山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

古代ハスの眩惑

2016-06-28 06:02:45 | 宵宵妄話

 このところ書くことに関しては絶不調です。どういうことなのか自分でも全く解りません。とにかく書く気が起こらないのです。最近は随分と長い間、「老」というものについてあれこれと思いを巡らし、あまりにそのことに囚われ過ぎたきらいがあり、その反動が来ているのかもしれません。

 このような時は旅に出るのが一番なのですが、その旅も未だ終わったばかりであり、暑い夏が終わるまでは我慢をしなければならないと決めており、なかなか突破口が見出せません。

 そのような中で、ただ今は只管(ひたすら)日に一回は汗をかくことに努めており、毎朝4kgから6kgほどの錘(おもり)を身につけて、8kmから10kmほど歩いているのですが、今日はその途中で嬉しい出会いがありました。3つほどあるコースの一つの守谷城址公園を通る道の、少し脇にある古代ハスの池の花が最盛期を迎えたのです。

   

守谷市にある城址公園の脇の古代ハス池の開化の様子。普段は目立たないので、そこにこのような池があるのを気づかない人が多いのだが、この季節は違うのだ。

 家を出て40分ほど歩き、身にまとう錘の重さに身体が慣れ出したた頃にその池に着くのですが、3日前に来た時は数が少なかったハスの花が、今日は見事に満開近くとなっていました。思わず携帯しているカメラを取り出し、何枚かを取り込みました。まあ、何と美しいことか。息をのむ美しさがあり、桜や梅や他の野草たちとは違った、独特の雰囲気を持った花なのです。ハスの花には、そしてこのハスという名の不思議な植物には特別の感慨があります。

     

開花した古代ハスの花。淡い朝の光を浴びて、その美しさは、人を妖しくも幻想的な世界に誘う。

 特に古代ハス(=大賀ハス)には、他のハスとはまた違った感慨を覚えるのです。30年ほど前になりますか、千葉市の検見川という所に住んでいた時に、近くに東大の運動場があり、その中にそのハスを栽培している池があって、開花の時期にはよく訪ねて、その美しさに我を忘れたものでした。2千年以上も前の弥生時代か、あるいは縄文の終わりのころか、その頃咲いていたハスの実を大賀博士が苦心して開花させたと聞いています。それが今ではこの守谷市にも取り寄せられて、こうして花を咲かせてくれているのです。

 ちょうど今、日本の古代史などに目を向けているところで、縄文や弥生時代の暮らしぶりなどを、資料を通して思い浮かべていたところでもあり、このハスの花に往時の古代の人々の寄せる思いが伝わってきます。2千年以上も前の人たちも、特別な思いでこの花を見ていたのではないか。人間の心の世界は、自然を感ずる感性は、根っこの所ではそれほど変わってはいないと思うのです。古代人はただ素直に美しいものを美しいと感じて感動しながらこの花を見ていたのではないか。それをしみじみと感じたのでした。

 しばらく花を見つめていました。くらくらっと来るような、しかしどこかに温かさの一杯詰まった花でした。泥の世界に身を置いて、浮世に咲かせる花の美しさは、生命の限りを尽くしたものなのかもしれません。それゆえに仏教の世界では最も愛されている花だと聞いています。

   

どの花を何度見ても、見つめていても、その澄んだあでやかな命の輝きの世界は変わらない。

 これで絶不調も少しは和らいでくれるかと、再び汗をかきながら歩きはじめることにしました。

 

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浮世風呂の話題

2016-06-16 09:17:35 | 宵宵妄話

 私の浮世風呂といえば、最近では「わらしべの湯」である。このような名の入浴施設は無い。これは私が勝手に名付けたもので、正式には「いこいの郷常総」という、守谷市にある交流施設の中の入浴施設である。本当は温泉であって欲しいのだけど、それは叶わず、ここはゴミ焼却場の排熱を利用して沸かしたお湯なのだ。それでも露天風呂もサウナもあり、小さいながらも温泉の設備に引けは取らない。

「わらしべ」というのは、前にも書いたが、稲穂から実をしごいて取り去った後の残骸をいう。これを風呂の名称にしたのは、入浴者の殆どが老人だからである。日中から風呂に入れるのは、働くことから見放された(?)老人しかいない。それは実の殆どを食に供して、数粒を取り残されてわらしべとなり果てた稲穂の残骸にそっくりではないか。そのような男たちを受け入れるに相応しい名前ではないかと思ったからである。勿論私自身もわらしべに他ならない。

 東北の春を覗き回った短い旅から戻って、久しぶりにその「わらしべの湯」に浸った。露天といっても、コンクリート造り3階建の2階ベランダ様の位置にある浴槽からは、梅雨時の曇り空の一部が見えるだけである。それでも解放感はそれなりに満たされていて、老人となった男たちは、世間話に興じることしきりだった。

 本当は静かに湯に浸っていたいのだが、老人たちは日頃溜まっている思いを吐き出したいのか、知り合いの顔を見ると話し声が一段と高まるのである。二人が三人となり、更にその数が増えると、女三人寄れば姦しいどころの話ではなくなってしまう。

 話題は同世代の女性に比べると、もしかしたら社会的(?)なのかもしれない。もっとも、同世代の女性同士が風呂に入ってどんな話に盛り上がるのかは知る由も無い。男の場合、社会的話題として多いのは政治に係わることが多い。事件についてのコメントも多いのだが、今日現在では何と言っても東京都知事の進退にかかわる話が一番のようだ。

 老人の達観は、都知事を「舛添」と呼び捨てるのに何のためらいもない。政治学者から政界に乗り出し、自負心に満ち溢れていた舛添大先生も、浮世風呂の中では塵芥(ちりあくた)の扱いなのだ。連日のマスコミ報道は、TVも新聞もラジオも舛添氏に肩を持つ記事は皆無で、あらゆる情報は彼をして辞めさせる方向を向いているのだから、老人たちの会話は、社会正義の権化の心意気で、自信に溢れている。

 「舛添は、何であんなに頑張ってんだべや」

 「あれじゃあ、都民は黙ってられないべよ」

 「公私混同もひど過ぎんじゃねえの」

 「誰だかが、せこい人だって言ってたけど、本当だなや」

 「金持ちほど、みみっちぃいて話はよぐあっからなあ」

 「とにかく、ぐずぐずしていても、もう終わりだっぺ」

コメントの大半は、マスコミの報道の中で云々された文語ばかりである。新論や新解釈を講じる人は皆無である。一般論が当人の固有論の如くになって、同じような意見が繰り返し交わされている。素っ裸のままの達観論は10分ほどで終了した。

 浮世風呂に政治の話、とりわけ法に抵触するような行為を為した人物が登場するときは、大抵はその人物の政治生命が終わる時である。舛添氏もその魔法から逃れることはできず、今朝の新聞には辞表提出の記事が大きな見出しとなっていた。

 都知事は連続2回も現職知事自身の不祥事で辞職を余儀なくされたことになる。前知事も舛添氏も、その不祥事の内容は彼らの高い筈の見識からは、想像もつかないほど低レベルである。こんな低レベルの事件で辞職を余儀なくされるのは、運が悪かったとの見方もあるかもしれない。何故ならより悪質なネタを抱えている人物は、政界の中には幾らでもいるからである。しかし、同情は禁物であろう。

 浮世風呂に浸かりながら自分が思うのは、これらの事件の根源は皆人間の思い上がりにあるということだ。偉い人も偉くない人も、偉くなれない人も、人間はほんの少しでも自分を他人より上位にいると意識すると、思い上がるのである。舛添氏の場合は、ほんの少し上位ということはあり得ない。常に自意見が最上位という話しっぷりを見せられ続けて来ている。思い上がるというのは、己を忘れ他をそれ以上忘れてしまうという人間の哀しい性(さが)なのかも知れない。都知事の様な立場の人が、この思い上がり病に罹ると、都民のことを忘れ、己だけの正義の世界に生きることになる。その結果、人心は離れて行くのだ。その離れるスピードは、人工衛星が地球を回る速度よりも早いのは確実だ。かくて終わりとなってしまった。

 さて、次はどんな人物が都政を担うのだろうか。これからいろいろ取り沙汰されることになるのであろう。思い上がらない人を、都民はどうやって選べば良いのか。過去2回の誤選択は、都民に責任無しとは言えないであろう。浮世風呂の中で、同じような話題が浮かばないようにと願っている。

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‘16年 東北春短か旅の旅を終えて

2016-06-05 05:02:25 | くるま旅くらしの話

【旅を終えて】

 冬が終わって、春の旅のシーズンとなると例年4月末辺りから東北の旅に出かけるのだが、今年はその出発時期が少し遅れて5月の半ばに入ってからとなった。一つには連休の混雑を避けたいという気持ちがあり、もう一つは事情があって本当に旅に出かけてしまっていいのかというためらいがあったからなのである。でも思い切って出掛けて良かったと思っている。当初の予定では2週間ほどを考えていたが、それよりもほんの少し長い期間の旅となった。

 今回のテーマは、相棒の言を尊重して、「ゆっくり」を大事にすることとした。ゆっくりというのは、余裕のある旅という意味である。これは概ね達成できていると思うのだが、結果的に走行距離の1日平均距離を計算してみると、148kmも走っており、何だかゆっくりではなかったようにも思える。しかし、走行の時間帯は殆どが午前中であり、早めに目的地に着いて、その後はあまり動き回らないようにして、相棒が疲れ果てて温泉に入る元気も無くなってしまうようなことは一度も起こらなかった。当初の計画が2週間だったのを、更に一週間を付加したので、余裕日が7日間もあることになり、急ぐ心配が無くなったのが良かったのだと思う。自分が老人であることをかなり意識しての旅だったのだが、まあ、こんなもので丁度良いのかもしれないなと思った。

 コースとしては、先ず福島県、宮城県、岩手県と東北の中央圏を北上し、それから太平洋側に出て北上を続け、青森県に至って日本海側に回り、その後再び中央圏を今度は南下して、岩手県、秋田県の山岳部を経由して日本海側に至り、その後しばらく南下を続けて新潟県から再び山岳地帯に入り、群馬県から山越えで栃木県の日光市に至り、その後は茨城県の自宅を目指すというコースだった。全走行距離が2,516kmとなっていた。

 春の東北の旅の楽しみは、山菜と野草たちの花の鑑賞である。今回はそのいずれもが時期を失しており、何時もは逢える二輪草やカタクリ、菊咲きイチゲの花たちには逢うことができなかった。山菜の方も最盛期を大きく過ぎており、いつも溢れんばかりに賑わっている地元の地産品の店の売り場には、ほんのわずかの種類の山菜が見られる程度だった。これは予想していたことなので仕方が無いのだが、それにしても毎年の温暖化はかなり進んでいる感じがした。十和田湖の上方の山岳地帯には少しぐらいは残雪が見られるかと期待していたのだが、もうすっかり緑の世界に変わっていて、雪解けの水もとっくに下界へ奔り去ってしまっている感じがした。ただ、鳥海山麓を走るブルーラインという道には、鳥海山の6合目あたりを走ることもあって、間近に残雪を見ることができ、更に岩かげにイワカガミの美麗な花を見出すことができ、救われた気分になった。次回はもっと早く来なければならないなと、強く思った。

 今回の旅の中で印象に残ったことを挙げるとすれば、次のようなものを思い起こすことができる。

①  毛越寺・中尊寺・骨寺荘園跡という世界遺産のセットになったエリアの探訪

骨寺荘園跡は世界遺産の指定からは外れているけど、中尊寺とは深く係わっており、自分的には外してはならない場所だと思っている。この中で、今回は特に毛越寺を丁寧に散策して、往時の為政者たちの願望である浄土庭園というものに思いを馳せた。自分には未だに浄土なるあの世のイメージが描けないのだが、毛越寺庭園を見ていると、今の世よりはすっと解り易いなと思った。今の世の浄土がどんなものなのか、科学の発展は、人間が描く空想の世界を次第に狭隘で貧困なものとしてゆくような気がする。

②  遠野の荒川高原牧場再訪と早池峰神社参拝

ここには一昨年も訪れているのだが、同じ場所を再訪するのも旅の一つの面白さではないかと、この頃思うようになっている。初めて訪れる時は新鮮な感動をモノにすることができるのだが、二度目となると、浮ついた気分がなくなり、本物の姿を見ようとする意識が働くのである。前回見落としていたことに気づいて、一人首肯することなども結構多いのである。今回の荒川高原牧場は、前回は天侯のこともあって、そのほんの一部しか見ていなかったことに気づかされた。前回見たイメージよりもはるかに広大で、そのスケールは日本一といわれる北海道上士幌町のナイタイ高原牧場には及ばずとも、かなりのものである。何よりも凄いと思うのは、この牧場が江戸の昔から開拓され用いられていたということであろう。夏山冬里の意味がより一層鮮明になったように思った。

また、早池峰神社参拝は二度目だったが、建物や屋根の修復が為されていて以前の厳めしい様相が一変していて、新品(?)になっているのを不思議に思った。この参拝の翌日だったか、偶然にも道の駅:やまびこ館という所で、早池峰神楽というのを見ることができたのもラッキーだった。道の駅:やまびこ館は、参拝した早池峰神社とは早池峰山を挟んで反対側の北側に位置しているのだが、この神楽は早池峰神社に奉納されることもあるのだろうなと思った。

③  奥入瀬渓流の散策と昼寝

春に東北を訪ねる時は奥入瀬渓流を外すことはない。今回も大いに楽しみたいと思いながらの来訪だった。野草の花たちは、すでに新緑の中に消え去っていたが、未だ咲き残っている山ツツジの赤は、鮮緑の森の中に際立った存在だった。それが水辺で渓流を染めて咲いている姿も印象的だった。何よりの贅沢を味わったのは、この緑の世界の中で、しばらく惰眠を楽しんだということかもしれない。車旅ならではの恵みだった。

④  五所川原の旧平山家探訪と鰺ヶ沢の焼きイカ。

青森県関係では、今回田舎館村の田んぼ絵の現在を見たいと思っていたのだが、未だ田植が始まっていないようだった。少し足を伸ばして五所川原市内にある歴史民俗資料館を訪ねたのだが、ここは開店休業の状態だった。その隣に旧平山家住宅というのがあり、この地の古くからの豪農の居宅だったものが重文の指定を受けており、それを見ることができた。この家は曲がり屋ではなく、長方形の家屋で、その中には厩もあって何と数匹の馬を飼っていたとのこと。造りも耐震構造となっており、時代を超えて人間の知恵はそれなりに発揮されているのだなと思った。

また、この日は津軽市にある道の駅:もりた(=森田)に泊ったのだが、この夜は隣の鰺ヶ沢町の名物の焼きイカを手に入れて、久しぶりのこの地で味わう美味さを体感した。鰺ヶ沢の焼きイカは、この地を訪ねるようになって、早や20年来となる自分たちの旅の楽しみである。この地の焼きイカはこの地でなければ味わえない、特別のものなのだと思っている。

⑤  八幡平高原の水芭蕉とヤマザクラ。

途中の山間部の走行中に、何度も水芭蕉たちに出会っていたけど、既に皆大きな葉を広げていて、すっかり芭蕉そのものの葉になってしまっていたのだった。しかし、八幡平高原を通っていると、丁度峠辺りになると思われる場所で、残雪の水たまりの中に小さな白い花を咲かせている水芭蕉を見つけた。良く見ると辺り一面の湿地に花が群れ咲いていた。コブシの花などに混ざって、満開となっているヤマザクラがあるのを見つけて、感動した。未だ春が始まったばかりの場所もあるのに気がついて、ホットした気分になった。

⑥  乳頭温泉のブナ林の新緑

秋田駒ヶ岳のすぐ近くにある乳頭温泉卿は秘湯の趣に溢れた温泉場が多い。今回は秘湯ではなく休暇村乳頭温泉という宿の湯に入らせて頂いたのだが、これが実にすばらしかった。温泉も良かったが、それ以上に温泉の露天風呂から見るブナ林の新緑が身体も心も浄化してくれた。生え揃ったブナの木々はそれほど年を経たものではなく、それゆえに木々の新緑は柔らかく日の光を包んで、旅のストレスを溶解してくれたのだった。

⑦  角館町の早朝散歩

角館には何度も来ており、我が家の味噌は今でも角館産を使用しており、この町とは関わりが深い。来訪の時期は殆どが桜の季節なのだが、今回のように葉桜の時期さえも終わったタイミングは初めてのような気がする。未だ観光客が殆ど歩いていない朝の町中を歩くのは久しぶりのことだった。武家屋敷は枝垂れ桜の大木の燃える緑に包まれて、今日の一日を始める前の静かさの中にあった。その中をゆっくりと歩を進める。武家屋敷から少し離れた場所にある旧松本家が一番気に入っているのだが、小人組という下級武士の屋敷だったというこの家は、そこに住む人の質素な暮らしぶりが目に浮かぶようで、上級武士の大きな屋敷よりも親近感を覚えるのである。また、ここへ来るといつもこの町の鎮守社であろう神明社へ参拝することにしている。それは旅の大先達の一人、菅江真澄の終焉の地が此処であり、その碑が建てられているからである。「菅江真澄遊覧記」は愛読書の一つであり、わが旅日記もそのまねごとを記しているようなものだ。

⑧  碧祥寺博物館

ここへ行くのは初めてだった。旅に出かける数日前に、新日本風土記だったかの番組を見ていたら、西和賀町という所の暮らしが紹介されていた。和賀岳は知っているけど、地図を見てもそのような町はない。調べたら合併してできた町だった。その町の沢内地区にある碧祥寺という所に博物館があり、雪国に住む人たちの暮らしぶりに係わる資料等がたくさんあるという。マタギの暮らしぶりなども解るという。和賀岳といえば、岩手県と秋田県にまたがる深い山であり、自分的には天然のマイタケが採れる場所くらいにしか思っていなかったのだが、この雪深い国に住む人たちの往時の暮らしぶりはどうだったのかを知りたくなり、予め地図にメモを付しておいたのである。

行ってみた碧祥寺博物館は、思っていた以上にスケールの大きなものだった。雪国に暮らす昔の人たちの暮らしに用いられた様々な用具などが展示されていて、テーマごとに展示館が別れて幾つもあるのである。とても気まぐれの訪問などでは見切れるものではなかった。迂闊さに気づかされた。一応ざっとは見たのだけど、ここにはもう一度時間を用意して再訪しなければならないと思った。多くの歴史民俗資料館の類を見て来たけど、ここはその中でも最大級だなと思った。

⑨  あがりこ大王と獅子が鼻湿原の散策

  あがりこというのは、ブナの切り株と一緒に根元に生えた幼木がそのまま生長して大木となったものであり、その中の最大級の一本に大王という呼び名が贈られている。あがりこ大王は、いわば人間の止むをえぬ蛮行が生み出したものだ。炭を焼いて暮らしの生計を維持するためにブナの木を伐ったのだが、枯れない配慮をしたところが救われるというものであろう。この樹に逢うのは二度目だった。相棒にも逢わせたくて、今回は二人での参上となった。 森の中に鎮座するその姿には、生き物の業の様なものを感じたのだった。その後の森の水郷とも思われる獅子が鼻湿原の中の歩きは、ハンディのあるはずの相棒でさえも、疲れを忘れて、マイナスイオンの溢れる新緑の世界に浸ることを得たのだった。

⑩  羽黒山五重塔

   羽黒山への参拝は三度目だろうか。今回は相棒のたっての希望で特に国宝の五重塔を見たいというので訪れることとなった。羽黒山は山伏の修験道の場所として有名だ。お寺なのか、それとも神社なのか、ここへ来るとそれがどちらであっても構わないという気分になる。五重塔は元はお寺の本堂だったとか。しかし出羽三山はお寺ではなく神社というべきであろう。明治の廃仏毀釈に当っては、政府はどのような解釈をして対処したのだろうか。毀釈の対象とはならず、今日につながって残っているのは何よりのことがなと思っている。爺杉と呼ばれる樹齢千年を超えるという大木の脇に鎮座する五重塔の姿は、厳しい東北の冬を何度も乗り越えて来た、枯れてはいるけど重厚な存在感を森の中に放っていた。示しているというよりも、やはり「放っていた」というのが自分の実感である。相棒が何を感じながらシャッターを切っていたのかは判らない。

⑪  ヒメサユリと栃尾のあぶらあげ

  旧下田村を初めて訪れたのは、2年前の佐渡からの帰り道だった。その時、この村の中にヒメサユリの群生地があるのを知った。そこはヒメサユリの小路と名付けられていて、かなり有名な場所らしい。その時は6月の下旬だったので、既に開花期は過ぎてい。それでも野次馬根性を止めることが出来ずに見に行ったのだが、あまりの急坂が続くので、途中で諦めて戻ったのである。その様なことがあったので、今回はひそかに期待した訪問だった。しかし、地元の人に聞いた話では、今年も開花は終わりに近付いており、ヒメサユリ祭りも明日で終わりというタイミングだったのである。ダメ元のつもりで訪ねたのだが、行って見るとまだまだ元気な花も残っており、長年の望みが叶えられて嬉しかった。ヒメサユリを見るのは初めてではないけど、これほど多くが群生している場所に来たのは初めてだった。百合の花は女性の美しさを例えるに用いられているけど、中にはあくどい花もあり、日本女性ならば山百合の清楚さよりも、このヒメサユリの小柄な優雅さこそ、それに相応しいように思う。それにしてもこのような静かな美しさを秘めた女性は、今の日本の何処に実在するのだろうか。真老のジジイであっても、それはやはり気になることなのである。

  ヒメサユリに感動しながら栃尾の道の駅に向かう途中に、この地の名物の油揚げを製造販売する店があり、そこでどっさり(?)と念願の油揚げを手に入れた。と言っても旅の途中なので、6枚が限度である。栃尾のあぶらあげは、今や関東一円でも販売されているようで、普段は高嶺の花のような存在なのだが、ここへ来ると手が届く花となって嬉しい。早速夕刻にはそれを味わった。

⑫  日光街道杉並木の早朝散歩

旅の最後の宿は、日光市の旧今市にある道の駅:日光だった。この道の駅に泊るのは初めてだったが、700mも歩くと旧日光街道の杉並木があるのを知り、大いに期待した。というのも歩くことを普段から糖尿君から厳しく奨められており、旅に出るとそれがなかなか実現できないのを悔いながらの旅だったからである。願ってもない最高の環境が傍にあると知って、翌朝は5時からの散歩に出かけたのだった。誰もいない早朝の散歩は、世界遺産の朝の空気を独り占めにして、何とも言えないいい気分だった。400年近い歴史を含むこの散歩道は、ただ両側に杉が植えられているだけではなく、水路も走っており、又途中には寺院やお墓の名残も幾つかあって、それなりの歴史を語っているのが解かった。2時間くらいの往復だったけど、歴史の重みを体感できる空間の中をしっかり歩いたという印象が残った。我が家からは比較的近い場所にあるので、これからも思い立った時には、ここへ来てこの感慨を何度でも味わいたいと思った。

雑駁な所感だけど、今回の旅の中ではこれらのことが印象に残った事柄である。

今までは旅に出ると人との出会いを大事にしてきたのだが、今回は成り行き任せとすることにした。とはどういうことかといえば、旅先で出会う様々な方たちに対して、こちらから近づいての出会いを求めないことにしたのである。向こうから出会いを求めて来られる方に対しては、常にオープンに接しようという考えは不変なのだけど、こちらからはもう真老の世界に入っているのだから、わざわざ迷惑も顧みずに働き掛けることもあるまいという考えなのである。相棒が外交官としての役割を果たすことも少なくなりつつあり、歳相応に控えめに行こうというのが現在の心境なのだ。これでいのだと思っている。

やや時期遅れの春の旅だったが、東北エリアは満面の新緑で迎えてくれた。その芽気味に感謝しながらこの綴りを終えることにしたい。

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‘16年 東北春短か旅 レポート <第18回:最終回>

2016-06-04 05:31:55 | くるま旅くらしの話

【昨日(6/1)のレポート】    天気:曇り時々晴れ

<行程>

道の駅:日光 →(R119・R293)→ 道の駅:うつのみやろまんちっくむら →(R230・R119・R4)→ 道の駅:下野 →(R4・R50)→ 結城市内コインランドリー →(R50・R294)→ 自宅

<レポート>

 道の駅:日光を出発するときは、これから途中でコインランドリーを見つけて、今迄に溜まった衣類の洗濯を済ませ、その後で道の駅:うつのみやろまんちっくむらに行き、そこで終日ゆっくり過ごし、旅の最終となる温泉に入って一夜を過ごし、帰宅への道を辿ることにしていたのだが、途中から気が変わっり、今日中に帰宅することになってしまった。突然の旅の終わりだったが、今回は初めから旅のスケジュールにはこだわらないことにしているので、帰宅が一日早くなっただけのことであり、どうってことはない。

 今朝は3時には起き出し、2時間ほどブログ記事作成に取り組んだのだが、5時になるともう書くのは止め、近くにある日光街道杉並木路の散策に出かけることにした。どうしてもこんなチャンスは逃してはならないと思ったのである。世界遺産の日光といえば東照宮などのきらびやかな建造物を思い描くのが普通だと思うけど、自分的にはこの杉並木も又世界一のプロムナードであり、そこをゆっくり歩けることは、東照宮以上に歴史を感じられる場所だと思っている。道の駅が出来たおかげで、今日はそれをたっぷり味わうことだ出来るのだ。

 しっかり靴ひもを結んで一歩を踏み出す。しばらく商店街を歩いて杉並木の入口まで来ると、左手に瀧尾神社というのがあった。境内には派手な色の風車が幾つも並んでおり、よく見ると何やら願い事などが書かれていた。どのような由来があるのかは判らないけど、変わった神社だなと思った。参拝の後はいよいよ杉並木の中に入る。早朝5時の時間帯は、歩いているのは自分一人である。大木に囲まれた道の空気は、外部の世界からは隔絶されたマイナスイオンの湧き溢れる世界をつくっており、それは霊気とも思われるほどの厳かなものに思われた。浮かれるのではなく、この樹達が植えられて以降の400年に近い歴史のあれこれを思わされる敬虔な気持に捉われるものだった。杉の大木の道脇には水路が走っており、森閑とした空気を震わせて流れるせせらぎの音が、又それと相和すように美しい声の持ち主の鳥の鳴き声が、耳に届いて、何とも言えない至福の世界が続き広がっていた。

   

歩き始めた辺りの杉並木の様子。杉の根元付近には側溝のようなものがあり、その中を清流が音を立てて奔っていた。早朝の日の光は柔らかくて、まさに日光そのものだった。

   

30分ほど歩くと側溝は見えなくなり、杉林の裏の方への川の流れとなったようである。道はどこまでも続いており、ここに杉を植えることを発想した人物の大きさを思った。

 杉の木の保全のためなのか、オーナー制度というものがあるらしく、大木の一本一本にその所有者の名札が掲げられていた。自治体名や会社名、個人のものもあり、これらの樹を愛する人たちが多いのだなと思った。自分的には、樹を愛するよりも樹に愛されたいと願っており、所有者などという大それた振る舞いはできないと思っている。これからは時々ここへ来て、この空気を吸い込ませて欲しいと願うだけである。

 それから往復2時間ほどかけて杉並木の道を歩かせて頂いた。良くみると根本が合体している二本杉や中には三本も根本が一緒の樹もあって、樹木たちも必ずしも個にこだわるものでもないのだなと思ったりした。また、中には戊辰戦争で砲弾を撃ち込まれた樹もあって、彼などは今、往時をどのように回顧しているのかなと思った。並木の中には神社やお墓などもあって、これらはどんな歴史を辿って今日に至っているのかなとも思った。杉並木を分断して割り込んで建てられてる民家もあり、この人たちの先祖は、どういういきさつからこのような格別な地に住めるようになったのかなとも思った。杉並木には様々な歴史の思いが詰まっているのであろう。

   

砲弾撃ち込まれ杉の痕跡。近くに戊辰戦争の際の前哨戦がこの辺りで行われ、その際に被弾したとのことが書かれた案内板があったので、それと知ることができた。

 並木道の散策の中で見つけた花の中に、純白のシモツケがあり、これには感動した。光の少ない緑の世界の中にふわっと浮かび上がる白い輝きは、森の妖精の魂がそこに光っている感じがして、これが本物のシモツケではないかと思った。シモツケといえばピンクや赤を主体とした細い糸の密集したあでやかな美しさの花を思い浮かべるのだが、この杉並木のそれは純白なのである。写真に収めようとしたが、持参のカメラではその本当の姿を捉えるのはとても無理なので、一人この感動を胸に収めておこうと思った。7時過ぎ車に戻る。

   

純白のシモツケの花。このカメラではどうしてもクリアな画像を写し取ることができず残念である。シモツケの花は拡大鏡で見ることがとても大切である。それは吸い込まれるような花の世界に入ることになるからである。

 朝食を済ませ、一休みして出発したのは8時半ごろだった。途中コインランドリーを探しながら道の駅:うつのみやろまんちっくむらに向かう。このひらがな表示の長い名称の道の駅は、真に書きにくくありがたくない表示である。何故「宇都宮ロマンチック村」と表示しないのかと思うことしきりである。命名を弄り回して却ってその価値を下げるということは良くあることで、この命名はその代表例ではないかと思ったりした。途中一軒のコインランドリーも見つけられなくて、その長ったらしい名の道の駅に着いたのだが、広大な敷地にあるいろいろなテーマ別のエリアのことは、何だかさっぱり分からなくて、興味関心は分散し、空中分解してしまいそうな感じがした。駐車場も第4駐車場などという案内があるから、何処にどう車を停めていいのか判らないほどなのである。

取り敢えず物産館のエリアに入って見たが、ちょうどさつきの開花時期を迎えており、構内には様々な色合いのさつきたちがその妍を競うかの如く数多く並べられていた。建物の中に入ると開店したばかりの店内には、所狭しと地産の新鮮野菜類や加工品の数々が溢れるように並んでいた。自分たちの今日も目当ては、ここで昼食に宇都宮の名物の餃子を食べるということだったのだが、それらしき店は見当たらず、何だかここは宇都宮ではないのではないかと思われてきた。とても一日ゆっくり過ごせる雰囲気ではない。そう思った。

ということで、午後にここに戻ることにして、取り敢えずどこか近くの未だ行ったことのない場所へ行って見ることにした。取り敢えずここから一番近い道の駅にでも行って見ることにして、道の駅:どまんなかたぬまが候補に挙がったのだが、調べるとここから50kmも離れていてちょっと遠すぎる。で、次はと取り上げたのが道の駅:下野だった。確かこの近郊には国分寺跡などもあったはずだなどと勝手な思い込みを働かせたりして、とにかくそこへ行って見ることにした。幾らなんでもそこに行くまでにはコインランドリーの一つくらいは見つかるだろうとも思った。

それからあとは、今朝来た道を戻ってR119を宇都宮方面へ向かう。この道は途中から片側2車線のバイパスとなっていて、まるで高速道並みだ。これではコインランドリーなど見つけても停まることも出来ない。しかし、道の駅:下野に行くまでには何とかなるだろうと走っていたのだが、この道はそのままR4のバイパスに入ってしまい。それから道の駅に着くまでの間は、半高速道のような状態だったのである。下野が近づくにつれて筑波山が見え出し、それが次第に近くなり出した。こうなると、何もわざわざ引き返して道の駅:うつのみやろまんちっくむらに泊ることもなかろうという気持ちが俄然膨らむことになる。それで決めた。今日の内に帰宅することにしよう。そう決心してしまうと、相棒のぎっくり腰のためにもそれが一番なのに、なぜ明日の帰宅にこだわっていたのかが不思議な気がした。

道の駅:下野に行って見ると、何と今日は休館日だという。それに天気が良すぎてやたらに暑い。もう国分寺跡などはどうでもよい。どうせ相棒は歩けないのである。小山からR50に入って筑西に至る途中には今度こそコインランドリーは見つかるに違いない。ということで、道の駅を出発してR4から別れてR50に入り、結城市内でコインランドリーを見つけて洗濯に取り掛かったのは10時半過ぎだった。洗濯ものの運搬は自分の役割、コインランドリーの機械類の扱い管理は相棒の役割。それから洗濯が終了するまでの間は車の中で旅の記録の整理などをして過ごす。洗濯が終了して出発となったのは12時50分だった。相棒はこれで家に帰ってからの洗濯作業が楽になると安堵していた。

途中腹が空いてきたので、蕎麦でも食べようと走りながら道脇を探したのだが、そのような店は見当たらない。あった!と喜べば看板が残っているだけで店は廃業だったりして、この業界の生き残りの厳しさを感じさせられたりした。目立つのはラーメンの看板ばかりなのだが、この暑さでは食欲を満たせるのはやはり蕎麦である。走っている内に下妻の道の駅構内で手打ちそばを食べさせてくれる店があるのを思い出した。少し時間がかかるかも知れないけど、あそこなら探す心配もない。ということで、その後30分ほどで下妻の道の駅に到着。平日なので日中この時間帯の道は空いていた。

思えば今回の旅の出発日の昼食も道の駅:東山道伊王野で食べたのが蕎麦だった。帰りも蕎麦が最後の昼食となった。蕎麦で始まって蕎麦で締めくくりとなった旅の食事なのだった。そのようなどうでもいいことを考えながら食べた下妻の手打ちそばは、伊王野の蕎麦に引けをとらぬほど美味かった。万歳!である。いい気分で満腹となって、あとは勝手知ったるR294を安全運転で我が家に到着するだけである。

我が家到着14時35分。短かったけど、その割にはゆっくり出来た旅が終わる。

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‘16年 東北春短か旅 レポート <第17回>

2016-06-03 02:34:44 | くるま旅くらしの話

【今日(6/1)の予定】 

  道の駅:日光 → (R119・他)→ 宇都宮市内コインランドリー →(R119・R121)→ 道の駅:うつのみやろまんちっくむら(泊)

【昨日(5/31)のレポート】  天気:曇り時々晴れ

<行程>

道の駅:R290とちお →(R290・R252・R17)→ 湯沢IC →(関越道)→ 沼田IC →(R120)→ 道の駅:白沢 →(R120)→ 日光・龍頭の滝 →(R120・R119)→ 道の駅:日光(泊)

<レポート>

 いろいろ考えて、帰宅日は6月2日にしようと決めた。この二日間は、普段なかなか訪ねる機会のない群馬県や栃木県の、未だじっくり足を留めて見ていない場所に寄りながら帰ることにしようと考えていたのだが、これが朝の出来事で不意になってしまい、変更を余儀なくされたのだった。

 今朝は二つの大きな出来事が発生した。先ず最初に困惑したのは、ブログの発信が出来なくなってしまったこと。出来ないわけでもないのだが、実態としては文字は送れても写真が送れなくなってしまったこと。というのは、過日相棒がガラ携をスマホに変更した時に、今までは旅の間だけ使うことにしていたドコモのクロッシ―の契約を、通信費用の安くなるスマホと一本化した契約に切り替えたのだが、その内容というのが、あるレベルを超えて使用した場合、通信速度が遅くなるというものだった。5月の16日から旅先でのネットを使い出して、14日目で残量の警告があったのだが、とうとう今朝になってその残量がなくなってしまい、通信速度の遅いスピードの世界に入ってしまったのである。初めて体験する世界だった。まあ、スピードは遅くなっても、なんとかなるのだろうと思っていたのだが、これが見当違いだった。文字の方は問題なしに送れるのだが、写真の方がダメなのである。写真を張り付けるのを前提に文章を書いているので、送れないとなると書き改めなければならない。この切り替えはそう簡単ではない。よって、発信するのは止めることにして、帰宅してから改めて追加報告することにした。残りは3日分だけなのに、毎日ご覧頂いている方には申し訳ない。お許しあれ。

 それからもう一つ事件が起こった。出発間際になって、相棒が車内を整理中にぎっくり腰を発症したのである。これはもう相棒のクセのようなものなのだが、重症ではないとしても、ア!イタタ~と来れば、旅先ではもはや健常者ではない存在となってしまう。予定している散策や探訪の類の歩きを伴った行動は困難になり、無理をすれば更に悪化の悪循環に入り込んでしまう。不注意と日頃の鍛錬不足に少々腹が立つのだが、大病を患ってハンディ大と考えている相棒を責めるわけにもゆかない。ま、今回はゆっくりの旅でやって来たのだが、先日のあがりこ大王の探訪や羽黒山参拝、それに昨日のヒメサユリの小路散策などかなりハードな歩行もあったので、その疲れが影響しているのかもしれない。とにかく起こってしまったことは仕方がないのである。

 ということで、当初の予定を大幅に変更しすることにした。ベストは今日中に高速道を走って帰宅することなのかもしれないけど、相棒に訊くと承服し難い顔をしている。もう少し様子を見たいらしい。それで、沼田までは当初の予定通りとして、その先沼田城跡の散策は止めることにし、伊香保温泉に入るのも止めにして、沼田からは少し坂道が続くけど、新緑の世界を楽しみながら尾瀬の片品村を通って、日光白根山脇の金精峠を越え、奥日光からの坂を下って、日光市の今市地区に新しく出来た道の駅:日光に泊ることにした。これならば距離も短く、車の中で過ごすにはさほど負担も多くはなかろうという判断だった。とにかく、旅先での健康や体調不安には困惑するのである。

 前置きというのか、言い訳け的な説明が長くなったが、そのようなわけで大きな変更を余儀なくされたのだった。今朝の栃尾の道の駅では、どういうわけなのか早朝の5時過ぎから車の外が賑やかになり出し、何事かと窓の外を見ると、何と消防自動車が2台も来ており、その他にいつの間にか20台を超える車が並んでいて驚いた。以前どこかの道の駅に泊った時、真夜中に同じように数台の消防自動車が警告灯を点滅させながらやって来て驚いたことがあったのを思い出した。あの時は何やら爆発物のようなものが道の駅のどこかに仕掛けられたとの情報があったとか聞いたけど、ガセネタだったらしく何事もなかった。今回は何なのだろうと思って見ていたら、どうやら消防団の人たちの消火訓練のようだった。消防団はアマチュアのメンバーで構成されているので、今日は消防署のプロの人たちの指導を受けての訓練を行うことらしい。もしかしたら、この地域では毎朝このような形で訓練を行っているのかもしれないなと思った。この頃は消火のみならず防災に係わるニーズ大の出来事が多発しているので、それに備えてのこのような取り組みは大切だなとも思った。号令のもとに隊列を整え、きびきびとした動作を続けている方たちの姿を見ていると、早朝から騒々しくて迷惑などという気持は無くなっていた。

   

栃尾の道の駅では、早朝から地元の消防団の人たちが熱心に消火訓練に励んでいた。

 そのような出来事もあって、今朝は落ち着かなかったのだが、9時少し前の出発となった。関越道に出るまでは、先ずは栃尾からR290を行って入広瀬からR252を小出の方に向かい、R17を南下して三国峠方面へ向かうことになる。栃尾からはしばらく上り坂が続き、やがて今度は下りの道となって入広瀬の集落が近づいてくる。この辺りは中越大地震で大被害を被った山古志村にも近く、当時は被災された方も多かったに違いない。何度かこの辺りを通っているけど、いつも残雪のある時期だったので、緑の平和な世界の中に落ち着いている集落の姿を見るのは初めてのことだった。そのあと、小出町に向かう道は高低差があまりが無くて走り易かった。この道を走るのは初めてだったが、思ったより多くの人家が道脇に続いており、いいところなのだなと思った。小出に出てR17に出て少し行くと、道の駅:ゆのたにという案内板があったので、そこに寄って一休みすることにした。相棒の調子は歩けないほどではなく、無理が利かないというレベルのようである。

 その後はしばらくR17を道なりに走り続ける。R17は幹線道路の一つであり、交通量も多いのだが、さすがにこの辺りになると赤信号で溜まる車も少なかった。当初の予定では塩沢石打ICから高速に入る予定だったが、道も空いているし急ぐ必要もないので、途中の道の駅:南魚沼に寄ったりしながら、ちんたらと進み、湯沢ICから関越道に入る。湯沢から県境を越えて群馬県の月夜野町に至るまでのR17はとんだ山道なので、このエリアは高速道を利用した方が老人にはず~っと楽である。湯沢ICを入ると間もなく関越トンネルに入る。長い。11km超もあり、日本の高速道のトンネルの中では現在2位の長さだとか。トンネルを走ると、事故のことを思ったりしてしまい、いざとなったらこのような長いトンネルの場合はどんな対応行動をとれば良いのか、などと複雑な気持ちになったりした。ようやくトンネルを抜け出て群馬県側に入り、谷川岳PAで小休止。ここには美味い水がある。一杯ご馳走になった。その後は直ぐに沼田ICが近づいて、ここで一般道のR120に入る。

沼田市は大河ドラマ真田丸にあやかって町を挙げて賑やかなようだ。何やら幟のようなものも見られた。今日は城跡のあった公園の方には寄らないことにして、元白沢村にある道の駅:白沢に寄り昼食休憩とする。白沢の道の駅は沼田城のあった場所につながる川岸段丘の上にあり、眼下に渓谷を見下ろす景観の素晴らしい場所にあり、温泉もあってその名も望郷の湯と名付けられている。この地出身の人ならずとも、この景色を眺めていると故郷のことを思い出すに違いない。そんな雰囲気のある場所だ。何度もお世話になっており、今日は昼食だけの時間だけど、産直販売所を覗いて高原野菜を買わせて頂いた。先ほどの南魚沼の道の駅で買ったコシヒカリのおにぎりは、やはり名に恥じず実に美味だった。しばらく休憩した後、片品村方面へ向かって出発する。

尾瀬沼への探訪は、片品村からが利便なようだ。自分はまだ一度も尾瀬を訪れたことが無く、この調子だと生涯写真で見るだけで終わりそうである。ま、他の湿原などはかなり多く訪ねているので、行けなくてもそれほど悔いは残らないと思っている。その尾瀬への道を通過して、厳しくなって来た山道をゆっくりと登り続ける。我がSUN号も14年を経過しており、老体となりつつある。無理をさせないように走らせるのは自分の使命だと思っている。金精峠は標高が恐らく2000m以上あるのではないか。道が比較的良い状態なので、さほど登りの辛さを感じないで済むのがありがたい。丸沼、菅沼を過ぎて間もなく峠下のトンネルを抜ける。ここから一気に視界が開けて、目の前に日光男体山がその荒々しい山容を現出していた。その奥に聳える女峰山もくっきりと見えて、大きな景観が広がっていた。下界の天気は分からないけど、今日のこの辺りの山の天気は上機嫌そのものだった。

曲がりの連続する道を慎重にハンドルを操作しながら長い坂を下る。間もなく湯元に出て、更に下って行くと中禅寺湖が近づき、竜頭の滝の上方の駐車場があった。ここで少し休むことにして。相棒は車に留まり、自分一人が滝を見に下方の駐車場の所まで階段を歩いて往復することにした。相棒は朝よりも痛みが増したようで、とても坂道を歩いて往復できる状態ではない。気の毒だけど仕方がない。竜頭の滝を見るのはしばらくぶりのことだ。日光といえば華厳の滝が有名だけど、この竜頭の滝もなかなかのもので、名瀑の一つに数えてもいいように思う。ごつごつした岩場の上を水が揉み合うようにして、白い飛沫を撒きながら音立てて奔る様は、如何にも竜が雄叫びをあげているのをイメージさせて豪快である。階段参道の山側には山ツツジの鮮やかな赤が、葉の緑に映えて一段と美しかった。相棒には悪いけど、一人たっぷり山と渓谷の風情を楽しんだ時間だった。

   

頭の滝。この滝は下方では流れが二つに分かれているけど、少し上のこの辺りは岩肌を急流がせめぎ合うように奔って流れている。

その後更に下って行くと、中禅寺湖の湖畔傍近くに、突然派手な赤い色の花を咲かせた植物の一団が現れた。驚いてスピードを下げて見て見ると、何と九輪草の群落だった。車を近くの駐車場に止め、カメラを持ち出して撮影することにした。これには相棒も参加して、しばらくの間彼女たちの姿をカメラに収めるのに専心した。かなり前からこの小さな湿地に自生しているのであろうか。いま、その花を最高の状態で咲かせている九輪草の群落は、まるで全草が歓喜の叫び声を上げているように見えた。今までいろいろな場所で九輪草を見て来ているけど、これほど見事に咲き揃っているのを見たことが無い。これも相棒が今朝、わざわざぎっくり腰になってくれたおかげなのかと、複雑に感謝した。禍福は糾える縄のごとしとは、このような出来事にも当てはまるのだろうか。とにかく嬉しくもありがたい鑑賞の時間だった。

    

     小さな湿地には見事な九輪草の群落が広がっていた。

       

九輪草の一株。九輪草の命名の由来は、花が九段に重なって咲くところから来ているようだ。咲き終わった跡を見てみるとそれが良く判る。 

今日の宿は、日光市内に新しく出来た道の駅:日光に泊ることにしている。日光市は平成の合併でわが国有数の広大な面積を有する市となっており、道の駅のある場所はどこなのかと思って調べたら、旧今市市内だった。途中の東照宮エリアで、相棒がカステラを手に入れたいというので、それを買ってから坂を下り、杉並木の脇の道をしばらく走ると道の駅のある市街地に入り、直ぐに道の駅に到着する。新しい道の駅は「日光ニコニコ本陣」という愛称で呼ばれており、日光観光の基地の一つとして機能させる目的もあって作られたとか。構内にはこの地出身なのか、作曲家の船村徹氏の記念館なども設けられていた。何と言っても一番いいなと思ったのは、日光街道の杉並木から700mほどの所にあり、明日の朝は、あこがれの散歩が叶うということである。大いに期待を膨らませた。

そのあとは、今夜はこのところ過食の嫌いがあるので、ご飯を炊くのは止め、栃尾で買ったあぶらあげを肴に一杯だけやって夕食とし、あとはTV休憩の後寝るだけとすることにした。あぶらあげの調理は自分の担当で、大きなあぶらあげの腹を裂いて、そこにネギと味噌を練ったものを塗り込み、それをフライパンの弱火でほど良く焼き回して、それで出来上がりである。真に簡単な一品だけど、他のあぶらあげでは決してできない美味な一品でもある。要はあぶらあげの中に何を入れて焼くのかだけである。この次は何を入れようかという楽しみがある。チーズをレタスに包んで焼くという参考メニューなどもあり、これも美味そうだ。栃尾のあぶらあげは、口に中に入れて、しばらく噛んだ後に美味さの本性がにじみ出てくるのが良い。それが酒の味を引き立たせ、口の中のうま味を感じさせる壁に感動を沁み込ませてくれるのである。と、そのようなことを為しながら、残り少なくなった旅の夜を迎える。相棒は静かである。明日までに復活すればいいのだが。

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‘16年 東北春短か旅 レポート <第16回>

2016-06-02 05:40:17 | くるま旅くらしの話

*レポート再開します。昨日(6/1)帰着しました。

 

【今日(5/31)の予定】 

  道の駅:R290とちお →(R290・R252・R17)→ 塩沢石打IC →(関越道)→ 沼田IC →(R17他)→ 沼田城跡探訪 →(R17・K)→ 伊香保♨ →(K・R17)→ 道の駅:おのこ(泊)

【昨日(5/30)のレポート】  天気:晴後曇り

<行程>

道の駅:関川 →(R113・R7)→ 道の駅:加治川 →(R7・R8)→ 道の駅:新潟ふるさと村 →(R8・R289他)→ 道の駅:漢学の里しただ →(R289他)→ 旧下田村・ヒメサユリの小路散策 →(R289・R290)→ 道の駅:R290とちお(泊)

<レポート>

 今日からは途中の道を気の向くままにのんびりとぶらつき、温泉などに入りながら3~4日かけての帰途に就くつもりでいる。今日はその第一日目。予定としては先ずまだ一度も参拝したことのない弥彦神社を目指すことにして出発したのだが、途中道の駅:加治川に寄った時に見つけた案内パンフを見たら、頂上に行くまでにはロープウエイなどを利用しなければならず、何だか面倒くさくなり、行くのは止めて守門岳近くにある道の駅:漢学の里しただという所に向かうことにした。

 この難しげな名前の道の駅は、この下田村という山村出身に、漢学者で大漢和辞典を著した諸橋轍次博士がおり、そこからこの道の駅を命名したのだと思う。駅の隣には諸橋博士の記念館が建てられており、その業績を示す様々な資料等が展示されている。前回訪ねた時は月曜日の休館日だったのだが、今回も同じ月曜日なので、見ることが叶わないのは知っている。それでも行く気になったのは、この道の駅のレストランで提供される野菜を中心とした料理が美味しいのと、もう一つ近くにヒメサユリの群生する場所があり、上手く行けばそれを見ることが出来るかもしれないからなのである。

 ということで、道の駅:加治川を出た後は、新発田市から新潟市を通り抜けるまで続いている高速道並みのバイパスを順調に走って、バイパスの終わった直ぐ近くにある道の駅:新潟ふるさと村に寄り、しばらく休憩する。この道の駅は新潟県や新潟市が相当力を入れているらしく、県や市の物産品などが数多く並べられていた。残り少ない旅なので、米どころ・酒どころで銘酒の多い越後の酒の中から、佐渡の銘酒天領盃の純米酒を1本買うことにした。これは昨日村上市の郊外を走っていた時に鮭の干物を軒先に何本もぶら下げた店を見つけ、そこで手に入れた鮭の上品な燻製を味わうために不可欠と考えたからである。帰宅してからその相乗効果をじっくりと味わいたいと思っている。その他に若干買い物などをして、車に戻り出発する。途中で給油を済ませ、三条市郊外からはR290などに入って下田村(現在は合併して三条市となっている)を目指す。12時半少し前に到着する。

 さっそくレストランに入る。休店日かと心配したが大丈夫だった。前回の味が忘れられず、今回も旬の野菜と山菜の天ぷらをオーダーした。ご飯の上に山盛りの天ぷらが載せられており、そのままでは食べられないので、2個ほどを丼の蓋を皿代わりにして取り除けて載せ、天丼のたれをかけ回して食べるのだが、天ぷらだけではなく米の方も美味くて、もう最高なのだ。ここの地産地消のロゴに「野菜には力がある」とあるのだが、まさにその通りだ、と思った。売店で「あまっぱ」と呼ばれているウルイに良く似た山菜と山の蕗、それにアスパラなどを買い入れた。レストランで相棒が得た情報によれば、ヒメサユリはもう最盛期を過ぎ、終わりに近づいているとのこと。明日までがヒメサユリ祭り期間となっており、山に入るには200円也の管理整備費を納める必要があることを知った。

 以前来た時にもヒメサユリの小路と名づけられているその場所へ行ってみたのだが、もうすっかり開花時期が終わっていて、花も百合の本体も見出せぬままに後にしたのだったが、今回は迷った末に、せっかくやって来たのだから、たとえ1本の花しか見出せなくてもいいから、とにかく行って見ることに決める。ヒメサユリの咲いている場所の大駐車場は、道の駅からは10分足らずの距離で、直ぐに到着する。案内の人に訊いたら、咲いているのは10本の内2本くらいだとのこと。それならば写真に撮れるものもあるに違いないと思った。車で途中まで無料で運んでくれるサービス付きの散策で、車の終点から急坂を10分ほど上った辺りからヒメサユリがあるとのこと。この10分はきつかったが、ヒメサユリの咲いている場所に着くと、息が上がりかけてふうふう言っていた相棒も俄然息を吹き返して元気になり、盛んにカメラのシャッターを切り始めた。

 最初に咲いている場所から更に上方に続いている小路を15分ほど上がると少し視界が開けた場所があり、そこからこの辺りの主峰の守門岳が残雪の筋を描いているのが遠望できた。その場所までの小路の両側には、断続的だけどヒメサユリの群落が続いており、確かにこれはヒメサユリの小路に相応しいなと思った。もう10日も前だったら、活き活きとしたヒメサユリの群れの鑑賞を堪能できたのになあと思った。それでも未だ元気のいい花も残っており、それらの多くをカメラに収めることが出来て満足だった。再び車の終点まで戻って、乗せて頂き出発点の大駐車場に戻る。諦めかけていた願いが叶って、望外の喜びだった。

      

ヒメサユリの群落。松などの樹木の下の草むらの中に、終わりかけてはいたけど、かなりの数の花が点在していた。

   

 可憐な花を一つ咲かせたこの株は、実生で7年ほどは経っているのではないか。初めて咲かせる花なのか、とても美しいと思った。

    

 一つだけの花も美しいが、このような大株もあり、楚々たる華やかさもまた美しい。この優しさの溢れる花は、百合の中では最高ではないかと思った。

   

ヒメサユリの小路はずっと樹木に囲まれていたが、ここまで来ると視界が開けた場所があって、そこからは山頂から残雪の白い筋を何本も走らせた守門岳が望見できた。

 その後は、今日の宿を予定している道の駅;290とちおに向かう。途中で前回に知った栃尾の名物油揚げを製造している工場のある店により、油揚げを手に入れる。栃尾の油揚げは守谷市のスーパーなどでも売られているけど、高過ぎて買う気にはなれない。この地ではリーズナブルな価格なので安心して買うことができる。因みに価格は今出来たばかりのものが1枚150円也。これ一枚で、今夜の酒の肴は十分だ。

 油揚げを買った後は少し寄り道をして、栃尾の市街地の中を訪ね、スーパーに入って油揚げの中に詰める具の類を手に入れる。今回はネギとチーズのみ。ネギを刻み、チーズと一緒に油揚げの中に入れてフライパンで熱するだけで一品が完成するのである。今夕食は、昼の天ぶら丼で満腹になっているので、これを肴に一杯やるだけで十分である。

 というわけで、道の駅に着いてからは、疲れたから少し休むと言って直ぐに寝床にもぐりこんだ相棒のことは忘れて、自分一人が先ず先ほど買った山菜の「あまっぱ」を茹で、その後3台のカメラに収められた写真をパソコンやポータブルハードディスクに取り入れ、一休みもせずに引き続きブログの原稿書きに取り掛かる。あっという間に18時となった。その内に相棒も起き出して夕食。ほんの少しTVなどを見て、栃尾の夜を迎えることとなる。明日は高速道も使って、群馬県まで戻ることにしている

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