山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

筑波山登山の記(第17回)<筑波山の妖光>

2014-01-30 18:33:31 | 筑波山登山の記

<第17回 登山日 2014年1月29日(水)>【筑波山の妖光】

 1週間も経たない内の今月5回目の登山となった。何しろ旅に出かけることもなく、ただ歩いているばかりでは、やはり充実感は得られず、家の中でグータラしているよりは、山に登った方がずっとスッキリするのである。本当は毎日登ってもいいくらいに思っているのだけど、少しばかり遠くて、毎日往復80kmのガソリン代は、当節円高で値上がりの激しい石油価格のことを考えると、せいぜい週一回の登山で我慢せざるを得ないのである。

今日は女体山に登る番なので、久しぶりにご来光を拝したいと昨夜考えていたのだが、二度寝をしてしまって、目覚めた時は30分ほど時既に遅しの状況だった。玄関に出ると、下弦を過ぎた、細い鎌のような月が、明けの明星と一緒に東の空に鋭く引っ掛かって輝いていた。いい天気である。ちょっぴり残念さを噛みしめながらの出発となった。

5時半過ぎに駐車場に着いて、6時少し前に登山口から上り始める。まだ暗くて、しばらくはヘッドランプの光を頼ることとなった。30分ほど登って丁度中間点辺りに来た頃、夜は終わりを告げたらしく、灯りは不要となった。今日は登山者が少なく、前も後ろも静かでもの音もしない。男女川の源流を過ぎて少し行くと、このコース最後の踏み段が始まるのだが、まだ日の出前なのに、早や降りて来る数人の人たちに出会った。どうしてご来光を拝しないのかなと、他人事ながら勿体ないなと思ったりした。700段ほどの踏み段を一歩一歩噛みしめて歩き続ける。かなりきついのだが、この頃はこの最後の登りが楽しみとなっている。どんなにつらくても、登り続けていさえすれば、御幸ヶ原の広がりの恵みに出会えるのである。その喜びが判っているので、楽しみなのである。

御幸ヶ原に着いた頃は、既に日は高く登っており、その光の下に霞ヶ浦が鏡のように光っていた。北西側には、日光の男体山や女峰山などの連なりや那須連山などが、凍りついて輝くのが見えた。今日の筑波山の鞍部から上は、思ったよりも寒くて、風の音もかなりのものだった。そこから女体山頂上まで500mほどなのだが、もうここまで来ると疲れは吹き飛んで山頂の御本殿までは、あっという間である。しかし、今日はかなりの風が吹いていて、それがまた超冷たいのである。持参しているアンカの能力を超える寒さで、両手は痛いほどだった。頂上には誰もおらず、独り占めだったけど、寒さには勝てず、大急ぎで証拠写真(?)を撮って下山を開始する。直ぐ下の風邪の当たらない窪地で、大急ぎで着替えを済ませたが、両手先がかじかんで、着衣のボタンを閉めるのに苦労した。

     

今朝の登山の証拠。女体山山頂ご本殿の一枚。こうして見ると、穏やかで暖かそうな景色に見えるが、ここで風を写すのは大変難しい。

そのあとは、淡々と下山して、いつもと同じ1時間ほどで登山口に戻り、駐車場に戻って、帰途に就く。今回は、寝坊をしての、ごく平凡な登山だった。

 

さて、今日は筑波山にまつわる妖光について紹介したい。これは、登山の時ではなく、小貝川の堤防を重いリュックを背負って歩いていた時の発見の話なのである。昨年の12月の終わり頃、いつものように早朝の歩行鍛錬で、小貝川のコースを歩いていた。家からは、つくばエキスプレス(=TX)の基地の横を回りながら30分ほど歩くと、小貝川の堤防に出る。そこから2kmほど堤防を歩いて、田んぼの横道をつくばみらい市の住宅街を経て守谷市の自宅の方に向かうのだが、このコースが気に入っていて、特に冬の間は、ほぼ毎日このコースを辿っている。コースの中では、何といっても堤防の上を歩くのが気持ちが良い。堤防にはほどよい川風が吹いていて、少し汗ばみ始めた頃合いの身体には、真にありがたいのである。ま、鍛錬などとは無関係の人には、その風は冷たくて敬遠したくなるのは必定だと思うけど。

その日は、いつもと同じように6時頃に家を出て、堤防に上ったのは、6時30分過ぎだった。ここから堤防を2kmほど歩く間に、天気が良い時は日の出を迎えるのである。この土手から迎え見る日の出も、なかなかのものであって、冬の厳しい寒さを反映した東の空のかぎろいの後の日の出は、厳粛で荘厳に満ちたものなのである。その時には思わず立ち止まって、太陽に一礼することとなる。自然とそのような気持ちになってしまうのだ。

しかし、その日は晴天にも拘わらず、朝日が昇る方向にだけ雲があって、日の出を邪魔しているかのような空だった。今日はダメかと諦めて歩き続け、日の出の時刻の7時少し前に、辺りが明るくなり出したので、ああ、日の出だなと思って頭を上げて振り返ると、黒雲の上にまさに煌めく太陽がせり上がる所だった。邪魔ものがあっても、やっぱり日の出は良いなと思いながら、ふと前方の筑波山の方を見てみると、何と女体山の頂上辺りに怪しげな光の球が見えるではないか!

一瞬何だろうと思った。歩きの時間の殆どは下を向いており、頭を上げるのは日の出の時と前方確認の時くらいなので、今まで筑波山をあまり見たことがなかったのである。しかし、その時はもしかしたら、筑波山にUFOが降りて来て何やら怪しげな動きをし始めたのではないか、或いは突然に筑波山が噴火に目覚めたのかとさえ思った。筑波山が活火山だとは聞いたことがない。丁度女体山の真下20m辺りに点っているその怪しげな光は、光の束の筋を八方に放って何とも不気味だった。思わずカメラを取り出しその妖光を収め撮った。

     

小貝川堤防の道から見た筑波山の妖光。突然この光を見た時は、誰だってドキリ!とするに違いない。この辺りにはくもの巣のように電線が張り巡らされていて、これを避けて筑波山を撮るのは難しい。

しばらく佇んでその光の正体を確かめることにした。間もなく解ったのである。光を発している場所は、注意して見ると、女体山頂下のロープウエイ乗り場辺りなのである。ここのロープウエイにはまだ乗ったことは無いけど、山頂駅にはコンクリートの土台で作られた小さな広場があり、それは遠くからは小さな白い点となって見えるのを思い出したのである。そこに日の出の光が打ち当って、ちょうどその台場が鏡のような働きをして、怪しげな光の源となっていたのだった。それが解ってみれば、幽霊の正体見たり枯れ尾花の笑い話のようなものなのだった。しかし、あの一瞬のドキリとした思いは、この頃の異常現象の発生のあり様を見ていると、決して安易に笑えるものではないようにも思えたのである。

その後もこの時間帯にそこを通る時は注意して見るようになったのだが、やはり日の出に合わせて同じ現象の妖光が点っており、今はもう笑って済ませている。しかし、この現象が見られるのは、この時期の半月ぐらいの間で、1月半ば頃になると、もうそれを待っても見ることはできなかった。筑波山には、登らなくても楽しめる不思議がまだまだあるのではないかと思っている。

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春の到来を知る

2014-01-28 18:58:30 | その他

 このところ筑波山登山の話ばかりで、肝心の旅の話が載せられないのが残念です。冬の期間は、気候の問題もあり、車の安全を考えて近場以外は遠出をしないようにしているのですが、今年はその近場へさえも出掛けるのを控えています。特に体調に問題があるという訳ではないのですが、1月、2月と2台の車の車検などがあり、何となく出そびれてしまっています。相棒の体調は、基本的には安定はしているものの、この冬の予想外の厳しい寒さのせいもあって、油断すると、思わぬ体調不全が突然来訪したりするものですから、外出には大事を取って君子危うきに近寄らずという感じでちょっとした近場でも今のところ自粛しています。

自分の方はせっせ、せっせと毎朝15キロを身につけての90分ほどの歩行鍛錬を続けています。しかし、歩くばかりでは何か物足りなくなって、せめて週に1回は筑波山に登ろうと、それがこの頃は次第に楽しみとなり出しています。今月はここで紹介させて頂いているように、既に4回の登山を済ませました。明日辺りもう一度チャレンジして、楽しみを実現させたいと考えています。ま、旅の方はもう少し暖かさが実感できるようになってから、南房総辺りにでも早春の花を訪ねてみたいなと考えています。

ところで、今年は昨年夏の暑さの反動で、厳しい寒さの冬となるのではないかと予想していたのですが、どうやらその通りの状態となっている感じがします。我家の周辺では、未だ春の気配は微塵も感じられない状況です。早朝7時前の歩きの時間帯では、道端は霜枯れた草の中に寒さに凍えたノゲシやタンポポなどが必死に春の到来を願っている姿などが所々に散見されますが、春の気配は未だ遠しという感じです。

昨日(1/28)は、週1回の家内のフォークダンスの練習のお抱え運転手として、つくば市の並木という所にあるいつもの場所へ出かけました。3時間ほどの待ち時間の間は、いつも付近を歩きまわっているのですが、この頃はコハクチョウや鴨たちが飛来している姿を見たくて、土浦市の郊外にある乙戸沼公園という所へ毎回通っていました。ここには沼を取り巻く2kmほどの周遊路が作られていて、これを回りながらコハクチョウや鴨やバンたちの姿を観察するのが冬の歩きの定番コースとなっています。ところが今年は沼の湖面に、かなりの広さで氷が張ってしまっていて、水鳥たちは餌を探すのに苦労するのか、コハクチョウも鴨たちも飛来している数が例年の半分以下となってしまっていました。

それで、今日は別のコースを歩いたのですが、その中に春を発見しました。並木の近くに梅園という地区があり、そこに梅園公園というのがあって、そこには文字通りかなりの数の梅の木が植えられているのですが、そこを通りましたら、何と、早咲きの梅が花を咲かせていたのでした。まだまだだろうと思いながらも、若しかしたら咲いているかもと期待して行ったのですが、期待以上の開花ぶりでした。中には4分咲きほどのものもあり、ああ、ここには確実に春が来ているのだなと実感しました。

     

     

つくば市梅園公園の白梅と紅梅の花たち。全部の木が花を咲かせているわけではないけど、この寒さの中魁の開花には感動を覚えずにはいられない。

「梅一輪 一輪ほどの温かさ  嵐雪」の句は有名ですが、厳しい寒さの中に、きりっとした姿で咲く梅の花には、深い感動を覚えます。この句は、ほんの咲き始めの花を見出した時の感動を詠ったものだと思いますが、今日見たのは団体で咲き乱れる花の姿でしたので、より一層春の到来を教えてくれている感じがしました。何だか嬉しくて、救われる気分でした。

それで思いついて、今日は守谷市内にロウバイを見に行きました。梅が咲いているなら、ロウバイも咲いているに違いないという考えです。どこにロウバイの木があるかは10年近くも町中を歩いているので承知済みのことなのです。思っているその場所に行って見ると、想像通りでした。澄み渡る青空をバックに、ろうたけたというのか、透明感のある黄色い花が幾つも青空を飾っていました。春は既に到来していたのでした。それに気づかなかった、この頃の縮んだ我が身の感覚を反省しました。(息抜きの話でした)

     

守谷市内のロウバイの花。青空にろうたけた黄金色の花が映えるのは美しい。蕾もまん丸く膨らんで、春を弾けさせるかのごとき生命の力を感ずる。

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筑波山登山の記(第16回)<60年前の登山記憶>

2014-01-26 17:04:34 | 筑波山登山の記

<第16回 登山日 2014年1月25日(土)>【60年前の登山記憶】

 この25日、今月4回目、通算16回目の登山を行った。いつものコースを往復共に淡々と登り、下ったという感じである。今日の予報は晴れで、かなり暖かくなるという話だったが、朝出発の際は細くなりかけた月が空に鋭い光を放ち、きらめく星たちが淡く大地を照らし、かなりの冷え込みだったらしく、車のフロントガラスに霜が凍てついて、温水を掛けて取り除くといった状況だった。そのままの空ならば、ご来光は拝めなくても日の出の後の太陽を垣間見られるかなと思ったのだが、実際には、山麓の駐車場につく頃には、空は薄い雲に覆われて、何だかぼやっとしたムードに変わってしまっていた。

いつもの駐車場に6時半少し前に到着。今日は土曜休日とあって、いつもより少し先着の車が多かった。直ぐに身支度をして歩き始める。登山口までは15分ほどかかる。6時40分過ぎ登山開始。ただ淡々と登るだけ。ただ、今日気にしているのは、筑波山に自生しているというツクバネという樹木を見つけたいということ。しかし、この季節では、あの印象的な羽根つきの羽根の形をした実は残っていないだろうから、もしそれに出会ったとしても、葉っぱだけでは判る筈がないとは思っている。

淡々と登るというのは、登山の真髄を味わっている感じがする。あれこれ理屈をつけて登るのもそれなりに面白いのだけど、ただ足元を見続けて息を整え、汗を拭いながら一歩を進めるのは、生きて動ける実感を噛みしめる時間のように思う。今日はそれを十二分に味わった時間だった。ツクバネは見つけられなかったけど、まだまだそれを探し出すための工夫の余地があり、これからが楽しみである。

8時少し過ぎ、男体山の頂上に到着する。御幸ヶ原の登り口に、先日の雪が少し残っていたけれど、その先の頂上辺りは、日陰にほんの少し消えかかった残雪があるだけだった。男体山御本殿に参詣の後、今は廃屋となった筑波山測候所の門前にて、記念写真を撮る。今日はこの記念写真のことについて思い出を語ってみたい。

つい先日、筑波山に登り始めるようになってから初めてのことだが、何となく古いアルバムをめくっていたら、今から60年前の中学1年生の時に遠足で登った筑波山登山記念の集合写真があるのに気づいた。あの頃は、毎年に一度、学年全体で少し遠い所に遠足に行くという学校行事があったのである。自分の通った中学校は、全学年が二クラスで、小中学校を通じてずっと同じ顔ぶれの村の子ども仲間だった。クラスは時々メンバーの入れ替えがあったが、何しろ計9年間も一緒に学んだのだから、70数名の顔と名前が一致するのは勿論だった。しかし、あれから60年が経って、それらの記憶は次第に薄れ始めており、中学校卒業以来一度も会っていない友だちも多く、アルバムを見ていても「誰だったかな?」という顔がかなり増え出している。今、どこかで会っても、名乗り合って思い出すまでにかなりの時間がかかるに違いない。

さて、その中一の時の記念写真なのだが、この写真にだけは何故か「中一、筑波山測候所にて」と脇に書かれていた。それで気づいたのだが、よく見るとまさに今日登って来た筑波山男体山の頂上脇にある測候所での記念写真なのであった。こんな狭い所によくもまあ、先生を含めて80人近くの子どもたちが岩場に並んで撮ったものだと、驚くほどである。その当時は、この測候所は勿論現役で、関東エリアを初めとする気象データの収集などで活躍中だったのだと思う。しかし、現在は廃屋となっており、そのまま放置されているので、自分がこの世から消えてもまだ老醜を深めながら残り続けるに違いない。人工物の最後は、破壊しない限りはそのような運命を辿ることになるのであろう。拡大鏡で見てみると、間違いなく60年前の門が残っており、塀の模様もそのままなのだった。少し違うのは、右側にあった大きめの樹木が消え去っており、反対側の左に自生していた小さな樹木がかなりの老木となっていたということくらいである。

そのように山頂近くの建物や自然環境はそれほど大きな変化は無いのが判るのだけど、その記念写真に収まっている人々は、この60年の間に何という大きな変化をしたのだろうか。夫々の人々についての消息は確かめるすべもないけど、想像すれば、果てしもなく想いは錯綜する。早や既にこの世を去り幽界に住む人たちも何人かあり、生き残っている者も、夫々が何らかの形で老というものを実感しているに違いない。その一枚の写真を眺めながら、改めてこの世の無常を想った。自分は老計と死計の核に「PPK(ピン・ピン・コロリ)」を据えてこれからを生きようと考えているけど、願わくば皆が残りの人生を活き活きと過ごして、天国での再会が叶うようにと思うだけである。

そのような思いを込めながら、今回は測候所の門前にリュックとその脇に杖を置いて、60年ぶりの一人相撲の記念写真を撮った。勿論、我が心のカメラには、往時の仲間や先生たちの姿もしっかりと写っている。これから先も、ここに来るたびに60年前の思い出がよみがえり、不思議な力を与えてくれるような気がしている。終りに、2枚の比較写真を載せることにしたい。

      

60年前、中学1年生の時の筑波山遠足の記念写真。ケーブルカーで御幸ヶ原まで来て、その後男体山頂上の脇にある測候所の前で撮ったものである。後ろの門や塀は今の位置にそのまま残っている。

      

上の写真から60年経った、同じ場所からの目線で撮った無人の記念写真。右手の外装の一部剥げた門の前に、リュックと杖を置いての写真だけど、自分の心の中には、往時の皆がそのままで写っている。

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横綱になれない大関

2014-01-25 00:56:11 | 宵宵妄話

 大相撲の一月場所が間もなく終わろうとしている。今場所前の最大の話題は、新しい日本人の横綱が生まれるかどうかということだった。しかし、その話題の中心にいるその大関は、いきなり初日に負け、その後は白星を少し拾ったものの、5日目にはあっけなく押し出され、もう後がないと騒がれる中で、8日目以降はシッチャカメッチャカに負け出して、11日目の今日は、何と勝ち越しさえも危ういという様な情けない状況となっている。日本国の中で最も知名度が低く、最も肌荒れの女性が多いという、バカにされっ放しの我が茨城県出身の期待の星である稀勢の里は、またしても茨城県を象徴するかの如き落胆の流星となりつつある。

自分は相撲というスポーツは、子供の頃に一時熱中した以外は次第に遠ざかり、ただ見るだけのものとなってしまっているけど、つい少し前までは国技であるということを信じて来たのだった。しかし、八百長問題などが吹き荒れ、外国からの人材が膨らむ中で、これはもう国技などではない、ただのショースポーツの一つに過ぎないと思うようになってしまった。何故大相撲がこのようになり下がってしまったかについては、もはや議論する興味も意欲もない。議論しても、グローバルとかワールドワイドとかいうのが当たり前の今の世の中や、これからの世の中を思い浮かべると、相撲がこの後も日本の文化の一つとして残るなどとは、到底思えないからである。外国人横綱が独占して番付を占めるような国技は、もはや国技などではありえない。ただのショースポーツとしか言いようがない。大相撲は、これからはそのようなスタンスで栄えてゆけばいいのではないか。そう思っている。

ところで、何故稀勢の里は横綱に挑戦する度に失敗するのだろうか。弱いからなのだろうか?体力に問題があるからなのだろうか?それとも、心意気に問題があるのだろうか?全部当て嵌まるような気もするし、違う様な気もする。いずれにしてもその真因は本人だけにしか判らない。我々野次馬は、勘ぐることしかできない。過去に横綱になれなかった大関はたくさん存在する。それらの人たちを徹底的に分析すれば何かが見えてくるのかもしれない。しかし、それが判ったとしても、稀勢の里がそれを知ったとしても状況は変わらないだろうと思う。何故なら、変わることが出来るのは本人だけだからである。

しかし、このように決めつけてしまうと、先に進めなくなって面白くない。野次馬に戻って、横綱になれない大関のことを考えてみたい。相撲は「心・技・体」の充実をその根本に据えて相撲道なるものを掲げている。この三つの命題を見事にクリアーした者が斯界の頂点に立つ横綱ということになる。そして、そのどれかが劣ったり、欠けたりした時には、直ちに引退を余儀なくされる。一場所でも負け越したり、何場所も休場したりすれば、同様に引退を覚悟しなければならない。それは、野次馬が想像する以上に厳しい現実の中にあるように思う。

横綱になれないというのは、そのような厳しい横綱の現実を体験しなくて済むという点では、ラッキーというべきなのかもしれない。大関ならば、たとえ不調であっても、二場所続けて負け越しさえしなければその地位を維持できるし、仮に二場所負け越しても翌場所に10勝以上の勝ち星を挙げれば復帰できるのである。そして、何よりもありがたいのは、地位を失っても引き続き相撲を取り続けることが出来るのである。白鵬や日馬富士には、残されているのは引退の道しかないのだ。

このように考えると、何だか複雑な気持ちになる。若しかしたら、大関が横綱になるという重圧は、もし挙がってしまったらもう後がないのだという覚悟が定まらないことに起因するのではないか。勝たなければならないという当面の目的よりも、その後に控えているもっと重いものに耐えられるかという無意識の覚悟が、当事者の「心・技・体」を揺るがしているように思う。稀勢の里は、まだ覚悟が定まっていないのではないか。

相撲道の「心・技・体」は力士のあり様を見ていると、その力の入れ具合は、①体→②技→③心の順で本人も指導者も取り組んでいる様な気がする。先ずは身体、そして相撲の勝ち方の方法の体得、この二つを通して心構えを鍛えるというところだろうか。相撲界は、この考え方、方法をずっと守ってきた。その実態は知らないけど、稽古をしない部屋は無いだろうし、稽古となれば、技に関わるのは当然だ。そして心の世界は、稽古の中で鍛えるものという訳である。そのやり方について、つべこべ言ったところであまり意味がない。気になるのは、皆同じような考え、方法で稽古をしているのに、横綱になれる人が滅多にいないということである。負けない、強い横綱というのは、どのようにして生まれてくるのか。

これは、人間の生き方そのものに係わることだと思うけど、全ての人間は、皆心で生きているのである。体や技で生きているわけではない。体や技には限界があるけど、心には限界は無い。あるのは錯覚や思い違いだけである。心の世界は無限の広がりを持っている。その広がりのパワーを一点に集中させられるかどうかが、何か物事を成し遂げる際のポイントとなる。この一点集中を成し遂げることが出来た時、人は成果を自分のものとすることが出来るのである。

自分は、「心・技・体」の核はやはり「心」にあると思う。エネルギーを一点に集中するというのを別のことばで表現すれば、それは「無」ということになるのではないか。無心とは心が無いことではなく、邪念が無になるということである。

今の相撲界においては、何よりも鍛えなければならないのは「心」の世界ではないか。稽古の中だけではなく、あらゆる場で、あらゆる方法で心を鍛えることに指導者は層倍の工夫と努力をすべきであろう。特に日本で育っている日本人には、これは大きな課題である。何故なら、外国からの人材には、自ら心を鍛える環境が備わっているからである。稽古が辛くて逃げ出す弟子があることを嘆いていた親方の話を聞いたことがあるけど、甘えの環境がすっかり出来上がっている日本人では、自ら心を鍛えるという人材は極めて限定されるように思えてならない。暴力を用いても鍛えるべきとの発想には賛同致しかねるが、心を鍛える方法は、工夫次第で幾らでもあるはずだ。親方衆は、昔からの伝統的な指導方法に依存しているばかりでは無く、自ら新しい方法を研究する努力をする必要があろう。

自分は思うのだけど、相撲の「体」と「技」というのは、さほど大した課題ではないのではないか。「体」に関して言えば、器の大きさはむしろ大き過ぎるのを心配するほどだし、技といってもその基本は押す、突く、寄るということぐらいしかない。小技は苦し紛れの戦法に過ぎず、肝心なのはこの三つの基本を確実にこなすということであろう。ま、上手や下手の投げ程度は身につける必要はあると思うけど。派手な技は不要であり、そんなものを磨いていたら決して上位へは進めないであろう。要は、「心(=意志)」の思うように動く体を作ることなのだと思う。どんな立派な体格を持っていても、それを自分の思うように動かせなければ、自分の相撲を取ることはできず、ただ相手に相撲を取られるだけである。

稀勢の里によらず、これから先この「心」の課題をクリアーさせなければ、日本人の横綱は生まれないと思う。また、怪我が多いのは、稽古のやり過ぎではなく、ショーに力を入れ過ぎて、年に6場所も開催したりしているので、本気になって土俵に上がる力士には、懸命になればなるほど体を傷める機会が増えるからであろう。力士に「心・技・体」が揃わぬ環境を、相撲協会そのものやショー好みの社会が作り出していると考えるのも、あながち的外れではない見方のような気がする。

今はもう、稀勢の里には、突然変異的なパワー集中力が備わるのを期待するのみである。勿論、その前にしっかり覚悟を決めて貰わないと、綱の維持は出来ないのだから。

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筑波山登山の記(第15回~その2)<シモバシラのこと>

2014-01-19 05:33:43 | 筑波山登山の記

<第15回 登山日 2014年1月17日(金)>【シモバシラのこと】

さて、前回に引き続いて15回目の登山の際に出会った「シモバシラ」の話である。霜柱といえば、寒い冬の季節には、道路脇や畑一面に地面を持ち上げて立つ、あの氷の柱のことであるけど、ここで取り上げようとしているのは、それではなく氷の花としてのシモバシラのことであり、それゆえに敢えてカタカナで「シモバシラ」と書かせて頂くことにしている。

今回の登山の際に、御幸ヶ原からの下山を開始して10分ほど下りた地点で、登山道脇で何やら熱心に調べもののようなことをされている方に出会った。何をされているのか、挨拶の後でお訊きしたら、「氷の花があるんですよね」とのことだった。覗かせて貰ったら、枯れ草の中に真っ白な花のようなものが咲いていた。思わず「ギンリョウソウみたいですね」と言ったら、「いや、花ではないですね。氷の花なのです。高尾山辺りでは良く見かけるのですが、筑波山では今日初めて見ました」とおっしゃった。「若しかしたら、シモバシラというのではないですか?」と聞いたら、言下に「いや、霜柱ではありません」と断言された。自分としては、大地に立つ霜柱ではなく、シモバシラという名の植物に良く見られるという氷の花ではないかという意味での問いかけだったのだけど、その方は霜柱と受け止められたようだった。この氷花の名前は知らないとのことだった。それで、家に帰ってから調べてみようと思い、写真を撮らせて貰った。

     

筑波山登山道脇で出会った「シモバシラ」。この茎のある植物がシモバシラという植物なのかどうかは判らない。昨年の夏から秋にかけてはあまり登らなかったので、ここにあったのを気づかなかったのかもしれない。来年は注意してこの茎の正体を知りたいと思っている。

シモバシラという植物があり、それが枯れて冬を迎えた時に茎の中に入っていた水分が凍って外に飛び出し、あたかも花のような姿を見せるという話を聞いたことがある。それは、10年ほど前まで、家内が東京小金井市の小金井公園の中にある「江戸東京たてもの園」でボランティアのガイドをしていた時に、聞いたのだった。冬のある寒い日に、「シモバシラが咲いているよ」と仲間の方に言われて、そこへ行って見るときれいな氷の花が咲いていて、「これはシモバシラという植物に出来るのだよ」と教わったとのこと。その日は、帰宅後の家内に、かなり興奮しながら何回かその話を聞かされたのを思い出したのだった。しかし、その時の記憶が残っているだけで、その後実際にそのシモバシラなる植物も氷の花も見たことは無かったのである。

さて、帰宅して早速シモバシラを調べてみた。先ずは撮ってきた写真を家内に見て貰い、知っているシモバシラかどうかを確認して貰った。しかし、彼女も10年以上も前に見た氷花の記憶をはっきりとは思い出せないらしく、「確か、このような姿をしていたような気がする」という様なことだった。それで、ネットを見てみたら、どうやら氷花には様々な形があるらしく、今日筑波山で見たものに似たような写真が何枚か写っていた。これでシモバシラに間違いないと確信した。ネットの説明、紹介の中にも東京郊外の高尾山で多く見られるという様なことが書かれており、山で出会った方もそのようなことをおっしゃっていたから、これはもうシモバシラに間違いないと思った。

植物図鑑を引くと、シモバシラというのが掲載されていて、シソ科シモバシラ属の植物であると書かれていた。そこには、初冬になると枯れた茎の根元に霜柱がつく光景がよく見られるのでこの名があるが、咲いた花の形も霜柱のように見える、と書かれていた。写真を見ると、確かに霜柱に似た感じの細長い花穂が写っていた。なかなかに楚々とした感じの美しい花だった。まだ見たことがなく、先に氷花の方にお目にかかってしまったけど、今度は是非とも植物の方のシモバシラに会いたいと思う。恐らく筑波山で見た氷花は、植物のシモバシラに着いたものではなかったのではないか。して見ると、どこに行けば生きたシモバシラの花に会えるのか、又一つ出会いの楽しみが増えたというものである。

     

ギンリョウソウ(イチヤクソウ科ギンリョウ属)の花。これは2010年北海道の旅で、黒松内のブナセンター(ブナの北限といわれている)の中で見つけて撮影したもの。ギンリョウソウ(=銀竜草)は、ユウレイダケとも呼ばれる腐生植物で、葉緑素をもたない白く透明感のある植物である。今回のシモバシラの氷花に良く似ている感じがしたのは、あながち間違いではないなと思っている。

 

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筑波山登山の記(第15回)<さざれ石のこと>

2014-01-18 09:45:58 | 筑波山登山の記

<第15回 登山日 2014年1月17日(金)>【さざれ石のこと】

 今年3回目の筑波山登山は、天気予報が外れた曇り空の下での暗闇登山となった。天気予報は結局、登山を終えて帰宅してからは晴れ出したので、一応は当たっているということなのだろうけど、早朝登山者から見れば、日の出などとは無関係の空だったので、がっかりして恨みのことばがこぼれてしまうのである。特に、昨夜(1/16)は満月だったので、期待は大きかったのだが、朝起き出して空を見ると、月はおろか星の煌めきも全く見られず、がっかりの天気だった。しかし、昨夜行くと決めてしまったので、目覚めは早くやって来て、5時前には我慢が出来ずの出発となった。

筑波山麓のいつもの駐車場に車を止め、登山口に向けて出発した時は真っ暗闇の世界だった。登山口からしばらく登ったら、近くの闇の中で突然「ギヤァ―」という獣の声がした。今までの暗闇登山では一度も聞いたことのない声だった。自分に気づいた動物が警戒心から発した声なのかもしれないなと思った。狸か狐の類なのか、犬や猫ではあるまいし、ここには熊などいない筈だから、小動物が脅かしたのかもしれない。しかし、こちとらは人間を70年以上もやっているので、今更脅されても素直にびっくりしたりはしない。ジャカマシイ奴だなと思った。もし襲ってきたら自慢の桜杖で一発かましてやろうなどと思ったりした。しかし、脅しはその時だけで、あとは静かないつもの森の中だった。

いつもと同じペース登り続け、やがて中間点から男女川源流を過ぎて、長い階段の始まりの場所に到着。ここから700段ほど登ると、ケーブルカーの頂上駅のある御幸ヶ原に着くのである。筑波山登山で一番きつい場所なのだが、15回目の登山では却って楽しみの場所になってきている。何が楽しいかといえば、あと700歩登れば、確実に平らな場所に出ることが出来、そこから15分ほど歩けば、女体山の頂上に着くのは間違いないからである。つまり、麓からの一歩の積み上げの成果が確実に実感できるという楽しみがあるからなのだ。

女体山頂上には7時半ごろ到着。どうせお天道様を拝することはできなのが判っているので、女体山御本殿に参詣し、今日の登山の証拠写真を撮るだけなのだ。予想通り、山頂からの景観は味気ないものだった。救われたのは、北西に連なって見える日光男体山の峰々やその右方に見える雪をかぶった那須の山々が、早朝の光の中にはっきりと浮き立って見えたことだった。富士山も樹間から微かに見ることが出来たが、明瞭度は今一だった。今日は先着の人が一人いただけで、直ぐに下山されて行った。ま、普段はこれが普通の姿なのだと思った。自分も直ぐに下山を開始する。

     

今日の女体山御本殿。登山した証拠写真として毎回撮らせて頂いている。曇天の寒空の下で、さて、ここに宿る神様は何を想っておられるのか。

御幸ヶ原からの下山開始は8時少し前、そして登山口に下りた時は9時少し前で、いつもの通り約1時間の下山時間、そして登りは1時間半という標準的な登山時間だった。9時15分頃駐車場を出発して帰宅の途に就いたが、途中走り出して間もなく車のガソリンの残存量表示に赤ランプが点き、それから後はガス欠を心配しながらの走りとなった。10時少し過ぎ無事に帰宅となる。

さて、今日の登山の話題は二つある。その一は「さざれ石」のこと。その二は「シモバシラ」のことである。まあ、お聞きあれ。

先ずはさざれ石の話。多くの方々は「さざれ石」というのを耳にして知っているのではないかと思う。何といっても日本の国歌に出てくる石なのだ。しかし、実際にさざれ石の実物を見たことがある人は意外に少ないのではないか。筑波山には、筑波山神社の境内に国家の歌詞を刻んだ碑と合わせて、さざれ石の実物が展示されている。そして、登山の途中にも、これは、さざれ石ではないかと思われるものが、登山道を突っ切って剥き出しになっている場所がある。知らない人にはただの石にしか見えないだろうけど、知っている者にはなかなか興味深い。

ところで、さざれ石の実物なるものを初めて見たのは、何年か前に九州を旅した時の鹿児島県の何処かだった。実際の場所は良く覚えていないのだけど、その時初めてさざれ石なるものに興味を覚えた。その後はさざれ石の展示がある場所などに注意を惹かれるようになった。何といっても国歌の中に詠われている石なのである。古希近くまで何度も国歌を歌いながら、ただの一度もさざれ石というものに関心を持たなかったというのは、迂闊(うかつ)といえば迂闊な話である。さざれ石が巌となるなどというのは、嘘っぱちな修飾の話なのだろうというくらいにしか思わなかった。それが、これがさざれ石だよというのを見せられて、えっ、本物の石だったんだ、とびっくりしたという話なのである。その後、いろいろの場所でお目にかかることとなった。

さざれ石というのは、全国各地にあって、筑波山神社の境内にも展示されている。それのみか、登山道の途中にそれらしき剥き出しの石もあるのである。筑波山は岩石の多い山で、登山道には大小無数の岩石がとび出している。また、山麓一帯には石切り場も多い。筑波石として知られている。桜川市・真壁町辺りには道路の両脇に軒並み石屋さんが並んでいる。筑波連峰の山の中を探せば、さざれ石など幾らでも見つかるのではないかと思うほどだ。

     

筑波山登山道の中にある、さざれ石と思しき石の塊が露出している箇所の様子。まだ成長が不十分な感じがするけど、今まで幾つか見て来たさざれ石の仲間に違いないと思っている。

さざれ石というのは何なかといえば、漢字では「細石」と書くようである。細い石というのは、つまり小石ということであって、小石といえば様々なサイズのものがあるので、例えれば砂のレベルからこぶし大のようなものまでが入るのかもしれない。それらの小石が、炭酸カルシウムや水酸化鉄などが隙間を埋めて一つの塊を作って成長したものをいうとのことである。簡単に言えば、自然が生み出した小石入りのコンクリートのようなものということになるのかもしれない。古代人は石というものは成長して大きくなると信じたということである。あれこれ調べてみて、そのようなことが判った。つまり、細石が巌となるというのは、古代人の信じた世界であり、国歌にはそれが詠われているということである。

ところで、君が代という国歌については、過去様々な論争があり、そのふさわしさについて、意見の姦しいところだけど、今のところは平成11年に国歌として立法化され以降、少し落ち着いている感じがする。しかし、この歌の文句は拡大解釈しないと、今の時代にはなかなかフィットし難い感じもする。最大の問題は、タイトルともなっている「君が代」ということばの「君」が何を、誰を意味するかということだ。戦前ならば国体は皇統第一だったから、勿論君が天皇であることは明らかだったけど、今の世では天皇は象徴であり、象徴の世を詠うのは少しおかしいと思う。自分的には、今の世の「君」というのは、複数の君であり、つまり「君たち」すなわち「国民一人ひとり」ということなのではないかと思っている。自分の世ではなく、自分も含めた君たちみんなの世である、という解釈である。それでいいのかではないかと思っている。

この国家の文句がその昔の古今和歌集の詠み人知らずの歌(「わが君は 千代に八千代に さざれ石の巌となりて 苔のむすまで」)を元にしているというのには、驚かされる。詠み人知らずの詩が、国歌になっているなどというのは、考えれば不思議な話である。この歌は、その昔は賀歌として、新年のお祝いの歌として詠われたとのことである。つまりは、今の時代なら、全国の諸所で耳にする「めでた、めでたの若松さまよ、枝も茂れば葉も茂る、……」という、あの祝い唄と同じ類の歌だったということなのであろうか。ま、そう考えると、それなりに国歌としてフィットしているのではないかとも思われてくる。

かなり登山の枠を外れた話しとなってしまったが、この世にはさざれ石なるものが実在し、それは日本全国至る所といっていいほどたくさんあるということだ。石が成長するなどということはあり得ないと思っていたのだけど、さざれ石だけは別のようである。放って置けば、炭酸カルシウムや水酸化鉄の力で、周囲の小石を集めて次第にその塊は成長して行くのである。古代人はいいところに目をつけたものだと、改めて感嘆する。その塊に苔が生えてあたかも大きな巌のようにガッシリと国が固まるというイメージは、例えば、さざれ石を絆に例えれば、しっかりした絆が国の礎となっているのを詠っているのであり、それは国歌として悪くないものではないか。そんな風に思った。そんなさざれ石が、筑波山にも間違いなく存在している。という話。

     

筑波山神社の境内に展示されているさざれ石。かなり大きな塊であり、なかなか立派なものだなと思った。

(シモバシラの話は、長くなってしまったので、次回にしたい)

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筑波山登山の記(第14回)

2014-01-11 09:06:36 | 筑波山登山の記

<第14回 登山日 2014年1月10日(金)>

昨日、一昨日と天気が崩れて、曇りや雨となり、予定していた登山を今日に繰り越しての出発だった。守谷市近郊は夜来、雨上がり後の風が次第に強くなり、出発しようと思った5時頃は、外壁際に置いてある物置辺りで、強風が悪さをして何やら物音を立てているようだった。出発の準備をしていたら、山の神が起き出して来て、<…風が強いので、見合わせたら?>という様な顔をして覗きこんでいた。ブツブツ言われる前に、強行する旨を話したら、一応黙って引っ込んだが、「……、やっぱり、あなたは病気なのだ、…」などといっていた。何でも固執し過ぎてやり過ぎるのは病気の一種なのだと、普段からのたまわっている自分の上げ足を取った形の嫌味を含んだお言葉のようだったけど、無視した。鍛錬というのは、多少の無理を押して初めて鍛錬たりうるというのが自分の信念であり、いちいち少しばかり風が吹いたとか、雨が降ったとかに妥協していたら、心も身体も鍛えられるものではない。この頃は自分自身もそのような甘えが少なからず芽生えており、本来ならば、一昨日だって登山を強行すべきだったのかも知れない。心配と親切は拒否してはいけないとは思うけど、鍛錬とはそのようなものだということを、山の神さまにも理解して欲しいと思った。

今日はご来光を拝することは考えず、明るくなってからマイペースで、男体山側に登ろうと思っていたのだけど、6時頃の出発予定が待ち切れず、4時前には目覚めて起き出してしまっていたので、5時過ぎには出発することになった。6時になれば、ヘッドランプなしでも足元を見られるようになるという考えである。しかし、6時頃いつもの駐車場に着いて見ると、腕時計の針を見るのが難しいほどの暗さで、今ごろの夜明けが遅いのを実感した。時間調整のためにと、少し遠回りをして、筑波山神社に初詣をする。先日2日にもその横を通っているのだけど、その時は素通りして、初詣は女体山山頂にある御本殿だった。今日は麓の御大の神社にゆっくりと参拝し、今年一年の登山の安全と、ついでにくるま旅の安全祈願も果たすことにしたのだった。

6時半近くいつもの登山口を出発する。いつもと同じペースで中間点を過ぎ、男女川源流を通過し、8時少し前に御幸ヶ原に出て、男体山頂には8時少し前に到着する。寒い。実に寒い。登って来る途中の常盤木の柔らかそうな葉っぱが、寒さで青菜に塩の状態だった。今朝は格別の寒さらしい。温度計がないので判らないけど、零度以下であることは間違いない。着替えをためらうほどの寒さだった。風がなかったのが幸いだった。さっと着替えを済まして、冷えた指先をカイロで温める。今日は富士山が良く見える。富士山だけではなく、その手前に新宿辺りだろうか、東京エリアの高層ビル群が望見出来た。先に登っていた人の話では、スカイツリーも見える時があるとか。今日はそれらしきものは肉眼では確認は出来なかった。富士山の写真を撮ろうとするのだけど、樹木たちが邪魔をしてくれていて、どこへ行ってもスッキリ全景を撮るのは出来なかった。同じ筑波山でも、男体山が女体山頂とは違う所である。東南方向の海側の遠くに厚い雲があって、それが景観をかなり壊しているのだけど、そこを除けば太陽の光を反射した霞ヶ浦が広がり輝き、関東平野のほぼ全体が俯瞰できる大きな景色が横たわっていた。登山の醍醐味の一瞬だなと思った。

     

今日の登山の証となる一枚。筑波山男体山御本殿。光の向きがカメラの意に反しており、黒い画像となってしまった。

     

筑波山男体山山頂付近から見た樹間の富士山。どっしりと構えた雄姿は、どこから見ても日本一の山だと思う。

     

関東平野の彼方の大都市群の遠景。奥の方に広がる高層ビル群は、新宿の辺りか。晴れた日にはスカイツリーも見えるというけど、今日は確認できなかった。

8時半頃御幸ヶ原からの下山開始。途中で、ようやく動き出したケーブルカーなどを久しぶりに見かけながら、麓の登山口に到着したのは9時半少し前だった。正月初詣の時期も終わり、筑波山神社を中心とする門前町の市街は、いつもの通りの落ち着きを取り戻していた。駐車場に戻り、帰宅の途に着く。

さて、今回は特別の杖の話を追加したい。

先日、杖のことを「自助棒」だと話をさせて頂いたのだけど、杖が自助棒であることは変わらない。今までの13回の登山では全て洋式の登山用の杖を使っていたのだけど、今回初めて自作の杖を使用した。庭の桜の木が大きくなり過ぎて、泣く泣くその枝を切り払ったのだが、その中に丁度杖として使ったら良さそうなものが何本かあって、今日はその内の細めの一本を使ったのである。長さは150センチくらい。直径が3センチくらいで、下部の先の方はもっと細くなって三又にしてある。半年くらい乾燥させていたものを、先日小刀で節などをきれいにし、杖らしく仕立てたものである。まっすぐではなく、少し曲がっているのだけど、曲がっている方が何だか使い易い気がして、そのまま使うことにした。

 さて、その杖を今日初めて使って見たのだが、これが極めて良好、グッドなのである。登山の場合は、杖は道の状況に合わせて伸縮自在の方が良い。洋式の杖は握りの部分がてっぺんにあり、てっぺんをつかんでいないと使いにくいのだが、今日の自作の杖は、杖のどこをつかんでもいいのである。長くして使うのも、短い状態で使うのも、杖のどこを握るかで自在に使い分けることが出来るのだ。使って見て初めて判ったのだが、山伏など修験道の人たちが用いる金剛杖というのは、あれは山歩きには実に合理的な用具なのだ。あの杖がないと修験道の修業は成り立たないほど重要なのだなと思った。格好つける飾りなどでは決してない。洋式のステッキのような杖は、山を自在に駆け巡るにはあまり適していない感じがする。杖を押し歩いていたのでは、大自然にマッチして動き回ることは出来ないのではないか。金剛杖はそれを使う人の背丈などに合わせてその長さを決めるらしいけど、起伏の多い山を駆け巡るには伸縮自在の最高の用具となるに違いないなと思った。

 今日は練習のためにと自作の杖を使って見たが、その中で一つ大きな発見をした。それは杖の使い方には「前の杖」と「後ろの杖」があるということである。前の杖とは、杖を身体の前に指し出して使うことをいい、後ろの杖とは、杖を身体の後ろに指し置いて使うことをいう。これは自分が勝手に決めた呼び方である。登山の場合は、今まで常に前の杖ばかりを考えていたのだった。洋式の杖では、前に出しての使い方しか考えられない。後ろに杖を指し置いて使うことなど無理な話である。しかし、今日自作の金剛杖様のものを使って見て、後ろの杖の使い方も味があることに気づいたのだった。急な山道では、杖を後ろに置いて身体を前進させることが意外と楽チンにつながるのである。丁度船頭さんが竹棹を川底に突き刺して舟を前進させる、あの要領に似ていると思う。後ろ(下部)にしっかりと位置を決めた杖をぐっと力を入れて身体を起こすと、道の状況によっては、前に杖を置いて登るよりも楽なことが結構あることに気づいたのだった。まだ要領を良く体得していないので、杖の使い方は幼稚なレベルなのだと思うけど、これから先工夫してみたい。

 そういえば、日本には武道の一つとして、「杖術」とか「棒術」とかいうのがあった筈だ。名前は聞いているけど、その中身は全く知らない。武道なのだから戦闘の用具としての使い方なのだろうけど、その術の中には登山にも応用できるものが含まれているに違いない。今からそれらの術なるものを体得するのは無理だと思うけど、少し調べて見るのも面白いなと思った。

今年は少なくとも昨年の倍以上の筑波山登山を目論んでいるけど、これから先「杖」の研究が楽しみになった。どのような形のものを、どのように使えば良いのか、又どのような素材が良いのか、などなど、ただ山に登るだけでなく、楽しみを付加しながらこれからの登山にチャレンジして行きたいと思っている。

     

2種類の杖。左は桜の枝で作った自作の杖。右は洋式の登山用の杖。格好は洋式の方が如何にも近代的で機能的なように見えるけど、実際使って見ると、自作の杖の方が如意棒に近いのが判った。これから工夫するのが楽しみだ。

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冬の霍乱

2014-01-08 23:19:23 | その他

霍乱(かくらん)ということばがあります。「鬼の霍乱」が最も有名な用語例となっているようです。決して体調など崩さない筈の鬼でさえも、時には突然身体の調子を崩した、という多少のシニカルなコメントを含んだことばの使い方だと思います。霍乱というのは、辞書を見ると、一年中いつでもという訳ではなく、元々は夏の暑気を受けての日射病の症状をいうとのことでした。だから、冬には霍乱という様な病の症状は起こらないし、起こったとしてもそれは霍乱ではないということになるのかもしれません。

しかし、今ごろの時代では、季節は大いに乱れかけていますし、確かにその季節には違いないのに、予期せぬ異常事態が起こったりしていますので、冬の霍乱もあり得るような気がします。ま、幾らなんでも日射病は無いとは思いますが。

ま、グダ、グダのご託はともかくとして、このところ快調だった体調が突然不調を来たし、先日の寒い日に夕刻になって突然発熱し、一昼夜別荘の寝床に厄介になりました。別荘とは庭脇の駐車場に鎮座しているSUN号であり、厄介といっても、他者進入禁止の全てセルフサービスのくらしです。何しろ風邪などひいたら、家内を初め家族に大迷惑をかけることになるので、体調不良になった時は、疲労以外の場合はとにかく別荘に籠ることにしています。

その日は夕刻近くに、少し疲れ気味なので熱燗で一杯やって午睡のつもりで寝床にもぐりこんだのですが、19時過ぎに目覚めたら頭は痛いし寒気はするし、で、久しぶりに体温計で計ってみたら、何と38℃を超えていました。子供の頃から高熱には慣れているので、42℃を超えなければ生命に支障はなかろうという妙な自信があります。しかし、突然の発熱だったので不可解さがあったのは事実でした。ウイルスなどに取り付かれたら厄介だなと思い、直ぐに別荘直行となった次第です。

久しぶりの別荘の一夜は快適だったのですが、何しろ暖房をしたまま寝てしまったり、加湿器を点けたままにしておくわけにもゆかないので、全部スイッチを切って眠ることにしたのですが、4時に目覚めて温湿計を見たら、気温は2℃、湿度は63%となっていました。布団の中は寒いとは思いませんでしたが、トイレのために起き出すのにはかなり勇気が必要でした。冷蔵庫の中の低い温度レベルと同じ室内気温なのですから、せっかく温まって寝ていた身体が逃げ腰になるのは止むをえません。しかし、勇を鼓してお勤めを果たすと、身体はきゅっと締まって、昨日までの不調の源の奴は、何処かへすっ飛んで逃げ去った感じがしました。

これが功を奏したのか、その後もう一度寝床にもぐりこんでぐっすり一眠りして目覚めると、気分は壮快となっていました。家に戻って朝食を済ませ、念のため午前中は寝床で過ごすことにしたのですが、これでもうすっかり霍乱は治まり、午後からはいつものように2時間ほどの歩きに出掛けたのでした。

一昼夜で回復する風邪などがあるとは思えず、これはやはり霍乱の部類に入るものなのだろうと思いました。馬の骨というのは、鬼と同じ遺伝子をかなり多く含んでいるのかもしれないなとも思いました。一晩、眠りから覚めた時に間近な天井を見ながら思ったのは、もう馬の骨になって10年以上が経つけど、そろそろグータラを抜けだして何か生きていた証拠のようなものを遺しておくような仕事しないといけないなということでした。(くらしの近況報告でした)

 

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筑波山登山の記(第13回)

2014-01-03 02:24:32 | 筑波山登山の記

<第13回 登山日 2014年1月2日(木)>

 昨年分の登山を終えた後も、登りたくてウズウズしていたのだけど、新しい年を迎えるまでは我慢することにしていたこともあり、新年早々の登山となった。本当は元日に初日の出を拝したいと思っていたのだが、やはり元旦くらいは家族全員で朝の食卓を囲むべきだろうと考えて、それを優先させたのだった。それに意外と登山者も多いのではないかとも思った次第。

いつものように4時少し前に出発して、梅林下の駐車場には45分に到着。日の出は6時55分頃だと思うので、ゆっくりしたペースで登ろうと考えて、登山口を出発する。勿論未だ森の中は真っ暗で、ヘッドランプを頼りにしながらの登山である。今日も初日の出を拝もうとする登山者が多いらしく、あちこちにヘッドランプや懐中電灯の光が点滅して、いつもとは少し雰囲気の違う登山となった。

黙々と歩みを進める。ゆっくりのつもりが、人が多い影響を受けたのか、却っていつもよりも少し早い時間で御幸ヶ原に着いてしまった。6時15分である。日の出までまだ30分以上ある。ここから女体山頂上までは15分ほどしかかからない。御幸ヶ原にはかなりの人がいて、グループで登って来た人たちも多いようだ。これじゃあ狭い頂上は混み合ってしまって、じっくり日の出を味わうのは無理かなと思った。それでもとにかく行って見ることにして、そこからは今度こそゆっくりと歩くことにした。それでも20分ほどで頂上の女体山御本殿に着いてしまった。途中時々下から吹き上げる突風が厳しくて、着替えようと思っていたのに、寒さが熱を奪って、とても裸になる気が起こらず、あわてて脱いでいたウインドブレーカーを身につける。汗などは一気に何処かへ行ってしまったようだ。

     

筑波山女体山頂から見る今日のかぎろい。樹木が邪魔して、下方の霞ヶ浦などの様子が判らないのが残念。

頂上は大変な混みようで、いつもは岩に寄りかかりながらじっくりと日の出を待つのに、今日は御本殿を巡る通路までも人が溢れており、通行するのにも往生するほどだった。樹木に邪魔されずにご来光を見るのはとても無理だと判断し、一先ず下山して、下の御幸ヶ原に戻ることにする。この先何度も登るつもりでいるので、ご来光はいつでも拝することが出来るのだから、無理をすることは無い。ということで下り始めたのだが、自分以外は誰も下に向かう人いなかった。

     

立錐の余地もないというほどに混雑している女体山頂。樹木のない展望のきく場所は岩石ばかりで足場が危険である。20人もいれば超満員というほどなのに、今日は50人近くが日の出を待ちかまえていた。

丁度御幸ヶ原に着いた頃に日の出が始まった。ここからは樹木が邪魔をして、更にそれに電線が加わって、迷惑なこと夥しい。それでも何とか日の出らしい写真を撮ったりした。7時丁度下山を開始する。途中続々と登って来る人たちがいて、やはり今日は特別な日なのだなと改めて実感した。下山は快調で、1時間もかからずに登山口に着くことが出来た。足の方も何の問題もなし。

     

御幸ヶ原のケーブルカー頂上駅付近から見た今日の日の出の様子。ご来光は、どこから見ても感動的だ。

筑波山神社の初詣の人たちが続々と石段を登って来ていた。早や行列が出来ているのに驚かされた。車も続々と登ってきており、駐車場も近い方から満車になり始めているようだった。8時少し過ぎに車に戻り、直ぐに帰宅の途に着く。何だかあわただしい気分の今年1回目の登山だった。

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少し高き嶺をめざす

2014-01-01 05:11:30 | その他

      

      

新年おめでとうございます。お読み下さっている皆様のご安全とご健康を心から祈念申し上げます。

今年も相変わらずの駄文を書き続けたいと思っています。どうぞよろしくお願い致します。

昨年は、自分なりに老の壁を一つ乗り越えられたような気がしています。つまりは、老というものが何なのかを一つ実感して驚き、その驚きが一つ収まったということなのかもしれません。これから後も、このような壁を実感する時が幾つも用意されているのでありましょう。それを負け惜しみではなく、一つずつ楽しんで行くことにしたいと思っています。

佐籐一斎の言志晩録の中に「学は一生の大事」という一項があり、そこに「老而学。則死而不朽」(老いて学べば、すなわち死して朽ちず)というのがあります。もはや確実にこの年齢世代に到達しており、このことばを大事にして、今年は少し高い嶺を目指して一歩を進めたいと思っています。少壮時代に碌に学ぶことをしなかったものですから、もはや手遅れだとは思うのですが、それでも老計の中では、PPK(ピン・ピン・コロリ)のためにも、学びは必要だと考え、少し高い嶺に登る志を立てたいと考えました。死して朽ちずというほどの大それたことではなく、ほんの少しこの世に生きていた自己満足を味わいたいというレベルでいいのです。

この歳になると、学ぶというのは、考えることではなく、実践することという意味になります。旅の記録もかなり貯まりました。それらを掘り起こしながら、宝物のリストなどを作り、出来れば希望される方に配れればいいなと思ったりしています。それが自分にとっての少し高い嶺へのチャレンジとなります。

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