山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

これからの我がくるま旅について

2014-12-30 04:07:45 | くるま旅くらしの話

 秋の西日本方面への旅から戻って、あっという間に時間が過ぎて、間もなく新しい年を迎えようとしています。予定より帰宅を早めて9日に戻ったのは、真に適切なタイミングでした。今年の冬はその出だしにやや異常さを感じます。いきなり大雪の地方が続出しているようで、寒さも半端ではなさそうです。この後少しずつ暖かい方へと舵を切ってくれればいいがと願っています。

旅から戻って70数回の誕生日を迎え、先日は老についての愚痴的な述懐を並べましたが、今回はその続編として、これからの我がくるま旅についての思いを書いて見たいと思います。というのも、同世代の中にはくるま旅のあり方について、迷いを感じておられる方もあるかも知れず、もしかして何かお役に立つことがあればなどと思っているからです。

 老というのは絶対的なもので、その時間的な長さには個々の差があるとしても、残りをある程度は予想しながら時間を使って行く必要があるようです。終りが何時、突然やって来るかも知れず、「その内、……」などという甘えは通じなくなって来ています。それで、この先どんなくるま旅を心掛ければいいのか、あれこれ思いを巡らしてみました。

 私はくるま旅というのは「人生の宝物探し」だと思っています。そして、その本質は「出会いと発見のもたらす感動と癒し」にあり、その一連の味わいの中に人は「生きる力」を獲得できるのだと考えています。人生の残された時間を「活き活きと生きる」ために、くるま旅は私にとって必要不可欠のものとなっています。

 さて、その必要不可欠のくるま旅に、これからどのように取り組み、楽しんで行けばいいのか。勿論そのような大上段に振りかぶった考えなど言い触(ふ)らさなくても、今まで通り適当に楽しみながらやってゆけばいいという考えもあります。でも、この頃は宝物探しの楽しみは、より目的的な方が面白いように考え出しました。残された時間を念頭に置くと、偶然に任せるよりも目的を持って意識的に探す方が宝物に巡り会えるチャンスが多くなると思うのです。

 そこで大事なのが目標と方法ということになるわけですが、20年近くも30万キロ以上のくるま旅をしていると、名所・旧跡などの観光地めぐりなどには、興味関心が次第に色あせて来て、何かもっと別の種類の感動を味わいたいと思うようになって来ました。贅沢といえば贅沢なのですが、心というのは貪欲なくせに飽きっぽくて、同じことの繰り返しでは同じ感動を味わうことが出来ないように働くもののようです。この我ままな心の働きの壁をどう乗り越えればいいのか、あれこれ思いを巡らしてみました。そこで気づいたのは、「同じことを繰り返さない」という当たり前のことでした。つまりは視点を変える、つまり目の置き所を変えることにすれば、同じ場所を何度訪ねても、新しい発見がある筈だということなのです。

 現在の私のくるま旅の表向きのメイン課題は、大げさに言えば「日本の歴史・文化の確認と復習」であり、そのターゲットとして文化財の「重要伝統的建造物群保存地区」「重要文化的景観」その他神社仏閣・史跡等などを取り上げて訪ねることにしています。そして、本当の目的はそれらの場所を訪ねることを通して様々な宝物を見出すことなのです。宝物とは、出会いであり発見であり、「人・動物・景色・現象等など五感を揺るがす全ての出来事」を指しています。家の中に閉じこもって居てはなかなか手に入れることが出来ないものなのです。

 元に戻って、さて、これから具体的にどのような目標と方法を持ってくるま旅を楽しんで行くかということですが、目標としては、今まで通り「重伝建」と「重文景」や歴史の遺産類の探訪中心でいいと思っています。何度訪ねても、その視点さえ変えれば新しい発見が期待できる筈なので、大事なのはその視点をどう用意するかということです。これは、これから考えるのが楽しみです。人々の暮らしを見る切り口ならば、無限といっていいほどたくさんあるように思えるからです。

 重伝建等の文化財などの他に、もう一つの切り口を用意したいとも思っています。20年ほど前から気づいているのですが、人の「気づきの原則」といったものがあります。それは、「人間、スピードを上げれば上げるほどものが見えなくなり、落とせば落とすほど良く見えるようになる」という、当たり前のことなのです。これは20数年前に、通勤時間の中に歩きの時間を取り入れ、その中に植物の観察を組み込んだ時に気づいたことで、観察というのは歩きながらでは大ざっぱ過ぎて殆ど気づけないものだということ。立ち止まって虫眼鏡で覗いて見てその正体に近づけるということなのです。

考えてみれば、自分たちのくるま旅は殆どが駆け足ばかりで、本当に現地を見知ったと言えるのかという反省があります。毎年の夏に道東の別海町に滞在するのを楽しみにしていましたが、別海町がどんな町だったのかを少し理解できるようになったのは、1カ月ほど滞在して、しばらく図書館に通って町の歴史の資料などに触れたことからでした。その時に北海道の開拓の実情やアイヌの人たちとの関係などについても少し理解を深めることが出来ました。そのようなことですから、有名観光地を超スピードで通過する旅には、ただ点的な訪問の記憶しか残らず、どうしても味わいの浅いものとなってしまいます。それはそれでいいのであって、とやかく言うべきことではありませんが、くるま旅の場合は、もう少し駐停車の時間を伸ばして、足を使って宝探しをしてみてもいいように思います。

今年からは、その実践の方法として、例えば泊った道の駅のある市町村の役所に出向き、その地の自慢の場所やものなどを教えて頂いて、そこを訪ねることもしてみたいと思っています。そのためには、同じ道の駅に2泊することを組み込むという必要もあるかなと思っています。このようにすれば、少なくともただ通過するよりはよりきめ細かにその地区のあり様を知ることが出来るし、更には出会いの機会も増えることになると思います。

今のところ、これからの我がくるま旅をこのように考えていますが、最後に重要なのは健康をどのように維持するかということです。キーワードだけを並べれば、「快食」「快眠」「快便」「医食同源」「頭使体動」というようなことになりましょうか。これらは並べただけでは何の効力もなく、実践行動あるのみです。油断なく敢行して行く考えです。

今年までのくるま旅の反省を踏まえて、この先の残された時間を大事に使ってゆきたいと考えています。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

老と旅について

2014-12-16 06:24:21 | くるま旅くらしの話

 今日12月15日、ついに七十路の半ばに足を踏み込みました。それで、少し老と旅との関係などについて自分の考えを述べてみたいと思います。

  私がくるま旅くらしを始めたのは、50代の半ばあたりからで、それを本格化したのは還暦が過ぎて、現役をリタイアしてからです。特別の仕事に就いていない限り、旅を楽しめるのは現役をリタイアしてからのことかと思います。旅を楽しむために必要な基本的条件として、①心身の健康と安全②資金③自由な時間の三つがあると考えますが、現役時代では③の自由な時間というのが手に入りにくいのです。リタイアすれば、手に入ったその自由な時間にしばらくの間は翻弄されて、何をどうすればいいのかに迷うのが普通の人ではないかと思います。私自身もそのような自由という時間の扱いに悩んだ一時があったのを思い起こします。

 さて、その自由な時間が存分に手に入り、年金をベースとする資金も何とか用意できて、あとは心身の健康と安全ということになります。それなりに留意しながらくるま旅くらしを楽しみ、人生の宝探しを続けて来たのですが、古希を過ぎる頃の年代となると、精神の力だけでは対処できない、己の身体の衰えを実感させられることになります。それは病などではなく、もっと遥かに大きな力を持ったもの、すなわち「老」というものなのだと気づかされるのです。

 私が「老」というものを実感させられたのは古希を過ぎて2年ほど経った頃でした。それまでは自分が老いているというのを本気で実感したことはありませんでした。体力は元々人並み以上にあると思っていましたし、毎日1万3千歩以上の歩きをこの20年続けて来ており、その他医食同源を重視して、菜食への切り替えを心掛け、快食・快眠・快便を実践することに努めてきました。おかげ様で半世紀にもなる糖尿病君との付き合いも、薬の力を借りないで円満に対処出来るようになり、今では定期的なチエックだけで済んでいる状況となっています。だから、本来ならば「老」などというものが入り込んでくる余地などない筈なのです。

 しかし、「老」の力は絶大なもののようです。71歳になった頃から、少し太りすぎのレベルにある体重を落とそうと考え、2年ほどかけて4kgほどの減量に成功したのですが、その結果メタボに関するデータはかなり改善され、ほぼ正常値の範囲に収まるようになりました。それはそれで良かったのですが、ある時何処かの温泉に入っている時でしたが、ふと振り返って鏡に映っている尻に皺がよっているのに気づき、それが自分のものであると知り、まさかの大変なショックでした。これは減量の所為なのかと思いましたが、今更元に戻すことなど叶う筈がなく、これからを生きるための身体としては改善された結果なのだから、素直に認めなければならないのだと思ったのです。同時に、これは「老」というものの為せる仕業だと気づいたのです。

 その後も「老」を実感する現象は幾つも現れて、そのことに慣れるのに苦労しました。今まで何でもなかったことが普通にできないことに気づいた時は、誰でもそのショックから少し落ち込むことになるのではないかと思うのですが、私の場合も軽い鬱状態がしばらくやってきたようでした。妙に怒りっぽくなったりしたのもその表れの一つかもしれません。思っていることが思う通りに出来ず、その我慢の限界を超えた時に、心の病がとりつくようになるのだと思いますが、私の場合は、その原因となるものが「老」という絶対的な力を持ったものなのだということを認めることによって、煩わしい思いから少しく心が解放された様に思います。

 「老」を実感し始めた頃から時間が経って、今は安定した心の状態にあると思います。思うに「老」というのは、どうやらなだらかな坂道を下るようにやって来るものではなく、時々小さなガレ場や崖のような場所を飛び降りたりするような形で道を下るもののような気がします。それは人によって皆違うのだと思いますが、自分の場合は、古希を過ぎて大きな崖を飛び下りさせられ、幸いに大した怪我もせず済んだのは幸いでした。今も引き続いて坂を下っている状態なのだと思いますが、この次にはどんな崖や試練が用意されているのか、知る由もありません。

 昨年、夏の北海道への旅が不意になり、今年2年ぶりに2カ月弱の旅をしたのですが、この一年間のブランクでしみじみと感じたことがあります。それは旅で知り合った知人の何人かが、今は車での旅を辞められたという話でした。それらの方々とは数年前までは共にパークゴルフに興じ、釣りを楽しみ、夜のキャンプ場で小さな火を囲みながら、人生の来し方の思い出などを話し合って旅ならではの交流を深めたのですが、それがもう出来なくなったという話なのです。その原因の最大のものは「老」なのです。身体を壊し、病に取りつかれ、車を手放し、身体を守ることに専念するようなくらしを余儀なくされているのでした。

 「生・病・老・死」は人生で不可避の出来事なのだとは、お釈迦様のことばの中にあると聞いていますが、人は普段それらのことについて、頭の中で観念的に考えることは出来ても、現実の暮らしの中では厳しい実体験の場面に出くわすことがない限りは、油断して何時までも「生」が同じように安泰に続くものと錯覚してしまうようです。しかし、生きている時間が長くなって来て、「老」を実感するようになると、人生はまさに有限であり、「生」の脆さを実感するようになるようです。

このような「老」を自覚するようになって、くるま旅くらしの意義はより一層重要なものとなりました。この世に生きている証を失わないために、私にとってくるま旅くらしは必要不可欠のものだと思っています。この世に生きている証とは何なのか。それは人により様々なものがあると思いますが、私の場合は、出会いと発見という旅の本質(=人生の宝もの)を求めることを通して、自分自身の生きる喜びを確認することなのです。そこには感動があり、癒しも含まれています。今のこの世の中にある様々の未知のものたち、それは人であり、動物であり、景色であり、遺産であり、空気であり水であるというように、自分の眼に触れ耳に聞こえる五感を揺るがす全ての事象がその対象です。この宝物を探し、発見を喜び、更にそれを記録して保管するという、一連の作業が旅の前楽・現楽・後楽となるということなのです。この楽しみは、宝物を保管しておくことによって、身体がいうことを利かなくなって旅に出掛けることが出来なくなっても、この世からおさらばする直前まで旅を楽しむことが出来るのです。

少し話が大げさになり出したようです。「老」を自覚し始めた今思っているのは、「今、出来ること・やらねばならないことを先送りしない」ということです。「そのうちに」「あとで」の発想は、結果を何も残さず、喜びも感動も生まれません。多少拙速で不十分であっても、思いを行動に移すことが「老」を生きる上では最重要なことであるのを確信しています。これは旅だけではなく、あらゆる物事への対応に共通して言えることでもあると思っています。

私の設定した人生時計は80歳までで、生れてから1年に18分ずつ針の進む時計は、80歳の時に零時となり、振り出しに戻るのですが、その時まであと1時間半(現時刻22時30分)となりました。零時以降は余禄の人生だと考え、上手く行けば8年くらいは欲しいななどと思い、旅車のナンバーを「88-55」としましたが、これは少々思い上がりのように思っています。七十路の半ばまで下りて来て、さてこの先どんな旅をするか。この冬の間に、後楽を楽しみながらじっくりと考えたいと思っています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

‘14年 北陸・関西・中四国への旅 レポート <第32回(最終回)>

2014-12-10 03:43:09 | くるま旅くらしの話

【昨日(12月9日:火)のレポート】 天気:快晴 旅の総走行距離:4,132km

<行程>

道の駅:川根温泉 →(県道64・R1他)→ 藤枝岡部IC →(新東名道・東名道・首都高速道・常磐道)→ 自宅

<レポート>

 何ごとにも始めがあれば終りがある。今回の旅も今日が最終日となった。川根温泉の一夜は、旅の締めくくりの夜としては最高の眠りを頂いて、満足するものだった。騒音とは無関係の、ただ寒さだけが厳しく車を取り囲んで、空の星たちを冴えさせていた。大井川の切り裂いた谷間の片隅には、朝の光がなかなか届かなくて、8時を過ぎてからようやく今日もいい天気となることが判った。川根一帯は茶どころ静岡の中でも特に高品質のお茶の産地として有名である。見上げるような山々の麓にはきれいに手入れされた茶畑が、まるで芸術作品のように広がっている。いつ来ても、何度来ても心癒される風景である。

 朝食を終え、TVの朝ドラを見終えて少し早目の出発をする。今日は只管(ひたすら)高速道を走って我が家に帰りつくだけの行程である。川根からは昨日と違う県道経由で島田市内に出て、国道1号線で藤枝市郊外の新東名道藤枝岡部ICから高速道へ。途中幾つかのSAやPAに寄りながら御殿場で東名道に入り、その後は海老名SAで最後の休憩をして、首都高、常磐道と走って谷和原ICで降り、我が家に着いたのは14時7分だった。嫁御と孫が迎えてくれたが、孫君は1カ月ぶりのジジババを怪しんで、笑顔を見せてくれるまでに少し時間がかかった。その後は荷物の積み下ろしと整理で夕方まで大忙しとなったのは、いつもと同じ。

<旅を終えて>

未だ旅から戻ったばかりで、整理が付いていないので、もうしばらく経ってからあらためて今回の旅で拾った感慨などについて書いて見たいと思っている。取り敢えずの今回の旅の所感である。

今回の旅では、出発の前に珍しく計画的な取り組みをして、1カ月余りの行程を日毎に筋を描いて辿ることにした。というのも、今回の旅では①重伝建(国指定・重要伝統的建造物群保存地区)②重文景(国指定・重要文化的景観)③史跡・城郭及び城址 の三つを重点的に探訪しようと目論んだこともあって、気ままな思いつきの行程では一定期間に探訪の成果を挙げるのが難しくなるからである。効率を前提とする旅は好きではないけど、目的がこのような場合は仕方がない。ということで、結構細かい日程を組んだのだった。結果的には、天候に脅されたりして多少の変更を余儀なくされたりしたが、おおむね予定していた場所の探訪が叶ったように思う。

①重伝建(国指定・重要伝統的建造物群保存地区)の探訪先としては、

 ・富山県高岡市山町筋(商家町)

 ・富山県高岡市金屋町(鋳物師町)

 ・石川県加賀市加賀橋立(船主集落)

 ・石川県加賀市加賀東谷(山村集落)

 ・三重県亀山市関宿(宿場町)

 ・京都市与謝野町加悦(製織町)

 ・奈良県五条市五條新町(商家町)

 ・奈良県宇陀市松山(商家町)

 ・和歌山県湯浅町湯浅(醸造町)

 ・鳥取県倉吉市打吹玉川(商家町)

 ・岡山県津山市城東(商家町)

 ・岡山県高梁市吹屋(鉱山町)

 ・広島県呉市豊町御手洗(港町)

 ・広島県竹原市竹原地区(製塩町)

 ・香川県丸亀市塩飽本島町笠島(港町)

 ・愛媛県西予市宇和町卯之町(在郷町)

 ・愛媛県内子町八日市護国(製蠟町)

以上の17地区の探訪となった。その大半は初めて訪れる場所だったが、中には何度も訪ねている場所も幾つかある。又近くを通りながら通過した場所も何箇所かある。これらの地区には残っている建物や町並みを通してその昔の人々の暮らしを彷彿と思い起こさせるものがある。それは日本という国の原点につながるものであるように思う。それが何なのかについては、まだはっきりしないままだ。いずれその辺の思いについて触れてみたい。

②重文景(国指定・重要文化的景観)としては、

 ・遊子水荷浦の段畑(愛媛県宇和島市)

の一カ所だけだった。この文化財は、その多くが車の通行が困難な場所にあり、又天候などの関係ではせっかくの景観が見られないというケースもあって、今回はこの他に何箇所かを予定していたのだが、見送る結果となった。ただ一カ所訪ねた遊子水荷浦の段畑には度肝を抜かれる感じがした。いずれどのように肝を抜かれたのか書いて見たいと思っている。

③史跡・城郭及び城址としては、

・春日山城跡(新潟県上越市)

・丸岡城天守閣(福井県坂井市)

・一乗谷遺跡(福井県福井市)

・竹田城址(遠望のみ)(兵庫県朝来市)

・赤穂城址(兵庫県赤穂市)

・丸亀城(香川県丸亀市)

・大洲城址(愛媛県大洲市)

・宇和島城(愛媛県宇和島市)

・備中松山城(岡山県高梁市)

・津山城址(岡山県津山市)

以上の10カ所の探訪となった。この内竹田城はいろいろ物議を醸しているので、近づくのを止め、遠望で済ませることにした。城に関する探訪は、相棒の体力との関係もあり要注意である。城の探訪を意識的に始めたのは今回が初めてであり、これは相棒の発案によるものなのだが、自分的には城が建てられ時代を経てそれが取り壊されていった時までの、城というものの持っていた意味というか、意義という様なことについて考えてみたいと思っている。城の探訪は緒に就いたばかりであり、これからどのような発見があるのか大いに楽しみである。

 

今回の旅では、量的には以上のような成果があったのだが、質的な面ではまだまとめるレベルには至っていない。これからあれこれ反芻しながら旅で拾ったこれらの宝物を楽しみたいと思っている。また、今回の旅では嬉しい出会いが三つあった。旅の間に自分の旅車にわざわざ訪ねて来て下さった方が3組もあったのである。岡山市在住のKさんご夫妻、同じく岡山市在住のKuさん、そして宇陀市にお住まいのHさんご夫妻。突然なこともあって、充分にお話が出来なかったのが残念であり、又申しわけないことだった。でも嬉しさだけは無上のものだった。皆様には大いにくるま旅を楽しんで、これからのこころ豊かな人生をつくって行って頂きたいと、心から願っている。ありがとうございました。

これで、今年のくるま旅は終りとなり、来年の春までは冬眠となる。しばらくブログの方も細くなりますが、時々は反芻の結果を報告させて頂こうと考えています。では。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

‘14年 北陸・関西・中四国への旅 レポート <第31回>

2014-12-09 02:00:03 | くるま旅くらしの話

【今日(12/9)の予定】 

  道の駅:川根温泉 →(県道64・R1他)→ 藤枝岡部IC →(新東名道・東名道・首都高速道・常磐道)→ 自宅

【昨日(12月8日:月)のレポート】 天気:快晴

<行程>

刈谷ハイウエイオアシス →(伊勢湾岸道・東名道・新東名道)→ 島田金谷IC →(R473他)→ 道の駅:川根温泉(静岡県島田市)(泊)

<レポート>

 刈谷の一夜は惨々だった。入れ替わり立ち替わりと隣に入って来る様々なトラックの騒音にかき回されて、安眠どころか眠ることさえもママならぬ時間が続いた。昼寝をしたのも眠れぬ時間を延ばすことに追い打ちをかけたようで、どうにか眠った感じがしたのは、明け方近くになった頃だった。7時頃に起き出して、温度計を見たら7℃を少し上回るレベルで、寒さは相変わらず厳しいままである。ストーブに点火して室内を暖めながら朝食の準備をする。

 外に出て見ると、自分たちが停まっていたのは、どうやら大型車がメインの駐車スペースのようだったらしく、周囲の車の殆どはトラックだった。これじゃあ、文句の言いようもない。昨日着いた時は、余りにも多くの車で混雑していたので、周囲を確認することもなくそのままここに泊ってしまった。これは高速道のSAやPAであろうとも要注意の警告だなと思った。

 さて、この旅もいよいよ最終日を迎えようとしている。今日は昨日届くはずだった島田市の山奥にある川根温泉に行き、旅の最後の温泉を楽しみ、ゆっくり安眠の時を過ごして、明日は帰宅する予定である。この間は高速道を利用することになるので、何よりも安全第一である。

 9時過ぎに刈谷のハイウエイオアシスを出発する。真っ青な快晴の空が広がっていた。車の流れは順調で、心配していた風も全く無風の状態で、SUN号には絶好のドライブコンディションだった。伊勢湾岸道から東名道に入り、しばらく走って静岡県に入り、三ケ日JCTから新東名道に入る。新東名道は思ったよりも空いていて、殆ど道路を一人占めの状態の走りが続いた。間もなく浜松SAに到着。特に何を求めるわけでもないのだが、このSAは新東名道が開通間もない頃に立ち寄ったことがあり、その時は超混雑状態で、ようやく車を停めたものの、中がどうなっているのかも判らぬままに立ち去った記憶があり、今日はその再確認といったところである。静かになっていたSAは、特に印象に残るようなものも見当たらず、あの時の混雑はやはり気まぐれ人間の物珍しさだけだったのかと思った。

 その後も新東名道を走って、途中のPAには全部寄って状況を確認した後、島田金谷ICにて一般道に出て、R478を大井川に沿って走って、川根温泉に向かう。川根温泉には道の駅もあって、日帰り温泉が併設されており、お湯の質も良く自分たちの気に入りの場所の一つでもある。今日は旅の最後の夜の打ち上げ(?)を、温泉に浸かって汗を流した後、盛大にビールで乾杯したいと思っている。急な崖の上を走るR478はカーブも多く、あまり通りたくない道なのだが、高速道の出口から川向うの県道に行くまでに時間がかかるので、今回はICを出てそのまま素直にこの道に入ることにした。

 12時少し過ぎ、道の駅に到着する。この道の駅のすぐ脇を大井川鉄道が通っており、温泉のすぐ脇を大井川が流れていて、そこに架かる鉄橋をSLが走るのを見るカメラスポットの一つとなっている。着いて間もなく、ラッキーなことにそのSLが間もなくやって来るという。相棒は、たちまちカメラを抱えて飛び出して行った。自分もカメラを取り出し、動画を撮ることにして適当な場所を探した。5分ほど経つと汽笛を鳴り響かせ、黒い煙を吐き出しながら5両ほどの客車を引っ張った蒸気機関車がやってきた。50数年前の高校時代には毎日それに乗って通学していたものだが、今となっては遠い遠い過去の懐かしい思い出として残っているだけである。あの頃から早や半世紀が経ってしまっているのを、少し複雑な気持ちで思い起こしながら、カメラを向け続けたのだった。

 川根温泉の道の駅は思ったよりも混み合っていて、駐車場はほぼ満杯になっていた。観光バスなども停まっていたので、旅の人気スポットの一つなのかもしれない。日中はこの混雑はしばらく解消しないだろうから、夕刻までは記録の整理などして過ごすことにして、楽しみはその後に残すことにした。何時もだと外を歩き回るのだが、とにかく寒さは風と一緒に何処へ行っても付いて回るので、車の中でじっとしていた方が老人には相応しい過ごし方となってしまうのは仕方がない。TVを見ながら時間が過ぎるのを待った。

 16時近くになって温泉に入りに行く。車は相変わらずの満車状態で、温泉も混んでいるのではないかと思いながら中に入ったのだが、実際はそれほどでもなかった。どうやら、この施設は中に休憩所のようなものが幾つもあり、そこで休んでは再入浴したり、或いは併設されている温泉プールもあって、それらを楽しむ人たちが夕方まで過ごされるために、駐車場は車が減らないようだった。温泉には幾種類かの露天ぶろなどがあって、それぞれどの浴槽も天然かけ流しの湯となっている。それらを一つずつ楽しみながら旅の疲れを癒した。

 湯冷めしないように急ぎ足で車に戻り、それからは早めの夕食にする。ビールで乾杯して、最後の晩餐を済ます。身体が冷えてはいけないので、暖房不足の室内ではビールもたくさんは飲めない。早めに切り上げ、少しばかりTVを見て、直ぐに寝床の中へ。明日はあまり遅くならないうちに帰宅するつもりでいる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

‘14年 北陸・関西・中四国への旅 レポート <第30回>

2014-12-08 01:00:12 | くるま旅くらしの話

【今日(12/8)の予定】 

刈谷ハイウエイオアシス →(伊勢湾岸道・東名道・新東名道)→ 島田金谷IC →(R473他)→ 道の駅:川根温泉(静岡県島田市)(泊)

【昨日(12月7日:日)のレポート】 天気:晴れ

<行程>

道の駅:飯高駅 →(R166他)→ 勢和多気IC →(伊勢道)→ 安濃SA →(伊勢道・伊勢湾岸道)→ 刈谷ハイウエイオアシス(愛知県刈谷市) (泊)

<レポート>

 昨夜はとんでもない強風の吹き荒れた一夜だった。温泉から出て、車に戻るときは、満月と思われる冴えた月が昏れかけた空にくっきりと輝いていたのだが、そのあとから風が強くなり出し、20時を過ぎる頃は、TVを見ていてもヒューと風のたてる音が車の中まで届いてきていた。9時過ぎに寝床に入った後は。風の音は益々強くなり出し、強風ではなく狂風ともいうべき暴れようだった。時々車が揺さぶられ、とても安眠どころではなかった。風の音に弱い相棒にとっては、生きた心地がしないような一夜だったに違いない。この強い風は明け方近くまで吹いて、ようやく止んだようだった。車の中の温度は6℃を少し上回るレベルだった。起き出してガスストーブを点ける。

 今日は移動日である。高速道を通って、何処まで行って泊るのかはっきり決めていないのだが、目的としては静岡県の島田市にある川根茶の産地にある道の駅:川根温泉まで行って、そこの湯に浸りたいと思っている。しかし、このところ天気の動きが激しく変わったりしているので、それらを見極めたうえで臨機応変に対処したいと思っている。

 飯高の道の駅は、四方を山に取り囲まれていて、日が昇っても光が届くのが遅くて、青空が覗いていてもなかなか温かさが膨らんでは来なかった。9時過ぎになって、ようやく日射しが届き始めた。駅の売店を覗いて、キャベツを一個買った後出発する。高速道は伊勢道の勢和多岐ICから入ることにして、入る前に近くにあった給油所で燃料を満タンにする。その後は高速道へ。伊勢道の安濃SAにてごみ処理をする。その後は伊勢道から東名阪、伊勢湾岸道と走って、刈谷ハイウエイオアシスで昼食休憩。伊勢湾岸道に入ってからは、風の強さが心配だったが、思ったよりも天気は安定していて、何の問題もなかった。SUN号は風に弱く、それはこの車の最大の弱点となっている。この分だと目的の川根温泉まで届きそうな気がしてきた。

 ところが、刈谷ハイウエイオアシスでの休憩が長引きすぎて、出発しようかという時には既に14時半を過ぎる頃になっていた。相棒がなかなか戻ってこないので、少し寝床に横になっていたら、眠気が襲ってきて、まもなく戻った相棒も疲れが溜まっているらしい様子。それじゃあ、今日はここに泊まることにしようかということになり、それからしばらく午睡をとることにして、寝床の中に。16時過ぎに目覚めて、夜を迎える準備をして、何ともあっけない一日の幕切れとなった。TVの大河ドラマを見ながら夕食を済ませ、その後、ほんの少しTVを見ているうちに眠くなって寝床に入ったのだが、トラックの騒音が襲ってきて、安眠というわけにはゆかなかった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

‘14年 北陸・関西・中四国への旅 レポート <第29回>

2014-12-07 07:34:24 | くるま旅くらしの話

【今日(12/7)の予定】 

道の駅:飯高駅 → 帰途につく予定なれど、あと二日ぐらい寄り道したい

【昨日(12月6日:土)のレポート】 天気:曇り時々時雨れ雪  走行207km

<行程>

道の駅:明恵ふるさと館 →(県道)→ 湯浅町重伝建地区 →(R42他) →有田IC →(阪和道)→ 和歌山IC →(R24・R169)道の駅:大淀iセンター →(R169・R370)→ 道の駅:宇陀路大宇陀 →(R370・R166)→ 道の駅:飯高駅(三重県松阪市)(泊) 

<レポート>

 昨夜も大荒れの天気だったようだ。もうこの荒天も収まるのではないかと思ったのだが、朝になっても昨日と同じように、晴れたかと思ったら直ぐに雪がパラついて、気温はとにかく寒い、の一言だった。明恵の道の駅の、「明恵」というのを「みょうえ」と読める人は地元以外では少ないのではないか。そして、地元の人でも明恵という道の駅の名の源でもある明恵上人がどんな人だったのかを知る人は少ないように思う。自分も昨年この道の駅を訪れて、それまでは呼び名も知らず「めいけい」と思っていたし、上人のことなどは全く知らなかった。しかし、ここを訪れた後明恵上人のことを知り、それなりに調べて、例えば白洲正子さんの著書の「明恵上人」などを読んだりして、この地が栂ノ尾の名刹高山寺(鳥獣戯画の残るお寺)での木上座禅の逸話の残る明恵上人の生誕の地であることを知ったのだった。この話を続けるとこのブログから脱線してしまうので止めるけど、旅というのは、時折りとんでもない課題を残し、新たな発展に導いてくれるのである。

 この道の駅はミカンの名産地の中にあり、周りはミカン畑とミカン山に取り囲まれている。今回ここに泊った目的は、その有田ミカンを土産にゲットするためなのである。とにかく美味しいし、格別に安価なのである。9時の店の開店を待って何箱かのミカンを買い入れた。味わって喜んで貰いたい人への土産と、自分たちのためにである。来た甲斐があったというものである。ミカンはやはり、ここが日本一の産地であると、改めてそう思った。

 ミカンを手に入れて満足した後は、昨日温泉に入った湯浅町の重伝建エリアに向かって出発する。目的は重伝建のエリアの探訪ではなく、今日は金山寺味噌を手に入れるためである。湯浅町はわが国の醤油の発祥の地であり、その醤油の元になっているのが味噌なのである。これらの関係についてここで知ったかぶりをして述べるつもりはないが、興味のある方は是非湯浅町を訪ねられたらいいと思う。熊野古道唯一の宿場町でもあった所だし、彼の紀伊国屋文左衛門も、確かこの辺りの出身者ではなかったかと思う。金山寺味噌は、何といってもここが本家なのだと、昨年知った次第で、今日はその本家の味わいを求めて訪ねた次第だった。時雨のみぞれのパラつく中、目当ての味噌屋さんに行き、金山寺味噌を手に入れる。

   

湯浅町の重伝建エリアは、醸造町としての昔が残っており、味噌屋、醤油屋、麹屋などが多く見られる。

 その後は、そうそう、今日の予定はもう完全に帰途コースに入っており、とにかく雪に脅され続けており、ゆっくり旅を楽しむ余裕が無くなっているので、先ずは昨日の道を引返し、大宇陀の道の駅にもう一度寄って、そこから高見山の下のトンネルを潜って三重県は松坂市の一部となった飯高町の道の:飯高駅まで行って、そこに泊ることにしている。味噌屋さんを出て車に戻り、直ぐに出発する。R42から有田ICで阪和道に入り、高速道を走って、和歌山ICで下りて、R24に入って奈良方面へ。途中紀の川市の辺りから京奈和道に入り、無料の高速道を五條まで走って、走り過ぎて戻ったりしながら大淀町の道の駅:大淀センターに寄って昼食休憩。その後は吉野川の側道をしばらく走って途中から左の山側の道に入り、大宇陀の道の駅を通り越して、葛の館という店に行き買い物。 

慌ただしい時間の間も時雨空は間断なく雨と雪をパラつかせていた。大宇陀の道の駅からR166に入り、飯高の道の駅を目指す。この道は途中高見山というこの辺りでは少し高い山を通るので、もしかしたらこの時雨の気候では雪が邪魔するのではないかと心配した。高度が高くなるにつれて、予想通り周辺は雪景色となり出した。幸いに道路の方は路面に少し雪の解け残ったのがあったけど、走行に支障はなかった。ブルブルの寒さの中をしばらく走って、高見トンネルを潜ると三重県側に出て、そこからは松阪市となる。もうここまで来れば雪から解放されて、坂を下るにつれて道路は乾燥し始めていた。もう安心。その後もひたすら坂を下って、16時少し過ぎに道の駅:飯高駅に到着する。

   

R166高見トンネルを付近の雪景色。トンネル辺りの標高が何メートルなのかはわからないけど、この辺りはもう完全に霧氷の景色で、冬となっていた。

今日はここがゴール。この道の駅には温泉がある。しかも高齢者には優しく、65歳以上は430円で入浴OKなのである。一息入れた後、早速温泉に。1時間ほど入浴を楽しむ。何にしろ外はめちゃくちゃ寒いのである。じっくりとお湯につからないと、風邪など引きかねない。自分は1時間ほどで車に戻ったのだが、相棒はそれから20分ほど経ってから戻ってきた。戻る前に電話がかかってきたことを告げると、直ぐに電話していたようだが、どうやら高校卒業時クラスの同窓仲間からだったらしく、今忘年会の最中からだという。もう世の中はそのような時節になっているらしい。一気に浮かれた相棒の話では、その忘年会の場に89歳になられた恩師も参加されておられるとか。その先生には以前お会いしたことがあり、そのお元気さに改めて敬意を表するとともに、そのような先生を持っている相棒の仲間の皆さんを羨ましく思った。

その後は二人で忘年会のまねごとを一瞬だけして食事を済ませ、いつもと同じような長い夜を迎える。明日からは高速道を走って、本格的な帰途につくことになる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

‘14年 北陸・関西・中四国への旅 レポート <第28回>

2014-12-06 02:15:52 | くるま旅くらしの話

【今日(12/6)の予定】 

  道の駅:明恵ふるさと館 → どうするか未定(天気の状況によって決める)

【昨日(12月5日:金)のレポート】 天気:曇り(雪混ざりの荒天) 走行128km

<行程>

道の駅:宇陀路大宇陀 →(R370・R24)→ 五條市・重伝建新町エリア探訪 →(R24・無料高速道・R24)→ 道の駅:紀ノ川万葉里 →(R24)→ 阪和道・和歌山IC →(阪和道)→ 有田・金屋IC →(R24他)→ 国民宿舎湯浅城(♨入浴)→(R24他)→ 道の駅:明恵ふるさと館(泊)

<レポート>

 昨日に引き続き寒い朝を迎える。昨夜は雨が降ったりやんだりのようだったが、もしかしたら少しの時間帯は雪が降っていたのかもしれない。屋根に雪はなかったけれど、朝になって入って来る車の屋根には雪が載っているものがあり、やはり降ったのだなと思った。7時を過ぎると青空が覗いて、こりゃあ、今日の天気は大丈夫だぞと思ったのだが、少し過ぎると何だか時雨模様の邪悪な雲の空になって、又風が強まって来た。今日もどうやら不安定な荒天の一日となる予感がした。

 今日の予定としては、先ず五條市にある新町という重伝建指定の町並みを見て、その後は吉野川から名を変えた紀の川沿いの道を下って和歌山県に入り、かつらぎ町の道の駅に寄って本場の柿を手に入れ、その後は和歌山市郊外から高速道に入って有田ICで下りて、湯浅町にある温泉博士掲載の国民宿舎湯浅城の温泉に入り、道の駅:明恵ふるさと館に行って泊るという、それだけのことを考えている。

 9時過ぎに、3晩もお世話になった大宇陀の道の駅を出発したのだが、少し走ると雪が舞い散って来て、何やら穏やかならぬ天候となって来た。何しろSUN号のタイヤは全く冬への対策をしておらず、雪が積もったり路面が凍ったりしたらお手上げなのである。雪が積もっても、今頃の時期の日中ならばさほど心配ないと思うけど、夜間に凍結などという状況となるとこれは穏やかではない。早くもその最悪の状況を想定して、相棒は惑乱気味の世界に足を踏み入れそうだった。吉野川に沿った道を五條市方面へ走ったのだが、川の両端の山々は雪交じりの時雨雲に取りつかれており、何とも心穏やかならぬ様相を呈していた。そのまま走り続けて五條市の街中に。

 五條市の重伝建エリア探訪は実は二回目なのである。昨年もチャレンジしたのだけど、その時は結局駐車場が見つからずに探訪を断念して付近をウロウロしただけでおさらばしたのだった。今回はその返り討ちにならないようにとネットで予め駐車場などを調べておき、その通りの道を辿って行った。ところがその駐車場への道は、とてもSUN号が入れるような道ではなく、一発でギブアップとなった。その後も周辺を少し探してみが、全くそれらしいものは見当たらず、もうここの探訪はしないことにして、近くにあった柿の葉寿司の店に入り、今夜の宴のメイン食を手に入れることにした。それでも、その店で駐車場のことを相棒が聞いてみたら、何とすぐ傍に観光バスも利用しているような所があるとのこと。

 それで、諦めと怒りを取り消して、その駐車場に車を入れ、念願の重伝建の新町エリアの探訪に向かえることになった。寒さは依然変わらず、五條の町を取り囲む山並みも中腹から山頂近くまでが雪混じりの時雨に翻弄されており、何だか不気味な様相を呈していた。雨も時々降っており、傘をさしての散策となった。五條市の新町エリアを訪ねるのは初めてである。今日は下見のつもりで、それから1時間ほど古い町並みの中心街を歩き回った。一番古い栗山本家は、造られたのが1600年の初め頃というから、これは先日の竹原の家よりも古い建造となる。それが、現役のままで使われているのを凄いというより、不思議に思った。

     

重伝建五條市新町地区の景観。この家は辻家で、法界の大御所で政治家でもあったの木村篤太郎の生家だとのこと。

   

新町地区で最も古い建物である栗山家の堂々たる景観。1600年の初めころに立てられたというから驚く。奥の方どこまでが家屋の本体なのかが判らないほどの広さに思えた。

 車に戻り和歌山方面に向けて出発する。まだ全区間が開通していない無料の京奈和高速道があり、それを利用して、かつらぎ町の道の駅:紀ノ川万葉の里に向かう。高速道は山の麓のかなり高さの所を走っており、ここからは時雨空からの雪が、紀川の両端に連なる山々の頂き近くまでうっすらと化粧をさせているのが良く見えて、この按配では明日はどうなるのかと、ますます不安はいや増した。間もなく道の駅に着いて、ここで昼食休憩とする。この辺りは全国有数の柿の産地であり、日本一といっても過言ではないのかもしれない。日本一というのは、同一アイテムでも結構たくさんあるので、断言は難しいけど、この道の駅に並ぶ柿の数々を見れば、首肯できるのではないか。相棒は、柿が食べたいのだと、何個か仕入れていた。

 昼食の後は走りながら腹ごなしをして、和歌山方面に向かい、和歌山から高速道に入って、温泉博士の恩恵に浴して湯浅町の温泉に入ることにしている。順調に走って行ったのだが、肝心の和歌山ICの入口を間違えて、しばらく右往左往して道に迷う。時々ナビが発狂するのと同じように、その利用者も発狂するらしい。今日は厄日のようだった。それでもどうにか入口を見つけて高速道に。少し走って有田金屋ICで下りて湯浅町に入り、直ぐに国民宿舎湯浅城へ。城は目立ったけど、何だかしっくりしない感じがした、でも無料で温泉に入れて頂いたのだから、コメントは無用である。

 外はとにかく滅法寒いのである。お昼の時のニュースでは、四国の徳島県三好市では積雪が30センチもあり、多数の車が立ち往生をしているとのことだった。こんなことが明日、この辺りでも起きないとは限らないので、とにかく状況を見極め、その対応に慎重を期すことにした。入浴の後は今日の宿を予定している道の駅:明恵(みょうえ)ふるさと館へ。16時少し前に着いたのだが、再び邪悪な雲が襲って来て、俄かに暗くなった空から霰のようなものが落ちて来た。早々に寝る準備をして早めの夕食を済ませ、寝床の中へ。明日から再び寒気が襲来するとの予報だが、どう対処するかが課題である。ただ、じっと布団の中で、寒い朝を待つのみ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

‘14年 北陸・関西・中四国への旅 レポート <第27回>

2014-12-05 05:52:50 | くるま旅くらしの話

【今日(12/5)の予定】 

  道の駅:宇陀路大宇陀 → 和歌山方面へ移動・行く先未定

【昨日(12月4日:木)のレポート】   天気:雨  走行80km

<行程>

の駅:宇陀路大宇陀 →(R370・R166・165・169・R24他)→ 平城京跡探訪 →(R24・169・166・370)→ 道の駅:宇陀路大宇陀(泊) 

<レポート>

 朝起きた時も夜来の雨は止まず、却って勢いを増してきた感じがした。本来の予定では、重文景の奥明日香(飛鳥)のエリアを訪ねるつもりだったが、この雨だと山奥の方は寒いし、道路も結構厳しい状況にあるのかもしれないと思い、行くのを止めることにした。となると、さてどこへ行けばいいのか少し迷った。古都奈良には何度訪ねても良い場所が幾つもあり、何処を選ぶかに苦労するのである。何しろ雨なので、傘をさしての探訪となるため、いろいろ迷った次第。その結果、まだ遷都1300年の記念事業として出来上がった大極殿を見ていないので、先ずはそこへ行って見ることにした。平城京跡は、そこがまだ只の原っぱだった時に訪ねており、そのスケールの大きさは承知しているのだけど、立体感のある景色を見たことはなかった。大極殿と朱雀門が出来上がった時に、傍を通ったのだけど、道が狭く駐車場を見つけることが出来なかったので、外から一回りしただけで諦めたのだった。今回は、あの時の大騒動のムードも下火になっていて、じっくり探訪が叶うのではないかと思った。

 9時半ごろ大宇陀の道の駅を出発して、昨日の大神神社脇の道を何処までも直進すると、やがて奈良市に入り奈良公園や県庁、興福寺、春日大社などの参道をかすめながら、市の中心地を少し外れて西大寺方面へ出る。入り組んだ細い道を抜けてようやく大極殿の見える道路に来たのだが、駐車場が見つからない。仕方ないので、右回りに平城京跡地をぐるっと回って探すことにした。どの道も車で混んでいて、なかなか先に進めない。それに、何処をどう探しても平城京跡探訪のためと思われる駐車場は見つからないのである。その途中で、道を間違え、とんだ方向へ行ってしまったりして、イライラのムードは高まるばかりだった。もう見るのは諦めて興福寺の方に移動しようかと、先ほど来た道を通っていると、右側に駐車場なのかただの空地なのか判らないような場所があって、そこにトイレがあったので、もしかしたらこれは平城京跡探訪用の駐車場ではないかと車を停めて確認した。どうやらそれは当っていたらしく、案内板なども掲示されていた。

 近くに警備担当らしき方がおられたので、ここは駐車場なのかと確認したら、そうだということだったので、先ずは安堵した。しかし、駐車場の案内板も何もないのはおかしいのではないかと話したら、その方のおっしゃるには、当局からの指示では、ここはユネスコ指定の世界文化遺産なので、観光目的の来訪者は困るというか、歓迎する考えはないのだとか。やたらに観光客が来ると、大切な文化財を損傷したりされる事件が起こることになるので、ここも駐車場ではなく、単なる車置き場なのだとか。

 当局の人というのは誰のことを指すのか判らないけど、文化庁の文化財守銭奴見たいな病に冒された役人が、そのような戯言というか、発想でこの復元施設を造り守っているのだなと理解した。文化財というのは、保存するためにだけあるのか?今の時代を生きている人にどうかかわるべきものと考えているのか?二十億円以上も税金をつぎ込んで造った施設を、このクルマ社会から守るために駐車場ではなく、車置き場などと言いごまかして、来訪者をネグ(=ネグレクト)る様な姿勢は、本当にそれで良いのか、他の役所の観光局辺りとしっかり話し合ってほしいものだと思った。(このように言わないと腹の虫が治まらない気分なのである)

 その後、雨の中傘を差しながら広大な宮殿跡を歩き回った。この敷地の中にいくつもの役所や関係者の働く場所が設けられて、往時の都の政庁の賑わいというか、国の中心地のあり様を思い浮かべたりした。その後、大極殿にも上がり、中にある天皇の玉座を見て姿勢を正したり、大極殿から朱雀門を俯瞰して、往古の日本という国がどんなものだったのかを思ったりした。一回りの探訪が住んで、復元に係った資料等を見学した後、車に戻る。

   

平城京、大極殿の復元建物の景観。大極とは対極と同義で北極星を意味するとか。従ってその反対方向にある南極が朱雀門となるわけである。

   

大極殿の中に造られた高御座(たかみくら)=天皇の玉座の様子。それなりの威厳のある復元だなと思った。

   

 大極殿から南対極の朱雀門を俯瞰する。朱雀門まではおよそ1km近い距離があるのではないか。実際に歩いてはいないので、違うかもしれないけど、現在の国会議事堂の敷地など問題にならないほどの広さのように思った。

 少し休憩をしている内に14時近くになり、今日はもうこれまでとして、道の駅に戻ることにする。雨は依然として降り続いていて、止む気配を全く見せていなかった。途中、買い物などをして、道の駅に着いたのは16時近くになっていた。

 今日は近くにお住まいのHさんご夫妻がわざわざここに訪ね来て下さる予定となっており、それが何よりの楽しみである。今回の旅では、馬骨を訪ねてくれる三度目の方々である。18を過ぎる頃には雨は小降りからどうやら降り飽きたらしく、ようやく止む気配となっていた。夕食を済ませ、しばらくTVなどを見ている内に19時となった。殆どその時刻を見計らったように、ドアをノックする音がして、Hさんご夫妻がお出で下さった。初対面の挨拶を交わす。Hさんは間もなく定年を迎えられるとのこと。それを契機に旅車を購入されて車旅を楽しみたいとお考えで、先ずはどのような旅車を購入すべきかあれこれ迷い悩まれておられるとのこと。そのことについてのアドバイスを受けたいとのお話だったが、これは大変に難しい答えを求められる話で、一概に断言的な話をすることはできないと思った。真に頼りない話だけど、とにかくご本人が直感的に気にいった車が一番で、それから先はご本人が車に合わせた旅をするか、或いは車を自分が気にいったように馴らして使うかのどちらかだと思う、というようないい加減な答えしか話せなかった。

 旅車の選定に係る話の後は、まあ、あれこれいろいろと車旅に係る話が膨らんで、22時近くまであっという間に時間が過ぎてしまった。例によって相棒のかく乱戦法的な話も混ざって、Hさんご夫妻はかなり困惑されたのではないかと思った。折角お越し頂いたのに、Hさんご夫妻にはあまり参考になるような話が出来なかったように思い申し訳ない気持で一杯だったが、我々でこぼこコンビの旅の有り様をご覧になって、くるま旅の実際の一端でもお感じ頂けたら幸いだなと思った。Hさんご夫妻には、是非とも夢を実現されて、人生の宝物をたくさん探し当てて欲しいなと思った。わざわざありがとうございました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

‘14年 北陸・関西・中四国への旅 レポート <第26回>

2014-12-04 03:05:40 | くるま旅くらしの話

【今日(12/4)の予定】 

道の駅:宇陀路大宇陀 → 日中の予定は未定なれど、宿泊は宇陀路大宇陀にもう一泊する

【昨日(12月3日:水)のレポート】  天気:曇り  走行44km

<行程>

道の駅:宇陀路大宇陀 →(R370・R166・R169)→ 大神社(山野辺の道散策)→(R169)→ 山本そうめん →(R169他)→ 桜井市内コインランドリー →(R166・R370)→ 道の駅:宇陀路大宇陀(泊) 

<レポート>

 昨夜はとにかく寒かった。夜中に起き出してブログを書きながら、明日はかならず寝る前に湯たんぽを仕掛けなければいかんなと思った。夜中は比較的静かだったが、時々雨音らしきものも聞こえて来て、明日は晴れ間もあるという予想なのに、外はどうなっているのだろうとの不安があった。朝起き出して外を見ると、何と道路の向こうの家の屋根が白く染まっているではないか。車の外に出て見るとSUN号の屋根にもうっすらと雪が積もっていた。こんな日が何日か続いたら帰るに帰れない状況に落ち込んでしまう。しかしまあ、それはないだろうと、予定通りもう少しこの周辺をうろつくことにした。

   

朝起きて外を見たら、大宇陀の町並みの屋根にはうっすらと雪が積もっていた。近くの山々も積もった雪が煙っていて、寒そうだった。一気に冬がやってきたようだ。

 今日は、予定の第一としては、溜まっている洗濯ものをコインランドリーに行って処理すること。それから雨が降らないようなら、大神(おおみわ)神社に参拝した後、山の辺の道を散策すること。この二つだけで、あとは何もない。9時過ぎに空が少し明るくなりだしたので、先ずは近くの重伝建エリアを散策することにして出掛ける。大宇陀の重伝建の松山地区(商家町)は、何度も来訪しており、凡その町並みの様子は知っているのだけど、それでも飽きることはなく、行くたびに往時をしのんで何かを感じている。今日は雪が降って、屋根などがうっすら白くなっているので、又別の趣を感じられるかもしれないと思った。1時間ほど歩いた後、車に戻る。

   

重伝建大宇陀松山地区の景観。ここには吉野葛、薬種、酒に関わる産業が栄えていた。特に吉野葛は有名で、今でも製造販売をしている家が残っている。

 先ずはコインランドリーが先に見つかったらそれを優先させることにして、桜井市の方に向かう。天気の方はどうもすっきりしない。寒さも変わらない状態だった。結局コインランドリーが見つからないままに大神神社の駐車場まで来てしまった。それで、神社参拝と山の辺の道散策を先にすることにした。先ずは、大神神社参拝へ。何時ものように玉砂利を踏みしめながらの境内参道の歩きは、心の落ち着くひと時である。もう紅葉も終わりに近づいており、一枝の山モミジの葉が境内を鮮やかに彩っていた。日本でも古い方の神社の神様に、明日大手術を控えている親友の無事と成功を心から祈り、お力添えをお願いした。

   

桜井市にある三輪山をご神体とする大神社。山そのものをご神体とすることから、この神社には本殿がなく、拝殿しかないとのこと。写真は、拝殿の様子。

 その後は、神社の境内脇から山の辺の道に入る。この道はこの頃は奈良を訪れる度に歩くのを楽しみにしている。素朴な一本道で、大昔の時代につながっている感じがするのである。以前は、大神神社から天理市の石上神宮まで、片道は電車やバスを利用することにして、来るたびに交互に歩いたのだが、この頃は相棒の体力の衰えが目立って来て、その半分くらいしか歩かなくなっている。今日は、ミカンの無人販売所のある辺りまでと考えての出発だった。ところが1kmほど歩き、玄賓庵の少し手前まで行く頃に、相棒がギブアップの兆候を見せ始めたので、無理はしないことにして引き返すことにした。少し残念だけど、無理をして問題を起こしたのでは旅が不意になってしまう。

   

大神神社から少し先の方の山の辺の道を行く。細道だが、この道の両側には千三百年も前の昔からの歴史の名残が至る所に残っている。

   

三輪山麓の小高い展望所からの大和平野の景観。中央二つの小高い山は大和三山の畝傍山と耳成山か。それとも香具山か。位置関係が良く判らない。

 車に戻った後、相棒は汗をぬぐって着替えを済ませて、ここへ来た時に何時も親しくさせて戴いている方のお店に出かけて行った。自分は記録の整理などをする。1時間ほどで相棒が戻って来て、その後は昼食に、にゅう麺を食べることにして、少し先にある山本そうめんへ。我が家のそうめんは何時もここで仕入れている。今回はにゅう麺を食べるだけで、そうめんの仕入れは来春に持ち越すことにした。温かいにゅう麺を身体にとりいれて、ぐっと寒さが和らいだような気がした。

 次は洗濯の番である。ネットでコインランドリーを調べたら、桜井市には2軒あることが判った。その一つのイオン近くの店に行って見たら、混雑していて時間がかかりそうなので、もう一つの方へ行くことにした。こちらは空いていて、問題なく処理ができそうだった。その後、2時間ほどかかって洗濯も乾燥も終了する。時刻は既に16時近くになっていた。今日の予定はこれで完了である。天気はずっと不機嫌で、晴れ間は、午前の一時にほんの少し覗かれただけだった。今夜は頼むから雪だけは降らないで欲しいと願うのみ。

 実は、明日は一つの楽しみが待っている。それは先日この近くにお住まいの方から拙著の購入申し込みがあり、残念ながら在庫がなかったので、他の資料などをお送りしたのだが、今回の旅ではお住まい近くの大宇陀の道の駅にお世話になるので、都合が合えば是非SUN号までお越しいただきたいと連絡したのだった。嬉しいことに、それが明日叶うのである。それゆえ、明日の泊りもこの道の駅と決めている。雨など降って荒れ模様の天気とならないことを願っている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

‘14年 北陸・関西・中四国への旅 レポート <第25回>

2014-12-03 03:00:15 | くるま旅くらしの話

【今日(12/3)の予定】 

道の駅:宇陀路大宇陀 → 未定(天気により判断する)

【昨日(12月2日:火)のレポート】  天気:曇り時々晴れ後時雨  走行118km

<行程>

道の駅:愛東マーガレットステーション →(R307・R1)→ 道の駅:あいの土山 →(R1)→ 道の駅:関宿 →(R1・R25)→ 道の駅:いが →(R25・R369)→ みはる温泉 →(R370他)→ 道の駅:宇陀路大宇陀(奈良県宇陀市)(泊)

<レポート>

 昨夜は強風が次第に勢いを増して相当な音となったが、それよりも近くを走る高速道の車の音の方が耳について、それが逆に打ち消しの相乗効果となって、眠りは騒音を気にしなくなったようだった。朝起きたときも風は収まらなかったが、雨のムードはすっかり消えて青空が広がりつつあった。しかし、風は厳しい冷えを込めた鋭さがあって、寒さは相当のものだった。朝買い物をしてから出発しようと構内の売店を覗こうとしたら、何と今日は定休日だった。残念、この道の駅はなかなか優れた地産物が多いのである。

 今日は昨日の天気の脅しの延長線にあり、更に南の方に移動して、より安全を確保したいと考えている。東近江市というのはなじみの薄い市名なのだが、近江商人の故郷の八日市といえば直ぐに思い当たる場所である。ここから奈良の方へどの道を行くかしばし迷ったが、考えた結果R1に出て、重伝建のある関宿を訪ねることにした。関宿は昨年も訪ねているのだが、宿場町としては昔がかなり正確に残っている印象を受けて感動したのだった。それを思い起こして、もう一度訪ねたいと思ったのである。

 R307からR1に入り、少し走ると道の駅:あいの土山がある。ここでお茶を買いたいと相棒が言うので、立ち寄ったのだが、ここの売店も又定休日だった。火曜日定休というのは結構多いのだなと思った。諦めて関宿に向かう。峠を越えて坂を下ると、直ぐに道の駅:関宿があった。ここに車を置き、早速重伝建の宿場町エリアの散策に出発する。ここは昨年も来ているので、道に迷うことはない。400mほど歩くと宿場の街道に出る。この宿場はかなりの長さで、1.5kmほどあるのだろうか。細い街道沿いに宿場町が見事に構成されている。前回はその半分ほどしか見なかったので、今日は全部見ようと思った。この街道は東西の追分に別れていて、先ずは東の追分の方へ。追分の入口まで行くと鳥居があった。この鳥居は、伊勢神宮への別街道の分岐点で、神宮の式年遷宮の際の古い鳥居を移築するのが習わしになっているとのこと。そこまで行ってから、引き返して今度は西の追分の入口まで歩いてみた。今の時代まで、街道の両側にこれほどたくさんの昔の形をした町が残っているのは奇跡的だなと思った。音がしないとその昔にタイムスリップしたような感覚にとらわれるんのだが、残念ながら現実に生きている町にはひっきりなしに車が往来するので、そのような気分はあっという間に分断されてしまう。20分ほど歩いて西追分の入口まで行き引き返した。途中で相棒に出遭い、街道の中にあった伊勢茶を商う店でお茶を買い、道の駅に引き返した。

   

関宿、東追分の入り口の鳥居。ここが伊勢別街道の分岐点で、伊勢神宮とは深い係わりのある場所となるとのこと。

   

関宿の町並みの様子。このような建物が街道沿いに1.5kmも並んでいる宿場町は、ここしかないように思う。奈良井も馬篭もこれほどの規模では残っていない。

   

西追分の入口付近の景観。京都の方から来た旅人は、これからこの長い宿場町の街道をゆくことになる。

 道の駅で昼食を済ませた後、奈良方面に向けて出発する。R25の名阪国道は自動車専用道路なので、高速道を走るのと同じ感覚である。しかし、そこに入った途端、大渋滞だった。事故やら故障やら工事の規制などが絡まって、しばらくの間ノロノロ運転が続いた。ようやく渋滞が解消して、道の駅:いがに着いたのは13時半近くだった。車の外に出ると風の吹く厳しい寒さが襲ってきた。晴れているのに、この寒さは少し異常である。直ぐに車に戻り発進する。どうするかしばらく迷った後、風呂に入ることにして、道の駅:針TRSか宇陀路大宇陀の方に行って見ることにした。少し走って、休憩場所があったのでそこに車を止め、再度ネットで温泉などを調べることにした。大宇陀のあきのの湯が良いのだけど、料金が800円と高くて気にいらない。それから針TRSの湯は賑やか過ぎてあまり好みの場所ではない。それで調べていたら、みはるの湯というのが宇陀市の榛原という所にあるという。料金も520円とリーズナブルのようなので、そこに行くことにした。ざっと、こんな具合で行く先を決め、温泉に入る。思ったよりもいい湯だった。その後も宿に決め方といえば、道の駅:室生にするかそれとも道の駅:宇陀路大宇陀にするか迷った結果、近い方をナビで調べたら大宇陀の方が200m近かったので、結局今夜の泊りは大宇陀の道の駅となった次第。

 16時半、大宇陀の道の駅に到着する。寒い!時雨空から雪がちらほら舞い降りて来ている。まさか積もるほどにはならないとは思うけど、風もかなりあって、体感温度は零度以下である。大急ぎで防寒体制を整え、TVの設定などをして夜を迎える準備をする。その後は、何時もの通り。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする