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山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

誰が五木村の悲劇を生み出したのか?!

2025-03-17 07:34:31 | くるま旅くらしの話

 くるま旅をしていると、思わぬ所で、思わぬ出来事に出会うことがあります。この話もその一つなのです。

 偶々TVでNHKの「新日本紀行」という番組を見ていたら、五木村のことが出ていました。この番組は50年ほど前の取材と現在の状況を一緒に紹介してくれるので、大変興味を持って見ています。全国各地の昔と今が紹介されていますが、その中には旅先で訪ねた箇所が幾つかあり、その時のことを思い出させてくれるのです。

九州の旅は今までに3回行っていますが、2012年に初めて五木村を訪ねました。今から13年前となりますので、その時はTVで紹介された50年前の五木村とは大きく変わっていたのだと思います。林業のための小屋や焼き畑農業などはあとかたも見られませんでした。

2012年には九州の南部を中心に昔を訪ね回って、屋久島まで足を延ばしてその帰途に人吉市の昔の城址や国宝青井阿蘇神社などを訪ねた後、その夜は比較的近い五木村にある道の駅を訪ねて1泊しました。その時の印象です。

 五木村と言えば、何と言っても子守唄が有名です。道の駅も「子守唄の里五木」となっています。ここは五家荘や椎葉にも近い大変な山奥の里です。その昔平家の落人たちがここまで逃げ延びて、その末裔の人たちが営々と今日まで暮らしを保ってきた場所でもあると理解していますが、いつも思うのは、源氏というのは随分としつこい連中だという嫌悪感です。それは今日だから言えることなのかもしれません。とにかくとんでもない山奥での暮らしは、当初から困難を極めたものだったのではと同情せずにはいられません。五木の子守唄は、そのような源平の争いなどが過ぎたずっと後になって生まれたものだと思いますが、山奥の里での暮らしは貧しくて、幼い子供でも村の生活に安穏することは許されず、物心がつく頃になると村を出されて子守の仕事に就かされるなどして、背負った子をあやしながら涙ながらにふる里を思い口ずさんで生まれたに違いありません。幾つか知っている子守唄の中で、これほど哀しいメロディと歌詞の唄は無いのではないかと思うのです。現代の貧しさとは異種のどん底の貧しさの中で生まれた唄なのです。

 道の駅に着いた時には、あの哀しいメロディが夕刻までスピーカ―から流れていました。しかしそこで見た景色は意外なものでした。そこには昔の五木村を思わせるような景色は全く無く消え去っていたのです。山の中腹にある家々は皆新しくて、街の中で見かける家と変わらないものばかりでした。茅葺の家など全く見られないのです。初めて来たので、予想とは全く違っている景観に驚きました、あの子守唄のメロディからは想像もできない景色なのです。どうしてなのかとその違和感に戸惑いました。

 その夜は東北から一人旅で来られたという人と遅くまでくるま旅の談義をしました。そして翌朝、旅先では必ず付近の散歩をするのですが、道端に立派な記念碑のようなものがあるのに気づきました。そして近くには深い谷を跨いだ造りかけの大きな僑が見られました。なんだか五木村には相応しくない景色だなと思いました。その記念碑に近づいて、それを読んでみるとこの違和感の原因が何かということが解りました。

 五木村の現在の道の駅辺りからは深い谷が見下ろされて、そこを一条の川が流れているのが見られます。五木村の集落は、昔はその河辺川という細い川に沿って営まれていたのです。しかし、30年ほど前からこの川をせき止めてダムをつくるという話があり、村の人たちはこの計画に真っ向から反対し、村を挙げての反対運動に取り組んで来たのです。生まれ育った故郷を出て行けというのですから、どんなに貧しい村でも、そこに住む人たちから見ればハイ解りましたと頷けるわけがありません。ダムの建設理由は、河辺川はあの急流の球磨川の支流で、その下流域では過去何度も大きな水害に見舞われて、これを防ぐためということなのでした。長い反対運動の結果、下流域の人たちのためにという説得を受け入れて、ようやく反対運動を止めて建設に同意したということでした。その様なことが「新たなるふる里をめざして」というタイトルでその経過が記念碑に書かれていたのです。

記念碑には、村人たちの悲しみと強い無念の思いが綴られていた。

 その補償金などで谷底からこの中腹に新しく開けた土地に多くの村人が移住したのだと思いました。だから新しい現代建築の家が建ち並んでいたのです。ここはもう昔の五木村ではないのだというのを実感した次第です。

 しかし。その後の話がまだあるのです。その記念碑の傍から見る谷を跨いで新しい橋が造りかけているのはどういうことなのかと思ったのです。それで近くの方に訊いてみると、何とその後ダム造りが中止になったということなのです。往時の政権が税金の無駄遣いの一つとしてこのダム造りを取り止めにして、その代わりに橋を造ることになったという話なのでした。そう言えば、2009年に政権交代劇があって、国会などでいろいろ議論されていたのを思い出しました。その様な理由でダム建設が止めになって、今は故郷に戻ることも出来ない村人たちは、一体今どのような思いでこの経緯を見ておられるのかと、その無責任とも思える政治のあり方に怒りがこみ上げました。

 さて、それから13年が過ぎて、昨2024年に再度五木の道の駅を訪ねて1泊したのですが、新しい家並はそのままであまり変わってはいませんでした。でも道の駅にあの子守唄は流れておらず、13年前にその味の虜になった豆腐(堅めの豆腐で絶品なのです)はもう手に入らなくなっているのかと心配したのですが、何とあの豆腐は自動販売機で売られていたのです。安堵しましたが、最近の世の中の移り変わりを見せつけられたようで、少し複雑な気持ちになりました。その後橋はどうなったのか見てみましたが、よく判りませんでした。只、ダムはまだ造られてはいないようでした。とにかく変わりゆく村の様子を見て、複雑な気持ちで道の駅を後にしたのでした。

 ところが先日「新日本紀行」を見ていたら、何と、現在五木ダムが造られているというではありませんか! 昨年の旅ではそのことには気づかなかったのですが、ダム建設の中止からしばらく経って、下流域の人吉市では大洪水に巻き込まれて、大きな被害を蒙ったというニュースを見ていて、ダムの建設を中止せずに完成を見ていたら、あれほど酷い災害にはならなかったと思ったのを思い出しました。それが現在は再びダムが造られているというのです。そのこと自体は下流域の洪水防止のためにもその必要性は理解できるのですが、この間の政治のありようについては、国も県も随分と無責任であり、五木村の人たちはこの有様をどんな思いで見ているのかと怒りを覚えました。政治が中途半端な先見性で行われると、一つに村の存在までが翻弄されるのだというのを思い知りました。

 現在の村人たちには、どうせ元には戻れないのだから、もうダムを造ろうと止めようとどうでも良いという気持ちになるのかもしれません。でも、私はこのような政治の誤りを許すべきではないと思うのです。今でもあの「新たなるふる里をめざして」という記念碑は健在なのです。今回の新日本紀行の中では、NHKはあの碑のことには一つも触れてはおらず、これは歴史を見る目の片手落ちではないかと、そう思ったのです。

くるま旅をしていると、思わぬ所で、思わぬ出来事に出会うことがあります。この話は、期せずして政治のいい加減さと国を運営することの難しさを教えてくれたのです。

 

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60年ぶりの再会  

2024-12-06 22:30:50 | くるま旅くらしの話

 60年ぶりと書きましたが、正確にはもう少し時間が掛っています。誰と再会したのかといえば、学生時代のバスケ部の同期の皆さんたちなのです。私は現在84歳。従って同期の皆さんも略同年齢となります。60年以上前に卒業してから、皆それぞれの道を歩み、今日まで生き残っている数少ない人たちなのです。往時のバスケ部は、学部共通のメンバーで構成されており、教育学部を中心に文理学部、工学部、農学部の人たちが参加していました。工学部と農学部は、2年次からは水戸市を離れて日立市や土浦市の学舎で学ぶため、ずっと同じメンバーで練習やゲームに参加していたわけではないのですが、卒業後も時々同期のメンバーでの会合を持っていたようでした。私は一般企業に就職して以降、東京を始め高松や福岡などで仕事をしていたため、同期の皆さんと会う機会は殆どなく、忘れられている存在でした。

 

それがどういう風の吹き廻しなのか(失礼)、10月下旬のある日メンバーの一人のFさんから電話があったのです。家内が電話を受けて、Fさんから電話です、といわれた時は誰なのか見当もつきませんでした。しかし電話に出てバスケ部の話を聞いた時は、直ぐにFさんの顔を思い出しました。背が高い紅顔の美青年でした。彼の話によると、来月の下旬に昔のバスケ部仲間たちの集まりが予定されており、参加しないかという誘いの話でした。突然だったので少しためらいもありましたが、俄然昔のことを思い出し、出席を快諾しました。Fさんから昔のメンバー二、三人の近況などを教えて頂き、何人かは病に取りつかれて厳しい状況にあるなどと聞いて、益々これは是非とも参加しなければならないと思いました。突然でしたが、嬉しい知らせでした。

 

10月下旬に電話を戴いて、集まりまでには1カ月以上もの待ち時間があり、それまで何もしないで待つというのは厳しいな、と思いました。2~3日考えた後、Fさんを訪ねてみようと思い立ちました。Fさんはつくば市在住で、守谷市からは1時間もかからないで行ける場所です。電話をすると、当日は奥さんが留守なのでという話でしたが、とにかくOKを戴いて訪ねることを敢行しました。大した迷いも無く彼の家に着くことができました。60年を超えた時間の再会なのです。懐かしさで胸が膨らみました。やあ、やあと手を握りハグをして再会を喜びました。60年ぶりのFさんは昔とさほど変わってはおらず、歳相応に老いてはいても直ぐに彼と判りました。私はてっぺんが光りはじめて寒くなっていますが、彼は私よりは被害が少ないようでした。元気な姿を見て安心しました。

その後、お邪魔をして2時間ほど歓談しました。何人かの懐かしい人たちの近況などを聞いて、驚いたり哀しい気分になったりして、60年という時間を経た一人一人の来し方の変化に思いを馳せました。人生の晩期に当って、メンバーの多くがやはり体調の維持に苦労していることを知り、老というものの厳しさを実感しました。

 

それからしばらくして、待望の日がやって来ました。何しろ60年を超えた再会なのです。1か月前や1年前に会った人との再会とは全く違うのです。自分自身の顔でさえ60年前とは大いに違っているのを自覚しているのですから、往時の皆さんが今は一体どのような顔や姿になっているのか、思いは膨らむばかりでした。国民宿舎の会場に30分以上早く到着して、暫く車の中で待機しました。今日の集まりは、自分を入れて7名(男5・女2)と聞いていました。集合時刻が来て、ロビーに入って行くと、先ずはTさん夫妻に会いました。この夫妻は同じ部活を通じて知り合って結婚されているのです。ご主人の方は直ぐに判りましたが、奥さんの方は思い出すのに少し時間がかかりました。そのあと、皆さんが到着して再会を確認し合ったのですが、60年前の印象とは全く異なっている人も居て、大変な驚きでした。しかし、しばらく話をしているうちに,段々昔の顔を思い出すようになって来て、これは不思議な現象でした。夕刻の宴会の時間が来て、一人ひとり自己紹介をして頂き、その来し方の話に驚きながら耳を傾けたのでした。それらを一々細かく書くことはできません。

60年ぶりの再会は、浦島太郎が玉手箱を開けたような心境でした。老いというのは、情け容赦もなく人を変えて行くものなのだなと改めて実感しました。翁と媼の集まりなのでした。話題の中心は、思い出が主役となり、現実は控えめとなり、未来については、隅の方に追いやって中に入ることはないという世界がそこにあったように思いました。この後も老は止まることなしに我々を追い詰めてゆくのだと思います。しかし、なればこそこの集まりが貴重で、生きる力にもなるのだと、そう思いました。次回の開催が何時なのかは未定のようでしたが、必ず出席するぞと心に誓いました。

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西海道&西国の旅の記録から(その39)

2024-08-07 02:18:22 | くるま旅くらしの話

<旅を終えて>

 

 コロナ禍と癌の治療に明け暮れた人生晩期の5年以上の時間は、私たちくるま旅を生きがいの要としている者にとっては、実に大きな失われた時間でした。昨年の秋にようやく北海道1ヶ月の旅に復帰して、今回はそれから半年経っての九州を中心とする西日本への長旅でした。結果的に1カ月となったのは、予定通りなどではなく、医者通いのための二人の締切日が6月の半ばまでだったので、それに囚われて帰宅しょうと1カ所での滞在日を切り詰めた結果なのであって、そのようなものがなければ、もっとゆっくりとした旅が出来たのでした。この5年以上の空白の時間は、それまであまりなかった医者通いの時間を増やして、より制限の多い時間を生み出していたのです。

 それはともかくとして、今回は北ではなく西や南の方へ行こうと考えていたのを実現する旅でした。関東から九州へは遠くて、老人には何時でも行ける距離ではなく、恐らくこれが最後の旅となるのではないかという思いの旅でした。もしかしたら無事に戻るのは難しいのかと考えることもあったのです。それほどにこの失われた5年間の間に我が身の老化は進展し、心と身体を弱めていたのです。 それでも何とかしようと、毎日8~10kmの歩きを我が身に課して実践して来たのでした。それを続けることが出来ていたので、何とかなるだろうとは思っていたのですが、いざ旅の本番となると、急な坂道や石段、階段などでは、息が上がり足は上がらなくなり、平地の歩きだけでは体力維持にはあまり効果はないのかと、何度も自信を失わせてくれたのでした。今回の旅は、私自身にとっては、泣き言と愚痴ばかりの惨敗と言った感じの旅でもありました。

 ま、そのことは置いておいて、12年ぶりの九州行は、人生の晩期に居る者にとっては、いろいろな意味で懐かしさ、嬉しさ、ありがたさをしみじみと味わうことが出来た思い出の旅となりました。新たな出会いや発見はそれほど多くはなかったけど、それ以上に懐旧の大切さも人生には必要なことを実感したのでした。つまり、人生というのは過去の多くの出会いと発見とそれに伴う感動によって支えられ出来上がっているのだということなのです。旅というのはそのことを再確認する働きの力を持っているのです。リタイア後の人生の柱として、家内と二人でのくるま旅を選んだのは正解だったとあらためて確信出来た旅でした。

 ところで、この旅の記録のことについてちょっと触れておきたいと思います。はじめにも少し書きましたが、私はいつも旅から戻ると、記録として旅日記を冊子にまとめて残して置くようにしていました。それは、旅のの間に持参したPCに毎日の出来事などを記しておいて、それをベースに作成すると、あまり苦労せずにまとめることが出来たからでした。しかし、今度の車にはPCを使えるスペースがないため、それが出来ません。なので、PCは持参せず、ノートへのメモを中心に記録を作成せざるを得なくなりました。そこで思いついたのは、旅の間に作成していたメモの他に日記と行程記録と写真などを参考にしながら、日記ではなく印象に残っている出来事などを短文と短歌や俳句などを入れてまとめることでした。短文だけでは不十分と考え、特に印象に残ったことは別の短詩形の表現を用いた方がしっかり残ると考えたのです。

 しかし、短歌は高校の頃に一とき啄木に傾倒して真似をした経験があるというものの、その情熱は冷めて、半世紀の間にすっかり消えてしまっていました。句作の方も同じようなものです。でも、もしかしたらこの取り組みは傘寿を過ぎた老人のすさびとして役立つかもしれないと考え、とにかく悪戦苦闘しながら言葉を探して何とか作って見たのでした。真に汗顔の至りであります。

 

 最後に、今回の旅で出会い、無上のおもてなしを賜り、嬉しい歓談の時をプレゼントして頂いた皆様に心から感謝とお礼を申し上げます。ありがとうございました。(終)

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西海道&西国の旅の記録から(その38)

2024-08-06 03:58:57 | くるま旅くらしの話

◇ 上州 → 野州 → 常州 → 総州、そして守谷に帰宅

旅の最終日が来ました。今回の旅の最終日の行程を昔のエリアの呼び名で書いて見ると、タイトルのようになります。昔の関東エリア関八州の半分を通過しての帰宅となります。時々このようないたずらの発想をして、旅のコースを見てみることがあります。 現代のくるま旅の世界は、今からたった150年ほど前の旅に比べたら驚異的なスピードで移動しているのが判ります。今日は関東の半分という範囲を通っての帰宅となったのでした。その距離約200km、里程で言えば50里となります。150年前は、どんなに早馬を乗り継いでも1日近くかかるでしょう。それを今はゆっくり走っても5時間足らずで移動できるのです。時々このようなスピードの時代が許されるのかと思ったりするのですが、現実はこんなスピードは極めて遅い方であって、宇宙に向かっては地球の重力を抜けだすほどのスピードが可能となっているのです。しかし、思うのは人間の頭の中で描くイメージ切り替えのスピードはもっと速いのですから、上には上があるものです。

ま、そのような理屈はともかくとして、旅の最終日は、道の駅:あがつま峡を9時過ぎに出発して、途中で群馬県の道の駅:おのこと道の駅:こもちに寄って若干の買い物をした後は、しばらく国道17号を走り高崎の先から国道50号に入り、筑西で国道294号に入って、15時過ぎ守谷に着いたのでした。しかし、そのあと自宅に戻るまでに溜まっていた最後の洗濯を済ませ、給油を終えて我が家に帰還したのは17時をかなり回っていました。そのあと荷物を下ろして大雑把な整理が終ったのは夜の時間帯でした。改めて最終的に走行距離を確認したら、総計5,452kmとなっていました。30泊31日ですから、丁度1ヶ月の旅でした。簡単に感想を言うならば、次のようになると思っています。

 

  *この旅は老いたる吾れを我れが知る再確認の旅となりぬる

  *人生の晩期は楽し夫婦(ふたり)して積んだ思い出絆は固く

  *新たなる日々を迎えて行く旅は夫婦(ふたり)の生命(いのち)新たにもする

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西海道&西国の旅の記録から(その37)

2024-08-05 04:28:38 | くるま旅くらしの話

◇日本アルプスの下を潜って信州の安曇野へ出る

 今日は飛騨を出発して信州の安曇野に向かう日です。いよいよ旅も終盤のその終りが近づいてきました。飛騨から信州安曇野に出るのは、今でも難所と言える道です。国道158号は、安房峠のトンネルを潜って上高地の入口に出て、その後も幾つものトンネルを潜って、やがて野麦街道となって信州の安曇野へ出ます。途中ダム湖の脇に道の駅:風穴の里がありますが、ここでいつも一息入れるのですが、風穴というのを見たことはありません。そのような場所をあまり好きではないのです。閉所高所恐怖症なので、洞窟や坑道などは苦手なのです。

 安曇野に出ると、サラダ街道の実りを披歴してくれている道の駅:今井めぐみの里やほりがねの里に寄ることにしています。そこへ行けば新鮮な野菜を安価で手に入れることが出来るからです。今回は時期的に少し早いのか、それほど多くの野菜類は見られなかったのですが、それでも何種類かを手に入れました。いつもだと、この地の道の駅に泊ってゆくのですが、今日は時間に余裕があったので、予てから訪ねようと思っていた、千曲市の長野県歴史館と将軍塚古墳を見ることにして向かいました。少し遠いので長野道を利用することにしました。私は現在日本の歴史を訪ねようと考えており、ここ2年ほどは縄文時代について関心を向けて来ているのですが、幾つかの遺跡を訪ねて縄文人のくらしがどのようなものだったのか、ほんの少し理解できた程度でまだまだこれからなのですが、つい野次馬根性が働いて次なる弥生や古墳時代の遺跡についても名のある場所は覗いてみたいと考えているのです。千曲の将軍塚古墳もその一つなのでした。

 長野道の千曲ICを降りると、歴史館と古墳の入口の建物は直ぐに判りました。先ずは古墳の方へ行こうと歩いて行ったのですが、今日も日が高くて猛暑なのです。しばらく歩いてゆくと、案内板があって、あと1km以上もあるというのです。しかも平地かと思っていた古墳はかなりの山の上の方なのでした。これじゃあ無理すると熱中症になりかねないと考え、古墳の方に行くのは断念して歴史館に行くことにしました。

 家内とは別行動でしたが、あとで聞くと古墳の方へはマイクロバスが運行されていて、家内はそれに乗って見て来たということでした。旅先での二人の行動は別々のことが多くて、今回も古墳に余り関心があるとは思えない家内がちゃんと見て来て、自分の方はアウトになってしまったのです。でも長野県立歴史館には長野県各地の歴史や遺跡の出土品などが時代別に整理されて紹介されていて、大いに勉強になりました。念願の縄文のビーナスのレプリカも見ることが出来て、古墳の方は後廻しでもいいやと思った次第です。

 この日はこの後は軽井沢近くから一つ山を越えて上州に入り八ン場ダム近くの東吾妻町の道の駅:あがつま峡に泊ったのでした。

 

*この国の背骨の下を潜り抜け安曇野に出て振り返る峰々(やま)

 *高き峰(やま)連なる中を行く道は野麦街道どこまで続く

 *縄文のビーナス土偶美しき万年経ても人間(ひと)は不変(かわらず)

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西海道&西国の旅の記録から(その36)

2024-08-04 04:25:27 | くるま旅くらしの話

◇伊勢から飛騨へ大移動

 くるま旅というのは、とんでもない移動を可能にするので、理解できない人も多いのではないかと思います。この移動は本人というか当事者だけが楽しむ特権なのです。旅の終りがいよいよ近づいて来て、関東に住む者ならば伊勢参りが終ったら、東海道を通って、車ならば東名道を走って帰宅に向かうのが普通だと思うのですが、私たちは今回はそれを止めて、信州松本経由で関東エリアに戻ることにしました。基本的に東京都心を走るのが嫌なのです。混むし、訳のわからない地下を走らされたりするので、嫌なのです。

 で、今回は伊勢からは伊勢湾岸道を走って、東海北陸道に入って、飛騨エリアで下りて古川や高山を訪ねた後、日本アルプスの下を潜って松本に出て、そこからは上州経由で帰宅することにしたのです。

 東名阪道から伊勢湾岸道に入ると、二つの関心事があります。その一つは湾岸道から名古屋港を眺めることです。名古屋港は自動車の輸出港でもあり、日本の経済・産業の牽引を担っている港でもあります。それを見下ろすだけで何だかこの国の力を確認出来たようで安堵するのです。もう一つは湾岸道の終り近くにある刈谷PAに寄ることです。ここはハイウエイオアシスになっており、一般道ともつながっていて、名古屋エリアの土産物や名物食品などを手に入れることが出来るのです。特に何時も楽しみにしているのは、えびせんやゆかりなど名古屋の名物せんべいの類を手に入れることです。今回もそれが目的で寄りました。しかし、家内の話では、あまりにも高くなっているので以前のように気軽に買うことはできないということでした。諸物価の値上がりはこの国の隅々まで行きわたっているのかと、ガッカリしました。その他名古屋名物のお菓子の一つにういろうがありますが、ここでは伊勢のういろうも売っているので買いたいのですが、今はその手の菓子類は食べられない、食べてはならない身体となってしまっているので、諦めることにして、いつもよりは少ない量のせんべいを後で味わうことになりました。

 刈谷を出た後は、東名道から東海北陸道に入り、長良川SAという所まで行って、暗くなり出したので、ここに泊ることにしました。ここは初めて来た場所なのですが、駐車場の脇にドッグランのスペースがあり、水道も使えるようになっていたので、松阪を出て途中で初めて寄った津かわげという道の駅で手に入れた新じゃがいもを茹でて食べることにしました。私はジャガイモ大好き人間で、旅の間でもチャンスがあれば買い入れておいて茹でて食べることにしているのです。本当は魚類も食べたいのですが、この車には冷蔵庫はなく干物や生ものは付近に迷惑をかけるので、買わないことにしています。ジャガイモなら臭いもなくただ塩茹でするだけですから、大丈夫だと思っているのです。久しぶりのジャガイモに満足しました。他愛のない話です。

 翌日はSAを出発して途中ひるがの高原SAで白山を遠望し、その後も走り続けて飛騨清見ICで降りて一般道に入り、飛騨市古川の道の駅に到着して一休み。そのあとは高山まで行き重伝建エリアなどを散策して、もう一度古川の道の駅に戻ってそこで1泊しました。

 

  *分水のひるがお高原に見る白山は白く輝く神の座す山

 

  *狭隘な路地に溢れる人の波飛騨の高山喧騒(けんそう)の町

 

  *町並は昔も今も変らねど人は変われる飛騨の高山

 

  *この地まで異国の人ら押し寄せて飛騨の高山賑わい不変

 

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西海道&西国の旅の記録から(その35)

2024-08-03 03:51:32 | くるま旅くらしの話

◇お伊勢参りは奈良の山路を越えて

室生寺の参詣を終えた後は、いつもそうなのですが、一旦大宇陀の道の駅に戻って一息入れた後、国道166号で高見山の下を潜り、松阪市の道の駅:飯高駅に向かいます。これは翌日にお伊勢参りをする時のいつものコースなのです。それには理由があって、お伊勢参りは早朝にと決めているからです。駐車場の混まない朝一番ならば余計な苦労をしないで駐車が出来て、そのあとはゆっくりとあの広い森の中を歩いて清らかな大気を胸一杯に吸って味わうことが出来るからです。そのためには前日近場での宿泊が必要なので、いつも道の駅:飯高駅前泊と決めているのです。飯高駅にはいい温泉が併設されていて、いつもその恩恵にも浴していました。今回もいつもと同じようにすることにしました。

 ところが行って見ると道の駅はいつもと少し様子が違っていました。何が違ったのかといえば、いつも車を止める場所がなくなっていて、そのすぐ傍にRVパークというスペースが出来ていました。行って見ると同じような駐車スペースに夫々コイン式の給電装置が設けられていました。RVパークのことは今回福岡で体験しているし、大宇陀の道の駅近くの温泉施設にもあったのでそれがどんなものなのかは理解してはいるのですが、料金が無料とか千円/泊くらいならば大いに活用できるのですが、すぐ傍に無料の駐車スペースがたくさんあるのに、べら棒に高い料金なので、とても利用する気にはなりません。ここも同様で、コイン式の給電装置はリーズナブルで賛同できるのですが、それを使用するために高い駐車料を払うのは馬鹿げた話です。それなのにここの道の駅には、車中泊は遠慮しろなどという張り紙があって、何だかスッキリしない気分になりました。道の駅はもともと仮眠できる場所として造られているのですから、滞在なしで一晩泊らせるのは道の駅開設の基本条件ではないかと思うので、RVパークなどというあまり意味のない駐車スペースをつくって、車中泊を妨害するのはけしからんと思った次第です。何だか不愉快な気分になったのですが、近くにある道の駅では安眠が期待できないので、止むなくここに泊ることにしました。温泉に入るのは止めにしました。

 翌日は早朝に出発して予定通りお伊勢参りをしました。お伊勢さんには何度もお参りに来ています。いつ来てもあの深い森の空気はさすがだなと感動します。古来より大勢の人が様々な形でここにやって来てお参りするだけの雰囲気があるなといつも思います。1時間以上かけて参拝を済ませ、おかげ横丁などを歩いたのですが、時間が早過ぎて未だ殆どの店が閉まっていました。しばらく待って営業を開始している店に入って、うどんを食しました。名物の伊勢うどんです。とぐろを巻いている太めのうどんにタレをかけて、いつもの味を楽しみました。それからもしばらく時間を過ごして、おはらい町やおかげ横丁の店々を覗いて伊勢参りに来た気分を味わいました。

 伊勢参りの後は、今回は特別の予定がありました。それは隣の松阪市にある松浦武四郎記念館を訪ねることです。松浦武四郎は、伊勢松阪出身の幕末から明治にかけての偉大な冒険・探検家です。主に蝦夷地すなわち北海道の探検に功のあった人で、北海道という地名の名付け親としても知られています。私たちはもう20年以上も何回も北海道を旅しており、いろいろな場所でこの探検家の名前を聞いており、蝦夷というまだまだ未開の地を隈なく歩いて、アイヌの人たちに温かい目を向けて、多くの記録を残し、しかもその殆どが独力で旅をしたというのですから、すごいパワーを持った人だったのだと敬服しないわけにはゆきません。旅の偉大な先人の一人として尊敬大であり、今度伊勢に参拝した折には、この人の出身地である松阪にある記念館を是非とも訪ねようと考えていたのです。この日はその念願が叶って嬉しく満足した一日でした。

 

 *閑かなる大樹の杜(もり)に神ありて人の願いは浄化されゆく

 

 *玉砂利を踏みしめ行けば幾万の人のざわめき杜に消えゆく

 

 *何時(いつ)の世も変わらぬ姿そのままに伊勢の大社は人に寄り添う

 

 *伊勢(いせ)詣(まいり)おかげ横丁の楽しみはうどん・赤福・人いきれ

 

 *蝦夷(えぞ)の地を独り訪ねし魂(たましい)の不撓(ふとう)不屈(ふくつ)に頭(こうべ)を垂(た)れる

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西海道&西国の旅の記録から(その34)

2024-08-02 03:41:34 | くるま旅くらしの話

◇女人高野に参詣する

 奈良に来た時に必ず参詣するのが女人高野の室生寺です。ここは何よりも家内が好きな場所なのですが、私もあの端正な五重塔を見るのが好きで、訪ねるのを楽しみにしています。何年か前には台風で塔の傍の杉の大木が倒れて塔を壊すという事件があった時も、心配でそれを見に行ったことがあるのですが、その後無事に復旧して安堵しました。女人高野と言われているゆえに男はどんな扱いになるのか、図々し過ぎるから遠慮しろということになるのか、ま、今の世ではそのような差別はないのだと思いながら参詣するのが常でした。

今回もいつものように前日は大宇陀の道の駅に泊って、そこから向かいました。春が終って夏が近づいている季節なので、室生寺は深緑一色の世界でした。拝観料を払って受付を済ませ、大きな仁王門を潜ると、懐かしい大きな石段が待っていました。それを上がると金堂があり、更に石段が続いています。その上に本堂がありますが、木漏れ日に樹木の緑がまぶしく光っていました。その先には五重塔がいつものように閑かに建っていました。いつもはそこから奥の院に続く道を当然のように上って参詣するのですが、今回は上がるのを止めました。足が上がらず、息も切れ出していて、奥の院まで往復出来る自信がなかったのでした。折角来たのだからと無理をすれば何とかなるとは思ったのですが、途中でトラブッたりしたら、あとが大変と考え無理をしないことにしました。家内は大丈夫そうでしたが、自分が止めたので、同じようにしたようでした。このようなことは初めてであり、ここでも又己の老を思い知らされた次第です。そのあとはゆっくりと石段を降りて車に戻りました。

 

 *室生寺は妻の世界か吾男(おのこ)一歩下がってその後を歩(ゆ)く

 

 *山深く女人高野の寺ありて昔の女(ひと)の願いは哀し

 

 *五つもの屋根を重ねて室生寺の塔はこの世を見つめ続ける

 

 *春もみじ光を砕き室生寺の金堂の屋根染め上げている

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西海道&西国の旅の記録から(その33)

2024-08-01 10:30:11 | くるま旅くらしの話

◇九度山から高野山奥の院に参詣する

 山の辺の道を歩くのを断念して天理にある道の駅に戻ったその日は、翌日高野山に参詣する予定だったので、その夜は高野山の麓にある九度山の道の駅に泊ることにして向かいました。高野山は奈良県ではなく和歌山県に属しています。その麓の九度山町も和歌山県です。この町は、かの大阪の陣で豊臣方の武将として名を挙げた真田幸村が、父真幸と一緒に臥薪嘗胆の思いで過ごした場所です。残念ながら思いを遂げることはできませんでしたが、彼の存在はその後もこの地を有名にしました。私は、高野山に行くまでにはこの地がこれほど高野山に近いとは知りませんでした。この町に道の駅がオープンしたのは、比較的新しいのです。高野山に参詣するときは、それ以来この道の駅に前泊することにしています。和歌山県はミカンの一大産地でありますが、同時に柿も奈良県と並んで多く生産しています。九度山は柿の郷を称していますが、秋にここを訪ねると、それはそれは見事な巨大な柿が販売されていて、見るだけで圧倒されてしまいとても食べる気にはなれないほどなのです。

 今回もお世話になることにして訪ねたのは夕刻近くでした。奈良からは無料の高速道がつくられており、間もなく完成して有料になるという感じの場所でした。柿の季節ではないのですが、いろいろ地元で作られている野菜類などが並べられていて、なかなか魅力的な駅の売店でした。今の季節はあまり訪れる人も少なくて、静かな一夜を過ごすことが出来ました。

 翌日高野山に登ったのですが、ここから高野山に行く道は、この頃の大雨の被害を蒙ったらしく、至る所に補修なのか工事の箇所があって、離合のための信号待ちを何度もしなければなりませんでした。深い谷を流れる崖に沿った道は、油断が出来ず緊張の連続でした。

 高野山には何度も来ています。20年ほど前、家内の母が存命な時に、櫻池院という支院の宿坊に泊って以来ご縁が出来て、今でもそこ出身の僧侶の方にいろいろとお世話になっています。なので、奈良などに来た時は必ずお参りすることにしているのです。今回は奥の院にだけ参詣することにしての来訪でした。高野山はスケールの大きいお寺です。宗派を超えて広く様々な人がここに眠っています。奥の院までの参道を歩いていると、歴史上名のある人物の墓が幾つも並んでいます。弘法大師が未だ生きていて祈りを捧げていると言われる奥の院まで行くまでには、大樹の森の空気に身も心も浄化されて清新な気持ちとなるのです。1時間以上かけてゆっくりと参道を往復しました。道に迷うのが得意な家内は、帰り道はとんでもない方に行ってしまったらしく、かなり遅れて戻ってきました。

 参詣が終ったあとは、山を降りて、今日は大宇陀の道の駅にもう一度泊る予定なのですが、未だ昼前でかなり時間があるので、御所市にある一言神社にも久しぶりに参詣することにしようと思いつきました。そこへ行く前に五條あたりで柿の葉寿司を買って、参拝の後食べることにしました。一言主神社というのは、ここの神様にお願いすると、一言だけ願いを叶えてくれるとか、或いは一言だけしか願えないとか、良く分かりませんが、なんでもそのようなちょっと変わった名の神社なのです。どうしてここに参拝するのかというと、今住んでいる守谷市の隣の常総市にもこの神社があって、葛城山の麓にある本社からそこの神様が関東の人らが天災等で被害を受けて困っているので助けに来られたのだと神社の由来書に記されているのです。常総の一言主神社は、人気があって、建物も本社よりも立派なのです。今でも参拝に来る人が多くて、私の孫たちもお宮参りや七五三などでお世話になっているのです。その本社なのですから、敬意を表してお参りしないわけにはゆかないなどと考えて、もう何回かここを訪れているのです。御所市というのは私にとって、とても歴史上関心のある場所で、古事記の大和の国の成り立ち神話には出てこないけど、ここには往時の豪族の何人かが住んでいて、彼らが西の方からやって来た大和を名乗る人たちと合わさってこの国の源を築いて来たのではないかと思っているからです。学者ではないので、それを証明するものなど何もありませんが、楽しく想像することはできるのです。一言神社も何かそのようなことに係わっているのかも知れません。一言主神社は相変わらずの雰囲気で静かに鎮座していました。参拝の後、駐車場で奈良の名物柿の葉寿司を堪能しました。

 この日はそのあと大宇陀にある温泉に家内だけが入り、道の駅に戻って一夜を過ごしたのでした。

 

*幾度も高野の山を訪れて妻と二人で生(せい)を確かむ

 *生も死も超えて眠れる魂は高野の山を今日も鎮(しず)める

 

 *九度山の里に隠(こも)れし侍の臥薪嘗胆の願いは虚し

 

 *柿の葉の寿司を食らえば古都奈良の味が身体に沁み渡りゆく

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西海道&西国の旅の記録から(その32)

2024-07-31 08:33:51 | くるま旅くらしの話

◇大神神社と三輪素麺

 奈良へ行くと必ず訪ねる所が何箇所かあります。先ず宿ですが、これは宇陀市にある道の駅:宇陀路大宇陀と決めています。ここは桜井市や天理市に近く南部の五條市や御所市などにも近くて、用が済んだら戻って泊るのにも便利なのです。又、道の駅の近くには重伝建の街並もあり、退屈することなど皆無なのです。今回もここには2泊してお世話になりました。そして、ここに泊って必ず参拝するのが大神(おおみわ)神社です。大神と書いて「おおみわ」と読みます。ここは山の辺を道を歩く際の拠点となることが多く、境内近くに家内が親しくして頂いている知人が居り、挨拶が欠かせません。そしてもう一つ、この地は日本の素麺の発祥の地であり、今でも三輪素麺は全国のブランド品であり、我が家ではしばらくの間この地の素麺を木箱で取り寄せて年中食べているほどの素麺ファンでもあるからなのです。

なので、今回も参拝に立ち寄りました。今回は驚くほどの人出で、1千台近く駐車できると思われる何カ所かの駐車場全てが車で埋まっており、大勢の人が続々と神社に連なって歩いていました。何かの縁日だったようです。これほど多くの人が参拝するほど現在でもこの神社は崇敬されているのだと改めて思いました。私たちもその列に加わって参拝を済ませました。社殿の境内の奥の方に丁度今ササユリが咲き始めたところで、久しぶりにあの愛らしい花を見ることが出来て感動しました。帰りに家内は知人の所を訪ねて挨拶をしていました。素麺の方はこの頃は体重コントロールに影響大なので、取り寄せたり買い入れたりするのは控えるようにしています。

 

 *様々の願いを持ちて大神(おおみわ)に人集うなり今日は縁日

 

 *大神(おおみわ)の境内(もり)の片隅に楚々と咲く小さき百合の花を愛しむ

 

 *大神(おおみわ)の恵みなるらん素麺の妙なる味をこよなく愛す

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