山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

バルタン星人に会う

2009-05-30 01:26:13 | 宵宵妄話

ここ2、3日雨模様の日が続いています。早朝4時ごろはものすごい降りでした。昨夜は眠くなかったので、起きて書き物などをしていましたら、朝になってしまいました。別に徹夜をするなどという考えはないのですが、眠くなったら寝る、眠くないときは起きてできることをやるというのが、このところの生活信条ですから、そうなってしまうのです。

今日もコリャ雨か、と少し憂鬱になっていましたら、10時頃になると雨は止んで、歩きには支障がなさそうなので、念のために傘を持って出かけました。今月の歩きの目標は、40万歩なのですが、それは既に数日前に達成しており、歩き過ぎもいけないと雨にかこつけて、達成後は少ない歩数となっていたのですが、今日は少し多めに歩こうと出かけたのでした。

今日のコースは最もポピュラーな北守谷のせせらぎの道コースでした。いつもの通り常磐高速道谷和原IC近くの高架下のトンネルを潜って向こう側に出ると、何やら黒っぽいものが道の真ん中に動いているではありませんか。近づいてみると、ややっ! 何と小バルタン星人なのでした。体長の半分以上はあると思われる巨大な鋏をこちらに向けながら、盛んに威嚇してくるのです。いやあ、散歩の出だしから強敵に出会ってしまって、ちょっぴり興奮してしまいました。結構真面目に威嚇してくるので、それならばこちらも応戦しようじゃないかと、腰をすえて戦いの体勢をとったのでした。

敵は巨大な鋏を振りかざしながら、口と思われる辺りから、何やら泡のようなものを吹き出しながら、ビビッ!と電磁線のようなものを使って、威嚇に合わせて発射してきます。こちらも負けずにストロボビームで対抗です。狙いを定めてピカッと3発ほどかましてやりました。背中の方からも撃ってやろうと左の方に回りこみますと、すかさず相手も左に回って正対します。フムフム、なかなか手ごわい奴です。それじゃあ、右側から行こうかとストロボビーム発射機を向けると、何とたちまち今度は右に回って正対します。やっぱりこいつは、背中の方に弱点があるのだ、と今度は上のほうからストロボビーム発射機を構えて背中を狙ったのですが、たちまち反り返って天を仰ぎ、どうしても背中を見せないのです。いろいろやってみましたが、結局この勝負は、今日は引き分けということにして、先ずは休戦としたのでした。この間5分ほどだったでしょうか。

   

小バルタン星人の戦いのポーズ。なかなか敵に後ろを見せない闘争心は、アッパレ!と褒めてとらさねばなるまい。

守谷市郊外やつくばみらい市の谷和原の田んぼ脇の側溝などには、たくさんのザリガニが住んでいます。まさか高速道路の下の排水口の中まで進出して来ているとは思いませんでした。昨夜は大雨が降りましたので、側溝の水が急増して、草の固まりかなんかに乗っかって路上に飛び出してきたようです。結構大きな奴で、小学生の子どもたちなら格好の遊び相手かも知れません。

以前夏の頃、夜明け間もない谷和原の田んぼ脇の道を歩いていますと、数匹のザリガニが路上で私を待ち構えていたことがあります。最初はまさか路上まで這い上がって遊んでいるなどとは思わなかったものですから、何なんだろうと思ったのですが、近づいてみればザリガニの集団が、一斉に鋏を振りかざしてこちらを向いて威嚇していたのでした。なかなか壮観です。蟹と違ってザリガニは気が強く好戦的な動物のようです。さっさと田んぼに逃げ込めばいいのに、向ってくるというのですから、その闘争心は見上げたものです。その時バルタン星人を思い起こしました。

倅二人が未だ小さかった頃、TVの最大の人気番組はウルトラセブンシリーズでした。特撮で有名な円谷プロの作品です。宇宙の彼方のバルタン星からやって来た何種類もの怪獣が、いつの間にか地球に住み着いていて、そいつが時々変身して巨大化し、悪さをするのです。そしてそれが人間の手に負えなくなったときに、実はこれ又宇宙の彼方のM何とかいう星からやって来て、人間の諸星ダンとなって住み暮らしていたウルトラマンが、3分間だったかの時限付きで姿を現して、その怪獣と戦い、最後はそれを懲らしめやっつけて、シュワッツ!と宇宙の彼方へ飛び去ってゆくという、毎回殆ど同じようなストーリーなのですが、子供たちは決して飽きることなくTVの前で目を輝かせていたのでした。怪獣にも様々な種類があり、ウルトラマンにも何人かの兄弟が居たようですが、その名前まではとても覚えることが出来なかったのに、子供たちは不思議とそれらの全てを正確に記憶しているのに驚かされたことがあります。その中で、ザリガニらしきものをモデルにしたバルタン星人だけは今でも思い出すことが出来るのです。ついつられて一緒に見て居ましたので、この番組の他にも巨人の星とかアタックナンバーワンなどは、いつの間にか子どもたちよりも親の方が入れ込んで次回を待つといった状況となってしまっていたのを思い出します。

話が少し横にそれ拡大しましたが、今日は朝からいきなりそのバルタン星人に出会って、カメラを構えての一戦を交えたのでした。今頃は、あのウルトラマンや本物のバルタン星人たちはどうしているのでしょうか。故郷の星に戻って、平穏な暮らしをしているのでしょうか、それとも再び地球に戻って、密かに温暖化を食い止める仕掛でも作ってくれているのでしょうか。願わくば、一刻も早く地球に戻って、この不景気を本当の秘策を以って救って欲しいものだと思います。

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中華鍋を買う

2009-05-29 03:07:24 | 宵宵妄話

またまた変なタイトルです。何しろ退屈なものですから、手当たり次第に考えもなくタイトルを決めている嫌いがあります。この頃は、何でもいいから思いついたら書いてみることにしています。例え内容が未発酵のものであっても、何やらこじつければ一回分の投稿の分量となるのではないか、などという大それた横着心が急速に育ってきています。

中華鍋で調理をするというのは長い間の憧れでした。その昔、火力の強い昔風の鋳物のガスコンロまで買いながら、とうとう中華鍋を手に入れるまで届かず、終ってしまったこともあるほどなのです。尤も、現役時代はなかなか時間がなくて、気まぐれでそう思っても最初の勢いが力を失うのが早くて、中途半端で終ることが多かったのでした。中華鍋など買い入れて何をやらかすのだろうという、家内の妙に底意地の光る視線をしばらく感じていると、益々その勢いが萎え出して、せっかく手に入れたコンロも結局何もせずに終わったというのが事実です。

現役を引退して、これからは中華鍋も大丈夫だぞと思っていたところ、守谷に家を建てたときはそのようなことをすっかり忘れていて、老後のことを考えて思い切ってIHの調理場にしてしまったのでした。それ以来、我が家の台所では炎というものを見ることがなく、中華鍋の存在などすっかり忘れ果てていたのでした。中華鍋というのは、派手な炎の中で、暑さ・熱さをものともせずに、左に鍋を、右手に柄の長い鋼鉄製のお玉を持って、具材を半ば空中に打ち放りながら一心不乱に調理を行なう、あの姿が魅力なのです。しかし、IHの調理場では、それは不可能です。何故ならIHの場合は、鍋をコンロから離したら、電磁波は切れてしまって途端に熱は伝わらなくなってしまうからです。何という早まったバカなことをしたのだろうと、反省しきりだったのです。

ところが先日、偶々NHKの試してガッテンという番組を見ていて、中華料理の凄さと、それを生み出す鍋の力に魅せられて、忘れていた憧れを思い出したのでした。特に中華鍋の応用という点が一番の関心事でした。単に油を多用しての炒めなどだけではなく、その他にも使い方によって、様々な調理が可能なのを知り、これは何とかしなければなるまい、と思ったのでした。というのは、家の中での調理に使うというよりも、くるま旅くらしの中でこれを使ったらいいのではないかと思ったのです。家の中で使う場合は、カセットコンロを用意しなければならず、あまり張り切ってしまうと、何のためのIHだったのだということになってしまうからです。

くるま旅くらしの中では、蓋のようなものを用意すれば、炒めるだけではなくその他の煮炊きが自在なのではないかと思ったのでした。現在のくるま旅では、二人分の調理を前提として3種類くらいの小型の鍋やフライパンなどを使っていますが、収納に問題があり,整理するのが面倒です。もしかしたら、中華鍋があれば、これ一つとあとはご飯を炊く釜だけあれば済んでしまうことになるかもしれません。ま、実際に使ってみなければ可能なのかどうかは判りませんが、やってみる価値はありそうです。

というようなわけで、雨降りの退屈のついでに、適当なものがないかどうかとりあえず見てみようと、つくば市郊外の大型ホームセンターまで出かけたのでた。最近は守谷市やつくば市周辺には大型のショッピングセンターやホームセンターなどの進出が目覚しく、都心などに出向かなくても殆どのものが手に入ります。本来ならば、中華鍋といったら浅草の合羽橋商店街辺りに出向くのが普通なのだと思いますが、今は浅草に出かける楽しみを奪ってくれています。経済的にはありがたいですが、その反面ちょっぴり淋しさも感じます。だったら浅草まで行けばいいんじゃないかということになりますが、年金暮らしの身ではコストの最小化は必須要件であり、浅草までの往復交通費のことを考えると、淋しさよりはありがたさを優先させざるを得ません。

あった、あったとそのコーナーを独り占めして(といっても、他に中華鍋を買おうとしている人などいるはずもないのですが)とくと商品を見比べました。径が28cmから始まって40cmを超すものまで、何種類かの中華鍋が並べられていました。あまり大きなものは左手で扱うのは難儀だし、小さいと良い調理は出来ない(と勝手に思い込んでいる)な、などと散々迷った挙句に、33cmのが最適だろうと見当をつけたのでした。しかし直ぐに買うわけにはゆきませんので、家内を呼んで同意を求めたのでした。もはや諦めているらしく、「いいんじゃない」という話でした。というわけで、ようやく中華鍋を手に入れるという念願が叶ったのでした。早速家に帰ってそうめんを茹でて食べるぞ!と意気込んで店を出たのでした。

さて、家に戻って鍋の底に貼ってあった説明書のようなものを読んでみると、どうやらこの鍋にはさび止めが塗ってあるらしく、ダッチオーブンと同じようにシーズニングのようなことをしないと使えないということでした。それによると鍋を10分も空焚きをした上で、冷ましてから今度はクレンザーで洗い、更にその上に油を塗って使い始めるということです。これじゃあ、雨降りの今日、部屋の中でそんなことをするのは到底無理だと判断し、諦めた次第です。

何でそうめんなのかといいますと、中華鍋では吹きこぼれというものがないのです。IHではうどんやそうめんを茹でる度に、ちょっと油断した隙に吹きこぼれに見舞われ、電磁波がストップしてしまうトラブルが再々発生しています。一度でいいから、それ無しに茹で上げて見たいと思っていたのでした。ささやかな主夫の願いでありました。

明日も雨という予報ですから、この鍋の使用開始は早くても明後日以降ということになります。ま、それは仕方がないとしてこれからの旅が楽しくなりそうです。旅車に中華鍋、しかも33cmもある奴を持参するなどという愚かな変人は居ないのではないかと思いますが、中華鍋を使っているそれらしき者を見かけたときは、ぜひ声を掛けてください。

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草取りジジイ

2009-05-28 07:13:26 | 宵宵妄話

このところの日中は、歩きと昼寝の合間を見ながら庭や畑の草取りをしています。旅に出ていないときは、一日の経過が真に退屈で、それを紛(まぎ)らわすために、基本的には歩くか、飲んで寝るかの二つの時間の過し方が生活の柱となっています。残りの時間の中で、書き物や調べものなどをしているわけですが、それは実にわずかな時間で、本来はそちらの方がもっともっと多くなければならないのですが、そのことは承知していても行動に移せないというのが、我が人生の来し方の実態であり、真に怠慢なのです。さて、草取りの話ですが、その怠慢を少し削って合間を見ながら細々と取り組んでいるその感想です。

わが家の除草といえば、家の周辺(前庭、後ろ側の野草園が中心)と市からの借用菜園(計80㎡)がその対象となるのですが、これらの全ての草君たちを一人で退治するのはなかなか大変なことなのです。家内は虫に刺されるとあわや入院となり兼ねない箱入りばあさんのようなお人なので、草君たちとの対峙は全て私に課せられているのです。

何しろ合わせれば結構な広さなのですが、場所が3箇所に分かれており、順番にしかも手早く対処する必要があり、心は結構急いているのですが、身体の方は思うようにはなりません。草取りというのは、しゃがんだ姿勢で行なわなければならず、老が刻々と迫る身では、その体勢で作業をし続けていると、そのまま立ち上がらずに横倒しになって手足を伸ばしたくなるほど、腰がギリギリと痛くなるのです。更には、今頃の季節は早くも蚊が発生していて、集中砲火を浴びるが如く、見境なしに攻撃を受けますし、時には蜂君だって近づいてきます。草取りをしなければ気づかない危険環境というものが、身近にあることを思い知らされたりしています。

この中で一番厳しいのが、腰の痛さです。若いときでも田んぼの田植えや稲刈りは相当に厳しかったのを思い出しますが、たかが除草くらいで泣き言を言うほどのことはありませんでした。それが泣かざるを得ないというのは、やっぱり老以外に原因はないように思うのです。しかし、泣いていても草君たちの同情を得るのは不可能ですから、少しずつ、黙々とやるしかありません。

まずは庭の方から始めたのですが、腰が痛くなるのを何とかしようと、坐って作業が出来る車付きの箱を買いました。これを使うとかなり楽になりました。歩いているときに農家の人がそれを使っているのを見て、ホームセンターに行って探したら適当なものがありましたので、使ってみることにしたのでした。今頃は便利な用具が出来て、真に有難いものだなと思いました。

我が家の裏庭には、去年全面が緑に染まるほど海苔のような苔に覆われて、これを除去するのにエライ苦労を強いられたのですが、今年もその苔が蔓延(はびこ)り出したので、これを徹底的に取り去ろうと、まずはこの退治から開始しました。地面を削ぎ取りながらの作業は厳しいですが、その苔と一緒に生えている草君たちを、こいつは何だったかと名前を思い起こしながら引き抜くのは結構楽しいものです。同時に彼らの生き方のようなものが見えてきて、細々と生きているように見えても、結構しつこく逞しいのが判るのです。

苔の方は何という奴なのか解りません。野草の図鑑には載っていないので、さりとて新しく苔の図鑑を買う気にもなかなかなれません。でもキノコのことを考えると苔の図鑑も必要かも、……などと考えながら作業をしていると、2cmもない丈のままで黄色い花を咲かせたカタバミが、苔などものともせずに四方に点在しています。カタバミというのは、草取りジジイから見れば天敵のような存在です。柔らかい地上の茎や葉っぱは、引き抜く間もなく切れてしまいますが、地下の根は想像以上に頑丈で深く、芝などと競合してもひけをとらないほどなのです。この草は、小さい内に芝の中に入り込まない内に引き抜いておくことが除草のポイントです。我が家では手遅れになった嫌いがあり、前庭の芝はこのカタバミのために相当に痛めつけられ衰退してしまいました。花だけを見ていると「カワイイ!」などという人も結構多いのではないかと思うのですが、それはこの草の本性を知らない人の気まぐれに過ぎないと私は思っています。

カタバミの次に多いのは、ミミナグサとヒメジオンです。ミミナグサは殆どが1本の姿で頼りなさそうに小さく横たわっていますが、その多くはとっくに花を咲き終え、膨らんだ実をつけています。引き抜かれてもたちまちそのばら撒かれた実が次の世代の子を芽生えさせ、あっという間に花を咲かせて実を結ぶという、このサイクルを超スピードで繰り返しているのが判るのです。

ヒメジョンは、春先から秋まで全国至る所で見かけられる野草ですが、もともとは観賞用に輸入されたということですから、驚く話です。それが野に逃げ出し、日本中を席捲(せっけん)しているというのですから、大したもんだと褒めるべき野草なのかもしれません。とにかくしつこく生き抜く力を持った野草です。冬の間は生きている環境に合わせて大小様々なロゼット状の姿で葉を赤紫にしたりして寒さに耐えて過していますが、春になると一気に至る所に花を咲かせ始めます。我が家の庭にもどんなに取り除いたと思い込んでも、必ずどこかに生き残って、気がつけばたちまち子孫を残しているという、天晴れにして厄介な野草君です。

これらの外にも図鑑には載っていない名前のわからない小さな草が何種類かあるのですが、疲れの方が先になっており、それを調べてみようという気が起こりません。とにかく彼らなりの作戦を立てて、この裏庭の地で、生き残りの拡張・拡大を図っているのです。動物も植物も、この世においては生の鬩(せめ)ぎあいなのかなあ、と思ったりしながら1時間ほどの作業を、今日はここまで、としているのでした。

草取りジジイの仕事は、未だ家の周辺を終えたばかりですが、これから畑の大物が待っています。つまりは、苦しみと楽しみが綯()い交じった畑の世界が待っているというわけですが、勿論楽しみを膨らませたいものだと思っています。草取りジジイの話の断片でした。

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混雑恐怖症

2009-05-27 04:20:07 | 宵宵妄話

何が嫌いかといって、混雑ほど嫌なものはありません。私は高所・閉所恐怖症を自認していますが、今頃は飛行機に乗らなくて済むのを大変ありがたいと思っています。海外への旅に行く気がしないのも、一つには飛行機の問題があります。船もまた閉ざされた世界なのであまり好きではありません。豪華客船などなら話は別なのでしょうが、そのようなものに乗れるほどの経済的な余裕など全くありません。貧乏くるま旅くらしが一番だと思っています。

さて、今日は混雑恐怖症などと変なタイトルをつけました。文字通り身動きが取れないほど人が一杯居たり、車が動けないほど混みあって時間が過ぎたりすると、冷や汗が出てくるのです。これは閉所恐怖症の一種ではないかと自分では思っているのですが、当たらずとも遠からずだと思います。頑固ジジイが人ごみや超渋滞の中で一人冷や汗を流しているというのは、絵にもならない景色ですが、当人にとっては重要問題です。

そのようなことから、人出の多い祭りやイベントなどがあまり好きではありません。祭り好きの家内などから見れば、理解できない話なのでしょうが、身動きの取れないような状態の中で、何やらの見物をしたり、花火などを見たりしても全く楽しくないのです。以前浅草の花火大会を見に行った時も、地下鉄を降りて地上に出るまでに30分ほどかかったことがあり、その時は最悪でした。冷や汗が出て、地上に出てようやくそれは止まったのですが、もう二度とこんな所へは来ないぞと思い、それ以降浅草の花火大会には行ったことがありません。

去年、北海道からの旅の帰りに青森のねぶたを見ましたが、この混雑はどんなものかと心配したのですが、動き回れる空間がたくさんありましたので、大丈夫でした。人が多くても自分の意思で動ける状態なら大丈夫なのです。一箇所にじっとして身動きの取れないほどの人間に取り巻かれていると、何だか全身が束縛されているような気になってきて、冷や汗が流れ出てくるのです。

妙な話となっていますが、昨日は主夫解放日で家内を千葉まで迎えに行ったのですが、その帰り道にちょっと買い物をしようと、幕張にあるコストコに寄ってきました。コストコという店は、アメリカで開発された販売方式の量販店で、巨大な倉庫(幕張の場合は、その半分以上が駐車場で、売り場は1、2階のみ)の中に商品が山と積まれており、販売の単位も単品は少なく一箱単位が多くて、その分単位辺りの価格はかなり低くなっています。食料品をはじめ日用雑貨から、家電、タイヤまでかなり幅広く品揃えがしてあり、会員制となっており、我々もその会員に加わっています。

前回ここで塩鯖を買ったのですが、これが実にいい味で、すっかり気に入ってしまい、今日はどうしてもそれを買って帰ろうと思ったのでした。私は魚といえば鯖というくらい、鯖大好き人間です。関西に行けば丸々一匹の塩鯖が売っているのに、関東では切り身ばかりです。先日関西に旅したときもどこの店にも丸ごと一匹の塩鯖や、串焼きが売っているのをみて、羨ましいなと思ったのでした。しかし旅先では、串焼き以外は手に入れても焼けるような場所がなく、さりとて自宅まで持ち帰るには時間がかかりすぎるので買うわけにも行きません。どうして関東では丸ごとの塩鯖を販売しないのか、何とも解せません。そのようなわけで、丸ごとではないのですが、ここの店の塩鯖が気に入ってしまったのです。

11時開店なのですが、その時間では駐車場に入るのに長蛇の列となるのを知っているので、少し遅れて11時半頃に行ったのでした。全く並ぶことなく駐車場に入ったのですが、ところがどの階の駐車スペースもぎっしり車が停まっており、なかなか空きが見つからず、ぐるぐる走り回って、ようやく探し当てて車を入れるまで10分以上もかかったのでした。これだけで、私の腹の虫はかなり角を出し始めます。

大きなカートを引っ張りながら動く舗道を何度も折り下って、入店のチエックを済ませて買い物を開始したのですが、相変わらずのものすごい混み様で、うんざり感は益々つのるばかりでした。家内といえば、そんなことはどこ吹く風、右に左に、ここかと思えば又あちらといった風で、これがショッピングを楽しむという奴なのでしょうか、いやはや幸せな人です。私は目的の物が手に入れば、その他へは殆ど興味がなく、さっさと帰りたいのですが、どっこいそうはさせてもらえません。我慢に我慢を重ねてようやくレジに並ぶ所まで来て、カートを引っ張って行き、後ろを振り返ると家内が消えているのです。お金を持っていないのに、なかなか来ないので、空いている箇所に並ぶと困るわけで、結局端っこに停めて又探しに出かけなければならず、やっと見つけて戻って来ると、今度は身動きできないほどの混み様で、カートを動かすのもやっとというありさまなのでした。こうなるともう、閉所恐怖症と同じです。レジに並ぶのはもう我慢が出来なくなって、家内に任せて出口に向って歩き、そこで溜まった鬱気を吐き出して深呼吸し、そのあとは移動できる道を探して人の少ない場所を一回りしたのでした。

このものすごい混雑の中で、レジを出た所の一角に軽食のコーナーがあり、そこではホッとドックを買った無数のご婦人たちが、飲み放題のコーラの紙コップを手に雑談しながら口を動かしているのでした。私のもっとも好きでない光景です。そんなことを言われると叱られるに違いないのですが、こういうものを喰っているから新型インフェルエンザにやられやすくなるのだと思っているからです。でも、このような生活スタイルが今どきはグローバルというものなのでしょうか。ホッとドックにも、コーラにも何の恨みも反発もないのですが、何だか日本がどこかにすっ飛んでしまったような光景で、どうも好かんのです。

ようやく気分を治してレジに戻ると、それでも未だあと1台待ちという状況でした。あまり我慢強いとも思えぬ普段の家内なのですが、このような所に来ると、相当な者なのだなと思いました。しかし、それ以上に周囲の太ったおばさんたちの我慢強さは驚異的です。ものすごい量の食品と飲み物を買い込んで、ウン万円も支払って、益々丸まるお太りになるでしょうに、身体のトラブルになるのは時間の問題ではないかと、他人事ながら余計な心配をせずにはいられませんでした。多少人間観察をする気分になって、ようやくレジの清算が済み、もうあとは帰るだけです。

いつものことですが、もう来たくないなと思いながら店を後にしたのでした。それにしてもこの集客力は凄いなと思います。不景気になればなるほどこのような店は繁盛するに違いありません。自動車などでは、アメリカの経営というのには問題がありすぎると思うのですが、このような販売方法を生み出す発想というのはもともとグローバル社会であるアメリカの底力というか、人間の生活心理を読み抜いた知恵から生まれてくるのだと思ったのでした。その知恵が自動車の世界でも活かされればGMの再生だって可能だと思うのですが、さて、こちらの方はどうなることなのでしょうか。頑固ジジイが冷や汗を流すほどに人を集めることが出来る商売の仕方に、最後はちょっぴり感心しながら帰途についたのでした。

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主夫業解放日

2009-05-26 06:41:37 | 宵宵妄話

2週間単位で相勤めている主夫業から今日は解放される日です。ちょっぴり嬉しいような淋しいような感慨があります。主夫などといっても大したことをしているわけではなく、自分自身の身の回りの面倒と、倅と一緒の夕食の作成、片づけくらいのもので、果たしてそのような仕事を主夫業などと呼べるのか疑問です。恐らく本物の主婦からは、「そんなの、主婦業なんかじゃないわよ!」と一蹴されるに決まっています。

しかしまあ、普段家内がいるときは何もしないことが殆どですから、自分的にはそれなりにハウスキーピングに努めているつもりなのです。しかし、それがかなり不十分なのは、家内が戻ってくるとあれこれ処置の不完全さを指摘されて、毎度実に不愉快な気分にさせられることで証明されているようです。

現在の主夫業は、与えられた予算の範囲で2週間分の家計を賄い、家事をこなすことだけですから、大したことをしているわけではないのですが、もしこれが家内がいなくなって、全てを自分が決めてやらなければならないとなったら、一体どうなるのかなとふと思うことがあります。冗談じゃないや!と思うのですが、恐らく楽しく家事をやるという気分には永遠になれないでしょう。その反対で、もしかしたらゴミ屋敷みたいになってしまうかもしれません。そうなる前に倅はこの家を出て行ってしまうことでしょう。人間の気分などというものはまさに無常であって、どうなるものかわかりません。やっぱり2週間の限定だから主夫業などと気楽なことが言えるのでありましょう。家内の存在というのは、ここまで来てしまう()と、相当に大きいものなんだなと思い知らされてもいるわけです。

人生いずれ最後は一人ということになるのでしょうが、その一人の意味も、夫婦の場合は、後か先かで大いに変わってくるように思います。つい先ごろまでは、あの世に先に逝くのは年齢からいっても当然自分の方が先だと思っていたのですが、この頃は後でないとダメかな、などと思うようになっています。それは、介護という事件を通して、高齢者の世界を垣間見るようになって、例えば、老老介護などというのが当たり前の世代となった時には、先に逝くのは無責任で可哀想ではないかなどと思ったりするのです。

ま、先のことは全く判りませんから、そのようなことをあまり考えないことが大切なのかもしれません。主夫などといいながら、いい加減な時間を過ごしていると、ふとそのようなことを思ったりするのでした。何はともあれ、今日はその主夫業から解放される日であります。ブログを休もうと思っていたのですが、思いついて、この2週間についての一つの感想を書きました。

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ドクダミの季節

2009-05-25 05:29:38 | 宵宵妄話

今日は終日殆どの雨でした。このところしばらく、雨が降るようで降らなかったので、嬉しい雨だと思いました。畑に出向いて、乾燥した土に如雨露(ジョーロ)で水遣りをするのは結構大変なのです。それに比べれば、大自然の雨を降らせる力というものは凄いものだなと思います。

さて、しばらくぶりに雨が降ったのはありがたいのですが、毎日を歩かなければならない身には、ちょっぴり煩わしいことも事実でした。というのも、雨が降ると傘を差して歩かなければならないからです。傘というのは、重さだけではなく、歩く時の視界を妨げるのが気にいらないのです。「春雨じゃ、濡れてゆこう」などと乙な気分には到底なれぬ、古稀直前の身なのですから。

午後になって殆ど止みかけたようなので、傘を持って歩きに出かけました。私の歩きは、真(まこと)に気まぐれで、途中からコースを変更するなどはいつものことなのですが、今日は自分でも全く考えていなかったコースとなりました。そのことをとやかく書いても意味が無いのですが、変更したお蔭なのか、今まであまり目に入らなかった草花に気づきました。ドクダミの楚々たる白い花でした。梅雨期の花です。

梅雨期の花といえば、何と言ってもアジサイだと思います。カンカン照りの中では、アジサイは平凡というか気の毒な存在となってしまう感じがします。濡れるか濡れないか程度のわずかな小雨が降るような日のアジサイは、人びとの心の物憂さを慰めてくれる力があって、一番似合っているように思います。そのアジサイも、今日の歩きの中で、花を咲かせかかっていました。

   

咲きかけたアジサイの花。未だ花びらのほんの一部が色づきかけた状態である。この時期の花に見入るのも一興だと思っている。

ところで、今日取り上げるのはアジサイではなくドクダミの花です。梅雨時期に咲く野草の花の中で、私の好きな花の一つです。ドクダミという草をご存知でしょうか?比較的光の少ない樹木や塀の隅っこなどにより多く生えている、サツマイモの葉に似た葉をつけた野草です。葉を千切って臭いを嗅げば、直ぐにそれと判る独特の臭いを持つ植物です。あの異臭ともいえる臭いには、子供の頃は辟易して避けていたのですが、いつ頃からなのか、その臭いが煩わしくなくなってきました。大人になった(?)証拠なのかも知れません。

ドクダミは、漢方薬としても名が知れています。漢方ではドクダミを乾燥させたものを、十薬と呼んでいます。文字通り、たくさんの効用があるという意味で名付けられたのかも知れません。最大の効果は、やはり利尿促進ということではないかと、私自身も実際にドクダミを採ってきて乾燥させ試したことがありますので、そのように実感しています。

ドクダミは、乾燥させてしまうと、臭いはなくなってしまいますが、私は、やはりあの臭いを放ちながら生きているときがドクダミの本当の姿であり、薬効も大きいのではないかと思っています。しかし、今のところ生の葉っぱを食べることまでしようとは思いません。敢えて「今のところ」というのは、調べてみると、中国のある地方ではこれを野菜として食用に供しているということですから、その内に予定している特製野菜食品(古稀になったら、始めようと考えているベジタリアン食材)の中にこれを加えるかもしれないからです。そのためには庭の隅に植えておく必要があると思っています。

今日はそのドクダミの花に心を惹かれたのでした。気づくと諸方にあるドクダミの群れのいずれもが花を咲かせており、梅雨の間近いことを知らせてくれているようでした。小さな四片の純白の花びらの真ん中に、パラボラアンテナの芯のような花穂を立てて、それらが集団で宇宙からの梅雨の季節を招来しているような感じがしました。見れば見るほど心惹かれて、しばらく道端に佇み、屈んだのでした。変なジジイであります。

   

ドクダミの花。群生もいいけど、1本採ってきて一輪挿しに活けると、凛とした美しさを表わす花でもある。

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60歳のラブレターに思う

2009-05-24 04:01:16 | 宵宵妄話

少し前、亡き畏友安達巌の奥さんの昌子夫人から一冊の本が送られてきました。タイトルをみると、「60歳のラブレター⑧」とありました。以前どこかで目にしたような気がしましたが、それほど関心があったわけでもなく、還暦を過ぎてのラブレターというのはさて、皆さん夫々に深い意味があるのだろうなという程度で過してきたのでした。手紙にはその企画に応募したところ、入選したという主旨のことが書かれていました。

    

「60歳のラブレター⑧」日本放送出版協会編 日本放送出版協会発行

 早速本文を読ませて頂きました。彼女の安達巌との出会いのいきさつを以前から何度もお聞きしている私にとっては、その内容は意外なものでした。何しろ昌子夫人は、その昔初めてのデートからあまり時間も経っていないのに、いきなり引越し荷物を車で運んできて「私をお嫁さんにしてください」と押しかけてきた、文字通りの押しかけ女房なのだという話をしっかり伺っていましたので、押しかけられたご本人が、実は愛の手紙を書いて残していたという話にびっくりしたのです。しかし、よく考えてみれば、それは当然なのではないかとも思ったのでした。

男が特定の女性と人生を共に過ごそうという決断をするときには、例えそれが押しかけであろうと無かろうと、愛情がないなどということはありえず、愛などと一般に軽々と言われているようなことば以上の何かを女性に対して感ずるのが普通なのだと思います。満身創痍のような青春時代を送ってきた巌氏にとって、生きる転機を与えたのが昌子さんだったのだと思います。その思いを伝えようと書いた手紙を届ける間もなく押しかけて来てくれてしまったので、彼はやむなく抽斗の奥にしまい込む結果となったのだと思います。結婚して目の前にいるその女性に、ラブレターを渡すことが出来る男なんている筈もありません。それが、亡くなられて遺品を整理している時に発見されたというのは、真に哀しくも切ないことだったと思います。愛というのは、永遠の別れの後にも一層本物となって行く力があるものなのだということを、昌子夫人のラブレターに感じたのでした。また、それを生前知られないように大切に残しておいたというのも、巌氏の愛情が本物だったという証のような気がするのです。そのラブレターは、若かりし頃の彼が、鉛筆を口にくわえて、思いのありったけを込めて書いたものなのですから。

たくさんある応募の入選作分の中で、私は彼女の手紙が一番だなと思いました。勿論他の方々の手紙も夫々素晴らしいものであって、それらをとやかく批評などできるわけもないのですが、安達ご夫妻の来し方を知っている私としては、もう他の方々と比較が出来ないのです。この世の地獄と天国をしっかり見つめてきた巌氏と、それに婦随してこられた昌子夫人の、亡き夫に対する思いは常人の想像を超えるところにあり、その分彼女の嬉しさと哀しさ、切なさは格別だったのだと思います。

その全文を下記します。

天国の巌さま

障害者の洋画家に私は自分の人生をかけ、押しかけ女房となって三十七年、別れは突然にやってきました。朝から「なあ、お母さん」と何回も連呼、とても元気でした。夕方「一緒に横にならない?」と言って、私に添い寝をねだってきたあなたに「しょうがないわね、寝てあげるわ!」と側に横になりました。あなたは、私の左胸に顔を持ってきて、………そのまま意識を無くしました。

一度も目覚めることなく、苦しむことなく、二十九日間で天国へ旅立って、……今年は三回忌です。

私はず~と押しかけ女房と思っていましたが、遺品を整理した中に初めてデートした四日後に愛のことばがビッシリ書かれたラブレターをキャビネの奥から見つけました。

何度も声を出して読みました。

懐かしさ、うれしさで胸がいっぱいになり、会いたい、肌のぬくもりを感じたい、恋しくて声を出して泣きました。

世界一!いや、地球いっぱいの愛を残してくれて有がとう!

この郵送されなかったラブレターを宝として残された人生を強くあなたの分まで娘、孫たちのために生きて行きます。そちらに私が行くのまっててね。添い寝してあげるからね♡♡♡

何度読んでも心を揺さぶられます。何とも哀しくも切ない話です。昌子さんの万感のありがとうの思いが籠められた手紙だと思います。本物の愛情の表現というのは、「愛している!」などということばではなく、「ありがとう」ということばなのだなと、しみじみと思いました。還暦を過ぎた世代では、「ありがとう」以外には、自分の気持ちを伝えることばは無いのだなと、しみじみ思いました。

その後、昌子夫人の波瀾万丈の来し方については、この手紙を読まれた読売新聞社から取材の話があり、「絵筆があれば、おまえがいれば」というタイトルで、5月4日から6回に分けて連載されたのでした。このことは以前の旅の記事(関西春旅第6日)の中でも紹介しましたが、更にこの新聞の記事を読まれたTV局から取材の話があって、現在その最中にあると聞きました。フジTVの「アンビリバボ、奇跡体験感動コーナー」という番組だそうですが、追って放映されるのを楽しみにしています。

今、TVの番組の前宣伝の中で、「60歳のラブレター」が何篇かドラマ化されたのを取り上げているようですが、安達夫妻のことがそこに入っていないことにちょっぴり不満を覚えると同時に、恐らくさすがのTV局も短編ドラマ化などできるようなストーリーではないと気づかれたのではないかとも思ったのでした。このご夫妻の人生をドラマ化するためには、半端な役者では勤まらず、それが出来る人がいるとは思えません。人間の持つ可能性の全てを表現できるような役者でなければ、到底本当の姿を伝えることは出来ないでしょう。それほどこのご夫妻の人生は、文字通り波瀾万丈なのだと言いたいのです。

私は巌氏の生前、無謀にも彼の伝記を書かせて頂こうとお願いして、たくさんの資料をお預かりし読ませていただいたのですが、そのあまりの壮絶さに数年を過ぎても書くことができず、ついに断念するに至ったのでした。伝記というのは、創作ではなく人間の生き様の記録です。非情でなければ書けないこともあり、私は未だそれに耐えるだけの自信がありません。幼少時の事故で両手をなくし、辛酸を嘗め尽くして、一流の画家として大成した人物の歴史には、単なる絵画創作の苦しみなどではない、もっと異質の苦悩が常に付随していたのでした。

これから先、昌子夫人のご活躍によって、安達巌の名は日本の画壇に、名をとどめるようになるに違いないと私は思っています。昌子夫人の愛情は、そのことに注がれてゆくことと思います。還暦を過ぎた世代の本物の愛情がどのようなものであるかを、彼女は教えてくれるに違いありません。どうか無理をして健康を損なうことなどないようにと願っています。

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守谷のポピー畑を見に行く

2009-05-23 03:59:18 | くるま旅くらしの話

今朝新聞を見ていたら、地方版に守谷関係の記事があり、その見出しに「見渡す限りポピーの花」とありました。守谷は茨城県一面積の狭い市ですから、いつも町中を歩いている私としては、そのようなポピー畑があるなど知らなかったというのは、恥ずかしいことでもあるのです。それで、早速そこへ行ってみることにしました。

そのエリアの小学校の傍の農家の人たちが景観対策として7カ所計3.7ヘクタールに昨秋タネを播き手入れをしてきたとのことです。とりあえずその小学校近くへ行けば畑は見つかるだろうと自転車で出かけました。本来なら歩いて行くべき距離なのですが、直ぐに畑が見つかる可能性が低いような気がして、自転車で行くことにしたのです。というのもその小学校の近くを何度も歩いているのに、ついぞそのような花畑があることなど知らなかったからでした

守谷という所は、関東平野のど真ん中近くに位置し、利根川、鬼怒川、小貝川に囲まれた平均海抜が27mに過ぎない平地の多い場所です。それでも「守谷」と呼ばれているのは、その昔ヤマトタケルが蝦夷征伐か何かで此処を通った時に、樹木が見事に茂っているのを見て「森哉!」と叫んだという伝説?に由来しているのだそうで、今でも残されている緑は多く、私としては大木を見るたびに嬉しさを味わっているのです。

その小学校のエリアは、利根川の堤防下に広がる田んぼから10m近い高台に開けた集落の中にあり、そこには休耕地などあまり見当たらなく、その場所を探すのは結構難しそうでした。どうせヒマなので、片っ端から見て回れば見つかるはずだと、近くに屯(たむろ)して世間話に熱中しているおばさん集団に訊くこともせず、走り回りました。やっぱり集落の中には見当たらないので、見渡す限りなどという広がりは、もしかしたら田んぼの方なのかと、台地を下りて利根川に向う小道を行くことにしました。

田んぼとの境の崖にはケヤキやクヌギやエノキなどの大木がかなり残っており、その森の中にはウグイス君たちがたくさん住んでいるらしくて、賑やかに喉を競っていました。「ホケキョケ」はいないようでしたが、「ホキョケ」と鳴く奴などもいて、ウグイスというのは、皆同じではなく、結構個性を主張した鳴き方があるのだなと思いました。

坂を下りて少し行くと正面近くに赤やピンクの絨毯のような景色が目に飛び込んで来ました。や、あれに違いない!と心が弾みました。なるほど、なるほど、なかなかの見事さでした。北海道の花畑の広さには及びませんが、この町では最大の花畑には違いないと思いました。ポピーは8分咲きというところでしょうか。初めて植えられたことに少し驚いているような感じで、ポピー独特の派手さが少し控えめになってやや幼さを覚えさせる咲き方のように思いました。来年も続けて頂ければ、本来のポピーの華やかさが濃くなるに違いありません。自転車を停め、しばらく虞美人草の艶やかさを鑑賞しました。

   

守谷市郊外のポピー畑。艶やかな花の広がりは、ひと時心を和ませてくれる

ポピーといえば、昨年は下妻市郊外、小貝川の河川敷のポピー畑に栽培を禁じられているものが混ざっていたという報道があり、私たちもすっ飛んで見にいったのでしたが、野次馬としての足が一つ遅くて、既に刈りとられた後でした。毒のある花ほど妖艶というか濃艶という感じがするのは、ポピーだけではなくトリカブトなども同じような気がします。北海道へ行くと、原生花園の藪の中に時々その濃艶な花を見かけることがあります。

花を植えるというアイデアは、素晴らしいと思います。休耕田や休耕地に植えられるものとして、コスモスが多いような気がしますが、ポピーもいいものだなと思いました。このアイデアを実行された皆さんに大いなるエールを送りたいと思います。明日は歩いて見に行くつもりでいます。片道4kmくらいではないかと思いますが、明日の朝が楽しみです。

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新型インフルエンザに思う

2009-05-22 06:17:27 | 宵宵妄話

狂乱という感じがします。その昔のコレラの蔓延に匹敵するような症状を呈している世の中という感じがします。もっともコレラがコロリと呼ばれた時代の現実は想像するしかありませんが……。

先日のブログで、人間の天を恐れぬ仕業に対する警告ではないかというようなことを書いたのですが、現実に明日を思いながら生きている人たちにとっては、そのような戯言(ざれごと)など何の意味もないことでありましょう。誰だって生きてゆかなければならないという切実な現実の中にいるのですから、たかが風邪と思いつつも、大事をとって無視できるはずがないのだと思います。

しかし古稀を迎えようとしている私には、どうもこの世の中の現象が狂乱としか映りません。慎重を期すという意味で、政府等がとっている施策が決して間違っているとは思いませんが、それに対する世間大衆の反応は、マスコミなどの過剰喧伝を介して層倍の騒ぎとなり、それに振り回されているような気がしてなりません。

例えば、マスク問題などはバカげている感じがします。買占めだとか、平素の30倍の価格だとか、マスク不足の現象面を報道するのはやむを得ないとしても、マスクが無いのなら、どういう防護策をとれば良いのかなどについては、殆んど何も報道されていないし、視点がそこに向いていない感じがします。飛沫感染を防ぐ方法をもっと紹介すべきです。マスク以外でも防ぐ方法がいろいろあると思うのですが、マスクが手に入らない大衆は、恰(あたか)も野ざらしの感染世界の中に放り込まれて、ウロウロさせられている感じがしてなりません。政府の「冷静に!」という声は大切だと思いますが、冷静とは何なのか、その中身をもっと強調すべきですし、マスコミもそれに力を入れて報道すべきではないのかと思うのです。

今回の狂乱現象を見ていて思うのは、社会が病んでいるのではないかということです。新型の病原菌という得体の知れない侵入者に対して、あまりにも過剰反応し、そのことが動物として生きるという側面をはるかに超えて、社会集団としての混乱現象を呈しているように思うのです。難しげな言い方になりましたが、簡単に言えば病気になりたくない一人ひとりの人間としての気持ちと行動が、世の中全体を金縛りの如くにしているということです。

病気になりたくないという気持ちは、人間の本能の一つだと思いますが、その基盤は元々心身共に強い自分をつくること、維持することにあるのであって、普段そのための努力を何もしないでいて、いざとなったら対症療法的な発想に振り回されるという、そのような人が多すぎるような気がします。病気になったら薬さえ飲めば大丈夫というのは誤りであって、薬を飲まなくても直してしまう身体をつくり、維持することが大切なのだと思うのです。

私には、今の世の中は健康というものに対する考え方が、その根本のところで何かズレて捉えられているような気がしてなりません。健康というのは、本来医療とは反対の局面にある考え方であって、医療を必要としないのが健康であるという意味であったはずです。それが、今の世は、「健康=医療」と直結しており、むしろ医療の方が健康の前面にしゃしゃり出ている感じがするのです。これは人間の生き様としては逆なんじゃないかと思ったりするほどです。確かに寿命(平均余命)は伸びているのかも知れませんが、その中身までが健康なのかといえば、疑問大です。今回の新型インフルエンザ現象も、本来の健康とはかなり離れた所で騒ぎが起こっている感じがしてなりません。

大した知識も情報も無いのに、偉そうなことを書くと問題があるようにも思います。ま、世情批判もほどほどにしておくことにしましょう。それにしても、私自身のことを思うと、リタイア後は風邪など一度も引いたことがありません。特にくるま旅くらしを始めるようになってからは、全く風邪などからは無縁の生き方となりました。60年近くかかって溜め込んだ様々な雑菌の免疫が、自由時間のもとに解放された空間を楽しめるようになって、大いに活躍、機能してくれているのだと思っています。

今回のインフルエンザでは、高校生などの若い方たちが多く罹患の憂き目を被っているようですが、免疫不足によるものなのでありましょう。強くなるためには、様々な未知の出来事にぶつかり、それを乗り越えることが何よりも大切ですが、その意味では、不幸にして今回風邪に取り付かれた方々は、いいチャンスだったと受け止めしっかりと免疫と耐性を我が身に植えつけ、より強い身体つくりと健康維持に努めて欲しいと思います。

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昔を訪ねる

2009-05-21 02:18:56 | くるま旅くらしの話

絵画展を見に行ったついでに小さな旅をしました。旅といってもその内容は散歩です。私にとって毎日の散歩は、健康を保持するための必須要件なのですが、それは又小さな旅でもあるのです。毎日歩いている道でも、視点や感覚を変えて周辺を見渡すと、必ず小さな発見がもたらされます。旅というのは、出会いと感動で構成されるものだと考えていますが、毎日の散歩の中にも、出会いや感動は無数といって良いほどあるのです。ですから、毎日10km近く歩いていても決して飽きることは無いのです。さて、今日はその小さな旅について感じたことを書いて見たいと思います。

私は東京の小平市という所と仕事の関係で縁があり、それは昭和38年(1963年)に新入社員として入社して以来のお付き合いなのです。望んで研修の仕事に就いたのでは全くありませんが、入社して最初の仕事が、社内教育で中学卒業の人たちの技能訓練教育担当でした。研修場は東京の荒川区の工場だったのですが、小平には寮があり、そこでも研修の一部を行っており、私は寮監を兼ねていきなり彼らと一緒の生活を強いられた(?)のでした。今では忘れかけている懐かしい思い出です。

その後3年ほどで技能訓練生の教育は終わりとなり、対象は高校・大学卒新入社員に切り替わりましたが、私の仕事も彼らの技術以外の領域の指導や一般社員や管理者の研修へと変ってゆきました。そして同じ職場での10年近くが経過し、その後は四国高松に5年、九州福岡に7年の勤務を経験して東京に舞い戻り、平成に入ってから少し経って、再び小平の地で仕事の7年間を過したのでした。

会社を辞めてからも研修のコンサルタントとして小平に住んでいましたので、小平市との係わり合いは、20年以上になると思います。そのようなわけで45年以上も前の小平市の有様も未だ目に残っており、近隣の小金井公園や玉川上水、多摩湖、野火止用水などの遷り変わりも忘れることの出来ない思い出となっています。今回はその思い出の場所を、早朝散歩の中でほんのちょっと訪ねたのでした。

研修所は小平市の東部の花小金井という所にあって、西武新宿線花小金井駅から徒歩15分くらいの場所にあります。その駐車場で一夜を明かしたのですが、早朝の3時過ぎにはもう目覚めてしまい、直ぐにでも散歩に出掛けたいのですが、幾らなんでもその時間では誤解を招く心配がありますので、書き物などで我慢をしながら時間を過ごし、5時過ぎ明るくなってきた頃を見計らって出発したのでした。

この付近を歩くのは8年ぶりくらいでしょうか。守谷に越す前に住んでいた東村山市の時も、偶には遠出をして水道道路(多摩湖の水を都心新宿方面へ運んでいる道水路で、地上は人びとの行き交う交通路となっている)を歩いたものですが、花小金井まで来ることは滅多になく、専ら野火止用水(その昔、川越領主だった松平信綱が幕府に願って、玉川上水から分水して、川越まで導水した用水路。これによって武蔵野の原野の開拓が進んだとも言われている)の方を歩くことが多かったのです。

まずは研修所の近くの小さな商店街を歩いてみたのですが、すっかり様子が変ってしまって、名を覚えている店は数が少なくなっていました。未だ開店前なので実際活動の様子は判りませんが、日中は恐らくもっと変っていて、看板の残っている店でも、もしかしたら営業はしていないのかもしれません。小規模の小売り業では、もはや経営が成り立たない時代となってしまったのかもしれません。敷地一杯に建てられた住まいと思われる2,3階建ての家には立派な車庫があり、高級車が鎮座している家が目立ちました。子どもの世代となって、店は住居に変ったのだなと思いました。その昔はさほど狭いとも感じなかった道路は、両側にビッシリと建て込んだ家々に圧倒されて、実に貧弱な狭い生活道路に成り果ててしまった感じがしました。

近くの商店街を通った後は、更に裏道から住宅街を抜けて小金井公園に向いました。小金井公園は、桜の名所としても有名ですが、東京でも有数の広さを持つ公園で、その中には江戸東京博物館の分室として江戸東京たてもの園などの施設の他に、各種運動施設をはじめ様々な憩いの場所が用意されています。周囲を一回りするには1時間以上もかかり、5kmを超える距離となると思います。隣接する小金井カントリーよりも公園のほうが広いのではないかと思います。この小金井公園には様々な思い出があります。

普通の人ならば、休日などに桜を見に行ったり、子どもをつれて遊びに行ったり、或いはたてもの園を見学したりということになるのでしょうが、私の場合は、その昔はこの公園の桜の木の下で訓練生の人たちと一緒に、授業としてのサッカーなどをして時間を過ごしたのでした。今は老大木となっている桜の木も、45年前は幹の太さがまだ手のひら両手に収まるくらいの若木だったのです。ソメイヨシノの寿命はわずかに100年足らずですから、今の老大木を見ていると、生長のスピードが思われ、当時のことが全く嘘のような気がしてならないのです。樹木の生長というのは遅いようで早く、人間の時間物差しでは計ることが出来ない世界のようです。久しぶりに行ったその場所は、8年前とはさほど変ってはいませんでしたが、大木の緑に囲まれて、その隙間から見える空も緑に染まっていました。

公園の西端から東端に向って、ゆっくりと新緑を味わいながら歩きました。たてもの園では、家内がボランティアで古民家などの建物のメンテナンスやガイドを勤めており、毎週来ていましたので、私も車で送迎をしたりして、懐かしい感じは一入です。以前と変らぬ景色がそこにありました。これらは変ってはならない景観です。

   

小金井公園の中にある江戸東京博物館の分館である、たてもの園の正面入口棟の偉容。昔は此処に武蔵野郷土館という建物があった。現在のたてもの園には、江戸末期以降の建物を中心に幾つもの家屋が移築されており、宮崎駿監督のアニメの「千と千尋の神隠し」の中に出てくる湯婆の銭湯のモデルとなった建物も健在している。

たてもの園の少し先に行くと、小金井薄紅桜という、此処で発見された新種の桜の原木があります。自然交配によって生まれたものだそうですが、以前見ていた時は元気が無く、今にも枯れそうで心配だったのですが、今日寄って見てみますと、思いのほか元気な様子で少し安心しました。新緑の葉が活き活きとしていましたので、今年はきっとたくさんの花を咲かすことが出来たのかも知れません。ソメイヨシノは一本の木のクローンで広がっていることで有名ですが、この薄紅桜もクローン技術によって広められているのかも知れません。そのようなことが案内板に書かれていました。

   

真ん中にすくっと立っている黒い幹が小金井薄紅桜の原木。緑が濃くて判り難いが、以前よりもかなりしっかりした新緑の枝を伸ばしていた。

次第に散歩などの人が増え出し、6時を過ぎる頃になると、すれ違う人の数が半端ではなくなってきました。休日なので、人出が多いのかなと思ったのですが、そうではなくて、歩いている人たちの殆んどがリタイア後の世代と思しき人たちであり、皆さん健康のために早朝散歩を心がけてやって来られた方々のようです。周辺は住宅街なので、朝を待ちかねて家を出てきた人が多く、さながらシルバー天国の様相を呈している感じがしました。さすがに東京は人が多いのだなあと改めて実感した次第です。

1時間ほどかけて新緑の公園の空気を味わった後は、田無(現在は西東京市)の方に抜け、水道道路に出て花小金井の方に戻ることにしました。水道道路の両脇には桜などの木が植えられ、その下には有志の方たちのご尽力なのか、所々様々な種類の花が植えられており、今頃の季節は、最高の散歩道となっています。7時近くとなって、通勤、通学の人たちも増え出したようで、かなりの人出となり出しました。

   

水道道路の景観。これは花小金井駅付近の早朝の様子。緑のトンネルは、仕事や学校に急ぐ人たちの後押しをして元気づけている感じがした。

花小金井の駅を過ぎ、ちょっと気になって、その昔いろいろお世話になった文房具屋さんのある駅前商店街を覗いてみました。どの店も皆開店前なのでひっそりとしていましたが、驚いたのは商店街のある道がインターロッキングのような舗道となっていたことでした。それは車の出入りよりも人の歩きを重視することを意味しているように思い、嬉しいようなそうでないような気持ちとなりました。この道は、車が殆んど歓迎されていないことだけははっきりしたということです。裏道が好きな私は、文房具屋さんの後ろの方に市の役所の出張所のようなものがあったのを思い出し、覗いてみたのですが、何とその建物は撤去されていて、自転車の駐輪場となっているではありませんか。市民に対しては、役所の出先機関を置くよりも駐輪所を設置した方が優れたサービスとなるという当局の判断なのかと思いました。いやあ、短い時間の間にも街は少しずつ姿を変えてゆくものなのだなとしみじみと実感した次第です。

その後は、もう車に戻ろうと再び水道道路に戻って研修所を目指したのですが、その昔最も頻繁に通った駅から500mほどの通勤路だった水道道路のその道は、真に懐かしく、全てに周囲の風景を噛みしめての歩きとなりました。風景を噛みしめての歩きがどんなものなのかは、私だけの世界の話です。その中で一番驚いたのは、道の脇にあった公園が同じ面積のはずなのに、ものすごく小さくなっていて、まるで箱庭のように見えたことでした。歩きを常とする者の目には、一木一草の存在が強く印象に残るものなのですが、その水道道路脇の公園は、その四辺に植えられていた桜の木が、この8年間の間に途轍もなく生長して、殆んど公園を埋め尽くすほどの緑の枝を伸ばしていたからなのでした。2時間ほどの歩きの中で、全てが変化していることを、複雑な思いと一緒にしみじみと感じた小さな旅の時間でした。

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