山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

蝉たちの季節

2020-08-20 17:01:18 | 宵宵妄話

今、蝉の声が姦しい。人間どものコロナ禍など少しも気にせず、樹木のある所の全ては彼らの生命が燃えたぎる世界だ。7年も地中の暗闇に暮らし、ようやく地上に出てきて、しかも翼まで与えられて、この世に生きるのにはたった7日ほどの時間しか与えられていないのだから、彼らの命の絶叫を批判するなどとてもできるものではない。

毎年蝉が鳴き出すと、ああ、もうすぐ暑い季節がやってくるなと思う。この辺りの蝉が初めて鳴くのは6月の中頃だろうか。その蝉というのはニイニイ蝉だ。小型の蝉で、平べったい、押しつぶされたような顔(身体)をしている。細い鳴き声で、「ニイ~」と鳴いている。群れれば大きな鳴き声となるが、この頃はニイニイ蝉が大合唱しているのを見たことがない。尤もニイニイ蝉の鳴き声は、単独で鳴いている方が味がある。芭蕉の「閑けさや岩にしみ入る蝉の声」の句の蝉は、このニイニイ蝉に違いないと自分は思っている。まさに岩に浸みいる鳴き声なのだ。もしニイニイ蝉ではないとしたら、次の候補はひぐらし蝉に違いない。それ以外の蝉はこの情景にはどう考えても相応しくない。そう固く信じている。

 ニイニイ蝉が鳴き始めてしばらく経って、暑さが本格化し始める頃に鳴き出すのはアブラゼミ、ミンミン蝉、クマゼミたちである。自分の育った関東北部では、クマゼミは居なかった。転勤で四国や九州に住んでいる時、その存在を知って驚いたのを思い出す。その鳴き方において、アブラゼミよりも性質(たち)の悪い蝉だなと思った。この頃は温暖化が進んだのか、関東エリアにもクマゼミが進出しているようだが、この地ではまだ見たことがない。もしアブラゼミとクマゼミが一緒に棲むようになって大合唱をするようになったら、今までの蝉に対する親愛感のようなものは一変して憎悪感ともなりかねないだろう。この地にはクマゼミは進出して欲しくない。

この辺りでは、アブラゼミとミンミン蝉が断然リードして真夏を謳歌しているようだ。一番はやはりその数と声の大きさにおいてアブラゼミ、そして個性的な鳴き方では、ミンミン蝉ということになるのではないか。同じ頃にひぐらし蝉も多いが、その鳴き方と鳴き出すタイミングが他と違って、暗くなる時間であり、いかにも哀しく「かな、かな、かな」と鳴くので、この鳴き方は別格だ。

 この三種の蝉たちの鳴き方を音楽として捉えてみると、どちらかといえば単調な大声ばかりのバックコーラスを担当しているのがアブラゼミ、その中で訴えるかのように「ミン、ミイン」とひと際高い声を上げての独唱を受け持つのがミンミンゼミ、そして一面が暗くなってアブラゼミとミンミンゼミが一時声を静めた時に、まるでお経を唱えるかのように哀しい声で鳴くのがひぐらし蝉となるようだ。

 この頃はどの蝉も数が少なくなっている気がする。元気な方から云えば、アブラゼミ→ミンミンゼミ→ひぐらし蝉となるようだ。樹木が少なくなって来ているので、真っ先に数を減らすのはひぐらし蝉の様で、鳴き声を聞くのは限られた場所だけとなっている。ミンミン蝉も以前と比べれば鳴き声も鳴く期間も狭まってきているように思う。アブラゼミだけはワイルド性が強くて、もしかしたら樹木が無くなって電柱だけになってしまっても鳴くのを止めないのかもしれない。あの油を煮立たせるような鳴き方は、生命の逞しさの証なのかもしれない。

 そして、夏の中に秋が混じり始めた頃に鳴き出すのが法師蝉だ。「ツクツクホウシ、ツクツクホウシ」と繰り返して鳴くその声は、もの哀しく、蝉たちの季節に引導を渡すかのごときである。じっと聞いていると、彼の鳴き声は、蝉たちの季節の終わりを告げる挽歌のようだ、「惜しい、つくづく惜しい」を何度か繰り返し、そして最後に「ダメだよう、ダメだよう」を2~3回繰り返して鳴き終わる。蝉たちは涼しくなりだしたら、もうダメなのだと自分たちの生命の終わりを予知し、それを謳う役を担っているのが法師蝉なのだろう。

 人間はこのセミたちの季節に耳を傾けながら、それを歓迎しつつもこの季節が終わるのを待っている。道端に命尽きた蝉たちが幾つも転がっているのを見ていると、少し複雑な気持ちとなる。蝉たちに対しては不遜だけど、この炎暑の季節はそろそろ退散して欲しい。そして、新型コロナという悪魔にも天は引導を渡して欲しいと願っている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦後75年に想う

2020-08-15 01:22:00 | 宵宵妄話

 太平洋戦争が終って今年は75年だという。終戦は昭和20年(1945)8月15日のことだから、昭和に換算すれば、今年は昭和95年ということになる。その時数えで5歳だった幼児は、今、傘寿を迎えた老人となっている。幼児の記憶には戦争のことは殆ど残ってはいないのだが、傘寿の老人には、戦後の歴史は決して拭い去ることが出来ない強烈な思い出として残っている。

 過去を話しするのをずっと封鎖してきた。戦後の数年間というものは、人が生きてゆくために必要最低限レベルの暮らしを余儀なくされた人は多い。悲惨な結末を辿った人も無数に居る。戦争によって何の辛酸も舐めなかった人がいたとしたら、それはまさに国賊と唾棄してもいい存在だ。そのような人を見たことも聞いたこともない。家族の誰かを失った悲しみに明け暮れ、生きていても食うや食わずのあの惨めな辛い時間を思い出すと、とても過去を話す気にはなれなかった。

 戦後75年が経って、この間時代は昭和が終わり、次の平成も去って、今は令和となっている。あの敗戦後の極貧の暮らしの時代から、日本国は奇跡の復興を遂げ、50年後は、もはや戦後ではないと宣言し、経済面では世界を動かす実力を保持するようになった。人々の暮らしも豊かになった。子どもの頃は、自分が自家用車を保有することなど夢のまた夢だった。それが今は一人1台保有が当たり前の家も多い。たった75年間でこれほど世の中が激変した時代は、日本国の歴史でも稀有なことではないか。

 傘寿となった老人が過去を少しばかり振り返って、現在のあり方をコメントするのもいいのではないかと思った。

75年前、このような時代が来るとは思わなかった。惨めだった分だけ豊かさを求める気持ちは強かったが、自分が生きている間にそれが実現するとは思えなかった。しかし、現実の今は、夢だったレベルをはるかに超えてしまっている。こんな時代が到来するとは想像もできなかった。

江戸の幕末から明治維新を経て大正、昭和という時代の推移は、これも確かに激変の時であったけど、人々の普段の暮らしの流れは、今に比べれば、はるかにゆったりしたものだったと思う。祖父母や両親の考えに学ぶことも多く、従うのにそれほどの抵抗は少なかったと思う。世代を引き継いでの生き方に、断絶感を抱くようなことは少なかったのではないかと思う。

しかし、今の世は親子の間でさえ、考えも暮らし方にも断絶感がある。例えば、親が、大人になった我が子に対して自信を持って説教するという行為が受け入れられる世界は殆どない。ましてや爺さまが大人の孫に説教出来るケースなど稀有であろう。親父も爺さまも時代遅れなのだ、つべこべ言うな、というのが大人になった子どもの普通の心情なのではないか。表立っても親やジジババをバカにしている子も多いのではないか。従順そうでも、内心では親の考えは古い、と断じているのが普通であろう。

尤も、どんな時代でも子が成長の過程で親の考えを古いと思うようになるのは、これは人間の特性とも言うべきものであり、親の言う通りに従ってばかりいる子がいたとしたら、それは異常というものであろう。

戦前の暮らしの考え方と現在の考え方の違いはどこから来ているのか。簡単にいえば、暮らしのバックグラウンドの激変にある。耐乏の時代を経て高度成長期を迎え、経済的な豊かさが一気に膨らみ、オイルショックなどを経験したとはいえ、貧しさが戻った訳でもなく、加えて高度情報化社会の到来は、国内のみならずグローバル化を急速に進展させた。この一連の流れの中で、人々の暮らし方も考え方も大きく変化したのだと思う。それらの変化について行けない親は多い。知識も要領も不得手の親世代との間に断絶感が生まれるのは当然の帰結なのかも知れない。

そう、問題なのは、この75年間で生まれている世代交代の断絶性なのだ。環境変化の激変により親と子の生き方や価値観の共有部分が大幅に減少し、つながりがか細いものとなりつつある。要するに人間としての生き方に対する考えの継続性が失われつつあり、それがあらゆる社会現象となって表出しているように思えるのだ。

戦後に生まれた考え方が、戦前の考え方の誤りを踏まえて成長し、断絶感の無いなめらかな世代交代が為されて来ているとしたら、この国の将来は保証されるといっていいのだと思う。しかし、残念ながらそのようになっているとは思えない。情報革命でグローバル化が当たり前の社会となった今の世は、次第に世界中の悪が力を増し、隠れた犯罪が増えつつあるのを感じている。

戦前までは、日本人のアイデンテティとして、それが欠点かとも思えるほどの、人倫の道ともいうべき道徳感が存在していたものが、戦後は、アメリカナイズされた理解不足の身勝手な個人主義や自由主義が蔓延するにつれて失われてゆき、他人が見ていなければ、他人に知られないならば何をやってもいいのだ、という歪んだ世の中をつくり出しているように思えてならない。

ネット社会には空想を現実化し、まともな人間をもてあそぶ行為を助長している世界が膨らみつつある。この世界では、メリットも多いけど、やがてデメリットの方が、その質においてメリットを凌ぐのではないか。即ち悪質化が進むということであり、人倫の道を歪ませるということである。

ところで人倫の道とは何か。それは他の動物では真似が出来ない本能を超えたレベルの、社会を成り立たせている基本的な考え方を厳守することである。簡単にいえば、人の世がスムースに動いてゆくために必要なルールや慣習を守り、あらゆる場面において他人を慮(おもんばか)る行為とでもいうべきか。親子であれば、あらゆる場面でそれぞれの立場を認め合い、組織内であれば、それぞれの個人の役割を認め合い、社会においては、個人と全体との関係を慮るそのような関係性に係わる考え方をいうのだと思う。

戦後75年の間に技術革新は進み、情報の溢れる時代となり、それなりの悩みや苦労はあるものの、豊かな世の中となった。戦後しばらくの、あの食うや食わずの頃を思えば、信じられないほどの物や情報の豊かさである。しかし、人々の心の世界は少しも豊かになってはいないようだ。自殺者は絶えることなく、不登校・ひきこもりなどの社会からの逃避者の増大、親殺し・子殺し・振り込め詐欺等々、人々の心の世界は、あの貧しかった時代よりも乱れて、人倫の道を蝕(むしば)んでいるかの如くに見える。

この国は、これから一体何を目ざし、どこに向かってゆくのだろうか。極貧のあの飢えの時代が、人間性がまともで良かったから戻るべきなどとは毛頭思わない。戦争は真っ平ごめんだ。防衛論が姦しいけど、専守とか先攻とかに拘わらず、戦争には絶対に巻き込まれてはならない。為政者は、世界の動きを的確に捉え判断し、是々非々を明確にした決断を下して国を運営すべきである。如何なる他国に対しても断固たるアイデンテティを示すべきであろう。他国との曖昧な妥協的関係は、たとえそれがアメリカであっても戦争に巻き込まれる契機となる危険がある。憲法改訂などしなくても、アイデンテティの確立と行使は可能な筈である。

今、この国は新型コロナ禍に見舞われて、様々な弱点を露呈している。この国の未来のために、この禍(わざわい)から学ぶべきことは多いように思う。人口の大都市集中現象は、それが人間という社会的生きものの本性とはいえ、コロナ禍はそれに重大な警告を与えているように思う。これから先、情報技術が益々進展するのは確実なのだから、都市集中を解消させる手立てを考え出し実現させる必要があるのではないか。思うに大都市集中というは、この75年間のこの国の成果の集大成であり、今その功罪が問われているのではないか。これからは偏った国土の使い方を脱却し、どこに住んでいようとも安全で安心な暮らしが成り立つような、抜本的な見直しが必要なのではないか。為政者はちまちました各論に拘るのではなく、より大きな視野に立って、国を導いてゆく責任があるのではないか。

コメントしたいことはまだまだ無数にあるのだが、今年はこのへんで止めておきたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

孫と二人キャンプに行く(その3)

2020-08-12 00:36:07 | くるま旅くらしの話

この後は帰途に就くだけです。しかし、釣りのあとの手洗いは、沼の水で洗っただけではゴカイを扱った臭いも取れないし、近くに洗う場所もないので、思い切ってもう一度昨日の大串ふれあい公園の文化財センターまで行くことにしました。というのも孫はダイダラ坊をもう一度見てみたいというので、それに応えることにした次第です。15分ほどで着いて、存分に手を洗い消毒を済ませてから、もう一度ダイダラ坊の塑像の所まで往復しました。孫も満足したようなので、いよいよ本格的に帰途に就くことにしました。

一応の予定では、常磐道をそのまま走って戻るのではなく、一般道(R6)を石岡市まで行って、ショッピングモールで弁当を買って食べ、その後は近くのICから常磐道を利用することにしていましたので、その行程に従うことにしました。大串ふれあい公園からは、R51で水戸市方面へ向かい、途中からR6に入って石岡市方面へ。1時間と少しで目的のショッピングモールに到着。この間の車の中では、孫は大声で歌を歌うなどして一人盛り上がってのご機嫌でした。普段あまり孫の歌など聞いたことが無かったので、少し驚くと共に浮かれ気分となると大きな声で歌を歌う、普通の子どもなのだと安心したりして、ジサマもいい気分になりながらの安全運転でした。

ショッピングモール内のスーパーに入り、孫に自由に食べ物を選ばせることにしました。何を選ぶのかなと思っていたら、何と選んだのは鮭のおにぎり1個と何やらジュースのようなものとあとは麦茶だけでした。質素な暮らしをしているのか、それとも欲がないのか判りませんが、この選択は少し意外でした。自分の方は普通の弁当を買って車に戻り、二人でこの旅の最後の食事をしました。

一休みのあと、再びR6を走り、千代田・石岡ICから常磐道に入り、30分ほど走って谷和原ICで降りて、我が家到着は12時半過ぎでした。予定では15時頃の帰宅としていましたので、家族は少し早い到着に驚いたようでした。車の外に出ると、炎暑としか言いようのない暑さが襲って来て、こりゃあ早く帰って来て良かったかなと思いました。家に入ると孫娘に、「ジイジお疲れさまでした」、と声をかけられたのにはびっくりすると共に妙に嬉しくなりました。この児も一緒に行きたかっただろうに、親に教わったセリフであったとしても、笑顔でそう言われると、益々可愛ゆさが増すのを抑えることはできません。(疲れてなどいないけど、ありがとう)という気持ちが膨らみました。かくて、たった2日だけの孫との二人旅は終わりを告げました。

 

さてさて、短い旅が終わって、心地よい疲れを味わいながらこの旅の振り返りをしたいと思います。何しろ孫とは、お互いに生まれて初めてのコンビの旅なので、旅の3つのステージ、即ち前楽・現楽・後楽という楽しみは絶大なものでした。

先ず前楽ですが、これは主としてジサマの準備の楽しみだけで、孫の方はただただ待つだけの楽しみだったのかもしれません。ジサマの方は、あれこれと準備に思いを巡らし、今までの旅で使っていた用具などが古くなっていたので、これを機にかなりの物を新しく買い揃えました。それらを並べてみると、

・スクリーンテント(サイズ3.2m四方)・アームチエア・焚火グリル台・火消壺・ランタン・キャノビポール・補助ペグとロープ・バスケット・釣り用小物用品・水汲みバケツ等など、その他に食材関係として・米・そうめん・肉・ウインナーソーセージ・トウキビ・カボチャ・サツマイモ・リンゴ・砂糖・シナモン・玉ねぎ・各種タレ類・パン・チーズ・牛乳・卵等とそれらの調理に伴う用具類などでした。当日に抜かりがないようにと、細心の注意を払いながらの調達は楽しいものでした。これらのコストはたった二日足らずの旅としてはかなり高いものとなりましたが、その効果は無限ともいえるもので、数値などで表示できるものではありません。

又前楽としては旅の行程をつくることも楽しいものでした。孫にどんな体験をさせてやるか、あれこれ思いを巡らし、些か盛沢山で、うっかり三密を忘れてしまったメニューもありましたが、改めて茨城県の地図を詳細に眺めて、どこかいい場所がないかを探すのは実に楽しい仕事でした。結果的には1,2箇所しか行けませんでしたが、自分の頭の中では、茨城県について今まで気づかなかった新しい発見が幾つかあり、それは今後の自分自身の旅に役立つものとなりそうです。

現楽というのは旅の現実そのものを楽しむことですが、それはもう、ここに記した通りのことであり、この二日間の孫と一緒の時間の全てに亘って満ち足りていた楽しさです。

そして後楽は今これを書いている、旅の全行程の思い起こしと記録の整理なのです。これから先あの世に行くまでの間、思い出してこの記録を読む度に、この時の孫との旅の楽しさを味わえることになるのです。

さて、旅の楽しみのことはこれくらいにして、初めて孫と一緒に過ごして見て、少し気になったことがあります。それは孫との会話の中で何か違和感を覚える彼の応答があったからなのです。二つあって、その一は何か注意したり、説明しようとすると、「分かっている、知っている」という応答が即座に返って来ることです。例えば、トイレに一緒に行って用が済んで、「手をきれいに洗わないといけないよ」と言うと、「わかっている」と返ってきますし、魚釣りの場で「リールはゆっくりと静かに巻くのだよ」と話すと、「うん、知っている」と返ってくるのです。必ずしも間違いではないのですが、期待しているのはそのようなことばではなく、「ハイ!」という返事です。知っているというので、試しに何故なのか?と聞くと、多くの場合「わかんない」となります。どうやら「ハイ」ということばをあまり使いたがらないようです。何でもないようなことでも、大人であっても「わかっている、知っている」といいながら、実際は良く分かっていないことが結構多いのですから、安易にわかっているとか知っているということばを使うのは、問題だなと思いました。それで、そのような場面に出合った時は、「ハイ、と言え!」とやや強制的に注意することにしました。このジサマは頑固ジジイでもあるのです。

それからもう一つは、時々「実は,‥‥」という言い出しをすることです。まるで内に秘めていたことを告白するかのように、急に大人びた言い回しで、時々このことばを使うのです。何か特別なことでも話すのかと、思わず身構えると、大したことない当たり前の内容なのです。学校へ通うようになって、こども達の間ではこのような会話の用語が使われているのかと思いました。面白いなと思えば面白いのですが、こんな小さな時から「実は,‥‥」などと妙に告白めいたことばを使うのは如何なものかと思いました。これについては、何も注意はしていませんが、やはり少し気になっています。

その他、家にいる時の孫は、ややオッチョコイで先走り傾向のある少し落ち着きのない子どもだと思っていましたが、二日間あれこれと話をしている内に、見かけよりはずっと芯があり、ものの判断もしっかりしているのを知り、安心しました。

考えてみれば、孫は未だ6歳でジサマは傘寿。74歳もの差があるのです。考えや生きて来た環境にギャップがあるのは当然の又当然です。今から一々ことばの切れ端など気にしてもあまり意味がないなと正気に戻りました。孫にはこれからの時代を可能な限り大らかに健康に生きて欲しいなと思いました。ジサマは生きていて元気な限り、機会をとらえてこれからもキャンプや旅に連れていきたいと思いました。初めての小さな二人旅は、とても稔り多いものでした。(おわり)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

孫と二人キャンプに行く(その2)

2020-08-11 02:52:12 | くるま旅くらしの話

さて、まず最初の仕事はテントの設営です。テントは寝るためのものではなく、食事やくつろぎ用のスクリーンテントです。これは新しく購入したもので、何軒か専門店を回って探してもなかなか気に入ったのが見つからず、少し大きそうだけど我慢して購入したものでした。何しろ使用するのは今日が初めてなので、果たしてうまく設営できるか少し心配がありました。孫にも予め手伝うように話してあったので、本人はやる気十分で僕も手伝うと大張りきりでした。ところがいざ取り掛かってみると、以前使っていたワンタッチタイプではないため、やり難いことこの上もなく、真に面倒な仕事となりました。孫に柱となるポールを抑えてくれるように頼んでも、かなりの重量があるため、テントに振り回されてふらふらしてなかなか定まりません。何度もやり直して、どうにかそれらしき姿になるまでには1時間もかかってしまいました。何しろ猛暑なのです。オートキャンプの指定区画は四方を樹木に囲まれた極上の環境なのですが、全くの無風で少し動いただけで汗が滲んできます。途中で投げ出したくなる気分でしたが、孫の前でそんなことが出来るわけでもなく、出来上がった時には全身汗まみれといった状況でした。

 一応それらしき基地が出来上がったので、車に戻って着替えを済ませ、二人で広い公園の中を散策することにしました。ここの自然公園は、涸沼の脇の小高い丘にあり、豊かな森や林に囲まれています。その中に散策の道が何筋かつくられており、樹木たちに日差しが遮られて、暑さを避けて歩くことが出来ます。1時間ほどゆっくりと散策を楽しみました。孫と手をつないで歩く気分は、傘寿のジサマにとってはこの上もないありがたく嬉しいことでした。

 散策を終え、基地に戻り夕食の準備に取り掛かりました。といっても未だ15時を少し過ぎたばかりです。夕食はバーベキューにすることに決めていましたが、16時ごろから取り掛かればいいと考え、その前にTVの設定をすることにしました。ところが地デジもBSも全く映らないのです。地デジの方は自作のアンテナなので、場所によって映らないこともあるのですが、BSの方は全国どこへ行っても滅多に映らないことなどないのですが、ここはダメでした。その理由は、樹木の中にあるので、枝葉が邪魔をしてアンテナが動かせないからでした。これではどうしようもありません。TVは諦めることにしました。ラジオも持参していないので、これは長い夜となるかも知れないと思いました。ま、本来のキャンプといえばTVなど無用の筈ですから、キャンプの原点に戻った姿なのだと考えることにしました。

 16時になって、夕食の準備に取り掛かりました。まだお天道様は健在で、厳しく照りつけており、早いように思うのですが、孫の方は食材などを見ると、早くもお腹が空いた!の連発です。焚火グリルでバーベキューを始める前に、まず先にご飯を炊いておこうと車の中のシンクで米をといでいたら、何だか足元が変なので、シンクの下の調理具入れを開けてみたら、何と水が漏れているではありませんか。長いこと使わなかったので、劣化が進んで排水パイプの取付口がおかしくなってしまっていたようです。キャンプ場の炊事場は少し遠いので、何とか騙しながら米をとぎ終わり、ご飯を炊きだしました。この間、孫の方は、テントの中でお腹が空いたとジサマを煽りたてていました。

 いよいよ焚火グリルに火を入れました。この用具も今回新しく購入したもので、まだまだ使い勝手に馴れていません。用意した薪や炭を小さな炉にくべて、先ずは炭を熾(おこ)すことにしました。薪は順調に燃えてくれたのですが、炭の方はなかなか熾きてくれません。ナラの木の炭なので、備長炭より早く熾きるのではないかと思っていたのですが、孫の空腹に応えるほどにはスピードが上がりませんでした。それでもどうにか大丈夫そうなレベルになったので、網の上にトウモロコシやサツマイモ、カボチャなどの食材を並べ、今回は特別に焼きリンゴもつくることにして、芯をくりぬきシナモンと砂糖を詰めてアルミホイルに包んで載せました。少し火が強くなってきたので、ソーセージを載せたのですが、孫はそのソーセージはダメだというのです。どうやらウインナーの方は苦手だったようです。これはジサマのビールのアテにすることにして、本命の焼き肉に取り掛かりました。

ところがどうも火力が思ったよりも弱くて、なかなか肉が焼けないのです。つい時間をかけてしまい、焼き肉大好きとの前宣伝の大きかった孫に、この肉は硬いなどとコメントされてしまいました。我慢して食え!というのがジサマの檄(げき)であります。それにしても炭の火力が思ったほどではなく、もっと量を増やして熾すべきだったのか、或いは炭の質が良くなかったのか。反省しきりでした。孫はそれでも満腹になったらしく、デザートの焼きりんごはもうギブアップということで、明日に持ち越すことになりました。

夕食が終りあと片付け済んで、あまりに暑いので、車に戻りしばらくエンジンをかけて涼をとることにしました。ここのオートキャンプサイトは56区画もあり、どの区画にも電源が備わっています。キャンカーにエアコンが付いていればそれを利用できるのですが、付けていないのでエンジンをかけるしかありません。今日の泊りの客は5組ほどで、それぞれ離れて利用しており、三密とは全く無縁の環境なので、コロナの方はまず大丈夫だと思いました。未だ18時を過ぎたばかりなので、エンジンの騒音もそれほど迷惑にはならないだろうと思いました。車の中は既にベッドも出来上がっており、孫との会話も話のネタは尽き果てるレベルとなっています。少し涼しくなって汗も引っ込んだので、エンジンを切って横になったのですが、そうするとあっという間に熱気が開け放っている窓から入り込んで、再びエンジンをかけずにはいられないという状況でした。まさか自然界の中の今の時刻が、これほど暑いものだとは気付きませんでした。家にいる時はエアコンのおかげで、外の様子は気付かなかったのでした。

19時くらいになって、とにかく寝ることにしようと、孫に懐中電灯を渡して、明かりを消したのですが、何やらイタズラしていたらしく、孫が懐中電灯を落とす音がしました。ところがその後スイッチを幾ら入れても点灯せず、調べてみるとどうやら落としたショックで運悪く電球が切れてしまったようで、使用不能となってしまいました。非常時に明かりがないと困るので、もう一個の予備の小さな方を渡すことにしました。お互い、なかなか暑くて寝つけず、ゴロゴロやっている内にほんの少し眠りが来たらしく、次に目覚めて時計を見ると未だ21時になったばかりなのでした。

孫は眠っているようなので、そっと車を抜け出し、テントの中でしばらく過ごすことにしました。ビールを持って来て一人の時間に浸ることにしました。今日の来し方の振り返りや明日の予定などをあれこれ考えていると、車に明かりが灯っており、どうやら孫も目覚めて起き出したようです。驚かせてはいけないと行ってみると、孫が、僕もテントへ行くというので、それからはしばらく、二人でテントの中で過ごすことになりました。ランタンの明かりを小さくして、キャンプの気分に浸りながら、孫とあれこれ言葉少なに会話を交わし時間を過ごしました。こんなに暑くなければ、焚火を挟んでもっともっとアウトドアの楽しみを体験させてやれるのに、と思いました。

ようやく外の空気も暑さから抜け出し始めたようなので、車に戻って眠ることにしました。22時近くになっていました。今度は比較的楽に眠りに就くことが出来ました。孫も直ぐに寝息を立て始めたようでした。ようやく寝苦しさから解放されて、その後は一気にあの世に旅立ち、立ち戻ったのは朝の4時頃でした。

4時といえば、自分の普段は、朝の歩きの準備をする時間です。いつも4時半には歩きに出かける毎日なので、起きるのは全く苦になりません。孫はまだ眠りの中なので、外に出てテント以外の用具等を片付けることにしました。早朝の空気は澄んで清浄となっており、気分爽快です。昨夜の残骸を整理しながら処分し、用具類を片付けました。大方仕事が終わりかけた頃、孫も起き出して顔を出しました。直ぐに洗顔に行くことにしました。テントは食事のあとにたたむことにして、朝食に取り掛かりました。メニューはチーズを挟んだバンを焼いたもの(キャンプ用のバン焼き器で、孫はそれをどう使うのか興味を示していた)と昨夜の残りの飯で作ったおにぎり、茹で卵、それに牛乳とお茶だけの簡単なものでした。昨夜の焼きリンゴを出したら、アルミホイルを開けてみてリンゴがしわしわになっているのを見て、孫は怖気づいたのか食べるのを止めるという結果となりました。今の子どもは、見てくれだけでものを判断する傾向にあるようです。これが自分の育った戦後間もない頃だったら、形振(なりふ)り構わず食べられるものなら飛びついて口に入れ、そのうまさにびっくりする筈なのになあ、などと少し複雑な気持ちとなりました。

今日の予定は、釣りをするのがメインイベントです。それを一番楽しみにしていた孫なので、食事を終えると、早くテントを片付けようとせかされました。今のところ空は一面雲に覆われていて、暑さもそれほどではなかったので、テントの撤収は設営するよりははるかに楽で、15分ほどで完了しました。孫もポールをたたんだりペグを引き抜いたりして手伝ってくれて大いに助かりました。8時少し前には全ての撤収作業が完了して出発可能となりました。

8時10分、受付にお世話になった挨拶をしてキャンプ場を後にし、直ぐ近くにある涸沼の釣り場に向かって出発しました。3分ほどで駐車場に着き、先ずは釣り場の確認をしました。孫は生まれて初めての釣りなので、興味津々で興奮気味でした。今までの釣りといえば、父親とザリガニ釣りに行った経験しかなく、餌もゴカイなどは知らず、割きイカなどを考えていたようでした。

昨日餌を買った店での情報では、今はハゼとシーバスがメインの獲物だとのことでした。本当は投げではなく舟での釣りの方が釣果が期待できるのですが、今回は投げの用意をして来ました。しかし、小学1年生の孫には、投げるのは無理だし危ないので、今回は投げたがっていてもそれは止めさせることにして、只リールを巻くだけの作業をさせることにしました。

道具一式を岸辺まで運び、リールや仕掛けの取り付けなどのステップの準備が完了すると、孫の竿の方に餌をつけて投げ込みました。リールを巻く要領を教えて魚の当りの感触などを話しても、なかなか覚えては貰えず、竿を寝かせたり、すごいスピードでリールを巻いたりして、それらの誤動作が一段落するまでに時間がかかり、自分の方はなかなか竿を投げるには至りませんでした。ようやく自分も釣りを開始できるかなと思っていたら、孫の3度目の投げた竿に、何と小さなハゼが掛って来ていました。合わせのタイミングが遅かったので、針をかなり飲みこんでしまっていて、外すのが難しく生かすことができませんでした。孫は大喜びというよりも不思議といった複雑な顔をしているようでした。

    

 孫の人生初めての釣りは、さてさてどんな記憶となって残るのでしょうか?

さて、それからあとは自分の方は使用したリールに問題があり、糸がこんがらかってしまい、落ち着いて釣りをするどころではなくなってしまいました。何しろこのリールを使うのは10年ぶりくらいなので、事前にチエックをしていなかったのが失敗の原因でした。この間に孫の方は、少しリールの扱いにも慣れてきたようで、間もなく2匹目が掛ってきました。今度はタイミングも合っていたらしく釣り上げたハゼも元気でバケツの中を泳いでいました。自分の方は釣りをするのは諦め、孫の釣りの手助けに専念することにしました。いつの間にか空の雲は無くなり、炎暑が覆いかぶさってきました。時計を見ると10時を少し過ぎており、これ以上の釣果は望めそうもないので、そろそろ止めにして引き上げるか、と孫に言うと、孫も同意してくれたので、釣りはここで終わりとすることにしました。釣果は孫がハゼ2匹、ジサマは坊主で、孫の勝ちとなりました。釣ったハゼと残った餌のゴカイは、そのまま沼に戻してやりました。短い時間でしたが、孫にとっては大きな楽しい経験だった様です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

タイトル:孫と二人キャンプに行く (その1)

2020-08-10 03:07:13 | くるま旅くらしの話

 

<まえがき>

先日8月5~6日、孫と二人キャンプの小さな旅をしました。その時の記録を今日から3回に分けて記載します。

 

 同じ屋根の下に棲む二人の孫の内、上の方(男児)がやっと小学1年生となりました。コロナ禍の影響で、4月は変則的な入学式が半日あっただけで、6月まで未登校だった新1年生は、夏休みも少なくなってしまい、8月1日から3週間だけとなりました。長い梅雨の期間が終わってそろそろ明ける頃に、そうだ、孫をキャンプに連れて行こうと思いつきました。本人に訊いてみたら、即、乗り気になって、お母さんに訊いて来ると直ぐに走ってゆきました。折り返し戻って来て、母にOKを貰ったようでした。

 孫たちは同じ屋根の下に棲むといっても、普段は学校や幼稚園があり、2階に暮らすジジババとは顔を合わす機会がとても少ないのです。ジジババと一緒に寝床を共にするなどということは皆無であり、勿論キャンプの経験など無く、キャンピングカーも庭横の駐車場に止めてあるのを時々覗いて遊ぶだけなのです。だからその車に乗って泊る経験は、孫にとってはとてつもない大きな出来事なのだと思います。勿論、ジジババたちにとっても初体験となる嬉しい出来事なのでした。

 両親の許可を得たらしく、それからの孫は会う度に「楽しみだ、楽しみだな~」を繰り返すばかりでした。検討の結果、というよりも予め行き先を調べていて、林間で電源のある涸沼自然公園キャンプ場がいいだろうと考えていたのです。ジサマの作戦です。梅雨が明けた8月の初め頃がいいだろうと、親に日程の候補日を出して貰い、8月5日・6日の両日と決まりました。平日の方が空いているだろうという考えです。早速予約を申し込み、確認するとお盆以外は空いているということなので、コロナ禍のことも安心しました。

 長いことくるま旅を続けているので、たとえ1泊であろうとスケジュールを作るのに苦労はありません。時間刻みで2日間のスケジュールを作り親に渡しました。若干要望等もあり、一部変更もしましたが、特に問題もなさそうなので決まりです。大まかにいうと、初日は、先ず水戸市郊外にある大串ふれあい公園(縄文前期の貝塚あり)に行き、ダイダラ坊(常陸風土記に大男の記載あり)などの見学をした後、大洗海岸に行き昼食・磯遊びなどをして、その後目的地の涸沼自然公園キャンプ場にチエックイン。テント設営の後、公園内の散策をして16時頃から夕食準備に取り掛かりバーベキューをしてその後はくつろぎ、20時までには就寝。翌日は7時くらいまでに朝食とテント他の片づけを終え、8時過ぎにチエックアウトをし、直ぐ近くにある釣り場に行き投げ釣りをし、適当な時間で切り上げて帰途につくという行程です。

 当初の案ではもっと盛り沢山のメニューだったのですが、人の多く集まる場所等は避けて欲しいという親からの要請があり、そのような場所を削ることにしました。確かに、あれもこれもと欲張り過ぎると、旅は窮屈になるということを知りながら、この特別なプランではそれを忘れていました。コロナ禍がなければ問題はない筈なのですが、これは致し方ありません。

 当初はジジババと一緒にと3人でのキャンプを考えていたのですが、新型コロナに対して少し弱点のあるババの方は参加を止め、ジジとの二人行となりました。もう一人の下の孫娘は幼稚園の年中であり、キャンプには時期尚早なので、本人に話して了承して貰いました。

 さて、それからの準備が大へんでしたが、また大きな楽しみでもありました。準備物を書き出してリストを作り、買い物に取り掛かりました。この内容は自分一人での目論見(もくろみ)なので、誰にも解りません。コストもかなり膨らみましたが、孫と二人だけの小さな旅だと思えば、溜めていた小遣いの額が減っても、一向に気になりません。老人は、できる時にそれをやっておかないと後がない、というのがこの頃の実感なのです。たった一度切りしか使わないものであっても、決して無駄遣いではない、という強い信念であれこれと準備をしました。 

 いよいよ出発の日が来ました。1週間前までの天気予報では、キャンプの日は曇りや雨のマークばかりだったのですが、8月に入って梅雨が明けると、途端に今度は晴れマークに変わり、気温も30度を遥かに超える予報となりました。たった2日間とはいえ、この厳しすぎる暑さは問題だなと思いましたが、もはや敢行するしかありません。

 8月5日、いよいよ出発となりました。昨日までに大方の必要な用具(スクリーンテント・焚火グリル・釣竿・テーブル・椅子など)の積載は終わらせていますので、出発前は主に食材や着替え・洗面具などの積み込みだけです。キャンプ場なので、キャンカーの水槽への給水は最小限としました。尚、寝床は車内の上方にあるバンクベッドでは、孫が落ちたら大ごとなので使うのを止め、下部のイスやソファを利用した平らなベッドを使うことにしました。大人3人が寝られるスペースがあるので、これならば子どもの寝相が悪くても大丈夫です。これは大汗をかきながら昨日セット済みです。

 9時半出発の予定でしたが、9時前に準備が完了しましたので、繰り上げて9時の出発としました。家族のみんなに見送られていよいよキャンプ行の開始です。

 先ずは常磐道を水戸の大串ふれあい公園へ向かいます。我が家からは谷和原ICまでは3分くらいです。直ぐに高速道に入りました。キャンカーは去年1年間旅を封鎖しており、今年の3月に車検を済ませているものの、殆ど乗っておらず、特に高速道は2年近くご無沙汰でしたので、ちゃんと走ってくれるか少し心配がありました。10分ほど走っている内に車も運転者も直ぐに馴れてきたようで、順調な走りとなりました。スピードを上げないことにして、3車線の一番左を、最高速度80kmを基準に流れに沿って走ることにしました。孫は左の席に、安全確保のために取りつけたチャイルドシートの中で、ご機嫌であれこれ話をしていましたが、その内に鼻歌が大声での歌となり、ま、少しうるささもありましたが、好きなようにさせることにしました。

予定では1時間ほどで大串ふれあい公園に届く筈でしたが、何とうっかりナビの行く先設定を大洗の方にしてしまっていたので、何だか変だなと思いつつナビの指示に従って水戸南ICで下りてしまいました。降りてから気づいて、こりゃヤバイなと思い、ナビを大串ふれあい公園に再設定して、見知らぬ道を遠回りする結果となりました。それでも10時少し過ぎには無事公園の駐車場に到着しました。

 大串ふれあい公園は、縄文前期の貝塚の跡につくられていて、公園の中には文化財センターがあり、貝塚から出土した貝殻等を初め、往時の人たちの用いていた土器や貝以外の動物の骨や魚の骨などが展示され、また近郊の古墳などから出土したハニワなどが展示されています。その他この貝塚の遺跡に関しては、常陸風土記に記されている巨人伝説のダイダラ坊(又はダイダラボッチ)という話があり、この地が岡であった時に、この地に腰かけて海辺の砂浜の貝をほじくって取り出しては食べ、それが積もり積もって貝塚になったと書かれているのをもとに、公園内にはダイダラ坊の足跡を模した池や縄文時代の住居などがつくられています。その中で何といっても一番の売りは、ダイダラ坊を模した巨大な塑像がつくられていることです。

     

    縄文時代の住居を再現したものを撮影する孫。ダイダラ坊は大きすぎて上手く撮れなかった。

 説明しながら周り歩いて、最後にダイダラ坊の巨大な像を見上げると、孫は、うわ~デッカイ!と歓声を上げて持参したカメラに収めていました。公園の入口にダイダラ坊の伝説にまつわるエピソードの書かれた説明板があり、それを読んでやると、ダイダラ坊が山の陰になって農作物が良く育たなかった村人のために、その山を動かして日が当るようにした話や、川の氾濫を防ぐために堤防をつくってくれたなどの話を、驚きながら聴いていました。この公園の中では、ダイダラ坊が一番印象深かったようでした。

 公園の見学が終わった後は、昼食を大洗の海岸でとることにして出発しました。15分ほどで到着です。何カ所かある駐車場の内1箇所だけが使えるようになっていて、思っていたのとは少し違った場所の駐車場でしたが、直ぐ下は磯浜になっており、来訪者の安全確保のためパトロール要員を配置しているらしく、ここ1箇所しか使用できないようにしているのは止むを得ないなと思いました。

昼食はそうめんです。予め家で茹でて持参したものをガラスの器に入れ、冷蔵庫から取り出した冷水に浸し、それを掬って食べるというやり方です。普段家でどのような食べ方をしているのか全く知らないので、ジサマのペースで用意したのですが、孫はもともとそうめんが好きらしく、何度も何度も美味しい、ウマイ~を云いながらそうめんを口に運んでいました。腹を壊したりしないかと少し心配もしましたが、満腹になって満足そうな孫の顔を見ると、そのような心配は吹き飛んでしまいました。

 食事のあとは少し休んで、しばらくして今度は下の磯浜の方へ行って遊ぶことにしました。磯浜には何組かの家族連れの人たちがいて、子どもたちは蟹や小魚を採ったりして遊んでいました。孫と同じくらいの歳の子も何人かいたようです。何をして遊ぶかは孫に任せて、ジサマは只見守るだけです。蟹などでも探すのかなと思ったら、孫の最大の関心事は浜にゴロゴロ転がっている大きな石を海に放り込むことでした。何が面白いのかな、と思いながら見ていると終りがないのです。飽きずにいろいろな石を運んで来ては海に投げ込むことを繰り返していました。他の子どもたちは蟹や魚探しに夢中なのに、我が孫はそのようなものには見向きもせず、ひたすら石を運んでは海に投げていました。放っておくと浜の石が無くなるまで続けそうなので、途中で止めさせ切り上げて車に戻りました。

 その後は今日の本命の目的地の涸沼自然公園キャンプ場に向かうだけです。チエックインが13時となっていますので、少し前に着くようにと考えての出発です。大洗海岸からは20分ほどの距離で、到着したのは10分前でした。車の外はもの凄い暑さです。しばらくエンジンをかけながら駐車場で待機し、時間が来たので受付に行き手続きを済ませました。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コロナ禍の中の旅を楽しむ

2020-08-02 04:06:34 | くるま旅くらしの話

「695,363」

「22,431」

「4,109,808」

「19,294」

という数字を並べてみました。上から「7月の歩きの総歩数」「7月の1日平均歩数」「今年の累計総歩数」「今年の1日平均歩数」となります。

6月の初めに歩きの1日の紹介をしましたが、今回はその続篇でもあります。

7月は1カ月の歩きとしては、ここ5年間ほどで最高の記録となりました。1日平均22,431歩というのはどれくらいの距離になるかというと、概算で1,500歩が1kmほどの距離となりますので、毎日凡そ15kmを歩いたことになります。実感としてもそれくらいは歩いていると思います。

何でそれほど歩くのか?無理して歩いているのではないのか?歩き病となっているのでは?などなど、歩きをあまり好まない向きには、そのような疑問が当然かと思います。自分でも時々そのようなことを考えることがあります。しかし、明るく否定するのが常なのです。何故なら楽しいのです。楽しいから歩いているのです。

何故楽しいのか。それは旅をしているからなのです。歩くのがどうして旅なのかと思われるかも知れません。でも旅というのは元々歩くことが基本なのです。そして旅というものの定義を、自分は次のように考えています。「出会いと発見と感動」この三つの要件を歩きによって満たすものが旅なのです。そしてそれは全て歩きの中にあるのです。飛行機や列車や車での旅は、そのこと自体は只の移動手段に過ぎません。歩き、止まることによって、三つの要件が満たされ旅が成り立つのです。

コロナ禍のおかげで、毎日の歩きの世界が広がりつつあります。いつもだと自宅ではなく、自分のライフワークとして、くるま旅で全国各地を訪ねることにしているのですが、今年はそれが出来なくなりました。無理をすれば可能なのでしょうが、自分と家内の年齢を考えると、自粛・自衛がベストの選択だと決めた次第です。昨年も町内の自治会の仕事で旅を封印していますので、2年連続での我慢は、高齢者の残されている時間を考えると相当に辛いものなのです。

そこで、この際思い切って考えを切替え、毎日を歩きの旅にしようと考えました。25年も毎日歩き続けていると、歩きの楽しみは無限なのです。旅先でも車から離れれば歩きが基本となって出会い、発見、感動がもたらされるのですから、毎日自宅での歩きであっても、その中に同様の要件を満たすことが可能なわけです。

在宅時の毎日の歩きは、3つの基本コースを設けているのですが、コロナ禍の今年は、これらのコースを少し変えて距離を増やすことにしました。併せてコースにバリエーションを加えることにしました。6月の初めに紹介した分もその一例なのですが、この他にも自在の歩きが出来るようにと考えました。

昼夜逆転が自分の暮らしの基本なので、毎朝4時半が来るのを待ちかねて、いそいそと家をあとにします。この頃は昼寝を取り入れていますので、夜はあまり眠らなくても大丈夫なのです。歩きの楽しみの基本は、観察と雑念を拡大することにあります。観察は野草、野鳥などが主な対象となりますが、日々新しい出会いと発見があり、時に感動を貰える出来事も待っています。又、この頃は雑念を膨らませることが何よりも楽しくなりました。自分の人生の来し方を振り返れば、無限の妄想の種が取り出せます。タラレバを加えた妄想は、実に楽しいものです。これは老人の特権なのだと思うことにしています。ま、雑念拡大は旅とは無関係なのですが。

今月は雨が多かったので、傘を持って歩くのが常でした。この地の雨は大した降りではなかったのは幸いでした。大雨ならば歩きは中止ですが、7月の休みは1日だけでした。それで歩数を稼げたのだと思います。今のところ体調はまずまずです。歩きの途中で休むことはありません。3時間歩き続けても大丈夫です。途中休憩が必要になった時は、一段と老化が進んだことになるのだと思います。

間もなく出発の時間が迫って来ています。コロナ禍を逆手にとって、今日も又旅に出かけます。では。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする