山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第35回>

2018-06-29 05:53:36 | くるま旅くらしの話

【今日(6/29)の予定】 

道の駅:おうむ →(R238)→ 道の駅:マリーンアイランド岡島 →(R238)→ オホーツクミュージアムえさし →(R238)→ 枝幸町ウスタイベ岩キャンプ場(泊)

 

【昨日(6/28)のレポート】 天気:曇り時々雨

<行程>

道の駅:上湧別チューリップの湯 →(R242・R238他)→ 紋別市博物館 → 紋別市内でコインランドりーで洗濯 →(R238・R239)→ 西興部村郷土館 →(R239・R238)→ 道の駅:西興部花夢  →(R239)→ 道の駅:西興部 →(R238)→ 道の駅:おうむ(泊)

<レポート>

今朝も曇り空が広がって動かず時々小雨がパラつくという空の機嫌だった。いつになったら安定した青空が望めるのか、だけどそうなると今度は猛暑が襲ってくるのではという恐れを抱きながら毎日複雑な心境でいる。

さて、今日は移動しがてら紋別市の博物館とそれから西興部村の郷土館を訪ね、泊りは明後日からの枝幸町のカニ祭り見物のことを考えて、少し手前にある道の駅:マリーンアイランド岡島まで行くことにしようかと考えている。しかし、成り行き次第では違うことになるかもしれない。邦子どのはあまり海に近い場所は敬遠したい人だから、天気次第ではどうなるか分からない。

昨夜のこの道の駅での泊りの車は少なかったようで、10台前後だったようだ。皆さん出発が早くて、自分たちが食事を終えた6時半頃になると、殆どの車はどこか次の目的地に向かった様である。自分たちも9時過ぎに出発する。

先ずは紋別市の博物館へ。今まで何度も紋別を訪れているのだが、紋別といえば冬の流氷と妖精クリオネのことくらいしか思い浮かばず、その歴史などについては知識はほぼ皆無といったお粗末な今までなのである。だから、今日はしっかり見聞しておこうと考えての入館だった。ここは無料となっており、有難いことである。それから40分ほど館内の展示やビデオなどを見て回った。

感想としては、紋別は江戸時代は松前藩宗谷場所に属しており漁業を中心に栄えた所であったこと。幕末は一時会津藩の領地となり、標津と同様ここに北方の守りのための陣屋が設けられていたこと。その後開拓使の支配するところとなり、明治の半ばを過ぎてから山間部への入植が始まったということ。それにここでは農林水産業の他にオホーツクの金産出地として、一大盛況を招いたことなどを知った。特に金鉱については、住友鉱業の鴻の舞い鉱山が昭和48年迄操業を続け、この間にかなりの金や銀の産出があったことを初めて知った。元々は砂金の発見から始まったようだが、最盛期の町の繁栄はかなりのものだったらしい。新た知識を得ることが出来て紋別という町を少し違った角度から見なければならないなと思った。

博物館を出たその後は、郊外近くにあるショッピングモールで買い物をする。この間に何度か利用しているコインランドリーがあるのに気が向き、西興部村の郷土館に行く前に、洗濯をすることになった。西興部村に行くのはそれほど急ぐことでもないという判断である。それから2時間ほどかけて洗濯を終了する。同じコインランドリーにつくばナンバーのキャンピングカーの方が入って来こられて、話を聞けば何と同郷同市即ち茨城県守谷市在住の方なのだった。同じ市内に住む根本さんご夫妻で、今年は初めての北海道ということだった。しばらく旅や旅車のことなどについて話を交わす。自分よりは10歳もお若く、これからが旅の本番だなと思った。今年は7月の中頃までで戻られるとのこと。この後も大いにくるま旅を楽しんで頂きたいなと思った。

そのあとは、今日の次の目的地の西興部村の郷土館を目指す。本当はその前に興部町の郷土館を訪ねたかったのだが、こちらの方は常設の公開をしていないらしく、手続きが面倒なようなのでパスすることにした。西興部村は、人口が千名余の北海道の中でも少ない村の様である。どうして西興部村なのかについても知りたいと思いながらの訪問だった。郷土館は直ぐに判って、中に入る。大きな施設ではなかったが、よく整理されていて、開拓の歴史なども迷わずに理解することが出来た。

村の歴史によると大正14年に興部町からの分村ということだったらしい。その理由はこの村は山間部にあり、往時は海側の方が栄えていたと思われ、その後山間部への入植が進むにつれて、地域としての利害が一致しなくなり、分村に至ったということのようだった。なるほど、そのようなこともあったのだと理解した。村の産業としては農林業が中心だったが、石灰石が採取出来た時代があり、一時はそれが栄えた時もあったけどやがて資源枯渇により閉山となったとあった。その様々な農具や民具等が陳列されていたが、それらの中で最も目を引いたのは、「拝み小屋」と呼ばれた開拓当時の掘立て小屋を再現したものだった。今まで幾つか開拓小屋の復元したものを見て来たのだが、この村のそれは凄まじい感じがした。「拝み」というのは飛騨の合掌造りと同様に両手で拝むような形をした掘立小屋で、飛騨の合掌造りの最上部を地面に建てたような粗末なレベルの小屋なのだった。恰もそれは縄文時代の竪穴式住居のような外観をしており、その内部といえば、竪穴住居よりもレベルが下だったのではないかと思うほどだった。改めて先人の開拓魂の凄まじさを知り頭を垂れる思いだった。

西興部村郷土館の中に復元されていた拝み小屋と呼ばれる開拓小屋の様子。入口が合掌の形をしているのでそう呼ばれたとのこと。

西興部村郷土館の後は、今日の泊りを同じ村の道に駅にしようと行ってみたのだが、20年ほど前に来た時のイメージとは異なっており、花夢と名づけたイメージの雰囲気が感ぜられず、それに草を刈ったばかりの臭いが充満しており、これでは嗅覚抜群の邦子どのが眠れる筈がないと判断し、引き返して興部町の道の駅へ行くことにした。しかし行って見ると、何となく泊る雰囲気ではなさそうなので、いつも利用させて貰っている隣の雄武町の道の駅:おうむへ行くことにした。その途中で空になっていたLPガスのボンベを充てんして貰う。雄武町のLPガス屋さんは良心的なのが解っているので、ここを通る時は必ず充てんをお願いすることにしている。今回もそれは変わらなかった。

間もなく雄武町の道の駅に着いて、錨を下ろす。この道の駅は海の近くにあるのだが、海は見えず標高が15mというから、まあとんでもない大地震があって津波が来ない限りは大丈夫だという安心感がある。すぐ傍にスーパーやコンビニなどもあって至便でもある。自分のアンテナでは地デジは映らないので、今夜のサッカーワールドカップは見ることができないのがちょっぴり残念。諦めが肝心ということもある。早やめの就寝となる。

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