山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

ありがとうございました

2010-12-31 00:10:48 | くるま旅くらしの話

 

 

 今年もとうとう最終日となりました。いろいろな出来事がありましたが、私的には、それなりの旅が実現できて、ありがたい一年だったと感謝しています。何かと悲観的な見方の多い世の中ですが、世の中がどう変わろうとも、旅の中に宝物を探す喜びを生涯続けてゆければいいなと思っています。そしてそれを記録に残すことも、私の生き方の手立てとして大事にしてゆきたいと思います。

 ブログをお読みいただいている皆様には、有言無言の励ましを頂き、いつも大変心強く思っております。この一年間、本当にありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願い致します。どうぞ良いお年をお迎え下さい。

 

   

  

               寒空に夢膨らませてや辛夷立つ  馬骨

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今年のできごと印象3話

2010-12-30 00:06:05 | くるま旅くらしの話

 

 今年も残りがあと2日となりました。いろいろな出来事がありましたが、私にとって今年の出来事の中で強く印象に残ったものを三つあげると、「ロウビョウ、コピアポ、バカセイジ」となるように思います。

最初のロウビョウですが、これは老病ということです。老とは説明するまでもなく、私自身のことで、本物の老の中に足を踏み入れたということです。生・病・老・死は人間が避けて通れない人生の必須場面ですが、老というのはそれを実感するのに時間が掛かるものだと思っていました。それが古希を過ぎてからは一挙に身近な感覚となったのは、一体どういうことなのでしょうか。

私が今一番老を感じているのは、勿論身体的な衰えのことであって、精神的な面では人間は誰でも不老というのを実現できると思っています。しかし、人間は精神だけでは生きてゆけるものではなく、やはりそれを養っている身体というものが必要です。老いには様々なレベルが在るのだと思いますが、私にとっては、今現在が一番落差の大きい身体的レベルの下降場面に出くわしているように感じています。

只今は、ひたすら歩くことで老いの歯止めをかけることに専心していますが、この課題をクリアーするためには、さて、歩きの他に何を追加すれば良いのか、本気で考えておかないと88-55という願望(88歳までは旅に出かけたい)の達成は覚束なくなるに違いありません。今年はそれをしみじみと実感した年でした。

次が老とくっついている病のことですが、これは自分自身のことではなく、今年は相棒の家内の体調のことでした。犬張子のような感じのする相棒なのですが、その芯は結構しっかりしているらしく、もう40年以上も一緒に暮らしていますが、大きな病に見舞われたことは一度もありませんでした。これは大変ありがたいことで、人生の相棒としては、諸々の贅沢な条件を満たしていなくても、健康は最重要の、最強の条件だと思っています。相棒が病弱で夫婦双方が苦労されている方々を何人も知っていますが、それと比べると、私は幸せ者だと思っています。

その相棒が、今年の3月に突然事故に遭ったが如くに病に取り付かれ、大手術をしたのでした。これはショックでした。幸い術後の経過は良くて、安堵の胸を撫で下ろしていますが、病というものの恐さを改めて思い知らされた感じがします。病というのは、ある意味では老というステップを、一挙に消滅させてしまうほどの恐さを持っているような気がします。家内は今も闘病中ですが、私としては、優しい言葉を振り掛けるよりも、その病を忘れてしまって欲しいと願うゆえに、普段と同じ様に接しています。優しい言葉などばかり掛けていたら、芯が萎えてしまって病に養われるようになってしまうように思うからなのです。私流に家内を大事にしてゆくしかありません。何はともあれ、病のことは油断大敵です。

2番目のコピアポというのは、南米チリ国の鉱山です。そこで起こった落盤事故とその救出に至るまでの一連のニュースは、人間の可能性の限界を示すという意味でも実にショッキングな出来事でした。私が特にこの事件を強く思うのは、閉所恐怖症という性向を持つ自分には、到底耐えられない出来事のように思うからです。一昨年石見銀山の間歩を訪ねたとき、やむを得ず坑道の中に入ってしまいましたが、灯りや案内・解説板などがなかったら、直ぐにでも引き返したいほどの、落ち着かない環境でした。地表とあまり変わらない深さの数百メートルほどの坑道でしたが、コピアポは地下700mの空間で、そこまで辿り着くには5kmもあるという暗闇の中に閉じ込められたというのですから、これはもう、とんでもないことです。想像しただけで、発狂してしまいそうです。

全世界が固唾を呑む中で、閉じ込められた33人の生存が確認され、それから懸命の救出作業が開始され、続けられました。チリ国にとっては、この事件はいつかしら国を挙げての救出劇となったようでした。そして約2ヵ月半の後、無事全員が暗闇の穴倉の待避所から救出されたのでした。これはもう国境を越えての地球という天体に住む人類全体の感動の出来事だったと思います。これに似たような出来事は世界の各地で起こっているのかもしれません。人間の生死というものは、その極限状態において、その重さが初めて実感できるように思っています。コピアポ鉱山のこの事件は、その重さを世界に知らしめた、不幸中の大幸いだったような気がします。

彼らから見れば、日本人という地球の裏側に住む我々には、その後の事件の顛末がどうなったのかは全くわかりませんが、救出に至るまでの一連の世界中の人びとの祈りを裏切るような結果になっていないことを願っています。

最後のバカセイジは、言わずもがなのバカ政治のことです。このところの政治の失態というか、混迷ぶりは真にどうも、開いた口が塞がらないという感じがします。政権担当の民主党は羊頭狗肉の化けの皮がはがれたような感じですし、批判政党の雄たるべき自民党も、また何とまあ迫力のないことやら。どの政党も政治家も、口先ばかりがやたらに目立って、不信感は募るばかりです。現在のような連中が政治を弄している間に、この国は全く沈没してしまうのではないかと思うほどです。自分が存命の間は、地球も日本国もまだ生き残っては居るでしょうけど、この国に来世紀があるのか疑問です。

私はビジネスも政治もその基本として最も大切なのは、哲学であり、それに基づく信念だと思っています。これらは不動のものでなければならないと固く信じています。当世の政治家さんたちには、これらのものがどれほど備わっているのか、大いに疑問です。大口を叩きながら、最終的には無為無策で引退に追い込まれるなどという政治家は、この業界からは足を洗うべきです。理念を掲げず、人が喜ぶようなことばかりをべらべら喋って、その実践をないがしろにしたり、先送りばかりしているような政治には、もううんざりです。

まるで世襲のように政治屋を引き継いでいる輩が目立ちますが、本当の政治に携わるに相応しい人物が一体何人いるのか。又TVの人気者に類した出身の政治屋モドキも多くいるような気がして、これ又、うんざりするばかりです。大して中身のない有名人などが場違いの政治屋となり、走狗として党のために国会での一票を投ずるなどという、マスコミ芸人類の力を借りての民主主義などというのは、実にふざけた政治システムのように思えてなりません。

しかし、まあ、何よりも批判されなければならないのは、そのような輩を、見境もなく毎度選んでいる、国民一人ひとりということでありましょう。その中に自分も入っていることを思うと、これはもう選挙には棄権をするというのが、人間的には最も正当な行為のようにさえも思えてくるのです。棄権をしても、それをすればするほど見当違いの人物が選ばれる可能性があり、今の世は民主主義などという理想からは、随分と遠い所に朽ち果ててしまっている感じがするのです。

この国で最も政治が機能したのが何時の時代なのか解りませんが、単に内政だけではなく、世界に伍してという場合は、やはり幕末から明治の時代ではないかと思うのです。この時代には身分制度が引きずる汚職の類も多かったのでしょうが、政治に係わる人物の殆どの熱い思いは、国を守り、国民を奮い立たせるという一点では、揺るぎのない一致点だったのではないかと思うのです。清濁併せ呑むというのは、潔癖症の人間には、不潔と思う以外の何ものでもないのでしょうが、人間の世界では、清貧などというのは、国全体の活力を満たすという点では真に無力であり、隠遁者の思い込みに過ぎないような気もするのです。今の世は幕末から維新の後の国づくりにかけた政治家の哲学と信念が擦り切れてしまって、何とも早や、中途半端な泥舟に乗って騒いでいる人たちの集まりのように思えて、今年なんぞは、バカセイジと言いたくなってしまうのです。

政治の世界に、鍛え上げた哲学の基に、高い理想を掲げ、信念を貫き通す人物が現出することを心底願っています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冬桜などの話

2010-12-29 00:33:36 | 宵宵妄話

 

この頃は冬に咲く桜を見かけることが多くなりました。20年ほど前までは、冬桜といえば、住んでいた小平市や東村山市の家から小金井公園までわざわざ見に行ったものでした。公園のそれは、古い冬桜の樹で、かなり疲れ果てた樹影の枝の先に、わずかにそれと判る花をつけているといった状態で、確かに珍しいけど何だかあまりにも可哀想な感じがして、心が痛むのを覚えたのでした。

東京の小金井公園は、桜の名所です。その昔は玉川上水の側道に桜並木がずっと続いていて、これが小金井桜として有名だったとのことですが、今はその大半が老木となって朽ち果て、後から植えた桜もまだ中途半端な大きさで、世代交代がどうも上手くいっていない感じがします。その桜並木に代わって、広大な公園に残存する桜の大木たちが、現在の小金井桜をカバーしているように思います。でも守谷市に引っ越して以降は、小金井公園を訪ねたこともなく、今ではどのような状態になっているのか、そのままで在ってくれれば良いのにと思うばかりです。

さて、冬桜ですが、これは別名ヒマラヤ桜とも呼ばれているようで、日本国在来の桜ではないようです。しかしその原種がヒマラヤ地方なのかどうかは私には分りません。これを初めて見たのは、しまなみ海道を旅した時で、生口島にある瀬戸田PA(尾道に向かう上り側)の構内でした。4年前に続いて今年も訪れたのですが、まだ時期が少し早かったのか、花を見ることは出来ませんでした。確か11月下旬くらいからの開花だと思います。今年見たのは樹勢が少し衰えた感じで、酸性雨と排気ガス公害に苦しめられているような印象を受け、少し心配でした。

この他にも冬桜は、奈良県の天理市と桜井市をつなぐ古道、山辺の道を歩く途中でも何本かを見ることが出来ます。雪が舞う寒さの中で、一塊の桜の花を見るというのは、何とも不思議なことで、大いに感動したのを思い起こします。

最近、冬桜を見かけることが多くなったというのは、守谷市内にも、何本かを見出して楽しむことが出来ているからなのです。総面積がわずか36平方キロメートル足らずの町の中を、6年間も歩いていると、どこに何があるのかが次第にはっきりしてきて、その中の一つに何本かの冬桜の存在を確認することが出来るのです。これらは恐らく愛好家の方が、珍しさに惹かれて苗木を求めて植えられたのだと思いますが、この寒い季節に可憐な春の花を見られるというのは、真に有難くも嬉しいことだと感謝せずにはいられません。

桜の花が大好きで、我が家の庭のメインツリーも桜なのです。庭に桜を植えるなどというのは、虫多く、枝が張って葉も多く、やがては巨大化してとんでもないことのように一般的には考えられているようですが、私の場合は、庭のど真ん中の桜の花の下で、親しき友を招いて一献を傾け合うのが夢なものですから、バカを承知で東北のオオヤマザクラの苗を探し当てて植えているわけなのです。植えて5年目の去年、初めて3個の花が咲き感動しました。酒を酌み交わすまでには、あと数年は掛かると思います。その念願が叶ったら、桜の木が邪魔なときには、自分と一緒に切り倒して葬って欲しいと、遺言書に書こうかなと思っています。

あちらこちらと桜の話の脱線ばかりで恐縮の至りです。守谷の冬桜は若いけど少し大きい樹木が鬼怒川運河の土手の近くに10本ほどと、それから農家の屋敷林に、これはやっと花を咲かせ始めたと思われる幼木が2本、散歩の通り道に顔を出してくれています。4月の桜とは違って、少し小ぶりな花の大きさです。一つひとつを見ると、花の可愛さ、可憐さはいや増すばかりですが、これが一本の木にビッシリと花をつけている様は、ヘタの部分が邪魔をするのか、花の美しさが少しぼやけてしまって、案外と気づかぬ存在となってしまっているようです。4月の桜は一つひとつでも樹全体でも文句なしに美しいと思いますが、冬桜は、団体の花は逞しく、個々の花は哀しさを伴った可憐さが特徴のようです。それ故に、馬骨的には冬桜は、目を近づけて静かに味わうべしということになります。

  

左は花盛りを迎えた冬桜。ちょっと目には、桜の花とは思えず、梅のような印象すらある。右はより近い目線からの冬桜の花。何とも可憐な咲きぶりである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

百万両伝奇を読む

2010-12-28 06:05:52 | 宵宵妄話

風邪を引くバカ、風邪引かぬバカ。というのは当代においては結構適切な揶揄(やゆ)のような感じがします。そのバカに嵌まり込んで、2日ほど動かぬ旅くらしをしたのでしたが、その時に久しぶりに早乙女貢の「百万両伝奇」を読みました。安土桃山時代の戦国武将だった佐々成政の埋蔵軍用金を巡る宝探しの物語です。勿論作り話で、それも飛びっきりの変転めまぐるしい、話の筋を思い出すのも難しいほどの物語なのです。

私は雑読屋です。あらゆる分野の本を読みます。(正確には読みました)若い頃から、その時々の気まぐれで手当たり次第に本を買ってきました。特に文庫本は省スペースなものですから、引越しの多かったサラリーマン暮しでは、随分とたくさん手に入れて、とうとう我が家には置ききれなくなり、存命だった両親の住む実家にまで運んで置いて貰う様なことをしていました。両親が亡くなったのを機に思い切って処分しました。その多くは時代小説などの面白読み本とも言うべきもので、数百冊はあったように思います。

人生11回の引越しを終えて、守谷市に終の棲家を、のつもりで落ち着いた際に、もう一度本の大整理を行い、何とか新しい書斎に納めましたが、相当に処分したつもりでも、私を取り巻く3方の書棚は、90%以上が二重に収本をしています。したがって棚の表に並べた本は直ぐに見つけることが出来るのですが、奥の方に納めた本はその存在すらも判らないといった状況になっています。それで、時々本棚をかき回して奥の方から面白そうなものを見つけ出しては、まるで新本を発見したような気分になって読んでいるといった状況なのです。

この百万両伝奇もその1冊(実際は上下2冊)です。ちょっと本の内容のことを紹介しましょう。時代小説の面白本の多くは、善人と悪者とが登場し、これがテーマの下に幾つかの出来事を惹き起こし、最終的には悪が滅びて善が勝利して、めでたしめでたしとなるのですが、この百万両伝奇も大筋ではそのような構成になっています。

まず善側の登場人物ですが、主人公ともいうべきは5百石を領する旗本の部屋住みの次男坊(剣の達人)と、それに恋する3人の女性。一人は呉服屋の娘、もう一人は常磐津の師匠、そして矢場の女。その他に男気溢れる弁当屋(口入屋も兼ねる)の親分・子分。

悪者側は佐々家の再興を期す怪しげな首領とその一団。陰険な八丁堀の同心。それに悪徳商人。更にはご本人にはそのような認識のないまま悪の側に加担することになった、悪同心の師事するなにわの陽明学者大塩平八郎。その他にひさごとは無関係に事件に絡んで怪しげな行動をする猫獲り業の男など。まあ、ざっと主な登場人物といえば、このような状況です。

話の筋の方ですが、佐々家の子孫に伝わる金銀二つのひさご(=瓢箪(ひょうたん))があり、この中に百万両の埋蔵金のありかが示された絵図面が半分ずつ隠されており、このひさごを善悪が入り乱れて奪い、奪い返すという争奪の話なのです。もともと呉服屋の娘の家には金の瓢箪が、そして弁当屋の親分の所には銀の瓢箪があり、ことは盗賊として侵入した佐々家の再興を目論む一団が呉服屋夫妻を切り殺し、これを奪おうとしたことからストーリーは開始されます。財宝のことなど知らなかった関係者が、そのことに気づいてからは、その二つの瓢箪を追い掛けて善悪双方側が入り乱れて甲州から身延山、そして東海道は大阪へと、目まぐるしく変転する事件と共に動いてゆきます。そして大阪からは宝物のありかと知れた黒部の山奥深く、冬の季節を関係者一団が押しかけてゆき、終盤には幾つかのどんでん返しがあって、最後は善人側がその宝物を手に入れるということになります。しかしその後にもう一つの最後があって、手にした財宝は、飢饉に苦しむ人々のために使われることになるという、社会貢献に寄与するという話で終わりとなります。

読み出すと一気に事件の中に引き摺り込まれることになり、それがあまりにも変転目まぐるしいので、気持ちの切り替えが大変なのです。呉服屋の処女が追い詰められ、悪者に捕まって絶体絶命の状況が、突然次の場面に変転し、そこでは又次の話が展開され、元に戻るとなると、絶体絶命の娘が奇跡的に助かることとなる。それがわざとらしいことはよく承知しているのですが、でもどこかで、よかった、などとやっぱり思って安堵してしまいます。瀕死の重傷で再起不能と思われていた筈の悪者が生き返っていて、とんでもない場面に再登場したり、まさにシッチャカ・メッチャカの感じですが、面白本というのはそれが身上なのですから、これはもうその世界の中に入り込んで固唾を呑むという読み方が一番なのだと思います。このようなストーリーをバカバカしいとか、低俗だなどという輩には、人間の本当の姿が曇ってしか見えないだろうというのが、私のようなものの見解なのですが、さて、どうでしょうか。それをそれ狷介(けんかい)老人というのだ、などとはおっしゃらないで下さい。

早乙女貢という作家は、豪胆な精神をお持ちの方だと思っています。まだホンの一部しか作品を読んでいませんが、その代表作「会津士魂」は近々どうしても読まなければと思っています。この方にとって、伝奇小説などというものは、習作のようなものではなかったと思うのです。この百万両伝奇の中にも、史実として知られていることも幾つか登場させており、ご自分で作り話を楽しみながら書かれているといった感じがします。

佐々成政の厳冬期の山越えの話は有名ですが、(埋蔵金の話もどこかで耳にしたような気がします)それをモチーフにするとは凄いなあと思いました。立山連峰を武装集団が乗り越えてゆくなど、狂気の沙汰としか思えませんが、それに近いことを佐々成政という武将は行ったというのですから、これはもう褒めていいのか、呆れてものが言えないのか、現代では評価の難しい話だと思います。

ま、しょうもない話なのですが、風邪を引いても終日車の中でこのような読み本にうつつを抜かし、少年の気分に戻れるというのは、幸せというものではないかと、一人悦に入ったのでした。

 

   

早乙女貢著「百万両伝奇」。集英社文庫で、発行年月日を見たら、昭和60年6月25日、2刷目となっていた。25年前の物語は、内容をすっかり忘れており、懐かしくも新鮮だった。しかし、風邪の薬とはならなかったようである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

若者の激走を観る

2010-12-27 03:30:31 | 宵宵妄話

 

年毎年年末になると楽しみにしていることの一つに全国高校駅伝があります。それが今日開催されました。鋭く冷え込む都大路を疾走する若者たちの姿を見ていると、なぜか安心感を抱くのです。普段あまり、どこで何をしているのかがはっきりしない高校生という世代に対して、確かな存在感を感ずるのです。若者は真っ直ぐに生きて欲しいというのが私の願いですが、普段目に触れる若者といえば、その反対のような姿ばかりで、些か不安を覚えるほどなのでした。都大路を走る、どの若者たちにも、直向な走りに賭ける、それぞれの真っ直ぐな思いが、身体一杯に漲っており、実に爽やかです。一人ひとりには様々な事情があって、悩みや苦しみが伴っているのだと思いますが、走っている時の姿には、そのようなものは吹き飛んで、懸命さだけが伝わってきます。

私は、自分は体育系の道を辿ってきたと思っています。中学時代からバスケットボールを中心に、相当の時間を費やして来ました。特に高校時代は、自分の身体をつくる時期だと考え、勉学よりも運動に力を入れました。おかげで生来ずっと虚弱体質と思っていた身体は、頑強とは言えぬまでにも、それなりに自信の持てるものとなりました。今現在も元気で居られるのは、そのとき以来の体力の蓄積のおかげであり、身体を動かすことに何の厭(いと)いも戸惑いもない生き方につながっているのだと思っています。

様々な運動の中で、走るというのは、歩くことに続いた最もシンプルな基本動作です。しかし歩くのとは違って、一度に多大のエネルギーを消費しますので、その疲労度もかなりのものです。特に長距離走は持続的にエネルギーを使い続けるので、その使い方も使うための心の働きもコントロールするのが難しいものだと思います。

駅伝というのは、元々日本独自のレースだそうですが、いかにも聖徳太子の国らしい(和を以って尊しと為す)発想のスポーツのように思います。ま、そんな高尚な発想ではなく、単に江戸時代に、より発達した飛脚システムの伝統が、その根源にあるのではないかと思いますが、これをスポーツとして全国的な競技にまで高めたというのは、すばらしいことのように思います。マラソンは、個人の力量を計る競技ですが、駅伝は、集団・組織といった人間の社会システムそのものを反映させたものですから、そこに様々な要素が絡み合って、結果を出すための労苦は層倍するように思います。

それらの駅伝競技の中で、全国高校駅伝は実業団などとは違った新鮮さがあり、それが何よりも大きな魅力です。最近では留学生などが増えて、ちょっぴり違和感を感ずる部分もありますが、ま、同じ若者なのですから、その能力の違いは、我が国の運動能力のレベルを知る上で、参考としなければならないものなのでありましょう。

前置きはこのくらいにして、今日のTV観戦の感想です。先ずは女子の部。岡山興譲館高が優勝しましたが、心から拍手を贈りたいと思います。上位の各校が留学生の力に頼るところ大の中で、そんなものには頼らず、全員が力を合わせて勝ち取った栄冠には、まさに駅伝に相応しい価値が備わっていると思います。特に赤松姉妹のレースにかける思いとその結果を出した力には、大いなる敬意を表したいと思います。

留学生を保有した上位チームが常連化しているのには、少し興味をそがれるところもありますが、それでも少しずつ新しい展開の予兆のようなものを感じて、来年が楽しみです。九州勢の足踏み状況には、元福岡の住人として、少しもどかしさを感じます。また関東の住人としては、入賞圏に少数が辛うじて止まっている状況に寂しさを覚えます。わが地元の茨城県代表の茨城キリスト教学園は13位と大健闘でした。

男子の部の方は、鹿児島実業高が最終区間の競技場トラック内で逆転の勝利をものにし、悲願の初優勝を勝ち取りました。これも実に見事な駅伝の醍醐味を見せてくれたレースでした。心から祝福の拍手を送りたいと思います。このチームにも市田という兄弟ランナーがいて、大活躍でした。とてもいい雰囲気のチームのように感じました。

惜しくも2連覇を逃した世羅高は、頭二つも抜け出た超人のような留学生の活躍があって、これには驚かされましたが、残念には違いないけど、まあ満足すべき結果ではなかったかと思います。途中までのレースでは、須磨学園などが注目されましたが、やはりメンバー全員のベストの発揮を結集するのが難しかったらしく、今一の感じでした。男子の九州勢の活躍はまあまあといったところでありましょう。しかし、関東勢はこりゃあもう全滅といった感じです。地元茨城県代表の水城高は30位という淋しい結果でした。各校の来年度の再来と躍進向上を期待したいと思います。

ところで、私的に高校駅伝で最も興味があるのは、最下位争いです。どこも好き好んで最下位など争うはずもないのですが、結果としてビリの方に甘んじなければならないというのは、いかにも悔しいことだと思います。順位というのは非情なもので、各都道府県の代表としては、何としてもドン尻になるのだけは避けたいというのが切実な望みだと思います。しかし、勝負である以上、どこかが必ず最下位となるものなのです。今年の最下位は、女子が和歌山県の日高高、男子が北海道の室蘭大谷高でした。今までの成績を見ると、概して日本列島の北端と南端のエリアが駅伝は苦手のようです。

北海道は走るのには広すぎるような場所が多くて、その気になれない若者が多く、沖縄は走るのは、生き方に反した行為に近いのかもしれません。TV観戦では、絶えず上位の方にスポットライトが当てられますので、下位争いの実態などは、どうしても情報不足となり、結果を見て想像するだけになってしまいます。何故最下位となったかなどを探るというのは、傷口を抉るような行為なのかも知れず、あまり深入りすべきではないのかも知れませんが、低位校の現状を見ていると、どうしてなのかが気になります。

駅伝に勝つためには優れた人材を集めることが肝要なのでしょう。そしてそれは一人ではなく、少なくとも7人以上必要なのです。それらの人材を集めることが出来た学校が、上位に食い込める条件を備えることになる、というのが常識なのだと思います。しかし、私はこのような考え方には異論を挟みたいのです。

どんなことかといいますと、勝つために必要なのは優れていなくても良い、普通の走ることの好きな少年・少女と、その子たちがもっともと走るのが好きになるように導く、優れた指導者を用意すること、これが一番大切なのだと思うのです。特に大切なのは、優れた指導者です。素材が優れていることなどはそれほど重要ではないように思えるのです。というのも、普通に健康であれば、どんな人間でも可能性を秘めているからです。しかし指導者がダメだと、優れた素材ですらも力を伸ばすどころか、酷ければ芽を摘んで萎えさせてしまいます。厳しさの中に、自分の可能性を心底気づかせ、勇気を奮い立たせることが出来る指導者が、何よりも重要です。ま、これは私の独りよがりの思い込みなのかも知れませんが、それが出来た学校が一頭地を抜く結果を出すことが出来るのが駅伝という競技のように思えます。

出場の各校ともそれぞれのエリアの代表であり、それなりの優れた指導者に恵まれているのだとは思いますが、より上位を目指すためには、素材としての生徒を求めるよりも、指導者の一段のレベルアップを図ることが何よりも大切だということに力を入れるべきと考えます。下位に低迷するチームを見ていて、そのように思いました。子どもたちが力を発揮できないのは、指導者の力量の差ではないかと。

勝手なことを言うのがTV観戦者の特権のようなものだと思っていますが、今日のレースを見ていてタスキの渡し時に、渡す相手が見当たらなくてタイムを大幅にロスするケースが、同じ中継所で3件ほど発生し、真にけしからんと腹立ちを覚えました。これは恐らく大会運営者の不手際だと思いました。最初の中継所の場合でしたら、混乱が予想されるので、多少の手違いはやむを得ないと思いますが、5→6区での出来事なのですから、呼び出しの不手際は譴責の対象に値するものだと思います。大会を運営するサイドの関係者は、もっと気を引き締めるべきです。不手際による1秒のロスが、この1年間を汗と泪で厳しい練習に耐えてやってきた選手たちにとって、どんなに大切なものであるかを、もっともっと肝に銘じるべきです。運営関係者の立て続けの不手際に、興奮するほどに腹が立ちました。

最後にもう一度腹を立たせて、今日の駅伝のコメントは終わりです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

青空

2010-12-26 07:54:30 | 宵宵妄話

 

が本格化しました。守谷のこの辺りでは、西高東低の気圧が居座り、晴天が続くようになると、冷え込みが一段ときつくなって本物の冬を実感するようになります。北国の大雪の話が伝わってくるのも、今頃からです。

 

冬の歩きは、枯れた草叢や芝生の中に野草たちの花を探すのが一番の楽しみですが、時に空を見上げることも又楽しみの一つです。幾つもある散歩コースの中で、決まって空を見上げる場所があります。3メートルほどの土手の下を通る道で、見上げると少しやつれた枯れススキの上に、底の抜けたような青空が広がっています。

 

青空を見るための脇役には、どのようなものが最適なのかという問いは、中学生くらいからの私の案件の一つなのですが、今のところ一番は晩秋に一つ残った赤い柿の実かなと思っています。そして2番目がこのススキなのかも知れません。曇り空では、決して見上げることのない通り道なのですが、今日は思いっきりその青の世界に同化し、散歩の時を忘れたのでした。

 

       

枯れススキの向うは、どこまでも澄んで果てしもない青の天空が広がっている。そしてススキの根元にはもう既に春が芽吹いていた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

電子辞書をもらう

2010-12-25 00:15:43 | 宵宵妄話

 

たち夫婦には二人の男の子がいます。私は彼らが独立してからは、基本的に自立を前提とした親子関係を重視しています。つまり本当に本人が困り、悩んでいるときに助け合うことは当然ですが、普段の暮らしぶりについては、干渉をしないという考え方です。一般に、子どもが元気な親に対して干渉するというケースは少ないようですが、元気な親が(或いは元気でなくても)子どもに対してあれこれ干渉する(或いはしたがる)という事例はかなり多いように思います。やはり何かと心配なのでしょう。

 

で、私は子どもに対して何の心配もないのかといえば、実のところは大ありです。子どもの現在や将来を全く心配しない親なんているはずがありません。もしいたとしたら、それはもう親などというものではないでしょう。ですから、子どもに対してちょっかいを出したがるというのは、本来許されて然るべきことなのかもしれません。

 

しかし、私は子どもの自立にとって一番大切なものは、本人がそのことを意識や行動においてしっかりと確立することだと思っています。そのためには親の干渉というものは百害あって一利なしと心に決めているのです。これはとり様によっては、随分と冷たい考えとなることは重々承知の上のことです。子どもの何ごとに対しても最初から丁寧に助言して、本人が正しい道を選択できるようにしてやるのが親の務めだとも思いますが、その務めの時期は最大限社会人となる前までであり、それから後の出来事は、子ども自身が己の判断・決断で進めるべきもので、例えその結果が誤っていたとしてもその責任は自分で取るべきと思うからです。

 

何でも親の言う通りに従って、何ごとも誤らないなどという人物がいたとすれば、それはロボットに近いというべきでしょう。人間というのは、自分で考え、自分で悩み、苦しみ、悲しみを存分に味わって、それを乗り越えて初めて成長するのだと思います。それらのプロセスを脇で黙って見ている親の気持ちというものは、相当に辛いものですが、これは子どもの成長のために親が耐えなければならない試練の一つなのだと思います。手助けをするのは、本人の成長のためにその手助けが本当に必要なのだと心底思った時だけです。この判断はかなり困難だと思いますが、本人を見ていれば自ずと気づくように思います。

 

さて、偉そうなことを述べましたが。親というのはやはり平凡な人間であり、親子関係での建前と本音とのギャップはそれほど大きくはありません。どんなに難しげな理屈でも、それを現実に当てはめれば、その殆どは当たり前のこととなります。私の倅は、二人ともとっくに成人して自立している現在では、普段の親子関係はお互いを労わりあうなどというものではなく、親子共々それぞれが元気で暮らしていれば良いというだけの関係となっています。

 

ところで、閑話休題。タイトルに戻るには少し長すぎる前置きでした。電子辞書をもらうという話でした。

 

先日突然長男から話があり、食事会をしたいけど都合はどうかという申出ででした。一瞬何のことだと不可解に思ったのですが、言われた日時は、毎日が休日の身には不都合である筈もなく、勿論OKと答えたのでした。何の食事会なのかと聞くと、親父の古希の祝いだというのです。それで二男の方もやって来て一緒にということでした。いやあ、少なからず驚きました。かつてこのような申出でがあったのを記憶していません。嬉しいなんぞという感情が湧いてきたのは、それからしばらく経ってからのことでした。どうやら食事会のことなどについては、事前に家内と相談していたらしく、知らないのは自分だけだったようでした。

 

で、プレゼントをしたいというのです。何がいいのかといわれても、思いつくものなどありません。すると電子辞書はどうかという話でした。その提案は、家内の助言らしく、私が最近愛用の電子辞書が時々言うことを利かなくなって来ていて、愚痴っているのを聞いていたからなのでしょう。そう来ると思っていたらしく、用意していたカタログを取り出しました。悪い話ではないなと思いました。とにかくカタログを見て、考えることにしました。

 

翌日良さそうと思われるメーカーと機種等を、カタログを参考にして家電の店に見に行きました。何種類もの製品が並んでいましたが、10年ほど前に買った現在のものとはその機能が飛躍的に拡大されているのを知り、驚きました。辞書などという言葉の持つイメージを超えています。音声や動画までが入っているのです。これ1台持っていれば、日常の大抵の出来事を調べたり、解決するには十二分といえるほどのものでした。価格も10年前に買った、当時の最高性能の製品の半分ほどなのです。あれこれ見比べて気に入ったのを決め、お願いすることにしました。

 

食事会はイタリアンレストランでした。これは私よりも家内を重視したようで、酒飲みの私にはワインはちょっぴり嬉しくもあり・なしという感じでした。会食の会話の中では、昔から外食をしない主義の親父が、子供の頃辛うじて連れて行った蕎麦屋の話などが持ち出され、それが又妙に詳しく覚えているらしく、子供というものは外食に憧れるものなのだなというのを知り、ちょっぴり苦い薬を飲まされたような感じがしました。日曜日に子供連れのファミレスなどが流行るのは、親の手抜きだと思い込んでいるのですが、これは少し修正しなければならないようです。ま、我が家の場合は既に手遅れということでありましょう。

 

何はともあれ、最近では超珍しい我が家の親子4人水入らずの会食が終って、改めてその電子辞書のプレセントを頂戴したのですが、渡す方も渡される方も照れくささの方が優先しているために、その受け渡しは真にブッキラボーの省略的なものでした。女の子でしたら、随分とムードが違うのでしょうが、男同士では、ま、このようなものだろうと思っています。

 

滅多にない出来事は事件のようなものですが、倅共がついに親父のロートル入りを確信し出したのだなと思いました。この事件は、嬉しさよりも寂しさの方が少し勝っているという気持ちですが、同時に自分自身もこれから先の老いの自立をしっかりしなければと思った次第です。子どもたちにとっての親への思いが、どのようなものであるのかはわかりませんが、老いたからといってやたらに擦り寄ってきたり、もたれかかってこられるような存在であって欲しくないということは言えるのではないかと思います。家内の方は可愛い母親ということでいいと思っていますが、自分の方は、もうしばらく、PPKの時までは、かわゆくない親父でいいと思っています。

   

倅どもから古希のプレゼントとして頂戴した電子辞書。さて、今の自分の人生のロケーションはどういうものかといろいろ辞書を引いてみたけど、どうやら現代では、古希ではなく、ロートル(=老頭児~中国語)の入り口に居るといった状況なのではないかと思った。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2日間の動かない旅

2010-12-24 00:43:41 | くるま旅くらしの話

 

 

久しぶりの霍乱(かくらん)に、隔離された部屋(=旅車のバンクベッド)で2日ほどゆっくり寝て過し、今日は少し揺れている身体の芯を元に戻すべく、10kmほど歩いてきました。もう大丈夫です。ところで霍乱といいますのは、本来の意味では現代の熱中症みたいなものを言うらしいのですが、ま、今は冬ですから、ここでは少しばかり身体の調子が狂ったという程度の意味で使っています。元々寝るのは大好きなのですが、2日間も寝ていると、身体というものは寝ている方が当たり前のようになってしまうらしく、立って歩くと身体の芯が定まらなくなってしまって、どうも歩きにくくてたまりません。やっぱり生きているというのは、寝過ぎてはダメなのだなと改めて気づいた次第です。

 

本当はこれらの日を含めて、近場の旅に出掛ける予定でしたが、一人車の中に隔離されて(念のため風邪が移らない様にと、自分で自分を隔離したのですが)、日中ベッドの中で読書などしながら眠り呆けていると、夜になると眠りが足りすぎてしまい、なかなか眠られなくなって、いやはやその夜の長いこと。旅で過すときの夜の時間の倍ほどの感覚となってしまいました。

 

二日目は終夜の雨で、これは眠れない夜の退屈を紛らわすためには、却ってありがたいことでした。どうしてかといえば、寝床からは50cmほどしかない天井を叩く雨音は、結構刺激的で、天意と言うか、大自然が空の上から落とす水の勢いの告げるものが何なのかを、あれこれと思ったりしていると、退屈はどこかに忘れてしまうからなのです。今日はこの話です。

 

今頃まともに雨音を聴いている、いや、聴くことの出来る日本人がどれほどいるのか?と、ふと思うことがあります。かく言う私自身だって、普段家の中に居れば雨音どころか、窓を閉めカーテンを閉めれば、雨が降っていることさえも気づかないという状況なのです。住いの環境が子供の頃の5~60年前とは大きく変わって、人間は、大自然と素直に向き合うような暮しからは断然抜け出し、暑さ寒さを自由にコントロールできる住環境を普通と思うようになってしまっています。それが悪いなどとはとても思えませんが、時々昔のことを思い出し、何だか少し行き過ぎてしまっているような感じにとらわれるのです。

 

人間は本来大自然の中の小さな一存在に過ぎないはずなのに、今や人間のための利得の追求に溺れて、地球を荒らしまわって、何でも思いのままに動かそうとしている感じがするのです。数十億年の地球の歴史の中で、何度も繰り返されているある種の生物(=動植物)の思い上がり現象が行き着く先が、すべて破滅や滅亡であったことを想うと、人間という生き物の可能性にも、このままでは限界が遠からず必ずやって来るに違いないと、そのように思うのです。

 

ま、このような話は最近では温暖化やエコなどといういわゆる地球環境問題として、全世界が危機感を抱くというテーマとしては、一応共有化に向かっているようですが、現実の暮らしの中で自分が何をどうするかについては、危機感からは凡そ遠い意識レベルの行為に埋められており、誰もそれを止めることができないのが現状です。本来個人を守る筈の国のレベルにおいても、危機に対する問題意識の宣言と実際行動には腹背と断言しても良いほどの落差があり、しかもそれが超大国なのですから、もはや地球は救われることはないのだと想わざるを得ません。

 

雨音を終夜聴きながら、時折強い風を伴って吹き付けるフォルテの天意は、これは悪意なのかそれとも忠告なのか。判断に迷います。今年一年の間に各地に起こった天災地変は、その多くが人災なのだと言われることが多いように受け止めていましたが、雨音を聴き続けていると、いや、あれは皆人災などではなく、天からの警告だったように思うのです。

 

しかし、この警告を受け止める資格のある人間がどれほどいるのでしょうか。環境破壊を一切しないで暮しを成り立たせている人間がどれほどいるのでしょうか。私自身だって、生きている間は自分が知る知らないに関係なく、環境を破壊し続けるのだと思います。雨音の告げる警告を受け止めたとしても、もはや世界全体が環境を破壊しなければ成り立たない、人間の生存システムを作り上げてしまった以上は、もはやこの動きは止まらないように思うのです。今のところこれが結論です。

 

2日間の動かないくるま旅の中で、今回は眠れぬ悩ましい一夜を過しました。それは天井を叩く雨音がもたらしたものでした。雨音といえば、私の最も好きな音楽家の一人、F・ショパンの作品の中の雨だれのエチュードが有名ですが、研ぎ澄まされた感覚の中に表現された、雨音のリズムの哀愁の中にも、よく聴くと、天からの警告とも思える箇所があるように思うのです。しかし、今から170年前の雨音を通しての天の警鐘は、随分と今よりは優しかったような気がするのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鬼の霍乱?

2010-12-22 06:43:15 | くるま旅くらしの話

末になって、今年最後の近場の旅に出かけようと思っていましたら、何と突然喉の半分が痛くなり、我慢しているうちに少し熱が出だして、何年ぶりかの風邪に取り付かれたようです。〇〇と△△は風邪を引かないという俗諺がありますが、それは自分のことなのだとこの頃は思うようになっていたのですが、どうやら古希を境に体調の方は脆くなり出したようです。

 

30歳代になるまでは、自分には扁桃腺炎という持病が取り付いていて、小学生の頃から毎年必ず年に2度喉が炎症を起こし、高熱を発して1週間ほど床に付すという症状を経験してきました。こうなったときには、医者に掛かろうとも全くお手上げで、只左右の喉の化膿が癒えて熱が下がるのを待つだけでした。30歳代は病にかかる暇などなく乗り越えて、40代の終わりになる頃から血糖値が上がり出してついに糖尿病を宣告されることになりました。それまでは、病といえばアル中(?)くらいのものだろうと思っていて、風邪を引くことなど滅多になかったのでした。糖尿病の宣告を受けてからも薬は殆ど飲まずに食事療法と運動療法を中心に何とか対処してきたのですが、これはもう扁桃腺炎とは違って高熱も頭痛もない凡そ病らしくない症状ですから、今の今まで春先の花粉症で薬を飲む以外は、薬も医者も自分には無用の存在に思えていたのです。

 

それが、古希を卒業したとたんに風邪を引くなんて、真に情けない話です。今年はインフェルエンザの流行が懸念されているようですが、こりゃあ、予防注射をして貰っておいた方がいいのかなと思い始めているところです。どうも流行などというものは嫌いで、ましてや風邪の類など真っ平ごめんと思っていたのですが、自分一人だけの問題で済むことでもなさそうなので、ここは一つ素直にならなければいけないのかと思っているところです。

 

ということで、今日のブログはお休みのようなものとなりました。まだ少し身体の芯がふらついているようなので、2~3日静養するかもしれません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2010年西日本への旅 でこぼこ日記:旅を終えて

2010-12-21 06:49:17 | くるま旅くらしの話

 

旅をえて> 

 

旅から戻って、早や3週間が過ぎてしまった。旅の期間と同じ時間である。記録の整理にこんなに時間がかかるはずはないのだが、旅の間とは違って、鮮度が薄れてしまい、その上に旅から遠ざかってしまった怠惰心が、あっという間に育ってしまうからなのだ。旅が終ってからは、毎度愚痴の類ばかりである。

 

 旅から戻った当初は、少しは冬の近づくのを感じても、庭の山もみじの紅葉は今一で、数本の連植の内の1本がわずかにそれらしくなった程度だったが、今は全体としてそれなりの風情を示している。この地の我が家にも紅葉があったのだと、今年初めて気づいたというお粗末さである。旅から戻って飛んでいった畑は、食用菊が真っ盛りだった。2日ほどかかって花を摘み、茹でたのをラップに包み、100個ほどを冷凍した。その他の野菜類(大根・蕪・チマサンチュ・レタス・カラシナ・メキャベツ)は順調に育ち、育ち過ぎたのもあって、旅と野菜作りのタイミングの難しさを改めて思い知らされた感があった。植物であっても、生き物というのは、やはり誕生からの生長のプロセスを決して忘れないものなのだと思った。

 

さて、今回の旅だが、それなりに良い旅だったと思う。晩秋(といってもさほどに寒さを感じない日が続いたが)の好日の中を、夫婦二人で歴史を探訪し、小島でのんびりし、又大自然の中を通り過ぎて全山紅葉などを味わって来れたのは、幸せということなのかも知れない。旅に出ると元気になるというのは真理であって、今回もたくさんの元気を頂戴したように思う。

 

 今回の旅は、まず目的地まで直行してしまい、その後でゆっくりしたいと考え、萩まで1,300kmを走りつないで行ったのだが、これはどうも失敗だったような気がする。足かけ3日も費やしたのに、その中身は只高速道などを走り続けただけで、出会いも発見も真に少ない時間だった。スピードを挙げれば上げるほど、出会いや発見が少なくなることは承知の上だったが、振り返ってみれば、味気ない時間だったような気がする。やはり時間をかけて、一般道をちんたらと行った方が旅らしいと思う。

 

 萩の歴史探訪はそれなりに意義があった。幕末長州の歴史を理解する上で、その町を歩き巡ったことは、大いに役立つと思う。観光バスのツアーで行くのとは違った歴史の受け止め方が出来ることがくるま旅の魅力だなと改めて思った。しかし歩き巡ったといってもわずか3日程度であり、まだ本当の萩という所には気づいていないのかも知れない。大雑把な理解で全てを知ったようなつもりになるのは思い上がりというものであろう。これからも何度か機会を作って町を訪ねてみたいと思っている。

 

 今回の旅のもう一つの大きな目的は、瀬戸内の島でのんびり過すことだった。そのメインにしまなみ海道の大三島を選んだのだが、それは正解だったとしても、肝心の過し方が大変難しいということに気づかされた。のんびりとかゆったりとかいうのは、イメージとしては分るのだが、その実際となるとどうもはっきりしない。毎日多々羅大橋を歩いて往復し、盛港の広場に屯して時を過しても、絶えず何やら細かな雑事にとらわれていることが多くて、とてものんびりなどという気分を実感など出来ないのである。恐らくこれは自分の生来の性質(たち)なのかもしれない。大きな目で見れば、それがのんびりということなのだよ、ということになるのかもしれないけど、自分にとっては、のんびり・ゆっくりは、どうやら瞬間的に味わうもののような気がする。

 

 旅では、その先々でその地らしさを見出し、気づいたときが何よりも嬉しい。そこにしかないもの、そこでしか見られないもの、そこにしかいないもの、等々に気づくことが旅の本質のように思う。勿論人との出会いが何より大切だと思うけど、旅は必ずしも人との出会いだけではないのだから。

 

 その地らしさという点では、今回の旅では道の駅:南飛騨小坂で出会った「猿追い払い隊」が一番印象に残った。御嶽山に通ずる飛騨の山奥ならではの仕事である。鳥獣とは共存しながら仲良くやって行こうなどというのが一般論の世界のコメントなのかもしれないけど、飛騨の山地の暮らしの中では、猿や熊や猪たちと仲良くやってゆくなどというのは、とんだ戯言ということなのであろう。彼らのために果樹や農作物をふんだんにプレゼントすれば仲良くやって行けるかもしれないけど、彼らには貨幣は無関係なのだから、永遠に支払いは果たされるはずがない。せめて警告・警鐘を鳴らし近づくな!と追っ払うのは、村人の優しさというものではないかと思った。一斉に鉄砲で退治してしまえば、彼らからの害を防ぐことが出来るかも知れないけど、それをしないところが哀しくも優しいところなのだと思ったのだった。

 

 今回は多くの知友の近くを通りながら何の連絡もせず素通りの旅となった。久しぶりに会いたいなという気持ちと、会うことになればお互いに煩わしい気遣いも生まれるなという、相半ばした葛藤があり、ま、時には全く自分勝手というかマイペースの旅があってもいいだろうと、どなたにもお会いすることなしの旅となった。少し淋しい気もするけど、自ら望んだことなのだから仕方がない。次回には元に戻そうと思っている。

 

  

反省点もある。その最大のものは旅の途中でバッテリーの一つを交換しなければならない事態が生じたことであり、更には残りのバッテリーもかなり性能が低下していることに気づかなかったことである。暮しの基幹部分となる装備については、それなりに事前のチエックを行なって来ていたつもりだったけど、大きな抜けがあったことを思い知らされて、反省しきりである。装備品にはどれも寿命があり、いつか修理や交換が必要だということを知りながら、そのタイミングを失してしまいがちである。これから物忘れが多くなる世代に入ってゆくわけなのだから、これを防ぐ方法を何とか確立しておかなければならないなと強く思った次第である。

 

 

3,400kmは少し走りすぎたと思うけど、我が家の近くには島から島へと掛かる橋もないし、みかん畑に囲まれて、終日身を置いてのんびり風に過せる島もない。一時の満たされる時間を求めるためには、今の時代では、これくらいの距離は必要だということなのであろう。旅で出会った多くの人たち、景色や風物に感謝・多謝で一杯である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする