山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

今日は再度雄武の道の駅に寄りました

2010-07-28 13:23:48 | くるま旅くらしの話
今日は。更新が途絶えて以降、美深のキャンプ場に2泊、その跡は少し北に向かい、浜頓別町のクッチャロ湖畔のキャンプ場に2泊、そして昨夜は枝幸町のウスタイべ千畳岩キャンプ場に泊まって、只今雄武町の道の駅で、これを書いています。
美深では、長老のWさんご夫妻他、何人かの知人との再会を果たし、クッチャロ湖では、着いた日は良い天気でしたが、名物の夕陽を見る事は叶わず、翌日は大風が吹いて、初めて怒りの表情の湖を見ました。翌日は朝からの大雨でしたが、昼近く止んだ隙を狙って、ベニヤ原生花園の野草たちに会う事が出来ました。又、新しいすばらしい出会いもあって、旅の喜びを噛みしめました。本当はクッチャロ湖に3泊の予定でしたが、枝幸のウスタイべキャンプ場に我が同郷守谷市からお出でのKさんが留まっておられるのを知り、急遽予定を変更してお邪魔をした次第です。
 昨夜はKさんの愛車をお邪魔し、夜遅くまで歓談の楽しいひと時を過ごしました。同じ町に住むもの同士でも、遠い異郷の旅先での再会は、実に新鮮で、嬉しいものです。今朝はそのKさんと名残を惜しみ、Kさんは北の方へ、我々はオホーツクの海に沿った道を南下している途中です。
 これからは、屈斜路湖畔の川湯温泉を訪ね、しばらく滞在の後、足寄から士幌などを経由して、帯広や忠類の知人を訪ねたいと思っています。その先のことは、まだはっきりしていませんが、札幌方面に向かい、帰路に就くつくこととなると思います。
 家内も元気で、旅を楽しんでいます。では。馬骨拝
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お詫びの続きです

2010-07-23 09:16:09 | くるま旅くらしの話
一夜明けて、雄武の町の朝はかなり涼しく、気温は17℃の表示となっていました。日本の中心辺りが記録的な暑さなのに、この寒さを感ずるほどの涼しさは、これ以上ない贅沢なのかもしれません。
今朝も雄武町の公共ネットワークを利用させていただいて、これを書いています。昨夜は早速お三人の方からコメントを頂戴し、嬉しく感謝しています。個別にコメントをお送りしなければいけないのですが、少しばかり先を急ぐため、ご無礼をお許し下さい。
今日はこれからあまり高くはない美深峠を越えて、山の向こうの美深町に向かう予定です。天気は曇り、美深に近い名寄市の天気予報は晴れとなっていましたが、さてどうなりますことやら。日本列島では、北海道だけが取り残されて雲の通り道となっているようで、相変わらずの蝦夷梅雨が続いているようです。
美深には、6月半ばに四国の松山と発ってお出でになっていらっしゃるWさんご夫妻が滞在されています。お2人の年齢をあわせて170歳超。病等のハンディにもめげず、はるばる北国の涼と元気の源を求めて、渾身の力を振り絞って旅にすごされるそのお姿に、合うたびに感動を頂いておりますが、今年もまもなくお会いできることを楽しみにしています。
ということで、今日は美深のキャンプ場泊まりです。では。失礼します。  馬骨
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お詫びです

2010-07-22 17:10:44 | くるま旅くらしの話
読者の皆様に
馬骨です。ずーつと更新が中断しており、誠に申し訳ありませんいつものように旅先では、携帯からの投稿をしていたのですが、今回は何か見落としがあったのか、更新が出来ませんでした。今日、道内に来て初めて道の駅の雄武という所で、町の公共ネットワークを利用することができ、これを書いています。
正しい投稿の仕方が分からないため、明日以降も再び音信沙汰なしの状態になりますが、私事ながら、無事旅を続けておりますのでご安心下さい。旅の模様につきましては、家に戻りましから改めて記載・発表させていただきます。どうぞ、ご容赦頂きたいと思います。
只今、道北オホーツク海を望む雄武町の道の駅ですが、明日から月末までは、美深町、浜頓別町、稚内市などを訪ねた後、南下し帯広から日高などを経由して札幌近郊の道の駅などに滞在したあと、道内には8月16日頃まで居て、帰途に就く予定です。帰宅は8月の20日をリミットとしています。
お詫び方々、とりあえずご報告をさせていただきました。
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今日、北に向かって出発します

2010-07-10 03:52:28 | くるま旅くらしの話

蒸し暑い日々の連続の中、今年の北海道行の準備が完了しました。今日これから出発です。昼までには走り出したいと思っています。今日は高速道のSAに泊る予定ですが、それがどこになるのかは未定です。とにかく無理をしないで、一番左の専用車線を、安全速度を厳守しながら行きたいと思っています。

高速道を走り終えて、もう一晩は青森県横浜町の道の駅か大間のキャンプ場あたりに泊って、明後日の大間からのフェリーで、函館には16時丁度に上陸予定です。そこから先は、その日は多分恵山の道の駅泊まりとなるでしょう。その後の日程は全く未定です。

これからの旅の様子は、アバウトですが、明日からは一日遅れで、ブログには携帯での投稿となります。字が小さいので読みづらいと思いますが、かっこいい便利なツールには届かない年金暮らしですので、先ずはご容赦下さい。

8月半ば過ぎには帰着予定で、今からちょっぴり中途半端な感じは拭えませんが、もともと今年は旅は無理かなと思っていたところでしたので、北海道に行けるだけで、もう十分にありがたいと思っています。体調不良の相棒も、この旅で元気を取り戻してくれることでしょう。さて、今年はどんなチンタラ道中になりますことやら、楽しみです。では、明日からのブログをどうぞご覧下さい。

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計算過ぎると動きも意識も狂う

2010-07-08 06:36:30 | 宵宵妄話

今日はブログの投稿は休もうと、ワールドカップの準決勝戦、スペインとドイツの一戦を見ていました。ワールドカップは日本の活躍があって、帰国したそのメンバーのその後の行く道などが毎日取り沙汰されている状況で、もはや日本国内では今大会は遠い過去のものとなってしまっている感じですが、肝心の本番の方は、これからが頂点を極める戦いが行なわれているのです。毎度のことながら、この国の軽薄なムードに疑問を感じながら、反発心も手伝っての観戦なのでした。

私の予想では、優勝候補の一角だったアルゼンチンを圧倒的な差で葬ったドイツの方が有利ではないかとの見方でした。アルゼンチンとのゲームでは、荒削りなムード主義的雰囲気のある南米アルゼンチンに対してクールで組織的であり、且つ火がつけば怒涛の攻めを実現できるドイツチームのパワーを、これは只者ではないな、やはりヨーロッパに覇を為すことの多かったゲルマン魂の表れなのかと思ったのでした。

スペインは無敵艦隊で世界に覇をなしていたのは有名ですが、やがてはイギリスの艦隊に敗れ、それ以降は尻すぼみ状態で今日に至っている感じがあり、サッカーにおいてもその影響は拭われないのかな、などとド素人の感覚での考え方で、この一戦も最終的にはドイツには敵わないのではないかとの見方でした。

しかしゲームが始まると、不思議なことに攻めているのはスペインの方ばかりで、ドイツといえばまだ点も取っていないのに、力を入れているのは守備の方ばかりで、どうも予想とは違う感じなのでした。確かに守備の方は完璧に近く、スペインの攻めにはかなりの無理があり、シュートは打っても殆どが高い壁に弾き返されており、とても点が入るとは思えませんでした。恐らくこれはドイツチームの作戦であり、後半になってからの攻撃に備えるための戦術を展開しているのではないかと思ったのでした。

でも、観戦している側としては、今一面白くなくて、スペインに応援したい気分が次第に強くなってきました。攻めないでいて点を取れるゲームなどありえず、本物の戦の場合だって、守ってばかり居て偶(たま)の奇襲攻撃だけで勝利を得たなどという話は聞いたことがありません。信長の桶狭間の今川攻めだって、最初から守りの精神など欠片もなかったのですから。「攻撃は最大の防御なり」というのは、私が若い頃に係わったバスケットボールにおいても当然の考えでした。

ま、サッカーはスポーツゲームなのですから、実力があればしっかり守りきって、一気呵成に相手の陣容を崩すという戦術があっても不思議ではないと思います。しかし、私が思うのは、そのような戦術が通用するのは、自分たちの実力が相手のそれを相当に上回っているという場合だけです。しかし、実力というのは実際にゲームをやって見なければ示されないわけですから、単に過信しているだけということになる危険性があるように思うのです。その意味において、守りを核に置くという戦術には、勝つためにはある種の限界を内包しているように思います。日本チームの限界もそこにあったような気がします。

守りを主体とした場合の勝利への危険性は二つあって、その一は攻める相手側が次第に守りを崩すのに慣れてくること。もう一つは守りの意識が攻撃への切り替え意識と動きを弱めるかも知れない、特に切り替えてもなかなか思うようにならない状況の場合に、不要な焦りを引き出すことにつながるということです。

そのような思いを抱きながら観戦していたのですが、前半は懸命に攻めるスペインを軽くいなしながら、シュート数は少なくてもドイツの方に余裕があると感じました。この分だと、作戦は成功への道を辿っているかも知れないなとも思いました。普段のヨーロッパのサッカー界の動きなど私には全くわかりませんので、真に感覚的な見方なのですが、前半のドイツの動きには、それを感じさせるものがあったのです。さて、後半はどうなることだろうかと、前半押さえていたドイツの怒涛の攻撃が見られるのではないかと、期待は大きく膨らんだのでした。

ところが後半が始まっても双方の戦いぶりは一向変わらず、むしろスペインの方が次第にドイツの守備に慣れてきたようで、却って戦いの魂に火がついた感じがしてきました。双方とも実に良く走り、よく守って、組織的な動きも見事なのですが、スペインの方が活力がより上のように感ずるのです。チームメンバーの名前も力も普段サッカーを見ていない私にはさっぱりわかりませんが、トータルとしてみていると、攻めに関してはスペインの方がチャンスが多い感じとなってきているのです。

一度、決定的とも思える場面があって、ドイツはひやりとしながらボールをクリアーしたのでしたが、そのころからもしかしたらこれはスペインが行くのかも知れないぞと思うようになりました。そしてその少しあと、コーナーキックから来たボールを、スペインのメンバーはほぼ一丸となって(勿論その中に得点を挙げた選手が居たわけですが)ゴールにボールを押し込んだのでした。スペインチームのもの凄い情熱を感じました。見事なゴールでした。

もうここまで来ればドイツにはチームを挙げての反撃ラッシュしかありません。さて、どうするのかと見ていたのですが、このチームはあくまでもクールで、蛮勇のような行動をとる選手は見当たらないようでした。理詰めの攻めを繰り返すのですが、相変わらず攻めの精神を忘れないスペインチームは、その後も安易な守りに入ることはなく、ついにその1点を守りきったのです。

なるほど、サッカーというのはこのようなスポーツなのかと、その最高峰のゲームを存分に楽しませて貰いながら思ったのは、勝利というのは計算し過ぎると却って反対の結果が招来するという恐さでした。逆に言えば、計算など弾き返す情熱が最後の勝利を獲得するということかも知れません。観客は好き勝手のコメントができるので、それは結果論だよということになってしまうのでしょうが、この一戦を観ていて、私が思ったのはやはり攻撃は最大の防御であり、勝利には計算式は当て嵌まりきれないということでした。ドイツチームが最初から歯をむき出してゲームの主導権をものにするような作戦をとったなら、結果は変わっていたかもしれません。アルゼンチンには的中した作戦も、あまり計算し過ぎてしまうと、神通力を失うということなのでしょうか。 

真に贅沢な世界最高峰のゲームを観戦しながらの感想でした。それにしてもいいゲームだったなあ。

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異常気象の恐怖

2010-07-07 07:23:42 | くるま旅くらしの話

このところ連日大雨の予報が出ています。しかし、私の住む守谷市辺りは、梅雨空らしい曇天が広がってはいるものの、日中はちょっぴり空が高くなって、猛烈な湿気を膨らませた暑さが押しかけてくる毎日です。大して遠くもない東京の北区や板橋区、練馬区などでは1時間に100ミリを超えるというものすごい豪雨が街中を襲い、一挙に道路が濁流の河川と化すというような恐ろしい現象が生まれ出ています。

このギャップをどう捉えて考えれば良いのか、迷います。ホンの僅かの距離しかない場所で、想像もつかないような自然現象が起こるというのは、真に不気味なことです。今、守谷のこの地が安全だということは、何時突然に恐ろしい事態が現れるかということの裏返しでもあり、決して油断のできない事態だと思っています。

さりとて、人間の哀しさは、問題に直面しない限りは事態の深刻さを実感できないというところにあり、思いという常識と現実という実態には天と地ほどの差があるようです。これは気象だけではなく、今世間を騒がせている大相撲の賭博問題だって、同じことかもしれません。琴光喜だって大嶽親方だって、問題に直面するまでは、大して事態の深刻さなど感じなかったに違いありません。

それ故に、何かが起こる前にそれを予知し、問題を予防し、その根を絶つということは、口で言うほど簡単ではなく、相当真剣に事態を見つめ、問題の本質を見抜く力を身につけておくことが大切ということになるのだと思います。

ところが、人間のやることはある程度予知出来ても、自然現象となるとさっぱり解りません。この頃はそのような事態がひしひしと増加している感じがします。異常気象と呼ばれる現象ほど不気味なことはありません。気象の専門家は、様々な科学データを分析、統合して、そこから一つの合理的な解釈を見出して予報につなげているのだと思いますが、実際の守谷市の天気予報に雨の降らない外れが多かったり、先日の板橋区や練馬のゲリラ豪雨を洪水騒ぎのレベルまで予報しきれないのは、データに表れない天意のようなものまでを読み取ることは不可能であることを語っているような気がします。

旅の出立まであと3日となりました。目指す北海道は、今のところ思ったよりも過しやすい天気が続いているとの知人からの便りがありましたが、それは良いとしても、本来北海道には梅雨など無いと聞いていたのに、昨年も一昨年も7月の北海道は雨ばかりが続いて寒く、聞けば最近は蝦夷梅雨と呼ばれる気候が定着しつつあるとか。異常気象といえば、比較的短期で局部的な事象が多いように思っていたのに、最近は長期化の現象も出来しているのかと、不気味さは益々増幅しています。おそらく今年の北海道の天気のこれからも、昨年と一変するなどということはないと思われますので、まさに油断大敵です。

心配なのは、旅先で突然の集中豪雨や突風、それに雷や地震等に見舞われはしないかということです。どの地でも梅雨末期には大雨が降るのは既知のことですが、蝦夷梅雨にもこれが派手に付随してくるようなことになると大ごとです。うっかりと気楽に最寄の道の駅やキャンプ場などを選んだりすると、いざという時に逃げ場を失い、大ごとになる危険性があるのです。

旅先では、夕方近くなって無理して宿泊場所を探すような場合は、要注意です。特に空模様が怪しいときには、安全な場所を選ぶことが不可欠です。一番危険なのは、海に近い吹きさらしの新しく崖を削って造成したような場所でありましょう。車が殆ど駐車していないような道の駅や、無人のキャンプ場なども要注意です。自然というのはいい加減な人工地帯ほど攻撃のターゲットとするようですから、くるま旅の宿泊場所の選定は、なるべく早くその地を選んで着くようにし、到着したなら最も安全なポジションに駐車をするという心がけが肝要です。

旅先では、どうしてもちょっぴり心が浮き上がってしまう傾向があり、又運転疲れなどで、まあいいかという安易感に負けてしまいがちですので、要注意です。この頃の天意は自然というものの扱いに、人間どもが行なってきた負の部分に対する責任を思い知らせるかの如くに、強烈に襲ってくるような気がします。地震や火山の爆発などに出くわしてしまったら、これはもうどうし様もありませんが、そうでない自然現象に対しては、不断から慎重に対峙することが大切だなということを改めて感じながら、今、あれこれ出発準備に余念がない時間を過ごしています。

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大相撲再興の課題

2010-07-06 05:56:13 | 宵宵妄話

先日から反社会勢力と係わる賭博問題で世間を騒がせていた大相撲の興行について、名古屋場所の開催が危ぶまれていましたが、一応の区切りとして関係者の処分が決まり、何とか開催に漕ぎつけるという結論に辿り着いたようです。問題解決の道のりが遠いのは、誰が考えても明白なことであり、それらを全て解決してから再開するなどということは到底不可能なのですから、多少の無理や批判があっても名古屋場所を開催するというのは、賢明な判断だったと私は思っています。

私如きが偉そうにつべこべコメントを言っても仕方のないことはよく承知しているのですが、このような問題を再発させないためにも、大相撲界の改革のテーマが何であるべきかについて、馬の骨の意見を少しばかり述べさせていただこうと思います。

私は今回の大相撲の問題は、実は日本の国民全体の問題でもあると思っています。つまり、日本中どこの世界にもある根の深い社会現象の一つに過ぎないと思っています。それは簡単に言えば、親が子を、先生が生徒を、師匠が弟子を、社会人として大切なものを教えていない、教えきれていないという結果に由来する出来事であるということです。勿論100%何もかも教え、伝えきれないというのは何時の時代だってあることですが、今の世はもしかしたら半分以上もが大切な教えをおろそかにしていると思えるほど、呆れ返る現象を眼にすることが多いのです。

世の中が自分一人ではなく、他人とのかかわりの中で成り立っているということは、誰でも観念的には解っているのだと思いますが、それ故に世の中を成り立たせているルールというものがあるわけです。お互いが気持ちよく生きてゆけるようにと、例えば礼儀・作法などというものがありますが、今頃はそのようなものは古臭いなどと履き違えて、無視どころか敢えてぶち壊そうなどとする愚か者が増えているようです。何事につけ「関係ない!」などと抜かす若者は何時の時代にも存在したのだとは思いますが、今の時代はゆがめられた個人主義が、そのトーンを一層拡大させているようにも思えるのです。この世に関係ないものなどあるわけがありません。道端の石ころの一つだって、それを意識した瞬間に自分と関わりがあるのです。ましてや人間同士が関係ないなどと言える筈がないのです。

関係ないという考えで人間行動に似た行為を行なっているのが、反社会勢力です。反社会というのは、社会という世の中に生きていながら、世の中のルールを無視して、己の利益のみを吸い上げようとする存在です。今回は暴力団が取り上げられていますが、人の善意に付け込んで騙して金を毟り取るオレオレ詐欺なども反社会的行為であることは言うまでもありません。

さて、今回の大相撲界の出来事に関して、何が問題なのかといえば、その最大のものは、師匠、親方という立場の人たちが、弟子たちを社会人として(=人間として)必要・大切なもの・ごとを、きちんと教えていないということです。今流に言えば、弟子のマネジメントが出来ていないということです。本業の相撲に強くなればそれでいいというだけの指導では、強くなった者はうっかりすると思い上がることになります。思いあがるというのは、裸の王様のようなもので、自分の都合の好いようにしか世の中が見えなくなるということです。つまり、己に眩まされてしまうということです。

例えば、先の朝青龍の問題では、彼はこれに近い状況だったように思われます。勿論彼自身が惹き起こした暴力事件については論外ですが、彼が相撲界に新風を吹き込んでいると錯覚したのかも知れない、勝利のガッツポーズなどについて言えば、彼だけを責めることはできません。軽々しいとも思える横綱の挙動を生み出させたのは、その指導者である者の重大な責任だと思います。彼の師匠は、朝青龍に対して勝負に勝つための強さしか教えていなかったに違いありません。それが実現して横綱になった時、もはや朝青龍は師匠を超えたと錯覚したのであろうし、師匠もまたその状況に甘んじたのだと思います。こんなことで国技とも言われている相撲界がその伝統(但し良い部分)を守ってゆけるわけがありません。

又、弟子を殺してしまった師匠も居ましたが、これなんぞは朝青龍のケースの裏返しのような気がします。指導者としての本当の愛情、社会に通用する人間の育成などという発想は、この師匠には欠片(かけら)もなかったのではないかと思います。兄弟子にイジメを強要したと言うのですから、これはもう江戸時代の愚かな親方と大して変わらない気がします。江戸時代なら親方の絶対権力は弟子を死なせてもあまり問題にはされなかったのかもしれませんが、今の時代は違うのです。

言いたいのは、相撲協会は師匠・親方連中に対する相撲道におけるマネジメント教育を新しく始めなければならないということです。いい加減な親方の下では、人間的に尊敬されるような力士が育つはずがありません。ただ勝つだけで良いということしか教えられないような者から親方という役割を取り上げるべきです。ま、現実には株のやり取りのような仕組みがあるようですから、それはできない相談だと思いますが、その分全親方に対する徹底したマネジメント教育を行なうべきです。

親方などといっても、その実体はまだ30代の若者が多数を占めているわけですから、普通のビジネス界で言えば大企業なら係長クラス、小さな企業でも部長などと呼ばれる人は少ないと思います。人間としての基盤にそれほど差があるとも思えず、しっかりと弟子の育成に取り組むためには、我流だけではない相撲道の哲学やマネジメントの知識が必要だと思うのです。現在どのようなことがどのように行なわれているのか判りませんが、今回の事件の結果からみれば、親方のありようには大いなる疑問を感じます。

そしてその前に、何よりも先ず、そのマネジメント教育の中身をしっかりと作りあげる必要があります。協会の幹部が身を乗り出してこれを作る必要があると思います。勿論不慣れな部分は専門家に委託する必要があると思いますが、丸投げではいけません。教育の中身を専門家に丸投げするというやり方は、今の大企業などにおいても流行っているようですが、親が親としての役割を果たさず、教育のことは学校の先生や家庭教師に任せておけば良いなどという考えが、そもそも歪んだ社会をつくりあげる原因となるのです。相撲協会においては、その歴史をよくよく紐解きながら、優れた先人の教えを大胆に現代に取り入れて、親方に対するマネジメント教育の中身をつくりあげるべきと考えます。

今回の賭博行為に関していえば、係わった人たちのいわば世の中に対する鈍感な体質から過剰な社会反応が起こったに過ぎず、反社会勢力との係わりの問題性を判断できなかった幼稚さに起因している感じがします。賭博行為といわれるものは多数あり、ある意味でこれは人間としてのある種の欲求に絡むものであるような気もします。野球賭博でも例えば職場で高校野球の優勝校を当てるなどという奴は、職場の部課長全員が参加して一喜一憂しているなどという光景はどこにもあると思います。競馬だって競輪だって、皆賭博です。競艇だってオートレースだって、世の中公認の賭博です。それが野球賭博だけ何故悪いのかといえば、当然のことながら反社会勢力との係わりがあるからということでしょう。

大相撲は日本の日本人らしさを形を含めて残す、最後のショースポーツだと思います。それが反社会勢力と係わり合いを持った親方ら力士が混ざり合って行なわれているとしたら、これはもう国技などではなくなってしまいます。全関係者は心してこの問題の解決に取り組むべきです。そして、何よりも大切なのは、指導者の教育の徹底であり、それを徹底できる協会の体制作りだと思います。力士の教育なんぞはずっと後の話だと思います。これができなければ、大相撲は終わりです。

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ジャガイモの収穫終る

2010-07-05 05:25:09 | 宵宵妄話

今日ジャガイモの収穫を終えました。毎年収穫が終ると旅の出発日が近づいたのを実感します。私は大のジャガイモ大好き人間で、市の菜園を借りるようになってからは、連作の障害など無視して、ジャガイモを畑一杯作り続けています。今年は以前借りていた畑が5年の契約期間を終了し、今は30㎡の小さな畑となってしまったため、植えつける量も4割方少なくなってしまいました。

今年のジャガイモは、2種類の種を植えました。一つは比較的早く収穫できるキタアカリという品種で、もう一つはキタムラサキという紫色の品種です。キタアカリは常連ですが、紫色のジャガイモを作るのは初めてです。長さ約5mの畝にキタアカリを6列、キタムラサキを2列作りました。

新しいジャガイモ畑は、実はあまりジャガイモ作りには向いていない土質で、土が固い上に水はけが悪いのです。長いこと耕作放棄地だったようで、この悪条件を改善するにはまだまだ時間がかかるようです。出来上がったジャガイモも、北海道のように全部がホクホクというわけには行かず、大半は茹でても割れるものは少なくて、ベちゃっとしたままのものが殆どです。従って、家内などには極めて不評です。

キタアカリの方はもう2週間ほど前から少しずつ掘って食べています。まだ葉が黄色くなり出す前でも、もう食用には十分応えてくれるレベルでした。新ジャガは独特の美味さがあって、それを毎日のように賞味してきました。家内からは、完全に呆れかえられています。しかし、誰が何といおうとジャガイモが好きなのです。

今日は残っていたキタムラサキの方を掘り起こし、これで全部の収穫が終ったわけですが、今年の収量は思ったほどではなく、知人や近所に配るほどのレベルには至りませんでした。キタムラサキもちょっぴり先行して掘って食べてみましたが、これは形としてメークイン系のようで、皮をむくのには好都合のようです。掘り起こした時には黒っぽい濃い紫色をしていて、なかなか面白いのですが、茹でるとせっかくの紫色が青ずんだ色となってしまい、お世辞にも食欲をそそる感じではないようです。味の方もキタアカリやダンシャクなどよりは落ちるといわざるを得ません。恐らくこの種類は、どう加工して食べるのかがこれからの課題だと思っています。

      

キタムラサキ。ジャガイモというよりもサツマイモという感じだが、勿論甘味などはなく、食感はジャガイモそのものである。煮てもこの色と同じなら良いのだが、これがブルーがかってしまうので見た目が悪くなってしまうのが残念。それにしてもよくこのようなものを作り出すものだ。遺伝子の組み換えなどは大丈夫なのかな?

ジャガイモの保存には苦労します。一般的には冷暗所のようなところに収蔵して置くのが良いのでしょうが、我が家にはそのような場所がないため、どうするかで往生します。小さな倉庫はガラクタで一杯ですし、スペースを作っても真夏の暑さには耐えられるか疑問です。収穫の畑の跡に少し深い穴でも掘って、そこに入れてみてはどうかなどと考えたりもするのですが、サツマイモならそれがOKでもジャガイモではどうなのか自信がありません。もし全部腐ってしまったら、落ち込んでしまうだろうと、大して多くもないジャガイモを見ながら、あれこれと頭を悩ましているところです。

ジャガイモは日に当てると表面が青くなって、有害物質が発生するようですから、日に当てないようにしての保存が大事なのだと思いますが、連日の雨模様の曇天では、湿っぽいままに貯蔵すると腐ってしまいますので、梅雨の合間を縫って日差しを拾って乾燥させるようにしています。今日は幸いカンカン照りではありませんので、とりあえずの貯蔵には間に合うレベルには干せたと思います。

毎年何人かの北海道に知人に出来上がったジャガイモを届けるのを一つの楽しみにしていたのですが、今年はそれができなくなりました。そもそも北海道在住の人に、関東産のジャガイモを届けること自体が失礼なことなのだとは重々承知しており、面白半分ということもあったのですが、その度にいつも家内にたしなめられていましたので、今年はそれが無くなって、家内はホッとしているのだと思います。しかし私的には大いに残念に思っています。

あれこれやっている間に、庭も畑も片付いてきました。それにしても何という蒸し暑さなのでしょうか。今年は北海道も暑いと聞いていますが、幾らなんでもこれほどではないでしょう。何をしても汗びっしょりで、今日も家内の洗濯は私の分だけで3回にもなりました。明日はジャガイモの収穫後の畑に、草の繁茂を抑えるためのブルーシートを敷く予定ですが、またまた大汗を掻くことでありましょう。旅立ちの日が来るまでじっと我慢の老人なのであります。

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除草の季節

2010-07-04 05:24:07 | くるま旅くらしの話

来週末からの旅の準備に少しずつ取り掛かっていますが、今日は家の周りの除草に取り組みました。天気予報では、雨とのことでしたが、朝起きて外を見ても雨の降った様子はなく、これからも降るような感じではありませんでした。このエリアに限って言えば、このところの天気予報は外れ続けです。尤も、外れているのは雨が降らないということだけで、空一面を雲が覆い続けているという状態は当たっていはいます。

今頃の季節は、植物たちにとって最も生長の盛んな時期のようです。草や木の何もかにもが、ちょっと見ない間に数倍の大きさになっています。1cm足らずだったメヒシバやエノコロ草の苗が、10cmくらいに育つには1週間もあれば十分のようです。収穫の終った梅の木には、いつの間にか新しい枝が角を出して何本も広がっていて、垣根を越えてお隣の領域にまで侵入しようとしていますし、百日紅だって早くも蕾を膨らませながら、長く延ばした枝を垂らしはじめています。

先ずは前庭の下草の除草から始めました。我が家の庭には、思いつきでの樹木や花などがやたらに植えられており、それらの狭い間を縫うようにして草を取るのは結構大変です。この季節には蚊が待ち受けており、それなりの防備体制を整えて臨まないと、体中がぼこぼこになってしまいます。蒸し暑いことこの上もないのですが、ズボンの下にはステテコを履き、下着の上にシャツを着ないとあっという間に蚊の標的になってしまいます。更に頭にはネットつきの帽子をかぶり、まるで宇宙に出て作業をするような格好で草取りスタイルとなりました。何もしない内から汗が噴出し、頬を伝わるのが判るのですが、今日はもうやけくそです。

前庭にはメインツリーのクロガネモチと大山桜の他に、山もみじ、ソヨゴ、梅、ブルーベリー、サルスベリ、ユスラウメ、ヤブニッケイ、柿、椿、山アジサイ、などの樹木とバラや桔梗、ユリ、シュウメイ菊、ミヤコワスレ、ツワブキなどの花を楽しむ植物の他にミョウガやミツバ、行者ニンニク、オカワサビなどの食用となるものなどが雑多に植えられています。これだけ植えてあれば、外の雑草など生える余地も無いと思うほどなのですが、どうしてどうして、彼らは層倍の逞しさを持って、私の思いなどを遙かに凌駕して、蔓延(はびこ)ろうと懸命なのです。

厄介な雑草のナンバーワンはカタバミです。この草は一見なよなよとしていて、引き抜けばたちまちそこから切れてしまいますが、これが彼らの生存戦略のようで、根の方は一緒に引き抜こうとしても、なかなか思うようにはなりません。小さな黄色い花を咲かせている可憐な有様は、健気で愛らしいなどとも思っていたのですが、除草を重ねる内に、この草のしたたかさを知って早々簡単には騙されないぞと思うようになりました。この草のしたたかさが最も現れるのは、芝の中に侵入して蔓延る有様を見たときです。柔らかいクセに、芝の中にしっかりと根を這いこませて、これを抜こうとしようとするならば、層倍の芝の根を一緒に抜かないとダメなのです。ですから、一旦カタバミに侵入された庭の芝は、これを除けようとすると、そこに禿げ状の穴ができてしまうのです。そのようにして、我が家の猫の額のような庭の芝は、浸蝕され今はまだらな状況となってしまいました。

カタバミというのは、我が国古来の家紋にもよく使われていたようですが、何故使われていたのかが良くわかりませんでした。この草と係わるようになって、もしかしたら、昔の人たちもこの草のしたたかな生命力にあやかろうとしたのではないかと気づきました。家紋というのがその家のシンボルを示すものというのはわかっていますが、何故それが家紋に選ばれたのかということになるとさっぱり解りません。徳川家の三つ葉葵は有名ですが、何故三つ葉葵なのかという理由はわかりません。ま、今の世では家紋は慣習的に使われる程度で、人びとの意識からはすごい勢いで遠ざかっている感じがします。家などというコンセプトが次第に縮小してしまっており、それを強調するためのシンボルなど不要という感覚が当たり前となってしまっていますから、これが復活する可能性は殆どないような気がします。因みに我が家の家紋は、剣カタバミであると親から聞きましたが、馬の骨としてはそのようなシンボルなどどうでも良いことで、もはや忘れ果てています。ちょっと脱線しました。

除草の話でした。カタバミの他には常連としてメヒシバ、エノコロ草、ヒメジョンなどが多いのですが、我が家の庭にはこの他にスギナやワラビ、ギシギシなどがしつこく生え出てきています。これは、その昔、ここが牧場であった名残りからなのかも知れません。その他にベトベトさんと呼んでいる緑色のカビのような苔(ゼニゴケというらしいです)が所構わず蔓延るのも困ったものです。当初はこれの駆除のために、土と一緒に削って土嚢袋につめて処理していたのですが、ある時こいつが酢に弱いというのを知り、今では酢を買って来てスプレーで振り撒いて退治しています。これには大助かりをしています。

大汗を掻きながら2時間ほどかけて家の周りの除草を終了したあとは、樹木の整枝です。先ずは梅。「桜切るバカ梅切らぬバカ」といわれますが、両方とも確かバラ科の植物だったと思いますが、梅はバラにより似ていて、枝の随所に棘があり、扱いが厄介です。この時期はあっという間に新芽を伸ばした枝が、吹き出るようにたくさん出現します。これを放置しておくと、梅一人の横暴に圧倒されることになってしまいますので、思い切ってかわいそうなほど枝を切りまくるのです。2本ある梅から出る枝の数は相当なものとなりました。これが終った後は、山もみじ、サルスベリ、それにクロガネモチへと進みます。いずれも油断のできない生長ぶりです。全部終えて、切り取った枝をゴミ出し用にまとめると、3束にもなりました。ヤレヤレです。この他にも桜やソヨゴがありますが、桜などは切りたくても切れないほど高くなってしまっていて、諦めています。もう少し育って、倒れたら屋根を壊すほどになってしまったら、その時は思い切って何とかしようと思っていますが、何しろ今年初めて花を咲かせてくれたものですから、花を見上げながらの宴を実現するまでは、そのままにしておこうと思っています。

これら全ての作業を終えるまでには、計4時間くらいかかりましたが、連続ではなく3回に分けて行ないましたので、汗まみれになったのも3回となりました。この間にジャガイモを干したりして、汗はより一層噴出し、風呂に入った後の一杯を美味くしてくれました。汗まみれになりながら、嬉々としてこれらの作業に取り組むのも、この一杯のご褒美が欲しくてなのかも知れません。除草の季節は、草木にとっては受難の季節なのかもしれませんが、人間にとっては、自然との共生などとは言っても、何もしないで放置しておれば、たちまち自然なるものに淘汰されてしまいますので、斯様な汗を流すのを厭わないのです。とにかく、一段落してホッとしたのでした。

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旅の準備

2010-07-02 05:25:12 | くるま旅くらしの話

今年の北海道行の出発まであと10日を切りました。親しい旅の知人の皆さんの殆どは、もう既に現地入りしています。今週末の明日からは、枝幸の町ではカニ祭りが行なわれる予定で、もうウスタイベ岩のキャンプ場はかなりのキャンピングカーなどで賑わっているのではないかと思います。我が守谷市内の近くに在住のKさんご夫妻も、先日枝幸のキャンプ場に集まっている仲間の下へと出発されましたが、恐らく今日辺り到着し、合流されるのではないかと思います。あ~羨ましい~、です。

旅に出る楽しみは、幼稚園の子供でも古稀を迎えている老人でも少しも変わらず、あれこれと心を躍らせています。幼稚園の子たちと少し違うのは、予楽の本質は同じでも子供たちは純粋に期待の胸を膨らませ続けていれば、外のことはみな親たちが準備してくれますが、老人ともなると誰も相手にしてくれる者はなく、全てを自分たちで慎重に段取りしなければなりません。

準備が面倒くさいという若さが残る時代は過ぎ去って、今では楽しみながらの取り組みとなっています。北海道にはもう10年以上毎年訪ねていますので、特別に準備するものはないのですが、特に留意していることといえば、それは旅の基盤となるものに対する点検・整備ということになりましょうか。一番の基盤は、くらしの住いと移動手段となる旅車の手当てです。昨年は冷蔵庫のガス仕様の機器に不具合が生じ、その手当てに苦労したり、途中でタイヤの磨耗に気づいて急遽交換をしたりして、事前のチエックが不十分だったという反省があり、今年はより以上に入念に行なう必要があります。何しろ購入後8年を経過し、我がSUN号は走行距離も13万キロを遙かに超え、恐らく今回の旅の間に14万キロを超えるのではないかと思っています。年数が経過するにつれて、あちらこちらに劣化や不具合が発生するのは皆同じで、車だってそれを免れることは出来ません。SUN号は丁度その疲労が随所に現れる時期にさしかかっているのだと思っています。車検を3月に終えた今年は、整備の方は済んでいますので、あとはメンテナンスのための必要品などをしっかり整えて、無理をせず安全運転で行くのが肝要だと思っています。

旅車の外に準備するものといえば、くらしに必要なエネルギー(=熱源)、水、食糧、衣料品などが基盤となりますが、これらについては、旅慣れた今では、やたらに多く持ち込むのを避け、必要最小限の適量を確保して持参することが大切と考えています。やむを得ない不足のものがあったときには、現地で補充できるのですから、車に過剰な負担をかけないようにするのが、くるま旅のコツの一つでありましょう。我が家の場合は、どうしても余分なものを持って行きすぎる嫌いがありますので、要注意です。

ちゃんとした計画を立ててゆくというのが、旅をするに当たっての普通の考え方ではないかと思いますが、私どもの場合は、旅を窮屈なものにはしたくないという考えから、行程等の計画は殆ど決めておらず、今の段階で決めていることといえば、出発の日にちと大間からのフェリーの往路の予約だけです。帰着日すらも決めていません。勿論、これは別に自慢するようなことでも、お勧めするようなことでもありません。旅のスタイルは、人様々であって当たり前であり、きちんとスケジュールを決めるも良し、行き当たりバッタリであっても良し、その人の旅の楽しみ方次第だと思っています。

このごろ準備の中で大事だなと思っているのは、情報の収集に係わることです。旅先での楽しみをより大きくするためには、情報が不可欠です。何の情報も持たずに、自分にとっての新地を自力で切り開いてゆくというのも一つの楽しみ方だとは思いますが、旅の出会いや感動を一層深めるためには、予め情報を持っている方がずっと有効です。

私の場合は、地図や冊子、或いは歴史・地理の解説資料などを持参したり、旅先では知人の皆さんなどから情報を仕入れるようにしたりしていますが、この頃思っているのは、やっぱりナビを取り付ける必要もあるのかなということです。ナビの地図機能に関しては不要だと思っているのですが、地域の基本情報の収集ということになると、ナビの持っている力が大いに活用できるような気がします。只今思案中です。しかしナビを付けたからといって、今までのような書籍や資料等を活用することを止める考えはありません。ナビには、探究心や想像力に蓋をするような部分があるような気がして、それは真っ平ごめんという思いがあるものですから、まだ迷っている次第です。とにかく今年は現状維持ということにしたいと思っています。

旅の準備としてもう一つ厄介なことがあります。都会のマンションなどに住んでおられる方には無関係の話ですが、庭に木を植え、市の菜園を借りているという身では、これに対して何の手当ても無しに出発してしまいますと、旅から戻った時にとんでもない大汗を流すことになってしまいます。庭木も畑の草も、2ヶ月という時間経過の中では、想像を遙かに超える生長を示してくれ、ここに引っ越してきた最初の年には、戻ってきて茫然自失の感があったのを思い出します。それ以降、庭木も出かける前に不要な枝を切ったり、畑はブルーシートを被せるなどして、彼らの野望を最小限に抑える工夫を心がけるようにしています。これらは、いわば旅の楽しみに対する反動のようなものです。幸い我が家には管理にやかましい倅が同居していますので、不在になるわけではなく、その点では安心です。

何はともあれ、しばらくの間は予楽のふくらみと一緒に、あれこれと汗を流す時間が続きそうです。

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