山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

水鳥たちの眠り 

2011-02-28 00:05:19 | ホト発句

                                                         

            

     

                     

                             束の間の夢を貪る平和かな                                         サボり寝を仲間と競う日長かな

 

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この世のすべての生きものにとって、本当の熟睡などというものは、もしかしたら無いのかもしれない。また、同じように本物の平和などというものも無いのかもしれない。同様に安全というのも無いのかもしれない。現実は皆束の間の中にあり、それは鳥たちも人間界も同じようだ。それゆえに、束の間というのは、すべての生きものにとってとても大切なのだ。この鳥たちはその束の間の使い方が自分たちよりもはるかに上手のようだ。

 

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道祖神の招来

2011-02-27 00:10:00 | くるま旅くらしの話

  少し長くなりますが、神様を買ってしまったという話です。

 

日本にはたくさんの神様がおちこちに鎮座(ちんざ)ましましておられます。自然界の中で、とてつもない姿かたちやパワーを見せつけられて、多くの人々が心底すごいなあと受け止め、尊敬に値すると思ったものは、それが山であれ、海であれ川であれ、はたまた人であれ石であれ棒きれであったとしても、それらは皆神様に変身します。このような信仰のあり方を、偶像崇拝などと言って蔑視する向きもあるようですが、私は偶像にとらわれない偶像崇拝こそが、人間という生き物の本物の信仰であるような気がしています。大自然を畏敬し、そのなかに生かされているのだという考え方は、大自然が生み出した自分を超える力を持つものに対して崇敬の念を抱くのが当たり前であり、その素直な気持ちの表れこそが本物の信仰ではないかと思うからです。

 さて、私の神様は、たくさんありますが、今回手に入れたのは、道祖神(どうそしん)という神様です。くるま旅くらしを心がけるようになってからもうかなりの年月が経っているのに、今までこの神様を手に入れることに気づかなかったのは、真に迂闊(うかつ)なことでした。勿論道祖神という神様は存じあげており、今年だって初詣は真っ先にそこに出かけているのですが、神様を買うという発想は、今まで一度もありませんでした。

全国を旅していて、所々で素朴な道祖神の石佛などに出会うと、なぜかホッとします。その時、ああ、本当に昔からこの神様が旅の安全を守って下さっているのだなあ、と何の疑問も抱かずに素直にそう思えるのです。風化しかかった石佛などを見ると、身をすり減らしてまで私たちを守って下さっていると、一層感謝の念が湧いてきます。

神様を形にしたものが石佛なのだと思いますが、それを誰がいつ造ってそこに置いたのか、そのことについては殆ど考えたことがなく、ましてやその石佛を買うなどということは夢にも思わなかったことでした。でも気づいて見れば、石佛は誰かが造ったものであり、今の世であればそれを販売していても、別におかしなことではないと思ったのです。もし販売されているものがあるのなら、それを買ってきて自分の守り神になって頂いても良いのではないかなどと、大それたことを思ったのでした。今風にいえば、マイ道祖神というわけです。実はこのような気持ちになったのは、数日前のことなのです。

先日(2/23)真壁のひな祭り(桜川市真壁町)に行ったのですが、その時に、あるお店で初めて石に刻まれた道祖神が販売されているのを知ったのでした。真壁のひな祭りには、守谷に越して以来ほとんど毎年訪ねているのに、このような石佛が造られ販売されているのに全く気付かなかったのですから、迂闊といえばこの上もない迂闊さだったということでしょう。そして、この石佛に出会ったのには、実はもう一つの不思議なご縁が絡んでいたのでした。

昨年もひな祭り見物に出かけているのですが、この時のことをブログに書きましたら、真壁にお住まいの石屋さん(このように呼ばせて頂いていいのか判らないのですがお許しあれ)からコメントを頂戴しました。真壁のことを紹介したのを喜んで下さっている内容でした。その時は、ああ、読んで下さっている方もおられるのだなあと私も嬉しくなり、今度お邪魔する時にはどこのお店なのかを調べて、そこを訪ねてみようと思ったのでした。ところが先日出かけた時には、それをすっかり忘れてしまい、真壁に向かう車の中でハッと気付いたのでした。しかし名前も場所も調べていないのでさっぱり判らず、ま、いいやとそのまま横着を決め込んだのでした。

真壁町は筑波山の北部山麓に位置する町ですが、この辺りは昔から筑波石と呼ばれる御影石の切り出し地としても有名な場所です。町の中には石材を扱う店が何軒もあり、またそれら石材を使っての加工の腕をもった技能士と呼ばれる方も多くおられるようです。私どもが出かけるのはひな祭りの見物のため、石を扱う仕事との関連はどうしても薄くなってしまうということになります。それだけに、石屋さんから頂戴したコメントは印象深かったのでした。

今年の見物は少し欲張っていて、ひな祭りの後にも行く予定を入れていたため、例年よりも短時間となりました。茨城県の中では唯一といっていい、城下町の古い街並みが残っている町並み(国の重要伝統的建造物群保存地区に指定)の家々に飾られたお雛様たちををざっと見て歩き、とあるお店の中に野佛や道祖神が展示されているのに気づきました。私にとっては、不遜(ふそん)なことなのですが、お雛様よりもその石佛の方が何倍も魅力的なのです。そのお店は石屋さんの事務所らしく、中には石材で作られた小さな細工物などが並べられて販売されていました。今までそのような小物には目が届いていたのですが、販売されている小型の石佛の類にまでは気づかなかったのです。

そうか!この地でも造っているんだよな、と改めて思いました。近づいて覗くと、何と値札が置かれているではありませんか!道祖神にも野佛にも値段が書かれていました。そうか、ここで販売されているんだ、と初めて気づいたのでした。今までは、神様を買うなどということには全く思いが至っておらず、自分とは無縁の世界なのだと思っていたのです。それが、初めて値札のついた新品(?)の仏像をみて、不思議な気持ちを覚えたのでした。もしかしたら、自分が買っても良いんじゃないか、と。しかし、いくらなんでも衝動買いをするにはためらいがあり、ものすごく気になりながらも、その日は、そのお店の名前などもメモして、次の予定地に向かったのでした。

それから一日経って、やっぱり気になるのです。道祖神を我が家に連れてきたいという思いが膨らむばかりです。昨日は家内にも道祖神のことを話しました。ほんの少し謎を掛けるようなセリフを吐いただけだったのですが、朝も遅くなった頃に、我が家の山の神は、我が心境をお見通しの如くに、「今日(2/25)もう一度真壁に行かない?行って、道祖神を買いますか?」などという大それた投げかけをなされたのです。勿論のこと、神様の思し召しに反抗する気持ちなど全くありません。自分が口に出したのは「うん」ですが、内心は唯唯諾諾、「ハイ、ハイ、ハイ」とハイが10連続位の思いでした。というのも、家に帰って昨年のブログを調べたところ、何と、なんとコメントを頂戴しているのは、道祖神を見つけたそのお店(有限会社 真栄石材産業)の方からだったのです。いやあ、驚きました。一昨日の訪問は全くの偶然だったのですが、何だか「縁」というようなものを感じないわけにはゆかない気分でした。同時に、これはもうどうしても道祖神に我が家にお出でを願うしかない、と思ったのでした。

というわけで、今日は、もう一度真壁のひな祭り見学兼道祖神様招来に参上したというわけです。駐車場に車を止めた後、早速にその店、真栄石材産業さんに出向きました。事情(?)を話すると、お店の方も吃驚(びっくり)されたようでした。ブログにコメント寄せられたのは息子さんだったらしく、対応されたお母さんの話では、今日は息子さんは現場の方に出向いていて不在とのことでした。このような話はその殆どが、我が家の外交官の山の神様によるもので、私としては道祖神の石佛を見ながら耳を立てて、その会話に間違いがないかをチエックするばかりなのです。お目当ての道祖神の石像はそのまま残っていましたので、早速購買の予約をしました。これからもう一度町中を歩いた後に持ち帰ることにしました。

散策は今日は別々です。私はお雛様よりも町並みや個別の家屋の方に興味関心があり、家内と一緒では到底付いて回るのは無理というものです。1時間余り散策の後に、そろそろもういいかと電話をしたのですが、一向に出てきません。何度やっても音信沙汰無しなのです。諦めてしばらく公衆トイレの前のベンチで休んでいましたら、向こうの方から、よかった~、などと言いながらのこのこやって来るではありませんか。何と、携帯を忘れて来たというのです。それも車ではなく、家の中に置いてきたというのですから、これはもう処置なしです。文句を言う元気もなくなりました。

食事の後、真栄石材さんの店に行き、念願の道祖神を受け取ったのでした。これが持ってみると結構重いのです。駐車場までは少し距離があるので、車を持ってくることにしました。車に積もうとして後ろのハッチドアを開けると、そこに持参したポリタンがあるのを見て、お母さんが旅用の水を積んでいるのですかと言われるものですから、いや、今日は帰りに筑波山麓の湧水を汲むつもりで持参したのですと話しましたら、おっしゃるには、我が家の水は自慢の井戸水で、すぐ近くにある造り酒屋さんが使っている水と水脈は一緒ということです。願っても無いことなので、是非ともとその水を汲んで頂いて頂戴したという次第です。道祖神様と一緒においしい筑波の伏流水を頂戴して、何ともありがたく幸せな時間でした。

そのあとは、もう一つのポリタンに筑波の湧水を汲みに立ち寄り、我が家への帰途に就いたのでした。帰宅後は、さて、この神様にどこに鎮座して頂けばよいのか、只今、あれこれと思案中であります。思うに、これからは毎年一体ずつ道祖様にお出で頂くのもいいかななどと、早くも思いを巡らし始めているところです。(念のためですが、私の中では、神様も仏さまも皆一緒です。何区分も差別もありません。)

      

手に入れた道祖神の石像。何とも言えぬいい穏やかなお顔をされていて、いつもとんがりがちな我ら凸凹コンビには、大いなる力になって下さるに違いない。

 

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妖花ベゴニア

2011-02-26 00:22:10 | くるま旅くらしの話

  先日福寿草を見に行った時に、茨城県フラワーパークの中で球根ベゴニアをメインとするベゴニアの花の展示会が催されており、それを観た時の感想です。

 いやあ、驚きました。妖花という花の表現がありますが、球根ベゴニアの花はまさにそれにピッタリの雰囲気を持っていました。ベゴニアには原種等から大別して3つの系統があり、①木立性、②根茎性、③球根性、があるとのことです。私たちが普段に見かけているのは木立性というもので、花もさほど大きくならず、地味なものが多いようです。根茎性というのは多くは籠に入れて吊して育てるようで、花の方も少し大きいようです。そして球根性のものというのは、巨大な花を咲かせる、まさに妖花とはこの種類のベゴニアに当てはまる形容のように思います。

 この花たちをどう表現してよいのやら、初めてお目にかかった私には、途方に暮れるほどです。楚々たる花があるかと思えば、濃艶とも思える怪しげな色合いの花もあり、しかもそれらが大輪なのです。大輪の花と言えば、ボタンや菊を思い浮かべますが、ベゴニアもそれらに引けを取らない大きさで、尚且つ温帯気候にはない亜熱帯や熱帯地方の情熱といったものを感じさせるのです。以下にその花たちを幾つか紹介したいと思います。

   

   

 

 球根ベゴニアの花の数々。背丈は50~100cmほどで、丁度秋の一本仕立ての菊と同じくらいの大きさである。

 

     

    

 

 

    

 

 

     

 

 

    

     

    

    

 

   

    

 

 

 

今回は様々な色合いのベゴニアの花を観て頂くだけにします。でも、やはり百聞は一見に如かずというものでしょう。展示会は、4月17日まで開かれています。興味のある方には、訪問されて覗かれてみてはいかがでしょうか。会場は次の通りです。

茨城県フラワーパーク:石岡市下青柳200(☎0299424111

 

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福寿草を見に行く

2011-02-25 00:30:00 | 宵宵妄話

 

先日茨城県フラワーパークに福寿草の花を見に行きました。石岡市にあるフラワーパークは、その所在地はよく知っていましたが、まだ一度も中に入ったことはありませんでした。わざわざ花を見に行かなくても守谷の街中を歩きまわっていれば、いつでも季節の花にめぐり合うことができると、少し負け惜しみ的な無理をしながらいたのは、フラワーパークの料金設定が気に食わなかったというのが最大の理由なのです。

というのも、ここの入園料は、4/1~11/Eが740円、12/1~3/Eが370円となっており、花のある期間の料金が高すぎる嫌いがあり、花のない期間とのギャップが大きすぎると思うからです。どこの経営なのかよくわかりませんが、県が係わっているのなら、もう少し花を見る人に利用しやすいやり方を工夫すべきではないかと思うのです。東京都の神代植物園などは、都民には65歳以上半額などの配慮がなされていますし、千葉市の花の美術館なども市内在住者や障害者の方などに対してはそれなりの配慮がなされていますが、このフラワーパークには何の配慮も見られないように思います。

ま、そのような妙なこだわりを持つのは、ややいじけた性格のなせる所為なのだと思いますが、今回はそれを捨てて、偶には華やかな世界を覗いてみるのも目の保養になるのではと出かけた次第です。何といっても福寿草は守谷の街中を歩きまわっても、そうそう簡単にお目にかかれるものではないからです。福寿草は鉢植えくらいしか見る機会がなく、又時期を外すと葉っぱばかりの姿しかお目にかかれず、今まで花の大規模な野草的風景を見たことがありませんでした。茨城県フラワーパークでは約1万株の福寿草が植えられており、それが最盛期を迎えているという新聞情報に触れたものですから、一度見ておこうと出かけたのでした。

園内に入ってみると、かなり広い敷地で、小高い丘の斜面を利用した幾つかの花畑と、温室、それに滑り台などの遊戯施設が設けられていました。未だ冬が終わらない季節とあって、どの花畑にも花の姿を見ることはできず、咲いている花と言えば、丘の斜面の木立の下に点在する福寿草と、そこへ行く道の脇に植えられたクリスマスローズの何本かの花と、あとは数本ある椿の花のほころび掛けたものくらいでした。

 

   

急斜面の木立の下草の中に群生する福寿草の株たち。遠目には地味に見えて、その存在を軽く見てしまいそうな気もする。

 

かなりの急斜面に点在する福寿草は、丁度今が花の最盛期らしく、黄金色の美しい花を咲かせていました。福寿草は早春の花の中では別格の存在かもしれません。お正月の鉢植えなどにも登場していますが、どこか不自然さがあり、やはり納得がゆくのはこの季節になって、山野に咲いている姿ではないかと思います。透明感のある黄色の花弁は、冬の季節の終わりを告げるにふさわしい暖かさを感じさせ、枯れた山腹の下草の中に明かりを灯している感じがします。

 

   

福寿草の株からはたくさんの花が飛び出して春の到来を謳っているように思えた。見ているだけで、冬のストレスが消えてゆく感じがした。

 

その数1万株との話でしたが、これは少しオーバーなように感じました。福寿草は、日の光が少なくなると花を閉ざしてしまうということですが、今日はいい天気で、存分にその輝きを観ることができました。何枚かの写真を撮りながら、この花たちが消え去って花とは無縁の姿をした葉が茂り出すのももうすぐだなあと、本物の春の到来がすぐそこにあるのを感じたのでした。

 

   

私的には、群れ咲く花よりも1本の花の咲き方の方が好きである。凛とした美しさが魅力的なのだ。

 

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俺(おら)の顔

2011-02-24 05:36:08 | ホト発句

         

         

      

 

           H5N1も俺らの顔は敬遠さ                          

          めかしてもやっぱり駄目かこの顔じゃ 

  

コメント:

 

歩きでよく訪れる場所の一つに、つくば市に近い土浦市卸町に、周囲2kmほどの乙戸沼というのがある。この沼には冬期には何種類かのカモなどの他にコハクチョウなども飛来している。定住者として、アヒルやカイツブリやバンなどの水鳥の他にニワトリやウコッケイなども仲良く暮らしている。その中にこれは何という鳥なのか判らないのだが、(ガチョウの仲間らしい)、この写真の強烈な面相の鳥が結構多く住んでいる。水鳥らしいのだが、水の中に入っているのを殆ど見たことがない。身体の大きさはアヒルを一回り大きくしたほどあり、ここに住む鳥の中では一番図体はでかい。しかし、アヒルよりも気性はおとなしく、時々アヒルの子分になって連れまわされているのを見かけたりする。しかしまあ、どの鳥を見ても、なんともグロテスクというか醜怪な顔つきをしており、どうして?と同情したくなってしまうほどだ。

素直でおとなしいのに、見てくれだけで大損をするのはこの鳥だけなのだろうか。心根と顔は、必ずしも一致はしない。

 

 

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「会津士魂」に衝撃

2011-02-23 00:15:03 | 宵宵妄話

  2週間ほど前から早乙女貢著の「会津士魂」を読み出しました。集英社文庫で、続編と合わせて計21巻の力作です。このような長編を読むには少し勇気が要ります。読み出して、途中で止めるわけにはゆかないからです。いい加減に読んでいると、著者の本当に言いたいことが分からず、結局は読まないのと同じ結果になる危険性があります。文庫本であろうとなかろうと、長編を読むときには、何時もそのような思いで取りかかることにしています。

  

   

  早乙女貢著「会津士魂」(集英社文庫・続編と併せて全21巻)

 

 まだ第3巻を読み終えたばかりなので、読後感というわけにはいきませんが、この本には相当の手応え(=衝撃に近い)を感じています。そのことについて少し書いてみたいと思います。

昨年の秋に思い立って萩を訪ねました。足掛け4日ほど滞在して主な史跡などを見て回ったのですが、その時に何だか幕末から明治にかけてのこの藩の業績について、どこかにすっきりしない感情が残るのをどうしても拭いきれないのを感じていたのでした。萩といえば、その反対側に会津藩の存在が浮き上がります。維新に絡むこの両藩の確執と怨念は相当のものがあったと思いますが、今ではすっかり仲直りをしており、福島在住の旅の友から萩を訪ねる前に頂いた電話では、何年か前に萩を訪れた時に福島県の方から来たと話したら、大いに歓待して頂いて感激したということでした。もう100年以上も経っているのですから、そのようなことは当然だと思うのですが、なぜか私の中では、やはりすっきりしないものが残っているのです。

私は常州の生まれですから、幕末のことに関してはあまりとやかく言える立場ではないように思っています。しかし茨城県北部は福島県に近く、会津には何となく親近感があります。地元の人たちの話す言葉は、会津の方が訛りが厳しくて分かりにくい感じがしますが、生活の根っこの方に流れる言葉の色合いは共通しているものが多いように感じます。

幕末の水戸は惨憺たる状況で、只の引っ掻き回し役に終始した嫌いがあるのに対して、会津は立派でした。武士としての信念を通しきったといってよいと思います。白虎隊の出来事など悲惨極まりないものがありましたが、非業の死を遂げた少年たちにはサムライとしての輝く誇りがあったのだと思います。

そのような会津のイメージがありましたので、萩を訪ねた時は明治維新にかかわって名を残した人物に対しては必ずしもエールを送るような気分ではなかったのです。「勝てば官軍負ければ賊軍」は変革の世の習いですが、後世の人々はその勝った官軍の治世を受け継いで暮らしているわけですから、どうしても負けて賊軍として貶(おとし)められた側のことを忘れてしまいがちです。ただ、萩を現地に訪ねた時は、幕末の形振り構わぬ改革のエネルギーがどうしてここから湧きあがったのかということだけは、解るような気がしました。

ま、そのようなどっちつかずのことは措くとして、会津士魂を読んで、未だたった3巻しか読み終えていないのに、強烈なインパクトを受けました。自分の歴史を見る目の甘さを厳しく指摘された感じです。幕末の体制側と反体制側夫々に属する人々のものの考え方の違いと、人間としての生き方の違いの落差の大きさを、息をのむような気持ちで考えさせられたのです。そしてそのショックは今でも消えることなく胸を打っていますし、この全巻を読み終わるまでの間も、そして読み終えた後もしばらくの間は、やはり消えないように思われます。

士魂というのは、文字通りサムライ魂(たましい)という意味であり、武士の精神を意味しています。いわゆる武士道というものでありましょう。武士道を語った本としては「葉隠」(佐賀藩山本常朝著)が有名ですが、新渡戸稲造著の武士道などもあり、調べてみると武士道にもさまざまな考え方があって、一概に定義付けなどできない感じがします。でも、少なくとも主君に対する絶対的な忠誠をベースとして、世の中全体の正義に資する精神であることに違いはないように思います。会津の士魂というのは、この二つの大義を徹底して守り通したところにその美しさというか凄みがあるように思われるのです。

欧米の強力な支配力(=侵略力)にじわじわと侵攻される危険性を感じていた幕末時代にあって、これに対処する考え方として、条件的開国をやむなしとする幕府主流側と、それに反対して諸外国を追い払うべしとする攘夷を叫ぶ人たちの側の二つの考え方があったわけですが、そのいずれにおいても、我が国においては天皇の裁可が必要というのが政治を展開する際の基本条件だったわけです。長州萩藩が尊皇攘夷の急先鋒として強硬論を展開していたのは周知のことですが、幕府側においては一方的に開国への道を歩んでいたわけではなく、公武合体(天皇サイドと幕府が手を取り合うという体制)を具現しながら外国と対処してゆくことが、この国をより安全に守ってゆくのにつながるという考えに向かっていたわけです。

尊皇の思想はもともと幕府側にもあったわけで、かの有名な黄門様(=水戸光圀)もそのことを強調しての大日本史編纂だったわけです。しかし幕末では、この思想の具体的な扱いをめぐっては、大義と実際とには野望や欲望が複雑に絡んで、天皇そのものは必ずしも「尊」をご実感される状況ではなかったように思います。単に錦の御旗の交付者として利用されただけというのが実態だったようです。変動改革の時期における歴史の表と裏には、透明な関係などあり得ないのかもしれません。

このような複雑な政治環境において、佐幕と尊皇に忠誠を尽くしたのが、京都守護職に任じられた会津藩主松平容保(かたもり)であり、その配下の人々でした。「会津士魂」においては、その役割遂行ぶりについて、藩主松平容保のリーダーとしてのブレない立ち居振る舞いと、その家臣たちのあり様が史実資料に基づいて克明に描かれています。彼らは一丸となり、悲壮なる決意を持ってこの難局に立ち向かったのでした。その取り組み姿勢こそがまさに会津士魂と呼ばれるものなのだと思います。純粋ともいえる武士道の実践だったということです。この武士道からみれば、勝利をおさめた官軍側には武士道など全くなかったということになるわけです。

しかしまあ、坂本龍馬も高杉晋作も西郷隆盛も木戸孝允も伊藤博文もその他維新の立役者といわれる人々にも勿論武士道はあったのだと思いますが、それは会津の人々の武士道とは異質のものだったということなのでしょう。私はそのように理解しました。三条実美や岩倉具視などの公家の人たちにはもともと武士道などはなく、論外の話です。

一体どちらがどう正しいのかなどという結論を云々するのは、今となってはあまり意味のあることではないようです。思うのは、目の置き所によって、歴史というのは、その認識や理解の仕方がかくも大きく変わってくるものだという驚きです。これからさらにこの本を読んでゆくうちに、会津の武士道がどういうものだったのかがより明らかになってゆくのが楽しみです。

私は乱読なので、一度に何種類かの本を並行して読むため、この会津士魂を読み終えるのには数カ月はかかると思いますが、メモなど取りながらしっかりとその武士道の何たるかを知ってゆきたいと思っています。読み終えた時には、又振り返って感想を整理してみたいと思いますが、さて、それが実現するのはいつになりますことやら。

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怒りの木の精 

2011-02-21 21:08:31 | ホト発句

     

                                                                                                        

                                                           

      

 

      なぜ伐った俺らの呪い目にも見よ

           

              伐られても生きてやるぞと舌を出し

 

コメント:

 

樹齢300年を超える榎の大木の、中間あたりの枝の切り株に、見たこともないキノコがニューっと生え出ていた。それはまるでこの大木の精のような気がした。大木の痛んだ枝を切り取ったらしい。真新しい切り株は、手当への感謝よりも、失った枝への無念さをアピールしているような感じがした。早まった手当が命取りになることも、間々あるものだ。

 

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歩きの目標の変更

2011-02-21 02:27:26 | 宵宵妄話

  妙なタイトルで、本当はどうでもいいような話なのですが、私は歩きについてはちょっぴりこだわりがあり、もう20年近く毎年目標を決め、その達成を目指して取り組んできました。具体的には、万歩計を必ず身につけ、毎日の歩数を記録表に記入しておくことにより途中での挫折を防ぐというやり方でした。その動機となっているのは、何回もブログでも触れていますが、糖尿病の宣告を受けたことにあります。それはちょうど50歳の時でした。

糖尿病治療には三つの基本的な処方があり、それは①食事②運動③医薬が該当します。軽易の場合は食事や運動療法で血糖値の適正レベルを保持できますが、それが困難になった時には医薬品に頼らなければならず、最悪の状況では、注射によるインシュリンの補てんを受けなければならないことになるわけです。とにかく③のレベルにはゆきたくないと、そのために食事や運動に留意してきたわけです。その運動の中で最重視したのが歩きというわけです。

 糖尿病のことについては措くことにして、歩きに関して言えば、ちなみに過去20年間でどれくらい歩いたかというと、年間の平均歩数は500万歩を超えていると思いますから、仮にその数で計算すると、100億歩となります。大人の1歩の平均歩幅は約70cmと言われますが、足の短い私の場合は少し狭く見積もって、65cmとして計算すると65億mとなり、これをkmに換算しますと6万5千kmとなります。この数値は万歩計の誤差を考慮していないないので、誤差を仮に30%とみますと、20年間で歩いた距離は4万5千kmとなります。地球の赤道における1周の距離が約4万kmですから、20年間でほぼ地球を一周と少し歩いているという計算となります。これは毎年2,275km歩いたことになり、日本列島を北海道から九州まで毎年歩いたということになるようです。1日平均では6km強となりますが、実感としても毎日それくらいは歩いているのではないかと思っています。

継続は力なりといいますが、何事においても為し続けることによって、目的を成就させることができると考えていますが、糖尿病の場合の歩きという運動療法は、エンドレスというのがつらいところです。最近までは現在の年間目標480万歩(毎月40万歩)を少なくともあと5年は続けてやろうと考えていたのですが、この頃になってこれはどうも無理のようだと思うようになりました。ここ数年500万歩を超える実績であり、昨年も527万歩を超えていましたので、まだ大丈夫だろうと思って今年も昨年並みの目標を立てたのでしたが、どうもいけません。特に歩けないわけではなく、今現在も軽く目標達成のペースを上回っているのですが、問題は歩いた後なのです。

どういうことかといえば、歩きによる影響が他の仕事(=やりたいこと)に支障を及ぼす感じになってきたのです。他の仕事というのは、たとえばブログの記事の作成とか、読書とかその他の書き物やそれに付随する調べごと、それに春から秋にかけての農作業などを言うのですが、これらの取り組み時間が次第に少なくなってきたのです。その分増えたのは、歩きではなく、眠るという時間です。いつもと同じ量の歩きでも眠りの時間は増え、昼寝の範囲を超えて、夜の眠りも貪るようになり出した感じです。眠りは健康には有効なので、それ自体は何の問題もないのですが、かつて4~5時間も眠ればそれで充分に足りていたのに、今は10時間を超えるほどとなってしまいました。

この原因は幾つかあるのだと思いますが、その根っ子にあるのは、やはりどんな生き物でも避けられない老化という現象なのだと思います。死ぬまでは生き生きと生きてゆきたいと願ってはいるものの、老化を認めないで今の活力が持続するとは思えず、やはり素直になって自分の体力に合わせた生き方が必要なのだと思うようになりました。老化を無視し、病のことだけにとらわれて歩きの目標を高く掲げ、その達成のためにエネルギーを傾注し、その後は疲れの回復のために眠り呆けるだけの暮らしでは、到底願っている生き生きとした生き方の実現には届きません。ちょうど今頃が老化というものを素直に認め、それに適った身体の管理をする切り替えの時期なのだなと気付いた次第です。

ということで、今年の歩きの目標の1カ月40万歩というのをダウンさせ、医者の方たちが薦められることの多い1日1万歩に変更することにしました。これですと年間365万歩ということになり、現在よりも100万歩以上少なくなり、かなり楽になります。その分を歩き以外の仕事の方にふり向け、眠り病の誘惑を断たねばと思った次第です。

真に他愛ない話ですが、老化に直面すると、あれこれ今の生き方を見直さないと、PPK(=ピン・ピン・コロリ)という願いは実現しないようです。これも老計というものの一つなのかもしれません。お若い方には無縁の話であります。

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力瘤

2011-02-20 04:40:18 | ホト発句

 

      

 

                力溜めこの樹支えて三百年

 

 見てくれろ俺の生命はこの足だ

 

コメント:

 

守谷市の指定天然記念物に何本かの大木がある。この木もその一つで、二十三夜尊堂の脇に植えられている。樹齢300年の榎(えのき)である。全体の姿も調和がとれていて見事だが、それ以上にハッとするのは地上に張り巡らされた逞しき根幹の様子である。人間社会においても、見てくれの良さよりも大切なのはそれを支える心根である。この木はそれを身をもって教えてくれているようだ。

 

 

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エジプト政変に思う

2011-02-19 05:25:11 | 宵宵妄話

  チュニジアの政変からあっという間にエジプトの政変に飛び火した民衆の政治変革を求めるパワーは、中東各国を大きく揺るがしています。この変化は、過去のイラクやイランなどの政変とは異質のような感じがします。今起こっている出来事は、これから先世界に大きな影響を及ぼすに違いありません。この日本国においても、遠くから見物していられるような話ではなく、日々の暮らしに多くの不都合をもたらすのは必至のことのように感じています。

私は中東の国々を一度も訪れたことはなく、この先も訪ねることはないと思いますが、想像するに、現代の世界を見渡す中でそこに暮らす人々(=大衆・民衆)が、いろいろな意味で恵まれていないのは、アフリカに続いてこのエリアなのではないかと思っています。(これはあくまでも世界知らずの一日本人の感覚に過ぎないのですが)そのことは古くはたとえば千夜一夜物語(アラビアンナイト)を読めば首肯することが可能です。何しろ気まぐれな王様に殺されないために、賢い女性が必死になって千夜にも渡って作り話を話し続けたのが、この超長編物語なのですから。その昔も現代でも王様というか特権階級と庶民の暮らしの落差は、それほど変わっていないのではないかというのが私の印象です。

その昔の王様たちを支えたものが何だったのかは見当もつきませんが、現代においては石油であり、その利権の上に胡坐(あぐら)をかいていることだけは明らかでありましょう。ほんの少し供給のバルブを絞るだけで価格は上昇し、その結果世界中の富が集まってくるという今の世のアラブ産油諸国の仕組みは、考えてみればバカバカしい限りなのですが、それが出来上がってしまった以上は、石油が枯渇するか、あるいは石油に代わるエネルギー源が見出されるまでは、このまま続くのかも知れません。

しかし、今回の政変はその富の源泉の問題ではなく、その分配のあり方に起因する内部からの強烈なパワーの噴出によるものであり、これは今までとは違った国体のあり方を暗示するものなのかもしれません。特権階級に対する積もりに積もった大衆の憤懣が一挙に爆発したというのが実情のように思います。そのエネルギーやまさに恐るべしということでありましょう。

チュニジアから始まったこの一連の変革への衝動は、エジプトとバーレーンだけでは済まないような気がします。行ったこともない未知のエリアの国々のことを賢(さか)しらに言いつのるは滑稽と思いつつも、それらの国々の人々の暮らしの根底にあるものが同じようなものならば、そこに結果される現象も又同じということができると思うからです。

アラブといえばムスリムのことがすぐに思い浮かびます。(私自身はイスラムの教えがどのようなものかをよく知らず、知人から聞いた話や何冊かの本で得た知識・情報しかなく極めてあいまいなまま勝手に思い込んでいるのですが)今世界中で良からぬ風評を醸している感じがするこの宗教ですが、よく考えれば、ムスリムの人々は貧しさに耐えて懸命に生き抜くという精神をこの宗教によって培われているように思えます。それは基本的に抗争とは無縁のようにも思えるのです。貧しい国々にこの宗教が普及していることがその証明のような気もするのです。

思うだけですが、ムスリムの教えというのは、ある意味では諦めの教えなのかもしれません。(それは、もしかしたら親鸞のいう他力本願というのにも相通じているのかも知れません)神の力によって、自分の未来はもう既につくられている、つまり時間の流れは過去からではなく未来からやってくるという発想は、なかなか変革や改革の力となりにくい一面をもっているように思えるのです。別の言い方をすれば、未来は自分の手で、力で切り開くという発想が弱いということなのかも知れません。(私のこの理解は真に狭い解釈なのかもしれませんが)

アラブの人々は、王様の運命を自分の運命に取り換えるというような過激な発想を、今まであまり持っていなかったような気がするのです。何しろ自分の未来は神によって決められているというのですから。これをしっかり守る限りは、王様たちを脅かすような世界は生まれないということになるわけです。貧富ということに対しては大変に謙虚で寛大で従順な人々だったといえるようです。

しかし、現実の暮らしの中であまりの貧しさや不平等・不遇が続けば、自ずと我慢の限界が出てくるというものでしょう。過去の自国の歴史の中で、絶対王制が崩壊し、国の名称は如何にも民主国家めいたものとなっていても、その実態は独裁主義政治による一部の特権階級が利するばかりでは、どんなに巧妙にその仕組みをつくり運営したとしても、今日の世界を駆け巡る情報を手にしては、民衆の謙虚さもついに限界を超えてしまったのではないかと思うのです。今中東エリアで起こっている政変現象の本質はこの辺のところに潜んでいる感じがします。

ところで、この後の各国がどのように動いてゆくのか、大きな歴史のうねりを目の当たりに見ている感じがして真に興味津々です。(このような言い方は無礼千万であり、対岸の火事を評するノーテンな野次馬に過ぎないことは重々承知しています)チュニジアやエジプトのこれから先がどう動いてゆくかは、世界中が注視しているところであり、それは現代の世界史が作られてゆく重要な過程の一幕のように思えるからです。

一つ不思議に思うのは、どのような政変の場合でもその変動の核には明確な指導者がいるというのが歴史の通例なのですが、今のところこの二国にはそれに該当する人物が見当たらないようです。リーダーを求めるプロセスを待てないほどに、人々の憤懣は一気に爆発したということなのかもしれません。しかし、リーダーや組織なしに治世が安定するというのは過去の歴史には無く、この次のステップがどうなるのかが懸念されます。エジプトにおいては軍が政権を受け継いだということですが、さて、どう動いてゆくのでしょうか。当然のことながら、利権の得失をめぐって、取り巻く各国の様々な種類の圧力が押し寄せることでしょうから、変革の先行きは真に不安定と考えます。

変革の原動力には、必ずある種の力(=エネルギー)の存在がありますが、チュニジアやエジプトの場合は、リーダーなしの民衆の一致した不満や憤怒がその核となったようで、これは起爆力としては相当なものだったと思います。しかし、さて、その思いをどう実現するかとなると、国という組織を動かすリーダーが求められることになります。それが不在となると、これから先はまだまだ闇が取り巻くということになるでしょう。仮にエジプトで軍部が実権を握り、国を動かし始めるとしても、元の体制に逆戻りする可能性はかなり大きいような気がします。世界の過去の歴史を見ても、社会主義体制であれ、自由主義体制であれ、一旦権力を握った者はなかなかそれを放そうとはせず、あわよくば何でも己の思うようになる独裁体制を指向したがるのは、歴史の常とするところなのですから。さすがに先進国といわれる国にはそのような現象は生まれにくいようですが、中東諸国においては、政体の本物の変革というのは真に難業なことのように思います。

起爆の力はあっても、その後の達成すべき目的に向かって力を発揮し続ける組織とそのリーダーがなければ、ゴールに到達するのは困難です。その意味では、私の想像の限りでは、この政変は一時的なものであって、ほんの少しばかり貧富の差を埋める働きはするかもしれないけど、それ以上の成果には届かないように思えてなりません。正義の観点からは、この際一挙に貧富の差が埋まるような、そのような政治体制の出現を望みたいのは勿論ですが、その見通しは極めて困難な気がします。要するに悲観論なのです。しかし、これらの変革の行く末は、野次馬の決めることではなく、チュニジアのことはチュニジアが、エジプトのことはエジプトが、そしてバーレーンのことはバーレンが決めることであり、見守るしかありません。

政治変革の衝動は、燎原の火のように中東を席巻するのかもしれませんが、それが鎮火した後に何が残るのか、リーダーなき民衆のこれから先を、新しい歴史の出来事として、生きている間は、日本人の一野次馬として見守り続けたいと思っています。

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