控えることにして、明るくなってからの登山開始とすることにして、6時過ぎ家を出発する。この頃は日の出がかなり早まって、1月初め頃よりも30分ほどの差があり、いつもの駐車場に着く前の6時半には、車の中から東に登る朝日を拝することが出来た。明け方に玄関から見た空は澄んでいて、西に満月を過ぎた寝待ちの月が輝いていたのだけど、その後は次第に薄雲がかかって、何だかスッキリしない空に変わってきていた。駐車場は梅林近くにあり、来週から梅まつりが開催されると、ここに車を止めて登山というわけにはゆかなくなりそうである。しかし、今日は未だそのムードは全く窺えず、梅の花もさっぱりのようだし、登山者の方も数は少ない感じだった。

雪解けの水が道路にあふれ出している箇所があり、その一部が凍って滑り易くなっているのを避けながら登山口に向かう。今回もいつもと同じように筑波神社脇からケーブルカーに沿って御幸ヶ原に出るコースを行くことにした。今回で18回目となり、そろそろ別のコースにチャレンジすることにしたいとも考えている。ケーブルカーの宮脇駅までは、雪など全く残っておらず、何の心配もなかったのだが、少し登って杉の林に入ると、登山道の様子は一変して、残雪が解けたのが階段に止まって凍りつき、滑り易くなっており、真に歩きにくい状態となっていた。

今回は先日作った初めて使用する杖を持参している。樫の古木の枯れた枝を削って、サンドペーパーを掛け、ニスを二度塗りして乾かしたもので、金剛杖ほどの長さは無いけど、一応は登山に役立つようにつくり上げたと思っている。初めて使ってみたのだが、使い心地はまあまあだ。凍っている雪の道では少し使いにくいのは仕方がない。アイゼンには思いが至らず、この杖を使えばまあ、なんとかなるだろうと思いながらの前進だった。実のところは,アイゼンは用意すべきだったと、登るにつれてそのような気持ちが大きくなって来ていた。

途中ケーブルカーの中間点を過ぎ、しばらく登って男女川の源流地点を過ぎ、御幸ヶ原まであと600mほどとなる階段開始近くの所に差し掛かった時、ちょっと油断した隙に杖が手から離れてしまった。しまった!と思ったけど、何とか近くで止まってくれるものと思っていた。ところが、いつもなら近くで止まってくれるはずの杖は、登山道を外れて樹木下の藪の中に入り、そこに残っている表面が凍った残雪の上を滑落して、どんどん下の沢の方に落ちて行くではないか。おい、おいとあわてて追いかけようとしたのだが、凍りついた道は駆け歩くことなどとんでもない話で、もたもたしている間にたちまち見えなくなってしまったのである。それでももしかしたら途中に引っ掛かって止まっているかもしれないと思い、50mほど下ってみたのだが、それらしきものは全く見当たらず、諦めざるを得なかった。

急に手ぶらとなってしまい、何だか頼るものが消え去った感覚で、このまま杖なしで上ることへの不安が膨らんだ。さりとて、下るのはもっと危険で、しばらくどうしたものかと己のドジを嘆くのも忘れて困惑した。結論として、とにかく上るのは何とかなりそうなので、予定通り男体山の頂上まで行くことにした。同時に、このままの状態では下まで降り切るのはとても難しいと判断し、下りは悔しいけど歩くのは止めてケーブルカーを利用することに決めた。何だか中途半端な登山となってしまうけど、無理をして危ない思いをするよりはましだろうという判断だった。

男体山の山頂は日陰の方には残雪が多くあったが、日のあたる部分も多くて、そこは杖なしでも歩くのに困ることは無く安堵した。今日は晴れの天気の割には眺望が利かず、富士山は全く見えなかった。まだ空の方は機嫌が直っていないのだなと思った。この分だと、今週も雪を降らせるような空がやって来るのかもしれない。困ったものである。男体山御本殿にお願いしたのは、いつまでも冬の顔をして愚図ついていないで、スカッといい天気を運んで下さるように、天の神様に忠告して欲しいということだった。直ぐに下山を開始する。

     

今日の男体山御本殿。周辺に積もった雪がそのまま凍りついて残っている。この反対側は東と南に位置しているので、雪は解けて消えている。標高が871mともなれば、そう簡単に雪は消えないようだ。

今日の御幸ヶ原には、人影は見られなかった。ケーブルカーは9時20分が始発で、20分間隔の運転である。切符を買って、乗り場に止まっている車両に乗る。ケーブルカーは上りと下りを交互に行き交う2台の車両があり、夫々に「あおば」と「もみじ」という愛称が付けられている。今日の9時40分発の下りは、「あおば」の方だった。客は自分一人だけで、運転手と合わせてたった2人の車内だった。それでも運転手の方は、満員のお客さんが乗っている時と同じ内容の挨拶をしていた。ここのケーブルカーに乗るのは、昨年から登山を開始して初めてのことだった。それ以前に乗ったのは、中学1年生の遠足の時だったのだから、60年ぶりということになる。とにかく久しぶりなので、妙に興奮して、立ったり座ったりしながら写真を撮りまくった。車両の前方のガラスに当たった光が乱反射して、窓越しに撮った写真は殆ど全滅に近かった。麓の宮脇駅に着くまで10分足らずの短い旅だったけど、いい経験だった。切符は、記念に持ち帰ることにした。

     

下りの車両から見た、中間点付近の上り車両の姿。この左側の方に登山道が隣接している箇所があり、登山時の目印の一つとなっている。この付近につくばねという小樹木があるらしいのだが、まだお目にかかっていない。

宮脇駅付近には、福寿草の花園があって、丁度今が花の最盛期だった。福寿草祭りという幟も立っていて、観光客の呼び込みに力を入れているようだった。せっかくなので、しばらくその花園を眺め、写真を撮ることにした。福寿草は早春の花である。黄色い花びらは、少しドライがかっていて、一見造花のように見えることがある。しかし、大地の厳しい冬のエネルギーを吸い上げて咲く、その力強い咲きっぷりは、他の冬を越す花には無い生命の輝きがある。点在する花を眺めながら、もう雪などに関係なく春は我らのものだと思ったりした。

     

福寿草の一株。寄り添うようにしてたくさんの花を咲かせていた。この周辺には数百株の福寿草が点在して花を咲かせているのが見えた。早春のシンボルの花の一つである。

予定より少し早い下山時刻となって、車に戻り帰途に就く。失敗半分の登山だったけど、時にはこのような出来事もあるのであろう。ま、同じ失敗を繰り返さないよう、握力の衰えて来ている老人は、自戒が肝要である。

 

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早春の息吹

2014-02-13 00:17:03 | 宵宵妄話

 このところ筑波山登山のチャンスが潰れ続けている。雪などが降って、天候不順が大きな障害となっている。何しろ駐車場が300mほどの高さにあり、雪が降ると、解けた水が凍りついたりして危険なので、山の神の許可が下りそうもない。強引に行って、何かあったりしたら、お叱りなどで済む筈がなく、病気になどになられてしまったら大ごとなので、しばらくは我慢するしかない。日中に登ればいいのだとは思うけど、他の人に邪魔されることなくマイペースで登るには、やはり早朝に出掛ける方が無難だ。今月に入ってから、何かと野暮用が続いており、天気が回復しても用事が詰まっている日が多いので、もうしばらく登山はお預けとなりそうである。

 毎朝の歩きは、雪が降り続いた日を除いては継続しているけど、ここ2~3日は負荷を掛けると足元が不安定となって危ないので、登山靴だけを履いて、ただ黙々と歩いているだけである。このような歩きだけでは、ストレスは減るよりも増える方が多くなってしまうようだ。今月に入っての歩きは、現在累計18万歩と少し、1日平均が約1万6千歩となっている。まあ、歩数的にはよく歩いている方だろう。誤差があったとしても、1日8km以上は確実に歩いていると思う。何だかもの足りなさの不満はあるけど、それでもこの歩きの中では、春の到来を感ずるのが嬉しい。

 二月に入って間もなくの頃、毎年楽しみにしている野草たちが花を咲かせているのに気づいた。自分だけが勝手に春告草と呼んでいるオオイヌノフグリとホトケノザの花たちである。この二つの野草は、条件さえ良ければ、真冬の寒さの中でも日溜まりに花を咲かせているのだけど、二月に入ると咲かせている花の輝きが違ってくるのだ。春告草は楚々としたブルーの花びらに力が加わり、ホトケノザは赤紫の唇状花が一段とその濃艶さを増すのである。これを見つけた時、ああ、間もなく本物の春が来るのだなあと気づくのである。

     

私の春告草。薄いブルーの小さな蝶のような花を咲かせているのはオオイヌノフグリ。そして濃艶の花はホトケノザ。もう大地には確実な春の証が示されている。

 今日(2/10)は雪の残る道を、時々足元の凍てついた地面に足をとられながら二時間ほど歩いたのだが、道脇の雪の残る空き地の中に、花を咲かせている猫柳に出会った。少し頬を赤く染めた色の、ふっくりとした膨らみの猫柳は、雪の中でも春の到来をしっかりと教えてくれるのが嬉しい。先日は紅梅の梅の花に感動したのだけど、この猫柳にはまた別の味わいがある。生け花などではなく、大地にしっかりと根を張って、生命(いのち)を輝かせている姿は、神々しさを覚えるほどである。

     

猫柳の花。雪の中に花穂に雪のような白い綿にを包るまれて、そこにはほんのりとした春のふくらみを感ぜずにはいられない。

 昨年の夏があまりにも暑かったので、その反動で今年は寒い冬を迎えることになるのではないかと心配していたのが、どうやら当たってしまったようだ。先日の雪は、東京では45年ぶりの大雪だったとか。45年前のその時も東京に住んでいたのだけど、雪の記憶は何も残っていない。ただ、その頃は、今よりもずっと冬の寒さが厳しかったようには思っている。温暖化が叫ばれ始める少し前だったのかも。あの頃から次第に寒さは緩み始めて、次第にその異常さが気になり出していたのだけど、今年のこの冬の寒さのあり様をどう考えればいいのか。一時のバックファイアーのような現象なのだろうか。春が本格化するまでには、今年はまだ何度か、野草たちは雪の中に埋もれる時があるのかもしれない。しかし、もう春の息吹は音を立て始めたようだ。もう少しの辛抱だ。

 

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暦年比較表に思うこと

2014-02-10 07:18:42 | 宵宵妄話

  昭和から平成と年号が変わってから、早や26年目を迎えている。この頃ほんの少し過去を振り返ろうとする時、あれは、いつだったか、何年だったか?と、西暦や和暦の年号などがはっきり思い出せず、調べるのに手間がかかるので、暦年の比較表を作って机近くに貼っておくことにした。その表の範囲は、自分が生まれた時から、この後生きている可能性のある90歳辺りまでである。暦の項目は、西暦・平成・昭和・大正・明治の区分とし、ついでに自分の年齢も入れることにした。それを眺めていると、なかなかに面白い。今年は、2014年で平成26年だが、昭和通算では89年、大正では103年となり、維新後の明治では、147年目となっている。

過去を振り返ってみると、自分が生まれたのは昭和の15年で、それは1940年だった。これは勿論承知しているけど、大正では29年であり、明治は73年だったことに初めて気づいた。江戸時代の終りから僅かに70年と少ししか経っていない自分の生れなのだった。明治も大正も遠い過去の時代のように思っていたけど、とんでもない錯覚だったというのを思い知らされた感じがした。このようなことは、この暦年比較表を作ってみるまでは、全く考えてもみなかったことである。10年刻みで生まれたその後を辿ってみても、様々な「あの時」が何年だったのかというのが確認でき、その頃が思い出されて懐かしい。

今現在を明確に自覚するために、今年の欄を赤字で表記することにした。そこからは、過去を覗き見て思いを馳せるよりも、これからの未来に残された時間を数えてみることにした。驚いたことに、90歳という年齢到達までに、既に20年を大きく切っているのである。90歳というのは、自分的には生き過ぎだと思っているのだが、88才までくるま旅にゴーゴーということで、旅車のナンバーを「88-55」としている。それを本気で目指しているわけでもなく、ジョーク程度の思いしかない。というのも、これから先どんなに健康を気遣い、鍛錬を課すなどという保持策をとり続けたとしても、老化を防ぎ抑えることは不可能であり、思い通りに動けるのは、せいぜい80歳のホンの少し先辺りまでであろう。90歳まで生きて居られたとしても、もはや旅を続けるなどというのは、周辺からは危険な自殺行為とひんしゅくを買うに違いない。そのことを思うと、くるま旅を楽しめる残りの時間は、様々な障害を避けることが出来たとしても、あと精々(せいぜい)10年そこそこということになる。残りは本当に少ないのだなと、改めて思ったのだった。

 この比較表を作ることにした一番のきっかけは、いつ守谷市に越して来たのかというのを曖昧に記憶していて、直ぐに忘れてしまうので、これを何とかしようということからだった。その他、2000年は平成何年だったかなど、時々思い出す必要があることが気になっていのである。改めて表を見て確認したのは、守谷には2004年に住み始めたということである。それから今年でちょうど10年となった。あと10年生きると、この地に居を構えて20年となり、それから3年経つと、守谷のこの地が生まれ育った故郷での時間を超えて、我が人生最長の暮らしの場所としての時間域に入ることになる。その時まで生きていられるのかどうか分らないけど、もし生きていたなら、その時87歳になる自分は、一体どの様な生きざまをしているのだろうか。10年と少し先の未来には、興味よりも不安の方が大きく膨らむ。2003年に仕事を引退してから既に10年以上が過ぎており、もはや残りの人生時間の半分近くを使ってしまっているのだ。改めて愕然という思いがする。

     

我が年歴比較表。74歳をスタートとした時、80歳で終わりとなる設計の人生時計は、あと6年(=2時間10分足らず)。運良く88歳まで生きられたとしても、あと14年しか残っていない。

 しかし、少しずつではあるけど、それなりの覚悟は固まりつつある。いわゆる老計・死計の実践である。PPK(=ピン・ピン・コロリ)がその目標の中核をなしている。PPKを達成するためには、何よりも健康でなければならない。このことは何度も書いたりしていて、揺るがぬ信念であり、そのために身体の鍛錬を怠らぬようにしている。今のところ、糖尿君以外は変な病は取り付いていないので、安堵しているけど、明日は判らない。又、健康には身体だけではなく、もう一つの重要な側面がある。それは心の世界を健康に保つということだ。具体的には、生きがいややりがいを持ちながら「活き活きと生きる」ということであろう。今の自分には、くるま旅を通じての出会いの宝物探しがあり、更にはそれらを書きとめる物書きの仕事がある。幸いと言わなければなるまい。この二つの生きがいは、あと13年を掛けても完了できないテーマを一杯含んでおり、突然PPKの時がやって来てしまったら、その時は悔いが残るかもしれない。しかし、悔いの残らない人生などある筈がないと思っており、これ又覚悟の内である。

 人は、生きている間は不安を抱えながらも意外と楽観的であり、自分が何時死ぬかなど考えもせぬまま老を迎え、それを受け入れながらも内心では否定、抵抗しつつ、現実を生きている様である。だから老計や死計など本気で考えるようなことはしないのかも知れない。ま、それはそれでいいのではないか。もはや他人様にとやかく言うこともなかろうと思う。ただ、自分のことは自分で始末すればいいだけのことなのだ。そう思いつつ、暦年比較表の自分に残された未来の時間のことを思ったのだった。それにしても、残酷な表を作ってしまった。

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旅車の契機は大雪から

2014-02-08 11:41:38 | 宵宵妄話

  予報通り、朝起きて見ると雪が降っていた。まだ大して積もってはおらず、車の屋根に2センチ足らずの高さに過ぎない。しかし、今夜の真夜中まで降り続けるというから、明日の朝は大変なことになるのかもしれない。関東平野の真ん中辺りに位置する守谷市辺りは、滅多に雪が降ることも積もることもない。積もっても、数日の内に吹きだまりや日陰の場所を除いては、消え去ってしまう。しかし、今日の雪はそのようないつもの在り様を飛び越えてしまいそうな予感がする。

 予報では、20年ぶりの大雪になるとのこと。20年ぶりとは、いつのことだったのか。そのような記憶を思い出そうなどとは思わないこの頃の暮らしぶりなのだが、ふと気になって振り返ってみた。20年前といえば、平成6年(1994年)のことである。家内に「あの時の雪だね」と言われて、思い出した。とんでもない事件ともいうべき出来事を。その時のことは、今でもかなり強く自分の人生の記憶に残っている。なぜなら、くるま旅くらしなどを始めるようになったきっかけが、あの大雪にあるからである。今日は一日中家の中に閉じ込められそうなので、その辺ことを書いて見たい。

 平成6年の2月12日、その前日が建国記念の日だった。12日は土曜日、3連休を利用して久しぶりに郷里の常陸大宮市(当時は大宮町)の実家を訪ねたのだった。勿論まだ現役であり、両親も健在だった。当時は川崎市の登戸近くの中之島という所の高層マンションに住んでいた。東京を横切って、車での帰省(このことばが相応しいかどうかは判らないけど、自分的には親の家に帰るというのはやっぱり帰省なのだと思っている)だった。偶々車を新しくしたばかりだったので、遠乗りがしたいという気持ちも手伝って帰省を考えたのかもしれない。動機には親孝行だけではなく、不純なものも混ざっていたように思う。

 さて、前日に十二分に(?)親孝行をして、翌日は帰宅することにしていた。朝起き出して外を見たら、何と雪が降っているではないか。しかもかなりの激しい降り方なのである。昨日の好天からは予想もできないほどの天気の急変だった。朝食もそこそこに帰途に就くことにした。まさか高速道が閉鎖になることもあるまいと、タカをくくって出発したのだったが、途中から雪はますます酷くなって、高速道の入口に近づく頃には、ラジオのニュースで常磐道が閉鎖されたということを知った。明日は日曜だけど、高速道が再開される保証は無いと思い、実家に戻ることは止めて、とにかくこのまま一般道を家に帰ることにしたのだった。水戸から国道6号線に入ったのだが、そこから先は、早や渋滞が始まり出しており、あと、100km以上もあるというのに、長い渋滞が果てしなく続いているという状態となっていた。雪はますます酷い降り様になってきており、灰色の空からは、大粒の煤が果てしなく舞い降りて来るのだった。

 実家を8時過ぎに出発してから、3時間経っても中間点の土浦市には程遠いという進行ぶりだった。脇道に入ることもできず、ただノロノロと前の車の後を辿るだけだった。途中コンビニなどに寄りながら飲み物や食べるものを調達したりしたけど、狭い車の中では鬱憤を晴らす方法は無く、ただラジオと、カーステレオの音楽などを聴くだけだったが、それらも限界に近付いている感じがした。途中で、チエーンだけは付けておこうと一応は用意していたのを取り付けたりしながら、ようやく東京の中心部辺りに到着したのは、早や深夜は22時を過ぎていた。雪は20cmを超えて積もっており、道路脇の土手の吹きだまりには、足を入れると付け根までも潜ってしまうほどの雪の量だった。

 深夜近くになる頃から、今まで営業していたファミリーレストランやコンビニなどが、大雪のために営業を止めて店を閉めだしたのだった。そうなると、困るのはトイレである。自分の方は何とかなるとしても、家内の方はそうはゆかず、何処か営業している店がないかと、本道を逸れて脇道に入ってそれを探す必要を感じたほどだった。こんな時に、トイレつきの車があったらどんなに助かることだろうと思った。

 そのようなことを思いながらノロノロと進行していると、突然車がエンストしてしまった。何だろうと、懸命にキーを回すのだが、エンジンがかからない。よりによってこんな時にエンストとは!原因不明のエンストに困惑は極まるばかりだった。とにかくまだ入会もしていなかったJAFに連絡して、車を見て貰うことにした。ところが、到着までに1時間以上かかるという。開いている店もない中で、そんなに待つというのは厳しい話なのだが、車の中で待つしかない。暖房もラジオもステレオも完全ストップなのである。ようやくJAFの人が来てくれて、何と原因はバッテリー上がりだという。新車だったし、エンジンを掛けながら来たのだから、まさかバッテリーが上がるなんて考えもしなかったのだが、説明では、暖房の他にラジオやステレオを掛け過ぎて発電容量よりも使用量が上回ってしまっていたのだとのこと。もはや、やけくその気分だった。

 ようやく都心を抜けて、多摩川を渡り、自宅に着いたのは翌日の早朝の4時近くだった。雪など降らなければ、どんなに渋滞していても4時間もあれば着くはずの距離なのに、その時は何と18時間もかかったのである。後での公表では、東京都の降雪は23cmということだったが、自分の実感としては30cmを上回っていたのではないか。とにかくとんでもない大雪だった。それが、今日の雪は、それを超えるほどになるのかもしれないという。ま、今はどこへ出かけることもないので、どれだけ積もっても溶けるのを待つだけの話だけど、あの時の思い出は、まあ、忘れることはできない。

 さて、ここからは旅車の話となるのだけど、この雪に痛めつけられた体験はなかなか拭うことが出来ず、やがて突然の旅車の購入となったのである。住まいの近くに旅車の展示場があり、何となく興味を注がれるようになって、時々覗いていたのだが、この雪の体験を経たある時、気まぐれにそこへ寄った時に「そうだ、このような車なら、雪などに閉じ込められても大丈夫ではないか!」と思ったのだった。しかし、図体がでかいのでは、マンション住まいの今では置き場所がなく、扱いに困るというという問題があった。そこで、駐車場に収まる大きさで、普段の買い物などにも使うことが出来、トイレも使える車を探すことにした。はじめは本気ではなかったのだけど、何回か展示場を見ている内に、バンコンタイプ(マツダボンゴベース)の条件に叶う車を見つけ、購入を決断したのである。

この車は、長さが4m98cmで、天井に簡易ベッドが作られているもので、後部に小さなシンク(調理用流し台)がついていた。後部の座席を倒してベッドとして使用するタイプのもので、トイレはポータブルタイプで、それを使うスペースも用意されていた。必要最小限の条件を満たすものだった。これだと、借りている駐車場にも収まり、買い物などに出掛けても駐車に苦労することは無い。天井が少し高いので、目立つけど、それは仕方がない。ということで、普段の暮らしの中で使い始めたのだった。

 この車を使い始めて少し経って、気づいたのだが、この車をただ普通に使うだけで、あの大雪のような事態に備えるというだけでは、能が無いなと思ったのである。勿論、近所への遠出には、それなりの利便性を感じて活用してはいたのだけど、泊まりがけで出掛けるところまでは思い至らなかった。つまり、車で旅をするということまでは考え及ばなかったのである。何しろまだ現役で、数年後には定年を控えており、仕事には全力を傾注しようという考えも大きかった。自分なりに考えていた仕事の大きな課題もあったのである。

 それが、少し変わり出したのは、仕事の面で思いもしなかった部署に転勤を命じられ、その仕事に嫌気がさし、退職を考えるようになった頃からだった。組織の中にいる以上、自分で自在に職場を選ぶことは出来ないのだから、普通は素直に従うべきなのだろうけど、これから一大決心をして課題に取り掛かろうとしていた矢先のことだったので、無性に腹が立ち、だったら職を辞すべきと思ったのである。それで、上司にその旨を申し出たのだが、「石の上にも三年」などと言い包められて、結局退職は少し遅れることとなった。ま、そのことはくるま旅にも少し係わる話ではある。

 その頃から少し遠出の旅を考えるようになった。五月の連休などには、1週間ほどのくるま旅にも挑戦するようになったのである。そして、そこでの様々な出会いの体験が、自分の人生の新たな道を拓かせてくれたように思う。6年ほどそのバンコンでの旅を経験して、くるま旅への思いはますます広がり、そして深まっていった。そして仕事から解放された時には、くるま旅は我が終生の生きる術(すべ)の主柱となったのである。その後、なけなしの退職金を叩いて買った2代目の旅車も、早や12年目を過ぎようとしている。この車は気に入っており、終生の友としてどちらかがこの世の暮らしを終えるまで、一緒に生きてゆこうと思っている。

 思えば、我がくるま旅くらしの始まりの源は、20年前の2月の大雪にあったのである。今、窓の外に降り積もる雪を見ながら、人生などというものは、何がきっかけで道が変化するのか、しれたものではないなと思うのである。これを書いている間にも雪は降り続いている。これじゃあ、筑波山に登るのも暫くお預けだなと思いながら、雪国の人たちのご苦労を思ったりしている。

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「我が意を得たり」の話

2014-02-04 00:38:53 | 宵宵妄話

 昨日(2/2)見るともなくTVを見ていたら、どこの局なのか気にもしなかったけど、アルツハイマー病について放映していた。例のごとく、芸人やタレントの連中が出ていて、オチャラカなのか真面目なのか判らない内容の進行ぶりだった。お笑い芸人などをメンバーに構成されるこの手の番組には、時代遅れのカタブツ老人には、どうも感心できない気持ちを拭い得ない。アルツハイマー病などのテーマは、つまらぬお笑い付きで見たり考えたりすることではなかろうと思うからである。

しかし、妙に暗く深刻な顔だけで見るのでは、息が詰まってしまい、考えたいことも考えられないだろうという、TV局側の思いやりで、こうなっているのかもしれない。だとすると、今ごろのTV局番組制作者は、あまりにも思いやりが多過ぎる様な気もする。この世がお笑い芸人ばかりで演出されるようになってしまったら、人が生きるために最も大切な、「悲しみを解る心」が置き去りにされてしまうような気がして、心配なのである。

お笑い芸人の個々人の、他者を笑わそうとする努力の凄まじさは、70年以上も人間をやっていれば、よくよく理解できるのだけど、姑息な笑いづくりはほどほどにして、思い出してもほのぼのと笑みが浮かんでくるような質の高い笑いをもっともっと創出し、提供して欲しいと思っている。当世のお笑い芸人の中に、そのような本物の笑いの芸の披歴をあまり見たことがない。(これはお門違いの愚痴になってしまった)

というわけで、いつものように本題から脱線してしまったけど、そのアルツハイマー病については、番組の中ではタレント・芸人さん達も笑わそうという意識の裏で、ちょっぴり不安を抱えたようなムードが流れているのが感じとられた。それはそうだろう、この世で最も恐ろしい病といえば、それはアルツハイマー病に決まっているからである。自分はそう思っている。認知症とも言われるこの病は、生きながらにして人間を人間の世界から離別させ、個人としても、社会の中でも、自力では生きられない一介の動物にしてしまうのである。癌や心臓疾患など死亡率の高い病も幾つかあって恐れられているけど、アルツハイマー病の怖さは、死への恐怖ではなく、人間として生きられなくなる恐怖であることが決定的な違いなのだ。これは、ある意味では死以上に辛く、厳しく、悲しいことではないか。自分はそう思っている。

アルツハイマー病の原因は、脳の萎縮によるという説明があるけど、ではなぜ脳は萎縮するのかという説明は曖昧だ。脳科学者などという方がいて、あれこれと語っているけど、科学の世界では、現象の追求が殆どで、脳が生み出している心の働きの世界の本質に触れる説明はあまり聞いたことがない。脳の部位の役割が何かは理解できても、それらの個々の働きを総合した「心の働き」については、依然謎に包まれており、恐らくこれは永遠に謎なのではないかと思う。

しかし、自分のような世代になると、この恐ろしい病に対して何の備えもしないというわけにはゆかない。それで、自分なりに認知症対策といったものを心掛けている。というと、大げさになるけど、自分的には実はそれは老計と死計の実践ということになるのである。「死計は老計の中にあり」であり、「老計=死計」というのが自分の信念となっている。そして、今はその目的を「PPK=ピン・ピン・コロリ」とし、老計の実践に取り組んでいる。

その実践の主柱は「活き活きと生きる」ということにある。そのための最重要手段が「くるま旅くらし」であり、そこで拾った出会いの宝物をエッセーにして残すというのが、我が老計の基本構造なのだ。さて、ここまでは理屈めいていて、そんなことはお前さんの勝手ごとじゃないの、ということになると思う。だから、あまり参考にはならないと思う。問題は、毎日何をどうやっているのかということであろう。それが、これから少し自慢げに紹介したい内容なのだ。

そのTV番組の中で、アルツハイマー病の予防に触れた一幕があった。それが、我が意を得たり!というものだった。勿論、そこで紹介された予防法を実践していれば、決して病に取り付かれることは無いという保証など何もないわけで、ま、厳しく言えば気休めということになると思う。しかし、そもそも健康法などというものの類は、知識だけでは何の役にも立たず、実践あって初めて成果につながるのである。「医者の不養生」とか、「紺屋(こうや)の白袴」では、己自身の健康は確保できないのだ。自ら実践しなければダメなのである。実践とは継続であり、行い続けるということも大事なことなのだ。自分はそう思っている。

さて、そこで紹介された内容なのだが、アルツハイマー(≒認知症)予防の有効項目として掲げられたのは、次の4項目だった。

①運動習慣

②知的活動

③昼寝

④飲酒

全部、今自分が心して実践していることばかりである。まさに、我が意を得たり!だった。少し自慢げに説明してみたい。

この4項目は、本当に只今実践中なのである。先ず①だけど、これは糖尿病君のおかげで、もう20年以上に渡って毎年間500万歩程度の歩きを実践している。特に昨年からは三浦雄一郎氏のエベレスト登頂の刺激を受けて、歩行鍛錬の他に筑波山登山も開始しており、TV番組の中で話された事例の運動量などは、自分的にはチャンチャラ可笑しいほどなのだ。それくらい運動習慣は身についている。

②は何といってもこのブログの存在とそれから旅のエッセーやその他のもの書き仕事への取り組みである。ものを書くには、調べるという作業が不可欠で、併せて考えるという仕事もおろそかにはできない。従って、頭を使いっ放しの時間が結構多いのである。数理的な思考の時間は皆無に等しいけど、それ以外の分野では、頭を使っている方ではないかと自分では思っている。

③の昼寝だが、よくぞまあこれを4項目に入れて下さったと、感動するくらいのものだ。というのも、本格的に意識して昼寝を始めたのは、古希を過ぎてからなのだ。還暦少し前の現役の終わりが近づく少し前あたりから、仕事のメインの時間を昼夜逆転させて、朝の2時頃(=実際は深夜)にすることにし、夕刻18時頃からの早寝を実践するように生活習慣を変えて来たのだが、引退後は日中の仕事が自在にできるようになったので、昼寝をすることが幾らでもできるようになった。それでも古希頃までは、昼寝をすることに多少の罪悪感のようなものがあって、よほど疲れた時以外は寝床にもぐるようなことはしなかった。しかし、古希を過ぎてからは、身体の方が午睡を求めている様な気がして、いつの間にかそれに素直に従ってしまい、現在では日に2~3時間の午睡は当然の日課となっている。まさかこんなことが認知症の予防に役立つなどとは思わなかった。しかし、考えてみれば、身体を休めると一緒に頭を休めるというのは、理に叶っているように思う。本当は、生命体としては、現役の時でもそうすべきなのかもしれない。けれども、社会慣習がそれを許さないようになっており、引退してようやくそのしがらみから解放されたということなのかもしれない。昼寝をすると活力が増すのは厳然たる事実である。

④の飲酒は、常に過飲に問題を抱えていた。つまり、飲めばいいなどというレベルではなく、飲み過ぎということなのだ。糖尿病君に取り付かれて彼と仲良くなったのも、その要因は過飲と過食にある。それにも拘らず飲む方は糖尿君がどんなに諫めても、抜本的に断つということを考えたことは無い。それは自分の一つの信念であり、酒のない人生などこの世にあってはならないと思いこんでいるからなのだ。しかし、古希を過ぎてからは、もはや「過」というレベルには至らなくなってきている。TV番組の中では、医師の方がその量をワインなら3杯といっておられたけど、それに比べれば今でも少し多いのかもしれない。だけど、アルコールの純粋量からすれば、ワイン3杯に比べてそれほど違わないレベルの飲量になって来ていると思う。「酒は百薬の長」というのは、いたずらに長生きするためのものではなく、活き活きとした人生を全うするために酒が良薬の最上位なのだという意味なのであり、酒も飲まずに暗い萎びた毎日を送るなんて、自分的にはお気の毒の極みのようにしか思えない。これからも酒は我が終生の友である。

ということで、偶々放映の内容が己の現在の暮らし様と一致しただけのことなのだが、これが恐ろしい認知症を防ぐに役立っているという医師の方々の説明には、つい嬉しくなってしまって、思い上がりの記事となった次第である。

老後(※このことばは嫌いなので使いたくないのだが、意外と多く使われているので、ここでは使うことにした)をどう生きるかというテーマは、同世代の人たちにとって最大の関心事ではないかと思う。古希を過ぎれば、どんなに元気な人でも己の老いというものを実感し、今現在の生き方に不安を抱くのではないか。お釈迦様のおっしゃる人生不可避の出来事は「生・病・老・死」だけど、その不安の最大のものが、認知症ではないかと自分は思っている。なぜならば、認知症は、生きながらにしてその人から「生」を奪い、同時に一気に「老・死」を与える恐るべき病だからである。今回は妙な自慢話のようなことになってしまったけど、同世代諸氏には、知識としての認知症の怖さを自覚するだけではなく、それを防ぐための何らかの実践行為の継続をアピールしたい。高齢者が活き活きと生きられる社会は、一人ひとりの高齢者の行動(=生き方)が作り出すものであり、それは現実には、自分自身が作り出さなければ生まれないものなのだ。

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開設8年目を迎えました

2014-02-01 12:00:32 | その他

今日で、ブログ開設満7年となり、8年目を迎えました。一体どうなるのかとの不安を抱きながら始めたブログでしたが、お読み頂ける皆様に支えられて、お蔭さまでここまで辿り着くことが出来ました。

元々パソコンやネット関係については、無関心というよりは、「あんなものは碌なものではない」という、時代に遅れかかっている者の虚しき強がりがあって、敬遠忌避していたのですが、還暦を迎える頃から、あまりにもそのスピードが速まって来て、このまま強がっていると一気に時代から置き去りにされてしまうのではないかという恐怖にとらわれ、無駄な抵抗を止め、自分なりに活用できる道を探そうと決心したのでした。

ホームページやブログを始めるきっかけとなったのは、十数年前に村山孚(まこと)という方の、ホームページ開設についての記事を、ある機関誌で拝読したことでした。私がまだ還暦を迎える少し前だった頃、そこに掲載されていたのは、村山さんが70代半ばでホームページを開設されたという記事でした。村山さんは出版関係の仕事に従事されておられた方で、中国研究家としても著名な方で、多くの著作を残されていますが、既にお亡くなりになられたようです。その「午後の喫茶店」というタイトルのホームページに、ご自分の心象を長年にわたって綴られました。その記事を読み、そのホームページを拝見して、大変な刺激を受けたのでした。自分よりも遥かにお年を召された方が、斯くも自在に新しいツールにチャレンジされ、それを自在に活用なさっているというのに、ただ徒(いたずら)に忌避しているだけで、何もしない自分の怠慢に気づかされ、冷や汗が出る思いでした。

その当時は、まだブログというものの一般化が始まったばかりで、この種の記事の多くはホームぺ―ジが主体でした。ホームページというのは、内容が固定的で、毎日更新するというのが少ないスタイルが多いようです。一応私もホームページを立ち上げてみましたが、エッセーなどを毎回更新するとなると、その手続きや操作が面倒で、なかなかスムースに行かないことに少しイライラしていました。その時ブログというものがあることを知り、こちらの方が内容の更新が遥かに楽なのを知り、いろいろ調べた後の、恐る恐るの開設となった次第でした。

あれから7年が過ぎて、私も早や村山さんが「午後の喫茶店」を始められた頃の年齢に近づきました。おかげ様で、この7年の先取りは、私をかなり元気づけて下さったと思っています。7年の間に約30万人の方にアクセス頂き、85万件を超えた閲覧を頂戴しているのは、何ともありがたいことです。

当初はくるま旅くらしについての自分の記録や思いをお伝えしようと考えていましたが、それだけでは自分的に満たされないものがあり、「宵宵妄話」と称して私の老人としての繰り言の類を載せさせて頂くことにしました。それから画像を載せるために写真を撮っている内に、写真と短詩形の風刺的表現とを結びつけた形の記事も面白いなと「ホト発句」というのも繰り入れました。そして、最近は歩行鍛錬から始まった筑波登山に絡むあれこれを「筑波登山の記」として載せることにしています。何(いず)れ、これらのカテゴリーについては、整理する必要があるとは思っていますが、もうしばらくはこのまま続けたいと思っています。

ところで、私のブログは文章ばかりで、それがくどく長いので、読みづらいのではないかと思っています。思っていますが、これを改める考えはありません。

今の時代は、映像や音声が中心、そして文章などは殆ど無く、会話を文字変換した程度の、真に視覚的な、刹那的な表現の時代になっており、その利便さには文句のつけようがありませんが、人間の心の深さを表わすにはあまりにも軽すぎる感じがしてなりません。拝見する多くのブログは、解説なしの写真や寸にも満たないことばの羅列で、賑やかに彩られている感じがします。一時の慰めにはそれも必要・大切だとは思いますが、その連続だけでいいのかなと思ってしまいます。

私は、そのような時代の流れには、老人として抵抗感を拭い去ることはできません。だから、これからも頑固に今のスタイルを続けてゆこうと思っています。但し、文章のくどさはやはり何とかしなければいけません。あの世に行くまでには、何回かは安心して読める文章を書いて見たいなと思っています。これが、私の現在のブログにおける課題です。8年目を迎えての所感でした。では。 馬骨拝

 

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