山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

今年から来年へ

2015-12-31 21:45:03 | その他

 今年も間もなく終わろうとしています。先ほどNHKの紅白歌合戦が始まりました。このひねくれジジイにはこのような大げさな番組は面白くもおかしくも無く、ただ煩いばかりなので、見ることは敬遠しています。でも楽しみにしている人も大勢おられると思いますので、とやかく言うことは何もありません。

 

今年もいろいろな出来事がありました。世界レベル、日本国内レベル、個人レベルと、取り上げれば切りのないことですが、感じたことを少し述べるとすれば、次のようなことを挙げたいと思います。

 世界レベルの出来事としては、テロ、難民、異常気象などが挙げられますが、その根源のすべてに絡んでいるのは、エネルギーを化石や原子力などに頼っているという現代の世界経営のあり様があるように思います。エネルギー確保のための石油資源が枯渇し、原子力への依存が無くなった時、初めて現在の世界各地での紛争や異常気象等が改善され始めるのではないかと思うのです。

しかし、これは現状ではそう簡単に無くなる筈もなく、恐らく地球がもはや生存可能な世界ではないと気づくまで、様々な紛争が続くような気がします。人間は理想郷を描くことは出来ても、それを実現することは決して出来ない動物のようです。来年も又悪質非道な事件が世界各地で起こるに違いありません。どうすれば良いのかなどの対策などあるわけもなく、一市民としては只ひたすらに巻き込まれないような幸運を願うだけです。

 

国内の出来事を振り返る時に一番危うく思うのは、人倫を欠いたネット社会の事件の氾濫と政治的価値観の暴走、それと自然災害の脅威ということになりますか。ネット社会が生身の人間を狂わせ、政治への喪失感が政権を暴走させ、加えて大自然のもたらす異常な現象が脅威となったこの一年でした。様々な分野で異常さを感じさせる出来事の多い一年だった様な気がします。

 年々、心和むことの少ない日々が増えつつあるような気がします。文明というものが、様々な知恵のもたらした結果が、今の世の中なのだというのであれば、果たして文明というのは人間を本当により安全で安心な世界に導いてくれるのか疑問です。確かにいろいろな面で利便性は圧倒的に高まりましたが、その結果人間が得たものは何だったのか、失ったものは何なのか、この頃はそのような疑問が膨らんで来ています。

 

さて、私ごとですが、今年はそれなりに良い年だったと思っています。旅くらしを最優先させている私どもなのですが、それでも同じ屋根の下に住む倅夫婦に孫が生まれるとなると、ホイホイと旅に出かけるわけにはゆかず、今年はその誕生を待って例年の夏の北海道行を断念したのでした。9月に孫娘が誕生し、しばらく旅のことは忘れたのですが、偶々同じ時期に隣りの常総市が大水害に見舞われるという事件が出来し、真に騒乱の日々となりました。常総市の水害は予想も出来ないレベルの酷さでした。正直、これには人災の部分も絡んでいるのではないかと思われてなりません。このような時代にあんなに簡単に堤防が決壊するなんて、何だか変な感じが拭えません。ま、この話は措くとしましょう。

 さて、今年の旅ですが、春の終わりごろに佐渡へ3週間余り、秋の終わり頃に美濃と紀伊を3週間余り旅しただけでした。夏の季節に足止めを食らったのが大きいのですが、可愛い孫娘の誕生は、それを補って余るほどのものでしたから、文句を言う筋合いではありません。

 この頃の旅にはテーマというものを設けることにしています。佐渡の旅は、能楽とは何かを中心として、佐渡一国を味わおうという試みでした。周囲250キロあまりの小さな島国ですが、佐渡は山あり川あり平地あり湖ありの立派な一国です。佐渡といえば、島流しと金山、それに最近では朱鷺くらいしか知らない人が多いのですが、それは無知というものです。5度ほど能の上演をじっくり鑑賞し、大佐渡、小佐渡を巡っての3週間は、実りの多い時間でした。何の知識も無かった能についても、芸術表現としてのその考え方、方法について学ぶことが出来たと思っています。又、新たな課題も見つかりました。それは佐渡には伝説が多く残っており、次に行く時はそれらを少し拾ってみたいと考えています。伝説は佐渡の成り立ちを知る上で、かなり重要なものを秘めている感じがするのです。何時行けるか判りませんが、次回が楽しみです。

 秋の旅は、紀伊の熊野詣の跡を辿るのがメインテーマでした。その途中で、美濃エリアの重伝建や城址を巡ることにしたのですが、念願の佐藤一斎先生の地元を訪ねることが出来て、何だか安堵しました。偉人といえども、生まれや暮らしは我々と何も変わらないのだと思ったからです。そう言えば、松陰先生の松下村塾だって、今こそ神社となっていますが、元々はまさに松の木の下にある小さな小屋の学習塾だったのですから。

 熊野詣の跡といえば、やはり熊野三山の大社とそれに至る道、いわゆる熊野古道ということになるでしょう。古の人々の思いに少しでも近づくためには、三大社への参詣だけではなく、古道を歩いて見ることが不可欠だと思います。わずかな距離でしたが、その体験も出来て良かったと思います。又参詣の道の随所に設けられた王子社についても五体王子と呼ばれる場所のすべてを訪ねることが出来て、往時の参詣の人々の残した歌などがあり、どのような参詣の様子だったのかを僅かながらも偲ぶことが出来て良かったと思います。この、平安時代から始まる参詣という名の一大イベントは、その本質が「旅がしたかったから」なのだと結論付けて、自己満足しながら戻った旅でした。

 今年はたった2回の、1ヶ月半にも満たない旅でしたが、それなりに満足できる旅だったように思っています。

 さて、来年のことになりますが、まだ何も決めていません。行きたい場所は無数にあり、やはり優先順位を付ける必要があるようです。まず、夏の北海道は特別のことがない限りは実現させたいと考えています。春の東北エリアも、そろそろ「へのへのの旅」の本番をしてみたいと思っています。「へのへのの旅」というのは、青森県と岩手県にまたがる「一戸から九戸、そして遠野(=十戸)」に至る九つの行政エリアを訪ねる旅のことです。四戸は無いので、九つとなるわけです。何年か前にざっと下見はしているのですが、未だ本番を行っていません。また、この時期に四国や九州エリアを回って見たいという願望も膨らんで来ています。九州は今のところ「石の文化」を訪ねたいと考えています。

 秋の旅は、関西から中国地方にかけて自在に回って見たいと思っています。テーマは未定ですが、重伝建や重文景などの、まだ行っていない場所もありますので、行く先に事欠くことはありません。春を迎えるまでの間に、相棒とも相談しながらじっくりと思いを巡らし決めてゆきたいと思います。

  何だか好き勝手なことばかりを述べて参り、失礼しました。

   間もなく今年が終わります。この一年間、私の長ったらしい、うんざりするような駄文を、我慢しながらお読み下さった方々に、心からお礼を申し上げます。このスタイルは今後も崩さないことに決めておりますので、引き続き我慢をして頂いて、お読みくださいますようお願い申し上げます

 

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恩師のこと

2015-12-26 05:48:44 | 宵宵妄話

 毎年12月に入ると悲しみを含んだ便りが送られてくる。新年を迎えるにあたっての服喪欠礼の挨拶のハガキである。現役時代の頃は、多くても5~6枚程度だったのだが、年を経るにつれてその数は増え出し、今年は今迄最高の36枚にもとなってしまった。内容も両親のレベルから兄弟姉妹のものが増え、更には本人が亡くなられたとの親近者からのものも複数含まれるようになった。新年を前に厳粛な気持となる。

 今年の服喪欠礼のハガキの中に一通の悲しい知らせがあった。それは恩師の死を知らせるご家族からのものだった。この10月にお亡くなりになられたとあったが、そのことを露知らず、到頭お会いせぬままに永のお別れとなってしまった。恩師は自分が小学校一年生の時の担任だった方である。

 自分には生涯で三人の恩師がいると思っている。親密の度合いではなく、自分の生き方にプラスの方向で大きな力を頂戴したという方である。三人とは、小学一年生の時の担任の先生、高校3年の時の担任の先生、そしてもう一人は大学のゼミの先生である。今はもう、お三方ともこの世を離れて幽界にお住まいである。

 大学時代の恩師には、社会で生きてゆく上での知恵を幾つか教わった。先生はマーケティングが専門で、それを学びたくて参加したのだが、先生から学問を教わった記憶はない。ゼミの時間は学生どもも含めての先生提供の煙草(洋モク~アメリカ産)を吸いながらの雑談で殆どが過ぎた。時々研究室ではなく、喫茶店がその会場となることもあった。随分といい加減な方だなと思いながらの時間だったが、その雑談の時々におっしゃった一言が、後に就職をして社会に出た時に大きな力となった。いろいろあるけど、究極的に煮詰めれば、「辛抱第一」ということになるのかもしれない。何時も冗談気味におっしゃるので、うっかりすると何も残らなくなってしまうのだが、何故か先生のことばに惹かれるものがあり、それが力となったのである。学問のことは気がついた時に自分で学べば良いのである。マーケティングは実用の学問だから、そんなものを理論的に体系立てて頭の中に入れたところで、実務では大して役には立たないのである。そのことを一番解っていたのが先生であり、だから応用雑学で我々を楽な気分にさせ、惑わせたのではないかと思っている。楽な気分のままで終わってしまったゼミの仲間も大勢いて、卒業間際になって大騒ぎをしたことなどを思い出す。学問よりももっと大事なものを、解らせないようにしながらさりげなく漏らしてくれた先生だった。このようなスタイルの恩師があって良いと思っている。

 高校時の恩師は、卒業の時までは恩師ではなかった方である。というと、変な話となるのだが、高校時代は勉強ばかりしている奴が多い学校で、自分などは頭が悪い癖に殆ど勉強はせず、運動部で身体を鍛えることと、図書館から各種の文学全集を借りて来て読みふけることにばかり時間を使っていて、授業の間は眠りこけていることが多かったのである。だから、担任の先生の存在は殆ど気にしていなかった。担任だけではなくクラスの誰かれも良く知らないというような人間関係だったように思う。クラスメートと何かを一緒にやり、話し合うなどという場は殆どなかったように思う。いや、あってもそのような場を無視していたのかもしれない。

 そのような高校時代の3年時の先生が恩師となったのは、卒業30年を迎えた時からである。ある日一枚の封書が送られてきた。開けて見ると、何と高校卒業時にクラスの全員で作成した記念文集が入っていたのである。しかも、それはガリ版印刷で作られた完全な復刻版だった。中に先生の名で便りが入っていて、それによると卒業30年を記念して、この復刻版をお作りになったとのこと。先生は担任として受け持たれたこのクラスに対して、格別の印象を持たれており、それがずっと忘れられず、この度思い立たれて全員にこの復刻版を作成して送ることにしたとの内容だった。自分的にはその意味が必ずしも理解できたわけではなかったのだが、ここまで思って下さる先生のクラスだったのかと感動したのだった。

 それ以降は今までその存在すらも知らなかった、毎年の新年会に出席するようになったのである。毎年先生を囲んでの新年会は、それは楽しく心和むものだった。歌を歌ってのドンチャン騒ぎなどは一切しない、静かに酒を飲みながら、一人一人がこの一年の近況報告をし、それを皆でじっくり聴いて時を過ごす、ただそれだけの集まりなのだが、味わい深いものがある場なのだ。数年前に先生はお亡くなりになったが、今でも先生が中心となった歓談の場は、毎年同じように続いている。このような場を残された先生を恩師と呼ばないわけにはゆかない。

 順序が逆になっているけど、最後に我が人生に最大・最高の影響を及ぼし、人生の最初の関門を開けさせて下さったのが、小学校一年生の時の担任の先生である。

自分は元々工業都市の日立市で生まれ、戦争のために両親が疎開的に開拓地に入植して田舎に移り住んだのだが、小学校は住んでいた村の学校ではなく、地理的な環境もあって、隣村への越境入学だった。一学年合わせて2学級70名ほどの小さな学校で、子どもたちの大半は同じ村の中で入学以前も顔見知りが多かったようだ。

しかし、戦後の混乱期の開拓地に住む子どもには、全くなじみのない人ばかりで、学校が何なのかということもはっきりしなかったのである。ただ、勉強をする場所だというのは知ってはいたけど、いざ入学して教えて貰う内容は、家で母に教えて貰ったこと以下のことばかりで、皆つまらなく面白くもない毎日だった。それに開拓団の住む地域として、村の人からは特別視される向きがあり、加えて越境入学なので、子供心にも素直に何でも吐き出して皆と一緒に学びの場に融け込むことが出来なかったのである。毎日がイヤイヤの登校だった。ハイ、ハイと皆が手を挙げる先生の投げかけにも、しかたなく最後の方にそっと手を挙げるような子だったのである。

そのようなある日に、担任の先生が何故か自分に注目されて、皆の前で光が当たるようなチャンスを与えて下さったのだった。具体的に何の、どのような場面だったのかは憶えていないのだが、とにかく人前で誰もが答えられなかったようなことを、思い切って発言できるように仕向けて下さったのである。自分の存在を初めて他人からも認めてもらえる場を作って下さったのである。引っ込み思案で並はずれた恥ずかしがり屋の自分に、その壁を破る第一歩を与えて下さったのである。

それから以降は、自分は少しずつ自分というものに自信を持つようになった。社会の中での自分というものの確立の基盤は、この時から開始されたのだと思う。これはもう我が人生にとっては、画期的なことだったのである。その後も幾度も様々な壁にぶつかったけど、それを乗り越えるに当って、この小学一年生の時ほどの大きな体験は無かったように思う。

その時の担任の先生は、直ぐに勤務先が変わられて、他所へ転任されて行かれたのだが、その後小学校の2年生以降毎年先生当てに年賀状を出し続けさせて頂いている。去年までに66回の年賀状を出させて頂いていることになる。その後一度もお会いしたことはないのだけど、毎年お返事があり、賀状を頂戴する度に、ああ、お元気なのだと安堵していたのだが、今年はご家族の方からの悲しい服喪の書状となってしまった。享年86歳だったということなので、思い起こせば自分が小学一年生の時は、先生は僅かに18歳の乙女だったのである。あの、いまだ混乱の収まらぬ戦後の時代の中にあって、18歳の先生は、優れた教育者だったのだ。今、改めてそのことを知り、益々敬服の思いが深まった。混乱の時代のなかで、ひねくれかけていた一人の小さな少年に、与えて下さった力の大きさを感謝せずにはいられない。

服喪欠礼のハガキは来たけれど、どうしても天国の先生に今年の賀状だけは届けて頂きたくて、ご墓前にお供えして頂きたく、そのように記して賀状を出すことにした。天国の先生、どうぞ安らかにお眠りください。

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美濃・紀伊国探訪の旅を終えて

2015-12-17 05:44:39 | くるま旅くらしの話

 晩秋の旅から戻って早くも10日が過ぎようとしています。雑事というのは果てもなく続くようで、そのペースに流されていると、もの書きも忘れてしまいそうです。まだ旅の締めくくりをしていないのが気になり、今日はどうしても書いておこうと思い立った次第です。

 まずあれこれ考えた結果、旅のタイトルを「美濃・紀伊国探訪の旅」と書きかえることにしました。「南岐阜と紀州」という呼び方は、自分の気持ちに合っていなくて、旅の間も何だかしっくりこなかったのでした。南岐阜というのは現代の呼び方であり、紀州というのは江戸辺りに使われた呼び方で、この組み合わせにはズレがあります。ここはやはり大宝律令の昔に戻って、令制国の呼び名が相応しいと思いました。南岐阜の中身は美濃国であり、紀州の中身は紀伊国となるわけです。日本国を日本国たらしめたのは、現在の法律ではなく、やはり古代の大宝律令が始まりであり、その治世区分としての令制国は、今なお色濃く残っており、自分などは今のような都道府県などよりも五畿七道をベースとする昔の令制国の方がずっと日本国らしいと思っているのです。

 というわけで、旅を振り返った時、今回自分たちは、美濃と紀伊の国を中心にめぐって来たのだと、改めて言い換えることにしました。ま、どうでもいいことなのかも知れません。

 

さて、その振り返りですが、まずは前段の美濃国巡りの所感です。これはもう何といっても、自分の予てからのあこがれというか、江戸時代きっての指導者・思想家というか、尊敬してやまない佐藤一斎先生の故郷である旧岩村藩のあった恵那市の岩村城跡とその城下町の名残りを訪ねることでした。行く前まで、そこがどのような場所なのか、全く未知の世界でした。一斎先生は藩の重役の子として江戸に生まれ、江戸に育ったということですから、もしかしたら岩村の地は第二の故郷といったところなのかもしれません。

岩村城は日本三大山城の一つといわれるほどに厳峻な石垣を巡らした城郭の跡が残っていました。さほど規模の大きな城とは思えませんでしたが、戦国時代の拠点としては重要な場所だったのではないかと思いました。車での移動でしたので、城と城下町とのつながりが良く解らず、地理的にかけ離れた印象があり、これは簡単に通り過ごしてしまうというくるま旅の欠陥なのかもしれません。今度訪ねる時は、城下町から城跡まで歩いて見ようと思っています。

国の重伝建指定の岩村の城下町は、巧みに水路を巡らした町屋が続いていましたが、先人の町づくりの優れた技術を垣間見ることが出来ました。町の中には至る所に一斎先生のことばを書いた札が幾つも掲出されていましたが、さて、これらのことばは現代人にどのような気持ちで受け止められているのかと、ちょっぴり気になりました。

美濃国では、この他に美濃市の美濃町エリア、郡上市の郡上八幡地区という二つの重伝建地区を訪ねましたが、それなりに日本の昔が残っており、存分に町歩きが出来て満足しています。このほか、予定していた岐阜城へ登ることが出来なかったのが心残りですが、これは次の機会の楽しみというものです。

 

次に、今回のメイン目的の紀伊国の熊野詣の跡を訪ねるということについてですが、平安時代の昔から貴顕の人々を初め一般大衆までもの多くが、何故、かくも厳しい熊野路を辿ったのか? という疑問の解に近づくのが真の目的でした。

この疑問を解くためには、二つの条件を満たす必要があります。その一つはその時代の人々の生きざまを深く思うこと、すなわち古代から近代までの歴史の変遷をしっかり辿ることであり、もう一つはその厳しい旅をしっかり追体験することだと思います。ということは解っているのですが、実際のところ、この二つの条件を満たす能力は元々備わっていないので、まあ、かなりいい加減な理解にしか至らないのだと思いますが、それなりに一応の結論めいたものを得て戻ってきた感じがしています。

それを一言でいうと、「旅がしたかったから」となるのではないかと結論しました。あまりにもラフないい方だと承知していますが、旅の本質というのは「非日常の世界の中に身を置き、己自身に気づくこと」と考えると、どうしてもそのような結論に至るのです。

熊野詣が始まった平安時代の頃は、治世の中核に居た天皇を初めとする貴族階級の人たちにとっては、穏やかならぬ心地のする毎日が続いていたのではないかと思われます。それは今まで自分たちの指示命令に従って諾々と警護の役を担っていた武士と呼ばれる階層の人たちが、その武力をもって政治の主役に躍り出ようとしていた時代でもあったからです。既成権力の崩壊がじわじわと忍び寄るのを感ぜずにはいられなかった筈です。

そのような時代背景のもとでは、貴顕の人々は、幾つもの不安に取り巻かれた都での暮らしから離れ、極楽浄土への生まれ変わりを信じ、求めて、熊野の神々に願ったのかもしれません。熊野の厳しい山川を修行者のように難行苦行して歩きながら、旅路の先に待ちうけてくれている救いの光を求めて行ったのだと思います。

しかし、その旅の実態は神頼みなどではなく、自らに課した難行・苦行の修練を通しての自己発見だったのではないか。そう思えてなりません。一度の体験では満たされなかった人は、もう一度と願ったのかもしれません。しかし、後白河上皇のように30回を超える御幸となると、これはもう熊野詣はある種の形式であり、その本質は旅だったといえるような気がします。蟻の行列といわれるような御幸の姿は、神への請願というよりも、詣でに名を借りた一つの旅の形となっていたのではないか。そう思うのです。

その後にも時代を超えて延々と続いたこの旅の形は、一般大衆を飲み込み、伊勢参りと併せて、信仰に名を借りたこの国の旅の基本コースとして定着していったのではないか。そのように思えてなりません。四国八十八カ所巡礼の旅や西国三十三観音、或いは坂東三十三観音、秩父三十三観音巡り等の旅は、より宗教色の濃い旅だったと思いますが、熊野詣と伊勢参りはその歴史が古い分だけ、旅そのものを楽しむという、人々の願いを満たすものとなって行ったような気がします。

 

旅がしたい」という願望は、生き物の本能の様な気がします。動物というのは、文字通り「動く物」であり、動くことによって生命を躍動させ、新たな環境の中に己自身を適応させながら生きてゆく存在だと思うのです。動くことによって生命を躍動させるという行為が旅なのだと思います。これは人間にとっても本能の一つであり、それゆえに人は誰でも旅にあこがれるのではないかと思うのです。昨日とは違う今日の中に自分を置いて見つめることが旅の本質であり、そこに新しい自分を見つけたいと願うのが人間なのではないでしょうか。この本能を捨て去ることは出来ないと思います。旅の実現が叶わなくても、人は夢としてその願望を忘れることはない、そう思うのです。平安時代の熊野詣も、現代のツアーの旅も、くるま旅も、皆同じ旅の本質でつながっているのです。このことを改めて感じた美濃・紀伊国探訪の旅でした。

 

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‘15年 南岐阜・紀州の探訪の旅 レポート <第24回(最終回)>

2015-12-07 05:31:59 | くるま旅くらしの話

【昨日(12/06・日)~最終日のレポート】      

<行程>

駿河湾沼津SA →(新東名道・東名道)→ 足柄SA →(東名道)→ 海老名SA →(東名道・首都高速道・湾岸道)→ 習志野IC →(R14他)→ 母見舞→(R16他)→ 自宅 走行217km    

<レポート>

天気:晴後曇り

いよいよ旅の最後の日となった。今日は家に直行するのではなく、千葉の相棒の母を見舞い、それから家に向かう予定である。

駿河湾沼津SAの一夜は快適だった。新東名道のSAに泊るのは初めてだった。ここはトラックと一般車の駐車場所が別れて造られており、夜間の騒音も少ない。駿河湾を眼下に一望できるロケーションは、この路線随一の眺望を誇ると言っていいと思う。朝の日の出ごろは、少し雲がかかっていたが、光り眩しい広がりの空間は、それでも素晴らしい眺めだった。人気の場所らしく、昨夜はかなりの車がここで一夜を過ごしたようである。

9時半過ぎ出発。御殿場からは元の東名道に入り、箱根近辺の長い坂を下って、小田原、厚木を過ぎて海老名SAで一息入れ、東名道の終点を過ぎ首都高へ。久しぶりに都心を通り抜けて、湾岸道に入り湾岸習志野ICで下りて、一般道へ。その後昼食などを済ませ、14時過ぎ母のお世話になっている特養老の施設に。10月末の訪問から1カ月余り経っての再訪だった。熊野の神々に何度も願ったのだが、母は依然寝たきりの状態で、それを見るのは哀しかった。十数年前には母も一緒に西国三十三観音めぐりをしており、今回の旅ではその第一番の那智の青岸渡寺を訪れている。複雑な思いで施設を後にする。

そのあとは、ひたすら家路を辿る。途中で最後の給油を済ませ、家に着いたのは、16時20分だった。孫たちが笑顔で迎えてくれた。1カ月近くも留守にしたので、知らぬ顔をされたらどうしようと思っていたのだが、安堵した。一先ずの荷物運びが終わったのは19時近くだった。整理などは明日に回すことにして、旅の錨を下ろすことにした。

23日間、走行3,187kmの旅だった。熊野の神々とそれを訪ねた平安の昔からの人々の心が、何を求めていたのか、それなりに少しは解ったような気持になってはいる。未だ、戻ったばかりでそれらについての整理は出来ていない。追って、まとまったら報告することにして、しばらくはブログを休み、年末にかけての諸々の仕事に取り掛かることにしたい。一先ず今回の旅のレポートを終わることにします。

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‘15年 南岐阜・紀州の探訪の旅 レポート <第23回>

2015-12-06 04:46:56 | くるま旅くらしの話

【今日(12/06・日)の予定】 

 駿河湾沼津SA →(新東名道・東名道・首都高速・湾岸道)→ 湾岸習志野 →(R14他)→ 千葉市内母見舞 →(R16他)→ 自宅

 

【昨日(12/05・土)のレポート】

<行程>

 道の駅:農匠の郷やくの →(R9)→ 山東IC →(北近畿豊岡道)→ 春日IC →(舞鶴若狭道)→ 吉川JCT →(中国道)→ 神戸JCT・吹田JCT→(名神道)→ 草津JCT →(新名神道)→ 亀山JCT →(東名阪道)→ 四日市JCT →(伊勢湾岸道)→ 刈谷HO →(伊勢湾岸道)→ 豊田JCT →(東名道)→ 三ケ日JCT →(新東名道)→ 駿河湾沼津SA(泊)   走行503km    

<レポート>

天気:晴

今日は只管(ひたすら)の移動日である。特に書くこともなし。京都は福知山市の夜久野の道の駅を朝の8時半過ぎに出発して、目指すのは静岡県の御殿場市にある高速道の足柄SAである。今日は高速道ドライブの日と言っても違いない。とにかく安全運転で目的を達するだけである。いろいろな不慣れな高速道を通るので、事前に一応はルートなどを調べて頭に入れてはいるけど、自信はない。関西エリアの高速道網は、耳慣れない地名が多く、また名は知っていても土地勘がないので、一度間違えると、とんでもないことになりかねない。緊張の連続の運転だった。

とにかくいろいろな高速道を通って、最終的には東名道に入り、三ケ日JCTから新東名道に入り駿河湾沼津まで来て17時近くとなり、今日はここに錨を下ろすことにした。少し先の足柄SAまで行ってもいいのだが、暗くなっており、こちらの新しい施設の方が何かと便利な気がして、無理をしないことにした。もう今日だけで500キロ超の走りとなっている。

旅も明日で終わりとなる。最終ステップで、とんだ高跳びをして山陰の方まで行ってしまったが、振り返るとこの季節の山陰への高跳びは、冷や冷やの気持に揺す振られた。関東とは大分違い、いつ雪が降ってもおかしくないし、道路が凍結するかも判らない冬なのだった。しかし、今回はラッキーなことに強風と雨だけで済んで、その分だけ知人ご夫妻とたっぷり歓談して心を温めることが出来た。熊野詣の跡を訪ねた印象などについては、追って、じっくり振り返ってみたい。とにかくまだ帰着までの行程が残っており、今日も安全運転に徹して家路を辿りたい。

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‘15年 南岐阜・紀州の探訪の旅 レポート <第22回>

2015-12-05 06:49:33 | くるま旅くらしの話

【今日(12/05・土)の予定】 

 道の駅:農匠の郷やくの →(R9・高速道)→ 未定(どこかの高速道SAにて宿泊予定)

 

【昨日(12/04・金)のレポート】

<行程>

 米子市内・知人宅 →(R431・山陰道・R9)→ 道の駅:大栄 →(R9・山陰道・R9)→ 道の駅:いわみ(岩美) →(R9)→ 道の駅:農匠の郷やくの(泊) 走行193km

<レポート>

天気:強風時々雨後晴れ(異常気象なり)

今日からは帰途一筋となる。昨夜から朝まで猛烈な風と雨で、もしかしたら雪など降ったら困惑するなと気が気でない一夜だった。朝になっても収まる気配がなく、心配は消えなかった。今日は、9時頃には出発することにして、早く安全なエリアに行けるようにと考えた。Aさんが、わざわざご子息が経営されているレストランにご案内頂き、本格的な朝食を頂戴した。弓ヶ浜の展望台近くの最高のロケーションのお店だった。ご子息は海大好き人間らしく、お店の雰囲気も国際的な海に係わる絵画等に溢れていた。

9時半少し前に出発となる。給油をした後、米子ICから山陰道へ。強風が吹いているので、かなり神経を使う走行だった。遠く、近くに見える日本海は、白く泡立つ波を吹いて、尋常ならぬ様相を呈しているのである。時々突風に見まわれて、風に弱いSUN号の運転は、生きた心地がしないほどだった。山陰道は未完成で、ところどころ一般道につながっている。1時間ほど走って、道の駅:大栄に寄る。ここは気にいっている道の駅の一つで、漫画のコナン君の作者青山剛昌氏の出身地らしい。道の駅の構内にコナン君の銅像がある。この道の駅には高品質の安価な野菜類がたくさん並べられている。セロリと山芋などを買い入れた。直ぐに出発する。鳥取を過ぎて、少し行くと岩美町という所があり、そこに新しい道の駅が出来ていた。嬉しいことにもう諦めていた、鯖の串焼きやボタンエビそれに美味そうなイカの煮付けなどが売られていて感激した。相棒は松葉ガニをゲットして嬉しそうな顔をしていた。

その後は、少し走って昼食を道の駅:村岡ファームガーデンという所で摂る。面倒なので、外食にした。ここは但馬牛のふるさととか言われる場所で、子牛を育てる牧場があるらしい。自分は牛肉には関心がなく、ただ牛たちが可哀そうと思うだけなのだが、相棒はそのような発想は全くなく、その但馬牛なるものには多大なる関心を示していた。自分は試みに但馬牛の重ねソースカツ丼というのを食べて見たが、会津のソースカツ丼の方がずっといいなと思っただけ。相棒は但馬牛のハンバーグを食べていたけど、どうだったのかは判らない。

少し休憩した後、今夜の宿を予定している道の駅:農匠の郷やくのに向かう。途中ハチ高原というのがあり、近くにスキー場もあるようなので、雪など積もっていたり凍結していたりしたらどうしようかと思ったりしたのだが、全くの杞憂だった。どうやらスキー場はかなり山の奥まった所にあるらしい。峠の下のトンネルを潜り坂を下ると、養父市のエリアに入る。養父を「やぶ」と読める人は、関西でもこの辺りの土地勘のある人だけなのかもしれない。間もなく道の駅:ようか但馬蔵があり、ちょっと立ち寄る。ここには直ぐ上方に日帰り温泉施設があり、何度か泊ったことがあるのだけど、今日はパスすることにした。直ぐに出発する。

間もなく朝来市エリアに入る。朝来と書いて「あさご」と読む。これも難しい地名の一つである。先の熊野詣での跡を訪ねる旅では、田辺市に同じ字を書いて「あっそ」と読む所があった。朝来市は日本のマチュピチとか言われている竹田城跡がある所でもある。今回は寄るのは止め、パスすることにしている。明日は高速道路の通行となるので、もう一度給油をしておくことにした。

道の駅:農匠の郷やくのには15時少し前に到着する。ここに泊る最大の理由は、優れた温泉があるからである。早速入りに行く。1時間ほどかけて今日の緊張とかなりの寒さをほぐすことにした。昨年もここへ来ているので、1年ぶりの温泉を味わうことになるのか。ほど良く温まって、満足して車に戻る。そのあとは、ビールで一杯やって、いつものホロ酔いの世界となる。明日はずっと高速道路の通行となるので、今夜は熟睡が必要だ。間もなく、寝床の中へ。おやすみなんしょ。

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‘15年 南岐阜・紀州の探訪の旅 レポート <第21回>

2015-12-04 06:19:09 | くるま旅くらしの話

【今日(12/04・金)の予定】 

  米子市内・知人宅 → 未定(京都方面へ)

 

【昨日(12/03・木)のレポート】

<行程>

 終日米子市内知人宅

<レポート>

天気:風雨断続的に強し

終日、米子市内在住のAさん手づくりの特別室にて歓談しながら過ごす。特に報告すること無し。

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‘15年 南岐阜・紀州の探訪の旅 レポート <第20回>

2015-12-03 03:33:37 | くるま旅くらしの話

【今日(12/03・木)の予定】 

  米子市内・知人宅 → 未定

 

【昨日(12/02・水)のレポート】

<行程>

 勝央SA →(中国道・米子道)→ 米子IC →(R431他)→ 皆生温泉共同浴場 →(R431他)→ 境港市・水木ロード散策 →(R431他)→ 米子市内・知人宅 (泊)  走行 137km

<レポート>

天気:晴れ後遅く曇り後雨 

今日からは、今回の旅の枠を外れた気ままな予定なしの時間である。従って、特にレポートすることもないのだが、未だ帰着したわけでもないので、今回の旅の付録として、一応報告をすることにしたい。

昨日は高速道での3回目の宿泊だった。中国道の勝央SAに泊るのは、勿論初めてのことである。トラックの騒音が問題なのは初めから覚悟していたのだが、これは予想以上のものだった。小型車のレーンにずらりと並んだ大型トラックの連中は終夜エンジンを掛けっ放しで、排気ガスを出し続けていた。運送で生業を立てている人たちには、うかつに文句は言えないけど、環境汚染などを考えると、国は何らかの施策を考えるべきではないかと、改めて思った。美濃加茂SAの時は、雨も降っていて、トラックの数も少なかったし、きちくまのの道の駅は新しくて殆ど泊る車はいなかったので、騒音のことは気にならなかったのだが、さすが老舗の中国道では、そんな甘い捉え方は成り立たなかった。それでも、最近のトラックは排ガス規制があって以降はかなり静かになっていて、救われる感じがした。

朝になって外を見ると、一面の霧だった。岡山県の津山市近くのこの辺り、その昔の美作の国一帯は、この季節は温暖の差が厳しくなっていて、朝になると山間を流れる幾筋もの川から霧が湧きだし、それが一帯を白く埋めるのかもしれない。霧はなかなか晴れず、出発の9時近くになっても一向にそのままの状態だった。ライトを点灯させての出発となった。今日は米子在住のAさん宅をお邪魔するのだが、米子に着いたら、まずは皆生温泉の風呂に入り、その後少し眠って、午後15時ごろにお邪魔するつもりでいる。

霧の中を走って、しばらくして山間部に入り、幾つかのトンネルを潜って行くと、突然霧の無い陽の射す世界が現出した。霧を遮る山を超えたのであろう。そこからはまだ紅葉の僅かに残る光の眩しい世界が続いた。蒜山高原SAに着いて少し休憩する。ここからは雪を冠した大山の峰が遠望できた。何時見ても心惹かれる山である。一息入れて出発する。間もなく下界に降りて、米子市内海の傍の皆生温泉へ。共同浴場をネットで調べてその場所に行ったのだが、駐車場は閉鎖されており、それらしき建物も見えない。どうしたことかと誰かに訊こうとしたのだが、人の気配は全くない。ようやく付近の家の中から出て来られた人を見つけて尋ねると、何と別の場所に移ったのだという。そのようなこともあるのかと驚いた。

教えて頂いた場所へ行くと、かなり立派になった宿舎を備えた建物があり、そこに共同浴場があった。早速中に入って見た。既に営業開始の時刻は過ぎており、用具を抱えた人が入ってゆくのが見えた。料金はネットでは290円となっていたが、新しくなった浴場は400円となっていた。天下の名湯なのだから、ま、当たり前の値段かなと思った。相棒は日中の入浴は体調を崩しかねないと止めることにしているので、自分一人が行くことになる。それから1時間ほどいい湯を楽しむ。石鹼とシャンプーは備わっているのだろうと持参しなかったのだが、これがなくて困惑した。風呂に入ってから気づいたのだが、時すでに遅しである。とにかく温泉だけをたっぷり味わうことにした。

風呂から出て、一眠りしようと思っていたのだが、とんと眠りの気配はやって来ず、これじゃあ無理だと、止めることにする。相棒がどこかから「妖怪楽園」というパンフレットを持って来ていたのを見て、昨日だったか水木しげる先生の訃報を知ったので、Aさん宅からは近い境港市内にあるそこへ行って見ることにした。Aさん宅には何回かお邪魔しているのだが、未だ境港の方へはお魚市場という所へしか行っていない。いい機会だと思った。ということで、その後は境港の水木しげるロードという所に向かう。

行く途中の道々の脇には、水木先生の妖怪に関する作品のキャラクターの用語や絵などが至る所に溢れていた。米子空港は米子鬼太郎空港となっているし、境港駅も鬼太郎駅などとなっていた。何よりも驚いたのは、駅から真っ直ぐに伸びる商店街は水木ロードと呼ばれ、街路の至る所に様々な妖怪のブロンズ像が展示されていたのである。又、販売されている商品にも食べ物から各種グッズに至るまで、妖怪の名や絵が沁み渡っているのである。まずは妖怪の暖簾が下がる食堂に入り、空腹を満たす。その後は、妖怪楽園という小さなイベント広場の様な所を初め、水木ロードの左右に置かれた様々なブロンズ像を見たり店を覗いたりしながら駅までを往復した。妖怪の写真は、200枚を超えていた。これほどの仕事を残された水木しげるという人物の凄さを改めて思った。

    

水木しげるロード。JR境港駅前から600mほどの真っ直ぐに延びる商店街には、水木先生の作品、キャラクター商品が溢れている。

    

妖怪楽園の景観。水木しげるロードの終わり近い横路の奥まった所には、リアルな妖怪の著名人たちの像が並び、大人も子供も遊べる小さな広場がつくられていた。

    

等身大のねずみ男と握手する人。このような大きさの像が幾つか点在していた。

  

左:石見の牛鬼、右:こなき爺。このような小さなブロンズ像の作品が、もう数え切れないほどロードの両側や横路に置かれている。いずれも優れた芸術作品である。

やはり主役は鬼太郎さんであろう。おなじみの鬼太郎さんが、目玉おやじを手に載せて、石の上に腰かけて休んでいた。

15時近くになり、Aさん宅に向かうことにした。何度来ても入口が判らず、いつも迷うのだが、今回はどうにか一発でお宅に辿り着くことが出来た。1年ぶりの再会を果たす。そこから先はプライベートな世界となるので、このレポートからは除外することにする。「友あり遠方より来る。又、楽しからずや。」は、孔子様のことばだけど、自分はこの反対の立場であってもお互いは全く同じ気持である。

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‘15年 南岐阜・紀州の探訪の旅 レポート <第19回>

2015-12-02 01:34:12 | くるま旅くらしの話

【今日(12/02・水)の予定】 

勝央SA →(中国道・米子道)→ 米子IC →(R431他)→ 皆生温泉共同浴場 →(R431他)→ 知人宅 

 

【昨日(12/01・火)のレポート】

<行程>

 道の駅:明恵ふるさと館 →(県道他)→ 湯浅町重伝建地区他探訪 →(R42他)→ 藤白神社参拝

 →(R42)→ 海南IC →(阪和道・中国道)→ 勝央SA(泊) 走行275km

<レポート>

天気:晴れ時々曇り 

朝になった。昨夜寝床の中でいろいろ考えた結果、五体王子の一つの藤白王子を参拝のあとは、長駆足を伸ばして、鳥取県は米子市在住の知人宅を訪問することに決めた。もはや、当初の旅の予定とは全く違う思いつきの行動である。米子市は弓ヶ浜地区に住むAさんは、旅で知りあった大切な知人の一人である。否、一人ではなくご夫妻である。毎年夏の北海道の旅でお会いしているのだが、今年は自分たちが行けなかったので、お会いすることが出来なかった。それに、ご夫妻は北海道行を年齢のことなども考えて、今年で休みとすると聞いている。となると、来年は会うことが叶わなくなるので、思い切ってお邪魔することにした。その旨メールをすると、電話がかかって来てOKとのこと。それで、決断した次第。

まずは、朝食の後この道の駅の近くにある明恵上人生誕の場所を訪ねることにする。この道の駅には何度も来ているのだが、まだ一度もそこを訪ねたことが無かったのである。道の駅:明恵ふるさと館の明恵(=みょうえ)というのは、法華宗の中興の祖といわれる明恵上人の生誕地がこの地であることから名付けられている。明恵上人は、京都栂ノ尾にある高山寺に住まわれ、木の上に坐して悟りを開いたと言われている。この地には随所にその所縁の地が残されている。その生誕の地には、小さな碑があるだけだったが、発掘調査では、何度か上人を祀る建物などが建てられたらしい。改めて宗教の持つ力の凄さを知った。いい時間だった。

    

有田川町はミカンの一大産地である。有田川に沿って、平地も山もミカン畑で埋まっている。町中を行き交う軽トラの殆どがミカンを入れる箱を積んでいる。今はその最盛期。

    

明恵上人は、この金屋町に生を受け、9歳の時までこの地に育ったという。その屋敷跡の片隅に生誕の碑が建てられていた。

その後、昨日注文していたミカンを手に入れ、まずは重伝建地区のある湯浅町を訪ねる。ここは何回か来ているけど、熊野詣の時代には唯一の宿場町として栄えたとのこと。町の中には熊野古道の跡も残っている。今日は町中の散策は止め、いつも手に入れている金山寺味噌を、いつもの店で買い入れるのが主目的。太田久助という名のその店の金山寺味噌はただの味噌ではなく、いろいろな野菜類が入っていて、格別の味なのである。まずはこれを手に入れて、次に海南市の藤白神社に向かう。

藤白神社は、海南ICの近くにあった。車を留める場所がなく、やむなく少し広がりのある空き地に置いて、参拝した。藤白神社は境内の広い立派な佇まいだった。ここはその昔の五体王子の一つの藤白王子のあった場所である。往時がどのような景観だったのか、想像を膨らませても追いつかない感じがしたが、恐らく海の近くの崖近くの細道の際にあったのであろう。その昔の貴人たちはどんな思いでこの地で熊野の神を思ったのであろうか。

    

海南市の高速道路IC近くにある藤白神社。これで五体王子社の全てに参拝することができた。

その後は、もはや移動専念の時間。高速道に入り、ひたすら米子を目指す。しかし、どんなに急いでも今日の陽のある内に着くのは無理。無理をせずに今夜は高速道のSAにて泊ることにする。岡山県に入り、勝央SAという所で、早や16時半近くになってしまったので、ここに錨を下ろすことにした。

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‘15年 南岐阜・紀州の探訪の旅 レポート <第18回>

2015-12-01 02:02:50 | くるま旅くらしの話

【今日(12/01・火)の予定】 

  道の駅:明恵ふるさと館 →(県道他)→ 藤代神社参拝 →(R42他)→ 湯浅町重伝建地区他探訪 → その先未定

 

【昨日(11/30・月)のレポート】

<行程>

 道の駅:くちくまの →(紀勢道)→ みなべIC →(R42)→ 切目王子参拝 →(R42他)→ 道成寺参詣 →(R42・県道)→ 道の駅:白崎海洋公園 →(県道・R42)→ 道の駅:明恵ふるさと館(泊) 走行103km

 <レポート>

天気:曇り後晴れ 

高速道路脇の一夜は、思ったよりも静かで、眠りには何の支障もなかった。紀勢道はまだ開通しているのは田辺とすさみ間だけであり、この区間は現在無料で通行できる。そのような状況なので、夜間に通行する車は少ないのであろう。このままであって欲しいと思うけど、そうは行くまい。朝の内は天気が定まらず雲の多い空だった。予報は晴れなので、大丈夫だろうと思った。次第に朝の空気が冷たくなって来ているのが分かる。もう明日からは12月なのである。

さて、今日の予定は王子社が二つとあとは日の岬と道成寺の参詣である。泊りは少し山の中に入って、San Pin中津という道の駅を予定している。8時40分出発。高速道路を走って無料区間は直ぐに終わり、阪和道の一区間を走りみなべICで下りてR42へ。南部(みなべ)は、日本一の梅の産地である。高速からも又降りてからも辺りは見渡す限りの梅林だ。花の季節にはこの辺りは馥郁とした香りで満たされる世界となるのだろうなと思った。R42を少し走って、切目という地区にある五体王子社の一つである切目王子社を探す。地図では道の左側傍というように記載されていたので、直ぐに見つかると思っていたのだが、そのような建物などは一切なく、通り過ぎてしまった。どうしようか迷ったが、折角の五体王子社なので、もう一度来た道を戻り、ようやく探すことができた。社は道の左ではなく、細い道を少し中に入った高台の森の中にあったのである。見方が悪いのか、地図がいい加減なのか、どちらなのか解らないが、困ったものである。それでもどうにか参拝が出来て良かった。

    

五体王子社の一つ、切目王子社の佇まい。照葉樹の森に囲まれて静かにその昔を偲ばせていた。ここではかつて後鳥羽上皇は歌会を開き、護良親王は一夜の宿を過ごされたという。千年以上もも前の話である。

その後はもう一つの王子社の塩屋神社を目指したのだが、これは見つけることができずパスすることにした。御坊市に入って、日の岬に行く前に道成寺に参詣することにして向かう。ここは彼の安珍・清姫伝説の舞台の場だった所である。それらしき場所の案内があったが、伝説がどんな真実を伝えるのか良く解らない。このような時はとにかく何でも信じる事にしている。境内には珍しい槙柏の大木や御神木のクスの老樹などがあった。三重塔も貫録を見せて聳立していた。名刹の風格のあるお寺である。

    

道成寺の仁王門。国の重要文化財に指定されているこの山門には、二対の仁王様が睨みを利かせている。

    

道成寺の本堂。境内の中央にどっしりと構えた造りの建物だった。

    

道成寺の三重塔。周辺には安珍・清姫物語の所縁の場所とされるものが幾つかあった。

参詣のあとは、日の岬に向かうつもりだったが、その前に白崎海岸という所にある道の駅:白崎海洋公園という所に行って、昼食にすることにして向かう。曲がりくねった道を上り下って、海に出て海岸をしばらく走ると、前方左側に白い巨大な岩が海の中に立っているのが見えた。更に進むとその先により巨大な白い岩が海にせり出た場所があり、そこの中に広場が造られ、道の駅とキャンプ場などがあった。雰囲気的には宮古の浄土ヶ浜の感じがしたが、こちらの岩は白いと言っても浄土ヶ浜には及ばないようだ。車を留めて外に出ると、売店の方からわけのわからぬ音楽がドでかいボリュームで流れていた。壁に取り付けられたスピーカが特大音でガ鳴っているのである。少しもくつろげる状況ではなかった。たまりかねて、事務所に行き、もう少しボリュームを下げてくれるように頼んでみたのだが、さっぱりコンの表情で、笑っているのである。店の中にも同じ音楽が流れているのだが、こちらの方はボリュームを下げて抵抗なく聴けるのである。来訪者の気持など斟酌無用という対応だった。これじゃあ、どうしようもないと、ここで休むことは止めにして、別の場所を探して移動することにした。改めて地図を見たら、明日泊る予定にしていた道の駅:明恵ふるさと館が意外と近いので、今日は日の岬と道の駅:San Pin中津に行くのは止めることにして、明恵ふるさと館に行き、ミカンなどを手に入れることに変更する。この地は有田川町の一角にあり、付近は殆どがミカン山やミカン畑であり、品質の優れたミカンが安価に手に入るのである。

13時頃に到着して、そのあとはもう休養日とすることにした。ミカンを買い入れ、明日納入分の注文を済ませ、その後はグータラに過ごすこととなった。明日で熊野詣跡の探訪は一応終了となる。明日は残っている五体王子の藤白神社に参拝し、湯浅町の重伝建エリアや熊野参詣の所縁の地などを訪ねるつもりでいる。これで、今回のメイン目的はほぼ達成されたことになるので、帰途を考えることになる。さて、どうするか。一応未だ1週間ほど予定よりも時間が余っているので、ただ帰途を早めるのではなく、もう少し欲張って過ごしたいとは思っている。さて、どうなるか。明日には決めなければならない。

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