山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

筑波山登山の記(第8回)

2013-11-24 20:30:23 | 筑波山登山の記

<第8回 登山日 2013年11月24日(日)>

 前回から中4日置いてのチャレンジとなった。その理由は二つあって、その一は前回の登山で、帰宅後のふくらはぎの痛みが予想以上だったのを克服するために、痛みが薄らいだら直ちに再挑戦して、筋肉を登山向きに鍛え直す必要があったこと。その二は、今まで7回登山しているけど、ただ一度も頂上でのご来光を拝んだことが無く、そろそろそれを味わいたいなと思ったこと。この二つである。

足のふくらはぎのことだが、普段は毎朝16kgを身につけて90分ほどの歩行鍛錬を続けており、これは4月以来なので、そうそう足の筋肉が痛むなどということは無いのだけど、登山の場合は使う筋肉が違うため、このような現象が起きたのだと思った次第。それならば、ふくらはぎの痛みが消え次第、再度登山に挑戦することによって、筋肉に馴れさせる様にすれば、それ以降は連続して登ってもふくらはぎが痛むことなどあるまいと考えたのだった。このような考え方は、若い頃からいろいろ取り組んだ運動の強化訓練などで体験していることであり、老人になっても未だ多少はその成果があるのではないかと思ったのである。筋肉というのは、あまり虐めると壊れてしまうけど、甘やかすと強くならないものである。だから、痛んでいる間はそっとしておき、それが消えたら同じくらいの負荷をかけてそれに馴れさすことが必要なのだ。ま、我が身に課す人体実験のようなものである。

ご来光のことは、登山をする人なら誰でも何回かは味わった荘厳な体験ではないかと思う。どんな山でも、そのてっぺんから迎え見る日の出は荘厳である。この地球に生かされているというのを実感できる時間なのだ。毎回というわけにはゆかないけど、もう7回も登っているのだから、そろそろあの荘厳な日の出を拝してみたいと考えたのだった。ただ、問題があるのは、日の出を見るためには、暗闇の中を歩かなければならないということである。勿論懐中電灯などを持参しなければならないのだが、安全のことを考えると、登山コースを良く知っていなければならない。それで、今まで7回も同じコースを歩いているので、まあ、なんとかなるだろうと考えたわけである。昨日思い立って、今日実行というわけなので、ヘッドランプなどの装備も用意してはおらず、頼りとするのは、百均で買った懐中電灯一つだけだった。新しい電池を入れ替えて、一応は万全を期したつもりである。

早朝3時15分に家を出発。いつもの駐車場に着いたのは、4時15分頃か。直ぐに登山靴に履き替え出発する。15分ほど歩いて、登山口へ。ここまでは街灯などの照明があって、懐中電灯など無くても歩くに不自由はしなかったのだが、ここから先は杉林の中の道となり、懐中電灯無しでは前進は無理である。慎重に灯りを点して歩を進める。10分ほど登ると、杉の根元の剥き出しだったのが無くなり、大小の岩がゴロゴロ点在する道となる。勝手は知ってはいても、コースの全てが頭の中に入っているわけではなく、時々、ドン詰まりの道を選んだりしてドジを踏んだりした。

30分ほど登って、ケーブルカーの中間点に着く。この辺りは樹木が途切れていて、頭上に半分くらい欠けている月が輝いているのが見えた。怪しげな人間の動きに目覚めさせられたのか、名も知らぬ鳥が警戒して鳴いている声が聞こえて来た。月の光が届いたのはほんの少しの間で、再び暗闇の中の前進となる。どれくらい暗いのか、試しに懐中電灯を消して見たら、まぁ、真っ暗闇に近い暗さだった。足元などは全く見えない。もし懐中電灯が壊れたりしたら、これじゃあ歩くのは無理だなと思った。馴れた道なら、暗い夜は足元を見るのではなく、上の方を見て空の光りを利用して歩く方が歩きやすいのだけど、ここは樹木が多すぎるため、上を見ても見える筈の空が無いし、足元の岩が多すぎるのである。

もう何年も暗闇というものを体験していない。現代では暗闇というのを知らない人が多いのではないか。それを恵まれているというべきなのか、不幸というべきなのか。自分が子供だった60数年前までは、都会を除けば田舎のどこにでも夜にはたっぷりの暗闇が残っていたのである。それが今では、都会でも田舎でも夜間に天体望遠鏡を覗ける暗闇が殆ど存在しない。お化けも妖怪も、今の時代は夜には存在せず、皆真昼間の建物の影などで蠢いている様な気がする。性質(たち)の悪い奴らばかりで、それらは殆どが皆人間と同じ顔をしているから恐ろしい。

久しぶりの暗闇の中で、あれこれと妖怪たちのことなどを思った。真っ暗な山の中に一人でいるのだから、本当は恐怖心の様なものが働くのだろうけど、自分的にはお化けや妖怪というのは友達関係が出来やすい存在だと思っているので、少しも怖くは無いのである。筑波山は信仰の山だから、それほど悪質な者(の)は棲んではいないのではないかと思っている。1時間ほど懐中電灯の光を頼りに歩き続けて、男女川(みなのがわ)の源流地点に到着する。ここまで来るとケーブルカーの頂上駅のある御幸ヶ原迄もう少しである。5時50分、御幸ヶ原に出る。少し明るくなり出して来て、もう懐中電灯は不要となった。

思ったよりも汗をかいてしまったので、ベンチにリュックを下ろして着替えをすることにした。裸になるとさすがに寒い。調べたところでは、今日の日の出は東京で6時23分となっていたので、筑波でも大体その頃にご来光が拝めるのであろうと思った。東の空の方には、柿本人麻呂の詠んだあのかぎろい(=東の野にかぎろいの立つ見えて、……)の曙光が冷えた橙色を燃え立たせていた。少し雲が横たわっているようだけど、日の出を見るのに支障は無い様である。シャツと上着と着替えて女体山頂を目指す。15分ほどゆっくり歩いて山頂へ。6時10分となっていた。先着の登山者たちが10名ほど山頂付近に陣取っていた。女体山の山頂は大きな尖った岩の塊があるだけなので、足場が悪く10人も座ればもう入り込む余地は無い。少し下がった場所から日の出を待つことにした。反対側の西の方には少しボヤけているけど、富士山が望見出来た。登山の証明にと女体山御本殿の写真を撮る。

      

筑波山、御幸ヶ原からのかぎろい。夜明け・日の出前の東の空は赤く染まって燃え立っていた。

        

今日の登山の証明としての、筑波山女体山御本殿の様子。日の出前の時刻だけど、きりっとした風格がある。

      

ご来光を待つ女体山頂の人たち。15名ほどが心を弾ませながらその時の到来を待ち望んでいた。

6時23分になっても太陽は顔を出してくれなかった。恐らく横たわった雲が邪魔をしているのであろう。それから5分ほど経って、ようやく東の空の光がその量を増し、やがて、きらめく陽光を固めた太陽がその一端を見せ始めた。それはぐんぐんとせり上がって、光の束を大空に広げ始めた。ご来光の瞬間である。母なる太陽の何という荘厳な姿であろう。息を呑むような感動の時間だった。何枚もの写真を撮った。3分ほど経つとその荘厳なる儀式は終り、いつもの朝が始まったというムードに変わった。

      

筑波山女体山頂から迎えたご来光の様子。霞ヶ浦の遥か彼方からせり上がる太陽は、何とも言えない荘厳な存在だ。

久しぶりのご来光を拝して、先ほどまでの暗闇の中を辿って来た苦労が報われた感じがした。今回は足の方も全く痛みは感ぜず、この分だと下りも大丈夫だ思った。それから1時間ほどで下山を終え、車に戻る。今日は日曜日とあって、今朝来た時は数台だった駐車場は既に満車となっていたのに驚いた。下山の途中に大勢の方たちに出会ったけど、子供連れの人たちも多くて、深まった秋の山歩きを楽しむということなのであろう。念願のご来光を拝し、ふくらはぎも痛みを克服してくれて、十二分に満足した今日の登山だった。

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筑波山登山の記(第7回)

2013-11-19 21:56:34 | 筑波山登山の記

<第7回 登山日 2013年11月19日(火)>

 前回の登山日から2カ月半も経ってしまっていた。もっと涼しくなってからと考えたりしていたのだが、涼しくなったはずなのに、なかなかその気になれなくて、つい今日まで伸びてしまった。10月末から11月上旬にかけて2週間ほどくるま旅をしたのだが、この間は歩く時間が少なくて鍛錬不足となってしまった。しかし、それ以外の日々は、連日15kgの負荷を身につけて1時間半ほどは歩いているので、足腰に関しては久しぶりの登山に対しても不安は無い。ただ、平地を歩くのと急坂を登り下りするのとでは、身体の使い方が違うので、油断は禁物である。そのような心境を持っての今回の登山だった。

せめて足元が見える程度の明るさになってから登山を開始しようと、家を出たのは5時10分頃だった。周辺はまだ真っ暗で、ライトを点けないと車の走行は出来ない状況だった。この頃は暗い時間帯での車の運転に、次第に自信が持てなくなってきているので、慎重に慎重を重ねての走行だった。東の空が少し明るんできた頃、筑波山麓のいつもの駐車場に到着する。6時5分過ぎだった。ここから登山口までは、15分ほどの登りの道となる。今日は筑波山神社の少し下にある大御堂というお寺さんの脇を通って行くことにした。初めての道だったが、途中大御堂の境内には通せんぼがしてあって、登山者も境内を横切るなとの警告が出されていた。了見の狭い坊さんだなと思った。このような寺にはお参りしたくもない。

間もなく登山口に到着。ここから登山開始である。このコースは急坂続きで、途中平らな箇所は殆ど無く、僅かに50mくらい下る場所が一つあるだけで、登山口辺りもいきなりの急な坂道となる。直ぐ傍に筑波山のケーブルカーの宮脇駅があるけど、この駅に着くまでは一般の乗降客の方も青息吐息での急坂の登りを味わわなければならない。ケーブルカーの人は、そのあとは楽チンだけど、登山者は青息吐息をずっと続けなければならない。この時間帯はケーブルカーの運転はまだ開始されてはいない。

いつものペースで石段への足を踏み出す。しばらく杉林の中を、剥き出しの根に躓かぬように注意しながら、ゆっくりと歩み始める。少しの間は息が上手く整えられないのだけど、5~6分経つともう大丈夫。それから先は、ただ足元だけを見つめるようにして、一歩一歩を積み上げるだけである。頂上までたった2.3kmしかないのだけど、平地なら20分も掛からない距離なのに、それから頂上に辿り着くまでに1時間20分もかかってしまった。きつくて辛い一歩が、この頃は楽しみに変わるようになってきた。ただひたすら歩み続けていれば、必ず頂上に辿り着くことが出来るのである。その当たり前のことが、一歩の重みとなって感じられるようになって来た。何ごとも全て一歩から始まり、その積み上げが結果をもたらすのである。登山は、それを確実に証明してくれる。今回の男体山頂上までの歩数は、5,867歩だった。2.3kmをこの歩数で割ると、一歩の幅は39cm余となる。普段の歩きの半分ほどの歩幅だったことが判る。ま、そのような余計なことなども考えながらの、今日の登山だった。

      

男体山御本殿。登山した証拠写真として、毎回筑波山神社の山頂にある御本殿を載せることにしている。今日は秋も深まって、周辺の樹木たちも紅葉を終えようとしているかの如くだった。

      

男体山頂上付近から見た関東平野南西部方向の景観。中央に白く膨らんでいるのは富士山。もうすっかり雪化粧している。

      

筑波山御幸ヶ原から見た西北部の眺望。遠くに連なって見える山々は日光連山である。こちらの方は未だ冠雪が確認できない。

この秋になって筑波山への登山者が増えたと聞いていたけど、今日は平日の所為なのか、そのような雰囲気はあまり感ぜられなかった。早朝なので、それを判断するのは無理なのかもしれない。男体山の頂上では、いつもだと何組かの登山者に出会うのだけど、今日はたった一人にしか会えなかったのは寂しい。下山の途中に会う人も、夏のシーズンよりは少ない様に思えた。登山口まで下りた時が、ちょうど始発のケーブルカーが動き出す時刻で、その乗客がかなりいるのを見て、登山者というのはもしかしたら、ケーブルカー登山者のことなのではないかと思った。御幸ヶ原の頂上駅まで行けば、そこから先あまり苦労しないで、男体山と女体山に登ることが出来るからである。途中のプロセスが歩きでなくても筑波山に登ったということになるのだから、その人たちで賑わったのなら、登山者が増えたことになるのかもしれない。つまらぬ屁理屈を想いながらの下山だった。

今日は取り立てて印象に残る出会いは無かった。強いて言うならば、男体山のてっぺんに腰かけて、昨日アメリカから帰国した筈の親友にメールを送ったということくらいか。丁度8時頃だった。時差ボケで、未だ寝床の中にいるかもしれない彼を驚かせてやろうという魂胆。そのあとしばらくして無事に昨日帰国したとの報告を受けて安堵した。結果的にいつもより10分ほど早く登り、下りも1時間を切る早さでの下山となった。鍛錬の結果が少しずつ実って来ているのかもしれない。だけど、下りの方はかなり膝が笑い出し始めて、保温サポーターだけではダメなのだなというのを実感した。膝に問題を抱えているので、これから先は要注意である。

次回は今月中にもう一度チャレンジしたいと思っている。出来れば、ご来光とやらを拝んで見たい。そのためには暗い内に登り始めなければならず、懐中電灯やヘッドランプなどを用意する必要がある。今日もご来光を迎えた後に下りて来られた方々と会っているので、自分も何とかなるのではないかと思った。筑波山は山頂付近でも樹木が多いので、ご来光は、女体山の岩場で迎えるのが一番だと思う。さて、どうなりますことやら。

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‘13年 秋の関西方面への旅レポート <第15回:最終回>

2013-11-10 04:19:46 | くるま旅くらしの話

 【昨日(11月8日)のレポート】       

<行程>

道の駅:こもち → 白井宿散策 →(R17)→ 渋川・伊香保IC →(関越道・北関東道・東北道・北関東道)→ 自宅

<レポート>

 今回の旅もとうとう今日が最終日となった。今日はここから少し走って、高速道に入り、栃木県の真岡ICで下りて、あとは我が家をめざすだけである。午前中には到着できるかもしれない。ということで、特に書くこともないほどである。

道の駅:こもちは、今は渋川市となっているけど、元は子持村。そして、赤城山を望む上州白井宿のあった所である。出発する前に、先ずは駅の物産品売り場で、野菜などを買う。朝の7時前から近所の農家の人たちが運んできた様々な野菜類などが山と積まれて並べられており、開店は9時となっていても、7時半にはもうレジの人がいて、販売が開始されていた。所定の時間までは、どんなに客が列を作って並んでいても決して店を開けない所が多い中で、開店1時間半も前から客の要請に応えてくれるのは、嬉しい扱いである。店側から言えば、問題なのかもしれないけど、客側から言えば実にありがたいことである。その余った時間を使って、出発する前に近くにある白井宿の跡を少し歩くことにした。

道の駅の裏側を少し入った所がその昔の宿場町があった場所で、細い用水路がある辺りが白井の堰のあった名残りなのかもしれない。宿場町の様子を残す建物は、今は殆ど残っておらず、石垣で作られた用水路に沿って、何カ所かの井戸があるだけだった。所々に石塔や石仏などが見られる程度で、その昔を思い起こすには、かなりの想像力が要るなと思った。30分ほど歩いて途中から引き返して車に戻る。

8時40分、出発。少し走って、渋川・伊香保ICから関越道に入る。朝方晴れていた空は、急速に雲を増していた。今日は、天気が崩れるらしい。風が無いのが幸いである。快調に走って前橋を過ぎ、高崎のJCTから北関東道に入る。この道も順調な流れで、いつもより少し早い速度で走り続け、しばらく走って今度は東北道に入る。北関東道は一本ではなく、東北道に入るとこれをほんの少しの区間北上して再び北関東道に入るという造りとなっている。その北関東道の壬生というPAで休憩をとる。今朝は朝食をみそ汁だけで終わっていたので、少し腹が空き、こもちの道の駅で買った焼きおにぎりを食べる。両ほっぺたを大葉で包んだ焼きおにぎりは予想以上に美味かった。相棒がついでに買ってきたきんぴらごぼうも美味かった。これが旅の最後の食べ物かと思うと、余計美味く感じたのかもしれない。このPAの広場では、福島県南部のエリアの市町村の農産物等のPRイベントが模様されていて、幾つかのユルキャラちゃんたちが群れ遊んでいた。福島の復興・再生のための活動らしい。もう野菜は買い過ぎるほど買ってしまっていたので、協力できないのを申しわけなく思った。この旅が終わってしばらくしたら、福島県を中心の旅をするつもりでいるので、その時は少しは貢献できるだろうと思った。

そのあとは、ほんの少し走って、真岡ICで下りて、いつも通っているR294に入り、ノンストップで家に帰る。否、その前に常総市の知人に信州の土産を届けるべく寄り道をして、自宅に着いたのは、12時35分。総走行距離、2,319kmの旅だった。

【旅を終えて】

 今回は「年寄りの半日仕事」をモットーにして、無理をしない旅をしようと思ったのだが、総走行距離を単純に2週間の旅日数で割ると、1日165km超となり、広言とはかなりギャップのある結果となってしまった。初日の高速道の553kmがかなり効いており、その他でも少し無理をした感じの日があり、結構な走りとなってしまった。どうも自分には車の運転が仕事の内には入らないという感覚があり、これがこのような結果を招来させる最大の要因の様である。移動に高速道を使うのは、老人としてはリーズナブルなことで、それが多少長くても仕方がないと思うけど、一般道はやはり1日100km以下にはしなければならないなと思った。これからはそのような行程を組むように努めたい。先ずは一番の反省である。

 今回の旅は、重伝建(=国指定の重要伝統的建造物保存地区)エリアの探訪がメインとなった。初めて訪れる場所を中心に考えたのだが、それ以外の再訪の場所も多いという結果になり、やはりこのような「日本の昔」の残っている場所を訪ねる魅力に惹かれるのである。そこへ行ってみると、建物自体に数百年の歴史が刻まれているものは殆ど無くて、古くてもせいぜい江戸の後半期に建てられた建物がほんの少し混ざっている程度なのだが、それらを見ていると、それにつながるずっと昔の、その時の暮らしの在り様が想像できるのである。それを偲んだところで、何の役に立つのかという現実的な指摘もあるのだろうけど、あまりに現実の利得だけを考える生き方には、もうこの歳になると否定的にならざるを得ない。自分自身の過去のことなどを懐かしむという様な趣味は無いのだけど、遠い昔のこの国のその地方の暮らしを思い起こし、懐かしむと同時に、今の時代に欠けている大切なものに気づくことも必要な気がするのである。自分的には、残された時間を「活き活きと心豊かに生きる」ことをモットーとしたいし、そのためには、前ばかり向いていたのでは疲れてしまって、息切れがしてしまうのではないか。そのような気持ちが古い昔の大切なものに気づくことへ向かわせている様な気がする。

 さて、今回の旅は僅か2週間だったけど、大別すると3つのエリアを巡ったことになり、そのせいなのか、何だかかなり長い期間旅をしたような錯覚を覚えている。3つのエリアとは、①若狭・琵琶湖周辺エリア②奈良・和歌山エリア③飛騨・信州エリアである。2週間でこれだけ駆け巡るというのは、やはり老人としては相当に無理があるなと、今改めて気づくのだけど、旅の間の気分の変化は、なかなか抑えきれるものではない。相棒がへたることが無い範囲で、これからも時にはこのようなジャンプ旅もしてしまう様な気がする。

 先ず、①のエリアだが、今回は若狭の小浜で2泊して、今までの小浜訪問とは随分違う経験を得た。今までの小浜訪問といえば、焼き鯖を買い求めるのが中心のアサマシイ振る舞いだったのだけど、今回は小浜に残る重伝建エリアを訪ねて、この町の成り立ちや暮らしの在り方などについて、随分と理解を深めることが出来たように思っている。小浜西組にはかなり多くのその昔が残されており、遊郭があったという狭い路地を歩きながら、遊ぶ者と遊ばれる者との、それらの人々の後ろにつながる暮らしの様々な在り様を思ったりした。小浜は鯖街道の起点の一つであり、交易の港としても栄えた港町だ。西組エリアはその一部に過ぎない城下町の一角だけど、町全体の暮らしの動きまでもが連想されて楽しい時間だった。又、ふとしたきっかけから、鯖の熟(な)れ鮨があるのを知り、それをつくって店に納めている方の住まわれている、少し離れた田烏(たからす)という郊外の浜の集落まで出掛けて行って、熟れ寿司を買い求めたことも印象に残る出来事だった。今まで鯖の熟れ鮨があることさえ知らなかったのだけど、その小さな浜の集落まで出掛けたことが、単に熟れ鮨だけではなく、その昔のその港の繁栄の様子を知る大きな力となったのを感じたのだった。旅というのは、単に通過するだけではダメなのだなと、改めて思いを強くしたのだった。今のところ、そのきっかけは殆ど全部相棒の為せる業であり、時には愚行も混ざるけど、今回のような田烏訪問には、相棒に感謝しなければならないだろう。そう思っている。

琵琶湖エリアでは、重伝建関係の場所としては、東近江市の近江商人のふるさとの一つである五個荘金堂を訪れた。近江商人には幾つかのタイプがあって、この五個荘金堂の人たちは、元々農事では食べていけないので、天秤棒を担いでの商いに出掛けたというのが始まりである。重伝建も選定の種別は農村集落となっている。しかし実際に訪ねてみると、確かにその一角を囲む周辺は今でも田畑が広がっているのだけど、金堂集落は立派な建物で埋まっている。五個荘の商人は、本拠地をこのエリアに据えて、地方へ乗り出して行くというスタイルの商売で、この地には一切店というものを持たなかったという特徴がある。地方の店の従業員は、この地で教育訓練を受けて、それから出先での店の商売へ派遣されるというスタイルだったらしい、「天秤の詩」という有名な近江商人の教育訓練の様子を取り上げた短編の映画があるのだけど、そこでは初めて商売に出掛ける丁稚の幼い子に、天秤棒に振り分けて担いだ鍋の蓋を売りに行かせるのである。それが売れるまでの凄まじい労苦を通じて、商売の核となるものが何なのかを心身に刻ませるのである。「三方よし」という有名な心得があるけど、それは①自分よし、②相手よし、③世間よし、というものである。このことを肝に銘じて体得させるための天秤棒を担いでの鍋の蓋売りなのだった。そのような商売哲学が、今この地でどのようになっているのか知らないけど、その昔に学ぶものはたくさんあるのではないかと改めて思った。

琵琶湖エリアでは、この他に日野町の日野商人館というのを訪ねたが、こちらは重伝建ではないエリアだけど、日野町も近江商人のふるさとの一つである。日野商人は、五個荘よりももっと古くから活動を始めた人たちで、特徴的なことといえば、大都市圏の客よりも地方の小さな商圏を中心に商売の浸透を図るという戦略を持って、特に江戸を除く関東各地への進出が目覚ましかったという。メイン商品の一つが薬であり、もう一つがお椀だったという。この販売は掛け売り(=つけ)というスタイルを採ったという。自分たちが子供の頃までは、富山の売薬の行商人が掛け売りの商品を家に置いて行き、翌年回って来た時に使った分のお金を徴収し、薬を補填して行くというのを見て育ったのだが、その原点は近江商人のアイデアにあったようである。関東というので、展示・陳列品を覗いていたら、全国に数多くある造り酒屋の瓶の中に、茨城県桜川市の真壁の銘柄のものがあったので驚いた。館長さんに尋ねたら、歴とした近江商人の一人ということだった。行商の支払いを現物(=米等の農産物)で収めて貰ったものを元に、醸造業を展開するという戦略などで、このような造り酒屋が生まれ広がって、今日に続いているとのことだった。これも改めて勉強になった一つである。

②では、桜井市から天理市につながる山の辺の道を、2年ぶりになるのか、大神神社から途中の長岳寺まで、いつものように、この時期には無人販売所に並んでいるミカンを買って頬張りながらの散策を楽しんだ。長岳寺からは少し歩いてJR駅まで行き、列車に乗って戻るという二駅間の小さな旅を経験した。山の辺の道の散策は、心の和む時間である。この道を歩くと、左方に広がる奈良盆地の昔の姿が浮かび上がり、現在のコンクリートの建物などは消えて目に映らなくなるのである。

和歌山県エリアで一番印象に残ったのは、重伝建エリアのある湯浅町の探訪である。ここは日本の醤油の発祥の地として、その昔から有名だったらしいのだが、自分は全く知らず今回初めて訪れる場所だった。醤油は日本の調味料として、今や世界的な普及を見つつあると聞いている。醤油といえば、千葉県の野田市や銚子市等を産地としてイメージしてしまうのだけど、発祥の地は紀州の湯浅なのである。その昔、留学僧として大陸で学んだ、法燈国師という方が大陸から金山寺味噌の製法を伝えられたとのこと。その味噌作りの際に桶の底に溜まった上澄みの液が大変美味いというのに着目して醤油が生まれたということである。その後の普及に努めたのは、法燈国師のもとに得度されたこの地出身の覚性尼という方の尽力によること大であると資料に書かれていた。現在でも何軒かの店が醤油や味噌の製造をしているとのことだが、歩きまわってもなかなかそれを見分けるのは難しかった。醸造町に相応しい雰囲気の一角が残っており、細い曲がりくねった路地を歩くと、一層栄えていた昔のことが思われるのだった。この町には熊野古道も通っており、古い石の標識なども残っていた。熊野古道は、その殆どが山道なのだが、ここは町中に遥拝所があり、往時は随分と栄えたらしく、遊郭までが存在したとか。醤油だけではなく、その他彼の有名な紀伊国屋文左衛門の出身地でもあったのである。こんなすごい場所を初めて訪ねるなんて、随分とまあ遠回りをしたもんだと、自分が気の毒になった。その他この地で得たものは多い。

和歌山では有田川町にある道の駅:明恵ふるさと館というのに泊まったが、ここは有田ミカンの生産地の中にあり、ミカン栽培の盛んなのに驚かされた。有田川町だけではなく、有田市を初め周辺の殆どの土地がミカン畑やミカン山で埋め尽くされているかの如き景観だった。四国の宇和島や瀬戸内の島々、静岡や長崎、それに発祥の地である奈良市等、幾つかのミカン産地を見て来ているけど、初めてこの地に来て見て、改めて有田ミカンの栽培規模の大きさに驚かされた。和歌山県のミカン産地は、有田だけではなく、その後の紀伊半島を回る中でも、幾つかのエリアで栽培が盛んなことを知ってすごいものだと感服させられたのだった。

③は、元の予定は岐阜県の郡上八幡の重伝建を訪ねることだったのだが、突然気が変わって、同じコースの東海北陸道を一気に白川郷まで行ってしまった。ここまで来れば近くにある富山県の五箇山の合掌集落を訪ねないわけにはゆかない。勿論これらは皆重伝建に入っており、更には世界遺産にもなっている。もう何度も来ている場所なのだが、今回は無理して遠くまで来てしまったこともあって、白川郷の道の駅に2泊することにした。これは大変良い結果となった。白川郷の早朝や夕景などを見ることが出来、今までにない経験をすることが出来た。自然環境と人間との関係は、早朝の朝霧の中に眠る白川郷の集落を眺望していると、よおく理解できるのである。夕景も然り。朝は自然が人間どもを包み、夜は人間どもが自然の中に灯りを点しているのが良く解るのである。人間はこのようにして自然との関係を大事にしながら歴史をつないできたのである。

白川郷からは、東海北陸道が出来て超便利になった高山へは、1時間もかからない。高山にも重伝建エリアがあるので歩いて見たけど、こちらはすっかり観光化しており、昔の町というよりも、今の人の人混みの方が勝っている感じで、あまり感動を覚えるものが無かった。こちらよりも隣の古川町(飛騨市)の方が、自分的にはずっと好感が持てるエリアである。重伝建にはなっていないけど、古川にもたくさんの昔が残っており、今回は久しぶりにそれらの景観を楽しみながら散策した。2軒ある造り酒屋も益々繁盛されているようで、何よりのことだと思った。酒は買わなかったけど、これには相当の勇気が必要だった。

飛騨からアルプスの山を潜って信州に抜けたが、途中で目指す農産物を手に入れたのに満足して、一気に長野市近くの小布施町まで行ってしまった。ここで旅の大切な知人に偶然出会うことが出来、実に嬉しかった。そのため、小布施の町の散策は後日にすることにしたが、後悔など皆無である。生きている人の方が遥かに大切だ。町が消え去ることは無いのだから、又機会があれば訪ねればよい。そのあと、初めて志賀高原を通るルートで草津に抜け、帰路に就いたのだが、いやあ、その途中の景観のすごかったこと。紅黄葉などもみごとだったが、今年初めて、積もって除雪された道路脇の雪を見、日本の道路の最高地点というのを通過して、白根山のお釜などを眺めながらのドライブは、旅が終わりかけている自分たちにとって最後の刺激的なプレゼントとなった。

長々と旅の所感などを述べて来たけど、今回の旅は短い期間だった割には、収穫が大きく、再度訪ねてみなければならない場所も幾つか見出すことが出来て、十二分に満足できるものだった。(おわり)

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‘13年 秋の関西方面への旅レポート <第14回>

2013-11-09 03:30:26 | くるま旅くらしの話

【今日(11/9)の予定】 

  道の駅:こもち→(R17)→ 渋川・伊香保IC →(関越道・北関東道)→ 真岡IC →(R294)→ 自宅 

【昨日(11月8日)のレポート】       

<行程>

道の駅:オアシス小布施 →(R403・R292)→ 道の駅:北信州やまのうち →(R292)→(志賀高原経由)→ 道の駅:草津運動茶屋公園 →(R292・R145)→ 道の駅:おのこ →(R292・R345)→ 道の駅:こもち(泊)

<レポート>

 小布施の道の駅の夜は、高速道に隣接しているせいか、夜間も騒音がずっと続いて、期待していたよりは静かさが不足していたが、文句を言うほどの酷さではなかった。二度寝して、起き出した7時頃はドアを開けると、冷えた青空が広がっていた。昨日のぐずついた天気とは打って変わった清々しい朝だった。明け方近くになってかなり冷え込んだようで、寝床の上の壁の板の継ぎ目には水滴が並んでいた。これはこの車で旅をするときの寒さの証のようなもので、今回の旅では初めての朝であった。いよいよ冬が近づいているのを実感した。

朝食の後、昨日注文した紅玉を買いに行って戻った相棒が、珍しくもというか、奇偶というべきか、旅の知人のKさんご夫妻に声をかけられたとのことだった。リンゴ売り場で会って、Kさんご夫妻もどうやらリンゴを求めておられたらしい。あとでこちらにお出でになるとのことだった。Kさんとは北海道でお会いしてからもう10年来の知人で、毎年北海道で1度くらいしかお会いしていない。北海道の場合は、大体旅での滞在地や訪問先が決まっているので、お会いするチャンスは結構多いのだが、それ以外の地で知人に会うのはかなり珍しいのである。その後しばらくしてKさんご夫妻が車に見えられ、挨拶して直ぐに戻られるというのを引きとめ、それから10時近くまで歓談することとなった。我々がここに来たのは、予定外の行動の結果だったのに、相棒がリンゴ売り場に出かけた丁度その時刻に出合うとは、まさに大変な偶然だなと思った。しかも、Kさんの車は、高速道のSA内にあり、自分たちは高速道の外の駐車場なのである。こんな偶然を挨拶だけで通り過ごすわけにはゆかないともおもったのだった。

1時間ほどの歓談だったが、いつもの様なたのしい旅の出来事から始まって、お互いの家の近況のことなど、そして終わりごろはやはり健康の話になった。Kさんは所沢市在住で、我々と同世代である。ご主人は今年体調を崩されて、北海道行を取りやめることをかかりつけの医者から宣告されたのを、振り切って5月に出発し、秋近くまでのかなりの期間を北海道で過ごされたとか。その結果、心配されていた体調の方もすっかり回復したとのこと。旅には病を癒す力が秘められているのを、お医者さんは知らなかったのだと、そのような話題に話がはずんだのだった。真にたのしい時間だった。

Kさんご夫妻と別れて、少し時間が経ってしまっていたので、小布施の町の散策は止めることにして、予てから一度通って見たかった志賀高原から草津に抜ける道を行くことにして出発した。先ずは、湯田中温泉近くにある道の駅:北信州やまのうちに行き、トイレの処理などをした後、いよいよ高原に向かう。ずーっと登りの坂道が続いており、SUN号にとっては、今日は受難の日になるに違いない。道路わきの樹木たちは皆黄・紅葉に染まり、遠くの山々は全山紅葉で染め上がっていた。丁度今が紅葉の最盛期の様で、天気はいいし、空気はひんやりして最高の秋の深まりの観察・眺望が続いた。途中、澗満滝というのがあったので、車を停めて200mほど山道を歩いて見に行った。紅葉の彼方に絶壁から幾筋かの白い飛沫の糸を流している滝が望見された。見事な景観だった。帰り道、すごそばにある炭焼き小屋を見学したりして車に戻る。

それから後も登り坂は続き、しばらく走ると、志賀高原のスキー場などのある広々とした場所に出た。葉を落とした白樺の林と針葉樹の林との対象が珍しくて、何枚かの写真を撮った。更に登ってゆくと何と道端には掃き寄せた雪の塊がずっと続いていた。相棒は早くも心配になりだして、この先凍結していないか、通行できるのかを騒ぎ始めていた。更に登って、横手山のドライブインを過ぎ、渋峠というのを越えると景観は一変して、眼下に樹木のない、荒涼とした火山の礫岩の広がる荒れ地が現れた。白根山の火山跡のようだった。少し行くと、日本の国道の最高地点という標識があり、そこには2172mと書かれていた。初めて通る道だけど、そのスケールの大きさに圧倒された。外に出ると、震える寒さだった。

      

日本国道最高地点の表示。R292このようなすごい場所があるとは、ここへ来るまでまったく知らなかった。

それから曲がりくねる長い坂を慎重に運転しながら、草津に向かって降りる。途中から硫黄の臭いが車の中に飛び込んできた。まだ現役の火山なのだというのを思い知らされた感じだった。相棒は嗅覚が敏感過ぎるほどなので、この悪臭にはかなりまいったようだった。ようやく林の中に入り、しばらく走って道の駅:草津運動茶屋公園に着く。いやあ、とんでもない世界を通過している道だった。志賀高原は名前だけは知っていたけど、通ったのは初めてで、今度は夏の季節に訪ねてみたいなと思った。ここで昼食とする。

昼食の後、折角草津に来ているのだから、来た証に湯畑まで歩いて行って、写真を撮り、温泉まんじゅうを買って戻ろうと相棒に話したら、OKとのことだったので、それから時雨出した小雨の中を湯畑まで往復した。ところがこれが大失敗で、湯畑の硫黄の臭いと、温泉街一帯に常時漂っているこの種の臭いにすっかり反応してしまった彼女の嗅覚は、歩行困難になるほど身体を痛めつけたようで、戻るのもやっという状態となってしまった。おまけに帰りは急坂の道ばかりで、蝸牛のような速度で、ようやく車に戻り得たのだった。以前来た時はこれほどの状況を呈したわけではなかったので、大丈夫だと思ったのだが、術後の体調はそうそう簡単には元に戻らないのかもしれないと反省した。

      

草津温泉、湯畑の景観。せっかくだからと立ち寄ったのだけど、相棒はここの毒気に当たって、グロッキー状態となってしまった。

ようやく息を吹き返したので、先に進むことにした。今日の宿は、渋川市にある道の駅:こもちを予定している。これからはそこを目指すだけである。草津の道の駅からはR292を下り続けて、間もなくR145に入り、これをしばらく走る。八ッ場ダム予定地に近づくにつれ、道路は高速道並みに天空を走る感じの橋を通過する。はるか下の方に、旧道が細く走っていた。周辺の山々は見事な紅葉に染まっていた。この夏に霧ケ峰・美ヶ原を訪ねた帰りにもこの道を通っているのだけど、あの時とは全く違った山々の景観だった。途中、道の駅:八ッ場ふるさと館に寄り、少し歩いて近くにある橋の方へ行き、紅葉の山の景色を何枚かカメラに収めた。

      

道の駅:八ッ場ふるさと館近くの山々の全山紅葉の景観。下を流れるのは、吾妻川。この上流にダムが造られるという話は、その後どうなったのだろうか。

その後は、R145をひたすら走って、16時半頃に目的の道の駅:こもちに着く。近くに温泉があるので、自分一人が入りに行く。相棒は、硫黄の毒気からまだ抜けきれず、風呂に入る自信がないというので、そのまま車で休むこととなった。こもちの湯という温泉は、小規模だけど落ち着いた雰囲気で、入浴料も1時間以内250円とリーズナブルだった。旅の最後の夜を温泉に入って締めくくれたのは良かったが、相棒のこと考えると、満足度はかなり下がったのは仕方がない。車に戻り、夕食を済ませ、あとは眠るだけ。明日は高速道を一っ走りして家に戻るだけである

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‘13年 秋の関西方面への旅レポート <第13回>

2013-11-08 03:05:50 | くるま旅くらしの話

【今日(11/8)の予定】 

  道の駅:オアシス小布施→(?)→小布施町並み散策→(?)→軽井沢方面に向かう予定なれど行く先は未定。

【昨日(11月7日)のレポート】       

<行程>

道の駅:アルプ飛騨古川 →(R41・R158他)→ 道の駅:風穴の里 →(R158他)→ 道の駅:今井恵みの里 →(?R19他)→ 道の駅:オアシスおぶせ(泊)

<レポート>

 今日の天気予報の飛騨地方は曇りのち雨、向かう予定の信州松本エリアは雨のち曇りとなっている。朝外に出て見ると、予報よりは少し遅れての天候悪化らしく、所々に青空が見えた。昨夜は思ったよりもはるかに静かな夜を送ることができ満足した。今日は完全なる移動日の予定である。アルプスの中央を突破して松本に向かい、途中からサラダ街道を走って、安曇野の堀金の道の駅に泊ろうなどと考えている。しかし、どう気が変わるのかは、自分にも解らない。何もすることがないので、朝食の後出発の準備をして、8時半過ぎには出発となる。

R41を少し高山方向に向かって走り、途中から県道に入って、しばらく行くと、平湯方面に向かうR158に入る。あとはこの道をひたすら走るだけである。道は次第に高度を増して来て、それは周辺の山の紅葉度で判るのである。朴の木平スキー場の入口あたりは、もうすっかり秋も深まった感じで、周辺の山々は見渡す限りの全山紅葉だった。フウフウいいながらSUN号はようやく平湯トンネルの入り口に近づく。トンネル内の工事があるようで、入口は信号待ちとなっていた。トンネルは平地なので、走り易い。かなりの長さだが、すぐに出口に出て、外の景観は一層紅葉を増した山々が連なっていた。平湯温泉の入口から、有料の安房トンネルに入る。このトンネルも長くて、4km以上あるのだけど、昨日の飛騨トンネルの10.7kmと比べると、その半分にも満たない。それにしてもこんな山の中を掘り進むトンネル掘削技術というのは凄いものだなと思う。

安房トンネルを出た後は、細いトンネルが連続して幾つも幾つも現れては通り去った。時々見える周辺の景色は、急流の流れ落ちる谷の崖ばかりで、所々に真っ赤に葉を染めた山もみじなどが目に飛び込んできた。深い谷は、最近の豪雨などで一層浸食されたのか、砂防の施設なども壊れかけて半分流されているのが見かけられた。同じような厳しい条件の道路をしばらく走り下り、上高地への基地となる沢渡を過ぎて、ようやく道の駅:風穴の里に着く。ここで一息入れることにしたのだが、かなり大粒の雨が降って来て、店を覗く間もなく、すぐに下界に向けて出発する。

今日は予定としては安曇野の道の駅:アルプス安曇野ほりがねの里に泊るのだったけど、ここまで来て考えが変わり、もう一つサラダ街道の中にある、今井恵みの里という道の駅に先に行って見ることにする。ここにも堀金に劣らない野菜や果物があふれる売り場があり、明日を待たなくても予定の獲物が得られれば、ここで調達して堀金をパスし、予てもう一度訪ねたいと思っていた小布施町まで行き、そこの道の駅に泊って、明日は小布施の町並みを散策した後、どこか適当な場所を見つけて、今回の旅の最後の温泉を楽しんで泊り、土曜日の帰宅に備えることにしたのだった。

今井恵みの里の道の駅に着いたのは、10時半近くで、予定よりもかなり早いぺースでここまで来ている。ここで昼食を摂るまでゆっくり過ごすことにして、先ずは野菜やリンゴなどの売り場を覗く。予想に違わず、新鮮な野菜類やリンゴ・柿などの果物類が溢れるほどに並んでいた。特にリンゴは、何種類かの品種のものが、色とりどりに袋に詰められ並んでいた。どれを買えばよいのか迷った結果、結局4種類を買うことにした。その他山芋などをゲットした。知人への土産も調達できて、もうこれで何の心配もない。ホッとしながら車に戻り、買ってきたおこわで昼食とする。この辺りから再び雨が降り出し、かなりの本降りとなった。一息入れて小布施に向かって出発する。

    

道の駅:今井恵みの里の地元農産品売り場。リンゴを始めサラダ街道といわれる日本アルプス山麓の高原野菜の数々があふれるほどに並んでいた。

ナビに従って、見知らぬ松本市内の道を走り、間もなく長野に向かうR19に入る。それから先、市内の中心部を通る時はかなりの渋滞があったが、これを抜け出た後は、車はウソのような順調な流れで、時には自分たち1台だけという走りの場所もあった。途中二つばかり道の駅によって、小休止をしながらやがて長野市のバイパスに入る。小布施は長野から6kmほど先にある町である。バイパスの終わりごろから渋滞がひどくなり、車はほとんど動かなくなった。この時辺りから空が黒くなりだし、間もなく大粒の雨が落ちてきた。渋滞から解放された後も、雨は降り続き、小布施に着いた15時少し過ぎの頃も雨は降り続けていた。しかし、これは通り雨だったらしく、空の半分が青空を覗かせ、虹を空にかけて、間もなく止んだ。やれやれである。今日はここの道の駅に泊って明日を迎えることにする。小布施の道の駅:オアシスおぶせは、高速道とつながったハイウエイオアシスに併設されており、何かと便利なのだが、終日騒音が絶えないのが、少し残念である。

夕方までに時間があるので、近くにある地元の野菜売り場などを覗きに行く。今はリンゴが売る場の中心的存在で、たくさんのリンゴが並んでいた。その中で、相棒は紅玉という種類のリンゴを探し当て、さっそく手に入れていた。今井の恵みの里には無かったのである。この種類のリンゴは昔からあるもので、今の時代は品種改良が進んで、食べやすいものが多く作られるようになったのか、紅玉はあまり作られていないのが残念である。相棒はこれでジャムを作るという目的があり、売り場にあった在庫では少ないため、明日もう少し追加して買えるよう、生産者の方に連絡して頂くよう店の人にお願いしていた。大丈夫のようだった。今日は我が家で食べる1年分のリンゴを買い入れたという感じだ。家では殆どリンゴを食べる機会はない。

そうこうしている内に日が暮れて暗くなりだした。今日の夕食は、ここへ来る途中の道の駅で買った生のうどんである。これを釜上げにして食べることにした。ショウガを探したけど、ここでは売っていないので、代わりに大根を買ってきて、おろしうどんにすることにした。これは結果的に大成功だった。大根おろしをたっぷり入れた椀汁に熱いうどんを入れて食べると、大根の辛みが丁度いい塩梅にうどんを盛りたてて、身体がふわ~っと温まるのである。そこへ行くまでのピリッとした食感が何とも言えない。でたらめの思いつきなのだが、旅先ではこのような食べ方もできて面白い。勿論うどんメニューは自分の担当である。相棒には久しぶりに賞賛を頂いた。

旅も間もなく終わりである。まだ2週間にも満たない日程なのだが、信州に来てしまうと、関西エリアを回ったことが、何だか遠い出来事のように思えてくるから不思議である。やはり、人間というのは、過去ではなく、今日と明日という時間の中に生きているのだなと思った。明日は、さて、どんなコースにしようか。今夜眠りながらゆっくり考えることにして、寝床に入る。

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‘13年 秋の関西方面への旅レポート <第12回>

2013-11-07 05:20:52 | くるま旅くらしの話

【今日(11/7)の予定】 

  道の駅:アルプ飛騨古川 →(R41・R158他)→ 安房トンネル経由で安曇野市方面へ、その先未定。

【昨日(11月6日)のレポート】       

<行程>

道の駅:白川郷 →(R156)→ 白川郷IC →(東海北陸道)→ 高山・清見IC (中部縦断道・R158)

高山市内散策(重伝建エリア他) → (R158・R41他)→ 道の駅:アルプ飛騨古川 →(R41他)→ 道の駅:飛騨いぶし →(県道)→ 古川駅裏駐車場 → 古川町並み散策 →(R41他)→しぶきの湯→(R41他)→ 道の駅:アルプ飛騨古川(泊)

<レポート>

 早朝、ブログの投稿を終えて外を見ると霧が傍まで迫っていた。昨日は前日が雨降りだったけど、今朝は同じきりでも前日は晴れなので、違うはずだと昨日と同じように6時半すぎ、城山展望台へ移動する。今朝は周囲の山が良く見えて、白川郷荻の集落だけが、すっぽりと真っ白な霧の綿に包まれて眠っていた。今頃の季節は天気が良ければ毎朝このような霧が発生するのであろう。いい写真が撮れそうな予感がした。外気は寒くて4℃を下回っていたのかもしれない。しばらく待ってみたが、あまり変わらないので車に戻る。相棒は辛抱強く霧の晴れるのを待っていた。霧の変化は早くて、あっという間に消えたり流れたりするので、シャッターチャンスはいつ来るかもわからない状況なので、欲張りな相棒には寒さよりもそちらの方が大事だったのであろう。その後、2~3度写真スポットに出かけて何枚かの写真を撮ったが、出来栄えは皆今一だった。しばらくして相棒も戻って来て、朝食を済ます。あとで見たら、相棒のは結構良いのが撮れていたが、自分の方はやっぱり駄目だった。カメラの所為だと思っている。ま、ええか。

      

朝霧の中の白川郷。失敗作だけど、それなりのムードはお分かり頂けると思う。

今日は飛騨の高山に行って、重伝建エリアなどを歩くことにしている。高山探訪は、いつも中途半端だと相棒に愚痴を言われるので、今日は夕方近くまでも存分に歩き回ってもらうつもりでいる。高山はここからは高速道を使えば1時間足らずの近い場所となったのはありがたい。向かう前に先ずは道の駅まで行き、トイレの処理などを行う。8時20分出発。

直ぐに高速道に入り、トンネルに入る。東海北陸道には54本ものトンネルがあり、一昨日は名古屋から46本のトンネルをくぐって白川郷まで来ている。その中の最大のものが、白川郷ICから入って高山方向に向かって2番目の飛騨トンネルである。改めて表示を見たら、10,710mとあった。10kmを超える長さのトンネルの中では、ナビのGPS昨日もお手上げらしく、表示できないでいた。ようやく飛騨トンネルを抜けて、その後もトンネルの連続が続いて、間もなく飛騨・清見ICを出る。直ぐに中部縦断道につながっており、この道路はまだ未完成のため、通行料は無料だった。しばらく走って、一般道のR158に入る。これをそのまま行けば、高山市内に入ることができる。しばらく走ると、あと5kmの標示があった。間もなく細い道の筋の多い高山市内に入り、いつもの駐車場に車を止める。

休む間もなく相棒は飛び出していった。自分の方は、それほどここを歩き回りたいとは思っていないので、先ずは買い置きのままだった里芋を塩茹ですることにした。それが終わって、記録の整理などをする。日記も付ける。そのようなことしていたら、あっという間に1時間が経ってしまった。今日は、相棒が戻ってくる気配はない。町中の賑やかな所に出ると、一気に活力を増す人なので、昨日の写真ばかり撮りまくった場所とは違って、高山は彼女には向いている場所なのであろう。この分だと、昼食も忘れるのかもしれない。

久しぶりに町中に出て、先ずは陣屋辺りに行ってみることにした。裏通りをしばらく歩いて、行って見ると宮川に架かる橋が工事中で、陣屋に行くには遠回りしなければならなかった。ま、仕方がないなと思いながら陣屋に行って見ると、名物の朝市はかなり規模が縮小されて活気を失っていた。やはり橋の工事での通行止めが災いしているのだろうと思った。その後、重伝建エリアを歩いたけど、もう何回も来ているので、特に新たな感動などない。

      

高山市内、重伝建指定エリアの上三之町町並み保存地区の様子。人気の観光スポットには、今日も大勢の人たちが訪れていた。

一応来た証拠に写真などを撮った後、朝市で有名な宮川沿いのいつもの場所に行ってみた。相変わらずの賑わいで、外国からの来客も多いようだった。自分的には、この朝市にはものを買うという関心は殆どなく、風景としての関心があるだけである。何枚かの写真を撮った。途中、偶然相棒と出くわしたのだけど、あっという間にどこかへ消え去っていった。その後を追うなどというのは、ネズミの後を追いかけるようなもので、とてもついて行けるものではない。こちらはマイぺースにかぎると、宮川に架かる何本かの橋の内の一つにある、名人作の手長・足長の塑像の写真をとる。この像は気にいっている。高山に来た時にはいつもこの像を見ることにしているのだけど、相棒はまだその存在を知らないようだ。

 

左、手長像。右、足長像、これらは江戸時代、嘉永の頃の名工と言われた谷口与鹿という方が、出雲神話から発想を得て、高山祭の屋台に取り付けたのを擬して作られたとのこと。傍に行ってみると、表情も豊かでなかなか面白い。

疲れたので、車に戻って休むことにした。高山市内の駐車料金はかなり高額で、一番安いと思われる市営駐車場でも、30分150円もしている。今日は相棒の日としているので、何時間かかっても気のすむまで歩いてもらいたいと思っている。少し経って相棒から電話があり、戻るとのこと。その間、ネットの情報などを覗く。間もなく相棒が戻ってきた。幾つか荷物をぶら下げてきた。その中身にはあまり関心はない。今日はもう満足のレベルに達していたらしく、もういいとのこと。駐車料金のリミットタイムにあと20分ほど余裕があったので、一息入れて、12時少し過ぎに駐車場を出て、道の駅:飛騨古川こぶしの方へ行って見ることにした。料金は3時間以内で、900円だった。

ナビに従って走り、R41に出てしばらく行って、給油をする。この辺りの油価もかなり高くて、軽油がL辺り140円を超えたりしている店も多い。その中で、現金カード134円という店があったので、入れようと思い、現金カードとは何ですかと店の人に尋ねたら、通りすがりの人には関係ないと言われたので、少しむかついた。その後、その店の人が、自分のカードを機械に差し入れて、134円にしてくれたので、満タン補給することにした。給油スタンドの売価は、全国を旅していると、かなりの差があり、何だかいい加減な業界だなと思わずにはいられない。高い価格のエリアの人たちは揃って騙されている感じがする。

途中の道の駅:アルプ飛騨古川に寄り、昼食にする。珍しく外食で自分はハイカロリーを心配しながら、カツカレーなるものを食した。相棒は飛騨牛の何とか定食を頼んでいたが、本物ではないように思った。自分は、牛の肉には全く関心がないのだけど、相棒の牛肉に対する食べたい執念には、相当の執念を感じている。別に自分は何の邪魔をする気持ちもないのだけど、なかなか夢を果たそうとしないのは、何故なのか良く判らない。人生は有限なのだから、食べたい物を大いに食べるべきで、それを邪魔するなどとんでもない悪行である。自分にはそれほどの悪行精神はないのだから、もし遠慮ならば、いい加減やめて貰いたい。五箇山豆腐があれば、相棒が何を食べようと、全く関心はない。

昼食を終えて、今日の泊りを予定している飛騨市のもう一つの道の駅:飛騨いぶしというのに行って見ることにした。初めて訪ねる場所である。R41を左折して、しばらく山道を走る。急に道幅が狭くなり、こりゃ大丈夫かなと不安になったが、間もなく広い舗装道路となり、その少し先に道の駅があった。今日の営業は休みなのは知っていたが、全くの山の中で、誰もいないというのはなぜか心落ち着かない。相棒のことを考えると、自分たちだけでここに泊るのは難しいと思った。駅の周りを一回りしていたら、「銀命水」と書かれた水汲み場があったので、これは飲料にも大丈夫だとペットボトルとポリタンを満たすことにした。それでここをおさらばして、今日の宿は少しうるさいかもしれないけど、何度か泊ったことのある道の駅:アルプ飛騨古川に変更することにした。

 まだ時間に余裕があるので、久しぶりに古川の町並みを散策することにして、町中に入る。しばらく来ていなかったので、駐車場の場所を思い出せず、道なりに行くと案内板があり、JR古川駅裏に無料の駐車場があるとあった。少し遠いなと思いながらそこまで行き車を留める。古川の町並みは、重伝建には指定されていないけど、高山にも引けを取らない、しっとりと落ち着いた雰囲気の昔が残っている。自分的には、高山よりもこちらの方にずっと好感を抱いている。以前NHKの朝ドラで、この町が取り上げられ、古い和蝋燭屋さんが舞台になったことがあるけど、あの時はそれまで平和だった町に、突然大勢の観光客が押し寄せて、辟易したのを覚えている。駐車場から10分ほど歩いて、懐かしい町の景色にたどり着いた。今日は観光客は少ないようで、我々と同じ高年齢層と思しき男女が何組か町の散策を楽しんでいた。

      

古川の町中を縦横に走り流れる瀬戸川用水の景観。この名所は、観光の中心地の起こし太鼓の展示されている公園のあたり。古川の町並みはしっくりと調和がとれていて、心をなごまされる歩きができるのが嬉しい。

 相棒は、ここで飛騨牛を手に入れ、今夜のおかずにしたいと考えていたようで、その店を発見すると勇んで中に入って行った。なかなか出て来ないので、先に行くことにして、通りの筋を折れ、大きな和太鼓などが飾られている観光の中心地辺りを訪ねた。写真などをとって、しばらく待っても相棒がなかなか連絡をくれないので、行ってみると、造り酒屋の先の辺りで、何やら覗き込んでいる様子だった。この町並みの中には二軒の有名な造り酒屋さんがあり、それぞれ、「蓬莱」と「白真弓」の銘柄で世に知られている。いつもだと必ず1本ずつ買うのだけど、今回は既に大宇陀で「かぎろい」を手に入れているし、正月用の酒があまり貯まり過ぎてもいけないので、買うのは控えることにしている。相棒は、造り酒屋さんが以前よりも活気が出ているのに関心を持ち、その中に入って行った団体さんの振る舞いなどを観察して面白がっていたようだった。その内容を書くのは止めよう。又、念願の飛騨牛は、想定をはるかに超える高価であったのに驚き、萎縮(?)してしまったようで、レベルをぐっと下げたものを手に入れて我慢したとのこと。こりゃあ、俺の小遣いを叩(はた)かないとダメかなと思った。主婦感覚が健在な間は、そう簡単に買えるものではなさそうである。

 1時間ほど散策を楽しんだ後、温泉に入ることにして、少し離れたところにある四十八滝温泉しぶきの湯という所へ出向く。15分ほどで到着。この辺りに四十八滝という名所があるらしいのだけど、まだ行ったことはない。温泉は2回目ではなかったか。しばらく来ていないので、周辺の様子などはすっかり忘れている。温泉には露天やサウナなどもあり、それなりにいい施設なのだけど、やたらに泡を吹く装置が多くて、露天以外のどの浴槽も泡立っており、感心しない。ラムネ温泉の様な泡ならいいのだけど、人工のあぶくは、温泉気分を壊している気がして好きになれない。主に露天風呂とサウナだけに入る結果となった。1時間ほど温泉を楽しんで車に戻り、今日の宿の道の駅:アルプ飛騨古川に向かう。

 古川の道の駅は、メイン国道の一つのR41に面しており、夜間でもトラックなどの走行が多く、仮眠の車も多いため、騒音が予想されるので、当初は道の駅:飛騨いぶしを選んだのだったが、あまりにも淋しそうだったので、止むなくこちらを選んだしだい。しかし、トラックヤードか少し離れた奥の方に小さなスペースがあり、そこに車を入れることが出来てホッとする。これは正解だった。思ったよりも静かな一夜を過ごせたのは、良かった。

 今夜の夕食もメインは五箇山豆腐。相棒は飛騨牛らしきステーキではなく、切り落としの焼き肉。身体が冷めないうちにビールで一杯やって、今夜も早々に寝床にもぐる。

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‘13年 秋の関西方面への旅レポート <第11回>

2013-11-06 05:37:28 | その他

【今日(11/6)の予定】 

 道の駅:白川郷 →(R156)→ 白川郷IC →(東海北陸道)→ 高山・清見IC →(?)→ 高山市内観光 →(R41他)→ 道の駅:飛騨古川いぶし(泊)

【昨日(11月5日)のレポート】

<行程>

道の駅:白川郷 → 白川郷合掌集落探訪 → 五箇山(相倉・菅沼)合掌造り集落探訪 → 道の駅:白川郷(泊)

<レポート>

昨夜の就寝は、何と18時50分!この時間に寝て朝まで眠るなんてとてもできない相談である。我慢しても3時までが限度。今朝も起床は3時となった。しかしブログを投稿し終えての5時少し前は、そのまま起きているには寒すぎて、再び寝床にもぐって暖をとる。再起床は6時半過ぎ。相棒も起き出して、相談するまでもなく、直ぐ近くにある荻の集落(=白川郷)を俯瞰できる城山展望台の方へ移動することにした。そこに行けば、朝霧に包まれた集落全体が見えるはずで、それを写真に収めようという考えである。これは昨日から決めていたのではなく、今朝起きて見ると一面霧の中にあり、それならば、という意見の一致だった。すぐに移動して7時には展望台の駐車場に入る。既に先着の車が何台か停まっていた。皆さん考えは同じの様である。朝食はここで摂ることにした。集落はまだ霧の中で、写真を撮るには程遠い景観だった。先に朝食を済ます。

しばらく待ったけど、霧は波状攻撃を仕掛けるがごとくに繰り返して押し寄せ、なかなかシャッターチャンスを作ってはくれなかった。時々現れる集落を囲む山々は、もう紅葉の最盛期を迎えていて、全山紅葉の黄金色の輝きを矯めていた。わずかに光が増えた合間を狙って、何枚かの写真を撮ったけど、思いからは遠く離れたものだった。

      

早朝の霧の中の白川郷の俯瞰。城山展望台からの眺めだけど、今一光が不足していて、うまくゆかなかった。

もうしばらくは光が射す可能性はないようなので、今日の朝の撮影は諦めることにして、今日の第一目的地の五箇山の相倉(あいのくら)集落に向かうことにする。途中、再度白川郷の道の駅に寄り、用足しを済ます。それから相倉集落までは、15kmほどあり、その途中にもう一つの菅沼集落がある。二つとも富山県南砺市に属する重伝建の指定区域であり、世界遺産の中にも含まれている有名な場所だ。昨日泊った道の駅:白川郷は、岐阜県白川村に属し、この辺りは庄川の曲がりくねった流れに抗しきれずに、富山県と岐阜県の県境がめまぐるしく入り組んでいる。それを象徴するかのように飛越七橋というのがあるのが面白い。相棒は飛越(=ひえつ)を、「とびこし」などと本気で読んでいるのに驚いた。飛越とは、勿論飛騨と越中の頭の字をとっての呼び方であろう。でも飛び越しも面白いなと思った。

この地に来て何としても手に入れたいものがある。それは五箇山豆腐である。自分は豆腐大好き人間であり、特に堅い木綿豆腐ほど好きなのである。昨年の旅で食べた九州の五木村の豆腐も感動的だったけど、ここ五箇山豆腐もそれに勝るとも劣らない。五箇山豆腐は縄で縛って持ち運べるほどの堅さなのである。いつも自分たちと同姓の山本屋豆腐店で買うことに決めている。ここしばらくこの辺りに来ていなかったので、地理があやふやになっており、早く手に入れたいという思いは、山本屋豆腐店が白川郷のすぐそばにあるような錯覚を覚えさせて、なかなかその店が現れないので不安な気持ちにさせられたりした。相棒に笑われるまでもなく、五箇山豆腐なのだから、五箇山エリアの中に入らなければダメなのであって、相倉集落が近づいてくる頃ようやくいつもの店を見出だした。9時半過ぎ、店の間口は1階だけど、製造販売は階段を下りたところにあると、勝手は知っている。相棒が声をかけると、返事が戻って来て、今日は大丈夫と安堵した。中を覗くと、揚げたての巨大な厚揚げと、油揚げなどが箱一杯に詰まって並べられていた。豆腐も巨大で、普通に関東辺りで売っている豆腐の4倍の大きさはある。それを2丁と厚揚げを2個買い入れる。自分的には、これで今日の目的は果たした感じがあり、合掌造りの集落の探訪はおまけの様なものなのだ。満足、満足であった。

少し走って、相倉集落の案内板が出た信号を左折して、間もなく集落の入口にある駐車場に到着する。駐車料金500円也を徴収された。まだそれほど多くの訪問者はなく、観光バスは見られず、マイカーが10台ほど停まっていただけだった。今日はここで午前中一杯ゆっくりして、菅沼集落には気が向いたら寄ることにしている。午後は白川郷の萩集落探訪を夕方まで続けることにしている。歩きの準備をした後、二人は別行動にすることにして、それぞれ出発する。この集落はそれほど大きくなく、じっくり見ても1時間もあれば充分である。

      

相倉集落の朝。昨日降った雨にぬれた茅葺屋根から、朝の光に温められて湯気のような靄が立ち上っていた。

今日は隅々まで見て回ろうと思い、先ずは駐車場の下の細道から歩き始めた。相棒が何をしているのかは分からない。その後、集落の中心部を隅々まで回った後、今迄行ったことのない村社やその奥の方の家なども見て歩いた。合掌造りを見るのはもう何度も来ているので、それほど珍しいものではなく、ああ、この家は蚕の扱いが小規模だったのかなとか、この家は今空き家になっているけど、誰がどのようにメンテをしているのかななどと思いながらの歩きだった。最後にまだ行ったことがない、集落全体を俯瞰できる場所まで登って、何枚かの写真を撮った。これでもう為すことはなくなったと思い、車に戻る。相棒はまだ頑張っているようなので、PCを取り出し、写真を入れたり、ブログの記事を書いたりしていると、間もなく相棒も戻ってきた。午前中一杯ここで過ごすことにしていたのだけど、相棒の方ももうこれ以上はいいとのことだった。少し小腹が空いたので、先ほど買ってきた厚揚げを焼いて食べることにした。普通の厚揚げの倍くらいの厚さの揚げは、外側がこんがりと焼けて、肉厚の堅い豆腐がずっしりと歯を刺激して、何とも言えない美味さだった。この手のものはあまり関心を示さない相棒も、なんだかんだと、賞賛のセリフを吐いていた。確かに美味いのである。昼前だったけど、二人とも反省はない。

その後は菅沼集落はパスすることにして、白川郷の駐車場に行き、そこで午後からの時間を過ごすことにして、出発する。途中先ほど豆腐を買った山本豆腐店の前を通ると、「本日、豆腐は売り切れました」と書かれた表示板が出ていた。先に買っておいて良かったと思った。山本豆腐店は、以前と比べて人気が出てきているらしく、自店以外にも豆腐を収めて販売されているようである。自分も何だかうれしくなった。途中道の駅:上平をちょっと覗く。相棒は、何やら和紙類を購入していた。美味そうな赤カブが一束400円で売られていたけど、今、漬物にするにはちょっと量が多すぎるので、買うのを止めて出発する。白川郷の駐車場には、12時半ごろ到着。

世界遺産の中心となる合掌造りの集落のある白川郷荻集落は、世界遺産に指定されて以降ますます人気が高まったようで、今日も大勢の来訪者で賑わっていた。以前はこの時間でも難なく駐車できた庄川沿いに造られた大駐車場は、大型の観光バスや一般の車で埋まって満車となっており、反対側にある臨時駐車場の方へ行くようにと指示された。そこはまだ余裕があって、500円也を払って、気にいった場所に車を止める。ここで夕方まで過ごす予定である。昼食の後、相棒はカメラを抱えて出て行ったが、自分はここを見るのにそれほどの関心はなく、先ずはPCを取り出し、記録の整理をする。その後柿忘れていた日記をつけたりしていると、あっという間に1時間半が過ぎてしまった。ちょっと一回りして来るかと外に出たら、向こうから相棒が戻ってきた。張り切って行ったけど、かなり疲れた顔をしていた。休むことにするという相棒とは反対に、駐車場脇の石段を上って、荻の集落の方に向かう。

ここには何回か来ており、十年以上前には民宿に泊ったこともある。その「のだにや」の前を通りながら、あの時はカメムシ(=屁ひり虫)の襲来に驚き、苦戦したのを思い出したりした。この辺りはカメムシが多いらしく、部屋の中にはそれを獲るためのガムテープが置かれていたのにびっくりした。今頃はどうなっているのだろうか。通りは隅々まで人に溢れていた。外国からの来訪者も多いようで、皆思い思いに散策をたのしんでいるようだった。その中で、中国からの来訪者と思われる太った女性の一団が、辺りかまわずに大声をあげて騒いでいるのが気になった。北海道などの観光地でも中国から来たと思われる観光客は、傍若無人の振る舞いを見かけることが多く、多民族国家は、マナーの浸透が困難なのだなと思うことにしている。注意のしようがない。

      

白川郷・荻集落の代表的景観の一つ。静かな佇まいだが、周辺の道路、細道のは、観光客が蟻の行列をなしている。

写真を撮りながら集落をざっと一回りして車に戻る。相棒は寝床に休んでいたが、予想以上の早い戻りに驚いていたようだった。しばらく休んでいる内に16時を過ぎ、駐車場内に残る車は数台ほどとなっていた。皆さん、これから家に戻らなければならないのをお気の毒に思った。くるま旅でちょっぴり意味のない優越感を覚えるひと時である。我々の方は、これからもう一度城山展望台の方へ行き、夕暮れを待って灯りのつき始めた荻の集落を撮ろうと考えている。さっそく準備をして城山展望台へ向かう。直ぐに着いたが、先客もかなりいて、賑やかだった。しかし30分もすると殆どの車は去って、写真を撮るための来訪者だけが残る状態となった。それから灯かりがつき始めるまでのしばらくの間、寒くなってきたので車の中でお茶を飲んだりして待つことにした。夕暮れというのは、待っている時はなかなか訪れてくれないものだと、改めて実感した。17時半近くになって、ようやく明かりが灯り始めた。シャッターチャンス到来と、張り切って出掛けたのだが、どうも自分のカメラのレベルでは、夕景を撮るのは、まして遠景のそれは難し過ぎて、どうもうまく行かない。何枚かを撮ったけど、結局全部だめだった。相棒の方も、カメラの操作が不勉強で、同様の失敗だったようである。がっかりしながら、車に戻り、今夜も泊る道の駅の方へ向かって出発する。

      

夕闇の中の白川郷・荻集落の景観。城山展望台から撮ったもので、失敗写真なのだけど、あえて載せさせていただいた。

18時少し前の道の駅構内は、もうすっかり夜になっていて、照明がなければ暗闇といった状況だった。ご飯を炊き、夕食をとる。今夜はご飯よりも、五箇山豆腐を肴に、焼酎の熱いので一杯やるのが楽しみである。いわゆる冷ややっこという奴で熱い酒を飲むというのは、あまりいい趣味ではないのかもしれないけど、自分流なのだから余計なお世話なのである。久しぶりの五箇山豆腐は、無上の美味だった。食べる前に計測と写真を撮った。サイズは高さが8cm、幅が9cm、長さが13cmだった。やはり普通の4倍はある。1丁400円だけど、安いなと思った。豆腐といえば、京都の絹ごしの柔らかい湯豆腐をイメージする人がいるけど、自分的にはあれは豆腐ではない、別の種類の食べ物と思っている。豆腐は木綿でなければならない。お公家さんの好きな柔らかい豆腐では、関東の野武士のパワーは発揮できない。縄で縛るほどの堅さでなければ、ダメなのである。豆腐談義をすれば長くなるのでこの辺で終わり。豆腐の後、ご飯を食べようとしておかずがないのに気付き、先日相棒が湯浅探訪時に買った金山寺味噌に気がつき、これで食べることになったのだけど、その味噌のまあ、何と美味いこと。金山寺味噌は何度も食べているけど、こんなに美味いのは初めてだった。さすが本場物は違うなと思った。存分に満足して、夕食を終える。

      

山本屋豆腐店の五箇山豆腐。比較のため携帯を置いてみたが、どうもはっきりしない。一度に一丁を腹に入れるのは困難で、半分食べても満腹になる。だけど、堅いしっかりした味である。

      

あまりに美味かったので、ついでに金山寺味噌も載せることにした。豆腐の後だったので、この味噌の旨みが一層引き立ったのかもしれない。今度は味噌をつけながら豆腐を食べてみようと思う。

食事の後は、もうすっかり慣れたTV無しの夜を送る方法を実践する。すなわち、寝床に入って休むということである。明日は、高山の市内観光をする予定でいる。天気は大丈夫のようだ。おやすみなんしょ。

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‘13年 秋の関西方面への旅レポート <第10回>

2013-11-05 04:26:44 | くるま旅くらしの話

【今日(11/5)の予定】 

  道の駅:白川郷 → 白川郷合掌集落探訪 → 五箇山(相倉・菅沼)合掌造り集落探訪 → 道の駅:白川郷(泊)

【昨日(11月4日)のレポート】      

<行程>

道の駅:飯高駅 →(R166・R368)→ 勢和・多気IC →(勢和道・伊勢道・東名阪道・名古屋高速道・名神道・東海北陸道)→ ひるがの高原SA 他 →(東海北陸道)→ 白川郷IC → 道の駅:白川郷 → 白川郷の湯 → 道の駅:白川郷(泊)

<レポート>

2時過ぎに目覚めて起き出し、ブログの記事を書く。終わって後もう一眠りしたのだが、ずっと天井を叩く雨音の中だった。次に目覚めたのは、8時を大分回っていた。相棒はすでに起きており、何やらゴチョゴチョやっていたようだった。今日は終日ここでゆっくり過ごす静養日と昨日決めていた。この道の駅には温泉もあり、旅の中日の静養には最適の場所なのである。9時少し前に起き出し、遅い朝食をとる。あまり食欲はない。まだ雨が少し残っているようだけど、今日は午後からは晴れの予報となっており、天気の心配はない。晴れたら、少しなまっている足を鍛えるために、近くを流れる川の上流にある香肌峡辺りまで歩いてみようかなどと考えていた。

しかし、しかしである。もう一度旅の行程などを見ていたら、どうやら勘違いをしていて、計画よりも1日早いペースになっていたらしい。というのも、今日が休日だったことに気づいて、郡上八幡には今日の内に行ってしまおうと、昨日少し無理をしたのだった。だから、素直に今日は休養日と決めたのだったが、高速道路の料金をネットで調べて見ると、平日と休日とではかなりの差があり、折角ここまで来たのだから、やはり今日の内に高速道を使って移動した方がいいという結論になったのだった。当初は郡上八幡まで行って重伝建エリアを訪ねる予定だったのだが、どうせ東海北陸道を利用するのなら、しばらく行っていない世界遺産の白川郷まで行ってしまおうということに、急遽決めたのだった。平日の郡上八幡ICまでの高速道の料金と、休日の五箇山ICまでの料金がほぼ同じなのである。それならばと、損得計算も割り込んでの決断だった。そう決めたのは10時ごろで、雨も止んで空が明るくなりだしていた。決めた後の行動は素早く、30分後には出発準備を終えて、レッツゴーとなったのだった。このような変更は数え切れないほどの実績を持っている。

昨日来た道を勢和道の勢和・多気ICを目指して走り、高速道に入る前に給油をして、ICに入ったのは、11時過ぎだった。そこからはひたすら東海北陸道の白川郷ICを目指して走るだけである。休日のせいなのか、反対側の車線は、かなり混んでいたが、名古屋に向かう方はそれほど混んではおらず、順調な流れだった。間もなく東名阪道に入り、御在所SAで昼食。相棒がこの地の名物なのか、鶏の弁当と手羽焼を買ってきた。手羽焼の方は夕食に回すことにして、自分は冷や飯に卵かけご飯という特性メニュー。しかしこれは期待はずれなのは食べる前から承知のことで、卵かけご飯は、やはり温かいご飯でないとダメだった。しかし、腹の中に入れてしまえば同じことで、この際美味い不味いは問題外なのである。このような野武士的な喫食法は、相棒には全く通じない。他の普通人にも通じない話なのかも。

昼食の後ほんの少し休んだだけで、出発。東名阪が終わってから先、東海北陸道に入るまでの名古屋圏の高速道は、土地勘もなく何がどうなっているのか、さっぱり判らない。ナビ無し主義を捨てて、新しいナビを取り付けた甲斐があって、こんな時はナビの力は絶大なもので、素直に従ってさえいれば問題はない。無事に名古屋圏を脱出することが出来て、間もなく北陸東海道に入る。この道を走るのは、2回目である。名古屋方面から行くのは初めてだ。高山市に向かって、千メートルを超えるかなりの高所を走るのと、それからトンネルがやたらに多いというのを記憶している。今日は少し風があり、SUN号にとってはあまりありがたくない走行条件なのだけど、トンネルに入ってしまえば、風の心配はなくなる。出口に気をつけるのが運転のポイントだろう。

ということで、途中のSAなどで適当に休憩をとりながら、ひるがの高原SAに到着。ここで大休止を取り、SA付近を少し歩いて写真などを撮る。ひるがの高原は、R156を通る際に、日本列島の背骨の場所としての分水嶺の地点に立ち寄ったことがあり、そこの小さな泉を起点として流れだした川が、かたや太平洋に注ぐ長良川となり、もう一方は日本海にそそぐ庄川となっている。いずれも日本国では大きな川の部類に入るであろう。ここのSAはその地点からはかなり離れているようだけど、そのようなことが書かれた案内板もあった。500mをかなり超えた高さにあるのか、周辺の山々には紅葉の始まりが見えた。中には真っ赤に葉を染めた山モミジなども見られた。なかなか秋を実感できなかったけど、ここに来てもう冬が確実に迫っているのを実感した。

      

ひるがの高原の分水嶺公園を紹介している案内板。分水嶺公園は、R156の傍にあり、ここからは少し離れている。

      

ひるがの高原SA付近の紅葉。この辺りはまだ紅葉が始まったばかりのようだったが、この後高山の方に近付くにつれて、周辺は山全体が染め上がっていた。写真が撮れなかったので紹介できないのが残念。

その後はずっと登り坂が続き、一昔前までは信じられなかったような高さの山の中腹を高速道が走り、まるで天空を駆けているかのような錯覚を覚えるほどだった。千メートルを超える地点あたりは、もう完全に紅葉が始まっており、見渡す限りの全山紅葉に相棒は感嘆の声を出し続けていた。写真を撮りたいのだけど、走行中は無理な話である。我慢をしてもらって、景色だけをしっかり身体の中に取り込んで貰うしかない。高山市へつながる道の出口辺りを通過する頃から時雨空から雨が落ち出した。大したことはないと思っていたら、一時かなり強くなったので、要注意だなと思った。少し行くと10kmを越える長さの飛騨トンネルに入った。恐らくこのトンネルが今のところ日本一の長さなのではないか。かなりの走り応えがあった。その後も幾つかのトンネルをくぐって、間もなく白川郷ICを出る。下に降りて、R156のすぐ左向こうに白川郷の道の駅があった。人まっず駅に行って、今夜の泊る場所などをチエックする。16時をちょっと過ぎたばかりの時間だった。路面は濡れていたけど、雨は止み、空はまだ明るかった。

一息入れて、近くにある白川郷の湯というのに入りに出かける。結局昨日は温泉に入らなかったので、今日はどうしても入っておきたい。相棒は少し疲れたらしく、今日も入らないなどと言っていたが、気分を持ち直したらしく、入ることとなった。白川郷の湯は世界遺産の白川郷集落の入り口近くにあって、今迄気付かなかったけど、なかなかいい湯だった。直ぐ下を庄川なのか、急流が流れており、温泉風情もあるいい場所だった。お湯の方はあまりに衛生面に気を遣いすぎて、少し野性味にかけていたのが残念。1時間ほど温泉を楽しみ、道の駅に戻る。

夕食を食べながらの反省会。今日、急に思い立ってここまで来てしまったので、不意になった訪問予定地もあるのだけど、日程的には2日ほど前倒しに来てしまっているので、明日はここにもう一泊することにして、世界遺産にもなっている、重伝建地区の白川郷荻集落、五箇山の相倉集落と菅沼集落などを探訪することにした。それにあこがれの五箇山豆腐もゲットしなければならない。そのようなことで、ここもTVを諦めて、早々の就寝となった。

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‘13年 秋の関西方面への旅レポート <第9回>

2013-11-04 05:44:10 | くるま旅くらしの話

 

 【今日(11/4)の予定】 

  道の駅:飯高駅 →(R166・他)→ 終日ここに滞在予定

【昨日(11月3日)のレポート】      

<行程>

道の駅:椿はなの湯 →(R42)→ 道の駅:志原海岸 →(R42)→  道の駅:なち →(R42)→ 紀宝町うみがめ公園 →(R42)→ 道の駅:熊野きのくに → (R42・R368・R166) → 道の駅:飯高駅(泊)

<レポート>

道の駅:椿はなの湯は、新しい道の駅である。温泉観光地で有名な南紀白浜に近い場所に造られており、近くにはリゾートマンションらしき高層の建物も建っている場所に隣接して造られていた。着いて、温泉に入り、車に戻った頃は大して泊りの車も居なかったように思っていたのだが、その後夜が深まるにつれて、ここに泊る車が増え、明けて見ると50台近くの車が泊ったのを知りびっくりした。道の駅の所定の駐車場は少なくて、20台にも満たず、そのため隣の開いている砂利敷きの駐車場が多くの旅車で埋まっていた。ここは南紀の各名所にも近く、人気の場所となっているのだなと思った。

今日は文化の日。確か晴れの特異日だったはずなのだが、予報ではだいぶ前から雨が宣告されている。どうやらそれに違わないようで、起きて見ると空はすっかり雲に覆われており、朝食をとっている間に雨が降り出して来た。大した降りではなさそうだけど、どうやら今日は特異日はダメとなるのは確実のようだ。この駅には、足湯の傍に給水の設備があったので、大助かりである。少し少なくなっていた生活用水を補給する。ごみ箱はないので、持参の箱の中に収納する。TVは映らない。ネットのニュースでは楽天の田中投手がついに連勝をストップさせてしまったとあった。永遠に勝ち続けるということなどあり得ないのだから、田中君には気の毒で、我々も残念だけど、30連勝という記録はそう簡単には破れまいと思う。気持ちを清算して、再び頑張ってもらいたいなと思った。

さて、今日の予定だけど、特に何もない。移動するだけである。できれば明日の休日を利用して高速道を使って岐阜の郡上八幡まで行って、重伝建エリアの探訪をしようかなどと考えているけど、どうなるかわからない。行けるところまで行って温泉にでも入ってのんびりしたいとは思っている。候補地としては、三重県松坂市となった飯高町にある道の駅まで行きたいと思ってはいる。途中、那智の滝などを見たりしたら、届くのは無理かもしれない。ま、成り行き任せである。

8時45分道の駅を出発する。雨は小雨が時々降る程度で、大したことはなさそうである。少し走ると、道の駅:志原海岸というのがあったので、ちょっと寄って見ることにした。名の通りすぐ傍が海で、津波などが来たら一発でお陀佛という感じの場所だった。東北の大震災のあった以降は、旅に出た時の泊る場所には注意を払っている。昨日の道の駅:椿はなの湯も海の傍だったけど、こちらはかなりの高台に造られていたので、大丈夫だと思った。志原海岸の場合は、逃げ道は全くないなと思った。小用を足していると、観光バスから関西方面からと思える中高年の男女の団体がやって来て、そのおばちゃんグループの姦しいのなんのって、トイレが膨れ上がってはみ出しそうな大阪弁らしきセリフが飛び交っていた。相棒もたまらず逃げ出してきたようだった。大阪おばちゃんのエネルギーの凄まじさには、関東の田舎者などとても太刀打ちできるものではない。

その後はひたすら那智の道の駅を目指す。串本を過ぎ、那智勝浦が近づく。南紀の海岸線を走る道は、以前よりは大分整備が進んだようで、随分と走り易くなっていた。何年か前の現役だった頃、那智勝浦のホテル浦島に3週間余り泊って、トレーナー取得の訓練を受けたことがあり、その時の休日に那智勝浦から串本まで歩いたことがある。糖尿病の宣告を受けたばかりの時で、ホテルの毎回のご馳走を如何に食べないで済ますかに苦労したり、歩くための時間をどう作るかに苦労したりしたのを思い出す。串本まで歩いたのは、その糖尿病の対策のためでもあったけど、海辺の道の景観を楽しみたかったし、更にはついでにマニュアルのポイントを暗記してやれと思って、メモを手に声を出しながら歩いたのだった。早朝の6時頃宿を出て、串本の駅に着いたのは、12時近くだったかと思う。帰りは電車で戻ったのだが、めはり寿司を食べながら車窓から見る景色は何とも言えない美しさだった。その道を今日は旅車で通っているのだけど、こんな日が来るとはその頃は夢にも思わなかった。懐かしさのこみ上げるしばらくの時間だった。

ようやく道の駅:なちに到着。11時を少し過ぎていた。ここは新しい道の駅で、初めて来る場所だった。世界遺産登録を強調して建てられたのか、道の駅の駅舎もその隣にあるJRの駅舎も朱色の神がかった風のデザインで、派手さが目に付いた。もう少し時間が経つと、それらしき貫禄が出てくるのかもしれない。ぴかぴかの神社は何だか有難味が定着していない感じがするけど、この建物も今のところはそんな感じがする。この地には那智の滝を始め、それに関連する様々な観光資源ともいうべき建築物や自然があるけど、今日は滝や神社仏閣の訪問は止めることにした。ただ、道の駅のすぐ近くにある補陀洛山寺には参詣して行こうと思った。駅からはわずか100mほどの所に位置しているのである。           

      

新しい道の駅:なちの駅舎(左の方) 右奥がJR那智駅の駅舎。世界遺産登録地の玄関として新築されたようである。

一息入れてから参詣に出かける。ここには何度も来ており、懐かしいというよりも又来ましたという感じである。補陀洛山寺といえば、彼の補陀洛渡海の本拠地であることでも有名である。補陀洛渡海というのは、海の彼方にあるという補陀洛浄土という仏の世界を目指して、小さな舟に乗って大海に乗り出すという、捨て身の行(ぎょう)を行うことである。この寺での修行僧が、平安時代の昔から江戸時代までの間に20回も行ったと、説明板に書かれていた。これは行というよりも自殺行為ではなかったかと自分は思っている。行というのは生死の境目をさ迷うほど過酷な試練をわが身に課して、仏の境地を体験練磨することだと思うけど、しかし、死んでしまっては、行を行った意味がなくなってしまう。わずかな水と食料を積んだだけで、小さな舟で大海に乗り出したなら、その先どうなるかは、今の時代だっで生の安全は保証できるものではない。羅針盤も無線装置もなにも一切ない、ただの小舟なのである。生きて戻れない浄土を覗いてみたとて、世の人々にそのありがたさを伝えることなど何もできないのであるから、これはもう自殺行為であり、本人が嫌なのを無理やり舟に押し込めたとしたら、それは明らかなる殺人行為であったに違いない。宗教が死をもてあそぶようになると、それはもはや狂信の世界であり、健全な人間にとっては忌々しい害悪以外の何物でもない。ジハードなどというのも、その類の匂いがする。少し横道に逸れたようだ。

      

補陀洛渡海の本物サイズの模型船。上部の屋根は展示場の屋根である。船の上の朱色の鳥居に囲まれて杉皮葺きの屋根がある。

      

渡海船の内部の様子。このような狭い中に鎮座して、大海の彼方にあるという浄土を目指しての、捨身の行が行われたという。

久しぶりの補陀洛山寺は、いつもと同じ静かな佇まいだった。相棒はここの本尊の観音様のファンで、前に来た時はご住職にお願いして開帳して見せて頂いていたのだが、今日は先に来られた方がご覧になったようで、丁度扉が閉められるタイミングだったようである。それにあやかって、ほんの少し拝観したようだった。後での話では、住職さんから、あなたの顔は観音様に良く似ていますねと言われたと、嬉しそうだった。木像に似ていたというだけで、観音様に似ているというわけではない。そう思ったけど、口には出さず、随分と優しくない観音様もいるもんだと、憎タレ口をきいた。自分の考えでは、人は誰でも観音様なのだと思っている。慈悲の心が湧いたときは、人は誰でも観音様になれるのである。それゆえ、人は如何に多くの慈悲の心を持ち続けるかが大事な課題となるのであろう。先ほどまで労わりと同情のセリフを述べていた人が、数時間後には別の他人の悪口を憎々しげに言っているというような所業は普通の出来事である。人間というのは不思議な生き物だと思う。

      

静かな佇まいの補陀洛山寺本堂。その昔は大伽藍を備えたお寺だったというが、天災を被って以降このような姿になったとか。この寺も世界遺産の一つである。

補陀洛山寺の参詣を終えて、那智の駅に戻る。道の駅の情報センターの様な所を覗いたら、那智の世界遺産を紹介する写真などが並べられており、その奥の方では世界遺産の紹介用に制作されたビデオがあったので、それをしばらく見ることにした。火祭の行事などは実際に見たことが無いけど、それ以外のものは概ね見聞している。改めて熊野古道などを歩いてみたいなと思った。春の新緑の季節の頃にでも来訪の計画を作ることにしよう。今回は先へ行くことにした。

那智を出発して、次の道の駅:紀宝町うみがめ公園に着いたのは12時半近くだった。ここで昼食とする。今日は特製のうどん。相棒が売店を覗きに行っている間に大宇陀の道の駅で買った油揚げを煮て具を作り、15分ほどで完成。うどん屋でも始めようかなと思うほど、いい出来だった。味にうるさい相棒も文句は言わない。昼食の後は、自家用にとミカンを買う。この辺りもミカンの栽培が盛んなようで、道の駅の売店の外には、5kg入り1000円の袋詰めされたミカンが、大量に並べられていた。軽トラでミカンを運んできた農家のお母さんに、このミカンはあとどれくらい持つのか訊いてみたら、せいぜい10日ほどかなとの答えだった。その方の持って来られた一番新しいものを1袋買い入れた。

紀宝町の道の駅にある道路情報の電光板を見ていたら、尾鷲の先の方のR42の道路の法面が崩れ落ちて通行止めとなってるので、紀勢道を迂回しろと書かれていた。通ったことのない道だけど何とかなるだろうと思いながら出発した。少し行って、熊野市の郊外で給油をする。この辺りの油価は高くて、軽油はL辺り137円以上となっている。その中で134円のスタンドがあったので、立ち寄った次第。それにしても全国を回って見て見ると、油の価格の差は大きい。輸入するまでは皆同じのはずなのに、どこからこのような差が生まれ出るのか、経済活動というのは、計り知れない闇を持っているようだ。

熊野辺りからはかなりの山道となる。トンネルを幾つも潜って、尾鷲を過ぎ松阪に近づく。今日は道の駅:飯高駅場で行ってしまおうと、少しスピードを上げる。飯高の道の駅にはいい温泉が併設されているので、それに入ってゆっくりしようと思ってきたのだが、少し時間がかかり、走り過ぎの感もあって、途中で相棒が風呂には入らないと言い出した。この人は疲れると風呂には入らないタイプらしい。いや、疲れ過ぎて入らないということなのかも知れない。確かに運転もせず、トラックの助手席に座りっぱなしというのは、疲れることであろうし、疲れ過ぎることでもあろう。今日は既に200km以上を走っており、年寄りの半日仕事は守られてはいないようだ。どうも、運転作業などは仕事の内に入らないと考えてしまう傾向があり、これは何とか改める必要があるようだ。16時10分道の駅:飯高駅に到着する。

駅構内の駐車場はかなり混んでいた。我々はいつもと同じ駅の裏手側にある小さな公園脇の駐車場に車を止める。ここへ来た時は、もうこの場所と決まってしまったようだ。この道の駅は我々のお気に入りの場所で、奈良県の吉野からも近く、又伊勢神宮参拝の際にも比較的近い場所なので、便利なのだ。その上に温泉が良い。TVが映らないのが残念だけど、一夜ならばどうってことはない。温泉に入れないほど疲れた相棒は、たちまちどこかへ消え去っでしまった。その間に米を仕掛け、おかずの食材の準備をする。近くで相棒の話し声がするので外に出ると、隣の車の方と話しているのだった。その方は帯広ナンバーで、北海道には多大の関心を持っている相棒のことだから、声をかけて話し込んだのであろう。自分も挨拶をする。相棒の話では、帯広ナンバーのご夫妻は、名古屋までフェリーで来て、その後九州を回られ、今日は伊勢神宮に参拝するつもりで向かわれたのだが、大学駅伝(熱田神宮→伊勢神宮)の交通規制に巻き込まれて、目的を達し得ず、ここに来られたとのこと。明日再度参拝に向かわれるとのこと。ご苦労様です。我々の方は、今回は端から伊勢神宮参拝は考えていない。

自分も風呂に入るのが面倒になり、その後はいつものように乾杯の後夕食をすませ、日本シリーズ最終戦の放送も相棒に任せて、寝床にもぐりこむ。今夜は雨が降るとのことだけど、今のとこその気配はない。何だか疲れた。おやすみなんしょ。← これは我がふるさとの昔のあいさつことば。

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‘13年 秋の関西方面への旅レポート <第8回>

2013-11-03 02:46:48 | くるま旅くらしの話

【今日(11/3)の予定】 

  道の駅:椿はなの湯 →(R42)→ この先未定なれど、R42を辿って、伊勢近くまで行くつもり。

【昨日(11月2日)のレポート】      

<行程>

道の駅:明恵ふるさと館 →(R480・R42他)→ 湯浅町重伝建エリア探訪 →(R42)→ 南部町ドライブイン他 → 道の駅:椿はなの湯(泊)

<レポート>

明恵とは「みょうえ」と読むらしい。ここは元金谷町という所で、明恵上人という偉いお坊さんの生まれた土地なのだという。その名を初めて知ったのだけど、帰宅してから調べる必要があると思った。金谷町は合併して有田川町となったのだが、この辺りも見渡す限りのミカン畑で、道の駅のすぐ傍の畑にもたわわに実をつけたミカンの木がほほ笑んでいた。食べたいという思いは消し飛んで、ただ凄いなあと思うだけの景観だった。妹の所にミカンを送ることにして、昨日売店の人にお願いしており、それが9時過ぎに農家の方が箱に詰めて持ってきてくれることになっているので、朝食の後しばらく付近を歩いたりして有田ミカンの栽培の凄さを実感したのだった。9時半過ぎに農家の方が来られて、発送の手続きを済ませた。小ぶりのミカンだけど、味の方は甘さと酸味が調和した見事な出来具合となっているので、先ずは心配ないだろうと思った。

      

道の駅:明恵ふるさと館のすぐ傍にまでミカン畑が迫って来ており、枝も折れそうなほどに、たわわに稔った黄金色のミカンが輝いていた。

10時近くに道の駅を出発する。今日のメインは、湯浅町の重伝建地区の探訪である。この町を訪ねるのは、まったくの初めてであり、重伝建の存在を知らなかったら、一生訪ねることのない町ではないかと思う。資料による醸造町としての重伝建エリアの存在しか知らず、その醸造の内容も味噌や醤油といったものが中心で、酒がメインではないというのも興味を覚えるところである。道の駅:明恵ふるさと館からは10kmほどしか離れておらず、ごく近い場所である。走り出してしばらく行くと、ミカンなど農産物の直売所があったので、親戚にもミカンを送ったりした。溢れるほどのミカンの山で、滅法安いのである。ミカンは1袋15個くらいも入ったのが、100円くらいの価格なのだ。山の辺の道の大和のミカンも安かったけど、この本場では、それ以上の恵まれた価格に驚かされた。何しろ周囲見渡す限りのミカン畑なのだから、高値などつけたら買う人がいなくなってしまうという環境なのであろう。生産者には厳しいけど、ミカン好きの消費者には天国のような場所だなと思った。

間もなく湯浅町の重伝建エリアに到着する。どこに車を置こうかと駐車場を探したが見つからない。どうするかと少し先に行ってみたら、ボランティア駐車場というのがあったので驚いた。民間企業の駐車場なのだが、土・日休日だけは来訪者に開放してくれている。このような形の駐車場は初めてのことだった。嬉しくもありがたいことである。そこに車を置かせて貰って、さっそく探訪に出かける。

      

ボランティアパーキングの案内版。このようなスタイルの駐車場は全国でも珍しいように思う。グッドアイデアだと、深謝、感謝。

先ずは「醤油発祥の地」と書かれた看板が書かれた古い建物の方へ行ってみた。角長という屋号のその店の建物は、慶応年間に建てられたとかで、その近くにある資料館に入って見ると、醤油製造に係る様々な用具が展示されていた。相当に大きな規模で醤油製造が為されていたらしい。そこの資料館の説明によると、醤油というのは、法燈国師という留学僧が、帰国して隣町の由良に禅寺を開かれたときに、中国から持ち帰った金山寺味噌の製法を伝えた際に、味噌製造の際にそこに溜まった液が大変美味いのを知り、これをもとに醤油が生み出されたとのこと。国師が留学で留守の間、国師の母上をお世話していた女性の方が、その後得度されて覚性尼と呼ばれたが、その方がこの湯浅の出身で、その後の醤油の製造、普及に大きな尽力をされたということである。味噌と醤油は親戚関係にあるとは知ってはいたけど、そもそもの始まりは味噌を親としていたのかと、改めて面白いなと思った。江戸時代には、紀州藩の庇護を受けて、これらの産業はこの地で大いに発展したということである。まだ現役の店も幾つか残っているけど、今は昔の面影は弱くなっているようである。

      

醤油発祥の地と書かれた、角長の看板。黒っぽい建物は醤油の製造蔵。この建物の向かい側左手の方は港の船溜まりとなっている。

その後、幾つかの筋を歩き回った。人がすれ違うのがやっとと思われるほどの細い露地道を歩いてみたけど、櫛比している家の軒下を通る道は、幾重にも曲がりくねっていて、そこはもはや道ではなく、共通の軒下の様な感じだった。中に、上新町の七曲り早口言葉と書かれたのがあり、そこには「七曲り、曲がりにくい七曲り、曲がって見れば、曲がり易い七曲り」とあった。上新町というのは、メインの筋道の中にある場所の様で、細い露地で仕切られているらしい。これだけ密集していると、自分の家も、隣の家も、みんな筒抜けになって、プライバシーもへちまもないなと思ったりした。

       

上新町の細道。真っ直ぐ行くとたちまち角の塀に突き当たり、左に行っても、右に行っても、直ぐに又角が待っている。

更に歩き続けていると、熊野古道と書かれた筋道に出た。予期していなかったのだが、考えて見るとこの地は熊野山に参詣する道が通っていたのだった。熊野古道といえば、すぐに中辺路や那智の辺りの山の中をイメージしてしまうけど、都からはこの辺りを通るのが普通のコースだったのだ。熊野の参詣の道はそのほとんどが山道だった中で、唯一町中を通っていたのがこの湯浅だとか。熊野参詣には、王子と呼ばれる遥拝所が幾つもあるけど、湯浅にもそれが残っているらしい。機会があれば訪ねて見ようと思った。

      

その昔この道は熊野参詣の通り道だった。街道なので、近くには遊郭などもあったとか。

1時間ほど歩いて、そろそろ昼食にしようかと車に戻りかけた頃に、津浦家という資料館を開示している所に出た。ここは麹を作っている家で、内伝という屋号で呼ばれている家でもある。相棒が足を停め、中を覗き込んでいたら、そこの資料館の関係者の方が戻って来られて、何やら相棒に教え始められたようだった。相棒もかなり乗り気になっており、店先に「もやしあります」と書かれているのを見て、興味を深めたらしい。もやしというのは、麹のことなのだと、その方が丁寧に説明されていた。一人外にいるのもまずいかなと中に入ることにした。

      

津浦家こうじ資料館。自家をこうじ資料館として一般に公開されている。

      

江戸末期、伊豆松崎の漆喰彫刻の名人、長八作の麹屋の看板。作る人も、それを頼む人もすごいなと思った。

さあ、それからが大変な勉強の時間となった。麹の勉強ではなく、その昔の湯浅町の様子などを学ばせて頂いたのだった。その女性はこの家の方で、その兄上がこの資料館の代表を務められているとのこと。その方の説明も要領を得ていて見事だったが、その兄上の方が作られたという行燈、湯浅の昔日のジオラマなどの作品が素晴らしかった。それらの作品は、昔の絵図などをもとに全て手作りで作られており、まるで江戸の昔からそこに置かれていたかのようである。特に凄いなと思ったのは、絵図をもとに復元した湯浅港の町の様子を作り上げたジオラマの作品である。港町の全体俯瞰だけではなく、建物の前の通りを歩く人々の姿までが生き生きと作られていた。それらの材料はすべて200年以上も前に使われていた材木であり、布なのである。これはもう、この方は天才というべき才能の持ち主なのだなと思った。何枚も写真を撮った。

      

資料館の代表者の津浦裕さんの作られた行燈の数々。皆昔の古い資料をもとに手づくりで製作されている。

      

津浦さんがつくられたその昔の湯浅港のジオラマ作品。右が港の様子。左は店と蔵の様子。

      

ジオラマ製作の元となった江戸時代に描かれた湯浅の港町の絵図。

      

ジオラマの細部を写したもの。店の前の通りを歩く往時の人々の姿が、実に巧みにリアルに作られている。まるで生きているような躍動感すら感ぜられる。

すっかり興奮してしまい、気がつけばもう12時半を過ぎていた。お礼を述べて車に向かう。その途中、相棒は別の所に首を突っ込んでしまい、自分だけが先に戻るこことなった。結局相棒が戻ったのは、13時を過ぎた頃だった。遅い昼食が済んだのは、14時少し前だった。一休みをして出発となる。

今回の旅の中では、今迄訪ねた重伝建エリアの中では今日の湯浅町が一番印象深いものとなった。この町はかの有名な豪商紀伊国屋文左衛門の出身地であり、活躍の基点となった町でもあった。わが国最初のノーベル物理学賞を受賞した湯川博士も近くに養子入りされていたとか。有名人を輩出している町なのでもあった。関東の片田舎で育った者には、紀州のことはさっぱり判らない。ここに来て見て、ようやく道の世界に風穴が開いたような感じがした。もう何回かは来なければならないなと思った。

さて、これからはもう特に予定はない。明後日に岐阜県の郡上八幡を訪ねるまでは、ちんたら過ごせばいいだけの時間である。今日はこれからとりあえず、白浜町の少し先にある新しい道の駅:椿はなの湯という所まで行って、併設されているという温泉に入り、そこに泊る予定でいる。予報では明日は雨降りとなるらしいけど、空の雲がだんだんと増えてきて、確かに予報は当りそうである。とことどころ渋滞に巻き込まれながら、目的地の道の駅に着いたのは、16時過ぎだった。さっそく温泉に出かける。思ったよりもこじんまりとした施設だったが、お湯の方はすべすべしていて、穏やかな泉質の温泉だった。たっぷり湯に浸って疲れを癒し、車に戻って、ビールで乾杯して、その後はいつもの通りの行動パターンだった。楽天が負けたのを知ったのは、勿論翌朝になってからである。

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