昨日(9/27)は中秋の名月でした。今年こそは観なければと思いながら、夕方になるとすっかり忘れており、一杯やった後はたちまち寝床へ直行で、目覚めたのは今朝の4時過ぎでした。例年、こんな調子で過去75回も中秋の名月を観るチャンスがあったのに、それを叶えたのは子供の頃の数回くらいしかないのです。歳をとるにつれて、次第に夜空を観るという気付きが薄れてしまい、我ながら浮世の垢にまみれて天の営みを感ずる感覚を失っているのを思い知らされます。
それで、今夜はどうしても話題のそのスーパームーンとやらを観なければならないと心に決め、昨日の売れ残り(?)の月見団子と饅頭を買って来て小テーブルに供えて19時少し前からベランダで月が登って来るのを待ったのでした。月の出は18時少し前なのですが、それを確認できたのは18時を少し過ぎた頃でした。我が家は南向きなのですが、東側には書斎の小窓しかなく、上り始めの月はそこから立ってしか見えないのです。それでは観月にはならないので、ベランダということになるのですが、今年の春に2階へ越してからほとんどベランダに出ることは無く、月がどの方向からどのように見えるのか見当がつき難い状況でした。
とにかくベランダ(と言っても屋根が半分出ているのです)に小テーブルを置き、その上に買ってきた月見団子と饅頭を備えて、月が回ってくるのを待つことにしました。勿論お神酒は当然で、お月さまが顔を見せてくれない内から盃を上げさせて頂いたのは言うまでもありません。30分くらいチビチビやりながら待っていると、やがて屋根の庇(ひさし)の脇から丸い月が顔を出してくれました。感動の一瞬です。杯を高く上げてご来光を祝しました。
その内にテーブルの上に何か物足りなさを感じて、そうだ月見団子の代わりにジャガイモを茹でたのをお皿に盛ろうと思い着き、急遽その実行に取り掛かりました。ジャガイモは北の大地の恵みを知人から頂戴したものです。20個ほどを盛り上げて、これならばお月さまも満足してくれるに違いないと、30分後に改めて祝杯を上げ直しした次第です。
満月には願い事が付いているらしいのですが、もうこの歳になると願い事など特にありません。只ただ、このように穏やかに月を眺める時間が来年も持てればいいなと思うだけです。スーパームーンというのが何なのか、ニュースで騒がれることの実感は全くないのですが、スーパーであっても無くても、滅多に夜空を眺めることのない今の暮らしの中では、このような時間は貴重だなと思いました。
その内に家内も出て来てしばらく同じ夜空を眺めていたのですが、まあ、こんな恰好で夜空を眺めている人たちが、この守谷市の中に何人いるのかな、などという話となりました。月見とか中秋の名月とか、ことばは氾濫していても、あの月に人間が行って歩き回ったり、地球の周りを人工衛星が飛び回っている今の世では、人々の感動は薄れて来ており、実際に夜空を仰ぐという楽しみをもはや失ってしまっているのかも知れません。
「天」ということばが好きなのです。このことばには単に物理的な「宇宙」などという意味だけではなく、もっともっと神秘的で不可思議な力の存在を感ずるのです。「絶対神」「絶対創造主」の様な偉大な力を秘めている存在が「天」なのだと思うのです。そして、それは空を見上げる時、特に夜空を見上げる時に強く感ずるのです。
子供の頃には関東の北部の夜空には広く天の川が掛っていました。10歳前後の頃から随分とその天の川を見上げたものでした。今の夜空には天の川は見えず、星の煌めきも子供の頃に眺めた1割にも満たないように思います。このような状態では、もはや子供たちに夜空を見させることは困難です。望遠鏡を買っても暗い場所を探すのが困難な都市近郊の夜となってしまいました。これでは「天」に気がつく子どもや若者は減るばかりでありましょう。同じ地球なのに、たった70年足らずで、人間は天を曇らせ遠ざけてしまっているようです。
ま、愚痴をこぼしていても始まりません。今夜の月は邪魔する雲も少なく、心地よい夜の風に当りながら、1時間ほどたっぷりと久々の満月を眺め、天の恵を感じながら思いに浸ったのでした。あと何回この名月を味わい観ることが出来るのか。これからは毎年見落とすことが無いように、天の恵の時をしっかり捉えてゆこうと思っています。
我が家のベランダから観た今年のスーパー満月。1時間ほどちびちびやりながら久しぶりの天の恵みの一時を味わった。