山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

高齢者運転マーク

2013-12-30 06:05:13 | 宵宵妄話

  「枯葉マークなんて、チャンチャラ可笑しいわ」とつい最近まで思っていたのだが、73歳の誕生日を迎えて、もはや覚悟を決めて、老年に相応しく素直になることにして、高齢者運転マークを旅車に貼り付けることにした。自分的には、枯れ落ち葉にも濡れ落ち葉にもならないという自信というか信念のようなものはあるのだけど、車の運転は自分だけの思い上がりでは安全は確保できず、他人様の配慮を頂戴して初めて成り立って行くものだと、改めて思った次第である。

 そう思いつつも、誕生日を過ぎてなお時間が経ってもなかなかそれを買う気になれず、2週間近く経ってようやくその気になって、マークを買い入れたのだった。高齢者運転マークには2種類あるけど、枯葉をデザインしたのは敬遠して、枯葉らしきものが混ざっている方の奴を選んだ。とうとうこれを貼る時が来たのだと、逆らっても意味のない生きる時間の絶対的な経過力への抵抗を放棄したのだが、ちょっぴり複雑な心境だった。

 ところで、このマークを貼るについては、自分だけではなく、いつも同乗する機会の多い家内にも関係があることで、このお人はどういう訳なのか、前を走っている車の後方に「あかちゃんが中にいます」とか「Baby in Car」などというラベル表示を見ると、「どうして赤ちゃんだけを強調するの?むしろお年寄りの方が追突されたら危ないのじゃないの」とのたまうのである。それで、つらつら思うに、これらのラベルは後続車に注意して頂くためのものなのだから、追突などして頂かないためにも、運転者以外にも老人(老婆?)が乗っていることを知らせるために、高齢者運転マーク以外にそれを示しておく必要があると考えたのである。

 そこで、「Baby in Car」にあやかって何か年寄りが乗っていることを警告する様なラベルは無いかと、車用品の店などを探しまくったのだが、どうやら老人を大事にしようなどという考えはこの業界では重視されてはいないようで、どこを探してもそのような種類のラベルを見つけることは出来なかった。それはそうだと思う。危なっかしいご老体には、できることなら車になど乗らずに家でおとなしくじっとしていて欲しいというのが、現役世代の心情なのであろう。しかし、老人も生き物であり、外出もせずに家の中にじっと閉じこもっていると、たちまち寝たきりになるのは必定である。人間という奴は、所詮は動物なのである。動かないと生きる機能が低下し、やがては自分自身の力では生きられない状態に落ち込んで行くのだ。だから、社会保障費や医療費を減らすためには、老人は(車に乗ってでも)大いに外へ出て、活き活きと動き回ることが大事なのだ。

 それで、老人を少し意識して頂くためのラベルを、自分で作ることにした。あれこれ考えた。「恐怖老人 運転中」などという脅かしのラベルも面白いなと思ったりしたけど、これじゃあ逆に事故を呼び寄せるなと思い、結局赤ちゃんラベルにあやかって、「ジジババin Car」とすることにした。しかし、ジジババはやはり英字にした方がよかろうと、JiJi BaBaとすることにした。最初はババの方をVaVaとしようとしたら、「どぎついから、止めて!」と家内にたちまち反対されてしまった。JiJiをGiGiにしようかなどと考えたりもしたが、これじゃあ「ぎーぎー」になってしまうなと思い、止めることにした。しかし、「JiJi & BaBa in Car」だけでは寂しい感じがするので、更なる注意喚起を促して頂くために、その頭に「Attention Please!」と赤い色で入れることにした。これで決まりである。

      

旅車(SUN号)の後方左側の壁に貼りつけた高齢者マークとジジババ注意喚起お願いラベル。

 とまあ、相変わらず理屈の多いことではある。とにかく腹は決まって、昨日それらのラベルを旅車の後方左側の壁に貼り付けたのである。これらを貼りつけたのは、老を嘆き諦めるためではない。残りの時間を老が熟成するように存分に楽しみながら、家内と二人で行けるところまでくるま旅をし続ける覚悟の証のようなものである。願わくば、ナンバープレートの数値通りに「88-55」まで、即ち88歳まで旅にゴーゴーと出掛けられることを思っている。

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思いあがりの功罪

2013-12-27 05:16:59 | 宵宵妄話

 東京都の知事だった猪瀬氏が辞任した。辞任してから未だ半月も経っていないけど、早やそのような出来事は忘れ去られようとしている如き感がする。政治家の失脚は、それが確定されるまでは大騒ぎだけど、その後は超スピードで大衆の脳裏からは消え去ってゆくようだ。それを煽りたてているマスコミの矛の向け先が変わると、大衆は面白いようにそちらの方を向いて行く。心あるものは決してそのような流れには乗らないのだが、世の中は、まるで心ないものが操っているかのような感じがする。

 猪瀬氏は政治に絡む金銭の贈収賄の疑いにより、その疑念を晴らすことが出来ずに、灰色のままの辞任となったが、彼の失敗の真因は徳州会とのそのようなやり取りを為したことに由来するのだろうか。自分はそうは思わない。政治資金がらみの灰色の行為を無視するわけにはゆかないとは思うけど、この程度の金品のやり取りは、探り出せば、有名・無名の多くの議員についても、潜み取り付いているに違いない。巧みに正当化の手段を使いこなしていれば、誰にも暴露出来ない現実など、掃いて捨てるほどあるに違いない。叩けばでる埃は、埃を埃のままにしていたから出てしまうのであって、霧吹きなどで濡らし秘めておけば、埃と解る筈は無いのである。猪瀬氏は、そのような予防手段を講じていなかったのであろう。否、埃を埃と思う感性すら何処かに置き去りにしていたのかもしれない。

 猪瀬氏の失敗の真因は思いあがりにある、と自分は断言したい。思いあがりというのは、自信過剰であり、己の思想信念を第一として、他を無視・軽視するということである。自己というものを無意識のレベルを超えて前面、最高位に位置付けて、我を通すという生き方を意味する。これは本人にとっては、かなり快適性の高いものかもしれないけど、利害や能力の差が大きい場合は、その周辺に居る人たちにとっては、大いにストレスを増やす要因となりうる。年がら年中、己の弱点や能力不足を責められていたのではたまったものではない。権力の座に居る者の思い上がりが昂ずると、その周辺で影響を蒙る人の間では、些細な出来事でさえも、いつしか怨恨のようなものに連なって行くかもしれない。猪瀬氏や前知事の石原氏なども、周辺の関係者がそのようなストレス要因となるような言動を数多く振りまいていたのではないか。その人が優秀であればあるほど、その自信や信念が周辺を傷つけることはありがちなことだ。

 それで、先人は「稔るほど頭を垂れる稲穂かな」などという警句を詠んだりしているわけである。しかし、思いあがっている間は、人はそのことに気づかないのだ。もともと気づいていれば、思いあがることなど無いのかもしれない。と、まあ、ここまでは世の中一般の普通の善悪観念に基づくコメントということになる。つまり、思いあがることは良くないことであり、周囲を傷つけずに慮(おもんばか)りの精神を持って周辺の人たちと仲良くやって行くことが良い行為なのだというわけだ。

 しかし、自分的に言うならば、人は思いあがるからこそ己のエネルギーを最大に燃やして大きな成果を上げ得るのだと思う。謙虚を旨とし、少しも思いあがらないような人物がこの世に大きな何かを残すということは殆ど無い。自己の思想信念を強く主張し、それに基づいた実践を心掛けなければ、目に見えるような成果は生まれないのである。そのような己の思想信念を強く持った生き方は、それが権力の立場にあればある程、思いあがりとみなされることにつながってゆく。特に為政を任されているような場合は、理解よりも誤解や曲解を招くことは大いに考えられることである。

 自分は今、何かを為すことに於いて、そのエネルギー源としての思い上がりは必要だと思っている。人は誰でも、己の全力を挙げて何かを為そうとする時は、思いあがるのではないか。しかし、思いあがりが周辺を、或いは己と関わりのある個人を傷つけるとしたら、要注意であろう。その傷の痛みを己自身にフィードバックする必要がある。その上で引き続き思いあがりのエネルギーを燃やし続けなければならないのだと思う。猪瀬氏は、そのフィードバックを忘れてしまっていた様に思う。残念なことである。

 思いあがりの功罪についてあれこれ考えて見た。我が国の歴史上で最高に思いあがった人物といえば、それは豊臣秀吉を措いて他にない。彼は成り上がりという面でも歴史上最大の成り上がり者だと疑わないけど、織田信長の草履取りから始まった彼の武士としての暮らしは、その後の出世のプロセスにおいて、権力が拡大するにつれて、己の思いあがりのもたらす周辺へ人たちへの脅威のようなものを、己自身にフィードバックすることを決して忘れなかった。だからこそたくさんの味方を得ながら、ついには信長の後継者としての座に着くことが出来たのだと思う。しかし、そこから先の秀吉氏の思いあがりは、フィードバック機能を放棄して止まることを知らず、ついに子孫はあっという間に徳川家康の軍門に下り、消え果てたことをあの世から見る羽目に至ったということになる。どうやら人の為すべき行為には、思いあがりに関する法則のようなものがどこかに潜んでいるようで、フィードバック機能を取り外してしまった時に、思いあがりのエネルギーは暴走し、やがて自爆に向かうようだ。

 ところで、世界遺産というのがある。この中で文化遺産といわれるものの殆どは、その時代の思い上がり者の残したものではないか。普通の人々の遺したものといえば、飛越地方の山奥に残る合掌集落くらいのものであろう。それ以外の殆どはその時代の権力者たちが造り遺したものだと思う。世界遺産ならずとも、日本国の各地或いは世界各国においても同じだと思うけど、その地の遺産として残っているのは、時の権力者や金持ちなどが、思い上がりのエネルギーを燃やして造り遺したものが殆どだ。貧乏人や一般大衆の遺産など皆無であるといってよい。大げさに言うなら、地球に人間と呼ばれる生きものが存在して、その証としての遺跡を探すとしたら、それは時の権力の座にあった者の思いあがりのエネルギーがつくり上げたものの残骸ということになるのではないか。思いあがりの必要性を認めないわけにはゆかない。ただ、生き様としての思い上がりには、周辺に対するフィードバック機能を帯同していなければならない。

 さて、もう一度猪瀬氏のことに戻って、自分は都民ではないので無責任なことが言えるのかもしれないけど、50億円もの無駄な費用を投じてもう一度知事選を行うのは、全くの愚行のように思えてならない。猪瀬という人物が、何の実績もないただの人気取り政治家だったのなら、50億円は無駄にはならないと思うけど、彼の能力は都民が選挙で選んだ目に叶うものではないかと思う。本人が給料を返上して都政に尽くすというのだから、やらせて見るべきではなかったか。マスコミや都議会は鬼の首を取ろうとするかの如くに、不正の非を責め続けていたけど、その結果が50億の無駄遣いにつながることを少しは考えるべきではないか。ま、このようなコメントは、美しい正義を夢に描いている人たちには、言語道断ということになるのかもしれない。

しかし、猪瀬氏が選挙資金の取り扱いを損ねただけの問題なら、申告し直せばいいだけの話ではないか。そのようなことは決して許されないと、正義の名のもとに非を責め続けることも又思いあがりということにつながってゆく。今の世の中、「宥恕」とか「寛恕」とかいうものがあまりにも少ない。権力に絡む思いあがりにつながるような場合は、その必要性など論外のことなのかもしれない。しかし、時々思うのだ。正義というは世の中を本当に最適化に向けて行くものなのだろうか、と。

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くまモンのこと

2013-12-23 20:54:50 | 宵宵妄話

  机の前の小さな棚の上に二個のくまモン人形が座っている。左は首を振るタイプで、右側は両手を上下させるタイプである。先日ホームセンターを覗いたら、バカに安い値段で売っていたので、衝動買いをしてしまった。この種のおもちゃ類が何故ホームセンターに置いてあるのか良く解らない。拡販のための新しい分野を導入したのであろうか。ま、釣りあげられた客の一人であることには間違いない。

 このくまモン人形は、ソーラー電源で動くようになっており、ほんの少しの明かりがあると、ほんの少し動くようになっている。明かるさが増すに従って元気を増し、最高潮になると音を立てながら首を振ったり、両手を上げ下げしている。なかなか面白い。小さな子供よりも、自分のような老人の方に向いている感じがする。老人は、どうして動くのだろうなどと分解したり、うまそうだなどと口に入れたりはしないので、くまモンを壊すことは無いから安全である。

     

マイくまモン君。左は首振り、右は両手を上下するタイプ。この他にビッグくまモンというのが最近入荷した。是非仲間に加えたいと思っている。この分だとやがて、机上はくまモン君で埋まってしまうかも。???

 くまモンというのは、勿論熊本県の県PRマスコットキャラクターである。自分が最初にそれを知ったのは、昨年(2012年)3月から4月にかけて九州を旅した折りに、人吉市近くの酒店で、いつも飲んでいるサッポロビール製の「麦とホップ」に描かれているのを買った時である。それまでにも何処かで見たような感じはしていたけど、強く印象付けられたのはその時だった。家内などは遠の昔から知っていた素振りで、軽く失笑されてしまった。熊のような変な漫画チックな奴が描かれた缶だったので、これは何だろうかと思ったのだった。このような缶は、他県では手に入らず珍しいというので、その時買った缶の一つを家に持ち帰って、今でも何処かに置いてある。勿論中身は無い。

 この頃は各県や地域で様々なテーマに基づくイメージキャラクター(ゆるキャラなどとも呼ばれている)が作られているけど、ジジイから見ると、皆子供向けであまり面白味がない。ま、もともと子供向けに開発されたものから出発しているのだから、それは当然なのだと思うけど、くまモンだけは少し違う印象を受けている。缶ビールの壁に描かれるほどのキャラクターは、くまモン以外にはないのではないか。幼児にビールなどを飲ませる筈がなく、くまモンのイメージキャラクターとしての存在は別格なのだと思う。

 それで、くまモンのことを調べて見た。今はネットで様々な情報を集めることができるので、あっという間にその正体が解ってしまう。恐ろしい時代だと思う。個人を裸にするのは要注意だけど、イメージキャラクターを裸にするのは気楽で簡単なのか、相当に詳しい情報が記されていた。誕生日まで記されていて、それは2011年の3月12日だという。生まれて半年間は熊本県の臨時職員だったが、同年9月30日に抜擢されて営業部長に就任、それ以降は大活躍中で、その活動は海外にまで及んでいるとのことだった。営業部長というのは、熊本県では知事、副知事に次いでの3番目の地位だというから、これはもうエライ立場であることは間違いない。

 このくまモンの生みの親は誰かといえば、小山薫堂という方とその友人の水野学という方らしい。勿論その背景には熊本県の懸命の知名度アップ戦略があったということであろう。それは熊本県が、九州新幹線の開業に伴う通過駅となってしまうという危機感があったからとか。これらの課題をくまモンは見事にクリアし続けているということになる。何しろ、九州新幹線などとは無縁のこのジジイでさえも、もはや今は毎日机上のくまモンを見ながら、人吉や五木、それに阿蘇などへ行きたいなと思いを募らせているのだから。

 ふと思ったのだが、熊本県の次回知事選挙で、くまモンが立候補したら、現職の知事は確実に落選し、くまモンが断然のトップ当選するのではないか。現職の知事さんの名前は調べないとわからないけど、くまモンなら忘れようもない。その功績だって、知名度に相応しく絶大なのだから、当選は疑いない。選挙資金など無くても大丈夫だ。中身がぬいぐるみに過ぎなくても、面白くて知名度を上げれば、選挙に打って出るというのが、今頃の流行りのように思った次第。

 くまモン君を例に出して申しわけないけど、この頃の政治は衆愚に向かっている感じがする。本来政治は衆智でなければならない筈なのだが、その反対に向かっている様な気がする。出身の類を問わず、知名度があり、一見まともそうな主張をしていれば、中身が大したことなくても、それが為政者に相応しいなどと思いこませてしまう、そのような世の中となっているようだ。くまモンが自民党に入って当選すれば、中身がぬいぐるみであっても差し支えないのである。各政党の中にどれほどのくまモンが紛れ込んでいるのか判らないけど、選挙者にそれを見抜く力がなければ、くまモンは当選し続けるに違いない。

 くまモンは、明るさに合わせて首を振り、手を上下させるしぐさを続けるだけでいい。選挙などに関わると、何時かしら思い上がってしまい、癒しの力を失うことは必定なのだから。机上のくまモンを見ながら、その様なことを思った。

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誕生日

2013-12-20 07:12:17 | 宵宵妄話

  12月のことを暮古月(くれこづき)というらしい。これは陰暦の呼び方で、暮新月(くれしづき)といえば、それは正月をいうのだそうな。70数年も人間をやって来て、最近そのような呼び方があるというのを知ったのだから、遅れているといわざるを得ない。この頃の時代は昔というものをどんどん置き去りにして、先に行くのを急いでばかりいて、振り返ってつながろうという意識が全くないように思える。絆だのふれあいだの何だのと一方ではその大切さを騒いでいるけど、ほんの少し昔の時代とさえつながろうとしないのは、如何なものだろうと思う。ま、斯く言う自分自身も、うっかりすると生まれ育った昭和という時代を忘れてしまいそうになっている。過去の思い出に浸るのは老いた証拠であり、危険だとは思うけど、時代を忘れてしまうのはより危険なような気がする。

 12月は自分の誕生月である。この15日に早くも73回目の誕生日を迎えてしまった。還暦を過ぎてからは、誕生日が来るのをめでたいとかありがたいとか思ったことがなかったのだけど、この頃は少し考えが改まってきた。73回もの誕生日を迎えられるというのは、ありがたいことだと思うようになった。というのも、同世代の知人の中には、既に誕生日を迎えられなくなっている人もいるし、体調を崩して動くのもままならない人もいるからである。それが年々増えて来ているのを知る度に、糖尿病の病持ちとはいえ、特別な薬など飲まずに、それなりに毎日を動き回って過ごせている自分を、恵まれていると思うようになった。当たり前といえば当たり前なのかもしれないけど、懸命に努力しても病に取りつかれて身動きできなくなっている人たちのことを思えば、これはもう天に感謝しなければならない。そう思うようになった。

 TVの宣伝の中に、バイオリズムの一種なのか、歳回りに関わる体調のリズムについての中国古来の考え方として、男は8年毎に女は7年毎に変化の時がやって来るという紹介があるけど、あれは本当だなと思っている。特に還暦を過ぎてからは、8年という歳回りが体調に大きく関わっているのを実感している。先ずは64歳がその1回目、そして2回目は72歳ということになる。その第2回目を昨年経験しているけど、幸いなことに病や事故に関しては特段の出来事は無かった(前立腺がんの検査で引っ掛かったということはあるけど、先ずは安全レベルで落ち着いている)けど、体力というのか老化というべきなのか、己の身体の活力に関しては、段違いの低下現象を実感したのだった。

 少し体重過多の傾向があったので、4kgほど減量しようと食事制限などを行ったのだが、体重は予定通り減少出来たものの、身体の状況といえば、実際の減量の対象となったのは体脂肪に関わる部位ではなく、その殆どが筋力に関わる部分のようだった。簡単に言えば、腹の出っ張りはさほど変わらないのに、足回りや尻などの筋肉がガクンと減ってしまい、その分だけ活力が消滅したということである。その時に、老化というのは筋力が衰えることが最大の要因ではないかと思ったのだった。71歳の誕生日を迎えた時に減量への挑戦を決めて実践に取り掛かったのだけど、その1年後の昨年はそのあまりの酷さに大いなるショックを受けたのだった。それが8年という歳回りの年だった。

 それでも幸いなことに3月の半ば過ぎ、エベレスト登頂に80歳でチャレンジするという三浦雄一郎氏の話をTVで拝見し、その周到な鍛錬の在り様を知って、如何に筋力を鍛え、老いを食い止めるかというヒントを頂いたのである。糖尿病の宣告を受けて以降今まで、20年以上毎年万歩計で400万歩を超える歩きを実践して来ていたのだが、その程度の歩きでは筋力の老化を止めたり遅らせたりすることは出来ないのだと知った次第である。ただ歩くだけではなく、負荷をかけなければダメだと思ったのである。

 それで、早速三浦さんに倣って、リュックに10kgのアレイを入れたのを背負い、登山靴を履いた各足首に1kgのウエイトを巻き、両手に各1kg(時には2kg)のウエイトを持って歩くことを開始したのだった。早朝のあまり人に出会わない時刻に、約7kmを1時間半ほどの時間をかけて毎日歩き続け、その成果を確認するために、約40km離れた場所にある筑波山(男体山871m、女体山877m)に時々登ることにした(計12回の実績)のだった。勿論登山の際は負荷なしである。せいぜい5kgほどの荷物を背負う程度で、これは負荷とはいえない。

 これを開始してから9カ月近くが経ったが、その効果は絶大で、身体全体が締まって来たことを実感している。当初は登山の後にふくらはぎの痛みなどが残ったりしたけど、6か月を過ぎた頃からは全くそのようなことは無くなった。まだ実践したことは無いけど、日に2回の登山も可能ではないかと思っている。身体というのは、ただ動かすだけでは老化を防ぐことは出来ないのだなと実感している。鍛えなければダメなのである。しかし、鍛えるといっても壊れるほど入れ込むと逆効果になることは明らかだ。マイペースで筋力を使って汗をかく程度の鍛錬でいいのではないかと思っている。これで、72歳になってから急激に低下した筋力と活力の低下が少し止まったように思う。三浦さんに感謝、深謝である。

 これから先、誕生日というのは己の鍛錬の成果を確認しながら、PPK(ピン・ピン・コロリ)に向かっての自信を確認し、天に感謝する日となるのではないかと思っている。次の大きな波は80歳ということになるけど、しかしその前に突然大津波が押し寄せてくるかも知れず、油断をせずにちょっぴりきつさを味わいながら、動物としての鍛錬を継続して行きたいと思っている。今年の誕生日には、そのようなことを思ったのだった。

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筑波山登山の記(第12回)

2013-12-18 20:35:59 | 筑波山登山の記

<第12回 登山日 2013年12月17日(火)>

 今年最後の筑波山登山にチャレンジする。3月末から登山のための鍛錬を開始し、5月の初めに第1回の登頂をしたのだが、12回となれば、平均で毎月1回登ったことになる。当初の思いからはかなり後退した結果となったが、まあ無理をせずに体力を維持して行くことを考えると、初年度はこの程度でいいのだと勝手に思っている。

ということで、今回はご来光を拝もうと、3度目の暗闇登山となった。この頃の日の出はかなり遅くなってきており、6時40分を過ぎた時刻なので、出発もそれに合わせて少し遅らせたのだった。4時少し前に家を出たのだが、その時は空に薄く雲の幕がかかっているらしく、快晴ならかなり明るいはずの満月の月がかすんで見えていた。昨日は、終日かなり強い風な吹きまくり、今日の予報は晴れということだったので、空にそのような邪魔ものが張り出していようとは全く考えなかったのに、である。夜が明けるまでにはまだ時間があるので、それまでには良い方に変わって、日の出を拝むことが出来ることを願いつつの出発だった。

いつものように梅林近くの駐車場に車を置き、ケーブルカー駅近くの登山口を出発したのは、5時少し前だった。頭に付けた照明具の他に念のために今回は倅たち夫婦が誕生日のプレゼントとして買ってくれた小さなLEDの手元ランプも携帯しての歩きとなった。辺りは真っ暗で、月明かりもない暗闇である。今日は哲学の道のことなど考えず、淡々と一歩一歩の歩きを味わうことにした。一歩というのは、大変な重みを持っている。5000回ほどこの一歩を積み上げると筑波山女体山の頂上に届くのである。考えて見れば、たったの5千歩なのである。12回目の登山でも、最初の登山でも皆同じなのだ。同じゴールに届くためには、ほぼ同じ5千回の1歩を刻まなければならない。その一歩を踏み出す決断と継続こそが頂上へと辿り着く秘訣なのである。この頃は、そのことがよっく解ってきた。

6時半過ぎに頂上に辿り着いて、43分頃にご来光を拝する。雲の多い東の空だったけど、その邪魔していた雲たちが真っ赤に染まって、その彼方からの日の出は、前2回のご来光とは違った厳かさを示してくれた。やはり人間というのは、太陽あっての存在なのだと改めて思った。そうでなければ、これほど荘厳な感動を味わう筈がない。今日は自分の他にはたった一人だけの登山者しかおらず、二人占めのご来光を静かに味わったのだった。

     

今日(12/17)の女体山からのご来光。雲が多かったけど、その雲たちが真っ赤に染め上がって、その彼方からの日の出は、一層荘厳なものだった。

     

女体山の御本殿の様子。今日の始まりの旭光を受けて、鎮座する神様も心を新たにされているように思えた。

さて、今年の筑波山登山はこれで終わりである。来年は少なくともこの倍の回数は登ることにしたい。特に回数にこだわるわけではないけど、身体の衰えを少しでも遅らせ、くるま旅くらしの中での宝物探しを長らえるためには、鍛錬の成果を試す登山という実践行為が必要だと思っている。今年は、日に2回の登山にチャレンジするまでには至らなかったけど、来年はぜひともチャレンジしてみたいと思っている。又、旅先での登山にもチャレンジしてみたい。特に襟裳岬に近いアポイ岳には是非とも再挑戦してみたい。数年前に一度登っているのだけどその時には頂上に着いた時にはカメラの電池が切れてしまい、せっかくのこの地独特の野草などの写真を撮ることが出来ず、又下山後は鍛錬なしの無謀な登山だったので、全身が疼いて3日間ほどのたうち回った経験がある。その時のお礼を兼ねて再挑戦したいと思っている。高さも丁度筑波山と同じくらい(811m)なので、自分の身体の強さや弱さを確認するのにはちょうどいいのではないか。来年に期待しながら、最後に筑波山神社に参詣してお礼を述べ、今年の登山を終えたのだった。

     

筑波山神社本殿。下山してからの参詣だったが、まだ参詣者はいなくて、神社に務める白装束の人たちが境内を清めていた。無事に12回の登山を終えたことを感謝して祈りをささげ、車に戻った。

 

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へしこと熟れ寿司の関係

2013-12-15 22:08:10 | 旅のエッセー

  旅の楽しみの一つに食べ物のことがある。食は人が生きてゆくための源泉であり、どうでもいいというわけにはゆかない。しかし、好みにこだわり、好きなものばかりを食べるというのには、些か問題があるようだ。幸い自分には食べ物に対する好き嫌いは殆ど無く、どうしても食べられないものといえば、動物性のもので、特に昆虫の類は遠慮したいと思っている。植物ならば毒草以外はウエルカムである。

 少し変な方に走り出してしまった。旅の食べ物の楽しみの中で最大のものは、自分的には海産物である。従って、それは海の近くを旅することが前提条件となるけど、日本国は島国なので、わざわざ山岳コースを辿るような設定をしない限りは、2~3日走れば海の傍を走ることになり、獲物は手に入り易いのだ。

 数多くある海産物の中では、やはり魚類が中心となるけど、その中で最も関心があるのは鯖である。鯛やヒラメなどよりもずっと魅力を覚えるのは、単に価格だけの問題ではなく、味覚も又一等の上位にあるからだ。生でも干物でも、或いは加工品でも、鯖は自分にとって第一等のうめえ~食べ物である。何故こんなにうめ~のか、自分でもよく解らない。

 ということで、鯖といえば、日本海側の地方で昔から親しまれてきた魚の様である。新潟県の寺泊の辺りから西に向かっての海沿いの地方では、鯖を串に刺して焼いて食べる習慣がある様で、特に若狭エリアでは、それがもう日常的な食べ方の一つとなっていたようだ。福岡まで行くと、鯖の種類もゴマサバに代わり、これは刺身として食されているケースが多い。ゴマサバ定食などというメニューもあって、それを初めて食べた時は、鯛にも劣らないなと感動したのを思い出す。

 今年の秋の関西への旅では、当初から鯖の串焼きを目当てに若狭エリアを訪ねることを目論んでいた。串焼きばかりではなく、鯖寿司も勿論視野の中にしっかり入っている。そのターゲット地はやはり小浜(福井県小浜市)ということになる。小浜以外の場所でも鯖の串焼きや鯖寿司は手に入るけど、若狭の魚の中心地といえば、自分には小浜がどうしても頭から離れない。丹後半島の付け根の宮津辺りも若狭湾の魚は豊富らしいが、あの辺りはブリなどが中心で、鯖は軽く扱われている様な気がしてならない。鯖は軽く扱ってはならない存在なのだと自分は思い切っている。

 さて、今回の旅ではその小浜に2泊したので、一層鯖君たちへの親近感を増したのだった。第一日はフィシャーマンズワーフの少し先の港の近くにある専門店で大型の串焼きを一本手に入れたのだった。その時に店員の方から鯖の熟れ寿司があるというのを聞いた。熟れ寿司といえば、琵琶湖の鮒の熟れ寿司くらいしか聞いたことがないので、これには大いに関心を持った。店員さんの話では、熟れ寿司は寒い時期でないと作れないとのことで、12月に入った頃からだという。その時は10月の下旬で、もう一度12月頃にこの地を訪れるわけにもゆかず、当分の間は諦めるしかないなと思った。そして、その日の夜は、存分に焼き鯖を楽しんだ。

 さて翌日の朝、家内が昨日の串焼きの店近くの別の店に頼んでいた鯖寿司を取りに行ったのだが、行ってから作りだすというので少し待ち時間がかかってしまった。ついでに昨日の串焼きの店にも顔を出したら、何とその熟れ寿司の製造元の方が丁度店に来ておられて、たちまち熟れ寿司の話となったのだった。それによると、昨日の店員さんの話にはズレがあって、今頃は熟れ寿司は寒くならなくても一年中作るのが可能だとのこと。暑い時期は避けた方が良いのは当然だけど、今頃は設備が充実しているので、作るのはいつでもできるという話だった。ちなみに、今頃はどうなのかと聞いたら、今朝も取り出したところで、今も在庫があるとのことだった。良かったら来て頂ければお分け出来るとのことだった。直ぐにそこへ行って見る気になってしまった。その製造元は、民宿を経営されているようで、名刺には「佐助」というその名前が記されていた。

 小浜といえば、昔の城下町近郊の地形しか判らず、頂戴した名刺の田烏(たがらす)という地名は、全くの初めて聞く場所で、方向も道路も全く不明なのである。こんな時はナビに頼るしかない。電話番号を入力すると佐助という民宿の場所が提示されたのでホッとした。とにかくナビの指示に従って、そこへ向かうことにした。どうやら場所は小浜市郊外の海の方にある様で、その後は国道162号線に沿って入りくんだ海岸近くの道をしばらく走り続けた。丹後半島もそうだけど、この辺りの海は複雑に入り組んでいて、急な崖の上を走っているかと思えば、直ぐにトンネルに入り、それを抜けると再び断崖の上を走るといった道だった。所々に下の方に小さな漁港があって、それらは昔からの漁師の人たちの基地なのであろう。田烏もその一つのようで、国道から離れて細くなった道を下ると、50数軒ほどの集落が白浜を囲むように櫛比していた。何軒かは民宿を営んでいるようで、佐助という宿もその中の一つだった。

 自分たちの方が早く着いてしまったようで、10分ほど待って佐助の経営者ご夫妻が戻って来られた。さっそく熟れ寿司を分けて頂く。それからしばらく熟れ寿司やへしこ談義となった。佐助のご主人は話好きな方で、一方の我が家内どのも負けず劣らずの話好きなので、そのやり取りはなかなか止まる様子がなかった。自分が中に入る余地は殆ど無かったけど、熟れ寿司とへしこの関係などについて、二人のやり取りの中から凡そのことが解った。

 それによると、熟れ寿司というのはへしこを原材料として作るということである。つまりへしこは熟れ寿司の母ということになる。へしこというのは、鯖を塩漬けにしたものに糠をまぶして発酵させて作る食べ物で、若狭地区の名産でもある。関東の方では想像もできないほどの塩辛さで、そのまま口に入れたらしょっぱさにブルブルと震えあがってしまうほどだが、少し塩抜きをしてほどよく焼きあげると、こんな美味いものは無い。最初は塩抜きの要領が解らず、ブルブルばかりしていたのだけど、この頃はそれを脱却することが出来るようになった。そのへしこを使って熟れ寿司を作るのだそうな。へしこは糠を使って発酵させるのだが、熟れ寿司の方は糠ではなく米を使うようだ。どちらも乳酸発酵による発酵食品だけど、米を用いた方が柔らかい味となる様である。地方によっていろいろな作り方があるのだろうけど、佐助のご主人はへしこからの製法を話しておられた。

 へしこに使う鯖と串焼きの鯖とは少し違うようで、現在使われている串焼き用の鯖は若狭産ではなく、その殆どがノルウエ―産のものらしい。これは脂が乗っており、その油が串焼きに向いているとの話だった。一方、熟れ寿司用のへしこに使う鯖は、あまり脂の多いものは敬遠し、日本の近海で獲れたものを使っているとか。近年は若狭湾だけで間に合わせることは困難のようで、違う場所で獲れたものを使っているという話だった。その他にも、その昔のこの田烏の港沖での大謀網漁の話などを懐かしそうに話されていた。

 話が終わって、へしこをおまけに一本頂いて、熟れ寿司を手に入れて、思いがけない出会いに感動しながら、ご夫妻とお別れしたのだった。年末になったら、改めて熟れ寿司を送って頂くようオーダーすることを約して、田烏の港を後にした。その日からしばらくの間、夕食前の一杯の肴に鯖の熟れ寿司が主役を務めてくれたが、期待を裏切らないものだった。鮒のような臭さは全くなく、ほのかな香りの中にまろやかな味のする逸品だった。一度にたくさん食べるのは勿体ないので、一回につき3切れほどを慎重に味わうことにした。美味だった。本来鮨というのはこの熟れ寿司が本物であって、一説によれば弥生時代に米の育成が始まった頃から熟れ寿司も歴史を刻んでいるとか。

      

鯖の熟れ寿司。貴重品なので、口に入れるのは、一日一回、一食につき三切れまでとして、じっくりその風味を味を堪能した。初めて味わった鯖の熟れ寿司は、これから先串焼きと共に我が残りの人生の味覚の世界を、大いに楽しませてくれるに違いない。いい出会いであった。

 その時からあっという間に時間が過ぎて、もう12月も半ばを過ぎようとしている。そろそろオーダーをしようかと腰を上げかけているこの頃である。正月には、鯖の熟れ寿司とへしこを肴の主役にして、大宇陀の銘酒かぎろいで一杯やるのが楽しみである。ああ、待ち遠しい。たわいもない話でした。

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筑波山登山の記(第11回)

2013-12-12 23:03:58 | 筑波山登山の記

<第11回 登山日 2013年12月11日(水)>

 先週に引き続いての登山となった。昨日(12/10)は全国的な荒天となり、今日は晴れとの予報なので、登れば眺望が開けているのではないかとの期待もあった。前回とほぼ同じ時間帯の登山となったが、今回は我が身にとても不思議なことがあった。何かといえば、汗を殆ど掻かなかったのである。いつもは登りの途中で、上に着ていたウインドブレーカーを脱ぎ、大汗をかいて御幸ヶ原に着き、そこで着替えを済ませるか或いはもう一息だと頑張って、頂上まで行って着替えをするのだけど、その時はもう下着の汗が、絞り流れるほどにびっしょりなのに、今回はほんの少し汗が滲んだ程度だった。いつもと比べて特に寒かったわけでもない。むしろ暖かい方だったのになのである。何故なのだか解らないけど、登山を続けている内にはこのような時もあるのかなと思った。

      

今日の筑波山(男体山)頂上の景観。中央が男体山御本殿。右の白い建物は、元測候所。現在は使われていない。

さて、今回も前回の哲学の道の続きの話をしたい。今回のそれは杖の話である。登山に杖は必需品のように思う。特に自分の様な老人世代にとっては、筑波山に登るためには杖は欠かせない用具である。登りも下りも岩石が多くて足元が不確実な登山道には、尻もちや転倒を防ぐための触角的な役割を果たす杖が不可欠のように思える。杖を使わないで登る人も見かけるけど、安全のためにも、杖は上手く使った方が良いように思う。自分は一本しか使わないのだけど、この頃は両手に杖を持って登る人が多くなってきているようだ。一本でも二本でも、それをどう使うかはその人の考え次第であろう。

登山の杖と老人の杖というのを思う時、思い出すのは、ギリシャ神話のスフィンクスの謎かけである。ギリシャ神話の中で、女面獅身の化け物が、そこを通る人たちに「朝は四足で、昼は二本足で、そして夕べには三本足で歩くものは何か?」という謎を掛けて問い、それが解けない者を殺してしまうということを続けていたが、ある時「それは人間だ」と答えられて、海に身を投じて死んだという話があった。その夕べの三本足というのが老人のすがる杖ということになるわけだが、今頃は四本足となっている者も多いから、謎の掛け方にも工夫が必要ということになるのかもしれない。時代の変遷と共に、杖の種類も使い方もかなり変わって来ているのかもしれない。

自分の杖といえば、今登山に使っているのは、十年以上前に買ったピッケルに代わる伸縮の出来る登山用の杖なのだが、この頃は何かもっと使い易くて良いのは無いのかなといつも考えている。実用的な杖のことを思う時いつも考えるのは、二人の人物のことである。

その一は修験道の開祖と言われる役の行者、役の小角のことである。大和の葛城山の麓に生まれて、その近くの山で修業し、やがては日本国全土を駆け巡ったという様々な伝説を生んだ人物である。御所市の茅原という所に吉祥草寺というのがあり、そこがこの人の生まれた場所と言われている。そこを訪ねたことがあるが、葛城山を見上げる位置にあり、この人ならずとも山に入って歩き回りたいという衝動に駆られるような場所だった。葛城山は筑波山よりも100mほど高くて、959mもある。もう一つの近くにある金剛山は1,112mもあり、飛鳥時代の昔の頃、役の小角という人は、これらの山塊の中を歩き、走り回って修業を続けたのだと思う。役の小角だけではなく、鴨氏や葛城氏、巨勢氏などが住んでいたこの辺一帯は、大和民族の発祥の地と言ってもいいように思う。御所市というのは実に魅力的な場所である。

杖の話だった。我が国における初代の仙人のような存在となったこの人物は、恐らく修業の間には自然木の杖を活用していたのではないか、というのが自分の考えであり、それがどのような杖だったのかと興味津々なのだ。修験道のことを調べて見ると、十二・十六道具というものがあり、その中に杖は二つあって、その一は錫杖であり、これは金属製のようである。もう一つは金剛杖であり、これは木製だが長さが決まっておらず、その人の使い勝手に応じて作って使われるものとの説明があった。夫々にいろいろと宗教上の意味が籠め含められているようだけど、自分的には金剛杖というのが、役の小角の時代から、そもそもの修業時に使われた杖だったのではないかと思う。勿論、実物のそれを見つけることなど出来ない話だけど、どんなものだったか、想像するだけでも楽しい。

で、より具体的にどのような杖が良いのかを思う時に、ふっと眼に浮かぶのが、円満造翁が使っていたという、杖のことである。円満造翁などといっても何のことか、どんな人のことなのか分るまいと思う。でも秋田地方のドンパン節のことなら知っておられる方が多いと思う。円満造翁の本名は高橋市蔵といい、秋田県中央部近くにある、新しく合併で生まれた大仙市の、元中仙町出身の大工さんで、ドンパン節はこの方の作られた即興の甚句なのである。この方は造形の天才であり、本業の建築以外にも彫刻にも優れた作品を残し、又音楽の才にも恵まれておられたようだ。大仙市にある「なかせん」という道の駅には、米米プラザという米やそれを原料とする製品を展示する建物があるけど、その前方に塔のようなものがあり、そのてっぺんに、米俵にちょこんと乗った小さな人物がいる。そのモデルがドンパン節の作者の円満造翁なのである。合併前の中仙町の役場近くには、円満造翁の銅像のようなものが建てられていて、それを見た時、手に持っておられた杖の見事さに魅入られてしまったのだった。ご自身で何処か山の中に入って採って来られたようで、何の樹木なのか蔓(つる)なのか判らないけど、杖の上部が丁度いい塩梅にくるりと曲がっていて、実に使い易い感じの形をしているのだった。いつの頃にそれを使い出されたのかは知らないけど、自分も歳をとって杖が必要になった時は、何処かの山の中に分け入って、このような杖を見つけたいものだとその時思ったのである。

今改めて役の小角と円満造翁と、この二人のことを思うと、時代は違ってもこの二人には大いなる共通性があるように思えてならない。お二人ともこの世の自然界を悠々と遊ぶ自然児であり、同じような杖を持った仙人なのではないか。そう思えてならないのである。

さて、斯く言う自分なのだが、もはや杖を手にするには、既にもう何の不足も不満もない世代となってしまっている。今のところ杖は登山専用という感じだけど、もう直ぐ普段の暮らしの中でもそれが必要になるのかもしれない。自分の父親は杖を持つのに抵抗があったらしくて、何度勧めても使おうとはしなかったけど、自分はスフィンクスの言う通り、老いては三本足というスタイルを受け入れることにしたいと思っている。そして、その時は円満造翁のような自然木のものを自分で作って使うようにしたいと考えている。実際今でも何本かその材料を集めているのだけど、まだ加工には取り掛かってはいない。

ところで、大分脱線が進んでしまった。もともと、哲学の道の話の続きだった。元に戻ることにしよう。登山を人生に喩えるとすると、杖というのはどのようなものになるのであろうか。自分的には自助棒とでもいうべきもののように思える。自助棒というのは、自分自身の力で、自分を支え助ける棒というものである。その棒は、他人の力ではなく、あくまでも自分自身の力で使いこなさなければならない。人は誰でもその人生において、幾つかの自助棒を持たなければならなない生きもののようだ。登山の場合は物理的な自助棒だけど、人生の道程の中では、心の支えとなるものも自助棒と言えるように思う。生きがいを生み出しているようなものは全て杖と同じ役割を果たしているということになるのではないか。

自分の場合の人生の自助棒というのは、一体何なんだろうと考えてみた。つまずき、転びそうになった時、助けてくれたものといえば、やはりそれは自分を信じ頼ってくれている人たちの存在だったということになる。親をはじめ、家内、子供たちそして身内の兄弟や親しき友人たちということになるように思う。これらの人たちに助けられながら、どうにかここまでやって来れたのだ。

しかし、ここで強調したいのは、自助棒というのはあくまでも自分自身の力によって使うものなのであり、棒自体に助けて貰うものではないということ。心の自助棒という場合は、自分を信じ頼ってくれる人の存在そのものが重要なのだ。しかし、自分を本当に助けるのは、あくまでも自分自身なのである。誰かに依存していては、自分を助けることにはならないのだ。つまり、自助棒を使うのは自分自身であって、誰かにそれを使って助けてもらうことではない。他人の力に頼ったのでは、杖は使えないのである。

登山ではそれを思い知らされる。仮に同行者があって、自分が滑って倒れそうになった場合に、その人の杖で自分が助かるということは無いのだ。あくまでも自分の杖で自分の身を守るというのが、自助棒という存在なのだ。筑波山頂への哲学の道を歩きながら、そのようなことを思った。今回はここまで。

      

筑波山御幸ヶ原から見た北西方の眺望。中央の筋の入っている山が日光男体山。その左の白い冠雪の山は日光白根山か。

 

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筑波山登山の記(第10回)

2013-12-06 02:13:16 | 筑波山登山の記

<第10回 登山日 2013年12月5日(木)>

 中4日を置いての登山となった。今回は男体山への登山なので、ご来光を期待せず、出発も少し遅くして、足元の明るい時間帯での登山となった。それでも出発は5時45分であり、夜明けまでにはまだかなりの暗さの時間帯での車の運転となった。いつもの梅林駐車場に着く頃にようやく東の方に淡い「かぎろい」が見られるといった状況だった。丁度筑波山神社の少し上にある登山口に差し掛かった時、傍にあるモミジの樹の枝の間から、神社の本殿脇から上る日の出を見ることが出来た。それなりの荘厳さがあったけど、やはり山頂で迎えるそれには及ばないなと思った。その荘厳さを味わうためには、2時間近く早く登山を開始しなければならないのだなということを、改めて実感した。

     

筑波山神社脇の山もみじの樹間の日の出。紅葉したモミジに包まれた太陽は、いかにも温かそうに見えた。

さて、そのあとはいつものコースを淡々と頂上を目指して歩を進めたのだが、今日はその歩きの中で感じた登山というものの本質というのか、その歩きについて、気づいたことを書いて見たい。

先ず、登山というのは哲学の道を歩むのと同じだなと思うようになった。ものを考えるという行為は、机に向かっている時ではなく、歩いている時がベストなのだと思う。それは自分自身40歳の終わり頃に気づいて、通勤時間帯などを使ってずっと歩きを継続して来たので、疑いのない事実だと思っている。会社勤めの中で、何か解決を求められている事項や、新しいヒントが欲しい時は、歩くのが一番だと思ってやって来た。それは自分にとって大きな力となった。会社の中で机に座って、さも考えているらしい顔をしているのは、働くゼスチャーに過ぎない感じがしたのは、当たっている様な気がする。

今は特に目的的な仕事があるわけではないので、歩くのは楽しみを拾うためだと割り切っている。今年は今のところ万歩計での毎日の平均歩数が15200歩を超え、総計では500万歩を少し超えたレベルにある。これらの歩きは皆楽しみを拾うために不可欠なので、歩きが嫌になるとか負担を感ずるとかいうことは無い。現在、楽しみのテーマが幾つかあるけど、その最大のものはやはり老計である。老計とは如何に老いるかということである。もう一つ死計があるが、これはどのような死に方をするかということであり、老計と死計とはセットになっている。死計を決めるのは老計であり、老計こそが人生の締めくくりの最大の課題なのだと思っている。いま、それをあれこれと考えるのが楽しい。そして、考えないことも又楽しい。だから、とにかく歩くのが楽しいのである。

さて、少し煙に巻いたところで、登山に戻って、これは哲学の道を歩くのと同じだなという話。学者が思索にふけりながら歩く哲学の道があるけど、学者でなくても自らに哲学を課す道が登山のように思えてならない。山に登るというのを、よく人生の有り様に例えられるけど、それは苦楽入り混ざっての頂上を目指すプロセスが、まさに人の生きざまに似ているからなのだと思う。しかし、実際の登山の中では、人はその一歩一歩を噛みしめながら、意識・無意識的に己の生き様の哲学を追及しているのではないか。敢えて苦を伴い、頂上を目指すのは、一歩一歩に己の生き様の思いを込めるからであり、それこそが本物の哲学行為のように思えてならない。

さて、今日、この哲学の道を歩いた結果解ったことが一つある。それは、「人生は障害を乗り越えて行けば、障害が味方となり、力となる」いうこと。

筑波登山では、登山道の至る所に大小無数の石が転がり、樹木の剥き出しの根が這い茂って、登山者の前進を邪魔している。これらは全て障害物だった。少なくとも5回目くらいまではそう思いながら歩を進めたのだった。しかし、現在は受け止め方が変わってきている。これらの岩石や根っこは実に巧みに登山の足場を確保してくれている、実に歩きやすくしてくれていると思えるようになったのである。2~3の小石は別として、その他の障害物が動いたわけではなく、今まで通りの位置なのだけど、天の配剤と思えるほど、それらは巧みに登山者の足場を作ってくれているのである。このことに気づいた時の感動は大きかった。

今まで自分が体験して来た人生の喜怒哀楽に絡む様々な出来事も同じだなと思った。そこには必ずといっていいほど何か障害物(邪魔)があったのである。そして、その障害物を乗り越えた時に、自分は僅かなりといえども本当の喜びを知り、成長することが出来たのだと思う。障害物を障害物として放置し、避けている限り、人は先に進めない様に思える。登山道の邪魔物も邪魔というレベルで扱っている限りは、楽しみは濁り続けるのである。そんな風に思った。

人は皆、いつも何かに試されているのではないか。そのように思えてならない。何かが、障害物をその人に与えて、それをどう乗り越えるかを試しているのである。その試練に気づかず、或いは気づいていても避けている間は、その試練は決して味方とはなってくれないようだ。しかし、試練に耐えそれを乗り越えた時、その障害は味方となり、その人に力を与えるのである。

このことに気づいて、登山の楽しみが層倍した感じがする。一歩一歩が楽しくなるのである。一歩一歩を楽しみながら登り続ければ、必ず頂上に辿りつけるというのも楽しい。勿論、楽しさの中には汗をかく苦しみが多少は混ざっているけど、それが混ざっているからこそ、登山の楽しみや喜びが本物となるのである。ケーブルカーやロープウエイとは違った、哲学の味わいを持った登山が出来るのである。大きな収穫のあった一日だった。

     

今日の男体山御本殿の様子。周辺の樹木の葉も落ちて、約871mの山頂は間もなく本格的な冬を迎えようとしている。

 

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筑波山登山の記(第9回)

2013-12-02 01:25:07 | 筑波山登山の記

<第9回 登山日 2013年12月1日(日)>

 先回から1週間置いての、ご来光を拝する2回目の登山を敢行した。先回の感動をもう一度味わいたいという思いが強くなっていて、それに足の方もかなり自信がついてきたので、なお、試してみたいという気持ちが膨らんだ次第。加えて今回はリュックを新調し、更に夜間登山用のヘッドランプも買い入れたので、それらを早く使ってみたいという思いが登山を急かさせた様でもあった。

筑波山でご来光を拝するのは、女体山の方に限ることになる。男体山の方は低いというだけではなく、ちょうど太陽が出る方向に女体山があり、それが邪魔してご来光を拝することが出来ないのである。今まで男体山→女体山→男体山、と交互に登って来たのだが、今回初めてその順序を狂わせて前回に引き続き女体山に登ることになった。ま、それほど真面目に順序を守ることもあるまいとは思う。しかし、幾らこの身が男であるといっても、これから先女体山ばかりというわけにはゆかないので、今後は暗闇登山は女体山へ、そうでない登山は男体山へということになるように思っている。しばらくは、暗闇の方に取りつかれる予感がする。

さて、今回も3時半に家を出て、4時半に梅林の駐車場に車を留めての登山となった。先ずはヘッドライトの方だが、確かに両手が使えるので便利である。しかし、山中の暗闇の中に入ると、足元ばかりを照らしていると先が見えなくなり、その様子が判らなくなるので、何度も頭を上げて少し先を照らすようにしなければならず、これが結構面倒なのである。つまりかなりの首の運動をしなければならないのだ。馴れている人は、もう一本懐中電灯を用意して、時々それを使って前方の確認をしている様である。自分も次回からはそのようにした方が良いなと思った次第。それから新調したリュックの方は、背中の背当てとリュックの間に空気が通るように作られているので、こちらは背負うについては楽チンである。着替えくらいしか持参していないので、殆ど重さは感じない。毎日の鍛錬の時の15キロの重さを思うと、着替えを2回分詰め込んで背負っても、重さは無いのと同じ感じである。

というわけで、途中何のトラブルもなく、順調な歩きだった。前回は半分以上が残っている月の明るさがあったのだけど、今回は26夜を過ぎて月の明かりは全く気付かなかった。5時半を過ぎてケーブルカーの頂上駅のある御幸ヶ原近くまで登り来たって、ようやくうっすらと空が明るくなり出すまでは、暗闇の中をひたすら登り続けた。このコースでは、御幸ヶ原近くなって階段が700段近くも続いており、それに足がかかり出すと、もう少しだなと判ると同時に、いよいよこれから汗を掻かせられるなと、気合いが入るのである。もう9度目となるので、コースの大体は頭に入り出している様である。

御幸ヶ原に着いて、今回は着替えを女体山下の小さな広場で行うことにして、そのまま歩き続けた。6時15分過ぎ、着替えを終えて山頂へ。日の出は6時30分過ぎである。先着の人たちが10人ほどいて、その中にはラジウスで湯を沸かして飲んでいる人もいた。超狭い岩場なので、そのような行為は如何なものかななどと思いながら、写真を撮るための足場を確保しようとしていたら、足元が滑って、転倒してしまった。近年にないドジである。何しろ相手が土ではなく、石なので、勝てない。身体の何カ所かを打ちつけて、こりゃヤバイなと思った。直ぐに立ち上がって様子を見る。転倒しても誰も何とも思っていないらしいのは、さすが茨城県民の登山者だなと思った。死にそうになったレベルならば、一言声をかける人がいるのかもしれない。茨城県人というのは私語が好きな者が多く、知らない人には無関心という特性を持つ様だ。それは自分が茨城県人なので、解るのである。但し、自分は私語はしない。

      

今日の筑波山(女体山)山頂からのご来光。大きな光の下方に丸く小さく写っているのは、霞ヶ浦に映った太陽である。

幸い大したことはなさそうで、下山は大丈夫だと思った。格好悪いので、何でも無かったふりをして、写真を撮り続けた。5分ほどでご来光のショーは終り、下山を開始する。打った箇所が歩きに影響しないかを慎重にチエックしながらの下山だった。足の方は大丈夫だが、どうやら左腕の肘の辺りがべとつくのは、打った弾みで出血でもしているらしい。ま、この程度なら大したことは無いだろうと、そのままゆっくりと下山を続ける。

ここでもう一つのトラブルが発生していた。それは、右手の中指の感覚が無くなっているということだった。何年か前から、寒い時期に両手を冷やしたままにしていると、手袋などをしていても指先の感覚が無くなり出すのである。これは糖尿病の合併症の兆しなのかもしれないと注意はしているのだけど、特に中指の先が酷くて、感覚が無くなり、血の気も失せるという状態となってしまう。今回は寒さの中でカメラのシャッターを切り続けていたので、それが影響したらしい。凍傷の前触れの様な感じで、そのまま放置していると凍傷と同じ結果になりはしないかと気になった。息を吹きかけ、マッサージをしてもなかなか元に戻らなかった。あれこれ温める工夫をして、ようやく元に戻ったのは、下山を半分経過した頃だった。今後はポケットにカイロを持参する必要があると思った。老人は厄介だなと改めて思った。転倒はするは、凍傷になりかかるはと、思い通りにならぬ我が身をじれったく思うと共に、あらかじめのメンテナンスを慎重に行う必要性を感じたのだった。

8時15分、駐車場に到着する。今日も日曜とあって、駐車場はほぼ満車に近かった。隣にある空き地の駐車場には、ぐるっと冬桜が囲んで植えてあって、それらが今、満開の花を咲かせていた。今日は大きなドジを幾つも踏んでしまったので、帰りの運転は特に気をつけようと車を発進させる。帰宅は9時過ぎ。今日の登山はこれで終わり。肘が治ったら、又出かけるぞ。

      

梅林駐車場の道路を挟んだ反対側の駐車広場の周囲には10本ほどの冬桜が植えてあり、それらが一斉に小さな愛らしい花を咲かせていた。

 

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