結婚という人生の一大イベントから、来年は50年を迎えることになる。お互いよくもまあここまでやって来られたものだと、この頃は意識してそう思うようになった。人間、生きている残りの時間が少なくなってくると、多少は過去を振り返ってみるのも悪くはないな、とこの頃考えるようになった。それで、我が相棒のことを少し書いて見ることにした。これは「人はどう変わるのか」という観察記録となるのかもしれない。変身ということばは、心の発達であり人間としての成長という意味で使っている
昭和43年(1968)というのは、わが国の経済が高度成長期を迎えて、そのピークに近づく少し前の頃だったと思う。所得倍増の掛け声から久しく経って、世の中には日本の経済成長が著しいというコメントが膨らんで来てはいたけど、個人的にはそれを実感するほどの収入もなく、家計の経済基盤は甚だ不安定で怪しげな状況の中で、我が相棒との結婚生活に踏み出したのは、10月10日の体育の日だった。その後毎年この日が来れば祝日の結婚記念日となる筈だったのだが、その後祝祭日がふらふら動き回るようになったので、しばらくは何だか詐欺にあったような感じがしていた。しかし、ここ十数年は毎日が休日なので、今はそれほど気にしなくなっている。
さて、相棒との縁は、彼女が入社した時の同じ職場だったことから始まった。自分はその当時就職2年目で、想定外の社内教育担当などというセクションに配属されて、会社に対する不満が内攻していた時であり、何かあったら転職しようと常に考えていた。だから、女性に対する関心など全くなかったし、新入社員の彼女がもたもたしているのを、苦々しく思って怒鳴りつけたりして、恐れられていたのだと思う。それから2~3年ほど経った頃に、田舎の両親が独身でいるのをやたらと心配し始めて、見合いの話をうるさく持ってくるものだから、無視続けるのも悪いかなと思って、一度だけ両親に義理立てして、見合いとやらを体験したことがある。元々女性との会話は全く苦手な人間だったので、見知らぬ人に何を話せばよいのかがわからず、困惑したのを思い出す。結婚する気などないのだから、その相手の方には本当に失礼で申し訳ないことをしたと思っている。
その後いろいろあって、仕事の方も次第に落ち着き、改めて自分の将来を考えるようになった。結婚についても、どんな女性を選ぶべきかを考えるようになった。その頃考えていた人生を共にする女性像としては、①自分をよく解ってくれそうな人②内向的性格で芯は強い人③美人意識のない人④どちらかと言えば理系の人⑤健康な人、など幾つかの条件があったが、実のところは漠然としていた。一つ思っていたのは、何事の面でも度の過ぎるような女性とは、一緒に暮らしてゆくのは嫌だなと思っていた。度が過ぎるというのは目立ち過ぎるという意味である。いろいろ並べたけど、本音は本気で自分と一緒に人生を歩む気のある人なら誰でも良かったのかもしれない。
見合いなどで初めて会う人よりも、ある程度お互いを知っている方が安心だなとも思った。結局職場の知り合いの中で5歳も年下の彼女を選ぶことになった。並べ立てた理想条件からはかなり遠い場所にいた女性なのだが、何故かその気になったのは不思議という他ない。決め手の一つかもしれない或る思い出がある。職場の昼休みのある時、数学のおもちゃ箱という本があって、そこに載っている問題を遊び半分に解くというようなことをしていたことがあった。その時3~4人いた女子社員も加わっていたのだが、それを誰も解けなかった中で、一番年下の彼女だけが遠慮がちに声を出して、その問題の解を話したのである。それが強く印象に残った。この人は見かけよりも芯がしっかりして、頭の方も悪くはないのだなと思った。その問題が何だったかは忘れてしまったけど、その出来事だけは記憶に残っている。
心というのはとめどなく不可思議なもので、一体どのような意思決定をするものなのか、自分自身のことなのによく解らない。いざとなると、理屈や計算の埒外の動きをするもののようである。これはもう、天が決める運命というものなのであろう。相棒に彼女を選んだのも計算などではなく、天命というものではなかったか。今はそう思っている。
どちらかと言えば引込み思案で、はっきりしない言動の、他力依存(特に母親依存)で自主性の弱いタイプの女性だった相棒と、その後50年近い時間を一緒に過ごしている。この間に様々な出来事があり、それらを通して相棒は気がつけば50年前とは似つかぬ女性に変身してしまった。それを振り返ってみると、大きく分けて3つの契機というのか、経験というのか、変身の時があったように思う。
第1の変身模様は次のようなことである。
結婚して5年ほどが経ち、2人の男の子に恵まれて暮らしていた昭和49年の4月に、高松市にある四国の事業所への転勤を命じられた。それまでの相棒と言えば、母親の強い影響力と社宅のご近所の先輩主婦の方たちに助けられて、あまり自主性があるとも思えぬ子育てに取り組んでいたようだった。自立性に乏しく、相変わらず人見知りで、表にしゃしゃり出ることせず、文句はあっても帰宅した自分に少しばかり愚痴を言うという程度だった。
ところが、この転勤は相棒の今までの暮らしの環境を一変させるものだった。勿論自分にとっても初めての転勤であり、四国は未知の世界なのだが、それまで社内教育という仕事をしていたことから、全国に知り合いは多かったし、四国の事業所も例外ではなかった。しかし相棒にとっては、何もかもが生まれて初めて体験する未知の世界なのである。もはや頼みとする母親も社宅の先輩も皆無で、孤立無援の世界に放り出されたのである。
2歳違いの二人の子どもたちは、下の子は未だおむつもとれない状態であり、来年幼稚園に上がる予定の長男は、外を歩き回り始めて一時も目を離せないという状態だった。周辺の状況も良く知らないままに借りた最初の家は、直ぐ傍に国道11号線のバイパスが走っており、危険極まりない環境だった。そのため、1年ほど経った時に、高松市郊外のより安全な小さなマンションに引っ越すことにした。そのマンションには同じような子を持つ、自分たちと同じような高松に事業所を持つ転勤族の方が何人かおられて、相棒は子どもたちとの係わりを通じて、それらの方たちと親しくなったりして、この地での暮らしに次第に自信を持つようになったようだ。上の児が幼稚園に通うようになると、どういうわけなのかPTAの役員になったりして、引込み思案の壁を少し破ったようだった。これが彼女の第一の変身の始まりだったように思う。
ある時、町のPTA関係者の総会だったかの集まりがあり、偶々休日だったので、自分も出かけてみることにした。会場の中学校の体育館に行ったのだが、自分はその他大勢の人たちに紛れて床に腰を下ろして開始時刻が来るのを待っていた。靴を持ちスリッパを履いてという、何だか普段とは違う状況だった。その時前方のひな壇の方を見上げたら、なんと相棒が幼稚園関係の役員として椅子に座っていたのである。彼女が幼稚園のPTAで普段何をしているのか全く知らなかったので、何だか急に距離を感じさせられて、これには驚かされた。人間変われば変わるものだと恐れ入った次第である。
そのような動きを通して、高松での5年間はあっという間に過ぎ、地方での暮らしも悪くないなと思うようになった頃、今度は更に西方の福岡への転勤を命ぜられた。再び未知の世界への移動だったが、ある程度現地での暮らし方の要領を体得した相棒は、もうそれほど不安を覚えたりすることはなかったようだ。福岡への転勤は、子どもたちが小学校低学年の時だった。その後7年間福岡に住むこととなった。この7年の間には、家を購入して転居するなどのいろいろな出来事があったのだが、世間の荒波に揉まれたのか、相棒の引っ込み思案の性格は次第に消え去り、逞しさを増したようだった。かといって、他者を押しのけても己を主張するというほどのことは無く、まあ、12年間の異郷での暮らし体験を通して、普通の主婦のレベルに到達したのだと思う。どちらの家庭においても、子を持つ母親となると、女性は一大変身を余儀なくされるものなのであろう。我が相棒の場合のこの12年間は、一人前の主婦となるための最も重要な変身期間だったのだと思う。福岡の7年間が終わって、上の子が高校1年下の子が中学1年在学中の時に東京エリアに転勤となった。
次に第2の変身について述べよう。
12年ぶりに東京に戻った時は、先ずは相棒の実家に近い千葉市市内に住んだのだが、その後子どもたちの進学事情などに合わせて、川崎市へと住まいを移した。この間に、子どもたちは家を出て暮らすようになり、間もなく相棒と二人だけの暮らしとなった。時間に余裕ができ、それを少し持て余すようになって、相棒は時々近くの大学などの聴講に通ったりしていたようである。その内に、何かボランティアの活動がしたいと言い出し、川崎市にある古民家園での仕事を見つけて来た。何でまたそのような、聞いたこともなかったことをやる気になったのか不思議だったが、本人がその気なのだから反対する理由はない。
川崎市の古民家園は、日本有数の野外博物館として名を為しており、ボランティアだからと言って簡単に参加できるものではなく、応募者にはそれなりの審査がなされたようである。幸いにもそれをパスして、週何回か通うようになったのだが、この時が相棒の第2の変身の始まりだったのである。
古民家の維持管理についての知識など全くなかった相棒は、ボランティア仲間では最下等(?)の存在だったようである。先輩の多くは元教員だったり、文化財などに造詣の深い方が殆どで、この世界では無知という存在の者は扱いにくく、相棒はしばらくはいわゆるイジメの対象ともなったようである。しかし、意地悪をされているのがイジメなのだということにも気づかないタイプの人間である相棒は、それでも自分の無知を何とかしようと、それなりに力を入れて勉強を始めたようだった。建物の構造などの基本知識の習得から始まって、その歴史や維持保存のノウハウまで、先輩の方の助けも借りながら、ようやくメンバーからも認知されるようになったようだった。
ところが5年ほど経った頃、自分が会社を辞めることになり。小平市の方に転居しなければならなくなったのである。折角慣れて来たというのに、それが不意になってしまうことにかなり落胆したようだった。しかし、続けようにも小平市から川崎までは、通うには少し無理のある距離だった。そのような事情から諦めかけていた頃に、小平市の隣の小金井市に、桜の名所で知られた小金井公園というのがあるのだが、その公園の中に江戸東京博物館の分館で「江戸東京たてもの園」というのがあり、ここでボランティアを募集しているというのを見つけたのである。
早速応募したところ、幸いにも審査をパスして、川崎の民家園とは少し趣が違うけど、同じような考えと目的で移設されている建物の面倒をみることになったのである。この施設は古民家というよりも明治以降に建てられた近世の建築物を多く集めたものなのだが、彼女の川崎での知識や体験は、ここでは大いに役立ったようである。ここのボランティアメンバーには、大学の教員だったという先輩たちもおられて、それらの皆さんにも可愛がっていただき、川崎での体験以上の多くの学びを得たようだった。そのあと守谷に越すまでの5年の間に、建物の維持管理だけではなく、来訪者へのガイドまで任されるようになり、充実した時間を持つことができたようである。
この川崎古民家園と江戸東京たてもの園の、二つのボランティア活動の体験は、最初の変身とは異なる相棒の大きな成長につながったように思える。その核となっているのは、一つは新しい知識を獲得するために「学ぶ」という、本物の体験をモノにしたことであり、もう一つは不特定多数の来訪者に解説・説明するというコミュニケーションのスキルと覚悟の重要性を知ったことであろう。難しげに言っているけど、簡単に言えば、よく勉強して人前で誰にでも通ずるような話をすることの厳しさと楽しさを知った、ということになるのかもしれない。
相棒のこれらの体験は、昔の彼女の在り様しか知らない人には、驚異的と言っていいほどの変わりように映るに違いない。人前で文化財の解説をしている相棒の姿を想像できる人は殆どいないのではないか。斯く言う自分だって、はて?この人はこのような性格だったのかを疑うほどの変わりようだったのである。
現在、第3の変身が進行中である。
小平市から東村山市へと借り家の住まいを移し、やがて守谷市へ倅と共住の家を建てて住むことになり、江戸東京たてもの園でのボランティアも辞めざるを得なくなったのである。自分が完全リタイアを果たしたこの頃から、相棒と一緒のくるま旅を本格化するようになった。仕事に係わっている間は、長期間の旅は不可能であり、限られた季節の限られた時期に、長くてもせいぜい10日間ほどの旅しかできなかったのだが、仕事を完全にリタイアした後は、毎日が日曜休日の状態となり、旅に出かける制限条件が少なくなったのである。なかなか実現できなかった夏の北海道行も存分に楽しむことができるようになり、長い時は3カ月の長期滞在の旅をするようになった。また、北海道だけではなく、その他のエリアへの旅も拡大していった。
くるま旅の基本的な考え方として、春は東北エリア中心の旅を、夏は北海道の旅くらし、秋は関西以西の自在の旅を、そして冬は近場の旅と休養期間とすることにしている。今までよりも旅に出かける時間はかなり多くなり、この中での相棒の振る舞いも次第に変化してきた。勿論この中には第1と第2の変身の成果がたっぷりと含まれている。
我々のくるま旅においては、相棒は今や外交官の役割を担当している。旅先で見知らぬ人に話しかけて知り合うきっかけを作っているのは、99%が相棒なのだ。声をかけて貰うのも相棒の方が圧倒的に多い。そのためにはあれこれと工夫をしているらしい。特に衣装関係には気を配っているようだ。女性というのは、少し変わった着衣に対してかなり敏感に反応するようである。それをうまく活用する、そのようなセンスが50年前の彼女のどこに潜んでいたのかと驚くばかりである。
人が変身を遂げるためには、日常の暮らしの中に常に好奇心とそれを満たそうという強い意欲と行動がなければならない。くるま旅をするようになってからの相棒の好奇心とその充足意欲は、どうやら「人」に向かっているらしい。旅先で出会った見知らぬ人が、一体どのような人なのかを知るのが楽しくて仕方ないという風にみえるのである。とはいえ、誰でもいいということではないようだ。世の中には何か心惹かれる人というのが必ず存在するもので、そのような人に出会った時に、すかさず行動に移るというのがこの頃の相棒の楽しみようなのである。かつてそのような言動をけしかける立場だった自分は、今頃は反対にあまりしゃしゃり出ないようにと止める側に回っている。人は変われば変わるものである。
50年前は我が相棒は、大人としての知識や振る舞いの発達がかなり遅れた感じのする女性だった。それは3月31日生まれという幼少の頃からの1年近いハンディがもたらした知恵遅れではないかなどと揶揄したりしていたのだが、50年の一緒の暮らしの中で、そのハンディは、今頃逆に有利に働き始めたようである。つまり同世代の同学年の人たちの中では、最も老化が遅れているということである。今の時代、老世代が抱える厄介な問題の中で最大のものは、活き活きと生きることを見失った人たちが、なすすべもなく認知症のような病に取りつかれてしまうことではないかと考えているのだが、三大変身をモノにした我が相棒は、今のところその心配はなさそうである。分からないことがあるとこの頃はタブレットに向かって「○○って、何ですか?」などと大声をあげて訊いている。
というようなわけで、我々は来年金婚式の有資格者となるのだが、そのような儀式は不要であり、むしろこれからの残った時間をどう生きてゆくかが重要となると思っている。自分も相棒の三大変身などと呑気なことを言っている場合ではない。先ずは、相棒よりも常に5年も早く歳をとらなければならないのだから、好奇心とそれを満たそうとする意欲をどう保って生きてゆくのか、それを考え確保しなければならない。生来の頑固さと僅かな柔軟性しか持ち合わせていないこの自分こそ、大きな変身が求められているのかもしれない。そのことをしっかり我が身に言い聞かせながら歩を進めなければならないのだと思っているところである。