山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

モーターホーム(≒キャンピングカー)の有用性

2011-04-30 07:01:53 | その他

    今回の大震災では、大勢の方が避難所暮らしを余儀なくされ、大変な寒さの中でプライバシーも何もあったものではない窮屈で不安な日々を何日も続けられ、ようやく春が本格化したとはいえ、1カ月半を過ぎた今でも、先行きの見えない暮らしを送られている方が少なくありません。

このような突然の、まさに天から降って湧いた災厄を目の当たりの出来事のようにTVで観たのは初めてのことでした。2001年9月11日のアメリカニューヨークでの同時テロの航空機のビル突入事件も強烈でしたが、あれは人災であり、今回の大津波はそのスケールが全く違います。まさに未曽有の出来事です。

この大事件の今までの流れを見ていて、その後人災である福島第一原発の事故をも含めて、ある日突然避難をしなければならなくなったときに、どうすればいいのかということに、改めて思いをめぐらさないわけにはゆきません。今もし我が身に、我が家族に、突然大災難が降りかかり(最も可能性が高いのは原発事故だと思いますが)どこかへの避難を強制されるような事態が起きたとしたら、自分たちは一体どうするのだろうかと考えてみました。県や市の指示に従い、用意されたバスなどに乗って所定の避難所に向かうことにするのか、それとも自分で別の道を工夫して身を守ることにするのか? 

勿論自分たちは後者を選びます。但し、道路が随所で分断され、車が全く使えないような場合は不可能となり、その場合は県や市もバスを走らせることは不可能ですから、その時はもうお手上げであり、運を天に任せるしかありません。

別の道を選ぶというのは、幸いなことに私どもには旅車があるということで、これを利用して安全圏まで脱出し、その地でしばらく様子を見ながら過ごすことにしたいと思うのです。今回の大震災で避難された中にも同じような手段をとられた方が何人かおられるのかも知れません。旅車はその車を運転できる条件(道路の通行が確保されていること、燃料が充足されていることなど)が満たされていれば、自分で目的地を決めてそこに向かうことができます。旅車には、旅くらしをするための居住条件が揃っており、現地に行って水と電気とトイレさえ確保できれば、長期間の滞在も可能です。

今回の避難所での暮らしのあり様は、もう何といってよいのか、高齢のお年寄りが厳しい寒さの中で、あまりにも激変した生活環境に耐えられずに命を落とすといった話を聞いたりすると、いざという時の避難のあり方というのは、命がけで考えておかなければならないものなのだと、改めて思い知らされたのでした。バスなどの車で避難しても、避難所での暮らしは体育館や校舎内の教室など、暖房も断熱もままならぬ、大自然の為すがままの厳しい環境の中で過ごさなければならないわけですから、2~3日の短期間なら何とか(しの)ぐことができても、それ以上となるとこれはもう想像する以上の過酷さなのだと思います。又そのような環境を避けて、車の中に留まって過ごしていても、燃料が無くなれば同じ状況になってしまうし、更にはエコノミー症候群というような体調の不具合も発生するということになってしまいます。

もしこれが車ではなく旅車(=モーターホームキャンピングカー)だったらどうなのでしょうか。旅車で同じ町内の皆さんと一緒に暮らすために避難所に行ったと仮定した場合の話です。恐らく相当期間は暮らしの居住空間としては今までの普段とそれほど変わらずに活用するのが可能のように思います。仮に燃料が底をついても、身を横たえるベッドと布団は確保されますので、寒ければその中にもぐって暖をとることができます。しかし、水や電気・ガスそれにトイレなどのライフライン機能に関しては、それらのストック分を使い果たしてしまったならば、基本的には体育館などの避難所と同じとなるでしょうが、眠りだけは確保でき、これが何よりも健康のベースとなるように思います。

しかし、旅車の場合は、実際はそのようなことは起こらないのです。なぜなら、そのような団体で避難する場所へ行かなくて済むからです。もっと条件の良いエリアへ行くことが可能なのです。守谷市であれば、関西・中国・四国・九州方面や北海道へ一挙に行くことができるのです。そして、そこでいつもの旅くらしと同じ暮らしを確保することができるのです。

旅くらしと言うと、大変贅沢な暮らしぶりを想像されてしまいますが、移動のための燃料・交通費を除けば、食事代などは在宅よりも少ないくらいで、真に質素なものです。移動するのを少なくすれば、コストはさらに減るのです。このような考え方で、北海道で動き回らず気に入った場所に腰を据えて避暑暮らしをしているくるま旅の人を何人か知っていますが、非常時の避難もそれと同じようなものと考えて良いように思います。そして避難先で、被災状況の変移を良く見ながら、これから先の対応をじっくり考えればいいと思うのです。

このような考え方は、なかなか一律に行くものではなく、職業、家族構成、兄弟・親戚関係、知人・友人関係等々によって旅車の活用などとても考えられないということかもしれません。でも、一時的には相当に有効のように思います。旅車の強みは居住性の良さにあり、それはどんなに高級な乗用車にもない特性だと思います。世の中の多くに人たちは、様々な思いや目的をもちながら車を購入し使っているのだと思いますが、私は今回の大災害の被災状況を見て、避難という現実の厳しさを知り、車で必要なのは、いざという時は旅車の機能なのではないかと思ったのでした。

キャンピングカーは、週末や夏休みなどのレジャー用の車でちょっぴりリッチな連中の使うもの、というようなイメージが出来上がってしまっているようですが、これは違うのではないかというのが私の考え方です。確かにこのイメージ通りの車もあると思いますが、より多目的に使えるのがこの車なのだと思うのです。そういう意味でキャンピングカーという呼称に問題ありと思っています。やはりこれは本来の英語の「モーターホーム」と呼ぶべきでしょう。つまり自走機能を持った家であり、動く家ということなのです。キャンプなどの限定された使い方だけではなく、家の機能を持った使い方の可能な車なのです。ですから旅にも使えますし、在宅の場合では書斎や個室にもなりうるのです。

このような車の持つ機能を活用する視点を持つ人が、日本には少ないようです。(諸外国に多いのかどうか判りませんが、日本人は高級車志向の人が結構多いようですから)私は、車庫に高級車を飾って、時々中に入り込んで自己満足に浸ることなどよりも、1台のモーターホームを確保し、普段はそれを書斎や個室として活用し、時には小さな旅に出かけ、時間があり余る世代となったら、ゆっくりとくるま旅を味わうという、そのような活用の仕方が人生をより豊かなものにするに違いないと考えています。そして、避難を要するような災害時には、我が身と家族を守るツールとして活用できる、その1台としてもモーターホームの重要性を感じています。

今回の大震災の被災地における救援・支援ボランティアでは、恐らくモーターホームは相当の活躍をしていると思います。被災地での救援・支援ボランティア活動は自己完結的な対応が基本となり、救援・支援者は自らが寝食の場を用意しなければならないのだと思いますが、モーターホームはその条件を自ずと兼ね備えています。その意味では私は条件が整っており、ボランティア活動に参加すべきなのですが、事情があって参加を控えています。残念ですが、やむを得ないと思っています。

私はくるま旅くらしを志向・提唱する者として、キャンピングカーではなく、モーターホームという呼称にこだわって来ていますが、今回の大震災という出来事を通して、改めてモーターホームというもののポジション(位置づけ)の重要性が上がったように思っています。

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サイババの死に思う

2011-04-29 04:15:31 | その他

  私がいきなりサイババなどと言っても、何の事かと思われる方が殆どだと思います。しかし人はみかけによらぬもので、私も時として不思議な世界を垣間見たくなって、思いを巡らすこともあったのです。もうかなり昔ということになりますが、この世に生まれた人間の中で、人間の限界を超えた力を持つ人のことをあれこれ思ったことがありました。人間の歴史上に名をとどめる人の殆どは、ある意味で普通ではなく、人間の持つ力の限界をはるかに超える力を発揮した人だと思うのです。その中でも、心の働きをもってこの世とあの世(=神霊の世界)をつないで、未来を予測し、人々を悩みや苦しみから解放させる力を発揮する人のことを霊能者と呼んでいるのではないかと思っています。歴史上の人物でいえば、釈迦、イエスキリスト、マホメットなどという方々がそうではないかと思っています。宗教というのは、その始まり即ち教祖と言われる人たちに遡ると、皆同じようなことが言えるように思います。現代でも世界各地に様々な霊能者がいると思いますが、その中で最も著名なお一人にインドの霊能者サティ・サイババという方がおられたのでした。

霊能者についてのコンセプトというのは、人によって多少の違いがあると思いますが、私の場合は本物の霊能者というのは、人々の悩みに対して直感で真実を言い当て、その解決を教示する力を持つ人と思っています。人には誰にでもこのような力の一部が備わっているように思いますが、この力の飛びぬけて大きい保有者を霊能者とか超能力者とか呼ぶのではないかと思っています。

霊能者の持つ力というのには、我々が考えている普通の理屈(=科学)では説明できないものが多く含まれており、それゆえに神秘的で懐疑的なものと言えるかもしれません。特に解決の仕方が、ある種の物品などを介したり、形式的所作のようなものを用いた場合、現代文明に馴れた者には疑いが膨らむのは避けられないように思います。しかし、実際にそれらの所作などによって多くの人々が苦悩から解放されている姿を目の当たりにすると、その不思議な力をあながち否定できないようにも思えるのです。

世の中にはこのような霊能者や超能力者と呼ばれる人が引き起こした、真偽の判別の難しい出来事が無数にあるようですが、本物かインチキかの判別の決定的な決め手は、代償を求めるか否かにあるように思います。霊能者を名乗る者の力が問題を解決してくれない場合は、最初からインチキなのは歴然としていますが、効果や成果が曖昧な状態で代償(=お金・物品など何らかの貨幣価値のあるものを求める)を求めるのも本物ではないと断定して良いと思います。

今の世には、似非の霊能者が溢れているのかもしれません。詐欺師が横行している世の中です。他人を騙して己だけを利することを職業としているような輩がはびこっているのは周知の通りですが、人の持つ弱みに付け込んで、巧みな嘘を以って人の心を操るようなのは、霊能者などではなく只の極悪人です。本物の霊能者は人を救うのに代償を求めるなどということを決してしないと思います。それは恐らくどんな時代でも、どこの国においても不変のことだったと思うのです。現存する世界宗教の教祖と言われる人たちは、人を救うのに代償を求めるなどということは夢にも思わなかった筈です。心底その苦悩を抱える人のためにアドバイス(=予言?)を行い、身を以って相手を救おうと努められたのだと思うのです。それが通じて、相手が苦悩から解放され、その結果代償ではなく、何がしかのお礼の気持ちが物や貨幣に替えられて届けられたということは考えられることです。教祖がそれを受け取ったのかどうかは判りませんが、断じて要求などはしなかったと思います。己の霊能力をビジネスとして使って行こうなどというのは、教祖本人の考えではなく、それを取り巻く別の種類の知恵者によるものであり、本来の霊能者の力とは別の世界の話だと思っています。

最初から脱線していますが、サイババという方の話を聞いたのは、20年ほど前だったように思います。ある人の講演会を聴きに行った時に、インドにサイババという超人がいるということを知ったのでした。とてつもないスケールの大きい霊能者で、その活動はインドだけではなく全世界に及んでいるということでした。早速関係ある本などを何冊か集めました。それらの多くはサイババと会った時の体験を記しており、その感動とその後の振り返りのような内容が殆どでしたが、とにかく初めて会ったのにサイババという人は、世界中のどこから行っても、まるですべてお見通しのアドバイスをされるらしく、驚きでした。その中に青山圭秀という方の書かれた「理性の揺らぎ」というのがあり、これは青山氏が初めてインドでサイババに会った時の印象というか経験をベースに、現代科学ともう一つの真理・真実についての不思議について書かれていました。青山氏は理学博士であり医学博士でもある紛れもない科学者ですから、そのご本人が本気で書かれた内容には迫力があり、決して霊能者に追従するというようなものではないなと感じました。

これに刺激されてインド文明の奥の深さに少しでも触れて見たいと考え、アーユルヴェーダのことを知りたく思って本を買ったのですが、難しすぎてさっぱり前進せず、そのままになっています。インドの哲学というか宗教というのか、その思考の深さは古代文明の中では独特の位置を占めているのではないかと思います。私は上っ面のことしか知りませんので、とても知ったかぶりなど出来ないのですが、その文明に対する畏敬の気持ちは大きいのです。まさに人智も及ばぬ世界をインドの文明は探って来ている感じがするのです。西洋の植民地化された時代以降は、それらの文明は恰も時代遅れの様に取り扱われているようですが、現代科学とは違う別の真理を今でも追及しているのかもしれません。サイババという方は、その代表者であり、真理の体現者であったのかもしれません。

サイババ氏には一時良からぬ噂もあったようですが、世界中に1千万人以上もの信者というか信奉者がおり、しかもその中には各国のそれなりの有識者や著名人が多いというのですから、決してこの人がインチキだったとは言えないと思います。不思議というのは、自らが体験して初めて実感するものであり、他人の話や書いたものを通しての知識・情報では、その真偽を確かめることはできないと思います。しかし、サイババという方は、自分をを信奉する人たちから集まった莫大な資産を私するのではなく、社会に還元する働きをし続けてきたということですから、私はこの人は本物だと思っています。

そのサイババ氏が亡くなられたことを先日のネットニュースで知り驚いています。享年84歳とか。ご本人の予告では90代で死亡し、その数年後に生まれ変わるとのことでしたが、少しばかりあの世に行くタイミングが早まってしまったということなのでしょうか。100%正確な予言などというものは、ハイレベルの霊能者を以てしてもあり得ないということなのでしょうか。大自然の宇宙規模の時間発想からは、10年やそこらの誤差など大したことではないのだと、サイババ氏は自らそれを証明して見せたのかもしれません。彼がこの世にいる間に、多くの人々を救ったということは紛れもない事実だったことを信ずると共に、再びより早く生まれ変わり頂いて、引き続き混乱・混迷の続くこの世を救って欲しいと思います。

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鮮緑から力を

2011-04-27 06:08:20 | その他

我家の庭の山モミジの新緑。間近にその新緑を目に入れることができるのが嬉しい。

 

人間時には息抜きが大切と思っていますが、この頃は眠り呆けるという怠惰な息抜きばかりの毎日です。しかし、「春眠暁を覚えず」ばかりではなく、草木の若葉の鮮やかな緑を見るときは、なぜかこの老体にも力が甦ります。

この季節はもののあわれなどとは無関係に、万物の生きる力の様々な表現に充ち溢れますが、中でもとりわけて私の心を震わせるのは、樹木たちの若葉です。どんな木の若葉も皆大好きですが、身近な所では、山モミジとケヤキの鮮緑です。まさに鮮やかな緑です。小学校の唱歌だったかに「鮮やかな緑よ、明るい緑よ、‥‥」という歌があって、確か「若葉」という名の歌だったと思います。記憶が断片的なので、調べて見ましたら、判りました。こんな時、ネットは便利でありがたいですね。

 

作詞:松永宮生  作曲:平岡均之

 

  「若葉」

 

1.鮮やかな緑よ 明るい緑よ

    鳥居を包み 藁家(わらや)

      香る 香 若葉が香る

 

2.さわやかな緑よ 豊かな緑よ

  田畑を(うづ) 

      そよぐ そよぐ 若葉がそよぐ

 

 今頃になるといつもこの歌を思い出すのは、まさにこの詞と曲は、私の心の原風景として、しっかりと心に刻まれているからなのだと思います。新緑の鮮やかさは、この歌を思い出させ、懐かしい子供の頃の風景を思い出させてくれるのです。

 今回の大震災で被害を受けられた東北各県の各地は、私の心の原風景につながる所ばかりでした。東北の春はまだ芽吹きが始まったばかりだと思います、やがて間もなく五月の空を鮮緑に染め上げてくれると思います。どうぞ、明日に向かって生きる力を大きく甦らせてください。若葉の緑と共に、一日も早い復興への立ち上がりを祈念しています。

 

 

 ケヤキの溢れるように広がる鮮やかな緑。陽光に包まれてその緑は膨らみ、この樹の生命を力一杯に輝かせているようだ。

 

 

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90歳を超えるという話

2011-04-26 05:54:42 | 宵宵妄話

 

 これは私の長寿予想とかいう、おめでたい話ではありません。その反対の、私の身体の一部が早くも90歳のレベルを超えるほどの老化に至っているというちょっぴり怖い話です。

私はもう20年来の糖尿病患者で、長いこと結構真面目にこの病に対処して来ていました。守谷市に越して来てからも、専門医の診察を定期的に受け、軽いレベルの薬を一種類だけ処方してもらって飲んでいました。検査等のデータも特に問題はなく、それなりに病に対する管理には自信を持っていました。ところが通院していた守谷市内の病院は、いつも待ち時間があまりにも長く、その割には診察時間が2~3分なのです。その内容も自分の知識の範囲内のことばかりで、何だかバカバカしくなり、こんな程度なら自分で管理すれば大丈夫ではないかと思うようになりました。そしてしばらく思案した後、思い切ってもう病院へ通うのはやめにしようと決めたのです。

それから5年ほど経つのですが、昨年の秋ごろから何だか足の先っぽの方にしびれを感ずるようになり、それがだんだんひどくなり出すような感じでした。これはもしかしたら合併症の一つの末梢毛細血管の詰まりによる血行不良の初期症状ではないかと思ったのです。専門医の診断を受けての何らかの処置が必要なのではないかと思ったのでした。

今度は、市内の別の病院で診てもらうことにしました。医師の診立てはやはり糖尿病から来ているのではないかということで、血液検査等をして貰いまいたら、糖尿病を管理する場合のメインの数値である血液中のヘモグロビンA1Cが7.2ほどになっており、やはりそうなのだと自分でも納得したのです。これを下げて6.0を切るレベルに持って行く必要があると思いました。そのためには食事の制限と運動療法等の活用が必要ですが、もう古希を超えた歳なので、今度は薬の力も借りなければなるまいと、医者の処方に従った次第です。そして今日に至っているのですが、A1Cのデータは6.2くらいまで下がってきていますが、どうもしびれの方もすっきりはせず、薬も3種類ほど飲んでおり、その副作用の影響も出ているのかもしれません。何しろ体力任せの生き方を続けてきており、鈍感なものですから、よほどにならないと身の危険を感じないタイプなのです。

2か月に1回ほどの定期的な検査をしていますが、A1Cの数値は順調に下がって来てはいるものの、中性脂肪やコレステロールの数値は基準値をはるかに超えて下がらず、この為に先生は動脈硬化のことを心配して、この状況を調べるための検査を指示されたようです。昨日(4/24)にそれを行い、結果がもたらされたということなのです。検査の内容は二つあって、首の辺りの頸動脈のエコー検査とそれからもう一つは両足手首の同時血圧測定というものでした。

直ぐに結果が出て、その後担当医から診断の説明を受けたのですが、それがまあ、私の動脈血管の硬化具合は、何と90歳を超えたレベルにあるというのです。私の年齢での標準に比べて、私の血管の固さは20年も先取りをしてしまっているというのですから、幾ら鈍感な私でもこりゃあ、ちょっこし気いつけんといかんな、という気になります。一方でエコー検査の内容は、さほど心配はいらないというのですから、どうもこの矛盾する結果に安堵するわけにはゆかず、やはりこれは健康とは言えない状況のようです。

この診察を終えての所感は、三つほどあります。まずその原因ですが、これはもう病に対する頭でっかちの思い上がりです。というのは、糖尿病のことを何でも知ったつもりで、必要なことをやっているつもりで、実は相当にうぬぼれたいい加減な食生活を続けてきた報いなのです。運動だけはちゃんとやって来ていると思いますが、食生活に関しては、酒を止めず、その内容も気をつけているという意識があるだけで、その実はデタラメさがひど過ぎたのでした。人間としての甘さに酔っていたのかもしれません。なまじ知識があるなどと自惚れると、人はそれにもたれかかってしまい、その知識が求めるはずの行動をおろそかにするという愚を繰り返すようです。原因はこれに尽きると思っています。

二つ目はこの結果をどう見るかですが、楽観的に見れば、順調にPPK(ピン・ピン・コロリ)の道を歩んでいるな、とも思えます。又悲観的に思うと、もし脳梗塞で倒れて生き残ってしまったら、こりゃあ厄介だな、とこの二つです。PPKが上手く行けばいいのですが、そうでない場合は自分で身を始末することも叶わず、家族や周辺に多大の迷惑をかけることになってしまいます。そんなに長生きをしたいなどとは思ってもいませんが、生きている間は我が身は自分で始末できる状態でありたいというのが、これからを生きるための私の最大の願望であり、課題です。それが出来なくなることだけは避けなければなりません。

三つ目はこれからどうするかですが、それはもう、この先取りしているという20年分の硬化した血管をどう引きもどすか、或いは止め置くかということでしょう。この症状の根源には糖尿病が係わっていることは明らかですから、まずは糖尿君との付き合いを微細に亘って正常に復活させなければなりません。そのためには酒との付き合いを断つこともやむをえないなと考えています。否、断つのは難しいですから、付き合い方を変えることを熟考したいと思います。その他具体的な細かいことは省略することにします。

 

と、まあ、愚にもつかない私ごとを書いていますが、実はこうなることは想定内であり、対処の秘策もあるのです。旅で知り合った知人の中に、90歳超の方がおられ、この方は惜しくも昨年無くなられたのですが、まさにPPKを実現されたのでした。私はその方から秘策を授かっているのです。これをヒントに新しい食生活にチャレンジしたいと思っています。その基本は医食同源の実践です。何をどう食べるかが秘策のメイン課題です。その方と全く同じことをするつもりはありません。というのも人間の体は一人ひとり違っているというのが私の考えであり、私の秘策は私が創ってゆかなければならないものだと思っているからです。この大先輩から秘策づくりのヒントをたくさん頂戴していますから、大丈夫出来ると思っています。

現在90歳を超えてしまっているという、20年以上も先取りしてしまったこの我が身の不具合症状を、必ずクリアーしてPPKにつなげてやるぞと、その決意を新たにしたところです。これが実現してもしなくても、医者の処方に依存するばかりのつまらない生き方よりはマシだと思っています。新しいものにチャレンジするつもりで、わくわくしながら我が医食同源の道を拓いてみたいと思っています。

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地蔵ケヤキに逢いに行く 

2011-04-25 00:25:50 | その他

                                                        

  取手市高源寺の境内にある地蔵ケヤキとその根元の洞に安置された子育て地蔵。

 

 

 昨日は雨が降ったり風が吹いたりの荒れ模様の天気でしたが、今日の朝は雲一つない真っ青な青空が広がった(少し早い)五月晴れとなりました。庭の植木たちも萌える新緑の若葉を青空にまぶしく輝かせていました。春という短い季節が、今、全ての生きものたちに生きていることの喜びを教えてくれている感じがしました。

 今日は思い立って、取手市の高源寺境内にある地蔵ケヤキに逢いに行きました。先日から街路樹のケヤキの若葉の柔らかな緑が急に目立つようになりました。ケヤキは私の好きな樹木の一つですが、特にその若葉の緑というのは、ナラやクヌギなどの萌葱(もえぎ)色とは違った透明感のようなものがあり、何だか一番若葉らしい感じがするのです。(本当は皆どれも若葉に違いはなく、みんな好きな色なのですが)。街路樹のケヤキの鮮やかな緑を見ていると、すぐに思い浮かぶのがこの地蔵ケヤキなのです。

 地蔵ケヤキは、私が知っているケヤキの大木の中では随一のものです。推定樹齢1600年、樹高15m、幹回り10mの大木です。守谷市という直ぐ近くに住むことになって5年も経っていたのに、昨年までこの樹の存在を知りませんでした。偶々日本の大樹を調べていた中に、この樹があることを知り、驚いて直ぐに出向いたのですが、いやあ、その迫力に圧倒されました。樹の名前の由来は、幹の根元にある大きな(うろ)の中に、子育てのお地蔵さまが安置されているからなのでしょう。このお地蔵さまは霊験あらたかで、洞をくぐり詣出れば安産間違いなしということで、多くのご婦人がお参りにやってくるとか。さもあらんと思います。この洞がいつ頃できたものなのか定かではないそうですが、言い伝えでは、その昔このお寺が火災にあった時に出来たものだとか。1600年というのは、気の遠くなるような長い時間ですから、この樹はこの地の様々な歴史の出来事を見て来たのでしょう。

 大木の幹に、いかつい力瘤が幾つも固まっているのは、千年を超えている樹に共通した特徴ですが、その上に伸びる枝には、この樹の優しいこころを示すように、今年も柔らかい緑の葉が光を浴びて輝いていました。なんとも言えない癒される雰囲気です。力強さと優しさと、これこそが長い風雪の時間を生き抜くための要件であり、且つその証なのだと思わずにはいられませんでした。

 この大樹の持つ力と優しさを今回の東日本大震災で被害に遭われた全ての方々にお届けしたいと思います。

 

 

 上記写真の反対側から見た樹の様子。安産詣での人たちは、お地蔵さまに参詣してからこの洞をくぐると、霊験あらたかだという。

 

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地震情報に困惑の話

2011-04-24 00:28:35 | その他

 

3月11日の大地震の発生以降、毎日余震が続いており、(いささ)かも安堵できるような状況ではありません。いつ何時再び大地震が突発するのかという不安が常時付きまとう生活が続いています。毎日こうだとある意味で何事も馴れて来て、あ、又かということで済ませることが多いのでしょうが、地震ばかりはとてもそのような気分になれるものではなく、却って余震が予震とならなければよいがと不安は募るばかりです。

本震から1カ月以上も過ぎた現在でも、毎日少なくとも3回以上の体感地震が起こっており、地震ではなくても椅子に座っていて何かの拍子に少しぐらっと揺れたりすると、身体の背中の下の方がむずむずして、えっ、又地震かよ!という感覚なのです。このような時間の連続は70年以上の人生で初めての体験です。しかし、生きていてよかったという気分には到底なれません。

ところで、今回の大地震の発生以来の打ち続く余震の体験で判ったことが幾つかあります。その一つに、TVで報道される地震の震度というものは、余り信ずるに値しないのではないかという感じ方です。報道される震度というのは、各地の定点に設置された震度計の感じた揺れの大きさを基に発表されるようですが、この数値と実際の体感度合いにはかなりのズレがあるように思います。年に何度かの地震であれば、その誤差などどうでもいいのですが、毎日何回も大地を揺さぶられているとなりますと、その度に発表される震度の数値に対する違和感はかなりのものとなって来ます。

先日の新聞にもそのことが書かれていました。たとえば茨城県の中では、最も震度が大きいのは鉾田市エリアで、他のエリアに比べて少し突出しているようです。震度5から6レベルの揺れが多発しており、鉾田市の地下にはオオナマズが住んでいて、どこか震源地からの波動を感ずると、直ちに身体を揺すって震度計の針を大きく振れさせているかのごとくです。新聞の記事によると、鉾田市には4カ所の地震計が設置されているとのことですが、その内の1個所が特に大きい数値を示すらしく、それが公表されるために際立ってしまうとか。変な話です。機械装置というものは、人間と違って極めて客観的というか、客観的な動きしかできないものではないかと思うのですが、同一震源地の同一エリアなのに、必ずしも皆同じでない数値を示すというのは、摩訶不思議な感じがします。

まさか機械装置が主観的に変身するなどということはあり得ませんから、結局設置される場所の環境条件に左右されるということなのでしょう。しかし、そのエリアに住む人たちにとっては、真に迷惑な話となります。風評被害じゃないですけど、鉾田市というのは地震に対して厳しい環境にあるということになってしまい、そのような所には住みたくない、住めないということに繋がってしまうからです。

一方私の住む守谷市などは、かなり揺れてこりゃあ震度5近いなと思っても、TVの報道で示されるのは、いつも2レベルくらい下回った震度3程度であり、震度4以上の表示はめったにされていません。隣接する常総市やつくばみらい市、取手市などと比べてレベルが1つくらい下回っていることが多いのです。聞くところによれば、守谷市の震度計は岩盤の固い市役所に設置されているので、それで揺れが少ないという結果になるのだとか。確認したわけではありませんので、本当かどうか判りませんが、市役所だけが硬い岩盤でも、我家の地下が弱かったなら、いざという時にはとんでもないことになるのかもしれません。

以前は震度のレベルを体感で計って決めていたとのことですが、機械装置になってもこのような誤差があるというのは、少し問題のようにも思います。偶々今回のような大地震の発生があって、その余震が繰り返されていることから機械装置の誤差が表出したのだと思いますが、これをこのままに放置しておくのではなく、より体感の実際レベルに近い数値が示されるように、設定の場所や方法を再検討し、見直しする必要があるように思います。本来人間のために役立つ正確なデータを採るために作られた機械装置が、その正確さのゆえに却ってそこに住む人たちに戸惑いと混乱を来すようなことでは、本末転倒というものです。

少し話は変わりますが、この頃は緊急地震速報というものが発信され、TVや携帯電話で地震が起きたことを知らせてくれています。いつからこのようなありがたい方法が実現したのかと、最初は感謝の気持ちを持ちながらその信号の鳴るのを受け止めていたのですが、この頃は次第にそのありがたさが薄れて来てしまっています。というのも家内の携帯(我家では新式の携帯は家内の方)が鳴り響くとハッと構えるのですが、結果的にほんの少し揺れる程度で終わることが多く、安堵はするものの何だか騙されたような気持ちになってしまいます。これはあながち人間の思い上がりだということで片づけられないような気がしています。空振りは、オオカミ少年の前触れと同じように、それが何度も繰り返されると、人々を不信や無反応へと導いてしまうからです。

地震の予知というものは大変に難しいことなのでしょう。おおよそのことは察知できても、それを計るための時間の単位は、短くても数十年の幅の発生予測であり、場所ごとの正確な日時を予測することなど、とてもできない話なのだと思います。ましてや今起こりかけている地震の大きさを正確に伝えることなどは、よほどに特別な条件の地震発生時くらいしかできないのでしょう。ですから緊急地震速報が外れたからといってそれを責めるつもりなど全くありません。

そこで思うのは、なんだかんだ批判めいたことを書きましたが、結局は機械装置というものは、そのデータが正確であれ、誤差があるものであれ、今現在それを使うのは人間であり、我々一人ひとりなのだということです。データが正確であるに越したことはありませんが、そのデータが主役となるのではなく、あくまでも主役は自分自身であり、そのデータをどう受け止め活用するかということなのです。こんな当たり前のことに改めて気づかされました。震度も緊急地震速報も、自分自身がそれをどう受け止め使えば良いのか、データに振り回されるのではなく、そのデータの目的をしっかり理解し、自分なりの判断に自信の持てるような対応を心がけなければならないなと思ったのでした。

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つくば市のシセイに思う

2011-04-23 00:54:13 | 宵宵妄話

  今回の大地震の被災者への対応に関する新聞記事の中に、つくば市が福島県からの避難転入者を受け入れるに際して、放射能検査を受けた証明書の提出を求めていたというのがありました。市側の話では「市民に無用な不安を与えない目的だった」ということのようですが、市民の皆さんがこの避難転入者に対する扱いの事実を知ったならば、むしろ余計な不安を一層高める結果となるに違いないように思います。そしてこの対応のあり方は、何よりもまず地震等で被災し、その上に原発事故の被害を受けて二重苦の災難に直面し困惑している人の心を深く傷つけることになります。

 このような行政サイドの取り扱いは、つくば市だけではなく他にも幾つかの事例があったようで、真に残念です。本質的には法律等に基づく自分の保守範囲重視のお役所意識の狭隘さが露呈された感じがします。つくば市長の言では、お詫びと釈明の会見の後で、「少しでも多くの被災者を受け入れ、支援してきたのに、国からは基本的な考え方が一切示されず、一方的な批判は遺憾」と述べられたと書かれていました。ここにも現政府の抜けが感ぜられますが、市サイドが上層当局から指針や方針が示されなければ、緊急いざという時でも適切な判断はできないというのは、よほどに完璧な行政力を持った最高の政府が存在しない限り無理という話になります。そして、地方は自己の判断では自在には動けないということになり、今湧きあがっている地方から政治を改革しようというような動きからは遠い存在となってしまいそうです。

 つくば市には日本の頭脳ともいえる、国の多くの研究開発機関が集まっており、その中心部では新しい都市づくりが行われてきているのですから、行政も一段と良識あるものかと思っていたのですが、その本質はやはり中央依存の旧態依然のままだったのだと、少なからずがっかりし、残念に思いました。

つくば市は、筑波山麓の南面に広がる関東平野の肥沃な平地にある幾つかの町と村が合併してできた所ですから、つくば科学万博の中心地であった研究学園都市という一角を除けば、田園地帯が昔変わらず広がっているわけで、なかなか新鮮な文化都市というわけにはゆかないのかもしれません。私は田舎者を自認していますが、大様(おおよう)さのない田舎者の考え方は好きにはなれません。他人の為にと言いながら、その実は自分のことが先ず大事という狭量な発想は、自らを賢いと思いこんでいる田舎者の賢くない特徴の一つでもあるように思います。今回の放射能検査事件は、どこかにその特徴との共通点があるように思えます。

私は毎週1回つくば市の中心街に通っていますが、街は良く整備され、公園や散策路なども立派です。住んでいる守谷市も良い所ですが、つくば市もそれに引けを取らない住環境だと気に入っています。そのような街づくりの考え方は、つくば市の優れた知恵によるものなのかと思っていたのですが、今回のこの市のシセイ(=姿勢・市政・施政)における出来事を知り、些か過大評価をしていたのではないかと反省しています。街づくりもつくば市の知恵などではなく、国の押し付けによるものに過ぎなかったのではないかと思うようになりました。田舎行政のセクト主義の発想が無くならない限り、つくば市は人口が増えても、このままではいつまでも国際都市にはなれないように思います。

少し話の向きが変わりますが、国とつくば市の関係についてです。つくば市の研究学園エリアは、ある意味で自然との調和を意図した未来都市の要素を取り入れた街づくりがなされていると感じていますが、この中に一つだけ解せない存在があります。それは国家公務員宿舎と呼ばれる、多くの研究機関に働く人たちの住まいのことなのです。解せないというのは、この建物群の中に放置された空き家がかなりあるということです。それらの建物は、中層階のマンションや戸建てのものまでを含めてかなりの数に上っているようです。中には住むのは無理と思われる物件も散見されますが、その殆どは手入れをすればまだまだ使えそうな感じがします。今回の大震災関係では、今のところこれらの建物は全く使われてはいないようです。国というのは随分とまあ大きな無駄を放置しているものだなあと、その建物のあるエリアを歩く度に疑問や疑念が高まるばかりです。

このような事実は、管理を担当していないつくば市にとっては論外の建物であり、関係が無いということなのでしょうが、国も市も同じ目線で見ている我々一般人には、行政における矛盾のようなものを感じないわけにはゆきません。市の中に存在する膨大な公務員住宅の空き家を、そのまま放置している国の無駄遣いの現状を、市の方はどのように見ているでしょうか。

避難所生活を余儀なくされている人たちの仮設住宅の問題が云々されていますが、このような空き家の現状を見ていると、国のやることはプレハブ住宅の建設だけではなく、これらの使える空き家を早急に補修し、活用する手立ても必要なのではないかと思います。現在入居中の公務員の人たちには迷惑な話かもしれませんが、国難の時期であれば、協力するというのが筋ではないかと思います。

特に長期的な避難生活を余儀なくされる福島県浜通りエリアの人たちにとっては、これらの施設は相当に役立つように思われます。

仮にこのような施策が国によって行われた場合、そこに新たに住む人たちはつくば市民となるわけですから、これらの施設の活用はつくば市にとっても無関係ではないことになります。もし避難者に対して市が積極的に手を差し伸べるという考えがあるのなら、市は国に対してこの活用を進言しても良いのではないかと思います。

ま、当事者でもない者がやたら自分の勝手な見解や意見を述べ批判したりするのは、思い上がりの最たるもののような気もしますが、その裏にはつくば市にはもっと頑張って知名度を上げて欲しいと思うからなのです。国内でもあまり目立たない茨城県の中では、つくば市は万博などで少しは名の知れた所のように思います。全国を旅している時には、守谷市などといっても全く誰もその存在を知らず、茨城県すらも知らない人も多いのですが、つくば市は科学技術万博のお蔭なのか、ほんの少し名が知られているようです。

私は、前述のように、つくば市にはもっともっと知名度を高めて欲しいと思っています。研究学園都市エリアを核として幾つかの工業団地を抱え、その成長発展の潜在力はかなり大きい都市だと思うからです。そのためには、前向きの施策で知名度を上げる道を選んで欲しいと思うのです。国内だけではなく国際的にも名を知られるためには、国や県に依存するという感覚ではなく、自立のパワー発揮が重要だと思います。大阪市や名古屋市、横浜市のような発想が基盤となるように思います。人口は少なくても、世界には知名度の高い市が幾つもあります。それらは皆自立した都市です。つくば市もその可能性を持っていると思います。

その意味で今回の放射能検査事件は後ろ向きの知名度アップにつながってしまいました。同情すべきところもありますが、反省の中に批判を含めているようでは、本心が何かが見え見えです。このような考えのままでは、つくば市は永遠に田舎に埋没した町に止まるだけでしょう。ま、それもいいか、という見方もありますけど。どんな理由があれ、困難や逆境に直面している者を逆撫でするような施策を出さない市政を心がける姿勢を確保して欲しいと思います。

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瀧桜の励まし

2011-04-22 00:00:54 | その他

 

 東北地方にはたくさんの桜の名所があります。日本全国に桜の名所は多いのですが、東北の桜は特別ではないかと私は思っています。関東までの桜は慌しく咲いてサッと散ってしまう感じがするのですが、北国の桜は冬から春への季節がしっかり脱皮を終えた頃にゆっくりと咲くというのが私のイメージなのです。本当は何処も同じで、散り際の鮮やかさはどこも同じなのでしょう。でもこのような感覚を科学的に解析などするのは真に風情のない話です。

東北の桜の三大名所といえば、角館の武家屋敷と桧内川の堤、北上川展勝地、それに弘前の城跡公園の桜が挙げられますが、この他にも名所はたくさんあります。しかし、名所の多くは桜の樹の数の多さが基本になっているようで、これに何種類かの桜が混ざると、相乗効果が発揮されて、一層人々の心を惹くことになるのだと思います。その様な桜の咲き広がる世界も好きですが、私が桜を観て感動するのは、何といってもたった一本で多くの人を魅了する桜の樹です。

全国の一本桜をそれなりに観てきたのですが、私の印象としては、東北の方が、他のエリアよりも力強く生き残っている樹が多いように感じます。千年を超える樹に会いに行っても、あまりにも老衰の兆しが激しく、辛うじて僅かに花を咲かせている姿を見ると、もう頑張らなくてもいいよ、お疲れさん、と声をかけたくなってしまいます。山梨県の武川村(今は北杜市)にある神代桜は日本での最長樹齢の桜だと聞いていますが、枯れかかったのを人間が懸命に延命策を講じて、どうにか花を咲かせて貰っていますが、それが老木にとって本当にありがたいことなのかな、などと思ってしまうのは、ひねくれ根性の故なのでしょうか。

東北の一本桜といえば、数ある名木の中でも際立って圧倒されるのは、何といっても福島県は三春町の滝桜でしょう。もう何回かこの桜に会いに行っていますが、どんなに見ても飽きることが無い、本当の名木です。この桜の木の力強さは、花を見ただけでは判らないように思います。まさに滝のように花の枝が八方に垂れ下がる開花真っ盛りの風情は、これはもう感嘆以外のことばもないというほどの美しさですが、花が終わって葉桜となり、やがて濃い緑の葉が茂る頃に同じ木を訪れると、今度はその逞しさに圧倒されるのです。世の多くの人は、花だけを見て滝桜の評価をされるようですが、私は葉っぱだけのこの木の逞しさを、その素晴らしさを強調したいと思っています。

滝桜は小高い丘に囲まれた小さなすり鉢形の谷の斜面のパラボラアンテナの芯のような位置に、溢れる太陽の光を浴びながら、襲い来る風雪に耐えながら、厳しい春夏秋冬をもう千年以上も過ごしてきたのです。ここに生まれて根付いてからの長い時間の流れの中で、様々な世の中の変化をそのまま受け入れながら、同じ生命(いのち)の営みを何のこだわりもなく為し続けて来ています。当たり前といえばそれだけのことですが、生きものとしての千年を超える生命の存在感は、人間に対しても圧倒的な影響力を示しています。

 

時はめぐって今、千年に一度ともいえるほどの大地震の発生によって、この大地は揺さぶられ、新たな人災がそれに加わって、福島県の三春の地も穏やかならぬ雰囲気が漂っていることでしょう。樹木たちの記憶が確実なものならば、滝桜も千年前の大地の咆哮(ほうこう)に幼き身体を揺さぶられて驚いたことを思い出したかもしれません。今度の大地震は、千年前のその時の大きさとさして変わらなかったのに、新たに加わった人災の不気味さに、ちょっぴり不安を抱いているのかもしれません。

でも大丈夫です。滝桜の強い生命力は、大自然のもたらす無数の試練を乗り越えて来ているのです。人間どもが起こした少しばかりの悪さなどはものともしない底力のようなものが、この樹には備わっているに違いありません。そのことは人々が滝桜の前に行けば直ぐに判ることです。そしてどんな逆境にある人でも無言の大きな励ましと生きるパワーを授かることができるはずです。

今年も今頃が滝桜の花の最盛期ではないかと思います。会いに行きたいのですが、いろいろあって今年は行けそうもありません。昨年のアルバムを取り出し、あの時の感動を甦らせながら、満開の桜の声に耳を傾けたいと思います。そして、福島県初め、各地で被災された多くの方々に、その声が届くことを願っています。滝桜は話しています。

「逆境を乗り越えた時はいつも、私は自分でもほれぼれするほど美しく花を咲かせることができました。だから、皆さんも自分の花をきっと咲かせて下さい。そのために力が必要ならば、私はいつでもそれをお送りします」と。

 

     

滝桜の全景。これほどの花を咲かせる樹は見たことが無い。是非とも現地に行って、そのパワーの大きさを全身で感じ、吸収して欲しい。

  

     

滝桜の幹周辺の景観。ごつごつとした力瘤の塊が集まって、幹となっている。この力が、千年を超える生命を支えて来ている。かつて訪ねた縄文杉にもこの力瘤の集まりがあった。この力瘤のパワーが東北各地の被災された皆さまお一人ひとりに確実に届きますことを心から願っています。

 

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国とは何か

2011-04-20 00:58:54 | その他

  今回の大震災に係わってマスコミなどで飛び交うことばの中で、今一つ曖昧な感じがしているものの一つに「国」というのがあります。日本国というのがその「国」なのですが、実のところこの言葉は曖昧で、この国に住む人は、それぞれが勝手に国というもののコンセプトを思い描いて受け止めている感じがするのです。

災害への対応に関して、その補償や救済に対して国がそれを引き受けるとか、原発事故に関して20km圏の避難を指示するとか、いろいろな場面で国ということばが出てきますが、これは政府ということなのか、法律で規定された対応を実現する官僚を指しているのか、或いは住民に対して直接実務を担当する地方公共団体を指しているのか、かなり曖昧な感じがするのです。

今回の東日本大震災に関しては、国という場合は「政府」を指しているようです。しかし、政府というのはそのメンバーが固定されたものではなく、特にこの頃は年がら年中交代ばかりしており、総理をはじめ各大臣も就任した途端に退任の話題が直ぐに生まれるという塩梅ですから、もし国ということばが政府を意味するということになると、何だか信用が置けない感じがしてしまうのは私だけではないような気がします。

国が補償するという場合、それは単なる口頭の約束などではなく、しっかりした法律に裏付けられたものという理解がありますが、果たして本当にそうなるのかの疑念をぬぐい得ません。特に何でも安易にええ格好しいの、約束にもならない宣言をしているような政党に対しては、心を許せない感じがします。「巧言令色鮮仁」(こうげんれいしょくすくなしじん)は論語の言葉ですが、やたらに耳触りの良いことばかり言っている人間には、人としての本当の心遣いが足りないのだというような意味だと思いますが、調子のいい人間というのは、己のその調子に乗ってしまって我を忘れがちになり、物事の真実をきちんと見極められない傾向があるように思います。

今回の大事件に対する政治家の人たちの動きは今一はっきり伝わってきません。政治家といわれる人たちは当然のことながら国を動かしているわけですから、もう少し政党であれ、個人であれ、何らかの行動指針なりを明確にした動きを国民に対して新たに示すべきではないかと思います。選挙の時にマニフェストなるものを掲げるだけで良いものなのか、未曽有の国難に際してはそれをどう乗り越えるかの指針を示して然るべきではないかと思うのです。

今の国会などで何が行われているのか。本当にこの震災の復興に心血を注いでやっているのか。口先だけの大して意味もない論戦ばかりに無駄な時間を費やしているのではないかと思えてしまうのです。国会中継や新聞などを見ると、政治家の発想と行動パターンは相変わらずで、自己主張と相手の弱点批判、もしくは追従といった内容が多く、真(しん)に時宜を見た建設的な提案による論議が殆ど見られないように感じています。国会の論戦は、相手案の否定や非難ばかりではなく、そのテーマに関してのベストを求めての提言や提案の合戦であるべきと思うのですが、この一大事に及んでも、相変わらずの締りのない議論ばかりであり、本当にこのようなことで復興が叶うのだろうかと心配は増すばかりです。

国という場合、どうやら実質的には官僚の動きがそれを決めていると思えてなりません。政治家の人たちよりも官僚の力の方が一段と上なのではないかと思うのです。官僚を悪視するという発想は誤りでしょう。悪視すべきは筋道の通らない官僚の行動や横暴な振る舞いであり、天下りなどもその一つに入るものでしょう。しかし是々非々で考えても、官僚が実質的に国を動かしておることは明白であり、政治家はこの力をもっともっと活用すべきです。官僚に使われているという実態は政治家の力不足を意味しており、意味のない悪視は滑稽ともいえる現象のように思えます。官僚の思い上がりを抑えるのは、政治家の実力しかありません。そして政治家の実力というのは、如何にして国民の渇望を正確にとらえ、そこから目指すべき指針や目標を明確化するか、ということにあるのではないでしょうか。それに基づいて具体的なプランを立案するのが官僚の役割だと思うのです。指針や目的も定められないような政治家は、政治家などと名乗るのはおこがましいというべきです。

この国難の時に、国を体する役割を担う人たちは、本当に国民を裏切らないようにお願いしたいと思います。もとはといえばそのような心もとない人を選んだ国民の側に問題があり、天に唾するようなものかもしれませんが、仮に巧言令色に騙されたとしたら、それはやはり騙した側の方に一段大きな罪があるのだと思います。ま、そのようなつまらない議論はどうでもいいことですが、国難は口先だけでは決して救えないのですから、国を動かす人たちは全員が、まさに絶体絶命の覚悟を持って、これからの己の仕事に全力を傾注して欲しいと思います。

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3種のイカリ草

2011-04-19 07:26:45 | くるま旅くらしの話

我家の裏庭に作った小さな野草園には、今何種類かの野草たちが見事な命の花を咲かせてくれています。この季節になると、それを見るのが楽しみで、毎朝カメラを持って挨拶に出向きます。

毎年同じようなことを書き連ねていますが、これを止めるのは無理というものでしょう。花それぞれに思い出があり、それは正確な記憶とは無関係に、いつまでも私の心の中に旅の思い出の一つとしてよみがえってくるからです。

野草園の野草たちのほとんどは、旅の思い出につながるものですが、その中でも3種類あるイカリ草には夫々3つの思い出があり、それは今でも消えることはありません。今日は大震災や原発事故のことは忘れることにして、この3種類のイカリ草の花のことを話したいと思います。

イカリ草というのは漢字では碇草或いは錨草とも書き、その名前の由来は、花を一目見れば判るように、その姿かたちが船の碇によく似ていると思われるからです。植物の花の姿は全てが個性的で、それは人間の想像力の範囲をはるかに超えたものであり、理屈などではとても説明できるものではなく、人は花の姿を見てそれに学ぶしかありません。イカリ草の花の形も超個性的なものといって良いように思います。

 

<イカリ草>

 

 

これは普通のイカリ草です。野草というよりも栽培種といった方が良いかもしれません。ホームセンターなどでも買うことができると思います。我が家のこのイカリ草は、いつ買ったのか良く覚えていませんが、くるま旅を始めた頃ですから、もう10年以上も昔だと思います。確か秋田県の道の駅:みねはま(八峰町)の売り場に見事な鉢植えの物があり、一目で気に入って買い求めたのでした。それを家に持ち帰って大事にしていたのですが、当時はマンションのベランダに置いていたものですから、夏期の水やりが難しく、日陰をつくって置いていても、ちょっと家を留守にすると枯れかかったことが何度もあり、その度に諦めかけていたのですが、翌年の春になると無事花を咲かせてくれて、何度もその感激を味わわせてくれて来た花なのです。守谷に来て地植えにしてからは、そのような心配が無くなり、毎年安定的に花を咲かせてくれています。

 

<キバナノイカリ草>

 

 

 

このイカリ草も我が家に来てから10年以上が経っています。もしかしたらこのイカリ草の方が一番古いのかもしれません。これは買ったのではなく、山に自生していたのを採ってきたものです。その時の旅では、日本海の側を走る、秋田県能代から青森県の弘前につながる五能線と並行して通じている国道101号線(この道は大間越街道とも呼ばれる)の、大間越(おおまごし)駅の傍にあるキャンプ場に泊っていて、自分たちの他に誰も利用者がいませんでした。5月の連休を利用しての旅で、冬の間閉鎖されていたキャンプ場はまだオープンするかしないかぐらいの時期だったと思います。無理を言って泊めさせてもらったように記憶しています。出発の前に、より高所から日本海の景色を眺めようと裏山に上ったのですが、その途中の小さな谷の崖あたりに、白っぽい不思議な花を咲かせた野草を見つけました。その頃はまだイカリ草の知識が無く、店で見るイカリ草は紫系の派手な花でしたので、それがイカリ草らしいとは気づいても名も知りませんでした。大型の花で色も目立たないのですが、その優美な美しさに驚かされたのでした。よく見ると、その付近は、その花で溢れるほどの群落があったのです。多少の罪悪感は覚えつつも、一株くらいは持ち帰ってもいいだろうと勝手に思い、連れ帰ることにしました。後で調べたのですが、どういう種類か良く解らず、夏季が終わっても葉がずっと残っていましたので、これは常磐イカリ草というのに違いないと思いこみ、ずっとそういうことにしてきたのです。

この花は大へん丈夫で、夏期の水やりを忘れてしまい、もう絶望的になった時でも翌年の春にはしっかりと花を咲かせてくれて、イカリ草というのは花のイメージとは異なりかなり生命力の強い植物なのだなと感心させられています。漢方ではこの草の根を利用した強精剤が有名なのもその辺りから来ているのかもしれません。現在は地植えとなり、毎年、益々しっかりと根を下ろして、その優美な花を咲かせてくれています。最近ネットで調べましたら、これは常磐イカリ草ではなく、キバナノイカリ草(=黄花のイカリ草)らしいです。わずかに黄色がかったところがそうなのだと思うようになりました。本当は常磐でも黄花でもどちらでもいいのです。名前が解らないときは、皆その頭にバコツをつければ良いと思っています。つまり、バコツイカリ草でいいのです。

 

<トキワイカリ草>

 

 

 

このイカリ草が我家では一番新しく、既に守谷に越してきて野草園も出来上がった後に植えられたものです。これも自生していたものを採取してきたもので、その場所は佐渡の小木近くの山道の崖の脇でした。5年前に佐渡を旅した時は、車を置いて歩きまわった時間が結構あって、この時も小木の港に車を置いて、蓮華峰寺までを往復したのを思い出します。帰り道の途中田植えの準備に忙しいトラクターのエンジン音があちこちで鳴り響いている田んぼ近くの山道の崖に、白い花を咲かせているイカリ草を見つけました。これもその辺りに何株も咲いているので、一株くらいは良いだろうと、いつものように持ち帰ることを目論んで眺めていたのですが、そこへ通りかかったワラビ取りのお母さんが、私が物欲しそうにその花を見ているのを察知されたのか、持参されていた買い物のポリ袋を出して、俺が採ってやるよと、無造作に一株を引っこ抜いてその袋に入れてくれたのでした。いやあ、感謝感激でした。罪一等を減じられた感じでした。この花も今まで見たことの無いイカリ草で、やはり白花なのです。帰宅後早速野草園に植えました。これも毎年元気で楚々たる花を咲かせてくれています。その後調べましたら、どうやらこれが常盤イカリ草というものらしいと判りました。イカリ草というのは、日本海側に多い植物のようです。

 

 

今年はこの春に久しぶりにゆっくり時間をかけて東北の春を訪ねたいと思っていたのですが、この度の東日本大震災で、東北地方はそれどころではない現状にあります。被災地の一日も早い復興を願うと共に、それが達成された暁には、改めて東北の春を訪ねたいと思っています。

 

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