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山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

明日から旅に出ます

2009-04-30 00:03:41 | くるま旅くらしの話

先日予楽と称して1週間後からの旅の楽しみなどについて書かせて頂きましたが、その出発がいよいよ明日となりました。昨日、今日と出発の準備にあれこれと気をめぐらしました。本当はブログを休もうと思ったのですが、出発前の様子なども何かの参考になるかなと思い、いつものお節介気分で書くことにしました。

昨日(4/29)は畑のチエックが中心の一日でした。一昨日の「ホケキョケ?」の鳴き声を聞きながら自転車で畑に向かい、作物の様子を見たのですが、なんとようやく伸び出したジャガイモの葉の一部が、赤みがかっているではありませんか!我が家では市から二箇所の菜園を借りているのですが、その両方のジャガイモ畑共同じような症状を来しているのです。自分の所はまだ良い方で、もっと重症と思われる畑も結構多く見られました。原因が何なのか良くわかりませんが、種芋はちゃんとした所から買っているし、肥料も例年と変らずの配合で施して植えているのです。考えられる原因として、新しく借りた方の菜園は土が出来上がっていないということ、もう一方は連作の影響で、ジャガイモ本来の力が弱くなったため、病気に冒されかけているのではないかと思いました。とにかく枯らすわけにはゆかないので、消毒だけはきちんとすることにして、1日の半分は消毒作業に費やしました。

ジャガイモの他は順調な生育で、ラディッシュやカブなどは、旅から戻る頃には丁度収穫時となっていると思いますし、サヤエンドウはグリンピースになってしまうのがあるかもしれません。そら豆も順調に膨らんでくれるのではないかと期待しています。

畑のチエックの他には、今度の旅で訪問予定の御所市にある一言主神社の分家(?)の、常総市にある同じ一言主神社に参詣して、ご挨拶をしてきました。ご本家を訪ねるのがとても楽しみです。

   

今日の一言主神社。境内の新緑が眩しい。奈良県御所市の葛城山麓の本社はどのような佇まいをしているのだろうか。訪問が楽しみである。

今日は細かい準備に入ります。旅の計画というのは大雑把でいいと思うのですが、準備は周到に行なうのが大切だと思っています。まずは車のチエックを入念に行なう必要があり、足回りやエンジンオイル、冷却水などの状況を確認することにします。TVや冷蔵庫などの付帯設備も要チエックです。そのほか生活関連資材や部品などの積み込みなども一覧表に従って確認することにしています。これらの半分以上は相棒(=家内)の仕事です。今回は調理や飲料として使う水は、市販のものは2Lのペットボトル6本だけ持参し、後は山梨県の北杜市の南アルプス白州の水を、途中の道の駅で汲むことにして、秩父の山越えはなるべく軽い身で行く考えです。

そうそう、往路ですが、東海道を行くのは止め、中央道を行くことにしました。平日は高速を使わないように考えています。出発の5月1日は平日なので、東京を横断することを避け、家からはR16を使って埼玉県の入間から秩父方面に向い、先日の老友との旅と同じコースを取って、雁坂トンネルを通って山を下り、甲府方面へ抜けることにしました。東京の八王子から高尾へ抜ける甲州街道(R20)は、連休のことでもあり、かなりの渋滞が予想されますので、そちらの方は避け、敢えて再度新緑の山越えのコースを選ぶことにしました。

甲府を通過したら、白州の道の駅で水を補給し、明日は一つ先にある道の駅:信州蔦木宿に泊まる予定です。蔦木宿の道の駅には良い温泉が併設されており、久しぶりにこれを楽しんで早寝をし、翌日は早起きして小淵沢のICから中央道に入り、あとは御所市に向って東名道、伊勢湾岸道、東名阪道をマイペースで走るという高速道の運転を予定しています。1000円でどこまで行けるのか、名古屋通過にどれくらいお金がかかるのかなど、捕らぬ狸の何とかやらなどの損得計算もちょっぴり気になるところです。

ということで、今日はワクワクしながらも、忘れ物の落とし穴などにはまらないよう、慎重に予楽をたっぷり楽しむ一日です。明日からは1日遅れで今回の旅の様子をご報告することにしたいと考えています。携帯からですので、あまり長い記述は避け、辿ったコースの簡単な紹介とその日の出来事を一言伝えるくらいのつもりでいます。詳細は旅から戻ってから報告したいと思います。では、今日はこれで失礼します。投稿は明後日からとなります。

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ウグイスにも訛(なまり)あり?

2009-04-29 01:24:36 | 宵宵妄話

訛は国の手形といいますが、標準語などという味も素っ気も無いことばと違って、ふるさとの歴史と味がたっぷり含まれた訛のある話し言葉を聞いていますと、思わず顔がほころんで、嬉しくなってしまいます。春の東北の旅では、いつも東北のパワフルな「だぢずでど」の発音に圧倒される思いを感じています。田舎に行くほど本物の日本語が残っている感じがしますが、それはとても大切なことだと思っています。

ところで、今日の話は茨城県のことばの訛についてなのですが、それが人間のことではなく、鳥の話なのです。ヒマに任せての変な話です。

私は毎日10kmほどの散歩を自らに課しています。これは糖尿病の運動療法の一つとして、もう20年近く続けていることなのですが、守谷に来てからは、幾つかのコースを作って市内を隈なく歩くようにしています。守谷という所は、その昔ヤマトタケルが東征の際に、この地の方々に樹木が豊かに茂るのを見て、森哉(也)!と叫んだとか言う故事から名付けられたと、市の何かの資料に書いてありましたが、確かに今でも緑は多く、とてもありがたく嬉しいことだと思っています。

その歩きのコースの中に、市を縦断して走る常磐高速道の防護林に沿った道がありますが、ここが意外と静かで緑豊かなのです。常磐高速道は、守谷のあたりは高架ではなく、半地下道となっており、その両側にはネズミモチや栗、スダジイなどが植えられていて、それらがかなり大きく育っているのですが、ここを住処(すみか)とする小鳥たちも多く、今頃は特にウグイスたちの鳴き声がかしましく聞こえてきます。

そのウグイスの中にちょっと変った鳴き方をするのが居て、このところ殆んど毎日その鳴き声を聞かされているので、妙に気になっていろいろと思いをめぐらしたのですが、今日はそのことについて書いて見たいと思います。前置きが長くなりました。

さて、そのウグイス君ですが、皆さんは何と鳴くと思われますか?ウグイスの標準的な鳴き方といえば、「ホー、ホケキョ」だと思いますし、今までいろいろな場所で聞いてきたウグイスの鳴き声もそれと同じだった様に記憶しているのですが、この守谷の高速道脇の林に住むウグイス君は、「ホー、ホケキョ」と必ず語尾に「ケ」をつけて鳴くのです。その語尾の「ケ」が実に微妙な高さの発声なのです。その姿を見たことはないのですが、その林の付近を通るときは一日中「ホー、ホケキョ」を聞かされるのです。

変った奴がいるなと、最初はあまり気にもしていなかったのですが、毎回聞かされていると、何だか意味があるのかなと思うようになったのでした。そして、一つの結論に至ったのが、この鳥はイバラキ弁のイバラキ訛で鳴いているんだということでした。何しろ毎日が日曜で暇なものですから、鳥の鳴き声にだって敏感に反応してしまうのです。

イバラキ弁では、語尾に「け」(「げ」と濁って発音する場合も同じです)をつけて、幾つかの気持ちを表現する話し方があります。例えば、「そう」という肯定意味を表わす言葉に「け」をつけると、「そうけ」となりますが、この「け」の発音をどうするかによって意味がかなり違ってくるのです。「け」を軽くそのまま発音した場合は、「そうですか」とか「そうなのー」という肯定の意味となりますが、「け」を長く延ばして発声し、最後に上げ気味に発声すると「本当にそうなの?」という疑いの意味を表わすことになるのです。このあたりのことは、書いただけではなかなかその使い方が分からないのですが、大雑把に言えば、語尾に「け」をつけることによって、肯定も疑問も軽蔑も感心もといった変化に富んだ意思疎通のことばとなるということなのです。これは県北も県南もあまり変らない使い方のような気がします。

さて、そのウグイス君なのですが、「ホケキョケ」とやっているわけです。これは「やはりホケキョなのか」という肯定の意味と「本当にホケキョなの?」という疑問、軽視の意味との二つに受け取ることが出来るのですが、私が聞いている限りでは、彼の言っているのは疑問、軽視の意味が強い感じがするのです。つまり、このウグイス君は、ウグイス社会での標準的な発声である「ホー、ホケキョ」というものに対して大いなる疑問を投げ続けているのでした。

もう一つ、日蓮上人がこれを聞いたら何と説教されるのかなあと思ったのは、このウグイス君は、法華経に対する疑問を投げかけているようにも聞こえることです。普通のウグイスたちは「法は、法華経」と謳っているのに、このウグイス君は「法は、法華経?」とイバラキ弁丸出しの大声でわめき続けているのですから。

いやはやとんだ話です。家内にこの話をしたところ、面白がって聞きに行こうということになり、家から2、3分のその場所に行ってみたら、やっぱり大声で「ホケキョケ」とやっていました。いやあ、家内の笑うこと、笑うこと。イバラキ弁のウグイスがすっかり気に入ったらしく、大受けでした。我が家はこのウグイス君のおかげでしばらくストレスが溜まりにくい日が続きそうです。それにしても、どうして彼は「ケ」をつけて鳴くのかなあ?全く、ヒマな毎日です。「そんなに毎日ヒマなんけ?」とウグイス君にも言われそうです。

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豚の次は?

2009-04-28 01:18:43 | 宵宵妄話

今世界中を駆け巡っている恐怖の話題は、不景気についてではなく、豚君たち専用の病気を人間が引き受け出したという話です。鳥君たちとのその問題もまだ先が見えたという訳でもないのに、今度は豚君たちとの世界の話なのです。何とも不気味な話です。

もし生き物が他の生き物を殺してはいけないという、神が決めた絶対的なルールがあるとしたなら、他の生き物を食料としている動物は、相当に厳しい天罰というか神罰のようなものを受けているに違いないのですが、例えばライオンや豹や虎などの肉食動物は、もしかしたら短命という罰を与えられているのではないかと思うのです。動物の殆どは、植物を摂取することによって命を育み続けているのですが、その手順をパスして(つまり手抜きして)他の動物を食料としているものに対しては、本来の命を相当削って然るべきだと天は考えているような気がするのです。

人間というのはどうなのでしょうか?人間は植物も食べれば、動物も食べます。天の意向など無視して、命だってどんどん延ばし続けています。命を延ばし続けることによって、享受できるものが何なのかなどということはお構いなしに、寿命を引き伸ばしています。地球という太陽系惑星に生存する生き物の中で、最も天意に逆らって、というよりもそれを無視してこの惑星に作られた生命体維持のトータルバランスを破壊しているのは人間であることは間違いありません。そのことに気づいている人間も多いのですが、気づいても改めないというのが人間の特徴の一つでもあるようです。

それは何故かと言えば、人間の持っている生きる時間を計る物指しが、極めて小さいからなのだと思います。人間は自分たちが使っている時間の物指しが小さいために、100年先のことは愚か、毎日の暮らしの中では、明後日くらいまで考えればそれで十分だと思ってしまうのです。今起こしている小さな違反や汚染などの不具合行為が、100年後にこの地球を破壊することにつながるとしても、そこまで見通して真剣に取り組むという人間は、ほんの一握り足らずに過ぎません。そのことは、個人のみならず、国家という巨大組織においても、例えば京都議定書に対する大国の係わり具合を見ただけでも明かなことでしょう。地球温暖化問題が、やがてこの地球をどのように変えてゆくかという知識は、一国の運営に係わる人間達には不足しているとは思えません。しかしその様な知識とは無関係に、現実の人間社会では、温暖化を止める行動は起せないのです。もし本気になったなら、現在の暮らしをレベルダウンし、体制維持を大きく歪める不利益を招来するのは明らかであり、それ故にアメリカも中国もインドも、当面の課題としての温暖化対策を本気で受け入れることはできないのです。

さて、豚インフルエンザの恐怖ですが、報道によればメキシコを起点に大変な勢いで世界各国に広がる様子を見せており、遠からずわが国にも侵入するのではないかという不安を増幅しています。一体どうしてこのようなことが起こるのでしょうか。その動物特有の感染しかしていなかった病原体が、その領域を超えて他の動物へ移って行くと言うことが起こっている、これはどういうことなのでしょうか。今まで決して起こらなかった病原体と被感染体との関係が、その禁を破って他の被感染体を選び出した、しかもその対象が人間であるということは、何を意味しているのでしょうか?

勿論その答えなど解る筈もありません。専門家の科学的考察や研究では、何らかの筋道が見えているのかもしれませんが、一般の人間には、何も分からず右往左往しながら成り行きに任せるしかありません。実に恐ろしいことです。その恐ろしさを感じながら、一つだけ想っていることがあります。

それは、牛のBSE(=狂牛病)から始まって、鳥インフルエンザ、そして今回の豚インフルエンザにつながる身近な動物たちの病との係わり合いの崩壊の意味するものが、人間の側に何らかの引き金となる要因があるに違いないという思いです。狂牛病などは人間が与える餌に原因があるのは明らかだと思いますし、鳥だって彼らに必要な、或いは不必要な何かを人間が阻害したり強制したりしているに違いないし、今度の豚もまた彼らが生きる上で根源的に重要なものを、人間が破壊していることによるのではないかと懸念せずにはいられません。

ま、このような考えは暗示的な只の勘ぐりみたいなものなのでしょうが、人間が身近な動物たちとの、何千年という長いつきあいにおいて、不自然というか、過去の付き合い方とは違ったやり方を一方的に変えるようになったのは、ここ数十年の間の出来事ではなかったかと思うのです。それは動物たちからの要請ではなく、一方的な人間の思いあがりによるものであることは明確です。大量生産・大量消費とか、経済効率とかいう発想が、この世を支配し出してから未だそれほど時間が経っていないのですが、この思想は人間と動物との関係までも大きく変えてしまったような気がします。如何に効率よく、低いコストで食料としての牛や鶏や豚を生産するかという発想は、動物が本来持っている生命体としての尊厳に係わる部分さえも無視して、食べさせてはいけない飼料を与え、コピーの動物までも作り出して、人間の都合に合わせようとしている、そのように思えてなりません。

このような人間どもの天を恐れぬ行為に対して下された罰というのか試練というのか、そのような警告が今起こっている一連の現象の意味のような気がするのです。一人の人間として、私はこのことを、姿勢と意を正して受け止めなければならないと思っています。とは言っても、今の世の中の仕組みから外れて生きてゆくことなど到底不可能なのですから、できることなどたかが知れています。

今思っているのは、本物のベジタリアンとなることを少し早めなければならないということです。元々70歳になったら、食生活を植物中心に切り替えようと考えていましたが、このような事態が到来してしまうと、格別長生きをしたいとは思わないのですが、残りの人生の時間を自然界に反したやり方で過したくはないように思えて、動物を食料とするのは極力控えようと思ったのでした。

人類未体験の、動物たちの怨念のようなものが籠められたインフルエンザは、もうこれ以上に進展しないように、人間は襟を正すべきではないかと思うのです。生き物を食料として扱うのは仕方が無いとしても、その本来の生き方や尊厳を踏みにじるような行為はとるべきではなく、今起こっている一連の不可解にして不気味な現象を、天の警告として受け止めるべきと思うのです。豚の次は羊だなどとならないよう祈るばかりです。

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もう一度草現象をめぐって

2009-04-27 00:15:01 | 宵宵妄話

先日の草という人の蛮行に関する騒ぎの中で、ある政治家の発言に、今日の政治の精神的貧困の如実な姿を見る思いがしました。そのことについて、一言言わせて貰いたいと思いました。

その人が誰かというのは、多くの方の想像と一致するところです。先にも書きましたが、草という人の行為は褒められるものではないことは明白ですが、怒り心頭に発するほどの社会悪的な行為でもなさそうで、彼が高名なタレントでなければ、嗤(わら)って済まされる程度のバカげた話で終るものであり、本気で犯罪などと呼ぶべきかどうか疑問のある話だと思います。

その人の最初の話では、草という奴は、めちゃくちゃに怒りを感ずる最低人間だというトーンでした。何故かといえば国を挙げてPRに努めている、地デジ放送への切り替えについてのメインキャラクターを依頼されていながら、国民の信頼を裏切るような行為をしたからだ、ということなのでしょう。その人の立場から言えば、彼の登用は全くの面汚しだということに違いありません。確かにその気持ちは分かるような気がします。

ところで、その人が1日経って前言を撤回するというのです。最低人間と言ったのは言い過ぎだった、人間ではなく彼の行為が最低最悪だと言い直すという話です。これを聞いて私は唖然としました。口というのは真に便利で重宝なものだな、と。時々感ずるのですが、政治に係わる人たちというのは、その発言の撤回作業というのが得意のようです。私にはこれが全く解せません。議事録に載るような発言であれば、載せるか載せないかの判断をめぐって、撤回などというインチキな作業も必要なのだとは思いますが、ものごとの真実としては、一旦言ってしまったことが撤回などという見かけの所作によって白紙に戻るなどということはあり得ないことだと思うのです。

その人については、このところの一連の発言や行為を見聞している限りでは、正義の味方の感じがしないでもなかったのです。JPのかんぽの宿の売却問題では、強腰の物言いで国民の言いたいことを代弁して突っ込んでくれているという風にも見えました。正義というものが大変危うい、幻想に近いものだということは、古稀を迎える年頃の者には、よくよく承知していることなのですが、この人の正義感というのも、今回の前言撤回の振る舞いを見せられてしまうと、やっぱり危ういものだったのだと思ってしまうのです。

このところの政治家の人たちの振る舞いを見ていると、国民という得体の知れない怪物に対する媚(こび)と人気取りに終始している感を拭えません。全ては選挙のためであり、選挙をクリアーできなければ政治家としての始まりは無いという考えがあまりにも露骨な感じがします。そう考えざるを得ないのは当然かも知れませんが、為政者というのは、もっともっと人間として奥深いところでの見識とか胆識とか言うものを据え持っていることが大切であり、それを磨いているか否かが問われるべきだと思います。その本物の人間としての力が備わっていれば、自ずと選挙に勝つことも可能となるに違いありません。そのような人物に勝って欲しいものです。

今の世は、あまりにも手法というか、技法というような表面的な対処法が偏重されているような気がします。選挙という試練を突破するのにも、本来の人間力などとは無関係の、只管(ひたすら)なる集票方法を工夫し、意識・行動することが大事なのだという発想で覆われてしまっている感じがしてなりません。人気取りというのもその中の不可欠な手法の一つなのでしょうが、政治家の本物の人気というのは、人間として持っている内から滲み出てくる可能性であり、ブレない信念なのであって、それが言動において常に立証されているということなのだと思うのです。

この度のその人のとられた言動において一番ガッカリしたのは、人間を見る目の狭さというか、懐の浅さでした。人間という生きものはもともと弱いものです。その弱さのことを見誤るのは、人間観についての修業不足を露呈していることに他なりません。人間というのは、誰もが社会的に良い事ばかりを行なって生きているわけではなく、善悪のせめぎあうギリギリのところで、反省したり胸を張ったりして生きているのが実際の姿なのだと思います。悪としか言いようが無い行為が、断じて許されないのは当然ですが、善悪ギリギリの世界での生き様に係わる行為は、むやみやたらに責めて良いものなのか、先ずは己自身の生き様の現実に照らしてみる必要があり、更にはその行為の当事者の実情・実態をしっかりと見極める必要があると思うのです。

世にいじめなるものは世代を問わず無数に存在しますが、その多くは強者と思い込んでいる者が弱者と思い込んでいる者を責め苛むという形をとっているような気がします。よく考えれば、強いとか、弱いとか言うのは本人の只の思い込みに過ぎないものというのが分かります。戦(いくさ)では相手の弱点を突くというのが戦略・戦術の常道となっていますが、もし平和を前提とする安心・安全の世の中を実現しようというのなら、相手の弱点を突くという行為は、厳に慎まなければならないものだと思うのです。

世の中に本当の強者がいるとしたら、それは己が弱い人間なのだということを素直に認め・受け止め、それゆえに信念を持って生きている人でありましょう。そのような強者は決して己が強者だなどと力を誇示することなど無く、他者を労わる心を持っているに違いありません。人間としての裁量というのは、このような強者であって初めて保有できるものなのだと思います。

社会的に大きな責任を背負う立場にある為政者は、軽々と人の非を責めるなどということを行なうべきではなく、深くその人の人間性を思って、慎重に対応すべきと考えます。その判断がブレるような言動は、為政者としての人間力の不足を物語っており、大いに自省する必要があると考えて欲しいものです。人気取りや一時の感情でものを言うのは、決して正直でも正義と呼ぶべきものでもないような気がします。

私は、為政者の立場の人たちは、本物の強者であって欲しいと願っています。政治を志す全ての人は、似非の強者には絶対になって欲しくありません。最近政治家の世襲について云々されていますが、多くの二、三世がそのあり方を問われているのは、先代を凌ぐ人間力や強者としての資格が大幅に欠落している人が多いことがその本質にあるように思います。(ま、この話は本当は選挙民の怠慢にあることが最大の問題なのだと思いますが)

事件発生から数日たって、もはや草という人の話題はマスコミからは消えつつあるようで、真にご同慶の至りでありますが、ま、枝葉のついた話はこれからも多少残ってゆくのかも知れません。しかし、この事件をめぐって、計らずも露呈した為政者の言動には、大いに反省を促したく、斯界を上げてその人間修練に身を入れて欲しいと思ったのでした。政治家が世辞家となってはならず、己の弱さを知る本物の強者として、信念を持ってこの国を引っ張っていって欲しいと思います。

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エビネ咲く

2009-04-26 00:34:55 | 宵宵妄話

今日(4/25)は終日の雨でした。春の雨は、生き物の生命を躍動させる役割も担っているように思います。私のような、間もなく古稀を迎えようとしている人間にも、ほんの少しだけではあっても、生きている喜びを気づかせてくれるのです。雨そのものには、冷たさしかないのかも知れませんが、その冷たさの中に含まれる恵みの部分を、萌え始めた若葉が吸い取って力をためているのを見ていると、明日の晴天の輝きを期待することが出来て、嬉しくなるのです。

庭の隅にエビネの花が咲いています。黄エビネです。我が家では2種類のエビネを地植えにしていますが、今最盛期を迎えているのは、黄エビネの方です。これは3年ほど前房総の旅に出かけた時に、富山町(今は南房総市)の道の駅で買求めたものです。この時も気まぐれの衝動買いでした。エビネというものに、さほど関心があるわけではないのですが、庭に一株くらいあってもいいのではないかと思ったのでした。その黄エビネが春の雨の雫を目一杯に吸って、きらきら黄金色に輝いています。今年は大振りの茎を3本も出して、年を経るごとに増えてくれているのは、真に嬉しいものです。普段は目立たない存在ですが、花を咲かせている間は、地面のその辺りがいつもとは違う雰囲気となるのは、この植物の持つ実力なのでしょう。

   

我が家の前庭の黄エビネの花。この一角だけが黄金色に輝いているのを、毎朝の楽しみにしている。

エビネというのは、その花をよく見ると実に不思議な形をしています。ランの類は、どのに花も奇を衒(てら)うほどの怪しげな雰囲気がありますが、エビネもその怪しさがかなりあるような気がします。小さいけど厚ぼったい、妖艶な花には、ある種の蠱惑(こわく)的なムードが漂っています。一体自然というのはどのような算段があって、このような造形をランたちに課したのでしょうか。実に不思議を感じます。

エビネの命名は、その地下茎(バルブと呼ばれる)が海老のような形をしているということからなされたとのことですが、地下茎をしみじみと見たことはありませんので、よく分かりません。花の形からの呼び名でないことははっきりしていますから、間違いないことなのでしょう。もし1年に1個ずつバルブが増える度に花も1本ずつ増えるというのであれば、あと7年後には今頃には10本の黄エビネが咲くことになり楽しみです。是非そうあって欲しいなと願っています。

我が家のもう一つのエビネは、一般的に園芸用に栽培されているもので、こちらの方は黄エビネと比べればありふれており、地味な感じがします。いつ、どこで買ったのかも覚えていませんが、黄エビネよりも前に買ったのは確かです。この家に引っ越してきて間もなく野草園を作り、その後にこれを植えましたので、もう5年くらいは経っていると思います。どうしてこのエビネを買ったのかも覚えておらず、単なる衝動買いだったのだと思います。ベランダくらしでは、旅に出ることの多い者には、エビネなどの継続育成は難しく、なかなか育てる気になれなかったのですが、守谷に越してからは、地植えが出来ますので、ちょっぴり欲を出してこれを買う気になったのだと思います。

エビネの中ではもっとも平凡な野草園の彼らは、今年は大きな集団となって花を咲かせてくれようとしています。去年までは3本くらいの花しか咲かせていなかったのですが、今年は数えてみたら9本にも増えていました。楽しみです。5年経って、ようやくこの土地で生きてゆこうと決心してくれたような気がして、何だか嬉しくなりました。野草の多くは、気がつくと消えかかっているものがあり、その度に申し訳ない、可哀想なことをしたなと反省するのですが、一時は消えかかっても又勢いを盛り返してくれるものもあり、このエビネもその一つのように思います。

   

裏庭野草園のエビネ。未だ蕾の状況だけど、間もなくあっという間に満開になるはず。エビネは、蕾と満開とでは花の雰囲気がかなり違う。この頬染めたような蕾の姿も好きだ。

エビネも人間もその他の生きものも、己を生かそうとする環境を見極めるまでには、それなりの時間が掛かるものなのかも知れません。野草園の植物たちを見ていると、そのことに気づかされます。特に早春から今頃にかけての季節には、そのことを強く感ずるのです。さて、己を生かすべき環境がどこにあるのか、自分自身を振り返ってみる時、未だ迷いの渦の中にいるような感じがしています。

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一週間後の旅(予楽)

2009-04-25 00:14:40 | くるま旅くらしの話

今日の夕方のNHKを見ていましたら、地方版で今度の連休にキャンピングカーを使ったり普通のマイカーを使ったりの、車中泊による旅のことが放映されていました。私もこの連休には一週間ほどの関西行を予定しており、どのような内容かと興味を持って見ていたのでした。くるま旅に関するTVなどの放映では、ともすると旅の内容よりも旅に使用する車の設備の様子や使い方などの工夫などについて強調されがちですが、私はそのようなことは大して重視するような問題ではなく、もっともっと大切なのはとにもかくにも旅に飛び出る勇気というか、決断ではないかと思っています。TVに登場された若い方は、家族の絆を強めるらしき目的などについて話をしておられましたが、とても素晴らしい考え方だなと思いました。そしてその思い切りというか決断に対して大いなるエールを送りたいと思います。

世の中の多くの方たちは旅に出たいという願望を持っているに違いないのですが、飛び出す勇気よりも様々な理由を見つけ出して不安と諦めに包(くる)めてまとめ上げ、旅になど出かけるのはやっぱり無理というネガティブな結論に、自分自身を縛りつけるのにエネルギーを使ってしまっているような気がします。特に私などと同世代の高齢者、及び現役リタイア後の高齢者予備軍の方たちには、存外その傾向が強いような気がして少し残念です。リタイア後は、自らを今までの束縛から解放して、くるま旅のもたらしてくれる福音を味わって欲しいと願っています。旅には人を元気にする不思議な力が秘められていると信じて疑いません。

何だか少し脱線してしまいましたが、今日はこの後一週間後に迫った関西行の楽しみについて、独りよがりの所感というか期待などを書きたいと思っています。

3月の半ばにTASというキャンピングカークラブのTさんから、奈良県の御所(ごせ)市で開催予定のキャンプラリーへのお誘いを頂戴しました。その案内書を拝見すると、北東アジアオートツーリング交流会(日本と韓国のキャンピングカー愛好家を中心に、北東アジア地域におけるオートキャンピング活動を通じて、人、自然環境、歴史や文化を体感して学ぶことで、相互理解を深めることを目的に活動するオートキャンパーの国際的団体 ~ 近い将来、奈良を基点とし韓半島を経由し、シルクロードをイスタンブールまで走破するという壮大なビジョンを掲げ、国際的な活動をしている)主催の「東アジア文化交流フェスティバル・イン御所」にTASも参加するということでした。単なるキャンピングカークラブとしての集まりではなく、奈良県や御所市、それに韓国領事館も後援して頂くという、一大イベントなのです。

Tさんの発想は雄大で、日本はもとより常に世界を視野に入れておられます。北米製日本向けモーターホームの名車、B.C.ヴァーノンは、Tさんが情熱を燃やして生み出し、育て上げられた車なのです。私がこの世界では高名なTさんとお近づきになれたのは、「モーターホーム」という旅車の捉え方であると思っています。私はキャンピングカーという呼び方は、旅車には相応しくないと思っているのです。ある場所で、そのような話をした時に、賛同して下さったのがTさんでした。私は、キャンピングカーという発想では、わが国にくるま旅の文化は生まれないように思っています。モーターホームという発想が無ければ、欧米のようなくるま旅の文化も環境も生まれてこないと思うのです。夏休みや連休等の休日を使って、慌しいアウトドア生活に使うだけの車であれば、キャンピングカーという呼び方は適正かも知れませんが、それではくるま旅の文化は生まれません。Tさんの思いも似たようなところにあったのかもしれません。旅車の先達として大変尊敬しているお方です。

さて、そのTさんのお誘いにありがたく乗らせて頂きました。大会は5月の2日から5日までですが、この間には日韓の歴史に関する講演やシンポジウム、葛城山登山や古道散策、郷土料理体験教室などなど多種多様なイベントが組まれており、興味津々です。特に初日の午後に開催される御所市古代史検証講演会「神武東征伝説」(大手前大学教授:上垣外憲一氏)や夕刻の韓国伝統舞踏公演などが楽しみです。

私はもともと古都奈良の大ファンです。奈良は大和の国の発展の基盤となった場所です。京都よりもずっと歴史は古いのです。私の先祖を辿れば(そういう趣味は全く無いのですが)恐らく、奈良に行き着くのではないかと思っています。奈良にはもう何度も足を運んでおり、室生村辺りに何年か移り住んで、藤原の都近郊の史跡を訪ねてみたいなと思ったこともありました。日本という国の原点が奈良ではないかと思っているのです。

でも御所市という所は、今までは通過ばかりでしたので、今度は立ち止まってじっくり見る機会が訪れたのをとても嬉しく思っています。元々今度奈良を訪れる時には、御所市にある一言主神社を訪ねようと思っていました。というのも、私の住む守谷市の隣の常総市には、その一言神社の分社(?)のようなのがあって、これが我々の父母の世代の人たちには結構人気があり、参詣する人が多いのです。今でも地元のみならず房総(下総・上総=千葉県)からの参詣者は少なくないようです。私たちも家内の母を連れて何度か参詣しています。その神社の由緒書の中に、葛城山からのお告げで神様がこの地に降り立ったようなことが書かれており、ご本家は御所の大和葛城山麓にある一言主神社なのだと知ったのでした。

   

常総市(旧水海道市エリア)にある、三竹山一言主神社。この近郊では最も人気の高い神社であり、参詣する人の数も多い。建物も歴史の長さを示す風格がある。ご本家(?)の葛城山麓の一言さんに参詣するのが楽しみである。

一言主の神様というのはネットの百科辞典によれば、「『悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、言い離(はな)つ神』という託宣の神ということから、願い事を一言のみ叶えてくれるという信仰を集めて「いちごん(じ)さん」と呼ばれ親しまれている」とありました。一言だけ願い事を叶えてもらいたいために、欲の深い人間は、前回とは違う一言を用意して、何度も足を運ぶのかも知れません。頼まれた願いごとを、全て叶えてはやらないというところが面白い神様だなと思います。又その昔、役(えん)の行者(=役の小角)が葛城山で修業したとも聞いており、葛城山という山にも登ってみたいなと思っていたのでした。そのようなわけで、もうはっきりしている楽しみがたくさんあります。

少し早めに出発したかったのですが、5月1日にどうしてもエスケープできない予定があり、出発はその仕事が終ってからとなりました。午前中には出発できると思っていますが、未だコースを決めていません。関西方面に行くには、守谷からは3つのコースがあります。1は、都心を横切って東名道を使って行くコース。2は、都心を半周して中央道を使って行くコース。そして3は、北陸経由で関西圏に入るコースです。今のところ2にしようという思いが強いのですが、何しろ最小費用で済ませようと考えているものですから、なかなか決まりません。ま、この迷いもまた旅に出る前の楽しみの一つです。

向うへ着いたら、イベントを終えた後は、せっかくなので、9日までは関西圏をウロつくことにし、10日に帰途につきたいと思っています。知人にも会いたいし、山辺の道も歩きたい。桜井の三輪そうめんも手に入れなければならないし、室生寺の石楠花や長谷寺の牡丹はどうかななどと思いは膨らみます。いずれにしても、行った時の状況と気分で決まることだと思っています。願わくは、あまり暑くない清々しい晴天に恵まれんことを。これが今の一言さんへのお願いです。

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草現象をどう見るか

2009-04-24 00:12:46 | 宵宵妄話

 昨日TVでオカラを使ったおかずの料理番組をやっているのを、何となく家内と見ていましたら、その途中にチャイムが鳴り、画面にスーパーで草というタレントが逮捕されたとい文字が流れました。何のことかと思いましたが、どうせ又TVで浮かれているチャラチャラ族の悪質な脱線の話ではないかと思ったのでした。しかし逮捕というと穏やかではない話ですから、よほど悪質な犯罪に係わったのではないかと思ったのでした。

 私は草などと言う人を全く知りません。何しろ化石人間ですから、TVの中の人気者などには大して興味も関心もないのです。唄って騒いで、ギャグを飛ばしておれば、人は笑って世の中は平和だなどとは全く考えないのが化石人間の発想です。今の世は、本物の笑いが極端に少なくなって、あぶくのような二束三文の笑いが飛び散っている感じがします。本物の笑いを伝えてくれるのは、今一番期待している噺家の中では、桂文珍のような人だと私は思っています。笑いの批判をする気持ちなど特に無いのですが、TVの中で、あまりにも安易なジョークが乱れ飛んでいるのを見ていると、これはもしかしたら亡国の始まりなのではないかなどと、化石的発想を一層強めてしまうのです。

 今回のタレントの犠牲者は、SMAPとかいう人気グループの草という人でした。彼はチャラチャラの仲間ではなく、真面目な人達からも広く受け入れられていたようで、評判は悪くない人だったようです。ここで、あえて犠牲者と言いたいのは、大騒ぎとなっている犯罪の中身が、単に素っ裸になって大声を上げて騒いだという程度のことだからです。公然わいせつなのか、それとも軽犯罪なのか判りませんが、報道ではわいせつと言っていますから、そういうことなのでしょう。酔っ払って裸になって喚(わめ)くなどという人間はどこにでもいますし、グループの集まりの中で、宴会の興がのり過ぎ狂って、時には皆でおだててそのようなことを仕向けさせることだってよくあるのですから。さほどに大騒ぎしなくてもいいのではないかというのが私の受け止め方です。

 タレントなどと呼ばれる人たちの毎日がどのようなものなのかは、毎日が日曜日で時間をもて余している私などには、なかなか想像も出来ませんが、毎日本当に好きなことばかりをやっているわけでは無いのですから、ストレスが相当に溜まるのではないかと思うのです。その解消のために一杯やり、時には違う世界に休みに行くというようなことを心がけるのだと思いますが、人間である以上は羽目が外れてしまうこともあるのではないかと思うのです。羽目が外れた結果が、夜間に公園で素っ裸で大声というのは、彼を取り囲んでいる環境の中では、下の下の所作だったことは間違いないでしょう。とにかく悪い羽目の外れ方でした。

 私が思うのには、彼は羽目を外したのではなく、勝手に外れてしまったのではないかと思うのです。それが証拠に、本人が何故裸になったのか解らないと言っているのです。解っていてその様な行為に至ったのなら、これはもう外れたのではなく外したに違いないということになるでしょう。抑圧されて眠っていた彼のもう一つの心が、一気にエネルギーを噴出して開放行為を断行したのではないかと思うのです。バカバカしい話だなと思いながらも、何だか草という人が可哀想で、気の毒だと思いました。

 一般に公然わいせつといえば、もっと意図的な犯罪性の高いものを指すように思います。もし彼が真昼間の人通りの多い街路上で同じ行為をしたというなら、これは社会的通念から言っても断じて許されるべきものではないと思います。確かに迷惑には違いありませんが、夜中であれば公然わいせつ性は一段とトーンダウンするような気がするのです。

 何だか彼の味方になって、そのような罪は許してやれ、大目に見てやれというトーンになってしまいました。しかし、彼の行なった行為は、やはり置かれている社会的な状況から考えれば、許されざるものには違いありません。そのことは彼自身が一番よく理解していると思いますし、このことで嫌というほど重い社会的制裁を受けたのだと思います。

 私は今回のこの出来事を「草現象」と呼びたいと思います。ネットで調べたあるデータによれば、草という人は、草食男子のイメージタレントのランキング第1位だったということです。その凶暴性の少ない穏やかなタイプと見られていた彼が、突然このような破廉恥とも思える行為に至るのは、社会的な病理現象の表れではないかと思ったのでした。そしてこのような現象は、今までも無数にあったし、これからも現出するのだと思います。それは人間の持っている本質的な弱さであり、誰にでもある可能性ではないかと思ったのでした。

 とにかくもう騒ぐのはこの瞬間だけにして欲しいと思います。ワイドショーなどに取り上げて、さももっともらしく善人ぶったアナウンサーやコメンテーターが物申すなどというようなことは止めて欲しいと思います。大罪を犯し、犯し続けている人間はもっともっと他に幾らでもいるのですから、このような話題を、退屈紛らしの生贄にするのは、ほどほどにして貰いたいと思ったのでした。

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温泉に行く

2009-04-23 00:00:56 | 宵宵妄話

花も散って、若葉がいよいよ本格的に輝き始め出しました。旅に出ない間は、日中は専ら歩きと畑仕事に力を入れ、身体を動かして汗を掻くように努め、昼寝の後は夜中に起き出して書き物などに精を出すのがこの頃の暮らしぶりです。

今年は3月の初めに植えつけたジャガイモが、なかなか芽を出してくれなくて、あまりに早くやり過ぎたのかと気をもんでいましたが、ようやく生え揃ってくれたようで、先ずはホッとしているところです。

   

ようやく芽がでて、葉を出しはじめたジャガイモたち。水はけがよくない土地のようなので、畝床を少し高くして植えてみた。そろそろ雑草共を取り除く必要がある。

今、私は市から2ヶ所の菜園を借りているのですが、今年新しく借りた方の菜園は家から少し遠くて、歩くと30分以上掛かります。こちらの方は30㎡で、その90%にジャガイモを植えてあるのですが、ずっと使っていなかった農地らしく、土が固くて、早く植えたジャガイモは芽を出すのに苦労したようです。

もう一方の家から近い方(歩いて15分ほど)の菜園は、50㎡あって、こちらの方は来年の3月末で契約期間が終了となります。最後となる今年は、腹いっぱいそら豆を食べてみたいと、昨秋、畑の半分近くにそら豆を播きました。残りはジャガイモとラディッシュや小松菜などの青物野菜を播いています。その畑に、昨日(4/22)の散歩の途中に寄って見たら、大きく育っていたそら豆の枝や花が何だか様子が変なので、近づいてよく見ますと、なんと大量のアブラムシが発生して葉の先端辺りに付着しているではありませんか。驚いて家に飛んで帰り、消毒用具一式を車に積んで畑に引き返したのでした。2時間ほどかけて丹念に消毒を済ませたのですが、果たしてこれで大丈夫なのか心配です。もし上手くゆかないと、今年のそら豆を腹いっぱい食べたいという夢は消え去ってしまうことになります。注意して見守っていたのですが、虫たちの発生はあっという間の出来事でした。

そのような大事件があって、少し疲れました。そら豆を食べられなくなるかも知れないというショックが大きかったのかも知れません。食い意地が張っているというか、卑しいというか、どうも私は「貪等(とんとう=)を宗とする」(禅の五観の偈のその三に『心を防ぎ過(とが)を離るることは貪等を宗とす~心を正しく保つためには、貪(むさぼ)りの心を持たないということを大切にしよう、というような意味』)というような戒めの世界からは遠く離れた世界に住んでいるようです。

ということでその疲れを癒すために、今日は温泉に行ってきました。偶々家内も腰痛のため好きなフォークダンスの練習を欠席するというような具合でしたので、治療をかねて出かけたわけなのです。今月号の「温泉博士」には、埼玉県は鷲宮(わしのみや)町(北葛飾郡)の名泉、「百観音温泉」が温泉手形に紹介されていましたので、そこへ行ってきました。鷲宮町は我が家からは50km足らずの近場です。1時間半ほどで行くことができます。この温泉に行くのは、今度で二度目です。

百観音温泉は、比較的新しい温泉で、未だ温泉が出て10年ほどしか経過していないのですが、全国有数の名泉の誉れ高きというか、良質な温泉として知る人ぞ知るという存在です。少し宣伝をしちゃいましょう。地下1,500mから出るお湯は、湧出温度が57.8℃、湧出量は毎分4800L。15万年前に閉じ込められた海水(=化石海水)が天然ガスの力で噴出したもので、自噴しているというのは、このエリアでは珍しいのではないかと思います。かなりしょっぱいのですが、泉質は、ナトリウム塩化物強塩温泉、高張性、弱アルカリ性、高温泉と書かれておりました。

もう一つの、日本天然温泉審査機構の認定によると、審査の対象となる6項目(温度・泉質・引湯・給排湯方式・加水・新湯注入率)の全てで5つ星を得ているという、わが国ではこの評価を得ている温泉はH19.8.31現在でたった13しかなく、その中に含まれるという、全国でもトップクラスの温泉であるということでした。

そのような名泉なのですが、能書きはともかくとして入った感想としては、十二分に満足です。何種類かの浴槽があり、勿論露天風呂も幾つか用意されており、更にはサウナも付帯しています。どの湯もかなり温度が高くて、ほんとはもう少し温(ぬる)めがいいなと思うのですが、加水なしなのですから熱いのは当然なのかも知れません。源泉に入れる湯船もあり、この温度は60℃に近いので、これにチャレンジするのは要注意です。今回は遠慮させて頂きました。

入ってから2時間ほどかけて寄り道をしたりして帰宅したのですが、午睡の後はすっかり疲れが取れた気分になり、この温泉の効能はかなりのものがあったと実感しました。化石海水というのがどのようにして出来たのか分かりませんが、古代の海は生命のふるさとであったわけですから、それが身体の癒しに効かないわけは無いと思ったのでした。我が家から比較的とかい所に本物の温泉があるというのは、嬉しくもありがたいことです。今日は何のことやらまとまりのない話でした。

   

百観音温泉入口付近の様子。あまり上等の建物には見えないけど、お湯の方は極上であり、期待を裏切らない。お勧めの温泉の一つである。(住所:埼玉県北葛飾郡鷲宮町大字西大輪868 ℡0480-59-4126)

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三種のイカリ草

2009-04-22 02:50:57 | 宵宵妄話

我が家には三種のイカリ草がある。これら三種は、現在は裏庭の野草園に植わっており、毎年春になる元気に夫々の個性を豊かに表わして花を咲かせてくれている。イカリ草というのは、碇草とも書き、その花の姿形が丁度船を海底に固定する碇に似ている所から命名されたものらしい。というのは、あのようなT字形の碇が使われるようになってからであろうから、それほど古くはない命名なのだろうか。その真偽は判らない。見れば見るほど不思議な形をした花だ。

我が家のイカリ草は、いずれもくるま旅の際に採って来たり、買って来たりしたものである。関東のこの辺りでは、自然に自生するイカリ草を見ることは滅多に出来ないけど、東北などの山には、沢などに入ってゆくと、どこにでもあるのに気づくのである。

我が家の三種の中で、一番古いのは、もう十年以上も昔に青森県の大間越(今は深浦町)という所にあるキャンプ場に泊まった時、付近の谷を覗いていて発見し、大型で美しい花に感動して採取して連れ帰ったものである。その当時は未だくるま旅を始めたばかりの頃であり、バンコンに乗っていたのだった。住まいもマンションで、つれて帰ったのはいいものの、地植えというわけには行かず、大き目の鉢を買って来てそこに落ち着かせたのだった。しかし、マンションのベランダというのは、このような山の木陰の植物たちにとっては、地獄に近い環境であり、夏などは日除けや水遣りをきちんとしてあげないと、命をつなぐのは難しいのである。その当時でも10日ほど旅で家を留守にすることがあり、たっぷりと水をやって出かけても戻ってみると、すっかり干上がっていて、もうだめかと思うことが何度かあったのだが、イカリ草というのは見かけによらず生命力の強い植物で、不死鳥のように甦ってくれたのだった。そのイカリ草は、多分常盤(ときわ)イカリ草というのではないかと思う。常盤というのは、常葉という意味であり、年間葉を落とすことなく茂っているということである。このイカリ草は元々自生していた場所では、年間雪の中でも葉を枯らしてはいなかったのだと思う。

   

 青森県大間越から連れて来たイカリ草。もう10年以上の付き合いとなる。往時の逞しさがすっかり消えて、都会風になってしまったのが淋しく、申し訳ないと思っている。

 裏庭に落ち着いたこのイカリ草は、今では連れ帰った時よりはかなりスマートになって、花も少し小さくなったような気がする。この守谷の地に落ち着こうとして、この地にあった暮らしぶりを考え出したのかも知れない、などと勝手に思っている。

二番目に古いのは、7年位前だったと思うけど、秋田県の峰浜という道の駅(今は八峰町)に寄った時、鉢に溢れんばかりに見事に花を咲かせていたのを見て、どうしても欲しくなって買って持ち帰ったものだった。このイカリ草は、一般に栽培されているものであって、ピンク掛かった花を咲かせる種類のものである。買ってきた当初は花に勢いがあり、十分に楽しんだのだったが、年を経るに従い次第に勢いが弱くなり、花の数も少なくなってしまっていた。それでも枯れることなく頑張ってくれていたのは、もともと生命力の強さがこの種にもあったのだと思う。

   

 秋田県峰浜で買って連れて来たイカリ草。この花は鉢植えの時よりも一段と元気になった。今年は去年の倍くらいの花を咲かせてくれた。ありがとう。

 守谷に来て少しずつ勢いを盛り返してくれていて、今年はたくさんの花を咲かせてくれている。野草園の土は50cmほど掘り下げた中に、排水のことなどを考えて赤玉土などを入れ、なるべく自然界に近いように工夫したつもりなのだが、シラネアオイなどは次第に元気をなくして来ており心配だが、このイカリ草は元気にしてくれているので救われている。

三番目のイカリ草は、数年前に佐渡から連れて来たものである。小木近くに蓮華峰寺という古刹があるが、車を小木の港に置いて、そこまで往復した時の帰り道の、小さな崖の上に何株かのイカリ草が花をつけているのを物欲しそうに眺めていたら、山菜取りに来ていた地元のおばさんが、無造作にその一株を引っこ抜いて、持っていたビニール袋に入れてくれて、持ち帰ったらいいと渡してくれたのだった。おばさんにそうして頂かなくてもやっぱり連れ帰ったに違いないと思うけど、何だか自分の欲がおばさんに見透かされた様な気がして複雑な心境だった。

佐渡という所にはまだ一度しか行っていないけど、とても良い所だと思っている。蓮華峰寺には至る所にオドリコ草が自生しており、ヒメオドリコ草しか見ることが出来ない守谷辺りとは随分違っている。四季の変化が豊かな場所なのであろう。ミスミソウ(=雪割草)やキクザキイチゲなども無造作に山に登る坂道の傍らに咲いているのが見られる。6月に田植えが終ると、あちこちの集落の神社の能舞台で能が演ぜられるという。機会を捉えて1ヶ月くらいは滞在してその能楽を堪能してみたいなどと思っている。ちょっと脱線。

   

 佐渡の蓮華峰寺の境内に自生して咲いていたオドリコ草(=踊子草)。この写真では判り難いが、茎の葉の周りに咲く花が、踊り子が踊っているように見える所からこのように名ずけられたらしい。これは白だが、ピンクの花のもある。

この佐渡から連れて来た株もトキワイカリ草だと思うけど、大間越のとは違って、最初から小振りの花だった。トキワイカリ草の花は、いずれも純白で清楚である。ピンク掛かった愛らしい色のイカリ草もいいが、純白の花にも一入愛着を覚える。この株も元気にたくさんの花を咲かせてくれて、三者三様の美しさの妍を競ってくれている。

   

 佐渡から連れて来たイカリ草。写真では判別できないが、大間越の花よりも一段と小型である。楚々たる感じがいい。艶やかな花よりも楚々たる感じの方ががいい。人間も楚々たる感じがいい。そしてイカリ草のように芯が強いのがいい。

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春はアケビの、……

2009-04-21 00:53:46 | 宵宵妄話

「春はあけぼの、やうやう白くなりゆく山ぎは少し明かりて、紫たちたる雲の細くたなびきたる。……、」は彼の枕草子の書き出しだが、今の世の中には、この風情をそのまましみじみと味わえるような場所はもう殆んど無い。あけぼのはあるけど、只の早暁でしかなく、特段に春という風情は感じられない。それを感ずる感性が無いのだから、これはもう致命的である。

何だかつまらない書き出しとなったが、私にとっての今頃の春は、「春はアケビの、…」である。守谷に越してきてから6年目を迎えているが、春になって定着している行いは、野に出て散歩の途中にアケビの芽を摘むことである。大自然(というよりも忘れられている自然)からのこの贈り物に気づいて、それを摘んで賞味する時、今年も春がやって来たなと思うのである。守谷のこの近郊にはアケビが自生している場所が結構多い。その一番は高速道の壁の裏側などである。

   

アケビの茂み。濃い赤紫はアケビの花。天空に伸びている新芽がおいでお出でをしている。これを摘んで食べるのだが、まさに大人の味がする。このような馬鹿なことする人が少ない世の中となった。

アケビといえば、秋になって薄紫の楕円形の実を結び、時にはそれが店頭に並ぶこともあって、田舎育ちの自分には懐かしさのあまりそれを買いたくなる衝動に駆られるのだが、散歩の途中にふと高速道の壁の脇にそれがあるのに気づいて、思わず金網を乗り越えてしまうことがあったりするのである。

最初の頃は、アケビはその実に関心があったのだが、今はそれがすっかり変わって、実よりも新芽に対する関心が一段と強まっている。アケビの実というのは食べても大して美味いとは思わない。調理の仕方、食べ方にも問題があるのだと思うが、中のタネのある部分は食べにくく、皮の部分もそのままでは食べられない。天ぷらなどにして食べれば面白いのかも知れないけど、未だやったことは無いし、何だか面倒のようだ。

しかし、新芽はただ茹でて酢醤油などで食べるだけなのだが、この食感と苦みばしった味は、大人が食べるべき山菜の中ではトップクラスではないかと思っている。アケビの新芽を食べることに気づいたのは、数年前に新潟県の栃尾という所に旅の途中に泊まったときである。道の駅でおばあちゃんが自分で山から採ってきたらしいアケビの新芽の束を売っていたのを買い、食べ方も聞いたりして、いっぺんにその魅力の虜になってしまったのだった。おばあちゃんが近所で取ってきたのだから、探せば近くに必ずあるはずだと、その翌日の早朝近くの野山を歩き回って、おばあちゃんから買った倍以上のアケビの芽を摘んできたのが、アケビの芽に魅入られた始まりだった。

そのとき以来、春になると旅先でも住まいの近所でも、手当たり次第にアケビの新芽を探すようになった。気をつけていると、アケビという植物は、意外と身近な所に結構自生しているのである。実を結ぶほど大きく成長しているのは少ないけど、そこまで育っていないものは畑の縁や藪などにしっかり生きているのである。彼らは春になると、少し伸ばした蔓の芽を風にそよがせて、おいでおいでをしているのである。この「おいでおいで」というのが面白いのだ。関心がないときは、アケビがどんなにおいでおいでと招いても気づかないのだけど、猛烈な関心を持っていると、こちらが呼びもしないのに、アケビの方から大声でここにいるよ!と招くのである。彼らからみれば、せっかくの新芽を摘んで食べてしまう悪者としか映らないはずなのに、その悪者を自ら招くというのはどういうことなのだろうか。人間の感覚というのは真に身勝手なのであろう。

ま、そのようなわけで今日もうろついてアケビの芽を探して摘んできた。今日の分は私と同じように野山や海川に行きたくてウズウズしている大切な友に送ることにした。我が親愛なる友は、事情があって外出が出来ない状態にある。私一人が身勝手に春の野の味を独り占めにしていることにちょっぴり反省の感を抱いたのだった。

アケビの新芽は、沸騰したお湯に塩を一つまみ落として、サッと茹で上げ、真っ青になったものを冷水で手際よく冷まして、ちゃちゃっと切った奴に、白だし(醤油)と千鳥酢(京都の)をチョコッと掛けて、ゆっくり賞味しながら食べるのである。ほのかな苦味と歯ごたえのある食感が、今年の春の到来を確実に教えてくれるのである。勿論、一献の酒がその味を層倍にするのは言うまでもない。

春はアケビの、である。我が家の裏庭の野草園には春蘭と一緒に喜多方の山からやってきたアケビが大きく成長して、今年はたくさんの花を咲かせてくれた。芽もかなり伸ばしてくれたのだが、あと2年くらいは摘むのを控えようと思っている。野草園の上に結った棚が一杯になるほど大きくなったら、その時は新芽を味わうのを楽しませて貰おうと思っている。息抜きの話でした。

   

我が家の裏庭にある野草園のアケビの棚。今年は花もたくさん咲いて、もしかしたら実もつけてくれるかも知れない。来年あたりは新芽の賞味に与ることができるかも。下心はただ食べることにあり。

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