山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

スーパー満月を観る

2015-09-28 23:29:51 | 宵宵妄話

昨日(9/27)は中秋の名月でした。今年こそは観なければと思いながら、夕方になるとすっかり忘れており、一杯やった後はたちまち寝床へ直行で、目覚めたのは今朝の4時過ぎでした。例年、こんな調子で過去75回も中秋の名月を観るチャンスがあったのに、それを叶えたのは子供の頃の数回くらいしかないのです。歳をとるにつれて、次第に夜空を観るという気付きが薄れてしまい、我ながら浮世の垢にまみれて天の営みを感ずる感覚を失っているのを思い知らされます。

それで、今夜はどうしても話題のそのスーパームーンとやらを観なければならないと心に決め、昨日の売れ残り(?)の月見団子と饅頭を買って来て小テーブルに供えて19時少し前からベランダで月が登って来るのを待ったのでした。月の出は18時少し前なのですが、それを確認できたのは18時を少し過ぎた頃でした。我が家は南向きなのですが、東側には書斎の小窓しかなく、上り始めの月はそこから立ってしか見えないのです。それでは観月にはならないので、ベランダということになるのですが、今年の春に2階へ越してからほとんどベランダに出ることは無く、月がどの方向からどのように見えるのか見当がつき難い状況でした。

とにかくベランダ(と言っても屋根が半分出ているのです)に小テーブルを置き、その上に買ってきた月見団子と饅頭を備えて、月が回ってくるのを待つことにしました。勿論お神酒は当然で、お月さまが顔を見せてくれない内から盃を上げさせて頂いたのは言うまでもありません。30分くらいチビチビやりながら待っていると、やがて屋根の庇(ひさし)の脇から丸い月が顔を出してくれました。感動の一瞬です。杯を高く上げてご来光を祝しました。

その内にテーブルの上に何か物足りなさを感じて、そうだ月見団子の代わりにジャガイモを茹でたのをお皿に盛ろうと思い着き、急遽その実行に取り掛かりました。ジャガイモは北の大地の恵みを知人から頂戴したものです。20個ほどを盛り上げて、これならばお月さまも満足してくれるに違いないと、30分後に改めて祝杯を上げ直しした次第です。

満月には願い事が付いているらしいのですが、もうこの歳になると願い事など特にありません。只ただ、このように穏やかに月を眺める時間が来年も持てればいいなと思うだけです。スーパームーンというのが何なのか、ニュースで騒がれることの実感は全くないのですが、スーパーであっても無くても、滅多に夜空を眺めることのない今の暮らしの中では、このような時間は貴重だなと思いました。 

その内に家内も出て来てしばらく同じ夜空を眺めていたのですが、まあ、こんな恰好で夜空を眺めている人たちが、この守谷市の中に何人いるのかな、などという話となりました。月見とか中秋の名月とか、ことばは氾濫していても、あの月に人間が行って歩き回ったり、地球の周りを人工衛星が飛び回っている今の世では、人々の感動は薄れて来ており、実際に夜空を仰ぐという楽しみをもはや失ってしまっているのかも知れません。

「天」ということばが好きなのです。このことばには単に物理的な「宇宙」などという意味だけではなく、もっともっと神秘的で不可思議な力の存在を感ずるのです。「絶対神」「絶対創造主」の様な偉大な力を秘めている存在が「天」なのだと思うのです。そして、それは空を見上げる時、特に夜空を見上げる時に強く感ずるのです。

子供の頃には関東の北部の夜空には広く天の川が掛っていました。10歳前後の頃から随分とその天の川を見上げたものでした。今の夜空には天の川は見えず、星の煌めきも子供の頃に眺めた1割にも満たないように思います。このような状態では、もはや子供たちに夜空を見させることは困難です。望遠鏡を買っても暗い場所を探すのが困難な都市近郊の夜となってしまいました。これでは「天」に気がつく子どもや若者は減るばかりでありましょう。同じ地球なのに、たった70年足らずで、人間は天を曇らせ遠ざけてしまっているようです。

ま、愚痴をこぼしていても始まりません。今夜の月は邪魔する雲も少なく、心地よい夜の風に当りながら、1時間ほどたっぷりと久々の満月を眺め、天の恵を感じながら思いに浸ったのでした。あと何回この名月を味わい観ることが出来るのか。これからは毎年見落とすことが無いように、天の恵の時をしっかり捉えてゆこうと思っています。

     

我が家のベランダから観た今年のスーパー満月。1時間ほどちびちびやりながら久しぶりの天の恵みの一時を味わった。

 

 

 

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老人の捉え方

2015-09-22 11:05:25 | 宵宵妄話

 今週は先週末から休日が連続していて、明日まで続くわけですが、毎日が休日の私には今一そのありがたさも辛さも感ずることはありません。この頃は休日が続くと、家の近くの常磐道の混雑が激しくなるので、ああ、あそこを走らなければならない人たちは大変だなあと思うだけです。同時に、こんなに混むときには決して旅はしないことに気持を固めています。守谷には守谷SAがありますが、このSAは都心に向かう最後の拠点となるので、連続する休日の初めと終わりは大変な混雑となります。東京や川崎に住んでいる時は、この守谷SAまで来ると、自宅まで延々と続く低速道路に入り込む覚悟を決めたものですが、今はその必要もなくなり、都心を通ることも滅多に無くなりました。老境という奴の一現象なのかも知りません。

 昨日は敬老の日でした。そのことに気づいたのは、勿論今朝になってからです。このところ新聞の折り込み広告などやTVのコマ―シャルなどで「シルバーウイーク」というのを盛んに言うので、そんなに大げさに老人を持ち上げなくてもいいじゃないかなどと思っていたのですが、よく考えてみれば「シルバーウイーク」というのは老人週間ではなくて、5月のゴールデンウイークに対する連続休日期間への愛称の様なものなのでした。今の時代人口の1/4を超える老人世代に、愛称をつけるほど世の中は甘い筈もなく、とんだ間抜け老人の思い上がりなのでした。

 守谷市では毎年敬老に日には敬老会なるものを開催しており、今年も大分前にその案内が届いていたのですが、先日の大雨による鬼怒川の氾濫・洪水により隣りの常総市が大被害を受けたため、敬老会は中止するという緊急通達が届きました。これは真に当を得た判断だったと思います。一つには予定していた会場が常総からの避難者の方の避難場所として提供されていたということもあったのでしょうが、何しろ隣町の未曽有の大災害だったのですから、老人世代には知人も多くいて、のんびり敬老会などというわけにはゆかないという心情を汲んだものだったのかもしれません。

 いずれにしましても自分としては敬老会には二度と出席しないと決めていますので、取り止めになっても落胆することなど全くありません。最初の案内には、今まで昼時に配られていた赤飯を止め、今年からは紅白饅頭を配ることにしたとありましたが、それが不意になったとて、惜しいとは思いません。中止したのだから、使わなくなった予算費用は全部まとめて常総市の被災者の皆さんに寄付して欲しいと思うだけです。

 厚労省の発表では、今年の9月20日付けの65歳以上の高齢者は3,384万人で、総人口比が26.7%となっているとのことですが、この数値は江戸時代の日本国の総人口を上まわるものであることを考えると、高齢者なる者のこれからの生き方が多く問われる時代なのだと思わずにはいられません。

 自分自身も又高齢者の中に居て、間もなく医療対応では後期高齢者なるものに取り込まれることになるのですが、一番の基本として、「高齢者とは何か」ということを、国全体としてもっと議論する必要があるように思われてなりません。65歳以上だとか、後期高齢者だとかいう安易な区分で高齢者を捉えるのではなく、より精神活動と身体活動の実態に合った細かな区分が必要なのではないかと思うのです。それを確立できれば、よりきめ細かな高齢者対応策が生まれてくるように思うのです。

 私が密かに考えている老人の捉え方があります。それを参考までに紹介することにします。

 準老(65歳以下)

  順老(65歳~75歳)

  真老(75歳~85歳)

  深老(85歳~95歳)

  超老(95歳以上)

「準老」というのは、まだ老人ではなく、老人に準ずる世代の人々です。「順老」というのは自身が老であることを確認し始め、それに従う決心をする世代です。次の「真老」というのは、心身共に老人に相応しい自覚を持った世代です。更に「深老」というのは、老が深まって生きることへのこだわりが少しずつ解消されてゆく世代です。そして、「超老」は、もはや老など問題にしない、生死を超えた生きざまの世代です。

 これらの世代の特徴や課題について現在思案中ですが、それらがまとまったら改めて披歴させていただきたいと考えています。現在の様な老の区分では、社会政策としてもそれぞれの世代にフィットしたものは生まれにくく、老人を一からげにして扱うことのミスマッチが拡大して行くに違いありません。せめて、自分自身だけでも、或いは道づれとして家内も一緒に、この区分に従った生き方、暮らしの有り様を考えていきたいと思っているところです。

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金木犀は薫り始めたのに

2015-09-17 19:25:54 | 宵宵妄話

 

 

常総市の大水害のことを考えながら歩いていた。

常総という言葉からは、今時ならば高校野球の常総学院のことを思い浮かべ、あの学校がある市ではないかなどと考えてしまう人が多いに違いない。しかし常総学院は土浦市の所在で、鬼怒川や小貝川からは遠く離れた場所にあり、洪水に見舞われる可能性は皆無と言っていいと思う。 

そもそも「常総」などという曖昧な地名を市名として冠するなんて、何だか変だなと、以前から違和感を拭えないでいた。水海道市と石下町が合併して常総市となったのだが、旧市町名をそのまま使うことに勢力争いの様なものが入り込んで、双方に差し障りのないようにと新しい名称を持ってくるという奴で、お陰で以前の市や町の存在がさっぱり判らないものとなってしまう。常総市もその例の一つである。今回の災害でも石下とか水海道とかいえば、直ぐに場所がイメージできるものを、常総などというから何処なのか見当もつかないと感じた人は多い筈だと思う。

「常総」がなぜ曖昧な地名なのかといえば、それはこのことばが古代の領制国の呼び名である「常陸(ひたち)」と「下総(しもうさ)」から作った合成語だからである。守谷のこの辺りをふざけ半分に「ちばらき県」などと呼ぶ人がいるけど、これは千葉県と茨城県をミックスしたエリアというほどの意味であり、「常総」というのも似たようなものだ。この地が常陸の国でも下総の国でもない、その双方がミックスしている風土だということからは、必ずしも間違ってはいないと思うけど、「ちばらき県」でもないのに、常総市などと名乗るのは、何だか変なように自分には思えるのである。

それはともかくとして、この常総市だが、2006年の年初の合併から9年が経過した時点で、これ程の大水害に見舞われようとは、まさに神のみぞ知るという出来事だったのかもしれない。結果論としてこれから様々な問題点の指摘が浮上してくると思うが、ふと思うのは、常総市というのは、この9年間の間に果たして本当に常総市になっていたのかということだ。水海道市と石下町が一緒になっただけのままで、合併によるメリットがこのような非常時に活かされるような体制が出来上がっていたのだろうか。逆に言えば、合併などしなかったなら、それぞれが石下町、水海道市としてよりきめ細かな対応が図れたのではないかという疑問である。

もし合併によるメリットが住民の暮らしの安全・安心の向上に寄与せず、経済性などの効率向上に偏っていたとするなら、住民は合併というものについて、安易な判断を下すべきではなかったのではないか。平成の大合併というものについて、予てから不可解な部分を拭いきれない自分には、ついそう思ってしまうのである。

9月10日の堤防決壊以来、ここ数日ほぼ毎日鬼怒川と小貝川の傍を歩きながら、あれこれと考え続けている。人間の営みの大自然の中での危うさを想わずにはいられない時間だった。

如何に想定外の出来事とはいえ、今の時代に一つの市がこれほど壊滅的な災害を被るとは。 如何に大自然の猛威によるものだったとはいえ、それだけの理由で嘆息して済まして良いのであろうか。大いなる油断があったに違いない。その油断に対して国も県も市もそして市民も、又我々地域の住民も、絶大な反省をしなければならないのではないか。そう思った。国は全国すべての河川の氾濫を食い止める堤防造りを早期に完成させるべきであり、県も市も非常時の対応・即応体制をより現実レベルでしっかり構築すべきであろう。そして住民も又われわれ一般国民も、それぞれの状況に合わせて、いざという時に何をどうすればよいかの現実的な確認を、己自身の普段の暮らしの中で、しっかり行っていなければならないのだと、改めて思った。

歩きの途中で突然鼻腔を刺激する高貴な香りが流れて来た。ハッと気づいて道端の樹木に目を移すと、そこに咲き始めた金木犀の橙色の花があった。ああ、もういつものように金木犀の香る季節になったのだなと、そう気が付いた。素直に花の香を愛でられる時間が早く戻ってくればいいのになあと思った。

 

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孫娘誕生す

2015-09-15 04:24:10 | その他

このところ隣町の常総市の被った未曽有の大水害のニュースの中にあり、実際暮らしの上でも車の通行他いろいろな面での影響が出てきています。まさに想像を絶する大事件であり、これからはその復興のために、我々も出来る限りの支援を心がけてゆこうと考えています。それにしてももの凄い大雨でした。

その大雨の降りしきる10日の昼前に、我が家ではつくば市の産院で倅夫婦に待望の孫娘が誕生しました。予定よりも一週間ほど早い誕生でしたが、母子ともに元気で、先ずは何よりも安堵しました。私は風邪気味なので、産院には出向かず倅の撮って来た写真で、初めて会う孫娘の顔を見たのですが、上の男児よりも髪の毛も黒くて、顔もふっくらとしており、こりゃ、美人になるぞ!と、密かに思いました。

何しろ二番目の内孫なのですから、それが今度は女の子というのは、真に嬉しいもので、この歳まで生きて来た甲斐があったというものです。外孫には二人の孫娘がいるのですが、高校生と中学生の二人に会えるのは滅多になく、小さい時から数えて見ても50回にも満たないような気がします。普段離れて暮らしていると、何となくお互いに遠慮の様なものが入り込んでしまうのはどうしようもありません。内孫ならば、旅に出かけている間を除けば、年間200回以上は顔を合わせることになるでしょうから、やはりお互いの関係はより濃く身近なものとなるのは当然のことです。

上の孫は今は1歳半となり、毎日ジサマとの自転車ドライブを楽しみにしています。普段は車での移動ばかりなので、直接風に触れることのできる自転車ドライブは、今は彼の無上の楽しみとなっているようです。それ以上にジサマも楽しんでいることは言うまでもありません。この上の孫が自転車ドライブを卒業する頃には、今度は孫娘が興味を示し出すことは間違いなく、早くもその期待が高まります。自転車だけではなく、他にも様々な楽しみが生まれてくるに違いありません。

今年はこの孫娘の誕生を待って、大事を取って夏の北海道行を断念し、更には7月下旬からは酒のラマダンを敢行して突発時に備えて来たのですが、それらの嬉しい苦行(?)が無事に実を結んで、ジサマは今有頂天の気持です。早速自分一人で祝杯をあげ、それがもう5日も続いています。孫娘は昨日退院して嫁御の里にて静養し、我が家に戻るのは1カ月後くらいになる予定ですが、一段と輝きを増したその顔を見るのが今から超楽しみです。嵐の中の嬉しい出来事の報告でした。

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気を揉むだけの一日(常総大水害)

2015-09-12 05:11:23 | その他

 昨日から一夜明けて、我が家の空は被災地に救助に向かうヘリコプターの音が、早朝から日没まで響き渡っていた。我が家から数百メートル離れたM社の工場の敷地内が救援の基地となっていて、ひっきりなしに騒音が続いていた。しかし、今度ばかりはどんなに爆音的な騒音であっても、あの中にはとんでもない難事に遭遇された人たちが運ばれているのだと知っているので、文句を言う気持など更々なく、少し羽音の高い天使の翼が行き交っているのだと思うことにした。それにしても、一日が経った今でもまだ救助を待っている人がいるとは、普段のこの辺りの暮らしぶりからは想像だにできないことである。

 今朝は5時過ぎに、珍しく自転車に乗って市中見回りに出かけた。何時もの散歩コースの内の、小貝川堤防コースとそれから鬼怒川コースとを歩くには、徒歩だと4時間くらいはかかってしまうので、今日は特別に自転車とした。まだ夜の明けきらぬ中、家を出てTXの基地を回って小貝川の堤防に出たのだが、川の水は予想以上に溢れていて、何時もなら川原に生えている樹木たちが川の流れを見るのを遮っているのに、今日は水没したそれらの樹木の向こうを濁流が勢いよく流れているのが見えた。時々渡っている沈下橋は完全に水没していて、今はその存在すら全く見当もつかない濁流の中だった。堤防の上をしばらく走ってつくばみらい市の谷和原大橋に至り、そこから鬼怒川の方へ向かう。実のところ自分としては30年ほど前に大暴れした小貝川の氾濫の方を心配していたのだが、その後の補強工事が力となっているのか、今回の大雨では小貝川のこの辺りの堤防はびくともしなかったようである。何時も歩いている時よりはかなり水量は多かったものの、無事だった事を改めてありがたく思った。

      

つくばみらい市筒戸地区を流れる小貝川の様子。ここには向こう岸に渡る沈下橋があるのだが、今は完全に水没している。

 谷和原大橋から鬼怒川までは1kmほどはあろうか。途中国道294号線と地方道のふれあい道路と呼ばれている道を横切るのだが、国道もふれあい道路もそれぞれの交差点で通行止めの規制が行われていて、多くの車が立ち往生していた。まだ6時を少し過ぎた時刻だったが、運送業の人たちには厳しい一日の始まりとなっているのを気の毒に思った。

 鬼怒川にかかる玉台橋を渡る。この橋の先に常総市の内守谷地区の工業団地があり、そこを目指すトラックなども多いので、今日は大変なのだろうなと思った。玉台橋から覗く鬼怒川は、いつもとは様相を変えた凶悪な色をしていた。この上流十数キロのところで堤防を決壊させ、それを無視して流れて来た濁流がそのまま押し寄せ続けているという感じがした。川の両側に茂っている篠藪や樹木の茂みも濁流に表われて、従順な様相を呈していた。

     

つくばみらい市と常総市とを結ぶ玉台橋から見た今朝の鬼怒川。これは下流の方を見た景色である。左方が守谷市、右方が常総市側となっている。

 その後は何時もの散策コースを守谷市の滝下橋の方へしばらく行ったのだが、途中内守谷の工業団地に入る道があるのだけど、そこは完全に水没していて、その向こうに見える工場の建物は大丈夫なのかと心配になった。その傍に鬼怒川から水を引くポンプの機械室があるのだが、その傍にいた近所に住むおばさんの話では、昨日はその機械小屋のすぐ傍まで水が来ていたとのこと。今はその時よりも5mは水が引いているのだと、勢いよく言っていた。かなり興奮されていたようだ。

滝下橋は鬼怒川に架かる橋で、守谷市と常総市をつなぐ最重要の橋なのだが、このところ老朽化が問題となっており、大型トラックの通行に支障をきたしており、いろいろ話題になっている橋である。その下に流れる鬼怒川は少し先で利根川と合流するのだが、その少し手前あたりが鉄道等に主役を奪われるまでは船便での交易で栄えた河岸があった所である。橋の上から覗くと濁流は相変わらずだけど、恐らく昨日は今見えているあの川岸の辺りまで水が来ていたに違いない。守谷市で避難勧告が出されたのは、恐らくこの辺りに住む人たちではなかろうかと思った。そのあと、河岸の方にも行ってみたが、いやあ、こりゃあ、この辺に住んでおられる方は昨日は穏やかではなかったろうと改めて思った。          

       

守谷市の滝下橋(上方の赤い橋)下流の河岸跡辺りから見た鬼怒川の様子。昨日はこの鉄柵辺りも濁流に洗われていたようだった。

その後あちこちと野次馬根性を発揮しつつ一回りして、家に戻ったのは7時半近くだった。利根川近郊はどうだったのかは判らないけど、トータル的に見れば守谷市は幸いにして被害は少なくて済んだようで、先ずは安堵した。

その後の常総エリアの災害状況が気になったが、被災情報は関係者以外には全く届かず、すぐ近くに住んでいても北海道や九州の人達と同じようにTVを見て知るしかないのである。非常時は野次馬などが入る余地はなく、関係者に万事委ねるしかないということなのであろう。しかし、何だか物足りない気分は拭われなかった。何度も往復するヘリの爆音を聞きながら、先ずは一時でも早く一人でも多くの被災者が救われることを、やきもきしながら思った一日だった。

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とうとう川が鬼になってしまった

2015-09-11 04:46:42 | その他

 とんでもないことが起こってしまった。自分の住む町近くの身近な場所で、普段は優しげに流れている河川が、鬼に豹変したのである。その名は鬼怒川。まさに鬼が一気に怒りをぶちまけたように荒れ狂って、抑え込まれていた堤防を食い破って、見境もなく濁流を放ったのだ。目を疑うような、信じられない出来事が出来したのである。しかもその怒りは未だ収まる様子もなく、今も続いている。恐ろしいことである。

 取り敢えず私どもを気遣って下さる知人の皆様に無事をお伝えするつもりでこれを書いている。昨日(9/10)のTV報道では、画面に守谷市の名前も出ていたので、全国各地の何人かの方から心配されてのお見舞いの電話やメールを頂戴した。守谷市は、常総市に隣接しており、市の西側の境界近くを運河で出来ている鬼怒川が流れている。江戸時代の大工事で出来上がったもので、強制的に鬼怒川を利根川につなげたものである。この運河は明治・大正期までは江戸につながる水運を利用して、守谷市の一部を栄えさせ、その河岸跡も一部残っているようだ。常総市からは直ぐの下流域に当るので、上流が大洪水ということになると、地形を知らない方には相当に心配されたのではないか。

 鬼怒川の運河のことについては、以前このブログでも書いたことがあり(2008-12-14付「鬼怒川のこと」参照)、自分には散策コースの一つとして、この運河の側を歩いていることを述べた。運河の特徴として、自然とは違って川原の様なものがないことが挙げられるように思う。守谷市を流れる鬼怒川は、川の両岸は大きな樹木や竹林などで覆われていて、直接川を見ることができる場所は少ないのである。大地を削って巨大な溝を掘り、それに本来の川の水を流しているので、当然洪水や氾濫のことを考慮した造りとなっているのだと思う。だから、自分的にはあまり水害のことは心配していなかったのだが、今回の大雨はそれを上まわる脅威だったようだ。まだ現地を見ているわけではないので、何とも言えないけど、落ち着いたら再点検してみたい。

 私が住んでいる守谷市の北守谷地区は、守谷市を囲む鬼怒川、小貝川、利根川の三つの河川からは少し離れた台地上の地形の上にあり、氾濫・洪水による水害からは安全、大丈夫と言っていい場所だと思う。今回もTVを見ていなければ、気づかないほどの雨降りだったのである。先日偶々防災についての話があり、自治会の仲間たちと話し合った中でも、水害のことは話題にはならず、怖いのは人災の火事や盗難ではないかということだった。地震についても地盤が堅固な場所が多いので、それほど神経質になる必要もなかろうということだったが、これは本当のところは解らない。

 さて、話を戻して、とにかく私どもはいつもと変わらずに無事で暮らしておりますので、どうかご安心ください。もう間もなく夜が明けますが、常総市の堤防決壊の惨事は依然とその後も洪水が続いており、不安で眠れぬ夜を過ごされた方も大勢いらっしゃることですから、一時でも早く救助の手が届くことを願っています。被災された皆さまには、心からお見舞いを申し上げます。

取り敢えずの私どもの現況報告でした。ご心配いただいた皆様に心からお礼申し上げます。馬骨拝

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北守谷地区の二つの遊歩道の罪

2015-09-08 14:27:42 | 宵宵妄話

 こんなところで、自分の住む町の問題点などを披歴するのはお門違いというものかもしれません。でもちょっぴり気になっていることであり、為政を担当する人や公共に係る仕事をする人には、是非とも留意して頂きたいという思いがあります。

 私は茨城県の最小面積の市の守谷市に住んでいます。その面積というのは、約36k㎡ですから、北海道のパイロットファーム4~5個分くらいしかありません。単純に正方形をイメージすると、一辺が6kmに過ぎません。つまり守谷市を真っ直ぐに歩いて横切るとしたら、わずか1時間余りで通過してしまうということになります。実際は正方形ではありませんので、最長は7kmを超えるくらいはあるようです。

 その小さな面積の守谷市なのですが、人口は6万5千人を超え、尚増加しつつあります。これはTX(=つくばエクスプレス)の開通が与って大であり、守谷は都心とつくば研究学園都市との中間に位置しており、便数も多く、都心まで30分あまりの近さであり、優れた通勤圏内の場所として、今しばらくは人口の増加が続くものと思われます。

 私が住んでいるのは、守谷市の北部のつくばみらい市に隣接するエリアで、昔の住宅公団が開発した分譲土地や住宅が広がっています。30年ほど前に出来上がったようで、往時はいろいろ工夫して公園や遊歩道なども多く取り入れて、新しい住民のためのコミュニティを造ったようでした。糖尿病を宣告されて以来、歩くことを自らに課している自分には、とても嬉しい環境が用意されていました。

 その一つは「せせらぎの小路」という長さ500mほどの散歩道で、ここは太陽光発電によって地下からくみ上げた水を、小さな用水路に流しているのですが、その両側は何種類かの樹木に覆われており、真夏でも散策が可能な小路造られています。「せせらぎ」というほどの水音を聴くのは難しいとしても、緑の環境はひと時の心の安らぎを味わうのには不足ない静けさがあります。

 もう一つは「北守谷遊歩道」と名付けられたやや長距離の周回散策路で、これは北守谷地区の東西南北に交差する二本のメイン道路を4つの歩道橋で渡ってつなぐ、長さ2.4kmの道です。こちらは歩道橋が4つもあって、樹木は少ないのですが、途中に公園なども幾つかあって寄り道しながら緑の季節や紅葉の季節を楽しめる嬉しい環境にあります。

 この二つの道をここ10年と少し、ほぼ毎日利用させて頂いていますが、歩くたびにその歩きにくさに残念さが募り、ついには怒りに近い気持が湧くのを、この頃は抑えるのが難しくなってきています。それは何かといえば、「せせらぎの小路」の方は、折角の散策路が何の気まぐれなのか、敷石のでこぼこ道や、未舗装の場所や、或いはタイルなどが敷かれている箇所があって、真に歩きにくいということです。それぞれの道の状況を味わわせるには良い趣向なのかもしれませんが、このような道では、例えばベビーカーでの幼児の散策は難しいだろうし、老人には足元が不安定で、転倒して怪我を負いかねない道路となっています。

またもう一つの「北守谷遊歩道」も問題があります。それは全長2.4kmの内の約3分の1がタイル舗装となっていることです。どうしてこんなことを思いついたのか、歩いたり走ったり、或いは自転車で通る人たちの安全のことを全く考慮していない道だと思わざるをえません。しかもそのタイルの大部分は傾斜の大きい歩道橋の箇所で、それらを合わせると7~800mにも及ぶのです。天気のいい日はまあ良いとしても、雨降りや雪の日のその後は、滑り易くとても歩けたものではありません。それにタイルという奴は、経年劣化で割れ易く、30年経った今では至る所に破損が生じていて、応急処置なのかアスファルトピッチを埋めて手当てがしてあります。こんなことなら、最初からなぜアスファルトだけの舗装にしなかったのかと、今ではどこの誰の責任なのかも定かでないその向け先に疑念と怒りが膨らみます。

道というのは、もともと大勢の人が長い間使い続ける、人々の暮らしに密着したものです。それを造るに当たっては、より慎重に設計し、使われ出した後のメンテナンスなども丁寧に配慮すべきです。北守谷にある二つの散策路は、レイアウトは優れていても、30年近く経った今では、往時の美的感覚の思いつきが、仇を為している気がしてなりません。

このところいきなり夏が途絶えて、雨模様の日ばかりが続いており、その間隙をぬって歩きに出かけているのですが、何ともすっきりしない気持が膨らんでおり、モノ申すことにしました。今日も傘をさして歩きに出かける老人がおられることでしょう。どうぞ、滑って足元を取られないようにくれぐれもご注意ください。

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