山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

夏休みに入ることにします

2017-07-19 09:19:17 | その他

だ梅雨明けの宣言もないまま猛暑の日々が続き、各地で想像を超える大雨が降って被害をこうむるなど、真に天変とも思われる大自然の怖さを垣間見せ付けられているこの頃です。

このような時は、老人は静かにことの成り行きを見守るのが第一なのかもしれません。しばらくの間ブログの発信を休むことにします。

皆様のご健勝を祈ります。

馬骨拝

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湯の丸高原のレンゲツツジを見に行く

2017-07-15 17:08:26 | くるま旅くらしの話

 レンゲツツジといえば、自分の頭の中で直ぐに浮かぶのは、信州霧ケ峰高原と美ケ原高原です。この二つの高原は、花を見に何度も訪れているのですが、今年は夏が本格化した頃に涼を求めて短い旅をしようと考えており、レンゲツツジの方は見送ることにしていました。そのような時に、レンゲツツジの名所として湯の丸高原があるというのを知りました。湯の丸高原というのは、東御市にあり、上信越道を挟んで霧ケ峰とは反対の浅間山側にあり、スキーなどには全く関心のない自分には、今まで全く未知の場所でした。ネットを覗いていた時に、ふとそこのレンゲツツジのことが目に入り、一度訪ねておこうと思ったのです。

 何でもそうですが、花というのは林文子女史のおっしゃるように「命短い」ものなので、それを見るタイミングが重要です。最盛期を外すと折角膨らんでいた感動の予感が萎んでしまうことになります。ということで、いつ出かけたら良いのかを現地の開花状況等を見ながら、そのタイミングを計っていたのですが、丁度好さそうな時期には大雨の天気予報となり、それにこちらの都合なども絡んで、タイミングが少し遅れた感じの出発となってしまいました。最盛期でなくても、名所と言われている所なら、それなりに花を楽しむことができるのではないかと思いながらの来訪でした。

 一日目は行田市の古代蓮の里で、猛暑の中汗をかきながら優雅な花たちの姿を楽しんだ後、高崎市からR18に入り、久しぶりにそのまま道を辿って碓氷峠を越えて軽井沢にて小休止。ここまで来るとさすがに避暑地の味わいを思わせる涼しさがありました。軽井沢は標高が1000m近くありますから、行田市や高崎市などと比べれば、この時期は暑さに雲泥の差がある感じがします。この涼しさを体感してからは、今日泊りを予定していた道の駅:マルメロの駅ながと[長野県長和町]に行くのを止め、東御市にある道の駅:雷電くるみの里に変更することにしました。というのも、長和町の道の駅は四方を山に囲まれた小さな盆地の中にあり、標高は600mくらいあるのですが、恐らくこの分では相当に蒸し暑いに違いありません。東御市の道の駅:雷電くるみの里は温泉が付帯していないので、楽しみが減るのですが、こちらは標高が少し高くて湯の丸高原への登り口近くにあり、山裾なので涼しさに恵まれるのではないかと思った次第です。

 道の駅:雷電くるみの里に着いて驚いたのは、駐車場にトラックが多いことでした。大型を中心に40台ほどのトラックが、駐車場の半分くらいを占有して留まっていました。騒音に悩まされるのが嫌なので、少し離れた場所に車を止め、とにかく今夜はここに泊ることにしようと決めました。19時を過ぎると気温は20℃を切り、予想通りの涼しさがやって来ました。トラックの騒音も思ったほどではなく、まずまずの安眠を得ることができそうです。ビールで一杯やって、久しぶりの旅の一夜を送りました。

[ちょっと脱線] 

現在大相撲七月場所が開催されていますが、この地出身の雷電という力士は、史上最強の力士と言われており、その展示コーナーが駅舎の一角に作られていました。ちょいと雷電という相撲取りについて調べてみました。雷電という四股名の力士は他にも何人か存在するのですが、何といっても雷電と言えば、この東御市出身の雷電為右衛門という人が最高峰です。江戸中期の力士でその強さは、江戸本場所在籍36場所中の通算勝率が9割6分2厘というのですからまさに驚異的な強さです。往時は年2場所制ですから、36場所というのは18年ということになり、この間に負けたのはたった10敗というのですから凄いとしか言いようがありません。まさに大相撲史上未曾有の最強力士と言えます。その時から250年が過ぎた現在でも、この地の人たちが郷土の誇りと思う気持ちが解るような気がします。今の時代の相撲と往時とを安易に比較はできませんが、現在でいえば白鵬や少し前の大鵬といった力士を凌ぐ強さが評判の力士だったのではないかと思います。今の世の相撲は年6場所制となり、強さを発揮できないままに怪我などで志を無にする力士が多いのですが、年2場所というのならば怪我を治す時間も充分にあった筈。現在がもし2場所制だったなら、関取の地位メンバーの顔触れも大きく変わってくるような気がします。力士雷電展示館を覗きながら、雷電為右衛門の強さに最大の敬意を払いつつ、現在の相撲界のあれこれを想った次第です。

[※このように、旅の途中で出会った事柄について、好奇心を抱いて調べたり、予定を変更したりして、本来の旅の目的からズレた行動を拾うのも又旅の楽しさです。]

 [閑話休題]

翌日、下界はよく晴れた朝を迎えましたが、湯の丸高原の方は雲がかかっていて何も見えない状況でした。しかし、8時半の出発時刻近くになると雲が取れ出し、次第に暑さが膨らみ始めました。今日もかなり暑くなりそうです。レンゲツツジは待っていてくれるのかと、ちょっぴり不安を抱えながらの出発でした。

標高700mほどの道の駅を出発すると直ぐに湯の丸高原に向かう登りの坂道の開始です。高原の基地とも言える地蔵峠が1700mほどの高さですから、これから高度1000m近くを登ることになります。多少は息をつけるような箇所のある道なのかと登って行ったのですが、どこまで行っても急な登り坂ばかりで、23万kmも走っている我がSUN号の老体には、かなり応える道行きでした。時速30kmくらいで喘ぎながらの上りは、もっと若かったなら車を降りてSUN号を後ろから押してやりたいほどの厳しさでした。でもまあ、老体とはいえ、SUN号にも気骨はあるのでしょう、停まることなく無事に地蔵峠の駐車場に着くことができたのは幸いでした。

地図や案内図などを見る限りでは、地蔵峠からつつじ平までの道は、なだらかな様相なのだと勝手に想像していたのですが、着いて見ると目前に急な斜面のスキー場があり、つつじ平はどうやらそのスキー場を登った上の方にあるようです。これでは相棒はとても歩いて登るのは無理だと思いました。幸いスキー用のリフトが動いていましたので、これを利用させて貰うことにしました。往復の料金が800円でしたが、それをためらう余裕はありません。普段殆ど体力維持のための鍛錬などをしていない相棒には、気力だけのチャレンジは無理なのは理明のことです。スキーをやらない自分にはこのリフトは存外珍しい乗り物なので、数分の間相棒と一緒に高所恐怖のことも忘れて前方の景色のみを楽しみました。

リフトを降りて少し歩くと、そこがつつじ平でした。入口近くに開花状況を知らせる案内板があり、そこには「名残の花」の状況と書かれていました。どうやら最盛期は過ぎてしまっているようです。予想はしていたのですが、これはもう仕方がありません。仕切りのあるゲートを入って行くと、レンゲツツジの株が点在するつつじ平広がっていました。イメージしていたよりも規模は小さいように見えたのは、やはり花が最盛期を過ぎていて、鮮やかなオレンジ色の花が少なかったからなのかもしれません。どうやらここは放牧場の一角らしく、そこここに牛の糞が点在していて、足元注意の状況でした。なるべく元気そうな花の株を見つけて写真を撮ることにしました。高原の空気は涼しくて美味なのには救われました。

ツツジ平の全景。まだ花は残っていてくれたものの、やはり勢いを感ずるのは難しかった。正面の丸い形の山は湯の丸山。

レンゲツツジの株。もう3分以上の花が終わっている感じだった。この株は遅咲きなのかも。

レンゲツツジの接写。もう少し早く来れば、つつじ平全体がこの色に染め上がっていたのかもしれない。

写真を撮り終えた頃、近くに一羽の鶯がやって来てさかんに鳴き捲くるので気になり、注意して木の枝を見ていると、その姿を見つけることができました。鶯という鳥は、声は聞いてもその姿を見ることが滅多にできないのに、小枝に止まって身を震わせながら鳴いているが見えるので、これは何か特別サービスなのかなと思いました。写真に収めようとしても、こまめに動き回るので、なかなか収めることが叶わず、このような動くものを撮るのは難しいことを思い知らされました。レンゲツツジの方は少しがっかり気分でしたが、この鶯嬢の一連の鳴き声騒動に大いに救われた感じがしました。

ウグイス嬢ならぬウグイス君。右上の小枝に止まって山全体に響き渡る鳴き声を放っていた。

つつじ平からの下山は、再びリフトに乗って峠の駐車場に向かったのですが、下りは恐怖感がより大きくなり、これは歩いてゆっくり下るべきだったと思いました。恐る恐る覗いた下界は、牛たちが寝そべっている姿などが見られて、先ほどのウグイス嬢とは又違った鳥になった気分で怯えながらもそれらの風景を楽しみました。終わりかけたレンゲツツジの花の世界の、1時間足らずの探訪でした。

来るのが少し遅すぎた嫌いがあり、満面の笑みを浮かべているツツジたちの姿は見ることはできませんでしたが、それでも久しぶりにこの時期の山に来て、涼しさと合わせて澄んだ空気を目一杯吸うことができて満足でした。

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古代蓮の里を訪ねる

2017-07-09 10:16:30 | くるま旅くらしの話

  梅雨の合間の雨なしの予報を信じて、2泊3日の近場への旅をして来ました。なにしろ、このところ何処へも出かけることなく、毎日早朝10kmほどの歩きで汗をかいて、溜まっているストレスをシャワーで一緒に流すという暮らしぶりでした。体調の方はOKでも、心の方は満たされない日々を打破するには、とにかく外泊の環境へ飛び出す必要があったのです。

 ということで、今回は二つの目的場所を決めました。一つは埼玉県行田市にある「古代蓮の里」を訪ねること。もう一つは信州湯の丸高原のレンゲツツジを見に行くことです。今回は先ずは古代蓮の里の探訪報告です。

 埼玉県行田市は、埼玉という県名の発祥の地です。ここを訪れるのは、昨年の田んぼアートの作品を見に行った時以来二度目です。その時は園内にある古代蓮会館の展望台から、ギネスに登録された田んぼアートの稲で描いた「ドラゴンクエスト」の巨大な絵を鑑賞したのですが、園内の幾つもある蓮池の中にほんのわずかに咲き残っていた蓮の花をみて、ああ、この池の蓮たちがいっせいに花を咲かせているのを是非見てみたい、来年はきっと開花時に来よう。そう思ったのでした。

 行田市の古代蓮というのは、この公園の近くで公共施設建設工事が行われた際に偶然出土した1400年~3000年前の原始的な形態を持つ蓮の実が、自然発芽して甦り池に開花しているのが発見されたとのことです。地中深く何千年も眠っていた多くの蓮の実が出土して一斉に発芽し、開花したというのは極めて珍しいことである。‥‥というようなことが案内パンフレットに書かれていました。行田市ではこの蓮を「行田蓮」と名付け、この古代蓮の里で市のシンボルとして育てているということです。

 古代蓮といえば、思い出すのは自分が未だ小学5~6年生だった頃、2千年以上の眠りから醒めた蓮の花が咲いたというニュースを新聞で知って、「大賀ハス」と名付けられたその蓮を凄いなあと、子ども心に強く印象付けられたのを思い出します。いつかそれを見てみようと思っていたのですが、偶々30年ほど前千葉市の検見川という所に住むことになり、近くにあった東大のグランド内にある池を訪ねて何度もその美麗な花の姿を観ることができ、夢は叶ったのです。

 現在住んでいる守谷市にも古代蓮の管理をしている場所があり、今年もその小さな池を訪ねましたが、花は僅かで葉に勢いが無く、どうしたのだろうと少し心配になって帰って来たのですが、守谷市の古代蓮がどういういきさつでそうなっているのかは知らされておらず、ただ蓮の花を見に行っているだけなのです。

 自分としては、古代蓮というのは大賀ハスのことだけを言うのだと思っていたのですが、行田蓮のことを知ってからは、もしかしたら大賀博士のその後は、全国の幾つかの場所で別の古代蓮の開花が実現しているのかもしれません。守谷市の場合はどうなのか、一度市の当局に訊いて見たいと思います。

 さて、前置きが長くなりましたが、行田蓮の姿は、「講釈は一見に如かず」であり、写真で見た方が早いと思います。古代蓮の里には行田蓮以外にも世界各国の蓮が植えられています。どれがどこのものなのかは説明板を見てもとても頭に入り切れず、皆それぞれが美しいので、もうそんなことはどうでも良いと思って、印象に残ったものを幾つか掲載します。

 

「行田蓮」の開花の様子。この公園にはこのような蓮池が幾つもあり、今がちょうど開花の最盛期のようだ。この日は快晴で、11時を過ぎていたので、開いた花も閉じてしまったものが多いようで、時間的には早朝の方が見ごろ時のようだ。

これは行田蓮ではなく、別の他国の蓮のようだが、名は分からない。蓮らしい温かさと気品のある花である。

咲きかけているのかそれとも閉じようとしているのか、膨らみかけた花はまた格別の味わいがある。

標準的な蓮の花。花の向こうにはお釈迦さまが鎮座されているような錯覚に襲われる。

乱れ花という感じか。花には始まりと終わりがあるということを教えてくれる姿である。

純白の蓮の花もあった。ハッと息をのむ美しさがある。

純白の花の素は淡い薄緑のつぼみだった。35度近い猛暑日でも、そこには涼しい風が吹いている感じがした。

 

別の種類の純白の花。蓮にしては少しにぎやかさを感じる花だった。

白い花も中身はこのようなものだったのかと、なぜか少し安堵感を覚えさせてくれる雰囲気がある。

百合根のような花を咲かせている蓮もあった。お釈迦さまもびっくりされるのではないか。

 花の内部を覗きこむのは失礼千万なのかもしれない。でも、そっと覗いてみたくなるような花の咲き具合だった。

これだけは案内の解説を見なくても判る、オオオニ蓮の花。池の全面を覆う葉の上に、ちょこんと眠り損ねた花が顔をのぞかせていた。

この日は梅雨の合間の猛暑に襲われて、全身びっしょり汗をかいて、折角の蓮の花鑑賞も1時間ほどでギブアップとなりました。この花の鑑賞は曇りか小雨の天気の日に、可能な限り朝早く出掛けて行って観るのがベストだなと、改めて思いました。

 暑中お見舞い申し上げます       馬骨拝

 

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碧祥寺博物館を訪ねる

2017-07-05 03:31:33 | 旅のエッセー

 岩手県西和賀町の沢内という所に本宮山碧祥寺というお寺がある。このお寺に、この地方の民具などを集めた博物館がある。そこには、このお寺の先代の住職(第14代)が、村の教育長、村長を務める傍ら私財を投げ打って近隣各地から集めた膨大な民具や資料が展示されている。ご住職は、現代化が進むにつれて急速に失われてゆくこの地方の少し前(昭和30年代頃)までの暮らしの証となるさまざまな用具や資料を、何とか保存して残し、後世に伝えたいと思い立たれて、それを実践されたのである。その膨大なコレクションが、庫裡や新しく造られた二つの収蔵庫に残されている。これらのコレクションの中には、国の有形民俗文化財に指定されているものが数多くある。雪深いこの地の暮らしは、相当に厳しいものだったに違いない。その分だけ、生きるための暮らしの知恵は、暖地や都会に住む者には想像できないほどの独創的な力を持ったものなのだ。それはここに収められている多種多様な民具を見ていると、自から伝わってくることなのだ。

 旅というのは、たった一度だけその地を訪ねて、優れた景観や美味なる食べ物などを味わいさえすればそれで良いという考える向きもあるのだけど、くるま旅を提唱する自分は、同じ場所を何度も訪ねることに意義があると考えている。その地の本当の良さは、たった一度や二度の訪問などでは到底解る筈がないと思っている。訪ねる回数が増すごとに味わいが増す。そこにこそ、くるま旅の真価があるのではないか。同じ場所を何度訪ねても少しも飽きがこないという旅こそ、本物のくるま旅なのだと思っている。人間の出会い・発見とそれに伴う感動は無限・無数であり、それを創り出し味わうことこそがくるま旅の本質なのだ。碧祥寺博物館は、そのくるま旅の醍醐味を味わわせてくれる場所の一つである。ここを訪ねるのはまだ2度目なのだが、このあとも東北を巡る旅では可能な限り寄り道をして、奥羽山脈の懐深い山里のその昔の暮らしを思い描いて見たいと思っている。

碧祥寺博物館は、5つの資料室が3つの建物の中にあり、第1から第3資料室はお寺の大きな庫裡がそれに充てられ、別棟として雪国生活用具館とマタギ収蔵庫が建てられている。旅をしていると、各市町村に民俗資料館などが数多く存在していて、その土地の暮らしの歴史の証を示す様々な民具や用具などが展示されているのを見ることが出来るのだが、この碧祥寺博物館ほど膨大な土地の歴史の証を取り揃えてある場所は無いように思う。国立や県立等の博物館とは違った、たった一人の発案と行動で成し遂げられた、その人の思いのいっぱい詰まった品々が数多く収蔵され展示されている、他とは一味違った感動を覚える場所なのだ。

碧祥寺博物館第1.2資料室のある庫裡。この中には膨大な数の民具などが収められている。

第1,2資料室に入ると、江戸末期の頃から昭和の戦後辺りに至るまでの、この地に住む人たちが暮らしの中で大事にしていた、大小様々なの民具などが数多く展示されている。それらのすべてを短時間で見るのは不可能と思われるほどの量である。恐らくもう不要となったそれらの品々を、近隣の人たちから譲り受けたりして集められた物なのだと思う。自分のような戦前に生を受け、戦後の厳しい社会経済環境の中で子供時代を過ごした者には、何とも言えない懐かしさを覚えるような民具も数多くあり、あの頃の貧しくてもそれなりに目一杯生きていた時代を思い出すのである。

民具の中にはオシラサマなどの信仰の対象となっていたものも混ざっており、それらを見ていると遠野物語の世界を思い出す。遠野は、奥羽山脈のはるか東に位置する早池峰山や六角牛山などの山麓に位置する山国だけど、この奥羽山脈和賀岳の西麓にある沢内村も、その暮らしぶりにおいては殆ど変りはなかったのではないか。都会からはるか離れた閉ざされた空間の中では、そこに暮らす人々の思い描くものは、遠野でも沢内村でもそれほど違わなかったように思えるのだ。遠野には「遠野物語」のような記録の数々が残っているけど、この沢内村でも、もし柳田や佐々木喜善といったような方が居たなら、「沢内物語」が出来上がっていたに違いない。数々の民具を見て回りながらそのようなことを想った。

雪国生活用具館の中に入ると、大型の生活用具が目立った。雪国の暮らしには、季節を通して様々な工夫によってもたらされた、様々な生活用具があるのを知った。中には見知っているものもあるのだが、展示されている物の多くは初めて見るものであり、その使い方も見当もつかないほど不思議で且つ迫力あるものだった。ワラビの根からでんぷんを抽出する大型の木製の桶は、大木をくり抜いて作った野性味あふれた造作物であり、この地の食料調達の厳しさを思わせた。又橇(そり)といえば、ワンパターンの形しか思い浮かべられなかったのだが、実際にはその用途に合わせて様々な橇が作られ使われていたのを知り、その暮らしの逞しさに感動したりした。

雪国生活用具館の景観。4月下旬のこの時期は、建物の周辺にはまだかなりの残雪があった。まさにここは雪国なのだと思った。

自分的に一番興味があったのはマタギ収蔵館だった。というのもマタギの暮らしぶりには何故か心惹かれるものがあり、その実際を知りたい気持が膨らんでいたのである。その最大の理由は、最近になって太古の人々の暮らしなどに興味を覚えるようになり、特に縄文時代の人々の暮らしに関心大なのである。マタギの人たちの暮らしは、その縄文人の暮らしにつながっているように思えるのである。農耕の暮らしが始まった弥生時代よりも遥か前から何千年も続いていた、狩猟と採集の暮らしの縄文人に魅せられるのだ。特に狩猟というのは生き物を捕獲することで暮らしを成り立たせるのであるから、一個人の腕前だけでは限界があり、集団の力がどうしても必要となる。マタギの人たちは、そのために必要な掟を決め、それを厳しく守って暮らしを継続してきたのである。展示室にはそれらの掟を定めた巻物なども展示されていて、「ああ、あれを手にとって開いて見てみたいなあ」と思った。今が食べ時の美味しいご馳走をガラス越しに見せつけられているようで、何とも悔しい思いの見学だった。

マタギ収蔵館の入口の景観。内部の展示資料は撮影禁止なので紹介できないのが残念。

というようなわけで、ワクワクしながら、時に遠野物語の世界を思い浮かべたりしながら、或いは前後の貧しかった時代を思い起こしたりしながら、外は雨の降る中を2時間ほどの見学を済ませたのだが、残念なことに展示資料については撮影禁止となっており、ここに写真を掲載できないのがもどかしい。これは文化庁とやらの指示によるものらしく、何だか通り一遍のやり方のように思えて疑問を感じた。というのも、今の時代は、カメラのフラッシュなどたかなくても、写真はそのままできれいに撮ることができ、展示物に害を与えることなどない筈なのだ。何で撮影禁止なのかが判らない。

訊くところによると、文化庁の指定はただ指定するだけで、保護や維持に関する予算的手当てなどは無いということである。このままでは折角のコレクションも維持が難しくなって、空中分解しなければよいがと思ったりした。これだけの収蔵物を一個人や財政の厳しい町の行政にゆだねて維持してゆくのには無理があるのではないか。文化庁の役割の仕組みがどのようなものか知らないけど、「重要有形民俗文化財」として指定するなら、その保存・維持に不可欠な支援は為すべきであり、経済的側面のみならず展示品の紹介解説等についても学芸員を派遣して整備するなど、専門的な面からの支援を行うべきではないか。このままの状態では、やがてはその名称も使われ方も忘れられて、ただ物だけが残るといった状態になりかねない、そのような展示物が結構多くあるように思った。きちんとした記録を残し、明文化された解説資料がもっともっと用意されなければならないのではないかと思った。それこそが文化庁の義務ではないか。

見学が終わっても未だ雨は降り続いていた。境内にはまだ解け残った雪の塊が幾つか残されており、今見て来た世界を証明する現実の世界が目前に広がっているのを感じた。200年前の今頃もこの残雪のある景色は今の時代ともそれほど違わなかったのであろう。もう後戻りする必要もない現代に居るのだけど、200年前の先祖たちの暮らしを忘れたてはならないのだ、と思った。

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羽黒岩伝説と遠野幻想

2017-07-01 03:39:50 | 旅のエッセー

東北を巡る旅では、遠野を外すことはできない。何故なら遠野には昔のこの地方の暮らしの思い出がいっぱい詰まった話や場所がたくさん残っているからである。遠野を旅した人なら、「とおの物語の館」に立ち寄って、地元のおばあちゃんが語ってくれる昔話、そう、「昔、あったずもな、で始まり、‥‥‥どんどはれぇ」で終わる、遠野弁での解りにくいけど、何となく土地の温もりの伝わってくる話を聴かれたことがあるのではないか。遠野は民話がいっぱい生まれ、育ち、そして残っている土地であり、そのことは柳田国男の遠野物語にも数多く書き留められている。

今年(2017年)の東北春旅の中で、遠野を訪れたのは4月下旬だった。その日は夜明け近くまで雨が降り続き、日中の天気回復も期待できそうもないので、予定していた荒川高原牧場(国指定重要文化的景観)に行くのを諦めたのだが、朝方になって雨がやんだので、一寸付近を歩こうと出掛けたのだった。泊っている道の駅:遠野風の丘は、国道283号線沿いにあり、どうやらこれは新しく造られた道のようで、下を走るJR線の近くに旧道らしき道があるので、それを市街地とは反対の方向へ歩いてゆくことにした。

初めての道であり、東西南北も見当がつかない。北国や日本海側を旅すると、時々東西南北の感覚が180度狂うことがある。特に南北の感覚が狂うことが多いのは、自分の育った土地では北の方に山があったのに、この地では南の方に大きな山があるという風な場所である。東西の感覚が狂うのは、育った土地では海は東側にあるのに、日本海側では西となってしまうからである。人は生まれ育った環境によって、方向の感覚が随分と違うものなのである。磁石がないとTVのアンテナ設定も覚束無いことを何度も経験している。

国道よりは少し道幅の狭いその旧道らしい道を歩いて行くと、直ぐに妙な物が道端に建っているのに気づいた。近くに行ってみると、何と大きな下駄だった。それは石で出来ていて、紅白の巨大な鼻緒が挿(す)げられていた。なんだろうと、案内の標識を見たら「遠野遺産第78号 羽黒堂と羽黒岩」とあり、傍に羽黒岩についての伝説の説明が書かれていた。また、もう一つの石には「湯殿山」と刻まれていた。直ぐ傍には朱色の鳥居が建っており、それらを見て、これは出羽三山に絡む修験道信仰に関係がある場所なのかなと思った。

羽黒岩伝説の残る出羽神社の入口にある巨大な下駄の案内標。

道の駅から歩き出してまだ10分ほどなのに、これは面白いものに出会ったと、俄然興味が湧き、その羽黒岩というのを見に行こうと決めた。参道とも思えない農道のような細い道を辿って歩きを開始した。間もなく道は森の中に入り、もう直ぐかなと緩い傾斜道を軽い気持ちで歩いていたのだが、300mも行った辺りから登りが次第に厳しさを増し、息が上がり出したのには参った。その羽黒岩というのがなかなか見えないのである。ハアハア言いながら登って行くと、神社と思われる粗末な建物が見えて来た。その傍に巨石があったので、これが羽黒岩だなと直ぐに判った。神社の掲額には「出羽神社」とあった。やはり出羽の修験道の山伏などと関係のあるものだなと思った。遠野のこの辺りにも山伏が布教のために訪れていたのであろう。

羽黒岩を御神体とするのだろうか。傍にあった神社は何の飾り気もない質素な造りだった。

その羽黒岩は、二つに分かれており、高い方は9mほどであろうか。てっぺんの方が少し欠けているのが、天狗に蹴飛ばされたという箇所なのであろう。近くに矢立松というのがある筈だが、それは見えなかった。松の代わりに何本かの杉の木が立っていたが、皆若いものばかりで、松の樹に変わるほどの貫禄はなかった。少し拍子抜けがしたが、恐らく松の樹は伐られたか枯れてしまったのだろうと思った。何年前に生まれた伝説なのか見当もつかないけど、植物がそのままの姿で今まで残ることはないのだから、これは仕方がない。それにしてもこれほどの巨石を蹴飛ばして頭を欠かせるというのだから、天狗というのは物凄いパワーの持ち主なのだなと思った。そこに出羽三山信仰の秘めた力の様なものを感じた。

羽黒岩。二つに分かれていて、右側の方が高い。てっぺんが少し欠けているのは、天狗に蹴飛ばされた跡だという。いやあ、おもしろいことを発想するものだなと思った。

いやあ、早朝からいきなりいいものを訪ねることが出来て、ラッキーだった。真に偶然であり、このような伝説があることもこの場所も全く知らない初めての来訪だったのである。説明板に「遠野物語拾遺」に収められているとあったので、旅から戻ったら調べなければならないなと思った。遠野物語は読んでいるけど、その拾遺というのは読んだことがない。楽しみが一つ増えたと喜びながら住まいの車に戻った。

さて、旅から戻って、早速「遠野物語拾遺」を買って来て調べてみた。以下はその全文である。

 「綾織村字山口の羽黒様では今あるとがり岩という大岩と、矢立松という松の木とが、おがり(成長)競べをしたという伝説がある。岩の方は頭が少し欠けているが、これは天狗が石の分際として、樹木と丈競べをするなどはけしからぬことだと言って、下駄で蹴欠いた跡だといっている。一説には石はおがり負けしてくやしがって、ごせを焼いて(怒って)自分で二つに裂けたともいうそうな。松の名を矢立松というわけは、昔田村将軍がこの樹に矢を射立てたからだという話だが、先年山師の手にかかって伐倒された時に、八十本ばかりの鉄矢の根がその幹から出た。今でもその鏃は光明寺に保存せられている。」(遠野物語拾遺 題目:石 番号十 柳田国男)

これを読んで、首肯すること大だった。矢立松が無かったことも判明した。先年というのが何時のことなのか判らないけど、伐り倒されてしまったのだから在るわけがない。また、石には二つに裂けただけではなく、更にひび割れしている箇所も見られたので、天狗説よりも石自身がくやしがって裂けたという説の方が面白いなと思った。矢立松の由来に坂上田村麻呂が登場するのも面白いし、更にはこの将軍が射た矢の鏃(やじり)が現在も光明寺に保存されているというのも面白い。今回は気づかなかったので、光明寺に寄ることはなかったけど、今度行った時はお寺を訪ねてその鏃のこと訊いてみたいと思った。

遠野の伝説はそのほとんどが空想なのだろうけど、それらの話には現地、現物が存在しているのが面白い。伝説の生まれたその現地を訪ねることが出来るのである。この羽黒岩の他にもデンデラ野(蓮台野)やダンノハナ、それにカッパ淵など数多くその現地がある。

その昔(といっても僅かに100年ほど前までのことなのだが)、東北地方の長い冬の、閉鎖された空間の中での暮らしの中で、そこに住む人々は、何か目立った特徴のあるものや出来事に対して、様々な空想を思い描いたに違いない。伝説の多くは、恐らく冬の間に生まれたのではないかと思った。深深と雪の降り積もる、音一つ聞こえぬ世界の中で、耳を澄ませ目を閉じれば、出来事にまつわる様々な思いが膨らみ、そこに一つの物語が生まれてくるのを止めることができないのであろうか。それほどに東北の冬という季節は、寂しく厳しいものだったのだと思う。そしてその分だけ、心の世界は豊かに活動するのではないか。もしかしたら、その創作者の多くは老爺・老婆だったのではないか。自分の経験や親などからの話を孫に語って聞かせ、それが代々伝わって来ていて、その内いつの間にか空想ではなく現実の世界に定着してしまった、などということもあったのかもしれない。遠野の昔話は、今日のような騒々しく、暗闇の夜を忘れた、明るくて情報の入り乱れる世界に住んでいる者には、なかなか味わえない話なのだと思う。

現代に生きる人びとは、科学の力を頼んでの利便性を享受していることに甘えて、200年前の人たちよりも自分たちの方がはるかに優れていると錯覚していはしないか。よく考えれば、優れているのは、科学を頼んだ利便性だけであって、人間としての心の持つ力は、それほど豊かになっているとは思えないのである。むしろ、あまりにも効率や利便性などを追いかけるのに気を奪われてしまって、心をすり減らしているのではないか。現代の科学の進展をまるで自分の手柄のように錯覚して思い上がるのは、これは実はとてつもなく危険なことではないのか。羽黒岩の伝説に絡んであれこれと思いを巡らしている内に、ふと、そのようなことに思い至ったのだった。

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