このところ自分の老化が一段と進んでいるようで、身体のあちこちに不具合が表出している感じがしています。深刻感はないのですが、老化というのは厄介なものだなという煩わしさが取り付いていて、どうもすっきりしません。そのような中で、一つだけ嬉しいことがあり、この後どうするか悩みながらも少しワクワクしています。
何年か前(2011-1-14付)に「ムクロジは木の実の王様」という一文を書いたことがあるのですが、どういうわけなのか、その後ずっと自分のブログ記事の中では人気タイトルとなっているようで、現在でも時々アクセスを頂いているようです。嬉しいこととは、そのムクロジに関することで、何年か前に故郷の畑に植えた苗が大きく生長して、今年は大量の実がついたという話なのです。
今から12年前、実生のムクロジの苗を故郷の畑に2本植えたのですが、これがその後すくすくと生長して、現在では幹回りが50cmを超え、高さも10mを超えるほどの大きさとなりました。一昨年の秋の終わり頃、初めてその1本に実がついたのを見つけた時は感動しました。昨年は2本共にしっかり実をつけていたので、ああ、もう一人前になったのだなとその生長の速さに驚きつつも、これからはいつでもムクロジの実を手に入れることができる満足感に浸ったのでした。
今年はどうなのかなと、旅から戻った9月の半ば過ぎに畑の除草をすべく故郷を訪ねたのですが、その時に見上げた我がムクロジの木には想像をはるかに超えた、大量の実がびっしりとついているではありませんか! 昨年のレベルの比ではなく、どの枝の先にもたわわに実ったあのゼリー状の皺のある丸い球が重たげに下がっていたのです。いやあ、大感動でした。

ムクロジの実。この中にあの真黒な堅い実が入っている。
この木たちの親である東村山市の東京都薬用植物園のムクロジの木では、冬になって僅かに残っていた高い枝の実を揺さぶって何個かを拾うという状態だったのですが、今のこの2本の木の実のつき具合は、あの親の木の貧弱な稔りとは到底比べられないほどの豊かさなのでした。

このような状態で、二本の木とも各枝先にびっしりと実がついていた。冬になって葉が落ちると、壮観と言えるのではないかと思った。
未だ完熟状態ではない実は、黒い珠を取り出すのは冬が近づく頃となると思いますが、もし全部を拾うことにしたら、30kgの米袋に2杯くらいにはなるのではないかと思うほどなのです。勿論そんなことをするつもりはなく、せいぜい200個ほど拾って、その内108個を用いて数珠を1個作り、残りは孫たちの遊びに使う様にしようかなどと考えています。
ところで、実はこの大豊作を見て以降、今大きな悩みの中にあります。というのも、だんだん木が大きくなりだして、畑の中に大木が2本もあるとなると、この先何かにつけて困ることが起こって来るのではないかとの心配があって、思い切ってこの冬には1本を伐ることにしようと密かに考えていたのです。何しろムクロジはかなりの樹高となる種類であり、生長すれば30mもの高さになってしまいます。そのような大木が畑の中に2本も立っているとなると、自分がこの世を去った後、子孫たちがその対処に困惑することになるに違いありません。1本は記念に残させて貰うとして、1本は今の内に伐って処理しておいた方がいいのではないかと思ったのです。
しかし、今が生長の初期段階で、これほど多量の実をつけて活き活きとしている木の生命を奪ってしまっていいものなのかと、いい知れぬ罪悪感のようなものが膨らんで来ています。枯れかけている様な状態ならば、さして罪悪感も生まれないのでしょうが、わざわざ拾って来た実から芽生えた生命を育てて来たものを、大きくなって邪魔になりそうだからといって、自分の都合だけでそのような残酷な処分をしてしまっていいものなのか。迷うところです。
私は何時の頃からか、樹木や草たちが生きものだということを強く意識するようになりました。庭の雑草と言われている草たちを取り除く時も、憎しみよりも可哀そうさを覚えるようになっています。しかし、放置しておくと止まることを知らず自己主張を続けて、そのままふんぞり返るのが草たちの正体だし、樹木にしても放置しておくと形振り構わずに小枝を延ばして、その木の存在を台無しにしてしまうのが樹木たちの本性であるのを知っているので、必要に応じて除草をしたり整枝をしているわけなのです。
さて、ムクロジですが、どうすべきなのか。今しばらく迷い続けなければならないようです。とにかく、この冬もう一度じっくりと彼らと話し合ってみようと思っています。





