山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

石の風車が回った

2013-01-31 06:00:06 | 旅のエッセー

  九州の旅に当たっては、幾つかのテーマを用意して臨んだのだが、史跡や文化財などの他に、何か面白そうなものはないかなと探していた中に「石の風車」というのがあるのを見つけた。風車というのは、「ふうしゃ」なのか、それとも「かざぐるま」なのか、見当もつかない。「ふうしゃ」ならばオランダのそれを思い起こすし、「かざぐるま」ならば紙でこしらえた小さなそれを思い出す。いずれにしても石で出来ているというのは今まで見たことも聞いたこともない。本当にそのようなものがあるのだろうか?と思った。あったとしても石で出来ているというのならば、風で回るなんてあり得ないのではないか。只のアーティストの彫刻のようなものではないのかと思った。とにかく見てみたいものだと思った。

 その石の風車は、熊本県山鹿市の旧鹿本町の津袋という地区の一本松公園にあるという。手元の地図には載っていない。今回の旅からデータ通信が出来るようにしたので、グーグルの地図が見られるようになって、その場所は直ぐに判った。市販されている地図がだんだん少なくなってきており、日頃大いなる反発を覚えているのだけど、こうやって旅先でもネットで詳細な地図を見られるようになってしまっては、それも仕方がないのかなと思ったりした。しかし、旅先でネットを覗けない人やそのようなものに馴染めない世代の人たちにとっては、良い地図が少なくなってゆくという現象には怒り交じりの時代への反発があるに違いない。地図を見る楽しみは、ネットでは満たされないのだと思う。

 ま、そのような感慨も持ちながらの一本松公園への来訪だった。着いたのは、小高い丘の麓にある駐車場で、上の方から賑やかな声が聞こえて来ていた。今日は日曜日なので、公園は家族連れの人たちで賑わっているようだった。石の風車がどこにあるのかは見当もつかない。とにかく上の方に行ってみることにした。かなりの急な坂なので、病のハンディの残る家内には相当にきついのではないかと、途中休みながらゆっくりと上った。坂の中頃には、ローラー滑り台が作られており、これは相当の長さだった。今まで旅の中で見て来たこのタイプの滑り台の中でも、その長さは上位に入るように思った。しかし、その滑り台で遊んでいる子供が少ないのは、小さい子では怖がってその気にはなれないのかも。冒険心のある子供は、今日はあまり来ていないのかななどと思ったりした。汗をかきながらようやく丘の上に着くと、そこには休憩所の建物があり、売店などもあって人が群れていた。思っていたよりもかなり広くて、少し先の方には駐車場も造られていた。少し遠回りすれば上の方まで車で来られたものをと、ちょっぴり下の駐車場に案内板などが無かったのを恨めしく思った。

 一息入れた後、もう少し上の方に行ってみることにした。どうやら石の風車は上の方にあるらしい。この丘の公園は、古墳の後に造られているようで、一番高い場所に、その昔一本の松の木が植えられていて、それがこの地のシンボルとなっていて、一本松公園という名もそこに由来しているとのことである。その松の木も枯れてしまい、何代目かの現在の松の木は、古墳を壊さぬように天辺脇に植えられているとの説明があった。

 石の風車は、その一本松の手前に造られていた。三本の太い石の柱が建っており、その、それぞれの上方に赤御影石(スペイン産)の巨大な羽根が取り付けられていた。(後で知ったのだが、このかざぐるまは親子をイメージして造られており、中央が親、両脇が子を表しているとのことだった) まさにこれは「かざぐるま」だと思った。「ふうしゃ」ではない。子供の頃から馴染んでいるあの紙で作ったかざぐるまと同じデザインの、石でできたかざぐるまが三つ並んでいたのである。ずっしりと重量感のあるかざぐるまなのである。このようなものが本当に動くのだろうかと思った。

   

熊本県山鹿市鹿本町の一本松公園の石の風車。中央が高さ5.5m、重さ16t、羽根の直径2.2m。両脇は高さ3.3m、重さ6t、羽根の直径1.8mとの説明があった。夫々が別の方向を向いて建てられているのは、微妙な風の向きを巧みに捉えるためか。

台の下の方に説明板があり、それによると回転力は自然の風だけと書かれていた。正面からの風ならば風速3mで羽根が回るという。あいにく、今日は今無風の状態で、風はそよともない。これじゃあ、とても回っているのを見るのは無理だなと思った。それにしても、本当にススキの穂が揺れるくらいの風で、あの重そうな羽根が回るものなのだろうか。依然半信半疑の気持ちだった。

 何枚か写真を撮って、諦めて他へ行こうとしたその時、である。何と、僅かながらその風車が動いたのである。あれれ、え~っと思った。しばらくじっと見ていると、間違いなく動いている。肌に感ずるほどの風もないのに、である。電動の仕掛けでもあるのかと、近づいてよくよく調べてみたのだが、どこにもそのような気配は見られなかった。少し風を感ずるようになって、羽根はゆっくりと回転を始めた。ああ、やっぱりこれは間違いなく風で動いているのだと納得した。まさしくかざぐるまなのだった。いやあ、感動した。そろりと動くそれを見ながら、自然の仕組みとそれをここまで引き出した人の力を凄いなと思った。

   

動き出した石の風車。青空と白い雲を背景に迫力満点だ。それにしても、よくもまあこのようなものを思いついたものである。

 今、世の中は原子力とやらの平和利用に決別を求められている。先の東北大震災で、福島原発の大事故がそれを証明しているのだけど、人類の、日本国のエネルギー政策は曖昧で、何の決断もしてはいない。この国では、政治の先送り体質がそう簡単には改まらないのは、もう国民の誰もが諦めていることである。しかし、エネルギーを何に依存すべきかというテーマは、これからのこの国、否地球上のすべての国共通の重要課題であることは間違いない。自然エネルギーの利用ということでは、風力発電が一つの期待の中にあり、各地に巨大な発電風車が何基も見られるようになりつつある。この石の風車が回るのも、あの巨大な風車が回るのも同じ原理なのだと思うけど、素人目には、石を回す風力利用技術の方が、風力発電の風車を回すそれよりも優れているように思った。何故なら、風力発電の風車は風が吹いているのに動かずにサボっている奴が結構多く見受けられるからである。どんな微細な風でもそれを力として受け止め、石の羽根でさえも動かすという技術は、発電に利用できないものなのだろうかと、そう思った。

 ま、しかし、世の中というのは、新しいものと古いものとを直ぐに識別できるほどは常識的ではない。発電風車が古いのか、それとも石の風車が新しいのか。そんなことは、どっちでもいいんじゃないというのが今の風潮である。自分的には、発電風車よりも石の風車の方が数百倍も新しいものだと思っているのだけど、さてどうなのだろうか。あんな重いものが風で回るなんて、あれを風で回せるなんて、こんな凄いことはない。あののっぺりとした大型の風力発電の装置なんぞよりは、よっぽど優れた技術ではないか、そう思った。

 後で調べて知ったのだが、石の風車はここだけではなく、岡山県の高梁市と高知県四万十町にもあるとのことだった。いずれも西日本の方にあり、関東や東日本には元々石の文化が発展・定着しなかったことの表れなのかもしれない。今度の西日本への旅の際には、それらを訪ねてどんな具合に出来ているのかをじっくりと見てみたい。そう思っている。  (2012年 九州の旅より)

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五木の里はどこへ行く(誰が五木の里を壊したのか)

2013-01-25 06:14:09 | その他

  五木の里を訪ねたのは、人吉側からだった。人吉市から国道445号を行き、相良村を通過したその先が五木村である。自分の旅車では五家荘や椎葉や五木に行くのは道路が厳しいと聞いていたので、ためらっていたのだけど、人吉の民芸品作家の工房に寄った時に、人吉側からは五木までは立派な道が通っていると聞いて、是非行ってみようと思い立った。

五木村といえば、五木の子守歌の里である。この、何とも哀しい詞とメロディーを耳にすると、貧しかった昔の日本の、その中でもとりわけて貧しい田舎(山村)の人たちの暮らしのことが思い浮かんで、胸が締め付けられるような気持になる。子供の頃に、戦後の貧しさを存分に味わわせて貰った自分にとっては、恐らくそれよりもはるかに貧しい暮らしに明け暮れていた、遠い昔の山村のことが、この子守歌には悲痛なつぶやきとして伝わってくる。だから、どのような所なのかと、ずっと思い続けていたのだった。

 行って見た五木村の姿は、想いとは全くかけ離れたものだった。山の中腹を通っている道路に沿って現れた集落は、道の駅や温泉施設等が中心の立派な現代建築の建物ばかりで、子守歌から思い浮かべる景観とは全くかけ離れたものだった。何だか変だなと思った。駅の構内からは繰り返しあの哀愁の籠った子守歌のメロディーが繰り返し流れていて、それを耳にする度に切なさが膨らむのだけど、周辺の景観はマッチせず、どうも不自然なのである。

今夜は道の駅にお世話になるつもりで、周辺を少し歩いて見たのだが、ここはどうやらそう遠くない何年か前に、山の中腹を切り拓いて造られた集落のようだった。数百メートルもあるかと思われる遥か下方に、細く流れる川が見え、その上に巨大な橋が架けられつつあるのか、何やら大がかりな工事が進められているようだった。この景観から見ると、どうやら五木の里は元はあの下方の小さな平地にあったらしく、それが、ダムが造られる為にこの地へと移り住んだらしかった。何しろ初めての来訪だったので、村の事情など全く知らず、まさかあの子守歌の里が湖底に沈む運命にあったとは夢にも思わなかったのである。しばらく付近を歩き回っていると、道路の向こうの側の眺望のいい場所に、何やら記念碑のようなものがあるのに気づいた。近寄って見てみたら、未だ新しさの残るその碑には、次のような文語が刻まれていた。少し長いものなのだが、しっかり紹介したい。

 

     

五木村のダム湖建設の経緯を記した、悲痛な思いの籠められた記念碑。その内容は以下の通りである。 

       新たなるふる里をめざして  記念碑建立趣意

五木村は自らの意思にかかわりなく新しい一歩を踏み出す。下流域の災害防止と開発のためという「われわれの国」の発意と投資による大型ダムが、「われわれの村」の長い長い時間を昇華して、新しい歴史の一頁を開く。この碑に尽きせぬ祷りこめて。

昭和三十八年からの三年連続水害で球磨川水系は甚大な被害を蒙った。四十一年、国は下流域の防災と開発を主とした多目的ダム建設計画を発表し、即座に賛同した熊本県の説得に玩じ得なかった五木村は行政と議会を上げて絶対反対の態度をとるが、さまざまな苦渋と葛藤の末、止むを得ぬ  "生き残り"を選択する。昭和四十五年、国・県にダム建設に伴う五木村立村計画の基本的要求五十五項目を提示し、われわれ川辺川ダム対策同盟会は一般補償の交渉に挺身してきた。すなわち昭和五十一年五月初代山田親会長のもとに結集した三百五十三世帯による補償基準交渉と二代兼田豪会長下での一般補償基準妥結、さらには三代和田台四郎会長、四代木野一人会長による水没者の生活再建対策の具体化、そして五代照山哲榮会長のもとでの補償基準見直し調印と広範なる村再生事業の始動などであり、平成十二年から開始された頭地代替地への移転とつながる。

この二十七年間、われわれ川辺川ダム対策同盟会は、村の再生を希求し村びとの真摯な生活を守るため、生き抜き耐え抜いて今に至った。さらなる光明がこの地にさし昇ることを信じて、ここに記念の碑を建立し、五木の後世に語り伝えたいと思う。「いつきの心」を。

      平成十五年九月  川辺川ダム対策同盟会 会長 照山哲榮

 

これを読んで、この何とも言えないアンバランスな雰囲気の原因が何だったのかが氷解した。下流域に住む人たちのための防災目的等の多目的ダム建設を巡って、この地の人たちは四半世紀以上にわたる反対闘争を続け、その結果涙をのんで国側の要求を受け入れ、この代替地へと移り住んだのである。新しい立派な家が多い理由が解った。しかし、そこには新築の家に住む喜びよりも、村の暮らしを失った悲しみのようなものが、より多く漂っている気がした。闘争に直接係わった353世帯の人々が、五木村のどれほどの人口割合を占めていたのかは知らないけど、この山の中のエリアでの353世帯といえば、村の主力集落であったに違いない。この記念碑を読むと、ここへの移転に至るまでの怨念の籠った無念さが伝わってくる。それは先祖代々の住処を追われた人たちだけではなく、貧しいけれども穏やかで平和な暮らしをを根本から覆されたこの村の、後世に向かっての血を吐く叫びのように聞こえたのだった。

 散策から戻って一休みの後、道の駅の近くにある温泉施設に出向いた。歩いて5分ほどのその施設は、代替地の端の方にあって直ぐ下は崖のようになっていた。その分眺望がよく、露天風呂から立ち上がると眼下に湖底に沈むことになる昔の集落も展望できた。温泉はどこからお湯を汲み上げているのかわからないけど、もしかしたら、あの湖底となる予定の地下辺りから汲み上げられているのかもしれない。天然温泉の柔らかないい湯だった。それほど大きなものではないけど、旅の疲れを癒すにはありがたい施設だった。入浴する人も少なく、自分の他には2名ほどの人が出入りしただけだった。

湖底に沈むという五木の里のことを想いながら入浴を終えて戻ろうとすると、先に出たらしい家内が、温泉に勤めているらしき人と何やら話をしているので、傍に行って一緒に話を聞くことにした。すると、驚いた話題だった。何と、今になって村が湖底に沈むという話が無くなったのだという。今度の政府の仕訳とかいう見直しで、このダムの必要性が問題となり、結果として不要との結論が出たとか。いやあ、驚いた―。この地の人たちの四半世紀に亘る怒りと悲しみの綯い交ざった苦悩の時間は、一体何だったのかと、初めて来訪した自分たちにも何とも解せない話を聞かされたのだった。話をされている方も大いなる戸惑いの中に居られるようで、今頃になってダムの建設が中止となっても嬉しいという気持など微塵もないという感じだった。それはそうだろう、複雑さを通り越して、国政に対する新たな怒りが湧きあがるのを止めようがないに違いない。

聴けば、今工事中の架橋も、ダム建設中止の代わりにこれだけは必ず実現させるという国交大臣の約束なのだそうだ。国策の変更とはいえ、本当にこれでいいのか、村人の心を蹂躙しても、国全体から見れば大したことはないという決めつけ方で、本当に良いのだろうかと思った。先ほどの記念碑は一体どうなるのだろうかとも思った。多数決の正義のもろ刃の剣の怖さをまざまざと見せつけられた感じがした。

その夜は満天の星が煌めいていた。東北の方から来られたという一人くるま旅の方と二人、身が寒さにかじかみそうになるほど遅くまで、くるま旅のあれこれについて語り合った。お互い名乗りもせず、名前も知らない。それでも旅の者同士の心は通い合い、それだけでもう十分なのである。話をしている間も、自分の心の中ではあの哀しい子守歌が囁き、流れ続けていた。この先、五木の里はどうなってしまうのだろう。どこへ行ってしまうのだろう。子守歌だけが悲しみを伝える唯一の手だてとして村里の存在を歌い続けるのだろうか。それを知っているのは、満天の星だけなのだろうか。現(うつ)し世の人々の営みは実(げ)に不可解である。  (2012年 九州の旅より)

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鞠智城址を訪ねる(その2)

2013-01-21 04:46:44 | 旅のエッセー

(続き)

話は変わるけど、この頃になって韓国の歴史ドラマを見るようになって、微(かす)かに古代の朝鮮の動向を知るようになった。ドラマを見ていると、朝鮮では檀紀という年号が使われていたらしい。それによると今年(=2013年)は檀紀4346年となるとのこと。日本でも戦前までは皇紀という年号が併用して使われていた様で、それによると今年は皇紀2673年となる。この暦を見比べると、日本は朝鮮よりも1673年も遅れて国家が成立したということになる。ことの真偽は問うのも愚かなことだが、どちらも故事に倣ってのものなのだろうけど、かなり大げさな気がする。この地球の生命体の始まりや、人間という生きものの世の始まりが何時だったかなど、誰にも判らない。判っているのは、国家などという集団が生まれ出したのは、せいぜい5千年にも足りない前に過ぎないということであろう。古さを競ったところで、大した意味はない。ま、それにしても、朝鮮の方が国家として先輩だったというのは、大陸との位置関係からしても、これは本当のことに違いない。

閑話休題。温故創生館を出た後は、鞠智城公園の古代の丘を散策する。何といっても目立つのは鼓楼の八角形三階建の建物である。これが歴史公園のシンボルタワーであることは疑いもなく、往時もとりわけて目立った存在だったのだと思う。先ずはその周辺を一回り歩くことにした。近くに復元された米蔵や倉庫(=武器などの収蔵庫)、それに防人たちの暮した兵舎などが建てられていた。米蔵や倉庫はいずれも高床式の建物で、米蔵は奈良の正倉院と同じあぜくら造りで復元されていた。

 

復元されて建っていた米蔵(左)と倉庫(右)。いずれの建物も高床式で作られていたようだ。左の米蔵は奈良正倉院と同じあぜくら造りとなっていたのは、米が貴重なものであり、保存に心を砕いたからなのであろうか。

最も興味があったのは、防人の人たちが住み暮らした兵舎なのだが、これはもう簡易長屋のようなものであり、往時の人たちの暮らしの厳しさを想わせた。冬ともなればこの地もかなりの寒さとなったに違いないけど、このような貧しい官舎での暮らしでは、生き延びるためだけでも相当の辛苦に耐えなければならなかったであろう。何しろ防人の人たちの食事は一汁一菜に時により塩が付加されるというだけのものだったとか。展示室にその食事の見本のようなものが示されていたが、ご飯に山菜のおかずと汁物だけなのである。日に三回の食事だったのかどうかは説明が無かったけど、今の時代こんなカロリー摂取では、とてもまともには戦えないのではないかと思った。防人の人たちは戦の訓練等の軍務だけではなく、食料の調達も自給自足だったということだから、農事などにも係わっていたのではないか。

  

左は復元された兵舎。間口27m弱、奥行き8mほどで、この中に50人ほどが共同生活をしていたとのこと。右は防人の食卓。一汁一菜が基本で、手に持つご飯の他は汁物と山菜の漬け物らしきものだけ。時には皿に僅かな塩が配られることがあったとか。飽食の現代人はこのご先祖の食事を肝に銘じる必要があるのではないか?

遠く故郷に妻子を置いて来ている人もあり、万葉集等に見られる防人の歌の数々には、その素朴な心情の吐露に胸を打たれるものがたくさんある。この暮らしの実態を知ると、そのインパクトはがいっそう強いものとなった。何首かが取り上げられ、紹介されていた。

*朝な朝な 上がるひばりに なりてしか 都に行きて はや帰り来む

*韓衣(からころも) 裾に取り付き 泣く子らを 置きて来ぬや 母なしにして

*わが妻は いたく恋ひらし 飲む水に影さへ見えし 世に忘られず

どの歌にも詠み人の厳しい現実の中での哀切な気持ちが素直に表現されている。その心情の深さを甚(いた)く感ぜずにはいられない。どんなに文明が進歩しても、今の世も、これから先の世も、戦(いくさ)などという人間の愚かな行為は、形を替えて果てしなく続いて行くものなのかも知れない。万葉の時代も今の時代も、人間という生きもの社会の宿命のような不変の部分が、ずっと引きずられて続いているような気がしてならない。千三百年前の昔、この地で国を守るために駆り出された防人の人たちの、それぞれの胸に様々な思いを抱きながらの厳しい暮らしぶりを想いながら、兵舎辺りをゆっくりと辿り巡ったのだった。

 公園内には幾つもの史跡があるのだけど、起伏のある広大な施設なので、とても2~3時間で全部をじっくり廻り歩くのは無理であり、一応一番奥まった所にある灰塚という展望所まで歩くことにした。行ってみると、そこは鼓楼の上からよりももっと展望が効く様な場所だった。北は阿蘇や九重の山々なのだろうか、南は菊池平野というのか熊本平野というのかわからないけど、島原湾に面する熊本市の方に向かって平野が広がっているのが展望できる。まさに360度の景観だった。この地ならば、攻め寄せる敵も望見出来、かなり早くから即応体制を準備できるように思われ、何故ここが選ばれたのかが解るような気がした。ま、その後の我が国の歴史が、ここで敵を迎えることがなかったのは幸いだなと思った。

 初めて訪れた鞠智城址だったが、我が国の古代史の一角に自分なりに小さな風穴を開けることが出来た様に感じた。大和朝廷がようやく国家としての基本体制を固めようとしていた頃の、時代の様相が僅かながらだけど、ここを訪れたことによって、自分の目にも垣間見られたのだった。この城が築かれてから後200年後には、廃城となってしまって今日に至っているとのことだったが、この城を訪ねるにあたって、一つ疑問を抱いたことがある。

それは、今市販されているどの地図にも、鞠智城址のことは全く記載されていなかったことである。ネットのグーグルの地図でさえも、鞠智城も公園も何の表示もなかった。歴史公園となっても表記がないのは、未だ一般的には認知されていないほど新しいものだからなのかもしれない。それにしてもこれほどの歴史遺産を無視してきた扱いには、文科省などの責任もかなりあるのではないかなどと思った。古い町や村の名がどんどん消え去り、わけのわからない町が生まれているのは、歴史の宿命なのかもしれないけど、時代の証明となる大事な施設や土地の名が、化石も残さぬかのように跡形もなく埋没して消え去ってゆくというのは、未来に対しての大きな罪を犯しているのではないか。そのような感慨も持ちながら、鞠智城址を後にしたのだった。生きている間に、もう一度訪ねなければならない場所だなと思っている。 (2012年 九州の旅から)

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鞠智城址を訪ねる(その1)

2013-01-20 03:51:23 | 旅のエッセー

 熊本県といえば、今まで県都の熊本市と阿蘇の高原を訪ねることくらいしかなかった。それで今回は未だ一度も行ったことのない山鹿や菊池といった九州古来の豪族ともいえる人たちの住んでいたエリアを訪ねることにした。全国に菊池という姓は多いけど、その源といえば九州の菊池一族からというのが通説のようである。本当かどうか知らないけど、全国菊池会というようなものがあるそうで、菊池神社を核としての縁故の人たちが集い、懇親を深めたりしているとか。自分の場合は山本であり、そのような会を作ってもこの山国の日本国では、一向にまとまりのつかないことになってしまうのは明白である。ま、そんなことはどうでもいいことなのだけど、菊地姓の場合は意義があるように思える。

その菊池市や隣接の山鹿市のあちこちの探訪を試みたのだが、一番驚いたのが鞠智城という太古の山城の址を訪ねたことだった。鞠智城というのは、その名から推して菊池市にあるのではないかと思っていたのだが、良く調べてみると山鹿市の範囲だった。事前の知識も碌にないままの、野次馬根性だけでの訪問だったが、この城は未だ菊池氏などが九州にやって来て定住する遥か昔の時代に造られていた巨大な山城なのだった。キクチがこの様に表記されているのを知ったのは初めてだった。キクチといえば菊池か菊地という字を用いる姓が普通であり、鞠智という難しげな表記は全くの予想外だった。しかし何だか貫禄のあるイメージが浮かぶ。漢和辞典などを調べてみたが、地名の表記というのは難しくて、まさに文字通りには行かないようで、何故鞠智なのかは見当もつかなかった。

その鞠智城址は、山鹿市の中心街から国道325号を行き、菊池市の七城町から県道18号に入って山鹿市の菊鹿町に少し戻った所にある米原という小高い丘の地区にあった。坂道を登ると、突然眼前に三階建の八角形の妙な建物が現れた。如何にも古代風というか、吉野ヶ里のそれとは違った、もっと進化した建物の形をしていた。その建物は、後で鼓楼であると知った。つまり見張り台のようなもので、敵が攻めてくるのに気づいたら太鼓を打って全員に周知するといった役割を担う建物だったようである。その鼓楼のある台地は広く拓(ひら)けていて、何棟かの往時を偲ばせる建物が復元されて建っていた。その間隙を縫って、その昔の建物の礎石が何カ所も点在していた。雄大な規模と言って良い。古代山城と聞いていたので、石組をベースとした砦のようなものかと想像していたのだが、その想いを遥かに超えたスケールの大きい城の址がそこに広がっていた。太宰府の都府楼跡には及ばないけど、古代の政庁につながる重要な施設だったのだと気づかせる景観だった。

      

歴史公園鞠智城のシンボルタワーの鼓楼。飛鳥時代の終わり頃に建てられたと思われるものを、礎石をベースに往時の建築技術を辿りながら復元したもの。往時の人たちの心意気のようなものが伝わってくる感じがした。

城址を歩く前に、その歴史公園の入口にある温故創生館という案内施設に入り、視聴覚室で何本かのビデオを見せて頂き、その後館内の様々な展示物などを見学して、往時についての知識を学んだ。温故創生館は立派な施設で、往時の時代の動きなどを知るには大いに役立った。地元では鞠智城址を国営公園にしようとの動きがあるようで、温故創生館はそのための重要な役割を担っているのだと思った。

鞠智城のことを知るためには、古代の倭国が日本国へと成長した頃のことを知らなければならない。そのために大切なことは、往時の東洋史、とりわけて中国と朝鮮の歴史を知るということであろう。ところが自分的には、中国の歴史については多少の知識はあるものの、最も近い隣国の朝鮮の歴史となると、皆無と言っていいほど何も知らないのである。その酷さに驚くと共に、改めてこれはどういうことだったのだろうと、自らに訊ねるほど迂闊であったことに気づかされた。朝鮮半島の歴史の概略すらも全く知らないままなのである。この無関心さは、もしかしたら戦後の教育の国策によるものではないのか、などと思ったりした。戦前の日韓併合の罪の意識のようなものがどこかにあって、隣国の歴史などを紐解いてみようなどとは思わせないように、日本国の教育は仕組まれてきたのではないかといった塩梅である。しかし、基本的にはそのようなことではなく、自分自身の問題意識の在り方に過ぎないことは明白なのだ。とは思いつつも、自分以外の誰かに少しでも責任を押し被せようとする、いつもの性悪な癖が出てしまったのかも知れない。とにかく鞠智城のことを知った衝撃はいろいろな意味で大きいものだった。

ところで、往時の時代背景だけど、旅から戻ってそれなりに調べてみると、いろいろと大変興味深いことが分ってきた。旅から戻って8カ月以上も経った今なのだが、その旅の後楽の味わいの真っ只中にいる。飛鳥時代のことは、今までに何回か飛鳥寺などを訪ねており、その時のことを思い出しながらあれこれ想いを巡らしたりはしたのだけど、往時の国際情勢(=中国・朝鮮半島情勢)にまで及んで考えたことは一度もなかった。往時の大和朝廷の太宰府政庁のことなども、菅原道真が左遷された頃(901年)のことくらいしか思い浮かばなかったのだが、道真公が天拝山で都への帰還を祈った頃には、既に鞠智城はその200年も前に出来上がっており、その使命も終わっていたのである。

古代山城が築かれた飛鳥時代の後期(600年代後半)頃は、倭国と中国(唐)や朝鮮(百済・新羅・高句麗)との関係は複雑であり、特に朝鮮半島においては、友好国の百済が唐と新羅の連合軍に攻め滅ぼされつつあり、それを救うべく倭国(往時は未だ日本国とは称していなかった。701年の大宝律令制定時から日本国となったとのこと)からも何度か支援の軍を送ったようである。彼の佐用姫伝説の佐用姫の思い人の大伴狭手彦もその支援軍のリーダーの一人だったことは、つい先日知ったばかりである。しかしこの支援の結果は虚しかったのである。この時代、倭国は百済支援の一方で唐とも友好を保持するという外交政策を基本としており、その内情は複雑だったに違いない。百済が滅んだあと、これを復興すべく立ちあがった元百済国の遺臣や遺民の要請を受けて、倭国に滞在していた百済王の太子を支援することが決まり、大和朝廷(=中大兄皇子、のちの天智天皇の時代)は、大軍を派遣することとなった。唐と新羅の連合軍に立ち向かった倭国からの派遣軍は、合計4万7千人、兵船は1千隻超にも及んだという。往時の倭国の全人口がどれほどだったのかは知らないけど、この数はかなりのものだったと言えると思う。しかし、その戦いは唐・新羅の連合軍よりも軍の規模では勝っていたにもかかわらず、倭国と百済側の作戦は上手くゆかず、白村江での海戦は400隻を炎上させて失うという大敗北の結果となったのである。

この後、敗戦処理の対応策として、唐や新羅が攻め込んでくるのを恐れた倭国即ち日本国側では、防御体制を整えるための戦略拠点として、幾つもの山城や砦を築いたのだった。それがいわゆる古代山城というものである。九州北部から瀬戸内海沿岸そして難波から近江にかけて30もの山城が築かれたということである。特に九州北部は上陸の拠点となる所でもあり、城砦の数が多い。太宰府に政庁があり、それを守るための主力の城が大野城と水城なのだと思う。自分は30数年前にこの水城の遺跡の近くに住んでいたことがあるのだけど、現代人にはそれと気づかぬほどのスケールの大きいものであることを知っている。部分的に残っているその遺構は、近くに住む人には樹木や竹に覆われた森や空き地くらいにしか見えないのだが、福岡空港近くの上空から見ると、水城と呼ばれるものの正体が明らかとなる。それは敵の来襲時に、貯めた水を切って落とす巨大な堰なのだということが判るのである。隣の佐賀県基山町にある基肄城を訪ねたことがあるが、これは石で固めた堅固な造りの山城だった。往時として最新の技術を用いて、全力を挙げて造り上げた防備拠点の一つだったに違いない。しかし、その頃の自分は鞠智城との関連など全く知りもせず、古城を訪ねても、ただ古の人たちのパワーに圧倒されただけだった。今度の旅で鞠智城が九州の最後の砦の役割を果たす兵站基地だったと知り、往時の治世者の発想の大きさを改めて思ったのだった。熊本県といえば、福岡からはかなり離れた場所のように思っていたのだが、太宰府から鞠智城までが僅かに60km余りしか離れていないことを知り、その兵站基地としての意味が理解できたのである。  (続く)

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島原の火の山

2013-01-16 05:18:40 | 旅のエッセー

 火の国といえば、熊本県の阿蘇地方を指すようだけど、九州には、火を吹く山は他にも幾つかあって、鹿児島の桜島はずっと噴煙を吐き続けているし、霧島連邦の一つの新燃岳の大噴煙も記憶に新しい。それにもう一つ長崎県の島原の雲仙岳がある。雲仙は主峰の普賢岳が10年ほど前に大噴火し、今はその活動も一応は鎮静化しているけど、主峰の普賢岳よりも124mも高い平成新山(1,483m)が誕生したりしている。

その昔の江戸時代に、「島原大変肥後迷惑」という大変な出来事があった。1792年の普賢岳の噴火で、雲仙の南に位置している眉山という山塊が大崩落を起こしたのである。その土砂は山の半分近くが無くなるほどのもの凄い量であり、これが一気に有明海に落ち込んだものだから、狭い海を揺さぶって途轍もない大津波が発生して熊本県側に押し寄せ、その波は島原半島や天草にも揺れ戻って、有明海沿岸は大変な被害を被ったのだった。1万5千人もの人々が亡くなったり、行方不明になったということである。

火山は恐ろしい。山が火を噴くなんて、そんなことがあっていいものなのだろうか。火山などというものを見ないで育った自分には、この自然現象は興味関心の範囲を超えた、恐怖以外の何ものでもないといった感慨がある。大人になるまでに地球の成り立ちや自然現象の起こる理屈などを知って、多少はそういうものなのかという理解や納得はあるのだけど、実際に火を噴く山や鳴動を目の当たりにすると、心穏やかならぬものがあるのは、齢七十を超えても変わらないのである。

長崎市内の観光を終わりにして、今日は島原で泊まることにして、南島原市にある道の駅「みずなし本陣ふかえ」に向かったのは、13時半頃だったか。島原街道(R251~R57)を行って小浜の温泉に立ち寄り湯をした後、さてどちらを行くかしばし迷った。近道ならば山越えのR57を行けばいいのだが、名にし負う火の山普賢岳の傍を通ることになり、もし突然噴火したり、大地震が発生したりしたら、逃げ場が無いだろうなどという妄想が湧き立って、困惑したのだった。今は火山活動は収まっているのだから、まあ大丈夫だろうとは思うのだけど、生来の小心者にはどうも安心は抱けないのである。1990年に噴火活動が開始される前の、九州在勤の時代には、雲仙の山脇の道を何度も通ったりしたし、その少し下にあるゴルフ場では、我がゴルフ人生初めてのイーグルを出した思い出などもあって、その頃は雲仙の山が火を噴くなどとは夢にも思わなかったのだが、あの大火砕流の惨劇を知った後では、未だに近づくのは恐ろしい。それで、結局はかなり遠回りとなるのを覚悟して、小浜からは海沿いに島原半島を回ることにしたのだった。

今は島原半島の自治体といえば、雲仙市と南島原市と島原市の3つに統合されてしまったけど、平成の合併前の加津佐町や口之津町などの頃が懐かしい。30数年前の5月の連休時に家族連れで島原を訪れ、口之津から天草にフェリーで渡ろうとしたら、予想外の大混雑で、5時間以上も待たされて、大幅に遅れて宿に到着したため、碌な夕食にもありつけなかったことなどを思い出しながらの走りだった。今日は大潮なのか、島原の海も有明の海も潮が遠くまで引いていて、海は沿岸の道路を遠く避けているような景色だった。小浜から1時間余走り続けて、目的の道の駅「みずなし本陣ふかえ」に着いた時はもう17時半を回っていた。この道の駅は、もちろん初めての来訪である。30数年前には、まだ道の駅などというものは出現していなかった様に思う。

まだ少し陽が残っているので、車を置いて構内を少し散策することにした。かなり広い駐車場が分散して作られているようで、直ぐ近くに休憩所やトイレなどのある駅舎近くに車を留めた。喫食などのできる建物はかなり離れて建っており、何やら旗や幟などが遠くにひらめいていた。近づくと、どうやらもう営業は終わっているらしく、人の気配は感ぜられなかった。直ぐ近くに大型のテントのドームのようなものがあり、何だろうと覗いて見ると、そこには土砂に埋もれた家屋があるではないか!一瞬息を呑むほど驚いたのだが、そうか!ここはあの大火砕流の現場であり、その保存施設だったのか、と初めて気づいたのだった。何の予備知識もないまま来たので知らなかったのだけど、1991年から1993年にかけて何回か発生した火砕流のどれなのかはよく分らないが、土砂に埋まった家屋の姿は、何とも不気味で、往時はその土砂も溶岩まみれの高温だったのではないかと思うと、その恐怖感は如何ばかりのものかと、足がすくむほどだった。後で説明板などを読むと、ここには土石流被災家屋保存公園が併設された道の駅だったのだ。

駅の名称が「みずなし本陣」となっており、何故みずなしなのかと思ったのだが、それはこの傍に水無川というのが流れており、(水があるのか、無いのかはよく分らない)そこから来ているのであろう。本陣とはその昔なら宿場の中心宿泊施設といった所であろうから、現代では車利用者のメイン休憩施設のある場所といった趣きで名付けたものなのかもしれない。そのようことを思いながら車に戻ったのだが、海を背にした正面には、夕暮れの中に荒れた地肌を剥き出しにした普賢岳が不気味にこちらを見下ろしており、その傍のとんがりが平成新山という最高峰なのであろう、これ又威嚇的で、北海道の有珠の昭和新山を想わせるぞっとするような景観だった。

いやあ、とんでもない所へ来てしまったと思った。事前に知っていれば決して泊る場所には選ばないのにと思った。今からでもここを逃げ出してどこか泊れるような場所を探すべきかとも思ったのだけど、何しろ気づくのが遅かった。夕闇が迫っており、空模様も何だか怪しくなってきている。自分たちだけなら、我慢が出来なくなって逃げ出すのかもしれないけど、周りを見ると何台かの泊りの車もいるようなので、ま、何とかなるだろうと逃げ出すのは思い止まった。人間、いざとなると共犯者(?)が欲しくなるということなのであろう。

くるま旅の宿は自在であるとは言うものの、実際はそう簡単でもない。基本的には自然災害や人災のことをなどの安全の確保を考えて選ぶことが大切であり、そのような条件からは日本国内では道の駅やキャンプ場などを利用することが多い。費用のことを考えると道の駅を利用することが多くなるのだけど、北海道などでは無料のキャンプ場も多く、又トイレつきの駐車場のある公園なども利用の対象に含まれている。本当ならばくるま旅専用の有料簡易駐車施設のようなものがあればありがたいのだけど、今のところ世界でもくるま社会の先端を行っていると思われるこの国には、そのような施設が必要という発想が無い様で、くるま旅の文化形成とは無縁の有り様だ。それ故なのか、無料の施設利用でのトラブルや問題の発生が増加してきている。

もう一つ、安心して一夜を過ごせるかどうかは、合理的な安全性だけでは不十分だということも考えなければならない。一夜の泊りにと選んだその地が、心を脅かす何かを放っていないかどうかという、心理的不安感ともいうべき障害の有無である。このようなことを言うと問題があるのかも知れないけど、鈍感な人は幸せというべきか。超敏感な人となると、例えば古墳(その昔の墓場)の跡に造られた道の駅に泊ると、安堵して眠れないというようなことが起こるのである。勿論そ古墳の跡地とは知らないままにそこに泊ったのだけど、どうも不気味なので、後で調べたらそういう場所だったというようなことが、実際にあるのである。超常現象というものは存在するものであり、これは合理性では割り切れない。旅をしている間に次第に確信的になって来ている宿選びの重要条件の一つである。

「みずなし本陣ふかえ」の夜は不気味だった。11年前の大火砕流では、40数人がそれに巻き込まれて命を失い、多くの人が家屋や田畑を失っている。それに巻き込まれた人の中には未だに行方が判らない方もおられるのであり、それを探す手立ても失われているのだ。もしかしたらここに展示保存されている土石の中に眠っているのかも知れない。無機質な土石の中に閉じ込められたままの魂があったとするなら、静かに眠りにつくなどということが出来るはずもない。そのようなことを思うと、安穏に一夜を過ごすことが憚(はばか)れるような気分にもなったのだった。

しかしまあ、アルコールの力も借りて何とか心穏やかに朝を迎えることが出来たのだったが、早朝3時過ぎ頃からはもの凄い豪雨となり、車の天井は悲鳴を通り越した絶叫が鳴り響く感じだった。これはもう涙雨などというものではない。この雨は夜が明けても降り続き、9時を過ぎてようやく小降りの状態となった。この雨の激しさこそが火砕流で命を落とされた方の無念の大きさを告げているのかも知れないと思った。

九州の火の山では、もしかしたら島原のこの山が一番激しいのかもしれない。阿蘇や霧島、桜島ほどのパワーはないのかもしれないけど、その気性の激しさは、近隣に住む生きものを震え上がらせるには十分である。今は爆発させた思いを一先ず鎮まらせて、有明や天草の海を、そして橘湾を睥睨(へいげい)しているけど、やがて遠からぬ何時の日か、人間どもの思い上がりの数々に怒りを貯め込んで、火を噴き出す時が訪れるに違いない。そのようなことを思ったのだった。    (1012年 九州の旅から)

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年賀状のこと、あれこれ

2013-01-12 06:51:16 | 宵宵妄話

  元旦の宴の酔いが醒める頃に、今年も年賀状の第一弾が届きました。今年もたくさん頂戴しました。300枚くらいになるかと思います。一年に一度の到来物ですが、これを見るのは楽しみです。賀状の一枚一枚を見る度に、ついつい忘れていた懐かしい人の顔が思い浮かびます。もう一別以来60年以上もの時間が経っている小学校1年生時の担任だった優しい恩師の顔。中学校卒業以来未だ一度もその後の顔を見ていない友の顔。元勤務先でのたくさんの仲間の一人ひとりの顔、いつしか疎遠となってしまっている親戚の人たちの顔。旅で出会って、その後一度も再会を果たしていない遠地の知人。そして先日久しぶりに再会を果たした学友の顔等々。どの顔も懐かしく、往時の様々な思い出がよみがえります。

 年賀状というのはいつから始まったのか。不思議な習慣のように思えます。郵便制度が出来てから本格化したのに違いありませんが、古くは飛脚などが活用され始めた江戸時代辺りに、その萌芽があったのかもしれません。自分独りではなく、係わりのある人への感謝をこめて、共に清新な気持ちで新しい年を迎えたいという願いが籠っているのが年賀状なのではないかと思うのです。別の言い方をすると、ご縁の確認ということなのかもしれません。「縁は異なもの味なもの」とは男女の縁についての感慨ですが、考えてみれば男女にかかわらず、生れてこの方の全ての人との出会いは、不思議な縁につながっている様に思います。世界の人口が60億を超え、日本の人口も1億2千万人余となっていますが、これほど多くの人たちが居ても、自分の生涯の中で一体どれほどの人たちとの出会いを果たし、縁を結ぶことが出来るのか? 考えてみればそれは誠に僅かなチャンスであり、不思議なことなのだと思います。自分自身を振り返っても、ご縁を得た人の数と言えば、どんなに多く見積もっても5万人にも及ばないと思います。5万人と言えば、大変な人数のようにも思えますが、1億2千万と比べれば、ましてや60億超の人間の住む地球の、グローバル化とやらを迎えている今の時代では、真に極少の員数に過ぎません。

 ところで、この僅かなご縁がとても大切だなと思うようになったのは、比較的最近のことなのです。一時「虚礼」ということばに引っ掛かったことがあり、毎年飽きもしないで決まったような文語を書き連ねるばかりの年賀状について、何がめでたいのか、こんなことをして本当に人に心が伝わるのかと、そのようなことに妙にとらわれたのでした。特に現役時代の頃は心忙(せわ)しいことが多く、大して意味のないようなことは、この世のムダだなどと、まあ、大変な思い上がりをしていたのでした。知らず効率主義のものの考え方に毒され、自分の都合のいい考え方から「虚礼」などということばを思いつき、それを本気で実践するつもりになっていたのでした。しかし、いざとなれば、やっぱり止めることにためらいがあり、迷いの中で続けざるを得なかったと、そのような愚かな時を思い出します。今になってみれば、続けていて良かったのだと、我が身の危うさを避け得て安堵しています。

 人は自分の力で生きているだけではなく、生かされている存在でもあるのだと思います。ご縁というのは、その人とのつながりを証明することばなのだと思うのです。たくさんのご縁があるというのは、たくさんの人とのつながりに生かされているということなのです。このように言うと、宗教かぶれ、仏様かぶれなどと思われてしまいそうですが、自分の力だけで生きているのだという考えはやはり思い上がりではないでしょうか?「他力本願」は阿弥陀様の願いなのだとは、親鸞聖人の教えの真髄ですが、他力というのはこの世に生きている間にご縁を持つことが出来た全ての人のことを指している様にも思えます。阿弥陀様は、あの世の入り口で優しく迎えて下さる仏だと聞いていますが、それはこの世の中でご縁のあった一人ひとり全ての人たちの心の中にも鎮座している存在のように思えるのです。そのように考えると、年賀状が虚礼だなどという考え方は、思い上がりであり、せっかくの人とのご縁を自ら断ち切るという蛮行につながっているように思えるのです。

 しかしまあ、現実的にはそれらご縁を大切にするとはいえ、なかなか丁寧にとはゆかず、年賀状の作成に当たっては、宛名はラベル印刷でごまかし、本文の方は共通の印刷文句で済ましてしまっているというのが自分の現実です。本当はお一人ひとりに、去年の賀状を見ながらそれに応える内容のことばを用意すべきなのだと思いながら、300人を超える顔に圧倒されて、尻ごみしてしまっています。特に宛名のラベル貼付については、やはり失礼なのではというためらいがあります。

 最近頂戴する賀状では、パソコンを使って、専用ソフトで宛名も本文も巧みに作成されているものが多くなりました。いずれは自分も使わざるを得ないとは思いつつ、なかなかその気になれないままで居たのですが、今回ついにそのソフトやらを使う決心をしました。特に宛名の方を重視しました。つまり、はがきの表面が宛名になるわけですが、専用ソフトでは宛名だけではなく、差出人の住所氏名も入力できるようになっていますので、今までは裏面の本文の中に入れていた分だけスペースに余裕が出来ます。それを活用してもう少し多く思いを伝えられればと思った次第です。昨年末にそうすれば良かったのですが、なかなか決心がつかず、今年の賀状を貰って、やはり宛名は専用ソフトが明確で一番いいと決心したのでした。早速筆王というソフトを買って来て、来年の為に住所の登録を済ませ、印刷の練習も行って万全を期しています。「決心即実行」が信念なのですが、この頃は決心までの時間が長くなっているのが気になります。本来残りの時間が少ないのですから、決心はより早くすべきだと思うのですが、現実は逆行しているようで、これが老化ということなのかもしれません。

 ま、専用ソフトを使うとはいえ、裏面の本文の方は今まで通りの文章ソフトで行きたいと思っています。特に一文字でも手書きのことばを添えられるように努めたいと考えています。危うく虚礼の悪想に落ち込みそうになったりした、たかが年賀状なのですが、年に一度大切なご縁を結んでいる証拠としての、この日本の慣習を自分なりに守ってゆきたいと思っています。

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第54回新年会模様

2013-01-09 06:28:54 | 宵宵妄話

 去る1月5日に高校卒業時のクラスの新年会があり、出席して来ました。毎年恒例となっているこの新年会は、同窓会でもあり、今年で54回目を迎えました。既に半世紀を超えています。世の中には、たくさんの同窓会があると思いますが、高校卒業後54回も切れ目なく毎年続いているのは、それほど多くはないと思います。

この同窓会のメンバーは、勿論皆同世代で、辰年生まれが揃っています。満年齢72歳です。早や生まれや健康等の事情があって辰年以外の生まれの人もいますが、そのようなことは問題ではありません。今年の出席者は15名でした。卒業時の在籍者は53名でしたが、亡くなられた方が5名、その後の連絡不通者が3名おり、連絡可能な者は現在45名です。しかし、所定の連絡先に葉書を出しても応答なしの人が2名ほどおり、実質的には現在の登録メンバーは43名となっています。今年は35%の出席率でしたが、多い時には50%を超える時もありました。

何でもそうですが、一つの集団が集団としてまとまり、維持できるためには、そこに幾つかの必要な条件があります。目的や役割などが重要視されますが、最も重要なのは集団がまとまる根源となる力であり、これを専門的には集団の凝集力というのだそうです。これはグループダイナミックス(=集団力学)という学問の説明です。職場などの営利的行為を離れた集団では、目的や役割などよりも、もっと別の凝集力の根源が重要ではないかと思います。

この新年同窓会の凝集力の根源は、明確です。卒業時の担任だった恩師の存在がそれなのです。恩師は数年前に幽界に旅立たれましたが、その凝集力は今でもこの集まりに大きな影響をもたらして下さっています。

思うに、教師というのは、在学時の指導よりも卒業後に何をなされるかによって本来の使命を全うされるのではないか。つまり、人生の指導者としての存在こそが教師の本来の姿なのではないか。そのようなことを教えて下さった恩師の人となりでした。知識の付与などというものは、本当の教師の役割使命ではなく、大切なのは、学ぶ面白さを解らせることであり、それを使って生きることの楽しさ、それに気づかせることなのだと思います。本来、人は自分自身の力でしか学ぶことはできないのだと思います。卒業後の集まりの中で、恩師にいろいろ教えて頂いたことは、今でも肝に沁み込んでいます。

この新年会では、過去一度も手拍子に合わせて歌を歌うとか踊りを踊るなどという振る舞いを見たことがありません。酒が入ると、大声をあげて歌ったり、騒いだりするのが宴会の当たり前の姿ですが、そのような雰囲気は全くないのです。それでは、取り繕って堅苦しい雰囲気なのかといえば、そんなことは全く無く、至って平穏なムードなのです。一人ひとりがこの一年の出来事の報告を行い、それをじっくり聴いて、時に質問をしたりして、お互いの状況を確認し合うだけの時間なのです。これがとても気に入っています。そのような連中の集まりなのです。

さて、この新年会のメンバーは多士済々です。厳密にいえば、自分などは多士の中には入らないと思いますが、現役時代の一人ひとりの肩書きや実績は、それなりに称賛に値する人物が殆どだと思います。個別に披歴すれば偏った自慢話のようになるので、止めますが、言いたいのは、もはやそのような過去のことではなく、今現在の暮らしぶりです。ハッキリ言えば、ジサマとしての暮らしぶりです。

古希を過ぎて3年も経てば男も女も皆人畜無害の存在となりますが、多士済々のメンバーの中には未だ毒の抜けきらない人もいて、ピリ辛の世情コメントなども飛び出します。しかし、多くのメンバーは、もはやそんなことは脇に置いて、話の主題といえばやはり健康や暮らしぶりについてのことが多くなります。

生・老・病・死は、避けて通れぬ人の道ですが、我々の世代では、老と病がミックスされた只中にあり、その向こうに最終のゴールが垣間見えるといった状況です。今回出席メンバーの中にも大病を患い、未だ予後の手当てに油断ならぬ人もおられるし、欠席されたメンバーの中にも、同じように病苦に悩まされている人が何人もいるといった状況です。病についての話を聴いていると、辛くて重い気分となりますが、少しでも早く痛みや不安が除かれて、元気を取り戻して欲しいと願うばかりです。ピン・ピン・コロリの前提は、健康であるということなのですから、この願望を実現させるためには、不断の健康づくりの実践が大事なのだと、改めてそのことを思ったのでした。

暮らしぶりと言えば、現役の人は2名ほどで、殆どは年金暮らしに入っており、苦笑含みの懺悔話の如きものの披歴が増えて来ています。カミさんに代わって買い物をすることが多くなり、チラシの食材の値段などに敏感になったとか、物忘れが気になり出して要注意だとか、かつての多士済々も、今の現実はお互いごく平凡な生きざまを晒し合う(?)と言った状況なのでした。

今回の出席者は15名でしたが、実はそうではなく、幽界からも恩師を初め全員が参加してくれているのだと思っています。このように書くとオカルト的になりますが、世の中にはそのような不思議があってもいいのではないかと思うのです。幹事メンバーの一人と一緒に、エレベーターの前で未到着者を待っていると、ドアが開く度に目がそこに行くのですが、ドアが開いても無人の時には「おっ、先生が来られたぞ!」と声を上げた隣の彼を見て、やっぱり思いは同じなんだなと思った次第です。馬の骨は、この不思議な集まりの幹事の一人なのです。

あと何回この集まりが実現するのか、これからが正念場だと思っています。少なくとも集まりが還暦を迎える頃までは続けたいものです。ギネスブックに登録されるほど続けられれば、こりゃあ大したもんだと思いますが、実のところ、回数など問題ではなく、あの世に行ってもこの集まりは平平凡凡と続いて行くのではないかと思っています。

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微酔半酣

2013-01-02 08:31:17 | 宵宵妄話

  新しい年となりました。我が人生のゴールを80歳とする24時時計は、21時36分を回って、今年の終わりを告げる21時54分に向かって動き始めています。24時まで、いよいよその時が迫って来ています。昨年は6回目の辰年を迎え、老というものの持つ悲しみのようなものを思い知らされた感じがしたのですが、これからはそれらをより深く思い知って、残りの時間を大切にしたいと考えています。「元日や 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」は一休禅師の警句ですが、これからは、めでたくもなしの方を肝に銘じて新年を迎えて行かなければと思っています。

 さて、今年も無事に旅が出来ることを念じて、神頼みは守谷市が村の又その小さな集落だった頃に祀られた道祖神様に初詣をしました。土塔という地名のその道祖神(道陸神)は、江戸の頃まで村人が旅に出掛ける時には草鞋を一足捧げて旅の道中の安全を祈願したとのこと。また、秋の実りの季節には、道陸(どうろく)神を囲んで、太鼓をたたいて豊穣の喜びを踊り祝ったとか。そのような道祖神も、今はつくばエクスプレスの駅が出来て、隅の方に引っ越しを余儀なくされて、誰も滅多に振り向かない存在となってしまっています。自分はいわば旅の流れ者のような存在ですが、守谷市に越して来て、この道祖神を知って以来、毎年年末年始の参詣を欠かさないようにしています。

   

守谷市つくばエクスプレス守谷駅傍にある土塔道陸神。ここに移設されるまでどこにあったのかは知らない。周辺は、草鞋を捧げて旅の安全を願った時代とは全く無縁の景色となってしまったが、自分には往時の人々の声が聞こえてくるような気がする。

 ところで旅の源泉は何かといえば、勿論心の働き、すなわち旅に出掛けたいという衝動のようなものが不可欠なのだと思いますが、もう一つ大切なのは、身体の健康ということではないかと、この頃は特に強く思っています。心と身体は相関連して機能するものだと思いますが、物理的に車を運転し、身体を動かし運ぶとなると、これはもう心だけではどうにもならないことであり、やはり身体自体が動ける状態を維持しておかなければならないものだと思います。身体が動く状態を維持するためには、何よりも毎日身体を動かさなければなりません。じっと座ったままでTVを見ながら身体の健康のことを思っているだけでは、動物としての身体の健康は維持できないのではないか、というのが自分の考え方です。ところが加齢と共に、だんだんと動くのが億劫になり出し、動かすについての頭と身体の主導権のせめぎ合いのような状態になってきました。今のところ何とか動かす方が勝っていますので、昨年も歩きの方は480万歩を超えることが出来ましたが、さて、これから先どこまで億劫さを抑えることが出来るのか問題です。

 これから先の身体のことを思いつつ、養生訓などをめくっていましたら、いいことばが見つかりました。酒のことについてなのですが、「酒は微酔に飲み、半酣を限りとすべし」というものでした。今までずっと無視してきたのですが、この頃はアルコールの中毒度が進んだようで、微酔を通り越し、半酣を上回る気分で過ごすことが多くなっているのを実感していたのです。こりゃあまずいな、と思いつつも常に酒礼賛の気持ちがふつふつと沸いており、これを拭うことができません。止めるつもりなど毛頭ないのですが、コントロールの暗示をかけることばが必要だなとは、ずっと思っていました。上杉謙信の辞世の句「四十九年 一酔の夢 一期の栄華 一杯の酒」などを掲げて見ていると、一酔の夢、一杯の酒などのことばが大きく胸に飛び込んで来て、酒なくて何の人生か、などと思ってしまっていたのでした。謙信公よりも20年以上も長生きしてしまっているのですから、もはや意気がって酒にこだわる必要もないのかもしれないと気づいたのでした。

 今年から、酒は「微酔半酣」を心がけることにします。そして、せめて人生時計が24時になるまでは、くるま旅を楽しみたいと考えています。これが今年の目標です。  馬骨

   

元日の昨日は、文句なしの澄み渡った青空でした。この写真は失敗なしなのが何よりも嬉しい。今年はこの青空のような清々しい出来事が増えて欲しいものです。

 

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