妖怪をどんな単位の呼び方で言えばいいのか判らないのだが、取り敢えずここでは人間並みの数え方としておきたい。我が家には最近二人の妖怪が住みついている。いや、二人どころではない。目を凝らし、耳を澄ますと、その他大勢の妖怪たちの動き回るのが判るのだが、とりわけて目立っているのはコゴトババアとチョンボジジイという二人である。この二人の妖怪は、いつも我々の暮らしの傍にいて、争いを始めるので、最初はそれを見ているのが面白かったのだが、その争いが止むことなく続いているのを見ていると、もはやうんざり感しか覚えなくなって来ている。
この二人の妖怪の争いの始まりは、それがどのようなものであれ常にチョンボジジイが撒く種にあるようだ。播くのではなくチョンボジジイの種はいつも撒かれるのである。つまり、芽を出して育てようとするのではなく、そこいら辺に気まぐれ的にばら撒くといった感じなのだ。ばら撒くというのはつまりは再犯性が高いということであり、それがこの妖怪の際立った特徴なのである。で、たちまち妖怪コゴトババアの出番となるわけである。この連動の働きは見事なのである。
そのばら撒かれる種を幾つか挙げてみよう。先ず朝起きると誰でもそうだと思うのだけど、隣りの部屋に行くにはドアを開けなければならない。妖怪チョンボジジイは、それらのドアの幾つかを閉め忘れるのである。幾つかなどというと随分大きな家の様に錯覚されると思うが、実際はリビングから小さな廊下に出るための開き戸とトイレの開き戸の二つしかない。この二つの戸はチョンボジジイが通った後には全部締め切らないで、少しばかり残したままにしているのだ。そうすると、風が入ってきたり階下に住む孫たちの騒ぎ声が飛び込んできたり、或いはこちらのTVの音声が階下に流れ降りて迷惑を及ぼしたりするものだから、たちまち妖怪コゴトバアの出番となる。
チョンボジジイが何故このようなチョンボを繰り返すのかといえば、そもそもは開けても直ぐに戻るという前提で閉め残しているのだけど、途中で何かを思いついた時は、自分の部屋に入ってその処置をしている内に戻るのを忘れてしまうことが圧倒的に多いのだ。開けたら直ぐに閉めるというのを習慣づけていればいいのだと思うけど、この妖怪は直ぐに戻るのだから何も一々開け閉めしなくてもいいのではないかという合理主義的発想が頭にこびりついているので、それを捨て去ることが出来ないのである。
次に食中の食べこぼしというのがある。つまり、食事の間に食べているものを下に落とすというドジである。これは食べ方に問題があるのであろう。ゆっくりと良く噛んで食べれば、食べこぼしなどのドジは児戯となるに違いないのだが、この妖怪チョンボと言えば、生来の早食いなのだ。食事のテーブルに並べられた物は片っ端から全速力で食べようという姿勢が、子供の頃の飢えの時代に定着してしまっているようなのだ。一緒に食事をしても、コゴトババアが箸を取る頃にはテーブルのおかずの半分近くは無くなっているという早業なのである。この早業に対しては、コゴトババアはもうすっかり諦めているので文句は言わないのだが、食事が終わってチョンボジジイが退席した後に椅子の下に食べこぼしを発見した時は、たちまち伝家の宝刀のコゴトが飛び出して、小さい声でチョンボジジイの非を詰(なじ)るのである。 「ほんとに、何度言っても同じことを繰り返すのだから。もう、やんなっちゃう。」ということなのだ。
次に多いのは衛生観念の違いからくる問題である。例えば、着替えのことがある。妖怪コゴトババアは無類の洗濯好きで、一度着た物は直ちに洗濯せずにはいられないという思いで固まっている。しかしチョンボジジイと言えば、折角身体に馴染んだ下着なのだから、2~3日くらい着続けてもいいのではないかという考えがあり、時にはそれを実行している。それに気づくとコゴトババアは、小言よりも大きな声を出して着替えることを強要する。おかげさまで、チョンボジジイはこの頃は下着をほぼ毎日取り替えることになった。それなので、この点に関する小言は少なくなった様である。
しかし、衛生に関しては、もう一つのトラブルが時々起っている。それはチョンボジジイが台所に放置されている食器や鍋類の存在を嫌うことから始まっている。キレイ好きの筈のコゴトババアなのだが、何故なのかこの台所の使用済用具を直ぐに洗おうとせず、ため込むのである。必ず「あとでやるから、そのままにしておいて」というのだが、その「あとで」が実行されるまでには相当の時間がかかるのだ。それを我慢できないチョンボジジイは、直ぐ様自分で洗うことを決行する。台所が片付いてさっぱりしたので、安堵していると、しばらくすると、何とコゴトババアがもう一度それらを洗い直しているではないか。当然チョンボジジイは黙ってはいられない。するとコゴトババアがいうには、汚れが落ちていない、とか洗剤を使い過ぎてそれが残っているとかいうのだ。洗剤を使い過ぎると言われてからは、基本的に洗剤は使わないことにしたのだが、今度は汚れが落ちていないというのだ。要するにやり方が下手というのであろうが、だったら溜め置きしないでサッサと洗えばいいのではないかと思うのだが、どういうわけかそれは実行しないのである。
そもそもチョンボジジイの衛生に対する考え方の根底には、バイキンとの共生というのがある。バイキンと敵対するのではなく、仮にバイキンを食べたり飲んだりしても、身体の中で一緒に仲良くやって行こうや、という発想なのだ。だから食器類の扱いについても、バイキンと敵対して、ここぞとばかりに消毒を兼ねてきれいにするなんてナンセンスだと思っている。そのようなことをしたって、あっという間にバイキンが取り付くのが彼らの世界なのだ。
だからと言ってバイキンの全てを受け入れるなどという考えは毛頭ないけど、ほどほどに仲良くしていればそうそう病に取りつかれることはあるまいと信じている。この発想の違いは決定的であり、コゴトババアの世界にはそのようなことは全くあり得ないのだ。そこでこのような軋轢が随所で起こることになり、結果としてコゴトが続発することとなる。
思うに、この二人の妖怪はいつからここに住みこむようになったのであろうか。妖怪の発生はもしかしたら、一緒に暮らし始めてからなのかもしれない。それに気がつかなかったのは、お互いに迂闊だったということなのだろうけど、今頃になって気づくというのは、お互いの我がままが表出したということなのかもしれない。もしかしたら、この我ままこそが妖怪の本性なのかもしれない。これを誑(たぶら)かして来たものは何なのだろうと思う。そして又それを表出させているものは何なのだろうとも思う。
生きている、生きられる残りの時間が少なくなってくると、生き物というのはその本性をむき出しにし、ありのままに生きようとするのかもしれない。この二人の妖怪を見ていると、こりゃあ、もはや落とし場所がないのではないかと、ふと思うのである。だとすれば、チョンボはチョンボでいいし、小言は好きなだけ言い続ければいいんじゃないかと、だんだん悟りに近づいている感じがするのである。