山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

旅から戻って正常未達

2018-09-27 04:57:00 | くるま旅くらしの話

 旅から戻って、あっという間に半月が過ぎようとしている。この間毎日ブログの方は覗いているのだけど、日を追うごとに訪問者の数は下降を続けていて、旅の間の1/3ほどとなってしまった。それを見ていると、何だか申し訳ないような、残念な気分になり、何かを書かなければならないと、物書きの本性のようなものが働いて、取り敢えず近況を報告することにしようと、これを書いている。

 旅から戻って最初の1週間は庭の除草と植木や生け垣の剪定に取り組んだ。3カ月半の留守の間、倅の方でも多少は除草などをしてくれていた様なのだが、見る限りでは草たちの方が連戦連勝している感じだった。これを懲らしめようと一草といえども許さじと除草に取り組んだのだが、それが出来たのは最初の1日だけであって、翌日はもう立って歩けないほどの腰痛に見舞われてダウン。それでも1日休んでその翌日には回復し、腰の方も作業に慣れたのかそれほど痛くはなくなった。老人の割には回復が早い方なのかもしれない。

 週2回のゴミ出しで、この週は袋詰めしたものを25個ほどを出すこととなった。草も枝葉も袋に詰めて出すのだが、これほど大量になるとは思わなかった。それでも家の周辺がすっきりすると、旅の間の留守の罪滅ぼしが出来たような気分となり、先ずは一段落。

 その次に取り組んだのが旅の記録の整理。と言っても肝心の150年の来し方に関する各種情報・データの整理ではなく、その前にブログで発信した日々の記録を冊子化することである。自分は旅が終わると、毎回その記録を「でこぼこ日記」というタイトルで冊子として残すことにしている。ブログを開設していなかった頃は、旅日記を冊子化していたのだが、開設後はブログの記事を再度見直しして誤字・脱字等をチエック、編集して冊子とするようにしている。今回も驚くほどの誤字・脱字などがあって、赤面の心境である。当日書いたものをロクにチエックもせずにそのまま投稿する危険さを思い知らされた感がする。

 今回は長旅だったので、冊子は240ページにもなり、これをパソコンを使ってプリントアウトし、20冊分を製本するのは結構厳しかった。全て一人の手作業なのである。それでも出来上がると、後楽の第1ステップが終了しことになり、先ずは安堵する。この冊子化の作業は、以前は1カ月ほどかけてやっていたのだが、この頃はブログがあるので、帰宅後2週間以内には作成完了することを目途にしている。今回もこの日限については、セーフといったところである。

 この二つの作業だけで半月近くかかってしまった。まだまだ雑事が控えている。浮世の雑事は必要悪だと思っているけど、良く考えてみると、我々はその必要悪のために人生を歩んでいるのかもしれない。つまり、必要悪などという捉え方は思い上がりということになるのであろう。取り敢えず当面幾つかの必要悪をこなさなければならない。

 ところで1万キロ以上のくるま旅をしてみると、どうやら今頃になって疲れというものが顔を出してくるようだ。旅の間に疲れを感じることは殆どなかったのだが、帰宅後の暮らしの中では、心身ともに揺らぎが大きいのを感じている。体調管理のバロメーターとして「4快(快食・快眠・快便・快動)」を掲げてやって来ているのだが、このところ快眠と快動が思うようにゆかない。異常というレベルではないけど、今一「快」を覚えないレベルなのだ。ま、第1ステップが終了したので、回復に向かってくれるとは思っている。

 この後は楽しみが大きい。北海道の150年の中には興味ある出来事が無限に詰まっている感じがする。それを自分なりに拾ってゆくつもりでいる。最近のTVの中で、NHKの「チコちゃんに叱られる」というのを時々見ているけど、「ボケーと生きてんじゃねえよ!」という、あのドカン!と来るセリフは、今まで20年近くも北海道を旅していて、何にも知らなかった自分にもピッタリ当てはまる気がしている。人間、緊張ばかりでは生きては行けないけど、それにしてもボケーっと生きている時間の何と多いことか。ま、チコちゃんの様なもの知りになったからと言って、それが浮世の雑事に勝るとも言い切れず、その辺りが人生の面白いところだけど、この後しばらくは可能な限り浮世の雑事を離れて、北海道150年の来し方の宝物さがしをしていたいと思っている。

 このブログには、旅のエッセーなどを紹介できればいいなと思っている。まだまだ普段暮らしの正常化レベルには届いていない現状である。取り敢えず近況報告まで。

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第114回(旅を終えて)>

2018-09-16 05:28:01 | くるま旅くらしの話

【旅を終えて】

  旅は終わった。112日。11,235km。訪問した郷土資料館・博物館など約140カ所。112日というのは、約3カ月半となり、11,235kmというのは約3千里ということになる。このような短い期間で3千里もの旅が可能なのは、まさに現代文明のもたらしてくれる科学技術の進歩の賜物なのであろう。

蝦夷の地を6度も訪れ、その様子を克明に伝えた松浦武四郎という偉大な探検家が費やした時間は、何十年にも及ぶ長期だったし、その足跡も微細を極めていた。その功績が光を放ってから150年という時間が経過した今、北海道という大地は、往時の姿を留めている場所は殆どなくなり、熊たちが生息する場所も追いつめられる時間が刻々と迫っているかの様である。

今年の北海道の旅は、格別のものだった。今まで20回近くの北海道行は、只の享楽的なものだったのだが、今回は初めて目的的な旅となった。それには第一に、明治の初めにそれまで蝦夷と呼ばれていた北の大地が、北海道となってから150年の節目を迎えるということを期して、この150年の来し方を訪ねてみようという思いを目的としたこと。それに重ねて今年が家内と一緒の人生を歩み始めてから50年となるので、ちょっぴりメモリアルな旅にしたいという思いがあったのである。

5月の26日に家を出て、6月の1日に函館に上陸して以降の北海道の天気は要約すれば涼しさを通り越して「寒い」という印象が強かった。それは7月になっても8月になっても続いており、時々夏がやって来て暑さが膨らむ時もあったけど、長続きはしなかった。全国的には猛暑がさまざまな事件を引き起こしているというのに、自分達の暮らしの軌跡の中では、それに関わらなかったのは幸運というべきなのか疑問を感ずるほどだった。天変地異の多い今年なのだが、自分達の旅の中では、旅の終わり頃になって、とんでもない台風と大地震に見舞われることになった。否、その前にも大雨で警報のエリアメールが何度も鳴り渡ったこともあった。しかし、その中で最大の恐怖は台風の強風だった。難を逃れようと真狩村の道の駅に待機して台風を迎えたのだが、真夜中の強風は半端ではない風の塊を車の後部にぶっつけてくれて、恐らく瞬間では30m超の風速があったのではないか。ニュースでは、近くの倶知安町では40mを超える風速を記録したとあった。北海道の台風来襲は珍しくも無くなったが、これほどの勢力の台風は稀なのではないか。その台風が過ぎる間もなく、今度は深夜に携帯のエリアメールが鳴って、見れば地震の揺れに注意ということだったが、間髪をいれず揺れがやって来て、しばらく続いた。それは厚真町の山崩れの大惨事の発生となり、北海道全体が1日以上も停電となる事件となった。ブラックアウトとかいう、電力という暮らしの巨大インフラのダウンは、現代文明の世の在り方の脆さを思い知らされる感じがした。大自然との闘いは、北海道では現在もなお続いていることを表象するような出来事だった。

さて、肝心の目的である北海道150年の来し方についてであるが、これを一口にまとめていうのは難しい。敢えて言うならば、開拓の歴史は光と影のせめぎ合いであり、多分に光よりも影の方がどの市町村においても強く潜んでいるのではないかと思った。開拓の原点とも言える「拝み小屋」を見たならば、そこに未来への希望だけが光っていたとは思えない。現実は誰もが重い影を引きずっていたのではないか。150年間その重い影を引きずりながら、無数の挫折を振り払って、現在の北海道があるのだと思った。この150年間は驚異的な速さで北海道を変えていったように思う。それは縄文という食料採取の暮らしから弥生という米生産の時代をパスして、一気に近代化を果たし、現代につなげたというほどのものなのではないか。北海道に弥生時代というのは無かったのだ。石器時代から縄文、擦文の時代を経て、江戸時代となっても暮らしのスタイルを変えなかったアイヌの人たちは、明治という時代になって、一挙に入り込んできた和人たちに有無をいう間もなく取り込まれ、暮らしの環境を一変させられたのであろう。どの市町村に行っても歴史資料館の中にアイヌの人たちの暮らしのことを語るコーナーが設けられているのは、和人の罪滅ぼしのような感じがしてならなかった。影の部分に懸命に光を当てている感じがしたのである。

様々な光と影を垣間見た感じがしているのだが、その中で印象として残っていることを2,3挙げてみることにしたい。先ず思ったのは、明治という時代がどのような実態だったかということを知らないと、開拓の歴史はつかめないなということ。思うに江戸時代というのは差別の時代だった。極端に言うと、幕末に仮に三千万人の人口があったとしたら、その三千万人を、天皇を頂点として三千万人分の順位をつけて差別するのが当たり前の感覚だったのである。明治になって「士・農・工・商」が廃されたといっても、いっぺんに暮らしの感覚が転換できるわけではない。これを転換させるには、民間の力では不可能だったと思う。従って先ずは官主導で開拓の環境づくりが進められたのだと思う。しかし、官の中でも力関係は建前とは別に本音のところでは、相当に差別心が働く状態だったに違いない。北海道の全ての土地は国有から始まっており、それが民間に払い下げられるまでの官の力の中に差別の意識が無かったとは到底思えず、開拓地の選定などに当っては、権力者による旧弊は拭われなかったのだと思う。北海道の開拓の始まりは官の天国だったのではないか。開拓地の大半が不在地主だったというのも、そのことを証明しているといえよう。そして、もしかしたら北海道では官というものの存在が今の時代でも最優遇されているという見方が続いているのではないか。各市町村を回ると、立派な役場や様々な公共施設が市街地の中心部に建てられており、その中で仕事をする者のプライドのようなものを感ずるのである。勿論現代ではその腰の低さは、明治の往時とは比較にはならないのだけど。

次に思ったのは、開拓の最大のインフラとなる道路の建設に多くの囚人が寄与している、否寄与させられているということ。今回の旅で、初めて月形町の樺戸集治監を知った。集治監というのは現在の刑務所である。つまり、何らかの法を犯して罪を問われている人たちを集めて居る場所である。罪の重い人が多く収監されているのは勿論なのだろうが、その罪の性質といえば、この時代ではいわゆる政治犯、思想犯も又重罪に値していたわけである。時の政府や国の思想を無とする人たちを放置しておくことは、国の基盤を固める上で大きな障害となると考えた為政者側は、容赦なく反体制者を捕らえ、重罪としたのだった。殺人者も政治犯も、刑務所内で罪を償うのではなく、開拓のインフラとなる道路建設に使役するという発想は、当時の政府にとって何よりの妙案だったに違いない。かくして多くの囚人たちは過酷な労働を強いられながら何本かの基幹道路をつくり上げたのである。これは囚人道路と呼ばれて、その後の開拓に大きな力となったのである。往時の囚人たちは使い捨ての労働力としてしか考えられず、耐えきれずに死亡しても弔いも出さずに路傍に打ち捨てられていたという。それを供養する場所が現在でも何箇所かあるという話を聞き複雑な気持ちとなった。

開拓の歴史の中で、どこの市町村を訪れても凄いなと尊敬することが一つある。それは開拓に入った人たちの子孫に対する教育への取り組みである。どんなに貧しくとも、粗末であっても子どもたちの教育に関しては決して疎かにしなかった。その精神はすごいなと思った。拝み小屋と同じような粗末な学校が開拓場所の各地につくられていたのである。この教育に対する熱心さは、現代のそれとは甚だ異質なのではなかったか。開拓の精神を後代に繋ぐためには、親以上の知識や技術が不可欠であり、それが子どもたちを幸せに導く原動力となることを、小作人であっても重視する精神がどこの村にも溢れていたのである。これこそが現在の北海道をつくり上げた原動力ではなかったかと思った。

もう一つ思ったのは、光と影の鮮明な歴史を刻んだ領域があることだ。その代表的なのが炭鉱というものであろう。空知エリアには幾つもの良質な石炭を産出する場所があって、黒いダイヤとして我が国のエネルギーの主役を果たしていた時は、万人の人口を有する町が幾つも存在したのだが、今は見る影もなく寂れている。それは空知エリアだけではなく、他のエリアにも見られる現象である。ある歴史資料館を訪ねた時、そこの館員の方が話されたことばが心に残っている。「採(獲)ることによって栄えた町は、それを採(獲)り尽くすと凋落する。だけど、育て、作ることによって支えられている町は凋落することは無い」 漁業や鉱業はその資源を採りつくしてしまうと一挙に繁栄の坂を転げ落ちることになるけど、農業などのモノをつくる産業は生き残れる、ということなのであろう。北海道の未来は、モノをつくり、生み出す働きによって支えられて行くのだなと思った。それが具体的に何なのかは解らないけど、150年でここまでつくり上げられた北海道は、それを維持するためにも様々な領域・分野でモノを生み出し、つくって行かなければならないのだなと、そう思った。

これから今回の旅の後楽が始まる。当分の間は楽しみよりも苦しみの方が多いのかもしれない。しかし、この苦しみは明るい苦しみなので、正確には苦しみなどではなくやはり楽しみなのであろう。これから1年くらいかけて、この旅の成果をまとめてみたい。どのようなものとなるのか、今は見当もつかないのだが、それで良いのだと思っている。

家内にとっては、資料館や博物館めぐりはかなりハードなものだったらしい。50周年記念だと話す度に、「わたしは、このような苦労の多い旅を記念行事とは考えたくない」と拒否され続けていた112日間だった。確かにそうなのかもしれない。もっと楽しくて、幾つものご馳走にありつける旅でなければ、50周年を祝うことにはならないのであろう。しかし、もう旅は終わってしまったのだ。このような金婚の迎え方も面白いではないか。そう思って諦めて貰うしかない。

旅の間にはいつもに増して大勢の方から励ましやご心配を頂いた。やはり旅というのは、自分勝手に好きなことを好きなだけやるというものではなく、多くの方たちとの係わりの中から、それらの力に支えられて成り立つものなのだということを、しみじみと感じたのだった。お世話になった皆様に心からお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。(2018.9.15記)

 

※この後しばらくブログを休むことにします。旅の間、長文でくどく且つ誤字やおかしな表現箇所の多かった文章の発信をお詫びするとともに、飽きもせずにお読み頂いたことにお礼申し上げます。

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第113回(最終回)>

2018-09-15 03:36:11 | くるま旅くらしの話

【昨日(9/14:金)のレポート】 天気:曇り

<行程>

道の駅:常陸大宮かわプラザ →(R118・K)→ 道の駅:かつら →(R123)→ 城里町ショッピングモール → 水戸北IC →(常磐道)→ 谷和原IC →(R294他)→ 自宅

<レポート>

 昨夜は遅くなって雨が降り出し、その後断続的に朝まで降り続いていた。この分だと今日は雨なのかと、帰宅後の荷物の取り出しなどを考えると少し憂鬱な気分となった。しかし、朝方になると雨は止んで日差しも見えるようになってきたので、これなら大丈夫かと少し楽な気分となった。

 常陸大宮市は平成の大合併で出来た人口4万1千人ほどの町で、自分が育った場所でもある。道の駅のある場所は、自分の育った集落からは4kmほど離れているのだろうか。まさかこんな所に道の駅ができるなんて夢にも思わなかったというのが正直なところである。常陸大宮かわプラザと名づけられた道の駅は、清流久慈川の少し曲がった場所にあり、元々この辺りの川岸は竹が密生していて、川の流れなど見えなかった場所なのだが、その竹を伐採して巧みに地形を活かした道の駅の設計となっている。販売されている地産品や生鮮品なども生産者と販売者との連携がまあまあうまくいっているようで、活気が見られるのは嬉しい限りである。ここに泊るのは3度目だろうか。夜間の騒音も少なくて、まあ、茨城県の中では上位に属する道の駅ではないかと思っている。

 旅も最後の日となった。そのまますんなり帰る前に、我が親友に会って簡単な旅の報告をしておかなければならないと考え、水戸市郊外の城里町にある道の駅:かつら迄お越し頂くことになった。当初は自宅近くまで行ってと思っていたのだが、市内中心部では適当な駐車場も無く話もできないので、少し離れているけど出向いて頂くことにした。彼とは高校1年生以来の知人で、大切な親友である。旅の始まりからずっとブログをウオッチしてくれているので、内容は凡そご存知なのだろうと思うけど、お互い顔を見ながら話すのは又格別なものなのだ。

 10時に出発して、途中実家にある畑の様子を見ながら、道の駅:かつらに着いたのは10時半頃だった。間もなく親友の安夫妻も来られて、再会を果たす。この道の駅では話をできる場所がないので、彼が予め見つけていてくれたショッピングモール内の喫茶場所へ移動する。それから2時間余り旅の話やらであっという間に時間が過ぎてしまった。話は尽きないけど、改めてご夫妻が我が家に来て頂けるということで、楽しみをあとに残すこととなった。。13時頃に出発して、水戸北ICから常磐道に入り、谷和原ICまで走って、我が家に到着したのは14時20分だった。

 これで旅は終わった。全日程112日、全走行距離11,235kmの旅だった。

 孫たちがいるかと思ったら、不在だった。そのあとは荷物の運び入れに1時間ほど汗を流す。2階が住まいなので、何度も繰り返す階段の昇降は、老人には厳しい運動となるけど、まだ大丈夫である。一番重かったのは、旅の間に集めた資料や冊子で、膨れ上がった書類袋が5つもあり、加えて本なども数冊あって、運びながらこれらをどう整理するか、これからの楽しみと苦しみを思ったりした。

 17時頃にようやく孫たちが戻ってきた。それからは大騒動となった。驚いたことに下の孫娘はドレスなどで着飾っている。どうしたのかと思ったら、何と今月から幼稚園に通っていて、今日はお誕生会があったのだという。半年も早い入園と聞いて、まあ、そのような仕組みがあったのかと、もう一度驚かされた。上の子も大はしゃぎでまとわりついて離れず、久しぶりのジジバカをしばらく堪能した。

 そのあとは、もう何もする気が起こらず、北海道で買ってきたインカのめざめのジャガイモを茹でて食して夕食とし、一杯やって直ぐに寝床の中へ。全ては明日以降の課題である。やれやれ、どっこいしょ、である。

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第112回>

2018-09-14 03:22:16 | くるま旅くらしの話

【今日(9/14:金)の予定】 

道の駅:ひたちおおみや川プラザ →(R118・K)→ 道の駅:かつら →(K・R50・K・R294)→(笠間市・桜川市・つくば市・常総市経由)→ 自宅

 

【昨日(9/13:木)のレポート】 天気:曇り時々晴れ

<行程>

道の駅:とうわ →(R283・R4)→ 一関IC →(東北道)→ 須賀川IC →(R118)→ 道の駅:ひたちおみや川プラザ(泊)

<レポート>

 今日は只管南下の一日。特に書くこともなし。

朝起きた時は雨がポツリと落ちて来ていた。いつものように付近を1時間余り歩き回る。東和町は平成の大合併で花巻市となったが、町中を歩くと、花巻とは関係なくそれなりの歴史を刻んできた町なのだということが分かる。土沢というJRの駅があり、この地区を中心に町が形成されているようだ。宮沢賢治もこの地区を何度も訪れたことがあるらしく、それを誇りとするような記念碑等も建っているようだ。間もなく秋祭りを迎える商店街はそれなりに力を入れているようだったが、今の時代は繁華の中心は郊外に移っているようで、何となく祭りの飾りつけに衰退の色が漂っている感じがした。いろいろな思いを感じながら車に戻る。今日はこの時間が一番充実しているのだろうなと思った。

 8時半過ぎ道の駅:とうわを出発して、そのあとはR283を少し走ってR4に出て、それを一関市迄行った後、一関ICから東北道に入り、仙台を通過して福島県の須賀川ICで下りて、R118を道なりに走って、16時半少し前に道の駅:ひたちおおみや川プラザに到着する。予定通りのコースを予定通り走っただけの一日となった。

 久しぶりに長距離を走って疲れた。早めに寝るだけである。旅もいよいよ明日で終わりとなる。このブログの記事もかなり勢いを失っている。いた仕方ないことである。

 

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第111回>

2018-09-13 04:35:57 | くるま旅くらしの話

【今日(9/13:木)の予定】 

道の駅:とうわ →(R283・R4)→ 一関IC →(東北道)→ 須賀川IC →(R118)→ 道の駅:ひたちおみや川プラザ(泊)

 

【昨日(9/12:水)のレポート】 天気:晴れ

<行程>

道の駅:しちのへ →(R4)→ 道の駅:とわだ →(R4)→ 三戸町知人宅 →(R4・R283)→ 道の駅:とうわ

<レポート>

 昨夜は0時前に目覚めてしまって眠れないので、起き出してブログの記事を書いたりしている内に今日となってしまった。そのあと眠ることにしたのだが、眠りかけた頃になってガスの警報機が鳴り渡り、再び目を覚まされてしまった。ガスの警報機は臭いに敏感で、何か傍においていた玉ねぎなどの野菜類の臭いに敏感に反応したようだった。空気を入れ替えてやると騒ぎは収まり元の静けさが戻った。不十分な睡眠のまま6時前には起き出して付近の散策に出発する。

 七戸町の道の駅周辺は、新幹線の七戸十和田駅がすぐ傍に出来て以来、大きく変化し続けており、警察や消防が傍に出来たほか、新幹線の駅横にはイオンが進出して車の往来も多くなって来ている。道の駅そのものは未だ整備中のようで、すっかり出来上がるまでにはあと1年以上かかるのではないか。最終的にどのような姿になるのか判らないけど、以前のような素朴さが失われることは明らかだ。今朝はこの道の駅と新幹線の七戸十和田駅の周辺を大きく一回りしてその変化の様子を確認してみた。新幹線の駅前に繁華街が出現するとは思われず、七戸町の中心街は七戸城の城下町エリアにあり、それは今後も変わらないのではないかと思った。

 さて、今日からは本格的に南下を開始する予定である。ただ、三戸の知人宅には挨拶に寄らなければならないと思っており、それが済んだら、あとはなるべく高速道を使わないようにして、ゆっくりとR4を南下して、今日は花巻市辺りの道の駅に泊り、明日も同じようなペースで南下を続け、仙台エリアに入ったら高速道を利用して福島県内の須賀川市辺りで下りて、一般道を行ってどこかの道の駅に泊り、明後日に水戸の知人宅に寄った後、自宅に戻るといった行程を考えている。

 七戸の道の駅はどうも落ち着かないので、比較的近い道の駅:とわだに行ってゆっくりすることにして8時半過ぎに出発する。20分ほどで到着して、ここで水の補給などを済ませる。多少の買い物などをして南下の体制を整えたあと三戸に向かって出発する。知人の竹林さんには11時過ぎ頃にと電話しているのだが、それよりもかなり早い到着となってしまった。三戸に着いてからしばらく待って、再会を果たす。竹林さんには往路の時にもお会いしてご歓待頂いている。邦子どのの大切な知人であり、ここを通る時は決して素通りはできないのである。ただ今は農繁期であり、お忙しい間を縫っての再会だった。

 竹林さんの話は面白い。農業一筋に打ち込んで現在でもその信念と姿勢に揺るぎはない。身体は小さいけど胆っ玉は飛び抜けて大きな女性なのだ。邦子どのと圧倒されながらいろいろと面白い話をお聞きした。帰りに貴重なお土産を頂戴したのだが、それが何なのかは秘密である。とても充実した時間だった。

 そのあとは今日の宿を予定している花巻市郊外の東和町にある道の駅:とうわに向かう。当初一般道を行く予定だったが、話が弾んで13時を過ぎた出発となったので、途中から高速道を利用することにした。一戸ICから八戸道に入り、東北道に入ってしばらく走り、花巻ICで下りてR4からR283を少し走って道の駅:とうわに到着する。

 この道の駅には隣接していい温泉がある。自分は昨日入っているので、邦子どのだけが入りに行く。これが今回の旅の最後の温泉になるのかもしれない。邦子どのが戻って来て、これはやっぱりビールで乾杯ということになる。十和田の道の駅で買った毛豆と書かれていたダダ茶豆風の枝豆をつまみに、残り少ない車の中での夕食を済ませる。あと2日、無事に旅が終われば良い。明日は少し高速道を走ることになるので、先ずは安全運転で行くことにしよう。

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第110回>

2018-09-12 00:14:09 | くるま旅くらしの話

【今日(9/12:水)の予定】 

 道の駅:しちのへ →(R4)→ 道の駅:とわだ →(R4)→ 三戸町の知人宅 →(R4)→ その先未定(どこかに宿泊予定)

 

【昨日(9/11:火)のレポート】 天気:快晴

<行程>

道の駅:いなかだて →(R102・K)→ 田んぼアート第1会場 →(R102・K)→ 田んぼアート第2会場 →(K・R7・R4)→ 道の駅:浅虫温泉 →(R4)→ 道の駅:しちのへ

<レポート>

 朝はスモッグがかかっていたが、その内に次第に晴れて来て、朝食が済んだ8時頃は快晴の空となった。日差しがきつくて、暑くなるかと思われたが、気温は上がらず快適な田んぼアート見物日和となった。

 8時45分頃に出発して、先ずは第1会場の田舎館村役場に向かう。5分もかからぬ内に到着して、9時の開場を待って一番乗りで切符を買ってエレベーターで4階の展望室へ。今年のテーマは第1会場は「映画ローマの休日」第2会場は手塚治の漫画の主人公が幾つか描かれることとなっている。自分は映画というものを殆ど見ていないので、この映画の主人公たちを演ずる俳優も女優も名を知らないので説明ができないので、以下に写真で紹介することにしたい。

先ず第1会場のローマの休日。左側の田んぼの大きさは縦140m×横48m、右側の田んぼは縦140m×横53mである。

 

初めに田舎館村役場の写真である。なかなか個性的な建物で、この手前が田んぼアートの田んぼで、観覧は300円也を払ってエレベータに乗り、この4階に作られた屋上の柵内から見下ろすことになる。更に200円を追加すると天守閣からも見ることができる。

東側の田んぼの絵。「田舎館のあさゆき」とあるのは、この地で作られている米の新しい品種の名称である。

右側の田んぼの絵。これらの複雑な絵が、100%稲を植えて育てて作られているとは、初めて見る人には、とても信じられないであろう。

 次に第2会場だが、こちらは先ほどの道の駅:いなかだてのすぐ傍にあって、田んぼアートともう一つの領域の石のアートの二種あって、田んぼアートは横160m×縦70mの楕円形の田んぼに手塚治作品のキャラクターが6体描かれている。又石のアートの方は「惜しまれる人」と称してダイアナ妃(680㎡)と美空ひばり(1400㎡)がの絵が大地に石を用いて描かれている。写真の方は、手塚治作品のキャラクターは大き過ぎて全部が一枚には収まらないので、2体ずつのものを使っている。

 

作者の手塚先生の似顔絵と名前を知らないかわいい女の子の絵。

これはブラックジャックかな?あまり漫画を読んでいないので良く判らない。

鉄腕アトムは判るけど、この可愛いさの塊のようなキャラクターの名は知らない。

細かく砕かれた石を大地に並べて描かれた絵である。微細な光の変化を巧みにとらえている。

 モノクロの写真と見紛うほどの出来具合は称賛に値するものだと思う。

 最高の天気条件のもとで見た田んぼアートは4年前と比べて格段に芸術性を増した作品となっているように思えた。ローマの休日は7種類の米を用いているということだが、その米たちは葉や穂の色は勿論、丈の高さや葉の広がり具合などそれぞれの様々な特徴を巧みに活用して、みごとな絵としての表現を実現しているのである。絵の大きさに感嘆するだけではなく、傍へ行って良く見てみると、その細かい様子が判り驚嘆するのである。昨年見た行田市の田んぼアートは大きさという点でギネスに登録されたとか聞いているけど、芸術性という点では田んぼアート発祥の地である田舎館村の作品には及ばないのではないか。ま、あまりこれらを比較して云々するのは意味の無いことだとは思うけど。それぞれの作品のそれぞれの見事さを素直に味わえばいいというのが正解なのだと思う。第1、第2会場とも、素晴らしい作品を見ることが出来て、2日間も待った甲斐があったというものである。存分に楽しんだ後は、南下を開始する。

南下なのだが、実は北上しての出発となった。当初は山を超えて十和田湖の脇を通って七戸の方へ抜ける考えでいたのだが、昨日までの大雨で山道の地盤が緩んでいる箇所もあるかもしれないと考え、安全を期して遠回りでも青森市に戻ってR7からR4に入って浅虫温泉経由で七戸に行くことにした。高速道路の通行を予定していたのだが、田んぼアートの見学が思っていたよりも早く終わったので、一般道を行くことにした。

青森市街を通り抜け、浅虫温泉で昼食をと思ったのだが、道の駅のレストランはパスして、少し先の平内町のホタテ広場という所でホタテ主体の食事を摂ることとなった。自分はホタテの串揚げ4本が載っているホタテカレーを食したのだが、満腹になるほどのボリュームがあって、十分満足した。

そのあとはR4をひたすら走って、14時過ぎに道の駅:しちのへに到着。ここには往路でも寄っているのだが、直ぐ傍に東北新幹線の七戸十和田駅が出来て以降、道の駅も構内の大改築工事が続いており、今回も状況は変わらず、工事の車が多く停まっていて、あちこちで工事の騒音が絶えない状況だった。しばらく休憩の後、近くの東八甲田温泉に入りに行き、今日一日の汗を流す。邦子どのは久しぶり(?)の長時間移動に疲れたようで、自分が温泉から戻ってきてもまだ寝床の中だった。17時過ぎにようやく目覚めた様だが、東八甲田温泉は湯の熱さが増しているので、入るのは止めた方が良いとアドバイスした。この温泉は気に入っている一つなのだが、この頃はやたらに熱いので持て余すようになっている。草津ほどではないけど、老人には穏やかな暑さの風呂がゆっくりできるのだ。ということで、食事も軽く一杯やる程度で済ませて、夜を迎える。

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第109回>

2018-09-11 04:34:15 | くるま旅くらしの話

【今日(9/11:火)の予定】 

道の駅:いなかだて → 田んぼアート第2会場 →(R102・K)→ 田んぼアート第1会場 →(K・R102)→ 黒石IC →(東北道)→ 青森東IC →(みちのく道・R4)→ 道の駅:しちのへ

 【昨日(9/10:月)のレポート】 天気:雨

<行程>

終日道の駅:いなかだてに滞在(日中、弘前市内コインランドリー迄往復)

<レポート>

 昨夜は朝まで音を立てて雨が降り続いていたが、朝になっても一向に止む様子は無く、むしろ勢いを増すかのような雨の降り方だった。これでは朝の散歩もままならず、何だか暗い気分で朝を迎えた。この雨では予定していた田んぼアートの見物もすっきりしない形で終わりそうなので、この際思い切ってもう一日ここに泊ることにしようと決める。

 この天気の所為で車のバッテリーも赤信号が点きそうになっているので、朝ドラを見る都合上しばらくエンジンをかけることにした。幸い近くに停まっている車も無いし、雨の音で迷惑もかけないで済みそうなのでという判断だった。天気が良ければソーラーが働いてエンジンなどかける必要も無いのだが、仕方がない。今回の旅の中では初めてのことだった。

 朝食を済ませて、さてどうするかであるが、洗濯物がかなり溜まっているので、どこかコインランドリーを探して処理をすることにした。雨の中でも洗濯ができるとは、まことに便利な世の中になったものだと思う。ネットで調べたのだが、クリーニング店と混同した情報が多くてはっきりしない。一昨日ここへ来る途中に黒石市内で何軒かあるのを見ているので、先ずは黒石市内を走って探すことにした。

 直ぐに見つかったのだが、邦子どののチエックでは、機械が古くて洗剤を入れなければならないタイプだという。それでここは止めて別の場所を探すことにした。中心街近くになって店を発見し、ここもチエックしたのだが、ダメとのこと。更にもう少し走って、一軒見つかったのでチエックしたのだが、ここも機械が古くて小さく、とても無理だとのこと。結局黒石市内では邦子どののチエックに合格する店は発見できず、少し遠くなるけど、弘前市内のコインランドリーを探すことにする。

 今日はどうせ何もすることもないので、1日かけての洗濯デ―にしてもかまわないという考えもある。かなりの雨の中をしばらく走って、弘前市の郊外のショッピングモールのあるエリアの中を探すことにした。あてずっぽうなので、とにかく見つかるまで探すしかない。10分ほどウロウロしていると、ドラッグストアの脇にコインランドリーがあるのを発見。邦子どのの話では以前ここでしたことがあり、そのままではダメなのではないかということだった。念のため中に入ってチエックして貰うと、OKマークの動作をしているので、大丈夫なのだなと判って安堵した。とにかく見つかって良かった。

 かなりの雨降りの中を洗濯物を運んで、そのあとは邦子どのの世界である。自分は車の中で、パソコンに向かうことにしている。何種類かの記録の整理が出来ていないので、それらをチエックしたりしている内にあっという間に2時間が過ぎ、もうそろそろ洗濯も終わるころかと行ってみたら、丁度たった今たたみ終えて風呂敷などに包み終えたばかりのタイミングだった。雨は依然として止もうとはせず勢いを保っている。

 12時半を過ぎているので、腹が騒ぎだしている。どこかレストランなど無いかと探したが、どうも勝手が判らない。それで、先ほど見つけた黒石市内のホットモットヘ行って弁当を買い道の駅に戻って食べることにした。結局食事にありついたのは、い時半近くになっていた。自分はこの弁当屋のメニューの中では、焼きサバの入っているのが一番の気に入りである。今回もやっぱりそれを選択した。このところしばらく魚類を食べていないので、久しぶりの焼サバは美味かった。

 そのあとは、もう何もすることがないので、寝るしかない。ということで、夕方近くまで午睡を貪る。目覚めたのは18時過ぎだった。相撲を見るのを忘れていて、稀勢の里がどうなったかが気になり調べたらどうやら勝ったらしいので安堵した。隣町出身の横綱の動勢はやっぱり気になるのである。とにかくもう一旗挙げて欲しいのである。少し静かだなと思ったら、どうやら雨は降り止んだらしくて、外を見ると雲が薄くなっていて青空らしきものも覗いているようだ。いい加減に降り飽きたのであろう。これなら明日は大丈夫だなと思った。

 明日から移動を開始し、本格的な帰途に就く考えである。その前に2日も足止めをしても見ようとしている田舎館の田んぼアートをしっかり目に収めておかなければならない。鬼平犯科帳を見終えて、今日2度目の眠りに就く。

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第108回>

2018-09-10 06:48:45 | くるま旅くらしの話

【今日(9/10:月)の予定】 

 道の駅:いなかだて → 未定(晴天の田んぼアートを見るため、もう一日ここに滞在するかも)

【昨日(9/9:日)のレポート】 天気:雨

<行程>

 終日道の駅:いなかだてに滞在(道の駅 ⇔ 温湯温泉)

<レポート>

 朝歩きに出かけようとしたら雨が降ってきた。昨夜も時々雨音がしていたようだが、夢うつつに聞いていたようだ。外に出て見ると、どうやら今日は終日の雨らしい。空がそのような顔をしていた。こりゃ、山越えで十和田の方へ行っても危ないし、景色を見るどころじゃないという事態になるなと考え、ブログに記載して発信したばかりの予定を直ちに変更して、今日は終日ここにいて旅の疲れを癒すことにしようと決める。世に、舌の根も乾かぬ内にという話があるけど、自分の予定に対する豹変ぶりも相当なものだと自嘲するばかりである。

 それでも傘をさして少しばかり付近を歩いたのだが、この道の駅は弥生の里とも呼ばれており、弥生時代の数多くの水田跡の残る代表的な遺跡である垂柳遺跡がある場所である。すぐ傍に埋蔵文化財センターと博物館があって、それらの様子を詳しく知ることができる。5月にも寄っているので、今年は二度来たことになる。弥生時代といえば、米作りが始まったことでもたらされた縄文を脱却した時代であり、これは北海道には存在しない。本土で育った人の大半は、日本国の歴史の中で、古墳時代の前は弥生時代が当たり前と学び信じている人が殆どだと思うが、北海道で育っている人には弥生時代に対しては、やや違和感を覚えてもおかしくないのではないか。米作りがこの国の文化を大きく変えたということの意味を、今回北海道を旅して深く学んだような気がする。

 この田舎館村では、発見された垂柳遺跡のことをとても大切に扱っており、米の文化の大切さを伝える一つのイベントとして、田んぼアートなるものを毎年開催している。何種類もの米を巧みに植え育てて、田んぼの大地にまさにアートというべきテーマに基づいた絵を描き出すのである。会場が二つあって、第1会場は町役場に隣接する田んぼであり、もう一つはこの道の駅に隣接する田んぼである。この村での田んぼアートを嚆矢として各地で田んぼアートが開催されているけど、自分はこの地のものを凌ぐほどの作品を見たことがない。今年の作品はまだ見ていないので、明日の楽しみである。

 朝の歩きで、第2会場の傍を通ったのだが、何が描かれているのかは判らなかった。手塚治先生の漫画の登場人物だということだが、どのように描かれているのか楽しみだ。田んぼには何種類かの米が植えられて、微妙な色合いで植えられているのを見て、これは大変な事業だなと思った。一株の失敗も出来上がりには大きな影響を及ぼすのだから、それまでの管理は相当に厳しいに違いない。

その会場の田んぼの先を少し行くと遊稲の館というのがあったが、ここが何をする建物なのかは分からない。ただその周辺に20種類を超すと思われる様々な品種のコメが植えられた田んぼがあって、それぞれの名前の書かれた立て札が並んでいた。白い色から黒っぽい色まで、それから丈も高いものから極低いものまで、稲というのはこんなに多くの仲間を持っていたのかと驚かされた。ここに植えられている分は、もしかしたら来年の苗を育てるためのものなのかもしれないなと思いながら、それぞれの稲たちの姿を写真に撮った。

 車に戻る頃になると雨が少し本格化したようだった。朝食に久しぶりにご飯を炊いて、卵かけご飯を味わう。このところいい加減な食事ばかりしているので、これからは少しちゃんとしたものとしなければならない。今朝はそのスタートというわけである。先ほど田んぼの中を歩いてきたので思うわけではないけど、やはり日本人は米が一番だ。つがるロマンを食べなければならないなと思った。

 さて、今日はすることは何もない。ただ、温泉には入りたい。少し離れた場所に温湯温泉があるので、少し経ったらそこへ行くことにして、邦子どのがフリーマーケットのようなものを見に出かけていたので、その間ちょっと眠ることにした。10時過ぎに目覚めて、邦子どのも戻ってきたので、温湯温泉へ。10分ほどで着いて、早速温泉に入る。シャンプーも石鹸も無いけど、たった250円で、古来からの良質の湯を味わえるのだから、まことにありがたいことである。1時間ほど浸って、旅の疲れの欠片を何枚かを流れ落として、車に戻って再び道の駅に。良い湯だった。そのあとはビールで一杯やって自分は寝床の中へ。邦子どのは鍵を紛失したなどと大騒ぎの後、見つけ出したようで、安堵して静かになり、フリーマーケットの中に紛れて行った。

 15時過ぎに目覚めて、まだ邦子どのは戻っていない。昨日買った枝豆を茹でることにした。茹で上がって一段落した頃ようやく邦子どのが戻ってきた。このマーケットには何度か来ており、顔なじみの人もいるらしく、その人に再会したことを興奮しながら報告されるので、些か辟易した。ま、嬉しいことは誰にでも話したいものなのであろう。我慢も肝心。

 雨は依然として降り続いている。だんだんと暗くなって来て、今夜は長い夜になりそうである。いつまでもここに滞在しているわけにはゆかないのだが、田んぼアートを見るのはやはり晴れの時が良かろうと思うので、晴れるまで待ってもいいかなと考えている。いずれにしても明日は天気次第である。

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第107回>

2018-09-09 05:00:17 | くるま旅くらしの話

【今日(9/9:日)の予定】 

道の駅:いなかだて →(R102他)→ 田舎館村田んぼアート見物 →(R102)→ その先未定(十和田湖方面から奥入瀬渓流を経由してR4を南下予定)

 

【昨日(9/8:土)のレポート】 天気:曇り時々晴れ

<行程>

道の駅:なないろななえ → 函館港フェリーターミナル →(津軽海峡フェリー)→ 青森港フェリーターミナル →(K・R7)→ 道の駅:なみおか →(K・R102)→ 道の駅:いなかだて(泊)

<レポート>

 朝になってTVを見ると停電の状況がかなり改善されたようで、ホッとした。何といっても今度の地震災害の中で最大の問題点は、電力のダウン、しかもブラックアウトという事態の発生だった。当初復旧までに1週間もかかるなどと報道されているのを聞いた時は、これは国の威信にも関わるなと思ったほどだった。普段電気の使用についてはさほど問題意識は無いと思うのだが、いざ今度のような事態が発生すると、全く何もかにもがダウンし、機能不全となってしまうことを思い知らされるのである。身のまわりの衣食住に関するあらゆる事柄で電気なしで暮らせるのは、僅かな余裕しかないということを改めて思い知らされるのだ。この教訓を個人も公共体も国も決して無にしてはならないと思う。

 さて、今日は未だフェリーの方は運航ダイヤが乱れていると思われ、港に行っても待ち呆けばかりの状況となるに違いないと考え、もう一日この辺りで過ごして様子を見た後、船に乗るのは明日にしてもいいかなと思っているのだが、邦子どのの考えがどうなのかは判らない。

 いつものように朝の散策に出かけることにした。七飯町は先日郷土歴史館に行ったばかりなので、来し方の情報も多少は頭に入っている。とにかくこの町は農業の開拓の基盤となる七飯官園のあった場所で、農業の近代化の先頭を切った場所であることは承知している。その成果が現在どこに残っているのかは判らないけど、田んぼも畑も豊かな稔りの時を迎えていることは、メイン道を外れて農道を歩くと直ぐに気づくことだ。町の中心街に向かう国道5号線の旧道を歩いていると、両側に立派な赤松が並んでいるのが目につく。中にはここが北海道なのかと疑うほど立派な惚れ惚れするような大木もあって、明治の初め頃にこれらを植えた先人の知恵というか先見の明に頭が下がる思いがした。赤松街道と呼ばれており、樹木の一本一本に番号札が貼られて管理されているようで、この後もずっと生き残ってくれればいいなと心から思った。1時間半ほど歩いて車に戻る。

 昨夜はかなりの台数の旅の車が泊っていたようだ。夜中に断続的に雨が降っていて、朝も路面は濡れたままになっている。空を見ると、雨雲は消えているので、今日は時々晴れ間の見える一日となるのではないかと思った。軽い朝食の後、さてどうするのかと邦子どのの意見を訊いたら、いつものように曖昧な返事だった。ここにもう一日滞在するかについてはどうもあまり積極的賛成ではない様である。こういう場合は、積極的反対と解釈した方が、あとのことを考えると正解になることが多い。ということで、とにかく先ずはフェリー乗り場に行って状況を見ることにした。

 9時になって道の駅の売店で最後の買い物をしたあと出発する。20分ほどで到着して、ターミナル周辺を見ると、駐車場はがら空きで、待機の車など殆ど見えない状況だった。よほど混んでいるのかと思ったのだが、全くの予想外だった。これならどの便かには乗れるのではないかと思い、直ぐにカウンターに並ぶことにした。20分ほど待って、受付をして貰うことが出来た。時刻ははっきりしないけど、12時頃の便には乗れる感じがした。あっさり乗船の可否が決まってしまい、何だかあっけにとられた気分だった。

 そのあと1時間ほど待つと、待機していた場所とは違う乗り場からの乗船となるということで、移動することになった。どうやら12時には出航となるらしい。11時半過ぎから乗船が始まり自分達も船内の駐車指定場所に車を止めて客室へ。あっという間に青森に向かうフェリーの乗客となった。青森までは3時間40分の所要時間である。船内にはコンセントがあるので、しばらくはパソコンを取り出して今までの記録の整理をすることにした。

 その後15時近くまでパソコンを扱っている内に船は早や津軽半島の奥深くまで来ていて、青森が近づいた様である。腰が痛いので、しばらく柔軟体操のようなことをしてデッキに出て見ると、丁度函館に向かう同じ船会社のフェリーとすれ違う所だった。どうやら地震の停電によるダイヤの混乱も収まった様である。間もなく青森港のフェリー乗り場に到着する。乗る時は遅かったのだが、下船は早い方で15時45分には上陸することができた。この上陸も特段望んでいたことではなかったので、何だか北海道の心残りが多いものだった。それにしてもとんでもない出来ごとに遭遇してしまって、全くの想定外の帰還となってしまった。

青森近くの海峡で出会った函館に向かう津軽海峡フェリー。自分たちの船とほぼ同じ大きさである。

 さて、どうするか。先ずは減っている腹を満たさなければならない。今朝はいつもの食パンが手に入らず、くだものを少々とインスタントみそ汁を飲んだだけ。昼は朝方に茹でて置いた枝豆を船の中で少々食べただけなのである。青森からは一番近い道の駅:なみおかに行って何か腹に溜まるものを食べることにした。青森からのR7はいつもの通りの車の流れで、道脇の景色も信号もネオン表示等も消えているものなど無い。コンビニ等も中に入れば棚の中には豊富に食べ物が並んでいるのであろう。北海道の2日前の異常な世界を思い起こしながら、何でもない昨日と同じ暮らしが続いていることの幸せを改めて思った。厚真町や安平町近郊の人たちの暮らしが一日も早く元に戻ることを願わずにはいられない気持だった。

 間もなく浪岡の道の駅に着いて、早速レストランに入る。本当は米のご飯を食べたいはずなのに、どういうわけか二人して五目あんかけ焼きそばをオーダーした。野菜を食べたいという衝動がそうさせたのかもしれない。暖か過ぎて熱い焼きそばは、火傷しそうで食べにくかったが美味かった。腹を満たした後は、ここはリンゴの名産地でもあるので、孫たちへの土産にリンゴなどを少し買い入れる。こうしていると、もはや北海道の旅は完全に終わり、これはもう観光旅行への転換だなと思った。

 そのあとは、今夜の泊り予定の田舎館村の道の駅:いなかだてへ。ここはもう北海道ではないので、くるま旅の泊りの車は見当たらない。車を止めて直ぐに邦子どのはどこかへ消えて行ったが、しばらく経って戻って来てカメラ、カメラと騒ぐので何だろうと思ったら、夕焼けを撮るのだという。外へ出て見ると、お岩木山の陰に沈んだ太陽が、空を真っ赤に染め上げて、大きな山容を浮き上がらせていた。クッチャロ湖の夕陽とは違う重い夕焼けのように感じた。

道の駅:いなかだてから見たお岩木山の夕焼け。電線などが邪魔をしてすっきりしないけど、この地の夕焼けには広さよりも重さを感じた。

夜になっても静かなままに時が流れてゆく。もう一袋残しておいた枝豆を取り出して、二人でビールで乾杯して、取り敢えず無事の本土?帰還を祝う。?

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第106回>

2018-09-08 05:27:24 | くるま旅くらしの話

【今日(9/8:土)の予定】 

道の駅:なないろななえ → 未定(フェリ―の発着状況によりどうするかを決める。混みあっている時は、明日に繰り延ばすつもり)

 

【昨日(9/7:金)のレポート】 天気:曇りのち雨

<行程>

道の駅:真狩フラワーセンター →(D・R230)→ 道の駅:230ルスツ →(R230・D)→ 道の駅:ニセコビュープラザ →(R5・D)→ 森町郷土資料館 →(D・R5)→ 道の駅:なないろななえ(泊)

<レポート>

 とんでもない一日が終わって、昨夜は近年見たことも無かった天の川を見ることが出来て感動したのだが、朝になって外を見ると再び暗雲めいた空が覆いかぶさっていた。街灯が灯っていたので、もしかしたら電気が通じたのかと、外へ出て信号機のある場所へ行って見ると、ちゃんと赤青の色が確認できたので安堵した。復旧までに1週間以上もかかると聞いていたので、この地区は存外早く復旧できたと知り、ちょっぴり嬉しくなった。

 ネットで函館からのフェリーの運航状況を確認してみると、何と情報が入り乱れているようで、運航を停止しているというものから、ダイヤが乱れているけど運行はしているとかなどがあって、とにかくまともな状況ではないようだった。確かに用船に当っては、電気がないと動かせない設備器具は幾つもあると思われるので、それらの電源が確保されないと運航は困難になるのであろう。とにかく昨日からは交通信号を初め自動販売機も何もかも、世の中の仕組みと機能はストップしてしまっているので、何としても一刻も早く復旧が実現することを祈るしかない。

 この状態ではもうここにいつまでも様子見をしているわけにはゆかないので、とにかく函館近くまで行って、船便が落ち着くまで待機することにした。

 さて、今朝はこの地の最後の散策となるので、この地出身の細川たかしさんの生家の辺りまで往復してみようと出掛ける。4kmほど離れているらしいので、そこへ向かったのだが、途中で曲がる道を違えたらしく目的地に至ることはできなかった。それでも真狩の大地の畑の広がりを見ながらの散策はこの上も無く気分のいいものだった。2カ所ある信号もちゃんと元に戻って、これなら大した混乱も無く復帰できるのではないかと思った。

真狩村の畑の景観。これはニンジン畑なのだが、畝の彼方までは100m以上はあるに違いない。1畝で一体何本のニンジンが収穫できるのか?つい、そのようなことを考えてしまうほど畑は広大である。

 今日はとにかく函館近くまで行って待機することにして、その前にお土産のジャガイモを買うことにして留寿都村の道の駅へ。昨日は休みだったけど今日はもう大丈夫なのだろうと思って行ったのだが、その通りだったので安堵した。この辺りには箱入りのジャガイモを売っているところがなく、手に入るのはここだけなのである。北海道のジャガイモの収穫はまだ本格化しているわけではなく、ほんの序の口で、収穫作業が本格化するのは2~3週間は後になるという話だった。玉ねぎと同様に機械作業で一挙に掘り上げるのであろう。その作業を動画に収めようとチャンスを狙っていたのだが、これは叶えられなくて残念。

 留寿都の道の駅を出た後は、邦子どのの要望もあり、内陸の道路を通って行くことにして、ニセコからR5に入り、黒松内町の道の駅を目指す。この道の駅はパンやピザが評判なので、上手くい行けばピザが手に入るかといったのだが、何と今日は休館日だという。途中から雨が降り出し,大雨の中を到着したのだが、この駅では、このような目にあったのは一度ならず何回かあったことなので、自分的にはこの道の駅がだんだん嫌いになり出している。そのことは邦子どのにはいわない。

 しばらく走って、12時近くになったので、八雲町のショッピングモールで弁当などを買おうと寄ったのだが、何とここは未だ停電中で、店頭でカップラーメンなどを販売しているだけだった。周りの店も殆ど閉まっていて、給油を予定していたスタンドも休んでおり、先ほど早めに長万部のスタンドで入れておいてよかったと安堵する。車の燃料の給油事情も都市部に行くほど悪化しているようで、東日本大震災の時と同じような現象が起こりつつあるようである。しかしこの辺りの給油スタンドはいつもと同じような平常の混み具合のようで、至って平穏の感じがしていた。

そのあと森町に向かったのだが、少し行くと信号は灯っており、コンビニや郵便局も営終しているようで、停電は八雲町のショッピングモールのエリアだけだったのかと不思議な気がしした。森町の郷土資料館まで行ったのだが、場所が判らずかなりの雨が降っていたので、見るのは止めることにした。そのあと近くのコンビニに入ったのがだ、入って見ると外見とは違って食料品売り場の商品は殆どなくなっていて、やっぱり停電の影響はどこでも同じなのだと理解した。

そのあとはどうするか。自分としては先日泊った東大沼キャンプ場に行こうと思ったのだが、邦子どのは、どうやらこの雨で大沼が溢れて駐車場が水浸しになるのではないか、としょうもない妄想の不安心を膨らませているようなので、行くのは止めて七飯町の新しい道の駅:なないろななえに行き泊ることにした。雨は依然としてかなりの勢いで降り続いている。

道の駅に着いて、まだちゃんとした昼食を摂っておらず、疲れを感ずる状態だったので、先ほど森町のコンビニで辛うじて買ったコロッケと、この道の駅で売っていたイモモチとおにぎりを食べて、とにかく一眠りをすることにした。ついでにビールで一杯やって眠りに勢いをつけることにした。その後眼を覚ましたのは18時過ぎだった。雨はおとなしくなっていたのが幸いだった。すっかり暗くなっていて、泊っている車も旅の終わりを迎えているような感じだった。

フェリーの運航状況を知りたいと、TVを見ていたのだが、全く報道がなくガッカリした。ネットで見ても正確な情報は皆無だったので、ターミナルの事務所に訊いてみたのだが、返答としては、不定期運航中だとのこと。明日は平常になるのかと訊いたのだが、判らないとのこと。とにかく現地に行って実情を感知しながら待機するしかないなと思った。慌てないで、事態が落ち着いてから乗るようにしたいと思っている。やれやれの一夜を迎える。

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