goo blog サービス終了のお知らせ 

山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

花の三姉妹 

2017-08-28 17:31:50 | ホト発句

                                                         

            上中下 いずれも美形 花姉妹

    

               争わず 咲いて照らせよ 花姉妹

コメント:

毎日早朝からの歩行鍛錬を行っている。現在は7~8kmほどの3コースを設けて、それらを順番に歩いている。つまり3日に一度は同じコースを歩くことになる。この規則的な歩きは、様々な同じものとの出会いに気づくことになる。同じ人、同じ犬、同じ猫、同じ木、同じ草等々、動くものも動かないものも、毎回の出会いにはそれぞれの変化があって、結構それらを楽しんでいる。

その中でこの頃ずっと気になっているのは、三個の花を咲かせている野草?がある。道端の疎らな雑草たちの中に一段と目立つ花を咲かせているのは、菊の仲間らしい黄色系の一株の存在である。名を知らないので野草かなと思うのだが、恐らく元は観賞用に庭先に植えられていたものが、野に逃げ出したのではないかと思う。花期がかなり長いようだ。気づいて出会ってから、もう10回以上にもなるので、1カ月以上「あ、今日も咲いているな」とその度に嬉しさを味わせて貰っている。

この花が目立つのは、二つ理由があるようだ。その一は、丈の低い雑草たちの中にあって、30cmほどの高さの花は、際立って見えること。もう一つは一株から3本の茎を伸ばしたその先の花が、縦・横にバランス良く「大・中・小」の花を咲かせていることである。もし1個か2個の花だったら、目立つ力は半分にも至らないだろう。普通に一寸目立つ花が咲いているな、と思って通り過ぎてしまうだけだと思う。それがこのように3個もバランスよく咲いていると、そこにストーリーを感じてしまうのだ。

人はどのような花にもストーリーを感じる力を持っているのだと思う。しかし、暮らしの中で疲れて擦り切れた感性は、いつの間にかストーリーなどとは無縁の世界に落ち込んでしまっている。それはやむを得ないことなのかもしれない。でも、時々はそのような感性を取り戻したいものだとも思う。この花の三姉妹は、そのことを自分に気づかせてくれたのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

我が相棒の三大変身の話

2017-08-24 04:05:00 | 宵宵妄話

 結婚という人生の一大イベントから、来年は50年を迎えることになる。お互いよくもまあここまでやって来られたものだと、この頃は意識してそう思うようになった。人間、生きている残りの時間が少なくなってくると、多少は過去を振り返ってみるのも悪くはないな、とこの頃考えるようになった。それで、我が相棒のことを少し書いて見ることにした。これは「人はどう変わるのか」という観察記録となるのかもしれない。変身ということばは、心の発達であり人間としての成長という意味で使っている

 昭和43年(1968)というのは、わが国の経済が高度成長期を迎えて、そのピークに近づく少し前の頃だったと思う。所得倍増の掛け声から久しく経って、世の中には日本の経済成長が著しいというコメントが膨らんで来てはいたけど、個人的にはそれを実感するほどの収入もなく、家計の経済基盤は甚だ不安定で怪しげな状況の中で、我が相棒との結婚生活に踏み出したのは、10月10日の体育の日だった。その後毎年この日が来れば祝日の結婚記念日となる筈だったのだが、その後祝祭日がふらふら動き回るようになったので、しばらくは何だか詐欺にあったような感じがしていた。しかし、ここ十数年は毎日が休日なので、今はそれほど気にしなくなっている。

 さて、相棒との縁は、彼女が入社した時の同じ職場だったことから始まった。自分はその当時就職2年目で、想定外の社内教育担当などというセクションに配属されて、会社に対する不満が内攻していた時であり、何かあったら転職しようと常に考えていた。だから、女性に対する関心など全くなかったし、新入社員の彼女がもたもたしているのを、苦々しく思って怒鳴りつけたりして、恐れられていたのだと思う。それから2~3年ほど経った頃に、田舎の両親が独身でいるのをやたらと心配し始めて、見合いの話をうるさく持ってくるものだから、無視続けるのも悪いかなと思って、一度だけ両親に義理立てして、見合いとやらを体験したことがある。元々女性との会話は全く苦手な人間だったので、見知らぬ人に何を話せばよいのかがわからず、困惑したのを思い出す。結婚する気などないのだから、その相手の方には本当に失礼で申し訳ないことをしたと思っている。

 その後いろいろあって、仕事の方も次第に落ち着き、改めて自分の将来を考えるようになった。結婚についても、どんな女性を選ぶべきかを考えるようになった。その頃考えていた人生を共にする女性像としては、①自分をよく解ってくれそうな人②内向的性格で芯は強い人③美人意識のない人④どちらかと言えば理系の人⑤健康な人、など幾つかの条件があったが、実のところは漠然としていた。一つ思っていたのは、何事の面でも度の過ぎるような女性とは、一緒に暮らしてゆくのは嫌だなと思っていた。度が過ぎるというのは目立ち過ぎるという意味である。いろいろ並べたけど、本音は本気で自分と一緒に人生を歩む気のある人なら誰でも良かったのかもしれない。

 見合いなどで初めて会う人よりも、ある程度お互いを知っている方が安心だなとも思った。結局職場の知り合いの中で5歳も年下の彼女を選ぶことになった。並べ立てた理想条件からはかなり遠い場所にいた女性なのだが、何故かその気になったのは不思議という他ない。決め手の一つかもしれない或る思い出がある。職場の昼休みのある時、数学のおもちゃ箱という本があって、そこに載っている問題を遊び半分に解くというようなことをしていたことがあった。その時3~4人いた女子社員も加わっていたのだが、それを誰も解けなかった中で、一番年下の彼女だけが遠慮がちに声を出して、その問題の解を話したのである。それが強く印象に残った。この人は見かけよりも芯がしっかりして、頭の方も悪くはないのだなと思った。その問題が何だったかは忘れてしまったけど、その出来事だけは記憶に残っている。

心というのはとめどなく不可思議なもので、一体どのような意思決定をするものなのか、自分自身のことなのによく解らない。いざとなると、理屈や計算の埒外の動きをするもののようである。これはもう、天が決める運命というものなのであろう。相棒に彼女を選んだのも計算などではなく、天命というものではなかったか。今はそう思っている。

どちらかと言えば引込み思案で、はっきりしない言動の、他力依存(特に母親依存)で自主性の弱いタイプの女性だった相棒と、その後50年近い時間を一緒に過ごしている。この間に様々な出来事があり、それらを通して相棒は気がつけば50年前とは似つかぬ女性に変身してしまった。それを振り返ってみると、大きく分けて3つの契機というのか、経験というのか、変身の時があったように思う。

 

第1の変身模様は次のようなことである。

結婚して5年ほどが経ち、2人の男の子に恵まれて暮らしていた昭和49年の4月に、高松市にある四国の事業所への転勤を命じられた。それまでの相棒と言えば、母親の強い影響力と社宅のご近所の先輩主婦の方たちに助けられて、あまり自主性があるとも思えぬ子育てに取り組んでいたようだった。自立性に乏しく、相変わらず人見知りで、表にしゃしゃり出ることせず、文句はあっても帰宅した自分に少しばかり愚痴を言うという程度だった。

ところが、この転勤は相棒の今までの暮らしの環境を一変させるものだった。勿論自分にとっても初めての転勤であり、四国は未知の世界なのだが、それまで社内教育という仕事をしていたことから、全国に知り合いは多かったし、四国の事業所も例外ではなかった。しかし相棒にとっては、何もかもが生まれて初めて体験する未知の世界なのである。もはや頼みとする母親も社宅の先輩も皆無で、孤立無援の世界に放り出されたのである。

2歳違いの二人の子どもたちは、下の子は未だおむつもとれない状態であり、来年幼稚園に上がる予定の長男は、外を歩き回り始めて一時も目を離せないという状態だった。周辺の状況も良く知らないままに借りた最初の家は、直ぐ傍に国道11号線のバイパスが走っており、危険極まりない環境だった。そのため、1年ほど経った時に、高松市郊外のより安全な小さなマンションに引っ越すことにした。そのマンションには同じような子を持つ、自分たちと同じような高松に事業所を持つ転勤族の方が何人かおられて、相棒は子どもたちとの係わりを通じて、それらの方たちと親しくなったりして、この地での暮らしに次第に自信を持つようになったようだ。上の児が幼稚園に通うようになると、どういうわけなのかPTAの役員になったりして、引込み思案の壁を少し破ったようだった。これが彼女の第一の変身の始まりだったように思う。

ある時、町のPTA関係者の総会だったかの集まりがあり、偶々休日だったので、自分も出かけてみることにした。会場の中学校の体育館に行ったのだが、自分はその他大勢の人たちに紛れて床に腰を下ろして開始時刻が来るのを待っていた。靴を持ちスリッパを履いてという、何だか普段とは違う状況だった。その時前方のひな壇の方を見上げたら、なんと相棒が幼稚園関係の役員として椅子に座っていたのである。彼女が幼稚園のPTAで普段何をしているのか全く知らなかったので、何だか急に距離を感じさせられて、これには驚かされた。人間変われば変わるものだと恐れ入った次第である。

そのような動きを通して、高松での5年間はあっという間に過ぎ、地方での暮らしも悪くないなと思うようになった頃、今度は更に西方の福岡への転勤を命ぜられた。再び未知の世界への移動だったが、ある程度現地での暮らし方の要領を体得した相棒は、もうそれほど不安を覚えたりすることはなかったようだ。福岡への転勤は、子どもたちが小学校低学年の時だった。その後7年間福岡に住むこととなった。この7年の間には、家を購入して転居するなどのいろいろな出来事があったのだが、世間の荒波に揉まれたのか、相棒の引っ込み思案の性格は次第に消え去り、逞しさを増したようだった。かといって、他者を押しのけても己を主張するというほどのことは無く、まあ、12年間の異郷での暮らし体験を通して、普通の主婦のレベルに到達したのだと思う。どちらの家庭においても、子を持つ母親となると、女性は一大変身を余儀なくされるものなのであろう。我が相棒の場合のこの12年間は、一人前の主婦となるための最も重要な変身期間だったのだと思う。福岡の7年間が終わって、上の子が高校1年下の子が中学1年在学中の時に東京エリアに転勤となった。

 

次に第2の変身について述べよう。

12年ぶりに東京に戻った時は、先ずは相棒の実家に近い千葉市市内に住んだのだが、その後子どもたちの進学事情などに合わせて、川崎市へと住まいを移した。この間に、子どもたちは家を出て暮らすようになり、間もなく相棒と二人だけの暮らしとなった。時間に余裕ができ、それを少し持て余すようになって、相棒は時々近くの大学などの聴講に通ったりしていたようである。その内に、何かボランティアの活動がしたいと言い出し、川崎市にある古民家園での仕事を見つけて来た。何でまたそのような、聞いたこともなかったことをやる気になったのか不思議だったが、本人がその気なのだから反対する理由はない。

川崎市の古民家園は、日本有数の野外博物館として名を為しており、ボランティアだからと言って簡単に参加できるものではなく、応募者にはそれなりの審査がなされたようである。幸いにもそれをパスして、週何回か通うようになったのだが、この時が相棒の第2の変身の始まりだったのである。

古民家の維持管理についての知識など全くなかった相棒は、ボランティア仲間では最下等(?)の存在だったようである。先輩の多くは元教員だったり、文化財などに造詣の深い方が殆どで、この世界では無知という存在の者は扱いにくく、相棒はしばらくはいわゆるイジメの対象ともなったようである。しかし、意地悪をされているのがイジメなのだということにも気づかないタイプの人間である相棒は、それでも自分の無知を何とかしようと、それなりに力を入れて勉強を始めたようだった。建物の構造などの基本知識の習得から始まって、その歴史や維持保存のノウハウまで、先輩の方の助けも借りながら、ようやくメンバーからも認知されるようになったようだった。

ところが5年ほど経った頃、自分が会社を辞めることになり。小平市の方に転居しなければならなくなったのである。折角慣れて来たというのに、それが不意になってしまうことにかなり落胆したようだった。しかし、続けようにも小平市から川崎までは、通うには少し無理のある距離だった。そのような事情から諦めかけていた頃に、小平市の隣の小金井市に、桜の名所で知られた小金井公園というのがあるのだが、その公園の中に江戸東京博物館の分館で「江戸東京たてもの園」というのがあり、ここでボランティアを募集しているというのを見つけたのである。

早速応募したところ、幸いにも審査をパスして、川崎の民家園とは少し趣が違うけど、同じような考えと目的で移設されている建物の面倒をみることになったのである。この施設は古民家というよりも明治以降に建てられた近世の建築物を多く集めたものなのだが、彼女の川崎での知識や体験は、ここでは大いに役立ったようである。ここのボランティアメンバーには、大学の教員だったという先輩たちもおられて、それらの皆さんにも可愛がっていただき、川崎での体験以上の多くの学びを得たようだった。そのあと守谷に越すまでの5年の間に、建物の維持管理だけではなく、来訪者へのガイドまで任されるようになり、充実した時間を持つことができたようである。

この川崎古民家園と江戸東京たてもの園の、二つのボランティア活動の体験は、最初の変身とは異なる相棒の大きな成長につながったように思える。その核となっているのは、一つは新しい知識を獲得するために「学ぶ」という、本物の体験をモノにしたことであり、もう一つは不特定多数の来訪者に解説・説明するというコミュニケーションのスキルと覚悟の重要性を知ったことであろう。難しげに言っているけど、簡単に言えば、よく勉強して人前で誰にでも通ずるような話をすることの厳しさと楽しさを知った、ということになるのかもしれない。

相棒のこれらの体験は、昔の彼女の在り様しか知らない人には、驚異的と言っていいほどの変わりように映るに違いない。人前で文化財の解説をしている相棒の姿を想像できる人は殆どいないのではないか。斯く言う自分だって、はて?この人はこのような性格だったのかを疑うほどの変わりようだったのである。

 

現在、第3の変身が進行中である。

小平市から東村山市へと借り家の住まいを移し、やがて守谷市へ倅と共住の家を建てて住むことになり、江戸東京たてもの園でのボランティアも辞めざるを得なくなったのである。自分が完全リタイアを果たしたこの頃から、相棒と一緒のくるま旅を本格化するようになった。仕事に係わっている間は、長期間の旅は不可能であり、限られた季節の限られた時期に、長くてもせいぜい10日間ほどの旅しかできなかったのだが、仕事を完全にリタイアした後は、毎日が日曜休日の状態となり、旅に出かける制限条件が少なくなったのである。なかなか実現できなかった夏の北海道行も存分に楽しむことができるようになり、長い時は3カ月の長期滞在の旅をするようになった。また、北海道だけではなく、その他のエリアへの旅も拡大していった。

くるま旅の基本的な考え方として、春は東北エリア中心の旅を、夏は北海道の旅くらし、秋は関西以西の自在の旅を、そして冬は近場の旅と休養期間とすることにしている。今までよりも旅に出かける時間はかなり多くなり、この中での相棒の振る舞いも次第に変化してきた。勿論この中には第1と第2の変身の成果がたっぷりと含まれている。

我々のくるま旅においては、相棒は今や外交官の役割を担当している。旅先で見知らぬ人に話しかけて知り合うきっかけを作っているのは、99%が相棒なのだ。声をかけて貰うのも相棒の方が圧倒的に多い。そのためにはあれこれと工夫をしているらしい。特に衣装関係には気を配っているようだ。女性というのは、少し変わった着衣に対してかなり敏感に反応するようである。それをうまく活用する、そのようなセンスが50年前の彼女のどこに潜んでいたのかと驚くばかりである。

人が変身を遂げるためには、日常の暮らしの中に常に好奇心とそれを満たそうという強い意欲と行動がなければならない。くるま旅をするようになってからの相棒の好奇心とその充足意欲は、どうやら「人」に向かっているらしい。旅先で出会った見知らぬ人が、一体どのような人なのかを知るのが楽しくて仕方ないという風にみえるのである。とはいえ、誰でもいいということではないようだ。世の中には何か心惹かれる人というのが必ず存在するもので、そのような人に出会った時に、すかさず行動に移るというのがこの頃の相棒の楽しみようなのである。かつてそのような言動をけしかける立場だった自分は、今頃は反対にあまりしゃしゃり出ないようにと止める側に回っている。人は変われば変わるものである。

50年前は我が相棒は、大人としての知識や振る舞いの発達がかなり遅れた感じのする女性だった。それは3月31日生まれという幼少の頃からの1年近いハンディがもたらした知恵遅れではないかなどと揶揄したりしていたのだが、50年の一緒の暮らしの中で、そのハンディは、今頃逆に有利に働き始めたようである。つまり同世代の同学年の人たちの中では、最も老化が遅れているということである。今の時代、老世代が抱える厄介な問題の中で最大のものは、活き活きと生きることを見失った人たちが、なすすべもなく認知症のような病に取りつかれてしまうことではないかと考えているのだが、三大変身をモノにした我が相棒は、今のところその心配はなさそうである。分からないことがあるとこの頃はタブレットに向かって「○○って、何ですか?」などと大声をあげて訊いている。

というようなわけで、我々は来年金婚式の有資格者となるのだが、そのような儀式は不要であり、むしろこれからの残った時間をどう生きてゆくかが重要となると思っている。自分も相棒の三大変身などと呑気なことを言っている場合ではない。先ずは、相棒よりも常に5年も早く歳をとらなければならないのだから、好奇心とそれを満たそうとする意欲をどう保って生きてゆくのか、それを考え確保しなければならない。生来の頑固さと僅かな柔軟性しか持ち合わせていないこの自分こそ、大きな変身が求められているのかもしれない。そのことをしっかり我が身に言い聞かせながら歩を進めなければならないのだと思っているところである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奥茨城村出身の一人として

2017-08-17 08:56:40 | 宵宵妄話

今NHKの朝ドラ「ひよっこ」が好評のようだ。しかし、視聴率がどうなのかなどは知らない。NHK自体が相当に力を入れて宣伝的なことを行っているのはこの頃の傾向なのだが、この番組は宣伝しなくても評判はとれる様な気がする。何故なのかは解らないが、一つ言えるのは、自分が奥茨城村の出身だからではないかと思うし、奥茨城村出身の人は今の世にも大勢生き続けているからである。これは少し変な因縁の引っ掛け方かもしれないけど。

奥茨城村などというのは、現在も過去にも茨城県には存在してはいない。でもその存在を信じている人は多いのではないか。今の世の中には、疑問を感じた時に地図帳を開いて見る様な面倒な作業をする者は殆どいないだろうから、騙すのは簡単だ。でも騙す必要もない。何故なら村名は実在しなくても実際に奥茨城村出身の人物は大勢いるからである。

自分は奥茨城村の出身である。奥茨城村というのは、茨城県の北部農村地帯を総括した地名である。実在する地名では、常陸大宮市、常陸太田市、大子町、高萩市、北茨城市などの山間部の全てが包含されると思う。これらの地域に生まれ育った人たちは皆奥茨城村出身ということになる。

自分は日立市生まれだが、育ったのは現在の常陸大宮市である。今は大子町を除けば皆市制を敷いているので、都市部と勘違いされるかもしれないが、これらのエリアではホンの一部が都市らしく賑わってはいるものの、実態は奥茨城村なのである。

「ひよっこ」は昭和30年代後半から40年代辺りが、主人公たちが活躍する時代背景となっているが、ヒロインのみね子よりも自分の方が5~6年年長のようだ。彼女が高校を卒業して就職する頃は、自分は大学を卒業して就職2~3年目で、集団就職列車で上京して来るみね子たちを迎えに行くといった世代である。実際上野まで迎えに行き、会社の寮まで引率したという経験もあり、更には教育担当だったので、寮の舎監として一緒に住み込んで寝食を共にした経験もある。だから、この物語の始めの頃の場面は、自分自身の実体験と重なって、久しぶりに懐かしく往時を思い出したのだった。自分の体験では、新入社員は全て男子だったので、女子社員の扱いとは大きく違っていたのは勿論である。

話題は奥茨城村の方である。昭和30年代の頃と言えば、自分は中学を卒業して高校へ通っている頃であろうか。「経済白書」に「もはや戦後ではない」と書かれるほどに、戦後の疲弊からようやく立ちあがって、経済の高度成長期が始まる辺りだったと思う。都市部の経済活動は軌道に乗って着実に拡大循環に入ったのだと思うが、農村地帯の経済状況は必ずしも好調とは言えず、終戦直後の食料調達困難時代に力のあった農業も、未だ機械化への着手など夢の時代であり、停滞に陥っていたと思う。特に現金収入に難のある農家では、兼業を志向するとか、農閑期には都市部に出稼ぎに出る人も多かったと思う。子供だったこともあって、具体的にどこの誰がどこへ出稼ぎに行ったかなどということは覚えていないけど、奥茨城村地帯から出稼ぎに行った人は少なくないように思う。

特にみね子の父のように、東京オリンピック開催を期しての大規模工事に従事する人たちはかなりおられたのではないか。この国際的な行事は、疲弊したままの首都のインフラの整備に大きく係わっており、限られた期間内の完成を目指して、劣悪な条件の中で、過酷な労働を強いられたケースが多かったのだと思う。大都市のインフラは、地方の出稼ぎパワーに支えられて出来上がっていると言っても過言ではないのではないと思う。

奥茨城村のその頃の自分の家の状況を話すと、我が家は兼業農家だった。もともと開拓地に入植するために父は会社を辞め、開墾に励んでいたのだが、体力に恵まれた方ではなく、又会社からの復帰の誘いもあったらしくて、父は再び会社勤めのサラリーマンとなった。このため農業の主役は母であり、自分たち子どもがそれを手伝うという形で暮らしが成り立っていたと思う。父が出稼ぎに行かないで済んだのは幸いだったが、自宅から会社までの片道2時間半を有する遠距離通勤は、毎朝6時前に家を出て、帰宅は21時過ぎという厳しさだった。農事に加え、子ども5人とこの父に対応する母の家事も又相当に大変だったと思う。睡眠時間は5時間にも満たなかったのではないか。超人的な母の働きだったと思う。

他所の家がどのような状況だったのかは判らない。皆自分の暮らしを立てるのに精いっぱいだったから、それぞれの家で様々な出来事が起こっていたのだと思う。小・中学校とも一緒だった同学年の仲間たち70数名の内で、高校へ進学したのは20名ほどだった。残りの50数名の内で村に残ったのは数名で、他の皆は東京を初めとする首都圏の各地に就職して村を離れて行った。その中には家計を助けるために親への仕送りをしていた人もいたのかもしれない。何年か前に開かれた同窓会には20人ほどが集まったが、在郷の人が多いのは当然としても、意外と故郷へ戻って来ている人が多いのに驚かされた。村には人を呼び戻す力も残っているのだなと思った。

みね子の実家の風景は、まさに奥茨城村の代表的な景観である。後ろに里山らしき林を控え、家の前には棚田風の小さな田んぼが広がる景観は、往時を彷彿させる。赤いトタン屋根は、往時としては新しい方なのかも知れない。あの頃は未だ麦藁屋根の家も点在していたように記憶している。茅葺ではなく麦藁葺きの屋根なのだ。これは自分の育ったエリアだけの景観だったのかもしれない。

自分の家は、みね子の家と比べて数段劣るものだったように思う。何しろ中学卒業近くまで我が家には電気が通っていなかったのである。電気がなければラジオもないのだが、中2の頃に父が丁度みね子たちが最初に働いていた会社が作っていたと同じようなトランジスタラジオを買ってきたので、初めて自分の家の中で、皆でニュースや歌などを聞くことができたのを思い出す。開拓地だったという理由なのか、集落のすぐ傍には電柱があって電線が通っているのに、自分たちの集落には引いてくれなかったのである。この恨みの籠ったコンプレックスは今でも消えることがなく、自分は大の電気嫌いであり、東京電力も好きにはなれない。今の時代電気を拒否したら暮らしが成り立たたなくなるから、必要最小限を我慢しながら受け入れている。貧しさは心の貧しさにつながり、人を偏屈にしたり、自信のなさを生み出す源泉にもなるようだ。これは自分自身の心の中に宿っている古い傷のようなものだ。

一方で貧しさを当たり前として、その中に安寧を見出して暮らしている人たちの心は優しい。みね子の矢田部家はそのような優しい人たちのようだ。記憶を失った実さんも、優し過ぎたのでそうなったのかもしれない。他の集落の仲間の人たちも口は悪くても気心の優しい人たちだ。奥茨城村にはそのような人が圧倒的に多く住んでいたと思う。今の時代は少し様相が変わって来ているのかもしれないけど、田舎人の本質はそう簡単に変わるものではないのではないか。

このドラマを見ていて、昭和という時代が、愚かにして悲惨な戦争から立ち直り、繁栄への一歩を踏み出した頃にあった「決して失ってはならない大切なもの」に気づかせてくれたことに感謝したい。家族のあり方、集落でのつきあい、職場での心の交流等々、その心底に流れている人間としての大切なもの、それらが今の時代は褪せて薄れて行っているような気がしてならない。田舎人の持つ素朴だけど美しい心根を失ってはならないと思う。

それにしても、よくもまあ奥茨城村を登場させてくれたものだと思う。このあとも、みね子の奥茨城村スピリット発揮に、大いなるエールを送りたいと思っている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

先輩、本物の絵描きとなる

2017-08-12 04:09:21 | 宵宵妄話

サラリーマンという形態の職業に就いていた人は、定年という長期労働契約が終了すると、一時この先をどのように暮らしてゆくかということで困惑する人が多い。定年後しばらくその延長的な仕事を続けている人も、やがてはそれが終わって勤めなしの不労働の暮らし(たとえば100%の年金暮らし)に入ることになるのだが、人間唯食って寝るというだけでは生きて行けるわけでもなく、頭と身体を動かして何かしていないことには、己が生きていることすらもわからない状態に落ち込んでしまう。何もしないで良いというほど己を迷わす出来事は無い。多忙な時にはそれは夢であり願望となり得ても、いざそうなってみると、想像もつかない迷いの世界が地獄のように迫ってくるのである。これは一般論ではなく、自分自身が味わった真実の出来事なのだ。

だから定年後は、しっかりした第二の人生の生き方・あり方が必要となる。これはサラリーマン時代に社長だった人も平社員で終わった人も皆同じである。第二の人生で立場が逆転するというようなケースはざらにあることであり、第二、第三の人生で本物の生き方を見出した人こそが真の成功者なのだと言えるのかもしれない。

仕事からのリタイアが近づいてくると、誰でもその後どのような生き方をしようかを模索する。しかし、今までやりたくてもできなかったことを実現させるという明確なテーマを持つ人はそれほど多くはない。多くの場合は曖昧な願望レベルでリタイアの現実を迎えることになる。よく聞く話としては、趣味としてのアートの世界(絵画・陶芸・彫塑・工芸・文芸など)への関心が目立つようだ。又世界や日本を巡る旅をしたいという話も多い。それらが何であっても一向に差し支えないと思うけど、大切なのは人生が終わる時まで続けられるかどうかという「継続性」があるかということだ。

自分の周辺の人を見ていると、この継続性を保っている人はホンの僅かのようだ。多くの人たちは様々な理由で結果的な挫折を繰り返しながら歳を重ねているようである。それが積み重なって平均余命が近づく頃になると、もはや毎日元気で生きてさえゆければいいというくらいの気持となるのであろうが、この時点でしっかりした目標や第二の人生の仕事を持っている人とそうでない人との生きざま(=死にざま)が大きく別れることになるのではないか。

極端な言い方をすれば、もうこれでいいやと己の人生に見限りをつけた人の行く先は認知症的世界であり、一方何かをそれこそ性懲りもなく続けて来ている人には、活き活きと生きるための新たな課題が与えられるのではないか。何事においても、己の人生に見限りをつけることは、一見楽をするように見えて極めて危険なことのように思える。残りが少ないのだから、もうこれからは何事も楽をして過ごしたいという思いは、誰にでもやってくる誘惑なのかもしれない。その誘惑に乗って、そのまますんなりあの世へ旅立てれば、それも良い選択なのかもしれない。しかし、多くの場合あの世への旅立ちの前に、己を失い家族や周辺を困惑させる悲惨な体験を強いられる現実が横たわっている。

認知症という病の真因が何なのかは未だ解明されていないが、老人性という場合、高齢者ほどその発生度が高いというのは、高齢者の生き方や環境がその病の大きな誘因となっていると思えてならない。そしてその核になるのが、本人の生き方に対する見限り意識ではないか。齢を重ねても明確な目的意識を持って人生を歩んでいる人の中に、認知症へ誘われた人がいるという話をあまり聞いたことが無い。これは極めて重要なことだと思う。

ここまでは前置きである。つまり、定年後の生き方というのは、人生の最後をどう締めくくるかに直結しており、その歩み方は様々だが、「終り良し」となるためには、継続性のあるしっかりした自分なりの仕事(=取り組みテーマとその実践)を持つことが大切だというのを強調しておきたい。

 

さて、その上である人の話をしたい。ある人というのは元の勤務先の1年先輩のHさんのことである。Hさんも自分も同じような社内経歴で、Hさんも又社内教育業務から出発して、その後総務・人事セクションを中心に要職を務め、最後は役員となって終えられている。自分も総務・人事など同じような道を辿ったのだが、社内教育に係わる期間がかなり長くて、定年を待たずに職を辞したので、サラリーマンとしての終わり方は異なっている。在職中、職場は異なっても、Hさんには何かにつけて教えを受け、お世話になった。定年後となった今でも親しくお付き合いをさせて頂いている。

定年が近づいたころ、お互いにこれからのことについて話し合う機会があったのを思い出す。その時彼が語ったのは、定年になったら奥さんと一緒に全国のすべてのゴルフ場を制覇したいというものだった。そのころHさんはゴルフに力を入れていて、(実際、社内コンペでのベスグロは殆ど彼が獲得していたし、優勝の数も多かった)ご夫婦で存分に楽しみたいと本気で考えておられたようだった。その時は正直、まあ、なんて馬鹿な目標を立てるのだろうと、些か呆れ返る気持で話を伺っていたのだが、その後しばらく経ってから会った時は、それとは全く異なった話となっていた。膝を痛めてしまい、ゴルフどころではないということだった。何しろ100kg超の体重であり、膝の方も悲鳴を上げたのだろうと思った。膝のトラブルは心配だったが、プロだって死ぬまでゴルフを続けるのは不可能なのだから、早く断念するのは良いことではないかとさえ思ったのだった。

それでは何をされるのかと少し気になっていたのだが、それからしばらくして水彩画を始められたと聞いた。それまで絵を描く趣味があるなどという話は聞いたこともなかった。せいぜい思い出すのは、その昔の勤務先の社内会議で同席していた時に、隣りをふと覗くと、彼が退屈に紛れて何やら漫画のようなものを描いていたのを見たということくらいか。しかし、それは絵のデッサンとはほど遠いものだった。でも、もしかしたらその時、この方の絵の才能が垣間見えていたのかもしれない。自分には到底見抜けぬものだったけど、人の才能というのは、存外そのような時に表に出てきているものなのかもしれない。

さて、水彩画に取り組み始めてからのHさんは、絵の同人会に参加して、絵の勉強をしながら猛烈に描き始めたようだった。猛烈というのは、絵を描くのが半端ではない枚数だったからである。1日に1枚描くのも大変だと思うけど、Hさんの場合はそんな少ない数ではなかったように思う。ある時お宅をお邪魔した際には、押入れから何枚もの習作を取り出されて、その場面などについて情熱迸(ほとばし)る口ぶりで、その説明をしてくれたのだが、当面千枚描くのを目標にしているとのこと。千枚と言えば、1日1枚描いたとしても3年近くかかることになるのだが、Hさんの情熱は2年もかからぬ内に達成しそうな勢いに思えたのを思い出す。あまりにも熱心なので、反動としての飽きや醒めが来なければ良いがと、正直思ったりしたのだった。

しかし、自分のそのような見方は全く見当外れだった。Hさんの取り組みは本物だった。自らに課したノルマを確実にクリアして行かれたのである。とにかく絵を描くのが楽しいのだ、と、嬉しそうな顔で話されていた。もはや全国ゴルフ場巡りなどという愚かな目標は、どこかへ完全に霧消してしまっていたのである。

そのような取り組みを継続されていた中で、ある時千葉の県展だったかに出品された作品がみごと入賞の栄冠に輝いたのである。時々絵画展の案内を頂戴して、都合のついた時には必ず出向くようにしていたので、彼の絵の進歩の様子はそれなりに承知しており、いつかそのような時が来ると期待していた。それがついに実現したのである。思いのほか早くやってきたのは、彼の絵に対するエネルギー傾注の賜物以外の何ものでもないと思う。

その作品は沖縄のどこか知らぬ民家の軒下に並べられた大小幾つかの壺を描いたもので、ハッと息をのみ目を見張るほど迫力のある作品だった。壺に貝殻のような物が付着して描かれていたのは、その壺が一時海水に浸っていたからなのかもしれない。その壺の中には、まるで沖縄のその現地の歴史がぎっしり詰まっているかの様な、何か訴えかけて来るものがあった。その展覧会場に出向いてそれを見た時は、入選するのは当然だなと思った。

この時が、Hさんが絵に開眼した初めだったのではないかと自分は思う。この沖縄の壺の絵で、彼は絵についての重大な何かを獲得したのだと思う。絵というものが単に対象物を写実するものではないというのは、絵を描く人なら誰でも解っていることなのかもしれない。しかし、自分が思うのは写実というものを極端に離れた作品は、特に水彩画の場合は解りにくく困惑する。写実の中に、制作者の無限の思いが汲みとれる作品こそが観る人の心を打つのではないか。Hさんの沖縄の壺の絵は、まさにそのような要件を満たすものだった。

その後もHさんの精進は少しも衰えること無く絵を描き続けられた。もはや趣味の世界などではなく、生きがいの世界となったのではないかと思う。生きがいというのは、自分をどう表現するかという手立てを見つけた時に感ずるものであり、それを実現できた時に生きていることを実感できるのである。Hさんは絵を描くことの中にそれを改めて実感できたのではないか。自分はそう思った。

しかし、この自分を、自分の思いをどう表現するかというテーマは、厄介なことに同じレベルに止まることをしてくれないのだ。一つの満足や充足感を味わうと、必ず次の未知のテーマが漠然とやってくる。それがはっきりするまでの間、折角味わった生きがいは再び苦悩を伴ったものとなる。人生は、人生の生きがいというのは、ある意味でこの繰り返しであり、どうやらこの絶対的な枠からは逃れられないものらしい。多分この枠から解放された境地に到達するのを「悟り」というのかもしれない。しかし、生身の人間の我々には、絶対的な悟りなどある筈もなく、小さな生きがいを感じた時が悟りの一つであり、それを積み上げることで一生を終える。それで充分なのではないか。自分はそう思っている。

さて、H先輩は、その後しばらくの間、相当にこの沖縄の壺に囚われるようになった様である。その後の絵画展で、壺に絡む作品を多く観る機会が多かった。それを見る度に、壺に魅入られてしまい、それに囚われ悩んでいるのではないか、と思った。何か新しい壁がHさんの前に立ちはだかったのを感じたのだった。

このように思うのは、自分自身の経験によるものである。自分の場合は、書くという表現の世界に拘り、ある時期は毎日5千字以上書くことを1年間続けるという目標を決め、それをどうにかクリア―したのだが、ある程度自在にものを書くという自信はついたものの、しばらくすると新たな壁がやって来て、書くことの意味を見直す必要を痛感させられたのだった。唯書くだけでは自分の思いを表現はできないのである。今書いている自分とは違う書く世界がどこかにあるのだ。そのことに気づかされるのである。

恐らくH先輩も同じような疑問を、何枚かの沖縄の壺を描きながら思い続けていたのではないか。表現の世界では、一つの成功へのこだわりは、必ずしも次なるステップアップにはつながらない。こだわりから離れて自由になることが新しい表現につながるのではないか。アートの世界では、これは宿命的な当然事に思える。

H先輩がいつこの壁を乗り越えられるのかが気になっていた。壺のレベルで作風が固まってしまう筈はなく、必ず新境地の作品が観られるものと思っていた。それがこの6月、「日本水彩展」で入選するという結果で実現したのである。上野の東京都美術館で開催されたこの由緒ある絵画展には、自分は所用があって行けなかったのだが、その後の別の機会に新しい絵を見ることができ、まさに新しい心境の絵が生まれたなと思った。

その絵は某大学の図書館の風景を描いたもので、歴史ある建築物の入口付近に通りがかった二人の人物が描かれていた。柔らかいタッチなのだが、学び舎の重さを感じさせる描き方で、光と影を巧みに捉えていた。沖縄の壺とはかなり違った、肩の力を抜いた水彩画らしい柔らかさがそこにあった。

人によって受け止め方が異なるのだろうけど、自分的には水彩画というのは水彩画らしさが大切だと思っている。水彩画展に行くと、およそ水彩画とも思えぬ、油彩と変わらぬ絵を多く観るのだけど、それらは何だか息苦しい感じがして、大作であっても安心できない気持となってしまうのだ。

その絵画展からしばらく経って、Hさんの属する絵画同人の絵画展に行って来たのだが、偶々今回はHさんの作品のコーナーがあって、かなりの数の作品が出展されているのを見ることができた。新しい絵を何枚か見せて頂いたのだが、以前の壺の絵とは違って、柔らかいタッチの作品が多く描かれていた。いずれも水彩画らしさに溢れるものだった。明らかに新たな心境に到達されているのを感じたのだった。

描き始めた絵は既に2千枚に届いているという話だった。今までそれらの管理に気を配って来たけど、これからはもうそれを止めて、自由に楽しみながら絵を描いてゆきたいと話されていた。それらの話を伺いながら、ああ、先輩は本物の絵描きにぐっと近づかれたのだなと思った。このあと、益々その本物の絵は輝きを増してゆくだろうと思った。

この先輩の生き方は自分にとっても大きな励みとなる。「継続は力なり」という格言があるが、これはまさに金言だと思う。H先輩はその力で己の画才を磨き続け、本物に近づかれたのである。ここでいう継続というのは、同じことの繰り返しではない。次々と立ちはだかる壁を超える工夫を伴った力なのだ。その力こそが実力というものであろう。自分もこの先輩の姿を忘れることなく、己の道に歩を進めたいと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

百日紅の思い出

2017-08-08 06:00:38 | 宵宵妄話

 夏は百日紅の花の季節である。百日紅と書いて、<さるすべり>と読む。多くの樹木が花を咲かせる季節は春なのだが、真夏に花を咲かせる夾竹桃や槿(むくげ)など数少ない樹木の中に百日紅も加わっている。百日紅と書くのは、百日ほどもの長い期間に亘って紅い花を咲かせ続けるということから名づけられたのであろう。

 守谷市内には百日紅の街路樹の通りが何カ所かあって、今の季節になると早朝散歩の楽しさを膨らませてくれるのが嬉しい。街路樹以外でも百日紅は庭木としても多く植えられているようで、灼熱を煽る蝉たちの声を包んで咲き続けている。

守谷市に幾つかある百日紅の街路。夏になるまではさっぱり見応えのない街路樹なのだが、この季節になると、俄然輝きを増す。

 この花を見ているといつも必ず思い出す出来事がある。他愛もないことなのだが、学生だったわが青春時代を懐かしく思い出すのである。そのことについてホンの少し書いて見たい。

 自分の学んだ大学はいわゆる駅弁大学の一つである。戦後新制大学なるものが全国に誕生した中で、茨城県では旧制水戸高校、茨城師範学校、茨城青年師範学校、多賀工業専門学校の三つを包括してそれぞれ文理学部、教育学部、工学部の三学部からなる大学が発足した。後に農学部も設置され、4学部となった。最近では学部の編成なども大きく様変わりしているようだけど、自分が入学した昭和34年の頃はこの4学部であり、全学部とも1年時は本部のある水戸市で一般教養課程を学び、2年次以降工学部は日立市へ、農学部は阿見町のキャンパスに移って学び、文理学部と教育学部はそのまま本部で学ぶという仕組みだった。

 自分の場合は、文理学部の中にあった政経学科に在籍した。前身は旧制高校であり、その頃は旧制高校時代から教鞭をとっていた先生も残っておられたので、その講義を受講するのも目的の一つだった。大学と言っても前身は高校なのだから、何だか大学に入ったという気分にはなれなかったのを思い出す。地元の大学に入ったのは、当時の国立大学の授業料が安かったからである。年間9千円であり、これを2回に分けて収めれば良かった。これは月千円だった高校の授業料よりも安かったから、親に掛かる負担も少なくて済むと思ったのである。家計に余裕があるのなら浪人しても旧制帝大や東京の名門私学に行きたいと思ったけど、高校時代ロクに勉強もしておらず成績もそれに相応しいものだったので、浪人が何年となるのか見当もつかず、それ以上に家計の苦しさを十分承知していたので、地元でいいと見切りをつけたのだった。勉強は就職後でもできるのだと、妙な自信があった。

 さて、そのような状態で入学したのだが、大学に入ったら少し真面目に勉強しようと思っていたのに、間もなく高校バスケ部の先輩から声を掛けられて、バスケットボール部に入ることになってしまった。高校時代は、勉強よりも強健な身体をつくることに注力しようと決め、部活のバスケにエネルギーを傾注して過ごしていた。大した結果は残せなかったけど、県大会では上位のレベルだったから、先輩は当然大学に入ってもバスケを続けると思っておられたらしい。というのも、当時のこの大学のバスケ部のレベルは、自分の高校レベルと大して変わらぬほどのものだったのである。先輩に期待されたのも当然だったのかもしれない。大学のバスケ部のメンバーの大半は教育学部の人たちで、彼らは教職員となった時の子どもの指導項目の一環としてバスケを体験しておこうというような、バスケ未体験者が多く、戦力メンバーとなれる人はそれほど多くなかったのである。先輩につかまって口説かれてしまい、やむなく入部したのである。この年のバスケ部の文理学部在籍者は自分一人だけだった。

 それから卒業するまでの4年間、勉強の方はほどほどに済ませて、結局バスケにも励むこととなってしまった。1年時からレギュラーとして出場させて貰えたので、少し調子に乗っていたのかもしれない。ま、身体の方はそれなりに鍛えられて、子どもの頃の虚弱体質は大幅に改善されたのだから、結果として悔いはない。

 百日紅の花に絡む思い出というのは、この大学時代のクラブ活動の中の変な事件のことである。毎年夏休みになると、バスケ部は不断の練習よりも更にハードな合宿を行った。本部のある水戸市の学校の体育館で行うこともあったが、何回かは水戸のキャンパスではなく、他所の場所で行うことがあった。

何年次の時だったかは忘れたが、県南の方のお寺さんを合宿所にお借りして、どこだったか高校の体育館を使わせて貰って、10日間ほどの合宿をしたことがある。総勢30名ほどが参加していたように思う。練習は午前の部と午後の部と2回に分けて行われていて、昼食を挟む暑さの厳しい時間帯は昼寝など自由に過ごす休養時間、そして夕食後はフリータイムというような日課だったと思う。練習は体育館の中だから日射しの問題は無いのだが、とにかく走り回ることが基本なので、全身に汗が噴き出し、練習が終われば洗濯に取り組み、それが済むと身を横たえるというような毎日の過ごし方だった。

そのようなつらい練習の中でも一緒に暮らしを共にするということは、仲間の絆を培って行く上で大切であり、それなりに楽しい時間だったと思う。フリータイムは、何組かの集まりが自然にでき上がって、思い思いに談笑したり、麻雀などの好きな連中は卓を囲んだりして過ごしていた。自分は勝負ごとのゲームは一切やらないことにしていたので、麻雀や碁や将棋などとは無縁の存在だった。バスケ部の8割以上が教育学部の人たちなのだが、将来教員を目指しているにも拘わらず、麻雀などにうつつを抜かす者が多くいて、こんなんで日本国教育の将来は大丈夫なのかなどと、気どった疑問を抱いたりしたものである。

ところで、合宿という非日常的な場となると、存外困惑するのは食べることよりも食べて消化したものを出すという作業である。毎日が激しい運動の連続であり、食事なども家にいる時とは全く違った暮らしとなるので、用を足すタイミングを計るのが難しいのである。それにその頃は未だトイレの水洗化が遅れていて、現在のようなウォッシュレットなどという装置は皆無だった。合宿所であるそのお寺さんの場合は、汲み取り式の和式トイレで、用を足す度に「ポトン!」と音がするシロモノだった。我々はそのトイレをポットン便所と呼んでいた。

この頃の流行歌に島倉千代子の歌う「思い出さん こんにちは」というのがあり、その何番かの歌詞に「ポチャンと淋しい音がした」という一節があって、そのトイレに行く度に、何故かその歌詞とメロディが浮かび上がってくるのである。この歌の情景とは全く違った場所なのに、「ポチャンと淋しい音がした」という部分だけが、メロディと一緒に出てくるのを止めることができなかったのを覚えている。

このポットン便所に関しては、今一つ可笑しな話が残っている。仲間内でトイレが話題となった中で、一人が変なことを言い出したのだ。

「俺よ、ふっと思ったんだけど、お前らケツを拭く時後ろから拭くのか?」

「お前、何言ってんだ、そんなこと後ろからに決まってっぺ」

「いいや、俺は前からだど」

「前からじゃ、やり難くがっぺよ」

「うんにゃ、そんなことはねえ」

「だって、お前ナニが邪魔だっぺよ」

「俺はちっちゃい時からやってっから、何でもねえぞ」

「お前は変な奴だな、‥‥‥」

笑っていいのか、素直に考えてどちらが正しいのか、間違っているのか?近い将来に学校の先生になるという若者たちの会話は、無邪気なものだった。自分も半ば大笑いしながら、ちょっぴり複雑な気持にもなった。

先ほどの「ポチャンと淋しい音がした」という話とこの変な奴が言い出した仲間たちとのバカ話のやり取りは、今でもセットになって自分の頭のどこかに収められている。そして、もう一つこの記憶を甦(よみがえ)らす引き金となっているのが、百日紅の花なのだ。そのお寺の境内には大きな百日紅の樹があって、淡いピンクの花を目一杯咲かせていたのである。

あの時からもう50数年が経ち、風の便りでは、言い出した変な奴は、その後確りとした先生となり、小学校の校長先生を務めて終えたとか。今、どのような暮らしをしているのか、その後の付き合いの全くない自分には、この頃は風のうわさも伝わっては来ない。自分と同じ年齢だから、喜寿を迎えて元気に暮らしているのだと思う。今はもう、ポットン便所が無くなり、島倉千代子も亡くなってしまい、「ポチャンと淋しい音がした」の歌も忘れられようとしている。でも、これからも百日紅の花が無くなることはなさそうなので、これには救われる。

それにしても、あの変な奴だった彼は、その後もずっと「前方式」を堅守しているのだろうか。

百日紅にも白や紫など、最近では花の色の種類も増えたようだが、自分的には百日紅はやっぱりこの色が一番だと思っている。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「商人は為政者となるべからず」という教訓

2017-08-05 00:09:08 | 宵宵妄話

 政治に関する話題を取り上げるのはあまり好きではない。何故かというと、称賛できるような事例は殆ど無く、仮にそのような出来事があったとしても、多くは具体性に欠けたそら言が多いからである。その結果、虚しい批判話で終わってしまう。所詮一時の自尊の慰め話で終わってしまうからなのだ。

 しかし、今の世の中を見ているとどうしても言いたいことがあるのを抑えることができない。日本国の話ではない。日本国も閉会中の国会で特別審議などという時間を設けて、何の進展もない、さして価値あるとも思えない事柄を取り上げて大騒ぎをしているけど、そのようなことには興味をおぼえない。その程度のやり取りがあったとしても、国政を私していると大騒ぎするような問題ではないように思う。この世に完璧な正義など在る筈もなく、清貧の美徳などというものは幻想にすぎないのは、衆知のことであろう。ただ、清濁併せ飲むと言っても、度を越してはならないという程度の話なのだ。思い上がりをホンの少し諌めればよいだけなのである。

 問題なのは、大国の、しかもわが国とは格別の関係を持つアメリカという国の国政のあり方である。アメリカの国政は、今、異常事態に陥っているように思える。大統領という国政の頂点に位置する為政者が、とても世界のリーダーの一人とも思えぬ振る舞いをとり続けているからだ。詳しいことは判らないけど、ニュースやネット情報などでは、未だに国政運営の各執行責任者すらも決まっていないという。それどころか幹部の人事に関しても揺れ動いている部分があるというのだから、このような状態で本当に国政の舵取りができるのだろうかと、懸念を抱かずにはいられない。

 かといって、世界の片隅で、老人が小声で批判めいたことを呟いても、何の影響も及ぼさないことは十二分に承知している。自分のような他国の老人が心配しなくても、アメリカ国内には為政者の言行を心配する人は幾らでもいるに違いない。しかし、未だ事態を変える具体的な動きは伝わっては来ない。4年先の選挙まで我慢していても良いのか?と思うほどなのである。

 トランプというお人は、トランプゲームのババ抜きでいえば、まさにそのババのようなお人に見える。最後にジョーカーを持つ者は敗者となるのだが、アメリカ国民の誰もが、もしかしたらジョーカーを保持してしまっているのではないかと思うほどである。もうゲームは止めて、正気に戻って欲しいと切望したい。

 さて、ここからが本論となる。タイトルに掲げたことばは、どなたがおっしゃったのかは覚えていないのだが、その内容ははっきり記憶しており、まさに至言だなと感じ入った。トランプ氏の言動を見ていると、彼は政治家などではなく、明らかに癖のあるビジネスマンに過ぎないように思う。不動産業というビジネスは、やはり商人の世界ではないか。この言に照らすと、トランプ氏はそのことを知らなかった国民に誤って選ばれてしまった犠牲者なのかもしれない。この問題は、トランプ氏に非があるというのではなく、選んだ国民の側に非があるのかもしれない。

では、なぜ商人は為政者となってはならないのか。ここが重要だ。その最大の理由は、商人は本質的に利益追求にこだわるという存在だからなのだと思う。勿論国家経営は利益追求の側面がなければならないのは自明のことだ。しかし、もしそれにこだわって大局感を失うと国民全体に不幸をもたらすことになりかねない。目先の利益に拘わり過ぎて、未来や将来への影響を忘れかねないからである。「アメリカファースト」というトランプ氏の掲げるスローガンは決して間違ってはいない。どの国だって自国第一というのは当たり前のことなのだ。ただ、現在の世界の複雑な国際関係の中で、あまりにも自国利益優先に拘ると、異常な存在となるのは必至であろう。特にアメリカという国は、現在に至るまで、プラス・マイナス両面において全世界に絶大な影響を及ぼし続けて来た国なのである。それがここに来て敢えて自国優先を主張し出すというのは、あまりにも身勝手すぎるというものではないか。アメリカの利益にならないことには一切目を向けないという主張を貫いて行ったなら、アメリカは前代未聞の孤立大国として歴史に名を止めることになるに違いない。そして、終末を迎えた地球の破壊者として宇宙に名を残すことになるかもしれない。

今までのトランプ氏のアメリカファーストの施策の中で、最も危険を覚えたのは、パリ協定からの脱退である。これは地球温暖化などくそ喰らえという、凡そ大国の良識では考えられない愚行なのではないか。それほどまでして自国の利益を優先させても、地球全体の環境破壊を促進させるのは間違いなく、その結果は地球そのものの破滅につながって行くのである。真に身勝手な愚行と言わざるを得ない。ここに商人根性の限界を感じるのである。

商人の言動の本質は利益の追求にあり、それは「損得の物差し」によって判断される。つまり、可能な限り損を避け、得することを選択するのだ。トランプ氏のパリ協定脱退の意思決定は、まさに商人の、しかも大局感を欠いた商人の行為そのものではないか。為政者が商人であってはならないというのは、このような損得の物差しでの意思決定が、結果的に世界万民の幸福に重大な影響を及ぼす懸念を戒めたことばなのだと思う。

それならば為政者はどのような物差しで国政に係わる意思決定を行うべきなのか。その答えは、「善悪の物差し」によらなければならないということだと思う。国全体の、或いは世界全体の幸福に関して、これは善いことなのか、それとも悪いことなのかを、損得のしがらみを超えて決断することなのではないか。そう思うのだ。

そのように考えると、たとえ商人であっても、しっかりした「善悪」の物差しを、「損得」の物差しを捨ててさえも使い分けることができる人ならば、何の問題もない筈だ。大統領がトランプ氏であっても何の問題もないのである。しかし、彼は今のところ「善悪の物差し」など全く意に介していないようだ。もしかしたら、彼は政治というものを学んでおらず、凝り固まったビジネス精神だけでアメリカを経営して行けば、世界中のみんなも幸せになる筈だなどと考えているのかもしれない。

「○○ファースト」というスローガンは、○○のための損得に拘り、○○以外のものを軽視する身勝手な行動に落ち込んだ時が限界であり、その結果は本来の○○自体を不幸に導くことになるのである。それは過去の人類の歴史の中で何度も証明されていることなのだ。本物の商人は、決して唯我独尊の哲学が己を栄えさせ、世の中を幸せに導くなどとは考えなかった。「自分よし、相手よし、世間よし」の「三方よし」は近江商人の商売哲学の一つだが、政治というのはこれをさらに乗り越えた世界全体万民の幸福につながるものを追求する信念に支えられていなければならないのだと思う。

ますます狭さを増している地球上において、一国の為政に係わるリーダーには、この哲学を有することが不可欠なのではないか。今、しみじみとそう思っている。日本の片隅で、無力な塵芥に過ぎないジジイが、蟷螂の斧よりもか細い舌刀をかざしたつもりになっても、誰かが気づいてくれるほど世界は暇ではないということは十二分に承知しているけど、地球に住む住民の一人として呟かずにはいられないのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カブトムシはどこにいる?

2017-08-01 00:25:00 | 宵宵妄話

※ ブログを再開します。今まさに盛夏なのですが、梅雨明け宣言が聞こえたと思ったら、そのあとはずっと曇り空の暑さが続いており、何だかすっきりしない今年の夏です。夏休みの短期化が一部検討されているようですが、この老人も早速取り入れて、残りの人生時間を有効活用することにしました。

カブトムシの季節となった。長いことこのような昆虫たちのことは忘れていたのだが、孫が生まれ、幼稚園に通うようになると、見つければ直ぐに捉まえて見せてやりたい、飼わせてやりたいと思うようになった。3月下旬生まれの孫は、満3歳になったばかりなのに、早くも幼稚園通いをさせられている。そんなに急いで行かせなくても良いのではないかというのがジイジの本音なのだが、世の中の幼稚園や学校への考え方は、子どもの個々の智慧の発達は皆同じという前提で制度化されており、本人の意思などお構いなしのようである。未だことばの獲得も十分でないのに、幼稚園の仲間たちとうまくやってゆけるのかと心配していたのだが、毎朝8時半になると、階下から「ジイジ、バアバ行ってきま~す!」と元気な大声を張り上げて出掛けているので、まあ、何とかなるものだと、正直、感心しながら見送っている。

毎朝4時前には起き出し、外が明るくなりだすと鍛錬のための歩きに出かけている。この季節は、通り道の脇で思わぬ昆虫たちに出会うことが多い。その代表はカブトムシであり、時には2匹も拾うことがある。神秘的な宝石色に輝く玉虫に出会うこともある。林の傍に外灯などがあると、夜間の灯りに誘われて虫たちが飛んでくる中に、彼らも混ざっていたのであろう。この昆虫たちは飛ぶのが下手なのか、一度地上に落ちると、その後は身体を元に戻すのを持て余しているようで、ひっくり返ってもがいていたり、死んだふりをしたりしている。

今までだとそれらをそのまま見過ごして通っていたのだが、今年は孫が幼稚園に通い出したので、そのようなドジな虫を見つけたら持ち帰ろうと、予め袋を用意して歩くことにした。その虫を持ち帰って最初に孫に見せた時は、怖がって逃げるのではないかと思っていたのだが、案に相違して「あっ、カブトムシだ!」と反応してくれたので、嬉しくなってしまった。どこでどのようにしてそのような知識を得ているのか全く知らないのだが、カブトムシは昆虫の中では、子どもたちに人気が高いのであろう。親が買ってくれた小さな虫籠に無事収まったのだった。

ところが、嬉しくなったジイジは、そのあと立て続けて3匹ほど捉まえて来たので、小さい籠では育てるのは無理と思ったのか、親は更に大きめな籠を買って取り換えていた。それを見て、ジイジの採集意欲は益々高まったのだが、ふと、これはまずいなと気がついた。籠が満杯になるほどカブトムシを捉まえて来ても、本当に孫が喜ぶのか?ということである。10匹くらい捉まえて来るのは雑作もないのである。それくらいドジなカブトムシがこの辺りには多くいるのだ。本当はカブトムシなどではなく、クワガタなどを捉まえたいのだが、彼らは数も少ないし、カブトムシのようなドジを踏む奴は全くいないようなのだ。

考えてみれば、どうしてこうドジなカブトムシばかりが多いのか?これはまあ、昆虫生態環境の研究領域に係わるテーマなのかもしれない。今の世は、自分たちがカブトムシやクワガタの採集にワクワクしていた子どもの頃とは、周りの環境がすっかり変わってしまっている。60数年前の昭和20年代の頃は、農村の山林の多くはいわゆる里山だったと思う。そこにはナラやクヌギなどの樹木が多く育てられており、炭焼きや一般家庭の燃料として利用されているケースが多かった。里山はそれらの生育と伐採の回転がバランスよく行われていて、10~15年ほどの若木が結構多かったのである。それらの樹木は樹液も新鮮で多かったこともあって、傷ついて瘤となっている箇所には、カブトムシだけではなくクワガタなども多く集まっていたのである。子どもたちは、これらの昆虫を捉まえる秘密の場所を持っていて、捉まえて来たクワガタやカブトムシを戦わせながら自慢をし合ったものなのである。

自分にも秘密の場所があって、毎日密かにその場所へ胸をワクワクさせながら通ったものである。小クワガタや平田クワガタのような小さな虫しかいな時もあったけど、時にはオオクワガタやミヤマクワガタなどがやって来ている時があって、それらを捉まえるのに何とも言えない興奮を味わったものだった。カブトムシもクワガタも樹木に集まって来ているのを捉まえるのが当たり前だったのである。

その頃の感覚はまだ衰えていないところがあり、里山らしき場所へ行くと、どの辺りのどの樹に行けば目当ての虫に会えるのかについては、老人となった今でもかなりの自信がある。香川県の高松に住んでいた、息子たちが未だ3~5才だった頃、山陰の方に夏休みの小旅行に出かけたことがあった。その途中に、岡山県中部の山間部を通行中、虫のいそうな格好の場所があるのに気づいて車を止め、勘を頼りに畑脇のクヌギ林に入り、カブトムシやクワガタを捕ろうとしたことがあった。この時は勘が見事に的中して、何と20匹近いオオクワガタやミヤマクワガタを捉まえることができたのである。これには我ながら驚き、悦に行ったのを思い出す。あの頃は全国各地に自分の勘が働く場所が幾らでも点在していたのである。

しかし、今はどうなのか。守谷市に越してから10年以上が経ち、街中の殆どを歩き尽している感があるのだけど、クワガタの居るような樹木は未だ見つけることが出来ていない。クヌギもナラの樹も多く在るのだけど、それらの殆どは大木となっており、現役の樹液の出ている瘤などは下方には一切見当たらない。もし虫たちが居るとすれば15m以上の高い場所に樹液の出ている箇所があればということになり、全く手入れのされていない樹木たちのてっぺん近くの様子など、下から見ることは全く不可能な状態である。恐らく今の子供たちにはカブトムシやクワガタが自然の環境状態の中で樹液を吸うために集まっている姿を見ることなど不可能なのだ。もはや里山などは消え去っており、子どもたちの、カブトムシやクワガタなどの虫たちを探し捉まえるという面白さは味わい得ない状況なのだ。

従ってカブトムシもクワガタもデパートやスーパーに居るということになってしまうのであろう。自分が捉まえて来ているカブトムシも、決して樹木で樹液を吸っているのを捉えているのではなく、外灯の光に誘われてドジを踏んで路上に落ち、ひっくり返るなどしてもたもたしている奴を拾っているだけなのである。早起の老人だけが一人恵みを受けて、孫のために喜んでいるに過ぎない話なのかもしれない。

このようなことを考えてしまうと、毎朝のカブトムシ拾いが何だか滑稽なことのように思えて来た。最初は興奮していた孫も、自ら捉まえたという経験が無いのだから、興奮が冷めるに従ってカブトムシへの思いも直ぐに薄くなってしまうに違いない。孫がもう少し大きくなって、小学生くらいになるそれまでの間に、未だ人が押し寄せて来ない里山のある場所を見つけておいて、本物のカブトムシやクワガタを捉まえる体験をさせてやりたいと、しみじみ思ったのだった。しかしまあ、そのような場所が果たして見つかるのか。これは東北エリアか北海道辺りでないとダメだなと思っている。

今朝もドジなカブトムシに出会った。でももう拾わないことにしている。拾わなかったドジなカブトムシは、もう5匹以上を数えている。それにしても、ドジでないカブトムシやクワガタはどこにいるのだろうか?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする