九州の旅に当たっては、幾つかのテーマを用意して臨んだのだが、史跡や文化財などの他に、何か面白そうなものはないかなと探していた中に「石の風車」というのがあるのを見つけた。風車というのは、「ふうしゃ」なのか、それとも「かざぐるま」なのか、見当もつかない。「ふうしゃ」ならばオランダのそれを思い起こすし、「かざぐるま」ならば紙でこしらえた小さなそれを思い出す。いずれにしても石で出来ているというのは今まで見たことも聞いたこともない。本当にそのようなものがあるのだろうか?と思った。あったとしても石で出来ているというのならば、風で回るなんてあり得ないのではないか。只のアーティストの彫刻のようなものではないのかと思った。とにかく見てみたいものだと思った。
その石の風車は、熊本県山鹿市の旧鹿本町の津袋という地区の一本松公園にあるという。手元の地図には載っていない。今回の旅からデータ通信が出来るようにしたので、グーグルの地図が見られるようになって、その場所は直ぐに判った。市販されている地図がだんだん少なくなってきており、日頃大いなる反発を覚えているのだけど、こうやって旅先でもネットで詳細な地図を見られるようになってしまっては、それも仕方がないのかなと思ったりした。しかし、旅先でネットを覗けない人やそのようなものに馴染めない世代の人たちにとっては、良い地図が少なくなってゆくという現象には怒り交じりの時代への反発があるに違いない。地図を見る楽しみは、ネットでは満たされないのだと思う。
ま、そのような感慨も持ちながらの一本松公園への来訪だった。着いたのは、小高い丘の麓にある駐車場で、上の方から賑やかな声が聞こえて来ていた。今日は日曜日なので、公園は家族連れの人たちで賑わっているようだった。石の風車がどこにあるのかは見当もつかない。とにかく上の方に行ってみることにした。かなりの急な坂なので、病のハンディの残る家内には相当にきついのではないかと、途中休みながらゆっくりと上った。坂の中頃には、ローラー滑り台が作られており、これは相当の長さだった。今まで旅の中で見て来たこのタイプの滑り台の中でも、その長さは上位に入るように思った。しかし、その滑り台で遊んでいる子供が少ないのは、小さい子では怖がってその気にはなれないのかも。冒険心のある子供は、今日はあまり来ていないのかななどと思ったりした。汗をかきながらようやく丘の上に着くと、そこには休憩所の建物があり、売店などもあって人が群れていた。思っていたよりもかなり広くて、少し先の方には駐車場も造られていた。少し遠回りすれば上の方まで車で来られたものをと、ちょっぴり下の駐車場に案内板などが無かったのを恨めしく思った。
一息入れた後、もう少し上の方に行ってみることにした。どうやら石の風車は上の方にあるらしい。この丘の公園は、古墳の後に造られているようで、一番高い場所に、その昔一本の松の木が植えられていて、それがこの地のシンボルとなっていて、一本松公園という名もそこに由来しているとのことである。その松の木も枯れてしまい、何代目かの現在の松の木は、古墳を壊さぬように天辺脇に植えられているとの説明があった。
石の風車は、その一本松の手前に造られていた。三本の太い石の柱が建っており、その、それぞれの上方に赤御影石(スペイン産)の巨大な羽根が取り付けられていた。(後で知ったのだが、このかざぐるまは親子をイメージして造られており、中央が親、両脇が子を表しているとのことだった) まさにこれは「かざぐるま」だと思った。「ふうしゃ」ではない。子供の頃から馴染んでいるあの紙で作ったかざぐるまと同じデザインの、石でできたかざぐるまが三つ並んでいたのである。ずっしりと重量感のあるかざぐるまなのである。このようなものが本当に動くのだろうかと思った。
熊本県山鹿市鹿本町の一本松公園の石の風車。中央が高さ5.5m、重さ16t、羽根の直径2.2m。両脇は高さ3.3m、重さ6t、羽根の直径1.8mとの説明があった。夫々が別の方向を向いて建てられているのは、微妙な風の向きを巧みに捉えるためか。
台の下の方に説明板があり、それによると回転力は自然の風だけと書かれていた。正面からの風ならば風速3mで羽根が回るという。あいにく、今日は今無風の状態で、風はそよともない。これじゃあ、とても回っているのを見るのは無理だなと思った。それにしても、本当にススキの穂が揺れるくらいの風で、あの重そうな羽根が回るものなのだろうか。依然半信半疑の気持ちだった。
何枚か写真を撮って、諦めて他へ行こうとしたその時、である。何と、僅かながらその風車が動いたのである。あれれ、え~っと思った。しばらくじっと見ていると、間違いなく動いている。肌に感ずるほどの風もないのに、である。電動の仕掛けでもあるのかと、近づいてよくよく調べてみたのだが、どこにもそのような気配は見られなかった。少し風を感ずるようになって、羽根はゆっくりと回転を始めた。ああ、やっぱりこれは間違いなく風で動いているのだと納得した。まさしくかざぐるまなのだった。いやあ、感動した。そろりと動くそれを見ながら、自然の仕組みとそれをここまで引き出した人の力を凄いなと思った。
動き出した石の風車。青空と白い雲を背景に迫力満点だ。それにしても、よくもまあこのようなものを思いついたものである。
今、世の中は原子力とやらの平和利用に決別を求められている。先の東北大震災で、福島原発の大事故がそれを証明しているのだけど、人類の、日本国のエネルギー政策は曖昧で、何の決断もしてはいない。この国では、政治の先送り体質がそう簡単には改まらないのは、もう国民の誰もが諦めていることである。しかし、エネルギーを何に依存すべきかというテーマは、これからのこの国、否地球上のすべての国共通の重要課題であることは間違いない。自然エネルギーの利用ということでは、風力発電が一つの期待の中にあり、各地に巨大な発電風車が何基も見られるようになりつつある。この石の風車が回るのも、あの巨大な風車が回るのも同じ原理なのだと思うけど、素人目には、石を回す風力利用技術の方が、風力発電の風車を回すそれよりも優れているように思った。何故なら、風力発電の風車は風が吹いているのに動かずにサボっている奴が結構多く見受けられるからである。どんな微細な風でもそれを力として受け止め、石の羽根でさえも動かすという技術は、発電に利用できないものなのだろうかと、そう思った。
ま、しかし、世の中というのは、新しいものと古いものとを直ぐに識別できるほどは常識的ではない。発電風車が古いのか、それとも石の風車が新しいのか。そんなことは、どっちでもいいんじゃないというのが今の風潮である。自分的には、発電風車よりも石の風車の方が数百倍も新しいものだと思っているのだけど、さてどうなのだろうか。あんな重いものが風で回るなんて、あれを風で回せるなんて、こんな凄いことはない。あののっぺりとした大型の風力発電の装置なんぞよりは、よっぽど優れた技術ではないか、そう思った。
後で調べて知ったのだが、石の風車はここだけではなく、岡山県の高梁市と高知県四万十町にもあるとのことだった。いずれも西日本の方にあり、関東や東日本には元々石の文化が発展・定着しなかったことの表れなのかもしれない。今度の西日本への旅の際には、それらを訪ねてどんな具合に出来ているのかをじっくりと見てみたい。そう思っている。 (2012年 九州の旅より)