山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

明日はブログ開設3周年

2010-01-31 01:12:26 | 宵宵妄話

今日も身勝手なご案内です。今年に入って早くも1ヶ月が過ぎようとしていますが、明日2月1日は、このブログを開設してから4年目、3周年を迎えます。たった3年ですが、この間いつブログの閉鎖の時期が来るかと、悩んだこともありました。(それは今でも変わらないことではありますが) でもお読み頂ける方々の無言の励ましが力となり、何とか4年目を迎えることが出来ました。ブログでは、毎日どれくらいの訪問者がおられたか、どれくらいのアクセスがあったかという解析が行なわれており、知らず知らずその結果がブログの記事を書く力となりました。当初は自分のブログを見てくれる方といえば、ホンの僅かの自分を知っておられる物好きの何人かだけだと思っていたのですが、この3年間の間に、おかげさまでお読み頂ける方の数も増え、今では毎日200人近くの方にご覧頂き、アクセス数も400を超える状況となりました。

このことが、くるま旅に関して何を示しているのかはよく分かりませんが、くるま旅というものが、私のような者を通してさえ、少しずつではありますが、世の中の関心事として拡大しているということを感じています。私は、くるま旅というものが、高齢化社会を背景に育つべき日本の新しい文化に違いないと思っており、確実にその文化の芽生えを感じています。

この3年間の間に、というよりもブログの開設と併せてくるま旅くらしのガイド書を出版したのですが、その後残念ながら出版社が倒産の憂き目に会い、これからという時に地団太を踏む思いがあったのですが、どうしてももう一度ガイド書の続編を書きたい、作りたいと考えていました。しかし、共同出版をするにせよ、かなりの費用を負担しなければならず、出版社の経営も不安定な現状では、とても時機を得た出版は叶う術(すべ)も無く、2年後には凡その次作の原稿は出来上がってはいたものの、そのままの状態で空しく時間を浪費していたのでした。

ある時、それならば自分で本を作り、本当に必要としている方に届ければ良いのではないかと考えました。それで、今回ブログ開設3周年を記念して、「山本馬骨のくるま旅くらし読本~60歳からのくるま旅くらしの楽しみ方」というのを自作することにしました。

イラストや写真を多用すればより読みやすいものとなるのは重々承知してしていますが、私の考えるメイン読者は自分と同世代の現役リタイア後の方々と思っていますので、僅かの写真と文章だけでもある程度は我慢して頂けるに違いないと思っています。

 というわけで明日から以下のようなPRの文面をブログの終わりに付加させて頂くことにします。お知合い等に新しくくるま旅をお考えの方がいらっしゃいましたら、是非一読をお勧め頂くようご案内頂ければ幸甚です。

     

 

「山本馬骨のくるま旅くらし読本」発行のご案内

この度、前著「くるま旅くらし心得帖」の続編として、自作による「山本馬骨のくるま旅くらし読本」を刊行しました。副題を「60歳からのくるま旅くらしの楽しみ方」として、くるま旅くらしの意義、考え方、楽しみ方の理屈や事例などを紹介することにしました。又付録として、くるま旅くらしに関する何でもQ&Aを付加しました。これからくるま旅くらしを始めようとされる方には、これ一冊で旅の要領の凡そがお解かり頂けると思います。手作りですので、初版は20冊です。1冊1000円(送料・振込手数料込み)でお頒けいたします。

ご希望の方は、メール(pdl-taku.9930@themis.ocn.ne.jp)にて〒、住所、氏名、冊数をご記入の上お申し込み下さい。お支払いは、同封の振込用紙にて最寄の郵便局にてお振込下さい。メールのPdllはLの小文字です。

※より詳しく内容をお知りになりたい方は、私のホームページ「山本馬骨のくるま旅くらし元帳」にアクセスしてご覧下さい。アクセスはこのブログの右側にあるブックマート欄から出来ます。

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相撲道を嘆く

2010-01-30 01:34:31 | 宵宵妄話

昔から相撲が好きでした。今でもそれは変わっていませんが、自分の身体で相撲を取ったのは、中学生くらいまでで、それ以降は専ら見る方に専念しています。その相撲といえば、やはり大相撲です。日本国を代表する国技として大相撲は存在していると今でも思っています。

その大相撲のことですが、最近は真に嘆かわしい惨状にあるように思い、一言苦言を呈したいと思いこれを書き始めています。本当は、今日から旅で拾ったテーマについて書くつもりだったのですが、旅をしている間に、又々不祥事が起ったようで、この世界の生ぬるい対応に些かむかっ腹が立ち、黙っては居れない気持ちなのです。

大相撲界の幾つかの話題の中で、理事の選挙などについては、どうでもよろしいのですが、相撲道に反する事件に関しては、放置できないように思います。端的にいえば、横綱朝青龍の振る舞いです。即刻綱を取り上げ、謹慎・降格等の処断を行なうべきです。相撲道の最高実践者としての横綱の責任を果たすどころか、その名を地に貶め続けているという振る舞いは、真に言語道断です。

相撲道というのは、武士道に繋がる人間としてのあり方・生き方を示すものであり、それは単に勝負に勝つというレベルに止まらず、人間・人物としての範たる振る舞いの全てが含まれるものと考えます。厳しい勝負の世界に生きる者の人間としての品格を高らかにうたったのもが相撲道なのであり、それ故に国技なのだと思うのです。そして、それは、日本人であるとか外国人であるとかを問わず、この道に関る全ての人たちに求められているものなのです。

大相撲が単なるショービジネス、エンターティメントならば、横綱の振る舞いが地に堕ちるだの品格がどうだのなどという必要はなく、大衆は気ままに楽しみ、相撲取りもまた好きなように酒を飲んで、時に傍若無人の振る舞いをしてところで、大して責められる話でもないと思います。勿論そうなれば国技などではなくなるのは当然のことです。

今の相撲界を見ていると、相撲道を守るなどということよりも、懸命にショービジネス化への道を急いでおり、何でもいいから話題を作って、客を場所の観客席に呼び込めば良いという発想がありありの感じがします。その中心となっているのが、とにかく形振り構わず強い力士を見出し、これをビジネスの核に置くという発想です。国内にそのような素材がいなければ輸入してでも補填し、とにかく横綱や大関に相応しい勝ち星を挙げ得る力士に縋るといった風潮がこの世界には満ちている感じがします。しかし発生する話題は、マイナスの部類のものが圧倒的に多く、時代の狭間の中で国技などという厄介な頚木に振り回されているばかりの感じがします。

朝青龍はそのような協会の体制を見透かしているようです。要するに強ければいいんだ、文句があるなら頸にでも何にでもして見ろ!困るのはあんたたちじゃないの?という考えが心の半ばを占めており、何か批判を受ければ、一応は反省の素振りは示すものの、その芸は下手という感じがします。要するに協会は舐められており、言い換えれば本当の相撲ファン(相撲道を大事に思っている人たち)をも舐めているということです。

幼稚で愚かな振る舞いが話題となる度に、最も腑に落ちないのは、朝青龍の師匠・親方の存在です。最も舐められ、蔑まれている人物はこの親方に違いありません。親方というのはその名の通り親を代行する存在なのに、この親方は弟子の業績(?)に圧倒されて、もはや親方としての自分を失くしてしまっているようです。このような人物には、相撲道などというのは迷惑千万な話だと思いますが、相撲道の側から見れば、こんな意気地なしの人物が親方をやる資格など無い様に思います。部屋ごと協会から脱退して、別の事業でも起こした方がいいのではないかと思うほどです。

相撲だけではなく、今の世の中全体が、トチ狂っている感じがします。ある意味で末世なのかも知れません。何か正体不明のものに阿(おも)ねて、中途半端なことばかりを行なっている感じがします。その最たるものが政治であることは明らかですが、元を糾(ただ)せば主体者・当事者の己の信念が脆弱であることに尽きる感じがします。大相撲で言えば、朝青龍の方が親方や協会よりも信念の強さで勝っているということでありましょう。相撲道などチャンチャラ可笑しいという信念の方が勝っているというのでは、大相撲には国技としての未来はなく、早々にそのような看板を外して楽になるべきです。

私から見ると、横綱審議会などというのも、いい加減な感じがします。本当に横綱の審議をしているのか疑問です。いろんなルールのようなものを作ったりしているようですが、その中心は勝敗のことばかりで、相撲人としての人間をどれだけ論じ、見ているのか疑問です。本当に見識のある人物が委員をしているのか疑問です。横綱の審議というのであれば、勝敗のみならず綱を締めるに相応しい人物であるのかを、常時審議すべきであり、相応しくなければ直ちに綱を外させる力がなければ、横審などというのはおこがましい感じがします。上っ面のコメントしか出来ないような人物が委員をしていたとしたら、大相撲は遠からず協会共々沈没するのは明らかな感じがします。

何だか無性に腹が立って、このようなことを書いても子犬(否、老犬)の遠吠えにもならないのに、妙に意気がってしまいました。でも私はやっぱり相撲が好きなので、関係者にはしっかりして欲しいと思います。横綱が居らず、大関も一人しかいないような番付であっても、本物の相撲が見られると大勢が押しかけるような真剣勝負の世界が、本当に相撲道を体現している姿なのではないかと思っています。今のように粗製乱造の横綱大関陣では、TVを見る気にもなれず、わずかに懸命に土俵を努めている何人かの力士の姿に慰められるだけの場所が増えています。1年6場所というのも、ショービジネスへ擦り寄っている証のような気がします。地方巡業を充実させ、本場所は年に2回くらいでも営業が成り立つような体制を協会は工夫すべきと思うのですが。さて、元横綱の貴乃花などはどう考えているのやら。

とにもかくにも、今回の事件がうやむやに済まされたならば、もはや相撲道は朽ち果てたと見切りをつけなければならないと思っています。

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房総方面へ行ってきました(報告)

2010-01-29 01:58:51 | くるま旅くらしの話

25日から今日28日まで、房総方面への小さな旅をして来ました。天気にも恵まれ、まあまあの旅でした。今日はその概要の報告です。

初日の25日は、家内のフォークダンスの練習に付き合い、9時半からそれが終了するまでの12時半まで、10kmほどつくば市内を歩きました。家内が戻ってきて、旅車の中で昼食のうどんを食べさせ(?)それからが旅の出発です。当初の今日の予定は、温泉博士を利用して茨城県の大洋村(現在は鉾田市)の温泉施設に行き、その後の泊りは潮来の道の駅にしようと思っていたのですが、先に書きましたように生憎と休日に当たってしまったものですから、予定を変更して銚子まで足を延ばし、犬吠埼にあるホテルの温泉に入らせて貰い、そのあと蓮沼村(山武市)の道の駅に泊まることにしました。

いつでもそうですが、旅の初日は移動日です。つくば市からは、R125を霞ヶ浦の南に沿って佐原方面へ向かい、R51に至って、右折して成田方面へ向かいます。佐原といえば、水郷地帯であり、祭りの佐原囃子や測量と日本地図作成の巨人、伊能忠敬が有名ですが、今はその地名が消えてしまい、香取市となってしまいました。私的には、香取よりは佐原の方がずっと親近感を覚えます。

その佐原は、利根川を渡ると直ぐ左手にあります。ここで左折してR356に入り、その道をどこまでも行けば銚子に至ります。小見川、東庄を過ぎると、佐原からは1時間弱の距離でした。銚子の市内は、道が良く分からないのですが、当てずっぽうに行っても犬吠埼は大丈夫です。ナビ無しでも迷うことなく目的地の、ホテルニュー大新に到着しました。

このホテルの温泉に入らせて頂くのは二度目です。大浴場と露天風呂があり、今日の歩きの疲れをお湯に浸ってゆるりと流し去ることが出来ました。今頃は観光地の至る所に温泉がありますので、真に有難いことです。松籟の湯と名付けられたこのホテルの湯は、松風の騒ぐ音を聴きながらの風情を醸し出していました。

ホテルを出る頃はすでに夕暮れが迫ってきていました。ここから蓮沼の道の駅までは1時間ほどかかります。犬吠の岬からの海岸線はしばらく断崖絶壁が続きます。夕方になって風が強くなり出し、見下ろす太平洋はかなりの白波が押し寄せていました。10分ほどで海岸線を離れると、後は少し内陸部に入ってR126が続いています。特に渋滞もなく道の駅:オライ蓮沼に着いたのは、18時少し前でした。もう辺りはすっかり暮れて、小型の発電風車が勢いよく回り続けていました。湯上りの汗もすっかり引っ込んでしまった感じでしたが、早速ビールで乾杯して旅の初日の疲れを癒したのでした。

翌日26日は、二つの目的を決めました。一つは芝山町にあるはにわ博物館を訪ねること、もう一つは白子町にあるという羅漢槙の大木を見物することです。この二つの目的を果たしたら、どこか近くの適当な道の駅を選んで泊ることにしています。先ずは、はにわ博物館へ。ここは以前老友と一緒に訪ねたことがあるのですが、家内は行っておらず、今回是非見学したいということで訪ねることにしたわけです。道の駅からは30分ほどの距離です。はにわ博物館は、近くにある観音教寺というお寺の境内にもありますが、訪ねるのはお寺からは少し離れた芝山町立の芝山古墳はにわ博物館の方です。

65歳以上の入場料は3割引で、140円で入館することが出来ました。前回はこのような取扱いがあることを知らず、所定の200円を支払っており、ちょっぴり複雑な気持ちでした。古墳とかはにわというのは、要するに死者の埋葬に係わる遺跡ですから、なんとなく気味の悪さを覚えるところがありますが、今回は真面目にそれらの遺跡が何を現代に伝えようとしているのかを知ろうと努めました。いろいろ感ずるところがありましたが、それらについては追って書くことにしています。

博物館のあとには、ついでですので近くにある観音教寺に参詣することにしました。初めて訪れたのですが、なかなかの名刹のようで、立派な本堂のほかに境内には三重塔もあり、はにわ博物館と併せて立派な佇まいでした。このお寺は、特に山門の仁王様が有名らしく、山門の左右それぞれの仁王様は仁王尊と呼ばれ、小座敷が設けられて参拝できるように作られていました。これは珍しいなと思いました。本堂の前で般若心経を誦し、お寺を後にしました。

さて次は白子町の関という所にある樹齢500年を超えるという槙の大木です。羅漢槙というのはイヌ槙の変種でイヌ槙よりも葉が密生して多く、高さは5m内外で、衣を着た羅漢のように見えるということからそう呼ばれているとのことです。私は植物も生き物だと思っているので、樹齢を重ねた大木を見るのに大変興味があります。この木は千葉県の歴史散歩という本に掲載され、紹介されていましたので、是非それを訪ねようと思ったのでした。しかし、この結果は惨敗でした。近くまで行ったのですが、結局その木に会うことはできず、諦めてその地を後にしたのでした。そのいきさつは後で書くことにします。

羅漢槙の大木にお目にかかれなかったものですから、調子が狂ってしまい、時間に余裕も出来てしまったので、今日は途中でぶらつくことは止めて、一挙に南房の方まで行ってしまうことにして、明日と明後日は花などを見ながら過そうということにしたのでした。白子町から一宮町に抜け、R128に入って鴨川方面へ向かいました。途中御宿町を通る時に、月の砂漠の記念像があるのを思い出し、いつも通過してばかりいてまだ見ていなかったので、ちょっと寄ることにしました。ぶらつくのは止めるという考えは、たちまち雲散霧消となったのでした。青い海を望む白い砂浜に造られた記念像は、不思議な印象を残すものでした。これも後でちょっぴり書いて見たいなと思いました。良い寄り道でした。

その後は車を走らせ続けて、鴨川の市街を抜け、少し行って道の駅:鴨川オーシャンパークで小休止。ここで鴨川市の奥まった所に棚田があることを知りました。大山千枚田というそこへ、明日は是非行ってみようと、俄然好奇心が高まりました。棚田は、家内が写真を撮りたい場所の一つです。私は写真よりも棚田そのものに郷愁のようなものを感じて、それを味わいに行きたいのです。思わぬ発見に楽しみが一つ増えて、嬉しくなりました。

鴨川から先は、目指すのは今日の宿の道の駅、丸山町(今は南房総市)のローズマリー公園です。到着は17時半過ぎでした。泊りは私たちだけでした。夜間は一台のトラックも入って来ず、遠く防風林の松籟を聞く、真に静かな一夜でした。

3日目の27日は、二つの目的があり、その一は昨日知った大山千枚田を訪ねること。その二は少し興味本位なのですが、滝沢馬琴の南総里見八犬伝縁(ゆかり)の地を訪ねることにしました。何度かそのような案内板を見ながら通過していますので、今回はそのうちの何箇所かを訪ねてみようというわけです。

先ずは大山千枚田ですが、これは素晴らしいものでした。季節が冬なので、少し淋しい感じは拭えませんが、それなりの風情があって、久しぶりに子供の頃の遠い昔を思い起こしました。この辺のことについては、後で取り上げて書きたいと思っています。

その後は、八犬伝縁の地として八房の犬の伝説の地と里見家の身内同士の合戦のあったという犬掛の古戦場と里見家の墓というのを訪ねました。いずれもうっかり見過ごしてしまいそうな場所でした。その後は近くにある滝田城の城跡を訪ねようと、車を置いて歩き出したのですが、この城はかなりスケールの大きい山城で、その登城口に辿り着くまでに家内の息が上がり出し、早くもギブアップ。あなた一人で行ってきなさいよ、というのを、その気になって一人で行く気にもなれず、諦めて退散と相成ったのでした。

城跡への探訪を断念した後は、しばらく車を走らせて、三芳村(今は南房総市)の道の駅:鄙の里にて昼食休憩。14時近くまでゆっくりしました。気に入っている道の駅の一つです。この後どうするかを検討の結果、八犬伝の縁の城といえば、やはり館山城であろうと、そこには博物館などもあるので、参考になる情報も手に入るに違いないと考えた次第です。というわけで、館山の方に向かったのですが、すんなり市街地に入ってゆくはずだったのに、途中どこで道を間違えたのやら、どうしても細かい道を行かないと市街には行けそうもない状況となり、もう面倒くさくなって館山城跡に行くのは取りやめると即断したのでした。その代わりに走っているR410の近くに一昨年に住まいを移された旅の知人のNさん宅を訪ねてみようと決めたのでした。

突然の来訪で、これは礼儀に反する行為なのですが、ま、お許し頂けるものと勝手に甘えて、うろ覚えの道を辿って、いきなりお邪魔をしたのでした。幸い奥さんが在宅されており、ご主人は鴨川まで通院で出かけられたとのことでした。間もなく戻られるというので、折角ですので、お顔を見てからにしようと待たせて頂くことにしました。やがてご主人も戻られ、しばしの歓談となりました。これらのことについても追って書ければと思っています。いろいろびっくりするような出来事も含まれており、ご無沙汰というのは、考えものだなとしみじみ思いました。

Nさん宅を辞した後は、千倉の花畑の写真を撮ろうと房総フラワーラインと呼ばれるR410をひた走り、道の駅:ちくら潮風王国の第3駐車場へ。ここは道の駅の本館からは遠く離れた白間津という所にあります。かなりの風の中を花たちの咲き誇る姿を香りと一緒に何枚かカメラに収めました。明日も花畑に来ることにして、今日も昨日と同じ道の駅:ローズマリー公園に泊まることにしました。

その前に、千倉海岸温泉の癒し湯めぐりの宿、「夢みさき」の温泉に入らせて頂きました。ここの湯は、1Fと7Fにあり、7Fは展望露天風呂ということです。私たちは、1Fの古代檜で作られた幾つかの湯をじっくりと楽しませて頂きました。湯から上がった頃はすっかり日が暮れて、ライトをつけないと走れない状況となっていました。ここから道の駅までは、10分もかからず、再び昨日と同じ場所に車を停めての宿泊でした。

最後の28日は、駅舎がある方の千倉の道の駅に車を停め、いつも訪ねている落合ご夫妻の経営されているお花畑を訪れ、ご挨拶と少しばかり花を買わせて頂いて、その後は帰路に就いたという次第です。帰り道には、鋸南町の保田という所にある、番屋という魚料理を食べさせる店に立ち寄り、久しぶりに魚の美味さを味わいました。旅の間の粗食を一気に挽回した感じでした。その後は千葉の家内の実家に寄った後、真っ直ぐに自宅に戻ったというわけです。

たった4日の行程でしたが、いろいろ感動的な出来事もあり、明日からそれらについての思いを書き綴って見たいと思っています。

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房総方面へ行きます(前楽)

2010-01-25 00:50:52 | くるま旅くらしの話

今取り組んでいることが一段落しましたので、明日から3~4日ほど気分転換に、冬ですけど降雪や道路凍結の心配の少ない房総方面への 小さな旅に出かけるつもりでいます。

家内のインフルエンザも完治し、もとの多弁レベルを回復しましたので、これを少し押さえて貰うには、温泉にでも入り、早春の花畑を訪ねたりするのが一番と思ったりして、ま、そのようなことはどうでもいいのですが、二人とも気分転換を求めている点では気持ちは一致しているということなのです。

温泉博士(月間温泉情報誌)の温泉手形に、茨城県の大洋村(今は合併して鉾田市)の温泉施設が載っていましたので、先ずはそこへ行こうと思って良く調べましたら、月曜日は休みということでした。喜び勇んで出かけていって、到着したら今日は休みだったというドジな出来事を何回か経験していますので、ふと思い出してチエックしてみたら、そのようなことでしたので、危うくセーフというわけでした。明日は家内のフォークダンスの練習日ですので、それが終ったら、そのまま直行して銚子の犬吠埼の方へ向かう予定です。

しばらくじっと我慢の子ならぬジジイでありましたから、ちょっぴりワクワク気分が湧いてきています。僅かに3~4日の旅ですが、存分にその喜びを味わって来たいと思っています。今回の旅は、帰りの日を決めていないのですが、来週から又主夫業が待っていますので、恐らく木曜日までには戻らなければならないなと思っています。どこへ行こうかとしばらく迷っていましたが、少し早めに春の花を見ることが出来る南房総の方へ行くことにしました。

ネットで花の開花情報などを見てみましたら、もうすでにかなりの花が咲き出し、夜間のライトアップなども行われているということですから、楽しみは膨れるばかりです。房総地区には、幾つもの道の駅もあり、くるま旅の者にはありがたい場所です。温泉なども幾つかあって、心身を癒すには最高の場所の一つではないかと思っています。

今私どもが住んでいる茨城県守谷市は、江戸時代で言えば下総地方であり、千葉氏の影響の強いエリアでもあったわけです。明治維新後の行政区画の歴史の中では、一時は千葉県に属していたということですから、県北の水戸に近いところで育った私から見ると、土地も気候風土もかなり違っていて、やはりここは下総の国なのだというのを実感しています。千葉には、水戸とは違った穏やかさが多い感じがします。

現在の南房総は、守谷からは千葉県内ではでは一番遠い場所となっており、房総半島の最先端まで行くには200kmもあるのです。これは茨城県北の福島県との県境までよりも遠い距離があり、千葉市や成田空港のちょっと先くらいなどと思って出かけますと、とんだ思い違いに慌てることがあります。もう何回も経験していますので、うっかりイメージに騙されることはなくなりましたが、初めて行く場合は要注意です。

さて、今回は最終的には花を眺め、買うことがメインの目的ですが、その他にも折角だから少し歴史的なものにもちょっかいを出してみようと、何か目ぼしいものを探しているところです。南総里見八犬伝の舞台などを訪ねるのも面白いかも知れません。只今、「千葉県の歴史散歩」というガイド書を読み漁っているところです。このような付け焼刃的な行為は、なんとなくけしからんインチキな感じもしていますが、ひょうたんから駒ということもありますから、好奇心のスタイルは不問であっていいと思っています。さて、何が飛び出しますやら、期待は膨らみます。

というわけで、明日からのブログは休みとします。携帯で報告するような旅ではありませんので、旅から戻りましたら、いつものような形で拾った出来事などのことを報告したいと思っています。

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髭と頭巾

2010-01-24 01:55:51 | 宵宵妄話

只今、馬骨老人は下あごに半端な白い髭をたくわえ、頭に手製の頭巾のようなものを被っています。この頃はどこへ行くにも頭巾を多用するようになりました。

このような妙な風体(=ふうてい=身なり)を見たら、10年前の私を知っている人は「あいつ、歳を取り出してから少しおかしくなったんじゃないの?」と思うかもしれません。

10年前の私はごく真面目な形振(なりふ)りのビジネスマンでした。しかし、会社を辞してからの仕事では、ネクタイをつけることは殆どなく、自らの首を絞めることだけは、極力避けようと考えていました。祝儀と不祝儀の時以外は、以来ネクタイを占めたことはありません。

ネクタイというのは、知らずサラリーマンを仕事に縛り付ける紐のような感じがします。今頃、ネクタイを締めてスーツ姿で歩いている人を見ますと、若くても年配者であっても、あれは仕事に縛られている柵(しがらみ)の証だと思って、ちょっぴり気の毒さを感じてしまいます。 一体いつ頃からあのようなものを身につける習慣が生まれてしまったのでしょうか? ま、このようなことを言ってはいるものの、私自身を振り返ってみれば、22歳で就職して58歳で会社を辞するまでの間、殆ど毎日ネクタイを締めて職場までを往復していたのですから、嗤ってしまいます。

その嗤いを引っ込めて今頃思うのは、嵌った型から抜け出して、新たな自分の生き方のスタイルを作るというのは、結構難しいということです。私が思うには、生計の原資を得るためのビジネスに取り組んでいる世代(リタイア前という意味)では、誰しも自分の個性を自分なりに主張するような生活スタイルが取れるのは、特殊な仕事に係わっている人だけで、その殆どは右に倣(なら)えの生き方を余儀なくされているのではないかということです。服装一つ取ってみても、殆どが右に倣えの中の狭い範囲で、小さな自己主張をしているという程度ではないでしょうか。ネクタイを締めて仕事をしている職場に、着物を着て出勤したり、或いは頭巾や帽子を被って椅子に坐っていたら、周囲から違和感を持って見られるだけではなく、上司や同僚から注意を受けるのが普通だと思います。

そのような時代を過ぎて、リタイア後は、極端に言えばあらゆる生活スタイルを自分の考えで、自分の好きなように変更し、作ってゆける自由裁量権がもたらされるわけです。着物が好きなら朝から晩までそのスタイルで過せばいいし、下駄が履きたければ下駄履きでどこを歩いたっていいわけです。しかし、自分の好きなようにといっても、現実にはそれを実現・実行することは難しいのです。

何が難しいかといって、主張する自分が何なのかが見つからないことほど難しいことはありません。ネクタイを外すことは出来ても、そこから先は今までと何も変わらないのが現実です。何か変わったことでもして見ようと思っても、パジャマのままで街の中を歩くわけには行かず、主張などということよりもその反対の行動の方が遙かに多くなるように思います。つまり、没個性的世界に沈没してゆくということです。別の言い方をすると、覇気のない老人の世界に埋没してゆくのです。

どんなに歳をとっても活き活きと生きている人は、没個性的ではありません。生きる喜びを知っている人は、単にその喜びを味わっているだけではなく、何らかの形でそれを表現していると思います。それが素敵な個性となって他人には映るのではないかと私は思っています。旅の中で出会う魅力的な人物に共通しているのは、ネクタイを首に締める時代を遠くに放り投げて、本物の自分の自由を手にした生き生きとした表情です。くるま旅の全員が皆そうだとはいいませんが、多いのは疑いもない事実です。

さて、もう一度我が身を振り返って現実を見てみますと、ネクタイのくびきからは解放されたものの、主張するようなことは何もなく、以前と変わったことといえば、3年ほど前から髭を中途半端に伸ばし出したことと室内帽として頭巾風の手づくりの布の帽子を被り出したということくらいです。これらの風体は、主張などではなく髭は全部剃るのが面倒なので、少しだけバリカンで刈れば済むようにしたいという発想が原点であり、まあついでにおつむの方が次第になくなって来たので、せめて顔の下の方の髭だけでもちゃんとあることを証明しておきたいということくらいなのです。頭巾というのは、これはもうてっぺんが光って周囲に迷惑をかけてはいけないということと、寒さ対策などの実利的な面を思って、家内に幾つか作って欲しいと懇願(?)して出来上がったものを載せているだけなのです。

最初は何だか恥ずかしいような気分でいましたが、今では元に戻す方が具合が悪いといった感じです。と言いますのも、最近の旅の間に出会った方は、皆さん私のそういう風体を当たり前と見ておられますので、てっぺんピカピカで白髭もない姿では、偽者と思われてしまいそうだからです。でも昔の自分を知っている職場関係の人からは、もしかしたら別人だと思われてしまうかも知れません。

どうでもいいようなことなのですが、最近では、もしかしたらこれが自分の新しい主張の一つなのかなと思ったりしています。考えてみれば、これらの風体所業は、右に倣えから始めたわけではなく、ごく自然にそう思って始めたことなのですから。恐らくこの二つは、これから後も髭が生えなくなるまで続けるような気がしますし、現在4個の頭巾帽子は、家内にはあと20個くらいは作って欲しいと思っています。

今日は終日本の作り直しに取り組み、疲れました。疲れたついでに、頭と髭を撫でながら、つまらぬ思いに時間を過ごしたのでした。

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くるま旅くらし最後のガイド本のこと

2010-01-23 02:41:36 | くるま旅くらしの話

現在本の製作中です。といっても大したことではなく、手づくりでくるま旅くらしのガイド書を作ろうとしています。このことについて、ちょっと紹介させて頂きます。

私は、2006年の秋に「くるま旅くらし心得帖」というガイド書を新風舎という所から出版しました。もうそれから3年以上が経過していますが、この間に世のくるま旅に対する関心はかなり高まり、旅のための車の購入も増加の道を辿っていると聞いています。いわゆる団塊の世代と呼ばれた人たちが現役リタイアの時を迎え、この後の人生を楽しむ一つの方法として、くるま旅への関心が強まったことが大きく影響しているのだと思います。

私がガイド書を書いたのも、ちょっとばかり先にリタイアした一人として、新しくくるま旅を始めようとされる方に役立つ基本的な情報を提供しようとしたからでした。その目的の達成を目指して、これから少し前進できるかなと思っていた矢先、頼みとしていた出版社が倒産してしまいました。これは予想外の出来事でした。継続出版の可否は、倒産した出版社を引き継いだ会社との折衝にありましたが、多大の追加費用を求められたのに対してOKする余裕は無く、出版を断念せざるを得ませんでした。

しかし、当初の目的への思いは未だ醒めやらず、どうしてももう一度ガイド書を世に出したいと考えてきました。本というものは、自分の思いの全てをそこに織り込むことがなかなか出来ず、伝えたかった肝心な部分の幾つかは依然として心の中に燻り続けています。最初の本が出来上がった直ぐ後には、その不足していた思いを補填すべく次の本の執筆に取り組み、どうにか続編の完成を見ていたのですが、これを本にするためには再び多大な費用が必要であり、年金暮らしの身には実現困難な状況です。無料で出版をするには、確実に売れるという見込みがなければならず、これは私の思いだけで決められることではなく、扱って頂ける出版社を探すのは至難のことです。

そのような事情から、思い切って自作の出版を試みようと決めました。私は過去20冊に近い旅の記録を冊子として製作していますので、市販のようなレベルではなくても、読んで頂くに適う程度の冊子の製作は可能だと思っています。それで、来る2月1日がブログ開始の3周年目に当たるのを期して、「山本馬骨のくるま旅くらし読本」(サブタイトル~60歳からのくるま旅くらしの楽しみ方)というのを発行することにしました。只今、その製作の最終段階に入ったということなのです。詳しいことは追って紹介させて頂きますが、予めその思いの概要についてお知らせしたいと思います。

私は、くるま旅くらしを考えるに当たって最も大切なことは、それが今の世をそしてこれからの世を生きるために、どのような意味(意義)を持っているのかを知っていることだと思っています。そのような難しげなことは何も考えずに、気楽にくるま旅を楽しみさえすればそれでいいのだとは思いますが、思いも為すことも無く気楽な旅をし続けるなどということは、実際できるものではありません。ボヘミアンのような放浪の旅は、私の考えるリタイア後のくるま旅くらしとはかなり違うものなのです。現実の世に背を向けたような流浪の旅は、リタイア後であればタダのくるま暮らしになってしまいます。

私の提唱するくるま旅くらしは、ちゃんとした母港(=最終的に帰ってくる場所=棲家)があって、どんな長旅であっても必ずそこに戻るというものです。車が家となるのは、旅の間だけであって、旅が終っても家は車だと言うことでは、それは流浪ということになってしまいます。リタイア後の人生を流浪や放浪で終らせるのも一つの方法かも知れませんが、あまり健康的ではないように思います。家族も地元も捨て去って、勝手な人生だけで終末を迎えるというのは、ある意味で無責任ではないかと思うのです。

このような前提に立ちますと、くるま旅くらしというのは、その楽しみの中に人生の意義のようなものが含まれてくると思うのです。それは意識しようとしまいと、結果としてそうなるものであって、もしそれが無ければ、本当の楽しみにはならないと思うのです。簡単にいいますと、くるま旅をしていても飽きてしまう、面白くないというのは、人生の意義を感じていないからなのではないかということです。人生の意義というのはわかり易く言えば、生きていて良かった、生きているのが嬉しい、ありがたいという気持ちです。人は意義を感ぜられない時にたくさんの不幸を抱え込むのだと思います。

くるま旅が人生の意義に叶うかどうか、すなわち活き活きとして生きる人生に役立っているかどうかということが大切と思うのです。そして、間違いなく60歳以降の人生に役立つ!というのが私の結論であり、主張なのです。これはほぼ10年のくるま旅の経験を通して実感することであり、これからの高齢化社会の中で、高齢者の果たすべき最大の役割である、心身共に健康で世の中にかける迷惑を最小化するという、このことに大きく貢献することでもあると思うのです。この思いは、私自身が古稀を迎えて、より一層確実なものとなりました。

私はくるま旅がしたいために、自分自身の健康に対してはできる限り妥協をせずに快食・快眠・快便のための工夫と努力(=発想と実践=言行一致)を積んでいます。その結果(と思っていますが)今のところ年間の医療費は、春先に一度花粉症の薬を貰うだけです。糖尿病も医薬ではなく運動と食事で対処しています。国民健康保険料の支払いは(=くるま旅くらしの北海道でのおよそ2ヶ月分くらいの費用に相当する)多大ですが、これは国家に寄付していると思っています。そう思わなければバカバカしくて支払えません。くるま旅をするためには、何よりも健康でなければならないのです。このことだけでも、高齢者としては世の中にかける迷惑を減らし、貢献していると思っています。くるま旅は、個人として生きるためにも、そして社会に対しても大いなる意義を持っており、一つの文化として成長する可能性を秘めているのだと考えています。

これが本を書く思いの最大のものでありますが、そうであれば、読んで頂く本も楽しいものでなければなりません。そしてそれは芸人が人を笑わせるような楽しさではなく、読む人の心を底の方から揺さぶるようなものでありたいと思っています。最初の本はそれが不足していたと反省しています。今度の本では、その部分を少し改善したいと、ちょっぴり理屈を少なくしました。さて、本当にそう受け止めて頂けるかは、自信がありません。

ところで、くるま旅に関するガイド書はもうこれで終わりとしようと思っています。いつまでもくるま旅くらしの考え方に拘っている必要は無く、これからは旅の出来事だけを拾って、世の中を見て行きたいと考えています。私に残された時間がどれだけあるのかわかりませんが、それほど多くはないと思います。その時間を思うと、日本という国はとてつもなく広く感じます。無数の出会い(含再会)や発見(含再発見)という宝物が埋まっています。それを一つずつ拾い上げて賞味・鑑賞する、これほど生きがいを感ずるものはありません。これからはその感じたことを、機会を見つけて本に出来れば良いなと思っています。

2月1日までにはまだ少し時間がありますので、ずっと見直しを怠っていたホームページ(「山本馬骨のくるま旅くらし元帳」)にも手をつけ、その中でお分けする要領等についてご案内をさせて頂く予定でいます。

 

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日本航空の倒産に思う

2010-01-21 07:16:34 | くるま旅くらしの話

御巣鷹山のジャンボ墜落事故も痛ましいものでしたが、今度の日本航空の倒産も痛ましく思います。そこで働いている多くの人たちの心情を思うと複雑な気持ちになります。何人かの知人もいますし、そのリタイア者も現役も心穏やかならぬ状態が続いているのかと思うと、気の毒を通り越して心配になります。

競争社会の現実は、企業経営であれば、その収益実態(見かけではなく)において、3年連続で赤字が続けば必ず倒産するというのが私の見方です。どのような巨大企業であれ、小さな優秀企業といわれるものであれ、要するに3年間も連続して赤字になるというのは、世の中から見放された、つまりその企業が社会にとって必要ではないということの証明なのです。真に厳しく恐ろしい現実です。そしてそれを証明する事実は、今回の日本航空だけではなく、USAの超巨大企業でさえも免れないことが示しています。

日本空航が倒産に至るまでの状況については、今まで幾つかの局面において取り上げられ、対策も打たれてきたようですが、結果的にはそれらの努力の多くが報われないまま、今日の状況に至ったということです。この原因は何なのか、よくよく検討し、考えてそこから教訓を得ることが大切ではないかと思います。それは、当事者である日本航空だけの問題ではなく、他のどのような企業においても重要で且つ必要なことではないかと思います。

私の考えでは、その原因や責任がどこにあるのかといえば、形式的には最も大きな原因はこの会社が国策会社から出発していることにあるのでしょうが、現在では完全に民営化されているということから考えれば、その原因を国策会社であったということに押し付けるだけでは、これからの日本航空の再建は成り立たないと思います。

それでは何が原因で、誰の責任なのでしょうか。社員の一人ひとりがおんぶに抱っこ的企業体質を心のどこかに抱いて仕事をしていたからでしょうか。日々の仕事の中で、お客様第一という事業精神を忘れていたのでしょうか。そのようなことは断じて無いと思います。皆さんそれぞれの立場・持ち場で懸命にその役割を果たされていたのだと思います。そのことは長い間何度もビジネスの移動の際に日本航空の飛行機を利用させて頂いた者としての実感からも明白です。

それなのになぜこのような事態を招来してしまったのでしょうか。日本航空の経営活動を人体の病状に例えるならば、頭以外の部分は、この頃なんか置かれている環境が厳しくなって来て大変だなと思いながらも、その本来の役割を懸命に果たしていたのに、頭の方はその変化の状況をさっぱり感知せず、或いは時々寒さや暑さを感じていても本気になってその対策を工夫することもせず、ま、その内何とかなるだろうと己の体力や体質を過信していた状況ではなかったかと思うのです。

つまり今回の悲惨(まだ雰囲気的には悲惨というイメージはそれほど伝わっては来ませんが)な出来事は、組織をコントロールする頭の責任と行動が大きく係わるものだと私は理解しています。優秀な社員で構成されている組織なのに、組織の個々のメンバーが真面目に懸命にその役割を果たしているのに、倒産に至るなどという出来事は、それを方向付け、コントロールする頭の働きが鈍く、変化への対応が仕切れなかったという要因以外に考えられません。極端な言い方をすれば、歴代の経営トップや役員の全員は、今回の出来事を作り出してきている原因に係わっているといわなければならないと思います。いや、これらの関係者だけではなく、その裏に居て様々な事態を画策していた連中にもその大いなる責任があると思います。

企業が倒産するか生き残るかの責任は100%、或いはそれ以上に経営者(=実質的にその企業の命運を担っている人)にあると私は思っています。倒産というのは人体ならば「死」或いは「瀕死」の状態です。この判定は人体においては脳の機能停止なのか、心肺のそれなのかまだ不定のようですが、恐らくその両方なのでしょう。日本航空の現状は、瀕死を超えて仮死状態に陥ったということかも知れません。このような状態に導いた経営者の責任は、万死に値すると私は思います。己の置かれた環境における適応行動の誤りが、自分の身体を作っている全細胞を死に至らしめるような事態を招来しているのですから、万死といっても過言では無いように思うのです。

しかし、多くの企業において、現在この万死の覚悟を以って経営に取り組んでいる人は少ないと思います。そのような力を発揮している人の多くは、創業者といわれる人が殆どですが、今の世は経営者といっても、殆どがいうなればサラリーマンの成り上り感覚の人たちですから、己の組織運営の失敗が万死に値するなどとは考えていないように思います。特に国策企業を土台とする場合は、この傾向は更に酷くなるのではないかと思われます。

このような責任論を展開しても大して役に立たないのは良く承知しています。では、これからの日本航空の再建にとって何が大切なのでしょうか。そのことは、新たにCEOになられる稲盛氏の頭と腹の中に納まっているのだと思いますが、私流に言えば、頭の中から身体の隅々までが、「原点に戻って仕事に取り組む」ことにあると考えます。勿論そのけん引役はトップです。

日本航空の仕事の原点が具体的に何かというのは、私には分かりませんが、野次馬的には、「顧客のために」という一言でしょう。そしてその顧客とは何かということを組織メンバーの一人ひとり全てが明確にして仕事に取り組むことだと思います。なかんずく大切なのは、トップの示す方向性や目標だと思います。稲盛氏ならば、必ず皆の腑に落ちるそれを示されるのではないかと思います。

日本航空の再建は、損益計算書や貸借対照表で考えても出来ないように私は思っています。今新聞やTVなどのニュースになっているのは、殆どがこの二つの会計学上の指標に係わることばかりです。経営者である以上は、このことに重きを置かないわけには行きませんが、このような指標や結果数字を作り出している根源は経営トップの万死を覚悟した適切な舵取りであり、それに基づいた企業第一線での実態行動であり、諸数字はその結果の一部に過ぎません。何千億の資金をつぎ込んでも、経営の実態行動が変わらなければ結果は同じことになります。

再建のために手っ取り早いのは、コストを下げることであり、その最も有効な手段は人員削減(=馘首)ですが、真っ先にこれを手がけるのは、本物の再建行為では無いように思います。組織運営に何の貢献もしていない者を除去するのは当然でありますが、そのような人物を探しても皆無に近いように思います。とすれば、極力馘首は押さえて、減給あたりから出発して欲しいものです。これは少し余計な口出しかも知れません。でも、今まで真面目に仕事をしていた人たちが路頭に迷うような姿は見たくはないと思います。

全てのビジネスの原点は、それを必要としている人のためにあります。ですから自分の商品を必要とする人が誰なのか、何なのかということをはっきりさせ、その一点に力を絞り注ぐことが商売の原点なのだと思います。そのことがしっかり出来て初めて競争の舞台で凌ぎを削る力が発揮できるのだと思います。

私が思うに、航空運送事業というのは、簡単にいえば出来上がった飛行機を買ってきて、それに人間や荷(貨)物を載せて運び、その中から収益を確保するだけの事業です。基本的にトラックやバスを使った運送事業と同じです。研究開発などという事業側面は殆ど無く、事業の本質はサービスです。とすれば、競争に勝つ要因はただ一つ、他社よりも優れたサービスを提供するだけでありましょう。勿論同類他業種との最大の違いは安全面の絶対とも言える確保徹底であり、これは競争条件ではなく事業の前提条件です。

日本航空は、新しいサービスの形と方法を創案すべきです。同業他社と同じことをやっているだけでは、現状維持しか出来ません。それでは生き残るのは不可能でしょう。日本航空にはこれらのことを実現・実行できるポテンシャルを持った社員が多数おられるのではないかと思います。その力を活かし、新しい経営体制の下で、是非なる再建を実現させると共に、それ以上に世界の舞台で活躍できる本物の力を付けて頂きたいと願っています。

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せせらぎの小路

2010-01-20 04:31:36 | 宵宵妄話

今日も歩きの話です。たくさんある守谷の歩きの道の中で、私が最も気に入っているコースの一つに、せせらぎの小路というのがあります。私が住んでいる御所ケ丘という所は、守谷市の北部に位置し、少し歩くと隣接するつくばみらい市に入るのですが、その境に沿って作られているのがせせらぎの小路という1kmにも満たない小さな水路に沿った散歩道です。せせらぎというのは、勿論浅い水の流れが作り出す音のことを言うのですが、ここのせせらぎは太陽光発電のモーターが地下から汲み上げた水を、小さな細い水路に流すことによって生み出されています。

   

守谷市とつくばみらい市との境界を流れるせせらぎの小路。多くの樹木が植えられ心安らぐ場所となっているが、ここを訪れる人は少ないようである。

最初にこの小路に出会ったときは、少なからず興奮し感動しました。守谷市は3つの大きな川、すなわち利根川、鬼怒川、小貝川の流れに接する町ですが、小川といえば田んぼの脇の、田植えの頃だけに水が流れる用水路か、生活用水の流れるどぶ川(一部しか見えず、その多くは暗渠になっている)くらいしかなく、このようなきれいな水が流れるようなところは見当たりませんでした。しかもその小さな清流は樹木たちに囲まれ、時に季節の花に彩られて流れているのです。

その水源がどこなのか見当もつきませんでしたが、それは直ぐに分かりました。道脇に小さな東屋のようなものが立っているところがあり、何だろうと覗いてみたら、屋根の下にコンクリート固めた丸い穴みたいなのがあり、そこから清流がこんこんと湧き出しているのでした。どうしてなのかなと良く見てみたら、この東屋の屋根一面に太陽電池のパネルが取り付けられており、そこから取り入れた電気を使ってモーターを回し、それで水を汲み上げて水源としているという仕掛でした。いわば自然のエネルギーで水を汲み上げ、それを水源としているのでした。道理できれいなわけです。

   

せせらぎの流れの水源となっている小屋。建物の屋根には何枚ものソーラーパネルが貼り付けてある。

   

こんこんと湧き出る地下水。太陽光発電で得た電力でモーターを回して汲み上げている。

但し太陽光発電ですから、曇りや雨の日はモーターを回すに必要な電力を得ることができないため、水を汲み揚げることが出来ず、水源は眠りに付くというわけです。なかなか面白いアイデアだなと思いました。本物の湧き水ではないけど、このような形で小さな清流や池を生み出すことも出来るわけで、基本が自然エネルギーであることもいいなと思った次第です。

小さな水路に沿って、数種類の樹木が植えられ、花を咲かせるものも巧みに取り入れられているのが嬉しいのです。落葉樹としては、桂、ケヤキ、銀杏、クマシデ、コブシ、サルスベリなど、常緑樹としてはヤマモモ、マテバシイ、サザンカ、ユズリハなど、それから花を咲かせる小木として、ユキヤナギ、レンギョウ、キンシバイ(=ビヨウヤナギ)、ツクバネウツギ(=アベリア)、ボケなどが見られます。どの樹木もどの花も皆好きです。

樹木たちは皆生き物ですから、そして植物は皆根と幹と葉を持ち、花を咲かせますから、それらを見ていると、それぞれの季節の生き方があるのに気づかされます。春を迎えての生命の息吹は、どの樹木からも一段と躍動的に伝わってきます。若葉が生まれ一挙に成長してやがて開花に繋がり、盛夏を向かえるに至り、一年の半分ほどを経過して紅葉・落葉期を迎えて冬へ、という同じような繰り返しですが、それらの変化を見つめていると、私自身の生き方を見ているような感じがしてきます。樹木たちは、それぞれが一年という時間を、様々な試練や変化に対応して生きて年輪を重ねてゆくものなのだというのがわかるのです。

樹木たちの周りには、様々な生き物たちが集まってきますが、小鳥たちの生き様も樹木に依存していることが多いように感じます。何種類かの定住の小鳥たちを見かけますが、冬の今頃に一番多く見るのはメジロです。子供の頃のメジロといえば、里山の奥まったあたりの高い木の上で鳴くのを聞くばかりでしたが、今は身近なところでも見かけることが多くなりました。キジバトなども身近に幾らでも見られるようになったのは、彼らが都会化を好んだだけではなく、餌を求めやすい環境が都市化されたエリアに見出されたからなのかも知れません。街の中でメジロの姿や声を普通に聞くことに最初は戸惑いましたが、今は納得することにしています。それにしても今日の散歩でも、サザンカの花の蜜を吸って喜んで大騒ぎをしているメジロたちに、何だか隔世の感を味わったのでした。

   

せせらぎの小路の中間ほどにある小さな池のあたりの景観。きれいに清掃が行なわれたばかりで、今日は澄んだ水に春を待つ樹木たちが凛として映っていた。

この小路は、私の歩きの中では今では不可欠の場所となっていますが、幾つかの弱点があるのが気になります。その一つは雨季になると水源が枯渇してしまい、雨水が流れをいつもとは違うものにしてしまうこと。そして最大の弱点は、落葉樹の落ち葉が水路を埋めたり、支(つか)えさせてしまうということです。桂やコブシやケヤキたちに、葉を落とすなと強要してもそれは無理なことです。せせらぎのある流れを作ったのは人間なのですから、それを邪魔する葉っぱを除けるのは、やっぱり人間の仕事だと思います。「皆でせせらぎの清流を取り戻す日」というようなイベントを作り、行政がリーダーシップを発揮してくれれば、私などは真っ先に取り組ませて頂くのですが、今は何もなく、行政の予算が下りて業者が小路と清流の清掃作業をするのを待つばかりだけのようです。財政が厳しい所為か、毎年確実にこの小路のメンテナンスが行なわれているとは思えず、この5年間の内の半分ほどは太陽光発電が不調で、湧き水は得られず、雨水が溜まるだけの池と、朽果てた葉っぱの溢れる用水路と化していたのでした。幸いなことに、今は元に戻って歩きを楽しませてくれています。

今日は二十四節季の大寒だそうですが、今頃の季節は遠出の旅に出かけることも出来ず、ただひたすらに散歩の道を歩くのみです。しかし、この中にも旅の要素は沢山詰まっているような感じもしています。この頃は何もかにも旅の視点でものを見るようになって来てしまっているのかもしれません。やっぱり人生というのは、人が生きているというのは、留まっているように見えても、これは旅をしているに違いないように思えてくるのです。

さて、話は変わりますが、明日辺りからちょっと近場の旅に出かけたいなと考えています。今度ブログを休んだ時は、とうとう出かけてしまったんだと、思って頂くのが正解になると思います。

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久しぶりのつくば行で

2010-01-19 07:14:57 | 宵宵妄話

今年になって初めてつくば市へ行きました。先月も行っていないので、2ヶ月ぶりかと思います。私のつくば行は、何時もフォークダンスの練習に出かける家内のお抱え運転手的な役割で、車を往復させるのが見かけ上の姿となっていますが、その現実はその様な哀れなものではなく、毎回歩きのコースの新開地を求めてワクワク気分なのです。もう家内のつくば行が始まってから5年を経過しようとしていますが、つくば市での歩きは守谷とは又違って、日本の最先端の各種技術の研究・開発の行なわれている街としての新しい景色と、昔からの田園や森の風景などを見ながらの散策は、何度歩いても飽きることはありません。

何時も9時20分くらいに会場に到着し、彼女の練習が終わるのが12時半近くですから、この間凡そ3時間あり、歩くのには充分な時間です。私の歩きには、基本的に休憩というのがありません。一旦歩き出したなら、ゴールに着くまでは歩き続けます。勿論途中で興味関心を惹くものに出くわせば、立ち止まって観察したり、写真を撮ったり、メモをしたりしますので、その時がいわば休憩時間ということになるのかもしれません。山辺の道などを歩く場合は、途中で昼食などをとるのは勿論ですが、か弱い(?)相棒が一緒であっても、うっかりすると休憩など忘れてしまっています。休まないということの理屈もあるのですが、それはまあ措くことにしましょう。

つくば市というのは、前にも書いたと思いますが、茨城県の中では発展途上にある街で、全国的に見ても人口の逓減現象が多い地方都市の中では、逆に人口が増えており、今は県では県庁所在地の水戸に次いで2番目の人口の市となっています。30年ほど前に新しくつくば市が誕生した時には、本当にこんな田舎が都会に似たようになるのだろうかと疑問大でしたが、それは未来を描ききれない見識のなせる判断だったようです。

とは言っても、現実のつくば市は、いわゆる研究学園都市と呼ばれる一角を中心とした都市化が進んでいるだけで、そこから離れた周辺は、依然として農耕・田園地帯が広がる田舎です。住宅地に近い商業エリアは大都市の中のそれと変わらぬ街の貌が現出しつつありますが、そのような場所には、歩きでは極力近づかないことにしています。歩くのは、専ら研究学園都市の中の散策路と田園地帯の細道です。

つくば市で一番気に入っている歩きの道は、各種研究機関の間を通る道です。今では全てが独立行政法人○○機構などというものになってしまって、どうも良く解らないのですが、国の機関としておんぶに抱っこ的な官僚組織の弊を除去すべく、競争原理を取り入れたとのことですが、大学までもが皆そうなってしまって、本当にこれで良いのか疑問があります。ま、その様なことは本旨には関係ないのですが、つくばのそれらの独立行政法人のある場所は、いずれも広大な面積を占めており、森や林の中に各研究施設の建物などが点在しているという状況です。何時も通る産業技術総合研究所などは、ゴルフ場を超える広さの森の中に、幾つかの研究棟が点在しており、さすがに日本の頭脳がその力を発揮させるに相応しい環境だなと思うのですが、もしかしたら、中に入ってみれば、意外と窮屈な日本的環境に留まっているという話なのかもしれません。

もともとあった森や林をそのまま活かして研究施設等が作られたのか、それとも後から植えたのかよく判りませんが、30年以上経った現在では自然との調和が取れている感じがして、いいなあと思いながらそれらを見ています。歩きの道はそれらの敷地と敷地の間にあり、真夏でも日差しを避けることができるうっそうとした大木に囲まれており、このような散歩道は滅多にあるものではありません。今日もその中を歩いたのですが、さすがに寒気が厳しく、日差しが欲しい感じでした。

その様な豊かな樹木のある道を外れて、少し市街地に入った所で、妙な表示を見つけました。その話です。「歩行喫煙禁止地区」というのがそれなのです。このような表示があるというのを今日初めて知りました。歩きながらタバコを吸ってはいけないというのは、当たり前のことだと思いますが、これが守られない風景というのは、全国どこへ行っても変わらない感じがします。つくば市においても、吸殻のポイ捨てが多いことに業を煮やして、このような注意喚起の表示を作ったのだと思います。

   

つくば市内を歩いているときに気づいた、「歩行喫煙禁止地区」の道路標示。ごく最近作られたらしい。

ところで、茶化すわけではありませんが、歩行喫煙の禁止区域であるというのは、理屈っぽい喫煙者からは、それじゃあ、このエリア以外では歩きながらタバコを吸ってもいいんだな、と思われてしまいそうです。私が言いたいのは、歩行禁煙は全国どこのエリアでも全面禁止は当然だということです。ですから、あえてエリア指定を思わせるような表示は、甘い感じがするのです。やむにやまれぬ思いから、敢えてこのような表示をしたのだと思いますが、どうせやるのなら、「全国・全域歩行喫煙禁止!」というような表示にして欲しかったと思います。

それにしても最近のこの種のマナーの悪さは相当なもので、殆ど凶悪犯罪に近い感じがします。我が家の門扉近くの植え込みの中にも、タバコの吸殻は幾ら排除しても必ず幾つか捨てられていますし、歩きの途中のブッシュの中には、至る所にゴミや不要となった大型の廃棄物が捨てられています。平気でこのような所業をするものを許しておくというのは、国を破滅させる根源となるように思います。よくゴミが捨てられる場所には、法律で罰せられる旨の注意書きの立札などがありますが、それらは完全に無視され、嘲笑されている感じがします。世の中に居ることのおかげで生きていられるのに、そんなことは関係ないと思い上がって、世の中を舐めている輩が急増している感じがします。これらに対しては、警告などしていないで、思い知らせるような強硬手段をとる必要があるように思います。

少し風向きが変わりだしたようです。つくば市のこのような取り組みに対しては敬意を表するのですが、より一層厳しい取り組みを国全体で行なう必要があるのではないかと、普段から国(=行政・政治)の怠慢思っているものですから、つい興奮して主張してしまいました。

さてその後は、幾つかの公園などを覗きながら駐車場まで戻ったのですが、もう早咲きの梅が咲き出していました。

  梅一輪 いちりんほどの暖かさ  嵐雪

   

咲き始めた紅梅。市内の梅園地区の公園で。この他にも白梅も何本かが花を咲かせて香りを漂わせていた。

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「カキオコ」の話

2010-01-17 03:36:09 | くるま旅くらしの話

「カキオコ」? 何のことかご存知でしょうか。北海道生まれで北海道在住の方が知っておられたら奇跡です。関東以北の方でご存知ならば、これは相当な物知り人です。もしかしたら関西の人でも、或いは九州の人でも、ポカーンかも知れません。カキオコとは、牡蠣入りお好み焼きのことです。

今朝(1/16)の東京新聞を読んでいたら、カキオコのことが載っていました。我が家では東京新聞を取っています。ずっと日経や朝日を取っていたのですが、日経は現役引退以来記事を読んでも所詮は野次馬だし、朝日は無駄な記事ばかりが多くて、比較的コンパクトな東京新聞にしたというわけです。東京新聞には割りと納得ゆく記事が多いように思います。

さて、そのカキオコですが、これは去年の秋に山陽の道を通ったとき、相生(あいおい)から日生(ひなせ)にかけての海沿いの道の至る所に、看板にその名を掲げた店が点在しており、特に日生には目立って多かったのでした。最初は何のことか判らず、食堂のような所で作っているようなので、それが食べ物であるらしいということだけは判ったのでした。さすがにそうなると家内の方が気づくのが早く、どうやら牡蠣入りのおこのみ焼きのことではないかと分かったようでした。女性の勘は鋭いものだなと感心した次第です。

今日の新聞には「岡山県備前市」とありましたので、こりゃあダメだな、日生が可哀想だなと思いました。備前といえば、直ぐに思い浮かぶのは備前焼で、お好み焼きなどをイメージする人はいないと思いますし、どうも合併というのは、地名と産物とがしっくりしないなことが多いように思います。カキオコは備前などではなく、あくまでも日生でなければダメなのだと思います。

この記事を読んで、日生の五味の市というのを思い出しました。日生は小豆島と結ぶフェリーが発着しており、そこへ行くともう島なのか半島なのかさっぱり分からないほど、海岸線が入り組んでおり、海には沢山の養殖筏が浮かんでいます。どうやらこれは牡蠣の養殖用のものらしく、そこで採れた新鮮な牡蠣を使ってお好み焼きが作られ出したようです。記事によると、7年ほど前から中野美津江さんという方が考案されたとか。浜屋というのがその方のお店のようです。今度行ったときには是非立ち寄って賞味したいと思います。

ところで、実は私ども(=家内も)はその時カキオコを食べていないのです。時間的にタイミングが合わなかったこともあるのですが、私の方はあまりその気にならなかったものですから、その時はお好み焼きよりもシズの天ぷらに大満足をして、カキオコの方には振り向かなかったのでした。家内はその時には、家に帰ったら自分で作る!と食べられなかったうっ憤をぶつけた言い方をしていたのですが、その後の旅の中ではすっかり忘れてしまっていて、家に戻っても何も起らなかったのでした。それが今日の新聞記事を見て俄然目覚めたらしく、早速牡蠣を飼って来ましたので、明日辺りそれを食べる夢が実現するようです。

今日は夕刻にNHKで北海道の美瑛の丘の景観の一年を放映していましたが、新聞といい、TVといい、旅の思い出が一杯詰まった記事や画像を見ると、つい嬉しくなってしまいます。くるま旅も10年も続けていますと、全国各地に思い出の場所が作られてゆき、それをもう一度振り返るチャンスが増えるようになり、なんともいえない喜びを感じています。

今日から自作の本作りに取り掛かり、ブログの方まで気が回らないため、休もうかと思ったのですが、ちょっぴり嬉しい出来事がありましたので、そのことを書きました。もう一度必ず日生に行きたい、ゆくぞ!と意を新たにした次第です。

   

日生の五味の市の広場付近の風景。写っているのは漁協の建物のようで、市場はカメラの目線の反対側にある。以前にも書いたけど、ここで買って食べたシズの天ぷらは最高だった。今でもその味が忘れられない。実に懐かしい。カキオコも一度は口に入れたい。もっと近ければなあと、思う。

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