山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

今年の我が身の5大ニュース(その2)

2018-12-26 22:01:53 | 宵宵妄話

 残りの二つは我が身に起こった二つの事態である。二つとも健康に係わるものだ。真老世代(75~85歳見当)ともなれば、老の深まりにつれて身体状況の変化や病などに係わりを持たないという人は居ないように思う。精神はともかく身体面では老化現象を実感せざるをえなくなる。動物という生命体の宿命というものであろう。その速度は個人差があるのだろうが、傾向と向かう先は不変だとも言える。

 さて、我が身の今年のニュースとして取り上げるものには、二つあるのだが、それは次のようなものである。

①原因不明の眩み症状の襲来

②前立腺がんの生体検査のための入院

 先ずは眩みの話なのだが、その症状というのは、歩いている最中に眩みに見舞われるというもの。眩みには立ち眩みなど急に立ち上がるとクラっと来るものや、寝ていて目をつぶっていても世界がぐるぐる回っている感覚の悪性のものなどいろいろあるようなのだが、自分の体験した眩みは普段の家の中や車の運転時などには決して起こったことが無いのに、只、外に出て歩いている時に目が回り出す感覚がやって来て、歩きに支障を来すことになるものなのだ。

 当初は、これは老化現象の一つで、バランスを司る三半規管が老化して時々狂うのではないかなどと勝手に想像して、少し我慢していればなんとか収まるのではないかと、あまり気にしないようにしていた。ただ、毎日10kmくらいは歩くことにしていたので、その途中でこの眩みに見舞われることは真に厄介なことだった。

 この眩みは、北海道の旅の途中の8月の初め頃から始まり、9,10月と続き、そろそろ収まるのではないかと思っていた11月に入っても続いていた。最初に眩みを覚えたのは、旅の中でも毎日歩いていたある日の早朝、牧場の側道を歩いていた時に、脇の電柱に止まっているカラスどもがやたらに騒いでうるさいので、少し脅してやろうと上を見上げて小石を投げ付けようとした時だった。その動作に入る前にクラっと来て、投げるどころではなくなったのである。カラスにバカにされて面目丸つぶれだったのだが、それ以降、上を見たり左右を急ぎ見たりすると、三半規管が異常を来すようになったのである。まさか、カラスくんたちの呪いが掛ったわけでもあるまいと、その後はカラスくんたちには友好的な姿勢を保つようにしたのだが、日が経つにつれて眩みの症状は少しずつ強くなり出したのである。

9月の中頃に旅から戻って、家での普段の暮らしが始まったのだが、その眩みは一向に収まる気配を見せず、10月を過ぎた頃になると最高潮に達したかのごとく、酷い時には歩きの途中で眩みのために歩くことができず、何か物につかまらないと立っているのも困難という状況を呈するほどとなった。さすがに、これはただの老化現象ではなさそうだと気になって、かかりつけの医者に相談したのだが、各種データを見ても特にそのような症状につながるものは見当たらないということだった。MRIなどによる脳内の詳細な検査はまっぴらごめんなので、とにかくもう少し様子を見ることにしたのである。

それ以降、一時歩くことを休み、再開後も時間と距離を減らすようにしていたら、11月になると次第に眩みが収まり出して、今月になるともう殆ど再発することは無くなったのである。結果的にはやはり一時の老化現象の表れだったということになるのかもしれない。しかし、この4カ月間というものは得体の知れない病魔に取りつかれたような感がして、正直薄気味悪かったことを告白しなければなるまい。家内にいわせれば、旅の間のストレスや疲れが出たのだろうということなのだが、自分的には全く自覚などしていなかったので、見当違いだと思っていた。やはり総じて考えてみると、本人が思っているほど頑健ではなく、家内の指摘が当っているのかもしれない。今のところ、再発は見られず、おとなしく控えめの歩きを続けている。今年の万歩計の歩数は、既に570万歩を超えているので、これからは歩き過ぎに注意ということになるのであろう。

次に取り上げるニュース項目は、11月の16日から17日にかけて入院して受けた前立腺がんの生体検査である。もう30年以上入院をするという経験が無かったので、検査とは言え何だかすっかり病人の気分となった一晩二日の時間だった。

前立腺がんの検査といえば、基本となっているのはPSAの血液検査であろう。医学の専門知識があるわけではないので、この検査が血液中の何をどう調べるのか良くは分からないけど、前立腺がんの早期発見には役立つ検査だと聞いている。守谷市に越して来て以来、毎年市民対象の健康診断の際に必ず調べて貰っているのだが、当初は基準と言われる数値をほんの少し上回るレベルだったものが、ここ数年の間に加速して高くなっており、今年はついに基準の倍の9.6という数値となった。ここ2~3年はエコーなどによる精密検査を受けており、その結果異常なしとの判定を貰っているのだが、今年のこの結果は予想を上まる悪化傾向を示すものだった。医師の話では、これ以上の詳しいことは、エコーなどではなく、前立腺の部位を幾つか切り取って培養し、がんの有無を調べる生体検査をすることなのだが、どうしますか? 但し、検査には1日入院して貰わなければなりません、ということだった。何だか試されている感じがしたが、どうせだから、この際はっきり調べて貰った方が良いだろうと考え、お願いしますということになったのである。

入院当日が来た。手続きを終え、所定の衣服に着換えると、すっかり患者になった気分でベッドに横たわったのは、正午を過ぎたあたりだったか。検査のための手術は15時過ぎからだという。複雑な気持ちの待ちの時間が過ぎて、やがて手術室に運ばれて行った。下半身の半身麻酔を打たれて、そのあとは痛みの感覚は全く無くなってしまった。麻酔というのは不思議な働きがあるものだと感心しながらも、半面の恐ろしさを感じた。下腹部の何を、どうされたのかも全く分からぬまま、時々聞こえてくるバチンという音に、ああおれの前立腺の一部が今ちょん切られているのだなというのを想った。手術は3~40分ほどで終わったらしく、そのあと何か知らぬ手当てを施されて、病室に戻った。

それから後の一夜は悪夢だった気がする。明け方までには麻酔は切れて、元の状態に戻ったのだが、夜間は相部屋の人たちが訳の分らぬ騒ぎたてをしていて、とても眠れる状態ではなかった。皆同世代と思しき老人男性なのである。この人たちは本物の病で入院されているだろうか、とにかく我がままを言い続けて、当直の看護師さんたちを手こずらせていた。もはや社会人としての感覚などどこかへ捨て去ったかの如き振る舞いだった。そんなにごちゃごちゃいうなら、サッサと荷物をまとめて出ていったらどうだ、と言いたくなるくらいなのだ。病を治すために入院しているのなら、おとなしく医師や看護師のいうことを聞くのが大人というものではないか。とても同情を覚える病人たちではなかった。ま、世の中の病院や患者の現実というのはこのようなものなのだろうか。

朝になって、下腹部が変なので見てみたら、何と一物に管が通されているのである。どうやらおむつもあてがわれているようだった。間もなく時が来て管は抜かれ、おむつも無くなったのだが、尿意を催してトイレに行くと、何と血尿即ち血の小便なのである。何だこりゃと思ったけど、事前の説明で聞いていたので、一応は納得した。けれども現実に己の姿を見ていると、医療というのは厳しいものだなというのを実感したのだった。

その後病院食の昼ご飯を頂いたあと退院となったのだが、帰りは留めてあった車を運転しての戻りだった。病人ではないとはいえ、この一夜の体験は、病に取りつかれた人の気持ちを十二分に思わせられる時間だった。

ところで、収穫もあったのだ。それは電動ベッドの利便性に気づかされたことである。最初はその機能をよく知らず、普通のベッドと同じと思っていたのだが、ボタンを押して見ると上半身を起こしたり、足を上げることなどが出来て、まことに使いやすいのである。これなら本を読んだりするには最適だなと思った。病院専用ではなく、むしろ普段の暮らしの中で使うことこそ肝要ではないかと思ったのである。それで、しばらく販売店などを見て歩き、気に入ったのを見つけたので、早速買い入れたのである。良いなと思って、それを買うのが可能ならば直ぐに実行することが老人には大切だと思っている。先が無いのだから、いいことで出来ることは何事も先送りしないことにしている。この考えには家内も賛成しているので、ありがたい。死んだあとで、ああすれば良かったなどと思っても何の意味もない。生きている間こそが大事なのだ。ということで、今は電動ベッドで毎夜の読書を楽しんでいる。

何だか話がずれてしまったが、生体検査の結果は2週間後に判明して、医師の話では異常は見られず大丈夫だったとのこと。しかし、この高数値は一体何を意味しているのか、医師も言明できないとのこと。この歳になると、がんに取りつかれてもジタバタしない覚悟はできていると自分は思っている。いざとなればどうなるか分からないのかもしれないけど、もうかなり上出来の人生を過ごさせて貰っているし、さほどの悔いもない。まだやりたいことは幾らでもあるけど、それは限が無いことだから、出来る間に出来るだけやっていればそれでいいと思っている。

ということで、後半の2大ニュースの顛末はこのようなことなのでした。間もなく新しい年がやって来ますが、来年は一つでも心底から嬉しいニュースが残ることを期待したいものです。皆様、良いお年をお迎え下さい。  馬骨拝

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今年の我が身の5大ニュース(その1)

2018-12-26 05:11:48 | 宵宵妄話

 今年も間もなく終りが近づいている。この一年を振り返ってみたい。世間では、十大ニュースなどというまとめられ方があるけど、このジジイの一年では、十を数えるほどのできごとはないと言っていい。だけど老人の暮らしでも、五つくらいはニュースに数えられる体験はあったと思う。それを書いて見たい。

 今年体験した出来事を大別すると、自然界のできごとが三つとそれから我が健康に関するできごとが二つある。

 先ず自然界の出来事だが、これは年々異常さを増している。我が人生78年を振り返って、歴史的にも記録として残ると思われるできごとの多くは、仕事リタイアした後の十数年間に体験している感じがする。その最大のものは東太平洋大地震であり、それに伴う世界最悪の原発事故である。その他にも台風や大雨による災害が頻発しており、それが重大化している。

 今年は5月下旬から9月中旬まで約3カ月半、112日をかけて一万千キロ余りの北海道の旅をした。蝦夷地から北海道と名が改められてから150年を迎える記念の年ということで、改めてその150年の来し方を訪ねて各地を回るという企画だった。全道各地の歴史資料館や博物館など140カ所余りを訪ねて、幾つもの新しい発見に驚き感動を味わったのだが、この旅の間に近年の自然災害の恐ろしさを身近に体験したことが三つほどある。この三つのできごとは、明治になるまでのアイヌ民族が暮らしていた北海道では決して味わえなかった悪質な自然災害だったのではないか。そのようなことを想いながらその出来事の所感を述べてみたい。その三つの出来事とは次のようなものである。

①大雨による長期足止めの体験(7/2~7/7)

②台風21号による恐怖の風塊の体験(9/4~9/5)

③胆振東部地震によるブラックアウトの体験(9/6~9/7

体験した順を追って述べることにしたい。先ずは大雨による長期足止めの体験だが、これはかつて九州に在勤していた際に経験した長崎市の集中豪雨による大水害を想わせるものだった。あのときは狭い長崎市内に一瞬に濁流が押し寄せ、中心街の商業施設の大半を呑み込んで、大混乱を来したのだが、今年のそれは長崎のような地形ではない、だだっ広い旭川市全域に亘る水害だった。幸いにして大河の氾濫には至らなかったが、地域的には小河川の氾濫のために交通がマヒして動きがとれなくなった場所もあり、大災害の発生に紙一重の状況だった様な気がする。大雨のその日は知人宅に泊ったのだが、昨日から降り始めた雨は勢いが止まらぬままに降り続いており、早朝の4時前から枕元の携帯が何度も鳴り響き、開けてみると市当局からの避難勧告を指示するエリアメールだった。旅の中ではあまり経験したことが無かったことである。この地に何度も訪れているとはいえ、旭川市の地形に詳しいわけではなく、どこへどのように避難すればいいのか、困惑した。落ち着かれている知人の話を伺って、この地区が直ぐに避難を必要とする場所ではないことを教えて頂き、さりとてこの先雨降りがどこまで続くかもわからず、ここに止まるよりもより安全な場所をと考え、結局は旭川駅近くにある道の駅に行って様子を見ることにしたのである。道の駅に着くまでの途中に見た美瑛川と忠別川の様子は、悪魔の奔流に違わなかった。大木を押し倒して水は溢れ奔って、堤防のかなりの高さまで来ていた。これが溢れたら旭川市は壊滅だなと思いながらも、市の中心部である道の駅辺りにはそう簡単に濁流が押し寄せる設計にはなっていない筈だと、思いながらの到着だった。道の駅の近くには大きな商業施設があって、暮らしに困ることはないだろうという目論見だった。駐車場はかなり混んでいたが、どうにか車を止めることが出来て安堵した。それからここを離れるまでに6日間も要したのである。川の水が引き始めたので、洪水の心配は無くなったのだが、市内の各所でまだ氾濫が復旧していないところがあり、安全が確保されるまでは動くことを止めにしたのだった。このような状況の中では、安全を求めて動くタイミングを誤ると余計危険な状態に落込むことになりかねない。そう思っての6日間だった。

それにしてもこの大雨は何なんだろうと思った。まるで九州地区を毎年襲う梅雨末期の集中豪雨の感がしたのである。北海道には梅雨が無いという神話はもはや消え去り、蝦夷梅雨なるものがあるということだが、今は北海道の梅雨即ち雨期は内地と変わらないと断言したいほどだ。7月頃の来道が多いのだが、内地と同じレベルの雨降りに出くわすのは毎年変わらない。明らかに日本列島の気象は異常化が進んでいる。今年なんぞは、雨降りのタイミングがかなり早まっている感じがした。要注意だ。

次は台風21号の風塊の話である。風塊などという言葉はないのだけど、これは自分が実感してそう思った造語である。今年の台風21号は、各地で悪さを仕出かした強風を力とする台風だった。その来襲を知った9月4日、前日から避難場所を真狩村の道の駅と決めて、通過するのを待ち構えていたのだが、台風は予想違わずやってきた。夜半からの襲来ということだったが、夕刻までは広い駐車場には自分の旅車1台だけだった。少し心細かったのだが、幸い夜になる少し前に、両サイドに1台ずつ旅車が入って来てくれて、ガードして貰える形となったのでありがたかった。

さて、台風だが、その風の強さの何と凄まじいことか。断続的にぶつかって来る風の勢いは、もはや風ではなく空気の塊なのである。しかもその塊は、空気の柔らかさではない鉄の塊に似た固さと重さを伴っている感じがしたのだ。見知らぬ悪神が自分の車をめがけて何度も何度も鉄の球のごとき風塊を振りおろしている感じがした。幸いなことに風の方向が車の後部からだったので倒れることは無かったのだが、もしこれが横からだったら、3台が将棋倒しになっていたかもしれないと思うほどの風圧だったのである。翌日風が収まってから見たニュースでは、隣の倶知安町では最大瞬間風速が45m/sだったと報じていた。家屋が破壊されるレベルだったのである。家の中に居たのなら、風の音もかなり低くなるのだろうが、旅車の中では、薄い壁の外は直接的に風の攻撃音を耳にするのだから、たまったものではない。眠るなどという芸が通ずる状況ではなかった。一夜明けて、ピカピカの空を仰ぎ、すぐ傍の羊蹄山を見上げながら、改めて大自然の怖さが半端ではないことを実感したのだった。それにしても、もはや北海道に台風の名残だけが押し寄せる時代ではなくなったようだ。暑い北海道の夏が台風を呼び込む時代に突入してしまったのではないか。恐ろしいことである。

3つ目は胆振東部地震とその後のブラックアウトの体験である。台風21号が去ってヤレヤレと安堵して、旅の移動を再開しようと考えていた9月6日の早朝、枕元の携帯が鳴った。緊急を知らせるエリアメールである。何だろうと開く間もなく車がぐらっと揺れて、メールの画面には地震を知らせる警戒文が書かれていた。車の中なので、感じた揺れは震度4くらいのレベルではなかったか。直ぐにTVをつけて見たが、まだ大した情報は表示されておらず、各地の震度が表示されていただけだったが、胆振東部のむかわ町辺りでは震度6などと表示されていたので、大丈夫かなと心配しながら、再度寝床にもぐりこんだ。少し眠る間もなく5時頃だったか、知人から電話やメールが届いて、北海道が地震で大変なことになっているけど大丈夫かという問い合わせだった。

慌てて起き出してTVをつけて見ると、いやあ、驚いた。夜が明けるにつれて、被害の状況が次第に判って来て、厚真町の山崩れの写真の映像を見た時は、度肝を抜かれる思いがした。幾つもの山や小高い丘が地面をむき出しにして崩れ落ちているのである。こんな景色は見たことが無い。惨状極まりなしといった感じだった。幸い津波被害には至らなかったものの、つい先日近くを通っているあの平穏な場所が、一瞬にしてこのような酷い状況になり果てるとは。台風とは異質の、より不気味な大地を揺り動かすという大自然の所作に恐怖を覚えるばかりだった。

さて、大自然の脅威をまざまざと見せつけられたその後、今度は人間世界の落とし穴を見るようなできごとが待っていたのである。自分達は旅車の中に居て、ソーラー充電などでTVを見たりする電源の確保は出来ているので気づかなかったのだが、朝になって外に出て見ると、何とあらゆる暮らしの基盤となるものが動かなくなっていたのである。先ず気づいたのは、朝の歩きに出かけようと駐車場を出たら、道路の交通信号が全て消えているのである。コンビニの照明も消えており、ショーケースの冷凍等の装置もダウンしているし、トイレに行って見ると一度流せるだけでそのあとはもう水は出ないのだ。その他電気を源とするあらゆるものが全てストップしているのだった。これは大変なことになるなと思った。TVをつけて見ると、大混乱の状況となっていた。初めて聞くブラックアウトという言葉が何だか不気味だった。北海道内の全ての発電所が機能不全となっているという。復旧の見通しは立っていないという。1週間も、否2~3日といえどもこのような状態が続いたら、北海道は前代未聞の非常事態に落ち込むことになる。先ほどの地震により道全体の電力供給のかなりの部分を担っていた、厚真町にある苫小牧発電所が動かなくなり、それに連動して道内の他のエリアの全ての発電所が止まっているとのことだった。電力供給の仕組みがどうなっているかなどは全く知らないので、ブラックアウトなどという現象は見当もつかず、とにかく少しでも早く何とか復旧して欲しいと思うだけだった。

取り敢えず食料と水については少しの間は大丈夫、電源の方は天気さえ良ければ何とかなる。燃料としてのガスは半月分ぐらいの在庫があるし、問題は長期となった場合の給油の可否である。スタンドは電気が来ないため営業できない状況となっている。給油ができないとなると、復旧するまでしばらくここにいなければならなくなる。帰りの日程のこともあるし、さてどうしたものかと思案に暮れたのだった。

翌日になると、朝真っ先に信号を見たら点いていたので、あ、大丈夫だ、復旧が進んでいるなと安堵した。しかし、まだ消えている信号もあり、完全に元に戻っているという状況ではないようだ。その後時間の経過につれて、漸次復旧が進み始めたので、もうこれなら早やめに帰途に就こうと思った。災害というのは時として連鎖するという現象があり、台風と大地震が起きたあとでは、次にどんなことがやって来るか分からない。こんな時にはサッサと見切りをつけて旅を終わらせるのが一番と決断したのだった。

このブラックアウト現象というのを体験してみてしみじみ思ったのは、我々の暮らしというのは、電気無しには成り立たないということである。文明の利器も利便性も何もかも電気が供給されなければ、何一つ成り立たない。電気を源とする絶対的な連鎖のシステムが出来上がっているのである。今回の出来事の中で、最も印象的だったのは、道東の牧畜業に係わる世界で、電気が供給されなかったために乳牛たちの生存にもかかわる事態が発生したというニュースだった。搾乳ができずそのため乳牛たちが病の危険に遭遇するという。あののんびり草を食んでいる牛たちにも電気は深く係わっているのだなと思った。1日はおろか1時間でも1分でも電気の供給を怠ることは、直ちに世の中のどこかの部分に重大な問題を惹き起すことになるのである。今回のできごとを振り返ってみると、まだまだ人間のやることには幾つもの落とし穴が用意されているようだ。

今年は大自然が引き起こした重大な現象を3つも実体験したのである。いずれも旅先でのできごとだったが、次は普段の暮らしの中で何がやって来るのか、見当もつかない。願わくばもうこれ以上の大自然の怒りには触れたくない。あの世に行くまで、現状維持を叶えて欲しい。そう思うできごとだった。

(残りの二つは明日にします)

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154歳で美酒一升を味わう

2018-12-09 07:17:21 | 宵宵妄話

 人生には親しき友は不可欠だ。自分には何人かの親しき友がいてくれて心底ありがたいと思っている。親しいには幾つかの意味があるが、不可欠の親しい友というのは、血縁以上の存在ではないかと思っている。特に、親を亡くし兄妹縁者との付き合いも疎遠となることの多い現代の老人世代では、親しき友は生きているありがたさを確認できるかけがえのない存在である。そのかけがえのない友と一夜酒を酌み交わしたという話。嬉しくなって披歴したい気持ちとなった。

 自分には会社勤めをしていた時に得た一人のかけがえのない友がいる。会社勤めの時代には同期入社に20数名がいたのだが、いわゆる定年が来て(自分は定年を2年繰り上げて卒業した)、それぞれがリタイア後の新しい暮らしに入った後でも親しく付き合っている人は、略皆無と言っていい。仕事をしている時には、いろいろな場面を通して切磋琢磨の関係があり、お互いをある程度は理解・承知するようになるのだが、仕事を離れてからとなると、顔を合わせる場もなくなりお互いの関係は疎遠とならざるを得ない。

会社勤めを卒業してから早や20年近くになる。Kさんとの付き合いは、45年ほど前に高松にある事業所に、お互いがチンピラ管理者として赴任した時から始まった。Kさんは二つある現業部門の主力部門を担当、そして自分は事務全般を担当していた。当時の高松の事業所は四国全体を所轄しており、全国の売上高に占める比率は3%にも満たないものだった。都市部に依存する事業だったので、どんなに頑張ってもこの比率を1%増やすことなど到底不可能なことだった。このような事業環境だったので、自分としては、事務サイドから売り上げや利益にハッパをかける様なことは一切しないことに決めていた。そんなことよりも現業第一線の皆さんに気持ちよく働いて貰える様な環境づくりに力を入れようと考えていた。

Kさんの受け持っている事業部門は収益の主力であり、もう一つの事業の方は辛うじて収益を確保しているといった状態だった。多くの企業がそうであるように、収益の悪い事業ほど仕事の労苦は多いのである。だから自分的にはKさんが担当する部門よりも、収益の悪い部門に配属されて頑張っている人たちの味方になりたいという気持ちが強かったのである。

このような状況なので、本来ならKさんと仲良くなる理由は薄い筈なのだが、二人を結びつけたのは、仕事を離れてのアウトドアでのふれあい(?)だった。毎休日となると、二人で海岸線を歩き回って、魚や貝を探し求めた。45年前の高松市近郊の瀬戸内海には、イワシやママカリやカレイなどの魚やアサリや牡蠣やサザエなどの貝類をものにすることができたのである。Kさんは学生時代にヨットなど海に係わる活動をしていたので、山育ちの自分には無い経験と知恵を一杯持っており、それが自分には何とも言えない魅力だった。海歩きの中で、特にアサリについては、地元の人も知らない絶好の場所を二人で探し当てた秘密の場所があった。アサリは普通なら砂浜の中に生息しているのだが、その場所は砂よりも岩の多い荒磯風だったので、誰も気づかなかったのである。採取用の特性のカゴを用意して、そこへ行くと大型のアサリだけを採ることにして、それがあっという間にバケツ一杯になるのである。

そのアサリ貝を、我が家(と言っても借家の小さなマンション)のベランダで、ポリタンクに汲んできた海水を満たした盥(たらい)に入れて砂を吐かせ、それを材料にした何種類かの海賊料理をつくって、地元の若い社員などを呼んでの貝パーティなるものを何回も開いたのを思い出す。この時に来てくれていた社員の殆どが、Kさん担当ではない部門の人たちだったのは、今になっても面白かったなと思い出す。

このような妙なお付き合いから始まったKさんとの交友は、その後Kさんが先に転勤で東京に戻り、やがて自分も福岡に転勤となり、その後社内では全く別の道を歩むこととなった。しかし、その後もお互いに忘れることができない存在として、機会あるごとに旧交を温め続けて来たのである。

思わず昔語りとなってしまったが、リタイア後も二人の交友が変わることは無かった。しかし、10年ほど前に彼の奥さんが大病を患い、それ以降の彼の渾身の看護の暮らしの中に自分が入り込む余地などなく、只ただ、病の本復を願い祈るだけだった。けれども、彼の献身的尽力も虚しく、今年の2月に奥さんはとうとう帰らぬ人となってしまった。それを知ったのは3月に入ってからだった。驚いて弔問に駆け付けたのだが、彼の落胆の様子は痛々しく、掛ける慰めの言葉を失うほどだった。

その後少しずつ元気を取り戻されたようで、自分達が北海道の旅をしている間にも何度かメールを頂戴し、そこには必ず「奥さんを大事にせよ」という一文があった。家内を甘やかすことの殆どない自分の振る舞いを知っているので、忠告をしてくれたのだと思う。その度に彼の心中を想ったのだった。

その彼の所で、この度、10年ぶりかとも思う酒を酌み交わす時間を持てたのである。彼の家には、奥さんとそのお母さんがまだ健在だった20年以上も前に、お邪魔して泊めて頂いたことがあるのだが、それ以来の泊りがけの訪問だった。

車で行ったのだが、渋滞もなくて予定よりもかなり早い到着となった。今日は寄せ鍋にする、という話を事前に聞いており、楽しみが一層膨らんでいた。というのも彼はその昔から料理の腕前はかなりのもので、ここ10年は奥さんの食べ物も殆ど自分で調理していたのだから、そのうレベルは更に繊細なものとなっているに違いないと思ったのである。一杯やり出すのには少し時間が早いので、しばらくは旧交を温める話しや自分の今年の北海道行の話などをして過ごし、その後本番となった。

16時過ぎから、料理名人の用意してくれた寄せ鍋を間に、先ずはビールで乾杯。そのあとは、彼が特別に用意してくれた薩摩焼酎の最高峰銘酒の一つ「佐藤」を心ゆくまで味わったのである。10年も待ち望んでいたことが実現できた嬉しい時間だった。自分の親しき友の中で、一緒に酒を酌み交わせるのはKさん一人だけなのだ。体調を崩したり元々酒は飲めない体質の友ばかりなので、時々家で独り酒を飲みながら「ああ、ここにKさんがいたらなあ」と家内に愚痴を言ったりしているのだが、今日の今はそれが実現しているのだ。寄せ鍋も美味かった。時々食べるのを忘れていると、優しい心づかいのKさんは、手ずから皿に取ってくれるのである。酒の方も休むことなき進め上手なのである。お互い喜寿の歳回りなのに、である。こんな友は他にはいない。

何をどれだけ話したのか、殆ど覚えていないのだが、楽しく、嬉しく、そしてありがたい気持ちで満たされた時間だった。何よりも大切でかけがえのない、つれあいを失くされた彼の心情を想うと、自分のこの振る舞いがこれでいいのかと、申し訳ない気持が綯い混ざるのだが、これはもうKさんにお許し頂くしかない。21時過ぎになって二人だけの宴は終わりとなり、その後どうにか二階の寝床まで辿り着き、たちまち白河夜船の世界への爆睡となったのだった。

翌朝、早く起き出して朝の食卓の準備をする彼の台所作業の音を聞きながら、起き出して邪魔をするのは控えようと寝床の中での横着を決め込み、それにしても大したもんだなと、彼の働きに一人恐れ入った気持となった。その後、朝ごはんをご馳走になったのだが、その食卓のメニューと味は、そこいら辺の並の旅館を凌ぐほどのものだった。ここまで腕を上げていたのかと、更に恐れ入ると共に、彼の心遣いに頭を垂れる思いがした。ありがとう。

その後、「昨夜は随分飲んだな」という彼が見せてくれた「佐藤」の一升瓶は、何と底にわずか1センチほどしか残っていなかった。思わず、「エーッ」と声が出た。飲んだのは日本酒ではない。アルコール分の高い焼酎なのである。それにしても、二人とも少しも悪酔いしていないのは、さすが名品だなと思った。否、酒だけではない、二人で一杯やるという願いが叶った時間には、悪いものなど何一つ入り込む余地などなかったに違いない。

歳の数を合わせて154となる老人が、この上もない美酒を味わったという話である。(しかし、反省もある。これからは少し気をつけよう。二人でそれぞれの自戒を確認しあったのだった)

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