山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

宇宙旅行か、ちんたらくるま旅か

2021-12-22 01:30:10 | くるま旅くらしの話

 比較するのもおかしな話だが、今100億円以上をかけて金持ちの某とかいう二人連れが、日本の民間人では初めての宇宙旅行に出かけている。そろそろ還って来る時間となっているはずだ。彼らがその体験をどのように述べるかに多少(?)の興味と関心を持っている。

 自分などはここ20年ほど毎年ボロ車に乗ってちんたら国内旅行にうつつを抜かしているのだが、宇宙旅行とどう違うのかを考えてみるのも面白いのではないかと思った次第。

 旅行というのは旅のことである。旅とは何だといえば、自分の理解では、非日常の時間や空間を移動することであり、その本質といえば、移動に伴う発見と気づきであり、そのことから得る感動をモノにすることだと思っている。この本質は、ボロ車のちんたらくるま旅でも莫大な費用をかけた宇宙旅行でも変わらない。

 自分的には、旅というのはスピードが速くなればなるほど見落としが増え、従って発見も気づきも少なくなるという特性を持っていると思っている。例えば、佐渡島旅行を例にとれば、車でたった3日をかけただけで島の隅々までを巡り終えることが可能だと思う。だけど、さて、それで佐渡島の全てや主な場所を見終えたということにはならない。旅というのは、なるべくゆっくりとしたスピードで、尚且つ何度も同じコースを繰り返し訪ねることで、その価値が解かる様になるものではないか。

 そのような理屈の下に宇宙旅行とやらを考えてみたい。これはやはりかなり異質な旅となる。先ずスピードだが、何しろ地球の重力に逆らって飛び出すほどなのだから。もの凄い超スピードだ。恐らくその速さを実感できるものではあるまい。まさに目隠しをされてそれを解いてみたら、あっという間に目的地に着いていたというレベルの体験なのではないか。目を開けてみたら、そこはもう宇宙だったということなのであろう。ロケットという乗り物が、どのようなものなのかさっぱり解らないけど、幾重にも鉱物の類でくるまれた装置の中にヘルメットのようなものをつけたややこしい服を着て乗っているのだから、恐らくスピードを実感できるような状態ではないのではないか。

 宇宙旅行というものの実態は、15分も掛らずに地球から5~600kmほど離れた空に届いて、そこから空を眺めるというに過ぎないようにも思えるのである。あっという間に無重力のその空間に届くまでは、これは旅と呼ぶような代物ではないのではないか。つまり移動のプロセスを味わえるようなものではなく、移動が終ってから旅が始まるという、そのようなスタイルの旅というものなのだと思う。

 さて、宇宙という空間に届いた後はどうなるのであろうか。ここから先はじっと空を眺め、眺め続けるだけの時間の経過となるのではないか。そしてそこにはどのような出会いや発見があるのだろうか。そこが一番知りたい興味関心のある所である。思うに宇宙といっても、この旅の場合は、地球から見れば僅かに5~600km離れた空の一部に過ぎないのだから、そこから何が見えるかといえば、先ずは地球そのものの全体像ということか。あとはどんなタイミングでどのようなものが見えるのか、不明だ。月や星〈といってもどれほど多いのか少ないのか見当もつかない〉はどのように見えるのか。無重力などというものには興味も関心も無いけど、そこで何がどのように見えたかについては、是非語って欲しいものだ。  

 自分が思うに、この宇宙旅行という旅の中で、最も心を惹かれるのは、目の前に浮かんでいる地球という我々が住んでいる星なのではないか。宇宙基地からの飛行士の話や写真などを見聞して、ある程度は想像がつくのだけれど、現実にその光景を10日以上も見続けたのであるから、そのインパクトは巨大なものではなかったか。それを是非語って欲しい。SNSなどではなく、記録としてまとめて報告して欲しい。その本は買うだろうと思う。

 

 ところで、宇宙旅行とちんたらくるま旅のどちらを選ぶかと言われたなら、自分はためらいなくちんたらの方を選ぶ。何故ならそこには生き物との出会いが無数にあるからである。宇宙には動植物の生き物はいない。そのような場所には興味はない。一時の好奇心が満足されるだけなのだから。宇宙は想像だけでいいと思っている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

久しぶりの喜連川温泉行

2021-12-18 03:12:22 | くるま旅くらしの話

 ばね指に取り付かれた。右手の親指なのである。ばね指というのは、指の関節が、本人の意思とは無関係に、勝手にポキンポキンとまさにバネのように動いてしまう指の故障なのである。それだけなら我慢もできるのだが、このポキンという時にめっぽう痛みが走るのだ。我慢できないほどでもないのだが、一々痛くなるので、どうにもめんどくさい。親指は第1関節にその症状が出るので、指を使う際に真に不便なのだ。

 以前もこの病に取りつかれて、何とかしようと思い、温泉にでも浸れば少しは良くなるかと喜連川の湯に浸りに行ったことがある。20年ほど前だったろうか。その時はそれが効いたのかどうかよく覚えていないのだが、1カ月もするといつの間にかばね指は治ってしまった。その時も親指だった気がするが、左右どちらだったかは覚えていない。

 自分はどうやらこのばね指という病に好まれて取り付かれる様で、親指の他にも左右の中指が同時に故障して、この時には温泉に出かける余裕がなかったので、思い切って医者に行き手術をして貰った。ところが手術なので簡単に治るかと思っていたのだが、その後の経過はなかなか期待通りにはゆかなくて、神社に参詣して両手で柏手を打つのができるまでに4~5年もかかったのだった。

 だから今回は手術だけは避けようと考え、老人で暇は幾らでもあるので、3時間ほどで行ける喜連川温泉に行くことにしたのである。旅車を新しくしてからは、近場の旅も全くしていないので、どんな按配なのかチエックしてみようという思いもあったのである。もはや冬になっており、暖房のない車では夜が厳しいと考え、取り敢えず2泊3日の温泉療養とした次第。

 初日は9時半過ぎに家を出発して、最初の露天風呂に着いたのは午後1時頃だった。喜連川には幾つもの日帰り入浴施設があるが、自分がいつも入るのは、市営の施設の「もと湯」と「露天風呂」の2カ所だけである。この二つは素朴だがお湯も良いし、料金も300円と格安なのだ。露天風呂は簡単な洗い場があるだけの岩風呂だが、地元の温泉好きの人たちの人気は絶大のようだ。もと湯は一日中温泉を楽しめる大型施設で、規模の小さな岩風呂も備えており、入浴時間も朝7時からOKなので、泊りの者には好都合である。

 指の療養なので、多数回入った方が良かろうと考え、初日は先ずは露天風呂に入り、休養した後で、夕方にもと湯に入ることにし、夜はもと湯の駐車場に泊ることにした。2日目は、朝にもと湯に入り、その後は道の駅など付近の散策をして過ごし、昼過ぎ露天風呂に入り、午睡の後夕方にもう一度もと湯に入り、駐車場で2泊目、そして翌日の朝湯に入り、都合6回の入浴を済ませて帰途に就くという計画を経て、それを実行した。

 露天風呂は爺様専用の感じがするほど大勢の爺様で溢れていた。勿論自分もその中の一人。この湯の浴槽は真ん中で二つに仕切られており、お湯の出口の方はかなりの熱い湯で、もう半分は普通の42℃くらいの熱さとなっている。以前は仕切りがなかったのだが、熱くなると勝手に加水をして本来の温泉でなくなってしまうので、このような措置をしたのであろうか。自分は熱い湯に入る勇気はなく、同じ老人なのにどうしてあんなに熱い湯に入っても大丈夫なのかと、地元の熱湯好きの人たちを不思議に思うばかりである。今回も常時5~6人が44℃もある湯に身を浸していた。

 もと湯の方は、普通の日帰り入浴施設で、落ち着いて入ることができる。ここにある小規模の露天岩風呂はお湯もきれいで、やや熱めながら、半身浴をするには最適で気に入っている。時々外気に当って身体をさまし、湯に入っては指を揉むの繰り返しなのだが、飽きることはない。といってもせいぜい30分ほどで入浴は終りである。

 6回も風呂に入って、少しは指の状態も改善されたかと思うのだが、20年前とは違って80歳を超えた老人の指は、そうそう簡単には病をふりほどけない様である。ま、しばらく様子を見ることにしよう。

 旅車で2泊したのだが、初日の夜は、この冬一番の冷え込みだった様で、夜中に温度計を見たら3℃と冷蔵庫の中というより、冷凍庫の中に寝ているという感じだった。何とか我慢して5時頃まで布団の中で丸まっていたのだが、我慢の限界を感じて、エンジンをかけることにした。1時間ほど掛ってようやく10℃ほどとなり、やれやれこの車では冬の旅は不可能だなとはっきり自覚した。二日目は夜半から雨が降り出し、寒さは幾分和らいだので助かった。

 喜連川の道の駅には何度もお世話になっているのだが、久しぶりにリニューアルされた道の駅を覗いて見て、大いに驚き失望した。以前は素朴な雰囲気だったが、リニューアルされてからは妙にレトロ風の凝った外装の建物となっているのだが、中を除くと余り欲しくも無い、何処にでもある野菜や土産物がやたらに並んでおり、みんなどれも値打ち以上に値段が高い感じがした。名物の温泉茄子や温泉パンは名物らしからぬ扱いをされているようで、茄子の売り場はほんの少しでおざなりだったし、温泉パンは見当たらなかった。全国数多くの道の駅を見てきているが、リニューアルされたケースでは、多くの場合建物が良くなった分、販売品などは改悪の傾向があるようだ。残念ながら喜連川もその代表的な例に加えなければならないなと思った。名物を蔑ろにしているような浮かれ営業のやり方の先に見えるのは、没落か?そのような印象を禁じ得なかった。

 3日目の帰りは大雨に見舞われて、今回の喜連川行は、寒さにも虐げられたりして、あまり歓迎されなかったなと思った。さて、ばね指の方はこれからどうなるのかしばらくは様子見だ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時々「近況報告」:締切は約束に非ずか?

2021-12-06 15:26:24 | くるま旅くらしの話

  早や12月となってしまったが、11月は冊子作りとそのフォローに明け暮れた感がある。冊子というのは、62年前に卒業した高校の3年時のクラスの仲間による傘寿記念文集というものである。このような変な企画を打ち出す人たちがいるというのは普通ではあまり考えられない話ではないかと思う。よほどにまとまった仲の良い級友たちの集まりかといえば、そうでもないのである。卒業時に52名いた在籍者は、亡くなったり不明になったりして、現在の住所を確認できる者は32名に過ぎない。

 このクラスは卒業後30年経ったときにクラスの担任だった恩師が送って下さった卒業記念文集の復刻版に感銘して、その後毎年の新年会に集まる者が増えて、恩師が亡くなられた後も毎年15名以上の参加を保って新年の集まりを継続して来たのである。この間誕生の節目(還暦、古希など)に有志の投稿による記念文集を作成したりしていたのだが、今回は、齢八十となり多分これが最後になるだろうという思いで傘寿記念文集を作ることになったのであった。

 不肖最劣等生であったことを自認する自分に、その作成を担当する幹事の役が巡って来た次第なのである。自分はくるま旅を続けていて旅が終るとその内容を冊子にまとめたりして冊子作りには割と慣れていたので、外注すると費用がかかるので手づくりで作ろうと考え、11月はその作業に大童だったという次第。

 この企画は約2年前に発案されて、それ以降担当幹事の自分は、とにかくどうにかして原稿を出してもらおうと、無い頭をひねって、5回も提出要請のハガキを出したのだった。この間世の中はコロナ感染の渦の中にあり、原稿を書く時間などは溢れるほどにあったと思うのだが、クラスメンバーの反応はさっぱりで、その都度頼んだ締切迄に届いた原稿は、到底一冊の文集を作るには遠く及ばない状況だった。もどかしい思いに駆られながら、最後通告としての締め切りを9月末としてハガキを出したのだった。

 それまでに10篇程の原稿は集まっていたので、最悪の結果であっても、とにかく薄っぺらでもいいから作ってケリをつけようと思っていたのだった。9月の締め切りが近付いた半月前頃から何編かの新たな原稿が送られて来て、やっぱり気にはしてくれていたのだと、妙に嬉しくなった。そして締め切り日までには20篇を越す原稿が寄せられたのだった。それどころか締切を過ぎた後から送ってくれる人もいて、最終的には何と25人ものメンバーが文集に参加してくれたのだった。32名中25名とは8割に近い高率であり、卒業時の52名を分母としても5割近い参加率なのだった。

先ずはめでたし、めでたしということであろう。反応なしだった7名の人たちにはただ心身の健康を祈るだけである。

 この2年間の殆どがコロナのパンダミックにまみれた絶大なる閉塞感のある日々だったが、自分一人は閉塞感からは遠く解放されて62年という時間の移ろいの中でクラスの仲間の人たちがどんな時間を過ごしたのかを独り空想して実に楽しい時間だった。

 そして、現実の我に返った時、強く思ったのは、締切とか約束とかいう時限を切っての日時に対する人々の考えの反応の有り様のことだった。これは明らかにその人の性格や行動のあり方と深くかかわっているなと思った。そしてしみじみ思ったのは、「今日できることを明日に延ばす」という考えの人が多いということだった。ま、世の中というのは、そのような考えの人たちを中心にゆるりと廻っているのだなと思った。そして自分はその中に巻き込まれないように心掛けようと思っ

た。

     

      傘寿記念文集「案山子」

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする