先週火曜日(5/14)郷里の常陸大宮市にある実家の畑の草刈りに出掛けたのだが、その帰りに久しぶりに喜連川の温泉に浸ってゆこうと一晩寄り道をして泊っての帰り、間もなく家に着くなと思いながら下妻市から常総市の石下近くまで来た時、何やら前方右の方に穏やかならぬ黒煙が空に向かって吹き上げ膨らんで立ち上るのが見えたので驚いた。火事なのかもしれないと思ったが、あの煙の様子だと尋常の火事ではなさそうだなと思った。しばらく走って常総市内に入ると、その煙はどうやら市内の西部郊外の辺りらしいことが判った。黒煙はますます勢いを強めて空を汚し始めていた。
帰宅して火事のことを家内に訊いたら、TVでもニュースになっているとのことだった。どうやら家電などの廃材置き場からの出火ということだった。どうしてそのような所が火事になるのか、少し訝しさを感じながらも、これはやはり尋常な火事ではないなと思った。恐らく消火も簡単なことではなかろうと思った。
この火事はその後益々勢いを増し、延々と4日間も燃え続けたのである。毎朝散歩を楽しみにしているのだが、いつもなら小貝川の土手を歩く時は穏やかな空に僅かな雲が浮いているだけで、土手の竹藪や樹木の茂みではウグイスやコジュケイたちが賑やかに春を囀(さえず)っているのに、この日は空にとぐろを巻いた黒雲が立ち込め、それが常総市街一帯に覆いかぶさって広がっているのが見え、小鳥たちの囀りも心なしかいつもの開放感が見られない感じがした。翌日もまた黒雲は一向に消えることなく、空の状況は一層険悪となっているようだった。
このような景色を眺めながら歩いていると、4年前の鬼怒川の氾濫で大水害を喰らってさんざ痛めつけられた常総市が、今度は自然作用ではなく人災による悪質な災害に見舞われ、何だか自らの首を絞めている感じがして、この街はこのところ厄の歳回りに入り込んでいるのではないかという思いがして来た。良い話よりも悪い話で全国に名を馳せるというのは、厄の巡り合わせというしかない。
その真因は何なのか? 火災をひき起こした業者の責任意識のずさんさが問題となるのは当然だが、市の、県の、国の行政の弛(たる)みはなかったのか。いろいろな面で問われるべき問題が山積している様に思う。報道ではそれらについて幾つかの問題点が掲げられており、今後再発防止に向けて、何らかの手が打たれてゆくのであろう。
ところで、今回の公害大火災について自分が改めて思ったのは、人間という生き物が己たちの暮らしの利便追求のために行って来ている成果の反対の側面、即ち負の部分への対応の欠損という問題である。人は常に暮らしの利便性の向上を希求し、それを数多く実現して来ているのだけど、その結果もたらされる負の部分への対応がぞんざいになっているのではないか。その問題点は世界中で幾つも指摘されているのだが、どの国もどの企業もそして又消費者も本気になって取り組むことをしていないようだ。「わかっちゃいるけどやめられない」というのが人間社会の経済的な循環の根底に潜んでいる。
例えば、原発の負の部分が如何に大きな脅威をもたらすかを知っていても、当面の安価な電力を調達するためには稼働は不可欠だという考えなどその代表的なものであろう。プラスチックが世界の海を汚染し、それがやがて人間の身体に悪影響を及ぼすという理屈は知っていても、プラスチックを生活用材から外すことなど到底できるわけがないという生産・販売体制がつくり上げられている。人々は日常の暮らしの中で何の問題意識も覚えないまま、プラスチック用材に包まれた食品を買い、消費してゴミとして捨てて行く。この無数の繰り返しは、人の生きている現実そのものであり、これを改めることはもはや不可能なのであろう。そう思ってしまうと、これはもう為るようにしかならないのではないか。つまりは行き着く先は人類の滅亡ということになってしまう。
話が大げさになってしまったが、常総市の今回の公害大火災も又人間の利便性追求の負の部分に大きく係わっていると思う。家電製品の廃棄物等がうず高く積み上げられていた、その高さがルールに違反していたという指摘があるけど、そのルールを1センチ下回っていたなら、それで消火は可能だったのかといえば、恐らくそうだとは断言できないのではないか。火災の問題だけを考えると改善すべき点は幾つか見出されるのだと思うが、もっと大切なのは、いわゆるゴミとなった使用済・消費済みの物質に対する抜本的な対応の仕組みではないかと思えてならない。
原発事故などの特別なケースを除いて、この負の遺産に対する対応は殆どが自治体や民間の業者に付託されている。ゴミ処理という呼ばれる重大な施策も自治体任せだし、今回の公害火災を惹起した常総の業者は民間であった。それらが世の中で上手く回っているのであれば、懸念は少ないのだが、多くの場合、これら負の遺産に関わる事業は敬遠され、それ故に不完全なままに処理されてしまう危険性が高いのではないか。
思うにこれら負の遺産に含まれる全ての事業は、国家プロジェクトとして取り組むべきものではないか。ゴミ処理が各市町村で区々の対応となっているのは間違っているのではないか。産廃対応が業者任せとなっているのも間違いではないか。そのように思えてならない。人類の負の遺産の中に、やがて人類の生存を脅かす危険性が幾つも潜んでいるのだとすれば、これはもう個人や団体任せの発想では対処できないのではないかと思うのである。
負の遺産は、これからの人間社会を次第に歪めて行くに違いない。現在問題とされる負の遺産は、その多くが地球環境や人体に及ぼす悪影響に対してであり、物理的な側面だけが対象となっているけど、現在の情報機器の異常な進化・発展は、やがては人類の精神的な面でも数多くの問題を生み出すに違いない。今まで何千年もかけて人類が培ってきた人間としての倫理といったものが破壊され、その結果人類がより下等な生き物になり下がるなどということがなければいいがと、この頃は至る所でスマホなどに囚われ続けて動いている人たちを見る度にそう思うのである。