山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

壷中の天

2013-03-25 08:37:40 | 宵宵妄話

  依然として思考停止の時間が続いています。今年の花粉の酷さは、例年の比ではなく、これは我が身が一段と老化が進んだ証なのかもしれません。今まで1日1錠飲むだけでなんとか凌いでいた顔面むちゃくちゃ症が、今年は朝夕各一錠ずつ計2錠飲んでも防ぐことが叶わない日もあり、とにかく早くこの苦痛の環境が過ぎ去ってくれるのを願うのみです。今、桜の花は満開のようですが、こんなに早く満開になってしまうとは、正気の沙汰とも思えません。花を見に行く決心もつかないまま、戸惑いの中に桜の季節が終わってしまうとは。こんなことでは、これからの歴史は昨日に繫がらなくなってしまうのではないかと思うほどです。

 ここ数日は外へ出るのに危険を感じて、家の中に籠ったままで過ごしたりしているのですが、酒のラマダンも終盤に入り、抑圧されたストレスの噴出も怖いので、先日危険を冒して隣の柏市で開かれていた千葉県日本水彩展というのを見に出掛けてきました。元勤務した会社の先輩が出品されているとの案内を頂戴し、又家からは比較的近い会場だったので、気分転換にはありがたい催しでもありました。自分と同世代の先輩(1歳年長)は、リタイア後に水彩画を始められたのですが、メキメキと才能を発揮されて県展にも上位入賞されるなど輝かしい成績を収められていて、今年も大きな大会に出品されているのでした。その感想文です。

 こんなことを言うと失礼になるのですが、その先輩にこれほどの才能が潜んでいるとは思いもよらぬことでした。現役時代の彼の絵といえば、退屈な会議の時間に同席していて、何ごとぞと隣を覗くと、会議メンバーのどなたかの姿なのやら、何やら漫画風の人物の落書き模様が紙に記されていたのを思い出すくらいなのでした。そのようなお人が、定年後の夢としていたゴルフ場全国制覇を諦めたのは、膝の故障が契機だったようで、リタイア後に水彩画の同好会のようなものに加入されたのは正解でした。それに思いのほか興味をもたれたらしく、当初はとにかく1000枚の絵を描くのだと張り切って、毎日スケッチに取り組んでおられたのを思い出します。1000枚の絵といえば、一日一枚を描いて仕上げたとしても3年近くを要する大業であり、さて大丈夫なのかと半ば呆れながら心配したものでしたが、見事それもクリアされ、加えて市の展覧会に特選を果たされたのは驚きでした。

 彼のその時の作品は沖縄への旅をした際のスケッチを元にした壺を描いたものでした。どこかの港の隅にでも置き忘れられていたのか、貝殻などの付着したどこにでもあるような壺を、柔らかな線と色で描いた印象的な作品でした。この時から彼の作品のテーマには何かしら壺が取り上げれられるようになったようで、今回の作品も壺をモチーフとしたものでした。作品のタイトルには「沖縄」と「兵士」と付けられていましたが、そのいずれも壺を通して描かれていると見受けました。彼にとって、壺というのが現在の作品制作においては重要なテーマなのだと思いました。その作品を紹介します。

    

 第29回千葉県日本水彩展に出品された、先輩のHさんの作品。左は「兵士」(F20)右は「沖縄」(F50)というタイトル。何れの作品も壺を通してそのテーマをアピールされている様に思った。

ところで、今日のブログの自分のテーマは、「壺の中の世界」というものです。中国の故事に「壷中の天」或いは「一壷天」といわれるものがあります。この出典は後漢書とか。その故事とは次のような話です。

「あるところに店頭に壺を置いて薬を売っている老人が居り、その人を見ていると、毎日商売が終わるとフッとかき消すように見えなくなってしまうとのことです。それを不思議に思った或る男が、終日じっと観察していると、何とその老人は商売が終わるとするりとその店頭の壺の中に入って行ったということです。それを不思議に思い、その男は老人に頼んで自分も一緒にその壺の中に入れて貰ったとのこと。すると驚いたことに、その壺の中には立派な建物があり、その家の中の部屋には美酒・美肴が溢れて並べられていたという。つまり、そこには別天地の仙界があった。」という話です。

 「壺」ということばやテーマに触れ、思い起こす時、自分はいつもこの「壷中の天」という故事を思い出してしまうのです。先日の先輩の絵を見て思ったのは、彼は彼自身の壷中の天を描こうとしておられるのだということです。壺の中に封じ込められた、彼自身の世界を表現しようとしているのだと思うのです。というのも、私自身もエッセーを書く際には、自分自身の壺の中の世界の出来事の一つとして、そのテーマを取り上げ書こうとしているのですから。

思うに全ての人は、夫々自分だけが自由に出入りできる、彼の仙人の様な壺を保有しているのではないでしょうか。人は誰でも己の保有する壺の中に、天の存在を見上げながら生きているように思います。つまり、誰もが一つの壷中の天を保持し、その中に生きているのです。壺を持たない人などこの世には存在しないように思えるのです。壺の中に仙界があるかどうかは別にして、自分の壺の中だからこそ、人はそれなりに安堵して呼吸をし、生きて行けるのではないかと思うのです。

 壺ということばが気に入らなかったら、殻ということばに置き換えてもいいかもしれません。人は誰でも自分の殻で己を覆って生きています。殻なしの人間なんて、居るはずがありません。何故なら、人が生きるための知恵というのは、即ち殻の成長と伴に生まれ育ってゆくものだからです。それを知りながらも、時に人は、全ての殻から解放されたいなどという自由を望んだりしますが、それは幻想というものでしょう。その人の真実と現実は、己の殻の中、すなわちその人の壷中の天にあるのです。

そのことに気づけば、人は己の壺や殻を壊すのではなく、時々上手にそこから出入りして、別の種類の楽しみや喜びや悲しみを享受すべき存在のように思えます。古の賢人には、既に壷中の天の必要性が見極められていたのかもしれません。絵画に挑戦している先輩の壺を見ながら、あれこれと己自身の壷中の天を思ったのでした。

 それにしても、只今の季節はもうしばらく己の壺の中に息をひそめて、我が天の澄み渡るのを待つばかりです。

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花たちが教える春の訪れ

2013-03-15 12:44:00 | その他

  このところ悪魔と化した花粉に見舞われて思考停止の状態ですが、先日大風が吹いて砂塵を舞い上げて荒れ狂った後に、雨らしい雨が降って、少し大気が落ち着いた隙を見計らって、5日ぶりの散歩に出掛けました。

今ごろの季節は、ポカポカ陽気のいい天気の日は外出が恐ろしくて殆どを家の中で過ごしているのですが、普段動き回っている者にとって、好天の日中に閉じこもってじっとしているストレスというものは、これはもう大変なものとなります。いつもだとこんな時には親しき友の詰まった瓶などを取り出して、その悪友との友情を深めて後、直ちに惰眠の世界に飛び込むという筋書きになるのですが、今年はうっかり酒のラマダンなどというのに取り組んでしまったものですから、真面目にストレスと向き合うしかありません。

そのような状態を打ち破るかの如く春の嵐が吹き荒れ、雨が降って鎮まった後のひと時の外出は、かけがえのない喜びなのでした。5日ほどのご無沙汰でしたが、いつもの歩きのコースのおちこちに春を告げる木々の花たちが、昨夜の雨の恵みを目一杯享受しているかの如くに微笑んでいました。中には、歓声を上げるかの如く満開の花もありました。それらの幾つかを、ずらずらと勝手に紹介させて頂くことにします。

<コオリヤナギ>

コ(ウ)リヤナギとは行李柳と書き、その命名はこれを反対にすると判り易いと思います。即ち、「柳行李」となります。今は見られなくなりましたが、戦後間もない頃まではどこの家にも柳行李という少し大型の手編みの蓋つきの入れ物があり、その材料となっているのが、行李柳の木の皮なのです。木の名前とそれを材料とした製品が逆の名付けになっているというのは珍しいように思います。写真は、散歩の途中の栽培放棄の水田の後に自生しているコウリヤナギの小さな林の芽吹きに気づいて撮ったものです。萌黄色の柔らかな緑がつい先日まで凍てついていた湿地からの解放を告げているかのようです。

<ユキヤナギ>

これは誰にも馴染みの灌木だと思いますが、柳の枝のように広がった何本もの枝に無数ともいえる純白の小さな花をつけて、春の訪れを告げてくれる樹木ですが、今、ようやく花の一部がほころびかけています。株全体を白く染め上げる日もそう遠くないようです。

<トサミズキ>

 早春の庭先によく見かける花の一つです。似たような花にヒュウガミズキがありますが、こちらの方はこのトサミズキよりも花が小型で、その分数が多いようです。大型である分だけ、トサミズキの方が落ち着いて春を告げてくれるような感じがしています。

<サンシュユ>

 サンシュユは、山茱萸と書きます。茱萸とはグミの実のことであり、赤い色をしていますが、この木の実も秋になると真っ赤な実をつけます。花の鮮やかな黄色からは想像もつかない実の色ですが、うっかりしているとこの木の春と秋の存在を同じとは思わないことになります。私自身もそれを納得するまでに少し時間がかかりました。

<ニリンソウ>

 ここからは木ではなく草の名前です。漢字では二輪草と書きます。その名のように花の多くは二輪咲きなので、この名がつけられたのでしょう。写真は我が家の野草園のものですが、元々は玉川上水の畔に自生したものを招いたものです。どんなに寒い季節でも、今頃になると固い土を持ち上げて芽を出してくれます。我が家では一番の春を告げてくれる野草です。花が咲くまでには未だしばらく時間がかかりそうです。

<ギョウジャニンニク>

 漢字で書けば行者大蒜となります。北海道では、アイヌネギと呼ばれているようです。山菜の中でも独特の存在だなと思うのは、やはりその香りにあると思います。味噌をつけてそのまま食べるのが自分流ですが、周りの人たちからは歓迎されないのが残念です。この写真のは、数年前に小樽に住むKさんから分けて頂いたものを庭先に植えたものです。勿体ないので食べる気は起らず、花が咲き実を結ぶまで大事に鑑賞しています。

<ショウジョウバカマ>

 我が家の春を決定づける野草であり、この花が咲くと本当に春が来たのだなあと実感するのです。これは東北の春旅の途中で思わず持ち帰ったものですが、東北の山野にはどこにでも自生している花のように思います。毎年花は一つだけなので、可哀想なのですが、やたらに増やそうとは思ってはおらず、自然と増えてくれるのを待っているのですが、今年も株は増えてはくれないようです。この花が咲き終える頃には旅に出掛けられることを夢見ています。

 

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思考停止の季節

2013-03-10 23:05:30 | 宵宵妄話

 毎年、今頃になると思考停止の時期を迎えることになる。今年もそれがやって来た。花粉の季節である。目は潤んで視界が霞み、頭は重い痛さに膨れ上がり、鼻は詰まって涙を流し、喉はその壁にびっしりと埃を張り付けた様になる。薬を飲んで、辛うじて卒倒するのは避け得ても、思考は後ろへさえも戻ることもできず、止まったままとなる。花粉たちの怨念にがんじがらめにされて、いやはや、まさにどうにもならない。処置なしとはこのことである。

 今日(3/10)は、一歩も外へ出なかった。リビングのシャッターだけは上げたけど、その他の部屋のシャッターは全部締め切り、書斎と寝床とリビングを何往復するかに止めての暮らしだった。それでもベッドに仰向けに寝ていると、音もなく花粉が顔に積もるのが判るのである。枕元に濡れたタオルを置き、それで時々顔を拭うと、詰まった鼻が解放され、目元が明るくなるのは、花粉が取り除かれた証のように思える。

 今年の花粉は異常である。もし杉やヒノキたちが、生命の危険を感じとって、生き残るために全力を挙げて花を咲かせようとして、その粉を飛ばしているとしたら、この異常さは地球を只管(ひたすら)汚染し続けている人間という生きものへの精一杯の抵抗の証のような気もする。近年ますます異常化する花粉の飛散に加えて、今年は人間自らが作り出しているPM2.5と呼ばれる悪粉も混ざって、人間は天に向かって唾を吐き続けている様だ。もしかしたらその唾の中には原発事故で撒かれたセシウムも含まれているのかもしれない。

 明日は東日本大震災以降3年目を迎える日だ。昨日から現況についての様々なレポートなどが伝えられているけど、心底から安堵を覚えるような成果は挙がっておらず、被災地の方々も我々も依然として大きな不安の中に蠢(うごめ)いている。特に不安が膨らむのは原発事故に対する後処理と将来対応である。津波災害の復興については、その方法論に問題があったとしても、時間をかければ解決への道が開かれると考えられようが、原発事故に関しては、どんなに時間をかけても今の人類レベルでは人工的な解決法は見当たらない。

原子力のエネルギー利用については、人類はその負の部分を拭い去る技術を未だ保有してはおらず、ただその悪行を覆い隠し自然界に封じ込めるしか術(すべ)を持たないようだ。使用済核燃料の最終処理も、ただ地中深く埋めるだけというのであるから、それは技術と呼ぶもので無いのは明らかだ。今回の事故は、それら人類の原子力の平和利用なるものの限界を世界に向かって露呈していると言ってよい。原子力は自然や生きものを破滅させる能力だけが本能であり、それ以外はまやかしである。

それなのに、この国の政治はエネルギー政策から原子力を除外しようとはしていない。今回の事故の教訓は早くも忘れ去られ、現実の功利主義の世界の中に隠ぺいされようとしているかのようだ。そこに政治の限界があり、経済倫理の限界も覚えずにはいられない。こんな風に言うと、きれいごとでは世の中は成り立たないというセリフが聞こえてくるのがわかる。そして、それは現実論の中では常に力を持つ存在となっている。だけど、地上(=地球上)に人間の負の遺産が溢れだしている今、そのままの現実論を進めているだけで本当にいいのだろうか。ここまで来て、自分の思考は完全停止となっている。

花粉の季節は思考停止の季節でもある。花粉が降り積もるのを止めるまでは、しばらくブログも休まざるを得ない。明日は、それでも祈ることだけは止めるわけにはゆかない。

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明るい農村と農家の嫁と百姓を讃える

2013-03-08 06:37:26 | 旅のエッセー

  鹿児島県に「明るい農村」という焼酎がある。霧島町蒸留所というのが、その蔵元なのだが、そこではこの銘柄の他に「農家の嫁」「百姓百作」などいう銘柄の焼酎も作っている。これらの焼酎のキャッチフレーズがいい。実に気に入っている。「明るい農村」と「農家の嫁」については、次のように文句を謳っている。「良き焼酎は良き土から生まれる。良き土は明るい農村にあり。明るい農村は農家の嫁が作る。そして「百姓百作」については、「百の仕事をするから百姓。何でも作るから百作。創意工夫の世界 それが百姓百作です。とある。素晴らしいうたい文句であり、キャッチフレーズだと思う。

 時あたかも我が身は酒のラマダンの真っ最中の先日、ビッグニュースがこの醸造元からメールで送られてきた。なんと、「明るい農村」が、平成24年度の鹿児島県本格焼酎鑑評会(平成25年2月8日開催)で第一位となる「総裁賞代表受賞」に選ばれたとのことだった。鹿児島県の本格焼酎といえば、勿論断然に芋焼酎であるから、その第一位といえば、これは日本でも最高位といってもいいのではないか。つまり、芋焼酎日本一ということである。早速お祝いに何本か発注すべきなのだけど、いや、待てよ、今はラマダンの真っ最中ではないかと、妙にその目標達成意欲が我を発して、注文するのは先送りすることにした。この焼酎が鹿児島県ナンバーワンとなったのは嬉しい。実に嬉しい。

 この焼酎に何故こんなに入れ込むかといえば、勿論何といっても芋焼酎らしい美味・美香の焼酎だからである。それは当然として、その他に自分には二つの理由がある。その一は、昨年の九州の旅で、偶然にその醸造元の蔵に寄れたことであり、もう一つは少し専門的になるけど、この販売元のマーケティングの姿勢が自然体のワンツーワンスタイルに近づいているのを感ずるからである。それらのことについて触れてみたい。

 まず、昨年の春の九州行で偶然にも蔵元の霧島町蒸留所に立ち寄り、何本かを買い求めたことが何よりもぐっと親近感を増したのだった。それは全くの偶然だったのだけど、霧島神宮に参詣した後、県道60号線を下って鹿児島湾に向かっていると「明るい農村」という看板が目に入った。おっ!と思った。しかし発見が遅かったので通過してしまった。普通だとそのまま、まぁええか、と通過してしまうのだが、どうも気になって珍しく来た道を戻ることにした。

「明るい農村」というのは、知る人ぞ知る薩摩焼酎の名品なのである。今の住まいの守谷市内の普通の酒屋では見かけることはなく、何故か、大手ホームセンターの酒類売り場の隅にある、鍵のかかったプレミアム焼酎の置かれた棚の中に数本が納まっている(最近になって入庫が増えて棚の外にも並べられるようになったが)という存在なのだ。

この焼酎との出合いは、数年前のキャンピングカーのクラブキャンプで、どなたかが持参されたのを、ずいぶん妙な名前だなと思いながら飲んだのが初めてだった。少しバカにするような気持ちで、冷やかし半分に口に入れたのだったが、たちまちその姿勢を改め、正したのだった。その焼酎には、イモ焼酎独特の香り(においなどという人がいるけど、それは明らかに誤りである)があって、実にまろやかな味わいのある美酒なのだった。イモ焼酎の美味度が判るまでには、かなりの時間を要すると思うけど、あの香りを臭いなどと言っている人には、その美味さは永遠に解らない。お気の毒なことではある。

と、まあこのような経緯(いきさつ)があって、「明るい農村」という銘柄は我が心の中に定着していたのである。この名前に惹かれるのは、自分が茨城県の片田舎の開拓地農民の出身であり、農村とか百姓とかいうことばに大いなる愛着を覚えるからでもある。学生時代に、母が中心に営農していた我が家の農作業を手伝っていた頃(1960年前後辺り)、NHKで農村向けのラジオやTVなどの放送番組に「明るい農村」というようなのがあったように記憶しているけど、我が家のような兼業の小規模農業とは無縁の内容が多かったように思う。その頃は将来どんな仕事に就くか考えたこともなく、ただ母の労苦を少しでも楽に出来たらいいと、勉学の合間を縫って農作業に従事していたのだった。汗水たらして働くというのはこういうことなのかというのを、農作業を通して十二分に教えて貰ったのを思い出す。今でも農業が嫌いということはなく、リタイア後は一時畑づくりをするのもいいなと思ったことがある。結局、くるま旅くらしを見つけて、それは家庭菜園どまりとなり、一昨年の原発事故以来はその楽しみも不意となってしまっている。明るくても暗くても農村はこの国の原点だと思っている。

さて、話の続き。車を戻して明るい農村の看板の出ている霧島町蒸留所の駐車場に止め、そこの販売コーナーを覗くことになった。さして大きくもない販売所だったけど、店内には「明るい農村」初め何種類かの銘柄の焼酎が並べられていた。試飲もできそうだったけど、運転者には残念でも禁物。店内には若者世代の何人かの女性が店番の担当をされていた。霧島町蒸留所という名なので、町の経営なのかと思って訊いて見ると、そうではなく民間の株式会社とのこと。せっかく寄った記念にと、未だ一度も手に入れたことのなかった焼き芋を原料とした「農家の嫁」他の何本かをものにした。若者たちの応対はきちんとしていて、心地よかった。明るい農村の雰囲気が店の中に満ちているように感じた。親近感がいや増したのを覚えている。

その時はそれで直ぐにおさらばして次の目的地に向かったのだが、旅から戻ってしばらくして北海道の旅に出掛ける前に、彼の名品を何本か手に入れて持参しようと霧島蒸留所へメールで発注したのである。そこから先がこの焼酎に入れ込む第二の理由となる。その受注の報告のメールの内容が素晴らしかったのである。それで、益々この焼酎が気に入ってしまった。

自分の元の仕事に関係するので話は控えめにしたいのだが、自分は学生時代マーケティングを学び、就職後もその発想をベースにして仕事をしてきたという思いを持っている。就職先の企業は、直接的にはマーケティングというような考え方を意識して持たなくても事業が成り立ち易い業界だったので、社内で表立ってマーケティングの話を持ち出したことはなかったけど、自分の仕事に関してはコミュニケーションを基本としてのマーケティングの発想を重視して取り組んできたつもりでいる。

そのマーケティングも今の時代では、細かい手法などはかなり様変わりして来ているのだろうけど、その根本哲学というか、情報の送り手側と受け止め側のズレを最小限化するという考え方には、変わりはないと思っている。マーケティングをここで本気で論ずるつもりはないけど、マーケティングには二つの形があり、それはマスマーケティングとワンツーワンマーケティングに分けられる。マスマーケティングというのは、情報の送り手に対して受け手がマス(=大衆)のものであり、ワンツーワンマーケティングというのは、情報の送り手に対して受け手も一人(特定の個人)というスタイルを意味している。今の世の主流は依然としてマスマーケティングにあると考えられるけど、IT技術の進化したこれからの世の中では、ワンツーワンマーケティングがより重要性を高めることになってゆくと考えられる。つまり、不特定多数のお客様へのアピールというスタイルだけではなく、そこからもう一歩突っ込んで絞り込んだお客様や特定化したお客様への働きかけが重要となって来るということである。このような働きかけは、インターネットやメールなどの通信技術が発達したことによって、スピーディに且つタイムリーに情報の交換が可能となったのである。

このようなコミュニケーションツールの改革がなされて来ている現在、ワンツーワンマーケティングの実現の実態を見ると、自分の近くの様相としては、毎日何通かの販売情報等に関するメールが送られてくるけれども、それは宛名が自分のメールアドレスであるということだけであって、その内容は通り一遍のお仕着せの情報であり、マスマーケティングの手法から一歩も出ていない。そのような情報には、煩わしさしか感じないのが実態である。ネットで何か商品を発注した時でも、そこでのやり取りは同じようにありきたりなのである。

ところが、霧島蒸留所への発注の時の返信は違っていた。勿論受注のお礼などは丁寧に述べられていたけど、それだけではなく、そこには受注業務にかかわったご本人の客に対する思いのようなものが伝わってくることばが述べられていたのである。鹿児島県の霧島市近郊の様子を伝え、且つ関東の見たことも聞いたこともないであろう茨城県の片田舎へ寄せる思いのようなものが書かれていたのだった。まさにお客を「個」として扱い、自らも「個」の存在として商品を媒介しているという姿勢が、自然体の中で感じられたのだった。まるで、新しい人との出会いと同じような感動を覚えたのである。商品の取引に関して、このように直接向こうにいる「人」を感じたのは初めての経験だった。これこそがワンツーワンマーケティングの実践事例だなと思った。この霧島蒸留所の従業員全員が同じような応対をされているかどうかは判らないけど、その人(=Iさん)のように自然体でお客とのつながりを大切にしている人がおられる企業は、間違いなく確実に信頼と信用を増してゆくに違いない。ワンツーワンマーケティングが、単に商品の販売促進の技法などとして形だけの使われ方に止まることなく、コミュニケーションの送り手と受け手の心をつなぐ手段として生かされるようになることこそが、マーケティングの真髄というものであろう。

随分と長い話となってしまった。霧島蒸留所の回し者のようなことを書く結果となってしまったが、後悔はしていない。自分にとっての真実なのであるから。それにしても酒のラマダンの最中の吉報というのは、どういうことなのだろう。バッカス(=ローマ神話の酒神)さんが東洋のアホ者を揄(から)かって下さっているのかも。アルコールなしでも心はいつでもいい気分になれるという話でした。

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酒のラマダン半分通過

2013-03-05 06:38:52 | 宵宵妄話

  2月1日開始した酒のラマダン行(ぎょう)が2日で目標の半分を通過しました。最終ゴールが3月31日ですから、通算で59日の我慢(?)となり、開始後30日というのは、半数をクリアしたということになります。親しき知人と面白半分に取り組んでいる試みなのですが、今のところ三日坊主どころか、その十倍もの時間が過ぎても、酒の類は、一滴も口には愚かその香りさえも寄せ付けることなく過ごしています。唯一誘惑を防ぎ得ないのは、TVや小説の中に登場する飲酒場面の刺激のみです。

 この頃は、もしかしたら自分はもともと酒とは無縁の人間だったのではないかとさえ疑いを持つ有様です。成人式を迎える前から始めた酒飲みは、歳を数えるごとに次第にその量を増し、30代後半くらいでピークに達し、その後は漸減の傾向は示しているものの、50代で糖尿の宣告を受けても、その始まり時に3カ月の休酒をした以外は休むことなく体内にアルコールを摂り続けていました。それなのに、この1カ月はそれらの全てを忘れ果てて、僅かにTVや読み物の中に酒の存在を気づかされているというのは、これは一体どういうことなのだろうか?と、何だか不思議な気持ちになってきています。これは、本来喜ぶべきことなのかもしれませんが、こんなに簡単に長年のこだわりが消えてしまうような現象にぶつかると、却って不安が湧きだすというのは、思っても見ないことでした。この雑文は、酒のラマダンの中間報告のつもりで書いているのですが、とにかく今のところは禁断症状などとは全くの無縁であり、却ってこのあまりの素直な成り行きに驚いている状況です。 

 さて、この有様から、この先どのような運びとするのか。恐らくこのままでは3月末日まで何の疑いもなく酒飲みを忘れ続けることになるのは必定でありましょう。とすれば、その目的を達した後の決断として、身体のことを考えてこのまま忘れ続けることを選ぶのか、それともそのような愚行は切り捨てて元の酒飲みに戻るのか。まるでシエイクスピアのハムレットのかの有名なセリフ[to be or not to be:that is the question]のような(こんな比べ方をしてはなりませぬ)気分なのですが、その結論は決まっています。

 それは勿論、元に戻るということです。身体を壊さしめない様に心を用いながら、心の活性化のために不可欠の酒の類を今まで以上に味わいたいと考えています。そして最終的には、このような酒のラマダンなどという愚かな企画を弄(もてあそ)ばずとも、その年齢の身体と心に適った自在の酒を楽しめるように、もう少し成長してみたいと思っています。

 (以上、中間報告でした。このところ全くの内弁慶の気分で、家の中に籠っているばかりで、旅の季節がなかなか近づいてきてくれません。今週半ば過ぎからは少し暖かさが増すようなので、大いに期待しているところです。)

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