山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

ブログ記事の全整理雑感

2010-03-31 06:45:06 | 宵宵妄話

今日は3月の最終日、あすからは4月です。しかし天気は世の中の気分とは無関係に、景気の動向に同調しているかのように冷え切っています。昨日も寒い一日でした。寒さとは無関係に、凍えながら咲く桜の花の下で、花見と決めた行事を敢行している人たちもおられるようですが、お気の毒のような、羨ましいような気分でニュースを見たりしています。

ぼちぼちと春の旅の活動を始めた知人たちのあれこれを思いながら、さて、今年の旅をどうしようかと思いあぐんでいます。旅をしないとこのブログは成り立たないなと思いながら、ネタ切れ近くになっている現状をどう打破しようかと迷っているのですが、一つ思いついたのは、この辺で過去の記事の整理をしてみようと思ったことでした。2007年の2月1日に開始したブログへの投稿は、満3年を過ぎて今日に至っていますが、この間の記事は書き捨てといった感じで、過去の記録はまだ一度も整理していませんでした。「〇〇っ放し」というのがありますが、私の場合もその傾向大で、振り返るのを忘れることが多いのでした。

それで、せめてタイトルだけでも整理して、いつでも過去の記事を読めるようにしておこうと数日前からその作業に取り掛かっていたのですが、昨日ようやくそれを終えることが出来ました。何しろ一日一日を全てチエックするものですから、アバウトの好きな自分としては途中で面倒くさくなって、投げ出したくなるのです。自分をなだめ、我慢をしなだらやっとのことで一昨日分にたどり着いたというわけです。

勿論毎回の投稿に当たっては、投稿用の画面に直接書いているわけではなく、下書きをしてそれをコピーしたものを使っているわけで、それらの下書き原稿は残っているわけなのですが、実際には投稿した後何度も推敲して編集画面上で大幅に変更することもありますので、作成した原稿と投稿した結果とが必ずしも同じものとはなっていないのです。従って最終投稿画面の結果をきちんと記録しておかないと、自分が実際に何を書いたのかが曖昧になってしまうことになりかねません。そのようなことを思っての作業でした。

いヤア、3年間というのは結構長い時間というか、たくさんの日にちなのだなあと改めて思いました。計算すると開始日からは昨日までに1154日となるようです。この間の投稿の実際を見て、気づいたことなどについて述べたいと思います。

まず、この間結構休みの日が多いということでした。自分としては、8割くらいは投稿したのかなと思っていたのですが、見かけ上はそのようになっていても、実際は手抜きというか、過去に書いたものをそっくりコピーして載せているものが結構多いのです。つまりその日はブログに係わることは何も書かなかったということであり、ある意味ではサボりの時間だったということになります。ある意味というのは、ブログ用以外の書き物もしていますから、毎日5千字という目標に対しては必ずしも裏切ってはいないということなのです。

ま、休むというのは、本当はもっと必要なことなのかも知れません。以前倅に読むのが大へんだと言われたことがありますが、確かに読者諸氏の側から見たって、長文の理屈の多い文章を読むのはお疲れのことに違いありません。最後まで読んではもらえず、途中で飽きられ捨てられたものがかなりあるのではないかと思っています。というのも自分的にはかなり力を入れて書いた記事の方が、意外とIP数やアクセス数が少なかったりしていますので、少しガッカリすることがあります。しかし頑固ですから、読書子に媚びるようなことはせずに自分流のやり方、書き方を守りたいと思っています。

次に思ったのは、堅い文章が多いということです。論文調を基盤とした書き方から抜け出せていないということです。これを改めるためには、会話や対話のフレーズなどを使うのを増やさなければならないのですが、どうもそれがうまくゆかず、気づいてみれば只の叙述となってしまっています。何だか自分には感情表現が出来ない力がどこかにこびり付いているのかなと思ったりしています。他の方のブログを覗くと、写真入りの豊かな感情表現に満ち溢れたものが多いのですが、私にそれが少ないのは、思考が固まりかけた老人となってしまっていて、人情の機微に疎くなってしまっているからなのかもしれません。今のところ、これは一つの壁だなと思っています。

時々携帯電話から投稿していますが、苦労して書いた割には画面の文字が小さくて不満を覚えます。私の想定している読者層は自分と同世代周辺ですから、小さい文字では失礼だと思っています。老眼鏡を使うかどうかの迷いの世代から、それ無しでは文字には触れたくないという世代なのですから、文字のサイズには適当な大きさが求められると思います。今のところ携帯電話からではそれができないようですので、真に申し訳なく思っています。新鮮な記事を適切な文字サイズで送れる技術が開発されることを願うのみです。(もしかしたら、既にそのような技術は開発済みで、自分の携帯がすでに老朽化しており、取替えが必要なのかも)

投稿記事のタイトルを整理して3年分をざっと眺めていますと、自分の不断の暮らしぶりが見えてきます。心の乱れなども窺えるのです。投稿をサボったり、古い記録から丸写しの手抜きの記事を載せたりしている時は、当然のことながら旅には出かけられない事態に見舞われているときです。その背景に何があったかは、自分なりには良~く思い出されるのです。多くは旅に出かけたいのに、出かけられないときです。そのような時には、ブログを書く気が起こらないものですから、然るべき結果となってしまいます。

又、旅を離れた記事については、一端(いっぱし)の評論家風になってしまい、我ながら「止めた方が良いよ」といってしまいたくなります。他人様の批評とは別の、自分なりの見解や主張をしたいのですが、手持ちのバックデータが無いため、ニュースの断片記事や報道だけで、思い込みの感情処理的なものになりかけていることが多いので要注意です。しかし、世の中には不可解というか、腹の立つ出来事が多いものだなと、改めて実感した次第です。

さて、何はともあれブログ記事の全整理を終えたのですが、今思っているのはやっぱり旅に出たいなということです。同時に家にいても旅をしている感覚を養いたいなとも思っています。願望と負け惜しみ的発想の共存という感じでしょうか。人生そのものが旅であると考えますと、在宅のくらしの中にも旅の感覚を養う手立てはあるように思います。ま、もうしばらくは時間をかけて頭の中を整理する仕事が必要なのかも知れません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Iさんご夫妻四国八十八箇所巡礼の旅へ

2010-03-29 06:43:14 | くるま旅くらしの話

の福島県に住むIさんご夫妻が、四国八十八箇所巡礼の旅に出発されました。昨年まで奥さんが懸命に介護・看病に努められていたお父様が年初にお亡くなりになられ、しばらく喪に服しておられましたが、四十九日の服喪期間も過ぎたということで、その冥福を祈りながらの四国八十八箇所巡礼の旅を考えられたようです。

Iさんご夫妻には、数年前の北海道の旅で初めて出会ったのですが、我が家からは比較的近い福島県南にお住いということもあり、お互いの家を訪問しあったりして親交を深める間柄となりました。今ではとても大切な宝物の知人のお一人です。

今月の20日に出発して、東海道・淡路島経由で徳島に入り、只今は高知エリアのお寺を巡礼中のようです。Iさんはその旅の様子を、毎日ホームページで公開されていますが、ここ数日更新が途絶えていました。Iさんはあまり運転作業が好きではなさそうだし、高血圧などの持病も持っておられるので、大丈夫かなと心配が募りました。四国八十八箇所のお寺巡りは、電波の届きにくい場所も多いので、なかなか発信条件が整わないのかも知れないと思ったりしながら、数日その更新を待ったのですが、やっぱり22日止まりでパソコンの画面に変化が無いのです。ついに意を決して携帯メールを出すことにしました。そうしましたら、早速返信があり、更には直接のお電話まで頂戴し、どうやら更新をする時間的・精神的余裕が不足していたということらしく、その後ホームページも更新されて安堵したのでした。

私共は30年以上も前になりますが、勤務先の関係で四国の高松に5年ほど住んでいたことがあり、その時に八十八箇所も回っており、凡その土地勘は身につけています。又私自身はその後50歳過ぎの頃に、一人自転車で八十八箇所を回ったこともありますし、最近では一昨年秋に家内と一緒にSUN号で八十八箇所を巡り終え、高野山にも参詣しています。ですから、今が巡礼開始のシーズンで、道路が混み合うことも承知しています。そんな時期ですから、Iさんも運転が大変だろうと心配になったわけなのです。

何しろ、そもそも巡礼というのは、自転車や車で巡るものではなく、自力でもってお大師様と一緒に(=同行二人)心を浄化しながら各寺を巡るというのが正道なのです。ですから遍路道も元々そのように造られているわけであり、車などを想定していたわけではありません。しかし時代が変わって、今では観光バスまでが乗り込むことになってしまいましたので、かなり無理をして車の通れる道が造られている状況です。

今思い出しても、肝が冷えるほどの細道を大きな図体のキャンカーを良くもまあ運転したものだと思い出す難所が、何箇所かありました。私が一番印象に残っているのは、高知県エリアの35番札所の清滝寺でした。ここは途中から2km弱の道が殆ど車の幅くらいしかなく、離合可能な場所が1~2箇所しかない車の難所です。しかも坂は険しく道は曲がりくねっています。凸凹道に車の下部を当てはしないかと気をつけていたら、上部にせり出していた樹木の枝にアンテナを引っ掛けてしまって、気がついた時にはアンテナがただのアルミ棒に変わっていたという有様です。そのような道に限って、対向車がやって来て、偶々離合場所だったのでよかったと思ったのですが、車での巡礼は高齢者の方が多く、もみじマーク付きで運転はマイペースの方が多いため、なかなかスピーディな運転対応が期待できず、一時はどうなることかと往生したのを思い出します。

Iさんはそのような道路事情を知ってか知らずか、恐らく何度も肝を冷やして、ホームページの更新どころではない状況だったのだと思います。その清滝寺は恐らく今日当たりの参詣になるのではないかと思います。無事お詣りが済むよう祈念しています。

今年は私共のくるま旅は、年頭に描いたようには行かない感じです。家内の体調は回復しつつあり、心強いのですが、しばらくの間無理は禁物だと思いますし、加えて今年は町内会の小間使い役を務めなければならず、長期間の旅は無理のようです。それでも夏の北海道には是非行きたいと思っていますし、またせめて関西には届きたいとも思っています。今年は平城京遷都千3百年を迎えていますし、京都よりも古い奈良の都には、興味津々たるものがあります。

基本的には、今年は自分の育った茨城県と家内の育った千葉県の探訪を心がけてみようかと思っています。灯台元暗しで、意外と大きな発見があるかも知れず、新しい旅のあり方が見つかるかもしれません。何ごとも災い転じて福となすというつもりで向かってゆきたいと考えています。

それにしても、Iさん大丈夫かな?八十八箇所巡りの旅は、妙に背中を押されて先を急ぎがちになり、周辺の景色や様子などは見る余裕が少なくなってしまいがちなので、Iさんには折角の花咲く四国の春をできる限りゆっくり、のんびり味わいながら旅をして頂きたいなと思っています。そして、何よりもご安全とご健康に気をつけて。

※Iさんのホームページはこちらです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春花斉放(2)

2010-03-27 02:26:10 | 宵宵妄話

24日の続きです。もう最盛期の峠を越えつつある花もありますが、今日は我が家の裏庭の野草園の花も加えて紹介します。裏庭の野草園は半坪ほどですが、数年前に40cmほど穴を掘り、その中に水はけの良い赤玉土や鹿沼土に砂、それに腐葉土などをいれ、起こした真土を戻して何種類かの野草を植えたのですが、少しずつ退化して来ているようで、その数が少し減った様な感じです。野草たちの上には、春蘭と一緒に知らずに連れて来てしまったアケビのための棚が作ってあり、それが今年はかなり大きく育ちそうですので、実を結ぶばせてくれるか楽しみです。

なお、24日の花の中で、辛夷(こぶし)の花の写真が、どうやら辛夷ではなく白モクレンのようでした。現地で見ると、モクレンとは思えないほどたくさんの花を咲かせており、花の姿も辛夷の感じだったのですが、花が上を向いて咲いていますので、やっぱりモクレンのような気がします。お詫びして訂正します。

〇ユキヤナギの花

    

ユキヤナギは雪柳と書きますが、正にその咲きっぷりは柳の枝に雪が降り積もった感があります。こんもりとした花の固まりは、一つひとつの花では味わえぬ、植物の春の表現なのだなと、毎年この木の株が膨らんで白くなる度に思いを強くします。守谷に越してから毎年楽しみにしている道端の一株です。

〇ミツマタの花

   

ミツマタは三椏と書き沈丁花(じんちょうげ)の仲間ですが、和紙の原料として楮(こうぞ)と並んで有名です。なんとなくとぼけた感じの花ですが、よく見ると温かさがあって、なぜかホッと安堵感を覚える花です。この頃は栽培種も多様化したのか、白っぽい灰色の花だけではなく、鮮やかな黄色や橙の花が混ざったものも見掛けられるようになりました。でも私は昔からの三椏の花が好きです。花の由来は勿論枝振りというか、枝の根元が三つに分かれているからです。不思議な木でもあります。左は本来の三椏。右は園芸種として開発されたもので、色鮮やかです。

〇我が家のショウジョウバカマの花

    

野草園の一番端に3年前ショウジョウバカマを1株植えました。どこから買ってきたのか忘れましたが、これは自然の中の野草ではなく、栽培されていた野草だったと思います。この花は、東北の春を訪ねれば、どこにでもキクザキイチゲなどと一緒に見出すことができますが、関東のこの辺では、野生のものを見かけたことはありません。嬉しいことに今年は去年株分けしたものの内の一つが花を咲かせてくれて、花が倍加しました。ショウジョウバカマは、猩猩袴と書き、その命名は花の咲く姿とその下方のロゼット状に広がる葉の姿が、猩猩(=オランウータンに似た中国の想像上の怪獣)が履く袴に似ているという、勝手な想像から来ているようです。猩猩などという不気味な怪獣などとても想像できない、艶やかさと清楚さを備えた美しい花だと思います。

〇我が家の春蘭の花

    

毎年書いているように思いますが、春蘭は田舎の春の山の代表的な花でした。それが次第に少なくなって、今頃は里山だった箇所にその姿を見出すことは難しくなってしまいました。この株は、福島県喜多方の山林の中で、樹木が伐られて開発される場所に残っていた株を、可哀想と持ち帰って植えたものです。東北の青森県辺りになると、まだまだ健在な山が多いようで、数年前の何処かの道の駅では、食材として売っていたのを買って、お浸しにして食べたのを思い出します。小さいけど野生の蘭らしさを主張している花です。

〇白花ホトケノザ

   

ホトケノザと呼ばれる野草には2種類あって、別名タビラコと呼ばれる野草が春の七草の中の一つとして食されていますが、この写真の花は食用にはならず、雑草としてほぼ1年中どこにでも咲いているような存在です。ありふれた花ですが、早春の日溜まりの中に赤紫の花を見つけて、虫眼鏡で覗いてみますと、なかなか艶やかな形(なり)をしています。ここの写真はその白花を見つけて撮ったものです。普通この草のほとんどの花は赤紫色ですが、これは白っぽくて僅かに薄い赤が混ざっています。初めて見かけましたので、少し興奮してしまいました。土の関係か何かで花びらの色素が欠けてしまったのかもしれません。まさか新品種ではないと思います。なお、ホトケノザというのは、仏の座と書き、タビラコの姿がショウジョウバカマと同じように、越冬の葉がロゼット状であり、それが仏様が坐る台座のように見えるのをなぞらえて称したようです。もう一つのこの花がホトケノザと呼ばれるのは、対生してついている葉が丁度仏様の坐るハスの花に似ているところから、そう命名されていると図鑑に書かれていました。皆、見事な命名だなと思います。

花や野草の話になるときは、大抵はブログのネタが切れた時か、或いは気分転換を図りたい時なのですが、今回はその両方のようです。明日から出直すつもりで机に向かっています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

偉大なるゲゲゲのアーチスト

2010-03-26 03:41:03 | 宵宵妄話

来週からNHKの連続朝ドラに、偉大なる漫画家の水木しげる先生のご夫人のお書きになった自伝エッセーをもとにした「ゲゲゲの女房」というのが始まるということで、とても楽しみにしています。

何を隠そう、私は疑いもなき水木しげる妖怪大博士のファンであり、ゲゲゲの鬼太郎のファンでもあります。以前TVでアニメ動画が放映されていた頃には、仕事のことなど忘れ果て、子供たちを押しのけて毎週TVの前でその時間を堪能したものでした。今頃は普通のTV番組では鬼太郎の話が放映されることが殆ど無いようなので、真に残念に思っていますが、私の中では鬼太郎は正義妖怪の代表として、目玉親父と一緒にしっかり定住しています。

何故妖怪や鬼太郎に関心があるのかといえば、簡単に言えば面白いからです。悪と戦って、自在に動き回り、思いも寄らぬ技や秘策でピンチを切り抜け、愚かな人間どもを救うという鬼太郎やその仲間たちの働きは、なんとなく暗さの漂う妖怪の世界と人間の世界に共通の親近感を持たせ、何だか本当に身近にそのような世界が存在するような感覚に引きづり込まれるのです。

私は水木しげるという人物は、偉大な漫画家であり、かつ空想小説家でもあると思っています。常にご本人も「偉大なのだ」とおっしゃって、その後で笑っておられます。あれは勿論シャイな洒落でお話になっておられるのだと思いますが、私としては、本気で偉大な方なのだと思っています。

何が偉大かといえば、水木しげる先生は、妖怪社会というものを現代の人間の社会に隣り合わせて引き込み、共に同じような価値観で正義というものの大切さを守ってゆくと共に、これに反発する妖怪たちの悲しみ、怒りというものの真因を深く考えさせるという想像者であり、且つ創造者であるからです。現代の漫画の世界で、このようなことを行なった方は一人もいませんでした。それ故に偉大であると断言して良いのだと思います。

古来、お化けや妖怪の話は多神教の我が国では、無数といって良いほどたくさんあり、源氏物語や或いはもっと古い記録にも出ているということですから、特に驚くほどのことではないのかも知れません。しかし現代では、お化けや妖怪などというものは科学的根拠も無い、単なる迷信として軽く笑って切り捨ててしまう風潮です。にも拘らず、やっぱり超常現象は存在するのではないかと、現代人の多くは心のどこかである種の不安を以ってそのことを捉えているように思います。

私は、水木しげる先生はその現代人が抱える不安を、妖怪社会に託してストーリー化し、漫画として表現されたのだと思っています。昔の草双紙などの類では、その殆どがストーリー優先で、ちょっとした挿絵的に絵が付随していますが、水木先生の漫画は、ストーリーと漫画とを同一次元で並べて、そこに横たわるテーマの変化を表現し、読んだり見たりしている人に、現代人が失おうと努力している(?)、大切なものを考えさせているように思えるのです。

画家や漫画家が、お化けや妖怪の存在を1枚の絵に表現するのは、比較的簡単(私には不可能な技ですが)な作業のように思いますが、その絵に動きをつけて、一つのテーマのストーリーを描くというのは、相当の構想力と創造力が無ければ出来るものではありません。水木先生の偉大さは、それをたくさんの作品として完成させているということであり、そのテーマが現代の世の中にかなりの説得力を発揮しているということではないか、と私は勝手に思っています。

ところで、お化けや妖怪などというものはこの世に存在するのでしょうか。これには諸説のあることだと思いますが、私的には、明らかに存在すると思っています。不思議、すなわち人間としての思惑の範囲を超える出来事、説明のつかない事象は無限にあるように思います。不思議というのは科学的に説明がつかないということなのだと思いますが、現在の科学が万能でないことは、人間は死ぬという現実が教えてくれています。物理的な世界では科学の進歩は止まることを知らぬというという現代ですが、人間の精神すなわち心の世界に関しては紀元前のレベルと何も変わっていないように思えるのです。

心理学という学問の研究分野があって、私もそれなりに首を突っ込んだりしてきたのですが、大枠での心の動きということについては、説明が可能なこともあるとして、しかし、個々人の心の動きというものは科学などでは到底捉えることは出来ないように思えるのです。心の働きは、脳の機能に属するという考え方が主流のようですが、心の働きそのものを動かしている根源は一体何なのかと言えば、不可解のように思えます。

例えば、認知症という病は、脳の記憶や行動を司る部分がその力を失うことによって起ってくると考えられていますが、そもそもその力を失わせる根源となっているのは何かということについては、不可解です。単なる脳の老化とか劣化などという説明だけでは理解不能です。なぜなら、同じ環境で、同じ様な年数の暮らしをしていても、認知症などと無縁の人はたくさんいるのであり、若くても同じ病に取り付かれる人もいるからです。心の世界は、科学では殆ど解明できていないように思います。

お化けや妖怪は、間違いなく心の世界に住んでいます。それを科学的に証明し、説明することは不可能ですが、世の中の全てが解明可能な科学に裏付けられて動いているとは到底思えません。水木先生は、その心の世界に住んでいる様々な妖怪にスポットを当て、人間の弱さや強さ、大切なものは何か、等々について問題提起をされているのだと思います。

それにしても、「ゲゲゲ」というのは、いい響きですね。この3文字とゲという音感の伝わりが極上です。他に適切なものが無いかといろいろ当てはめてみましたが、やっぱり妖怪には「ゲ」が最適だと思います。「レレレ」というのもあるらしいですが、あれは赤塚漫画の世界であって、妖怪には当て嵌まらない感じがします。ま、このように書きますと、ゲゲゲの女房というのも妖怪の一種となってしまいそうで、お叱りを受けることとなりそうですが、決してそうではなく、私はゲゲゲの女房というのは、妖怪全体を束ねる水木しげる先生の縁の下の力持ちだと思っています。

来週からのドラマが楽しみです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桜田門外の変と水戸藩のこと

2010-03-25 01:33:13 | 宵宵妄話

突然の妙なタイトルとなりました。私は茨城県の日立市生まれ、水戸出身です。水戸出身という意味は、水戸藩内で採れ、育ったということでもあります。生を受けた日立市も育った常陸大宮市も水戸藩の領地であり、水戸の地の影響を受けながら成り立っていた地域ということができます。

高校卒業時のメンバーの今年の新年会の中で、水戸開藩400年の話題があり、桜田門外の変をテーマにした映画が作られるとかで、千波湖畔にロケ用の桜田門が出現するという話が出ました。水戸の出身でありながら、我らの同窓新年会では、今まで水戸藩に係わる話が出ることなどは殆どありませんでしたが、この時は珍しくその映画のロケのことなどに絡めて、事件に係わった子孫のことなどが話題となりました。というのも、同じクラスの中には桜田門外の変に直接係わったメンバーの子孫もいて、彼が以前父から聞いたという祖父の話を披瀝してくれて、往時の人たちの志とエネルギーの大きさに胸を打たれると共に、身近に近代史に直接係わった人物の末裔がいることに改めて不思議を覚え、又往時の状況に思いを馳せたのでした。

そのことがあって、もう少し幕末の水戸藩のことを知る必要があるなと思いながら過してきたのですが、なかなか本気になれずにいて、ようやくその気になって吉村昭氏著の「桜田門外の変」という本を読み終えました。以前にも山川菊栄著「覚書 幕末の水戸藩」というのを読みかけたことがありましたが、話が断片的でつながりが分らず、途中で止めてしまっていました。今度の吉村氏の本は、桜田門外の変に係わる一連の往時の国内状況をも取り込んで書かれていますので、全体としての幕末の水戸藩や関連他藩の様子が理解できます。

以前吉村氏著のこれも幕末の水戸に関係のある「天狗騒乱」という本を読み、感銘を受けていました。というのも氏の歴史に係わる著作は、ストーリーは勿論ですが、史実についての調査が実に丹念になされており、恐らく著作のためのエネルギーの2/3は、調査のために費やされているのではないかと思うほどです。様々な史実の断片を丹念に集めて推敲を重ね、それらをテーマに沿った一つのストーリーにつなげている姿勢に、大いなる感銘を受けたのでした。

さて、本題の桜田門外の変については、様々な見方があり、単なるテロ事件ではないかと、現代感覚で安易に批判などする向きもあるようですが、私としてはこの事件は明治維新への最大の転換点となっているという風に考えます。往時の水戸藩内部の乱れようについては、甘んじて批判を受けざるをえないと思っていますが、この幕政の中核人物に対するテロ行為は、殺人という点では批判されるとしても、往時の歴史が孕んでいた新しい時代への扉を開く鍵の出来事として、大いなる評価の対象になるものと思っています。

吉村氏のこの著書では、暗殺実行グループの中心人物として関鉄之助にスポットをあて、一連の経過が叙述されていますが、外国船の来襲に伴う対応のあり方について、往時の日本全国各藩に対して絶大な思想的影響を及ぼしたのが、水戸学といわれる尊王の思想であり、又それと併せて来襲する外国を断固として打破・排除しなければならないという攘夷の考え方でした。この尊王攘夷の思想は、長州や薩摩藩などにおける改革者として挙げら著名な人物たちにも大きな影響を及ぼしており、吉田松陰も佐久間象山も或いは島津斉彬や西郷隆盛というような人たちからも、大いなる共感と賛同を得たのでした。

この時代の水戸学の中心的な存在となっていたのは、水戸藩の藤田幽谷とその子東湖や会澤正志斎などという人物でしたが、その思想に基づく実行者としては水戸藩主の徳川斉昭という人が頂点の存在でした。光圀以来の名君との評判も高く、藩政改革に思い切った若手の起用を行い、それなりの実績を挙げると共に、中央においても尊皇攘夷の急先鋒として幕府に物申すという信念を貫いていたのでした。

本の中の主人公の関鉄之助も、藩校弘道館に学んだ優れた人物で、郡(こおり)役人として藩政の重要な役割を担っていたのでした。勿論水戸学の思想をしっかりと身につけており、上司・先輩である高橋多一郎や金子孫二郎などと共に、水戸藩の将来を担ってゆく有能な人物でもあったわけです。彼の郡役人としての担当は、東西南北の4つの郡の中で北部であったといいますから、私の育った常陸大宮市などもその中に含まれています。この本の中では、常陸大宮の北に隣接する大子町の袋田や生瀬などが良く登場していますので、それらの地に縁が深かったのだと思います。懐かしい郷土名が出てくる度に、なるほどなあと、50年以上も前の風景を思い起こしながら、更にその50年以上前のことに思いを馳せたのでした。

いずれの時代でも、いずれの組織においても、その運営に関する保守的な考え方と革新的な考え方の拮抗・軋轢は絶えないものだと思いますが、幕末の水戸藩においては、それが恰もお家騒動の如き騒乱を呈したのでした。藩主斉昭は勿論革新派であり、関たち若手もまた斉昭を絶対信奉する改革派の中にあったわけです。斉昭が藩主として実権を握るまでには、守旧派の人たちとの激しい主導権争いがあったわけですが、やがてそれを乗り越えて藩の改革が推進されて行ったわけです。

しかし水戸藩は藩主斉昭があまりにも個性の強い人物だったため、やがて幕府から疎まれる存在となり出し、ついには出る杭は打たれるという例えのように、斉昭は逼塞を命ぜられるという状況となったわけです。この間には黒船に乗ってやって来た、アメリカのペリーやハリスの強引な開国申し入れに、なし崩し的に不利条件を飲んで受け入れている幕府の尊王を裏切る行為が続いたわけで、これらの幕府の対応のあり方に対して、水戸学の意を体した人物の全てはこれを良しとせず、尊王攘夷を叫び勤王大事を強調したのでした。

このような動きに対し、幕府は断固たる弾圧を持って臨んだのでした。さすがの斉昭公もこの弾圧には無力だったようでした。しかし斉昭公の主張を信奉するその配下の人たちは、この状況を黙視するわけには行かず、何とかこれを打開しようと水面下で様々な工作を行なったのでした。しかし、譜代大名中の最大の権力者とも言える彦根藩主の井伊直弼が大老に就任すると、その弾圧は激烈となり、従来の慣例などは無視して、違反者と思しき人物を捕らえると、碌に詮議もしないままに、あっという間に極刑に処すという、いわゆる安政の大獄と呼ばれる政治の態様となったのでした。この強引な施策には、もはや表立って反対する者はいなくなり、水戸のみならず長州も薩摩も土佐も宇和島も福井も、それまで改革派と目され幕府に異論や意見を申していた大名たちが殆ど沈黙してしまったのでした。勿論朝廷でさえも物言う人たちは逃避生活を余儀なくされたのでした。

この様な尊王攘夷派存続の極限的な状況において、我慢に我慢を重ねて対策を検討してきた水戸藩の高橋多一郎をトップとする一派は、ついに最終手段として大老を取り除かなければならないと決断したわけです。この計画には勿論大儀名分が必要であり、又、水戸藩固有の決起ではなく、尊王の志を同じくする薩摩や長州、土佐などの諸藩と連携しつつ実行に移すという目論見があり、その地ならしのために事前に、関など数名が連携・連絡の使者として各藩に出向いて有力者の協力を依頼したのでしたが、結果的には訪問時に快諾を得た藩であっても、その後の急激な状況変化(=つまり藩主が自藩の保身を図って恭順の姿勢に変わったこと)により、結局は水戸藩関係者の独り相撲となってしまったのでした。

高橋多一郎から桜田門外の変における襲撃団のリーダーを命ぜられた関鉄之助は、緻密な作戦計画の下に、それを確実に実行したのでした。首を挙げたのはただ一人薩摩藩から加勢に参加した有村という人物でしたが、この襲撃の全体は水戸藩士の(といっても皆脱藩者でしたが)リーダーシップによることは明らかです。襲撃は成功しましたが、そのあとの朝廷を守るための薩摩藩や長州藩などの動きは、全く作動することがなく、結果として単なるテロ事件として、最終的には全員(正確には不明者もいるとのこと)が捕らえられ、処刑され、獄死するという結果となったわけです。

ことの詳細は本にお任せすることとして、私はこの物語を読み終えて、二つの大きな感慨を持ちました。その一つは、この事件がその後の日本の歴史にもたらした影響の大きさです。明治維新は坂本龍馬などの活躍によって、長州や薩摩藩などがその大きな役割を担ったということは歴史の残すところですが、これら維新という名で呼ばれる、世界の歴史上でも類稀(たぐいまれ)なる政治体制の劇的な変革(=革命)の引き金となったのは、水戸学の存在であり桜田門外の変だったのではないかと思います。この革命は尊皇攘夷という日本独特の(極めて閉鎖的な理論のようにも思えますが)国体の考え方を基盤としていると思います。桜田門外の変がなくても、日本は開国を余儀なくされ、今日につながる新しい政治体制が築かれてきたのだとは思いますが、恐らく今日とはかなり違った歴史の道筋を歩んだのではないかと思うのです。それがどのようなものであるかは分りませんが、桜田門外の変以降の各藩の動きは、佐幕の変革から倒幕へとその基本姿勢を変えながら、外国との局部戦争を経験しつつ、維新に向かって進んで行ったのでした。井伊直弼が健在で尊王のことなど無視し続けて幕府による開国を進めて行ったとしたなら、日本の国体が今と同じとは思えないのです。(その分、もしかしたら太平洋戦争などという愚かな出来事は無かったかも知れず、その是非の判断など只の遊びに過ぎませんが)

もう一つ感じたのは、水戸学の限界です。というよりも水戸藩の限界と言った方が良いのかもしれません。幕末の動乱期において、日本中をリードするような思想・理論を持ちながら、その実現・実行において、腰折れの如くになってしまい、何ら成果や結果をものに出来なかったのは何故なのか。言い出しっぺで終ってしまった水戸学と言うのは何なのか。これは大変難しい命題だと思いますが、私的には、水戸学はそれを生み出した水戸藩という存在が、幕藩体制上では徳川御三家に属する立場であったことが、理論と実際との限界を孕むことにつながったからではないかと思うのです。水戸学の唱える尊王思想は、あくまでも徳川幕府の存在を前提としたものであり、佐幕思想と相俟って成り立つと考えられていたように思います。それ故に、肝心の幕府が外国来襲を受けて、攘夷を捨て尊王をないがしろにした時に、本来ならば突き進むべき倒幕の思想には至らないという限界を有しているのだと思います。御三家なのですから、幕府を否定する運動の先頭に立つことは無理なのだと思うのです。これに対して長州や薩摩藩は、いざとなればそのようなものにとらわれる必要はないのです。実力があれば、幕府に伍して、或いは幕府を倒して前に進めばいいのです。しかし水戸にはそれが出来ない、御三家という枷(かせ)がしっかり嵌められてしまっているのです。この矛盾が水戸藩の人たちのエネルギーを失わせ、幕末の重要な時期に内部混乱を招来し、先進藩から置き去りにされた真因ではないかと、そう思ったのでした。

その他にも、往時の各藩の動向などの描写を通して、考えさせられることが幾つもありました。今年のNHK大河ドラマは、坂本龍馬を取り上げていますが、水戸藩との係わりなどには殆ど触れられてはいません。坂本龍馬という人物の華々しさを、結果論から追いかけてストーリーを作ってゆけば、現代人が楽しむには好都合ですが、関鉄之助などから見れば、その当時の坂本龍馬に対するコメントは現代人とは大きく異なるのではないかな、と思ったのでした。どんなに時代を動かしたとしても、暗殺者が主役になれないのは厳しい現実であるようです。井伊直弼という方にはお気の毒だと思いますが、私は関鉄之助という人物を単なる暗殺者として葬る気持ちには到底なれないのです。思わず長い難しげな記事となりました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春花斉放

2010-03-24 04:13:59 | 宵宵妄話

ここ数日春の攪乱に見舞われた感じがして、まともに思考感覚が機能していません。特に昨日(3/22)は酷くて、外出禁止令を自らに課して、でも食材の買い物だけは止めるわけには行かず、20分ほど外出した以外は、ひたすらに眠りを貪る時間でした。勿論所構わず侵入してくるエイリアン花粉の攻撃によるものでした。恐らくこの春一番の猛攻だったような気がします。

それで、思考能力が極度に減退していますので、今日は最近の道歩きの途中などに見かけた花についての所感を記したいと思います。ありふれた花ですが、この頃の私にとっては、これらの花たちによって新しい年が巡ってきたことを実感できる、そのような存在なのです。

百花斉放・百花撩乱とはこの季節を指すことばだと思ますが、様々な花の中から6種を選びました。百花には大きく足りないのですが、私にとっては、もうこれだけでも気分は満杯なのです。泪で霞む歩きの中で摑まえた、それぞれの花たちの表情でした。

〇ボケの花

        

ボケは木瓜と書き、惚けの意ではありません。やがて瓜に似た(といっても正確にはあまり似ていない感じがしますが)実をつけるので、このような名前がついたのだと思いますが、何種かある中では断然赤い色のものが一番木瓜らしいと思っています。真っ赤といって良いその花は、春の情熱を一挙にアピールして開花したようで、躍動感溢れる感じがします。

〇コブシの花

      

守谷には街路樹として数多く植えられていますが、その他にも一般家庭の庭や或いは杜や林の中に自生して成長したと思われる大木を何本も見かけます。コブシは辛夷と書き、その由来はやがて実る実が人間の拳に似た形をしているところから、そう呼ばれるようになったとのことです。モクレンよりも少し小ぶりの花をたくさん咲かせますが、純白の花には、冬を耐えてきたこの木の精霊が宿っているような気がします。守谷では今頃が最盛期の花ですが、これからあと桜が終ったころに東北へ出かけると、雪解けの山の中に雪にも溶けずに春を告げている姿を見ることができます。

〇モクレンの花

      

モクレンも好きな花の一つです。観賞用として何種類かがあるようですが、私の場合はモクレンといえば紫モクレンをイメージします。赤紫の大形の花です。モクレンは木蓮と書きますが、その名の由来は、恐らくハスに似た花をつける木というところから来ているのではないかと思っています。中国原産の木だそうですが、元はどのような花なのか見てみたいものです。

〇ヒュウガミズキの花

      

久しぶりにきれいに咲いているヒュウガミズキを発見しました。この木は植え込みなどに用いられて、刈り込まれてしまうために、きちんとした姿で花を味わうことができない場合が多いのですが、これは一本植えで管理されており、思わず立ち止まって撮らせて頂きました。春らしい風情の美しい花です。ヒュウガミズキは日向水木と書き、宮崎県などに多く自生しているようです。水木というのは、導管(木の中の水を通す管)に特徴があり、それが大きくてたくさん水を吸い上げるために、木の中心部が空洞になっていることから呼ばれているようです。必ずしも空洞ではないようですが、細い枝などにはしなやかさを感ずるものが多いようです。又、良く似たものに土佐水木がありますが、これは四国・高知県に多い木らしく、その花は日向水木に比べて花びらというのか、花序の数が少し多めについています。

〇レンギョウ

     

春の代表的な花の色は菜の花なのかも知れませんが、私の場合は春の花の黄色といえば、真っ先に浮かぶのがレンギョウです。山吹もイメージしますが、あまり見かけることは少なく、樹木としてはレンギョウが一番目立つようです。名前の由来は良く分りませんが、漢字のギョウという字がここに書くことが出来ず、辞典で調べた結果では「尾の長い毛」という意味だそうです。レンギョウというのは、それが連なっているという意味だと思いますが、木の形状が、枝を長く垂れてそこに花を咲かすというところから来ているような気がします。しかし、現実のレンギョウは植え込みなどに使われていることが多く、少しでも枝が伸びると容赦なく刈り込まれてしまいますので、その本来の姿を見ることが出来ていないのかも知れません。

〇アシビ(アセビ)の花

      

アシビと書いても分りにくいと思いますが、馬酔木と書くと分りやすいのは、字が木の性質を表わしているのが分るのと、少し文学をかじった人ならば伊藤左千夫主宰の短歌雑誌のタイトルとして使われた名前でもあることなどがあるかも知れません。牛馬がこれを食するとふらつくほどの毒性があるということですが、その花はスズランやドウダンツツジなどに似て、小さく可愛らしい花が幾つも鈴なりに連なって咲いています。普通見かける馬酔木は、小さなものが多いのですが、守谷辺りの古い民家の庭には、えっ、これが馬酔木か!と思わず口に出してしまうほどの見上げるような大木もあります。昔からの樹木が生き残って花を咲かせてくれているのを、存分に見ることが出来るのは、本当に嬉しいことです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パラリンピックを讃える

2010-03-21 04:43:31 | 宵宵妄話

今年は冬季オリンピック開催の年でした。カナダバンクーバーでのオリンピックの本番は終了し、日本の選手たちは期待通りだったのか、或いはそれを超えたのか、裏切ったのか、ウインタースポーツにさほど関心のない私には、その結果を云々する気持ちなど全くありません。ただ一つ印象に残ったのは、オリンピックを個人の好き勝手に参加できるゲームの一つだとのくらいしか自覚のない、お粗末な奴が選手の中に紛れ込んでいたことと、それを紛れ込ませてもさほどの反省もない、そのような参加集団に過ぎなかった連中の、一時的なお騒がせ期間だったということぐらいです。

その続きとして現在パラリンピックが開催されています。ところが、マスコミはその結果だけを恰も自分の手柄であるかのように報道していますが、そのプロセスや実況については殆ど放送していません。この報道の有り様に関しては、明らかに障害者に対する報道の差別ではないかと感じています。マスコミのご都合主義は今に始まったことではなく、明治以前の江戸時代から大衆に迎合し、或いは権力に迎合して常に匙加減を図りながら、そのニュースの最も販売利益があることだけを強調して活動しているようです。

オリンピックとパラリンピックの報道のあり方を見ていると、明らかにその差の大きさに気づきますし、表面では障害者に対するきれいごとを盛んに言っていても、その実、障害者に対する健常者たちの社会意識は、底が浅いのだということを思わされます。私はパラリンピックの実況放送があまりにも少ないことに腹を立てています。NHKも少ないのですが、民放といったら実況などは皆無で、ニュースの一部でメダルの結果くらいしか放送していないのは、実に情けなく、コマーシャリズムの歪みと偏向を思い知らされているような感じがします。

私は障害者の方の持つハンディの大きさは、健常者には理解できないほど大きなものなのだということを、亡き畏友安達巌の生き様を通して教えられ、それを乗り越えるために彼が発揮したエネルギーの大きさに圧倒されたのでした。両手を失った人が生きてゆくために使わなければならないエネルギーは、健常者が普段に意識もせず当たり前と考えていることをこなすためにさえも、絶大なものとなります。例えば衣服の脱着、食事の摂取、洗顔・入浴等々を一人で日常的にこなせるようになるまでには、ものすごい努力が必要なのです。私はそのことを安達巌から教えられ、愕然としたことを今でも覚えています。両手を使わずにそれを実現しようと、実際に自分でやってみましたが、何一つ出来ることはありませんでした。しかし、安達巌は健常者と変わらないほどに、それらの難事をこともなげにこなしていたのです。

その時に初めて、人間として生きるということの意味を教えられたような気がしたのです。人間の持つ可能性の大きさとそれを実現する命がけのパワーの凄さというものを知ったのでした。そして同時に、健常者である自分自身が普段当たり前と考えていることの大切さとありがたさにも気づかされたのでした。

世の中の多くの人たちは、もっともっと障害者の生き様から学ぶべきだと思っています。五体満足であることのありがたさに少しも気づかず、徒(いたずら)に不平不満の愚痴ばかりを並べ立て、我慢や忍耐などという言葉も行動も忘れ果てて、その日だけの自分勝手な幸福らしきものを求めている人が溢れているような世の中には、危機感を覚えずにはいられません。

私はパラリンピックがオリンピックと異なるのは、オリンピックの本質がショービジネスの延長線上にあるというのに対して、パラリンピックはそれらを超越した人間の可能性の限界への挑戦であるように思えるのです。オリンピックよりもパラリンピックの方にこそ、クーベルタンの思想を超えた、ゲームへの参加意義を感ずるのです。

如何なるチャレンジにも勇気が必要ですが、パラリンピックに参加されている方の勇気は、二重構造になっているのではないかと思っています。一つは身体的ハンディを乗り越えて、自分なりのくらしを作りあげるという勇気。そして更にはそのくらしの中からスポーツやゲームの一つを選び、それにチャレンジするという勇気です。パラリンピックに出場する前に、ハンディを乗り越えて生きるという自信を持つことがどれほどの勇気に支えられているかを思わずにはいられません。

様々な事情があって障害の身となられたのだと思いますが、その出発はパラリンピックなどではなく、どうやってこの人間社会の中で健常者に伍して生きてゆくか、にあったのだと思います。そのことに自信が持てるようになるまでには、様々なチャレンジがあり、それを支える勇気というエネルギーが必要だったに違いありません。そしてその成果を元にしたスポーツやゲームへの参画があり、更にそこで発揮した健常者の層倍の勇気とエネルギーがパラリンピックの中で花を咲かせているのだという風に私は理解しています。

だからパラリンピックは、彼らの二重の勇気の発露の場であり、それを世の中のより多くの人が目にして、そこからその生きるための勇気とエネルギーの欠片(かけら)を拾うべきなのです。単なるショーとは違う大切な何かがパラリンピックにはあるのです。

パラリンピックはまだ開催中ですが、今回の様々な競技の中で最も感動的なのは、アイススレッジホッケーのチームの活躍ぶりです。日本人のチームが世界最強のカナダを破り、アメリカと優勝を争うなんて、こんな快挙はありません。パラリンピックだから実現できるのであって、オリンピックだったらとても無理、などという比較野次馬的コメントの感慨を持つ人が多いように想像しますが、それは明らかに認識の誤りです。オリンピックもパラリンピックも条件は同じというべきでしょう。今回の日本チームの凄さは、抜きん出ているように思います。メンバー個々人のパワーと知力だけではなく、チームとしての総合力が実に素晴らしいと大感動です。心の底からエールを送っています。

しかし残念なことに、ゲームの実況は見ることも出来ず、ずっと遅れて短時間の結果を知らせるニュースで知るくらいなのです。マスコミは、記事が売れれば良いということだけに関心を振り向けているだけで、パラリンピックの報道の優先順位は遙かに後方に置き去りにしているようです。オリンピックでは見たくもないようなニュースをごてごて飾り付けて無理に報道している感があり、少しも面白くなかったのですが、パラリンピックにおいては、優勝を争うというのに、アイススレッジホッケーのゲームなどは実況放送などは皆無のようです。いずれ終ってから、これは商売になるなどと考えてどこかが特別番組などを考えているのかも知れません。

と、文句をいいながらTVのスイッチを入れましたら、NHKが早朝の実況放送をしていました。いやあ、文句が届いたようです。これから興奮しながら決勝の一戦を観戦し、双方に大きなエールを送りたいと思います。パラリンピック礼賛です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初めて餃子を作る

2010-03-19 00:45:03 | 宵宵妄話

今日はノーテンな話です。生まれて初めて餃子を作って食べたという話です。

餃子が好きで、時々思い出しては餃子を得意とする店に行き、いつも4人前分を買ってきて家内と食べているのですが、これを自分で作って食べようという考えにはなかなか至りませんでした。しかし時々見る料理番組の話の中では、中国では殆どの家庭が自分風の餃子を作って味わい楽しむのが、普通だなどという話を聞き、そうか、作って見るのも面白いかなとは考えたこともありました。

そのような曖昧な気持ちでいる時に、昨年の7月に北海道の旅で石狩市の北にある厚田港で、HMCC(=北海道ハンドメイドキャンピングカークラブ)の皆さんとご一緒させて頂いたときに、地元の漁業関係の男の方が餃子の具を一杯入れたボウルを持参され、あっという間にテントの中でかなりの量の餃子を作りあげ、これには一緒にいたキャンプ仲間のご夫人たちも製作に加わって、実に楽しい餃子作りのひと時を過したのでした。勿論門外漢の私はその有り様・成り行きを黙って見せて頂いただけなのですが、よし、自分も家に帰ったら、餃子というものを是非とも作ってみよう、そして自分の食べ物作りのレパートリーの一つに加えようと密かに思ったのでした。

旅から戻って、あっという間に夏が、秋が過ぎて冬になり今日になってしまったのですが、この間餃子のことは忘れていた時間の方が多かったと思います。それでも食べたくなって買いに行った時は、思い出し、そうだ自分で作らなくっちゃぁ、と、ま、同じような進歩のない反省を繰り返していたのでした。

それが、ここに来て急にその気になったのは、具の材料の中心となる野菜が青汁などで飲むには多すぎて対処できないという背景があったからでした。というのも、私は糖尿病持ちなので、食べ物は極力植物中心にと考えており、1日1食は特製の野菜ジュースで摂ることにし、これからはそれを少しずつ増やしてゆこうと考えています。その特製ジュースというのは、旬の野菜をベースとすることにしているのですが、この冬はケールというキャベツに似た青汁に向いているという野菜を使おうと秋の終わりごろに植えたのです。これが予想以上に元気で、3月一杯で市に返上しなければならない畑に、ほうれん草と一緒にたくさん残ってしまったのです。そのまま放置してしまうのは勿体ないと思い、これを何とかしようと思いを巡らしていた時に気づいたのが、これを使って餃子を作ってみようということでした。

まだ自分では一度も作ったことがない餃子なのですが、凡そのイメージは膨らませていましたので、何か参考になるレシピがあれば何とかなるだろうという、いつものアバウトな発想です。ネットにはたくさんの餃子作りのレシピが紹介されていますが、その中でなるべくアバウトに書かれているものを選んで参考にすることにしました。例えば具の材料の数量などをやたらに細かく書いているのは敬遠し、大雑把に「~くらい」とか「どっちでもいい」とか書いてあるものを選ばせて頂きました。

餃子作りの基本というのは、簡単に言うと野菜類と肉(=豚のひき肉)とをミックスして練り合わせ、それを小麦粉の薄い皮に包んで焼いて食べるということになりそうです。野菜と肉の割合は、概ね3対7で野菜が多いようです。勿論どのような野菜を用いるか、その野菜にどのような仕掛をするのか、又肉には何をどのように調合するのかというようなことが餃子の味を決めてゆくのですが、これはもうその人の創造性の問題となるわけです。

今回の私は、先ず野菜ですが、このメインは勿論ケールで、小笊に山盛り(キャベツだったら2個くらいかな)用意し、この他にタマネギを小1個とキャベツを1/4ほど入れることにしました。ケールは刻まないで、さっと熱湯に通した後ミキサーにかけて粉砕しました。レシピではフードプロセッサーでとありましたが、我が家にはそのような上等なものはありませんので、ミキサーをチョコチョコ動かしながら粉砕したわけです。タマネギもキャベツも同じ要領で細かくしました。これらを金網の目の細かい笊に入れ、上からお皿をあてがって水分を搾り出しました。何やら野菜滓のような感じもしましたが、栄養は失われてはいないはずです。これら水分を取ったものに少々の塩とエゴマの油をほんの少し掛け、更に鶏がらスープの元を少し入れて混ぜ合わせました。ここまでやっておいて、今度はひき肉の方ですが、これには生姜の絞り汁少々、醤油少々を入れてこね回します。にんにくも入れるのが普通だと思いますが、我が家ではにんにくがダメな人がいますので、これは入れません。

野菜類を混ぜ合わせたものとひき肉をこねたものとを3対7くらいの割合で一緒にして混ぜてこねて、万遍なく具材が混ざり合ったらそれで出来上がりです。これを一息ついてしばらく置いてから、皮に包む作業に入ります。この作業は生まれて初めてのものでした。水を接着剤として使うのだという家内の指導よろしきを得ながらチャレンジしたのですが、どうも市販の餃子のような形にはならず、のっぺらぼうの姿なのでした。しかし何個か作っているうちに次第に要領が判り出し、餃子らしくなり出しました。何しろいきなり55個も作ることになり、途中で皮がなくなってしまい、慌てて買出しに行くというドジなのですから、てんやわんやしているうちにどうにか目鼻もつこうというものです。

出来上がって、次は焼くという作業ですが、これも実は今まで一度もやったことがないのです。とにかくレシピに書かれている通りに、先ずフライパンにサラダ油を敷き、熱めに熱してから作った餃子を並べて、こんがり焼き目が出来た頃を見計らって水を差し、じゃあーと湯気の立つのに急いで蓋をして、5分ほどそのままに蒸して、時間を見計らって残ったお湯を捨てて、もう一度中火でしばらく焼いて完成です。

さあ、一体どうなったのかと不安というか、どちらかといえばいつもの開き直りの心境で、失敗しても俺が全部喰ってやる!という愚かな思いで、フライパンを逆さにして大皿に盛ったのですが、これがなんと!なんと!ちゃんと餃子の姿をしているではありませんか。3列チャンと繋がって、あの美味そうな焦げ目がちゃんとついており、包みの腹には程よい青さのケール君たちの中身が薄く膨らんで見えるではありませんが。堂々たる餃子の完成を見たのでした。

しかし、食べてみなければそれが本物の餃子に値するかどうかは判りません。恐る恐る口の中に1個を放り込んだのですが、ほ~う、結構いけるじゃありませんか。やや水餃子風で柔らかいのが私には気に入った出来具合だったのですが、家内は中身が生だったらと心配して、ご念を入れてもう一度焼き直しをしていました。が、食べてみて味の方は結構満足したようでした。いヤア、興奮して美味いうめえ~と、あっという間に20個以上を平らげてしまいました。写真を撮るのも忘れてしまうほどの食べっぷりでした。我ながらあきれ果てるという感じです。

夕食には倅に食べさせるために、残りの分を焼きましたが、これも思った以上の好評でしたので、結果的にはこの餃子作りへの初挑戦は成功だったと言えそうです。しかし、これで私の料理のレパートリーが一つ増えたなどというのは早とちりというものです。少なくともレシピを見ないでも作れるようになることが大事です。アバウトの分量でも味が保証されるようにならなければ、大丈夫とはいえません。先ずは幸先の良いスタートを切ったということでありましょう。これをきっかけに、例えば肉無しの餃子などにも挑戦したいなと思っています。真に太平楽な話でありました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

50歳を越えたら本気で70歳以降の人生を考えよう

2010-03-17 06:03:31 | 宵宵妄話

いタイトルを書きましたが、今頃70歳の玄関口に立って、ちょっぴり反省を交えながら私自身のこれからの人生への覚悟と、それに加えておこがましくもこれからやがては疑いもなく高齢者に近付くという後輩の諸氏に対して問題提起をしておきたいと考えました。今日はその話です。

この話は、本当は1冊の本にしたいほどのボリュームのある話なのですが、今日はホンの少しだけに止めたいと思います。この話の直接のきっかけになっているのは、グループホームの焼死事件です。

最近というか、この頃は火災のニュースが多く、しかも必ず痛ましい焼死者が出たことが併せて報道されています。それらのニュースの中で、最も痛切に悲哀を感ずるのは老人の集団焼死という事件です。

この話は、新たには先日札幌の認知症高齢者のグループホーム「みらいとんでん」で7名の方が亡くなられたこと、又過去では1年前に群馬県渋川市の老人施設「静養ホームたまゆら」で10人が犠牲となった事件が思い出されます。この二つの出来事は、この国の現在と未来を象徴しているのではないかと私には思えてならないのです。ニュース等では、施設の防火施設の不備とか訓練の不足、或いは施設運営管理体制の不備などが、同じように取り上げられて論ぜられていますが、それらは正にその通りなのだと思いますが、私にはその論議を聞いていてもなぜか空しいような感じがするのです。

その空しさはどこから来るのかといえば、施設の設備や経営のあり方などではなく、犠牲になった方たちの生き方、生き様、そしてそれに対する世の中全体の受け止め方、対応のあり方との実態からやってくるのです。私は現在古稀を迎えて70歳の入口に立っていますが、今回の犠牲になられた方たちとは、あと10年もすれば同世代となり、同じ様な事件に巻き込まれる可能性がより高くなります。そのことはある意味では絶対的な事実(=自分の力ではどうにもコントロール不能な出来事)なのかも知れません。

認知症というのは、人間として一人で生きてゆくという力を奪う恐ろしい病です。この病の恐ろしさは、人間でありながら人間でなくなるというところにあり、そのことは本人だけの問題ではなく、家族周辺を巻き込んだ、暮らしの破壊活動に繋がっています。誰かが必ず傍にいて面倒を見なければならず、又それが難しい時には施設等に委託しなければならないため、多大な費用を負担しなければなりません。一人の人間として生きてゆけない、悲しみや苦しみをさえも実感できない本人の存在が、周辺家族の平安を壊してゆくのです。認知症は本人個人の病ではなく、本人に最も身近な血縁社会である家族を破壊する社会病でもあるのです。

認知症の患者を預かっている病院での、その方たちの暮らしぶりを見ていますと、その悲惨レベルがどれほどのものかというのを実感できます。見舞いに来た人を認知できて、対話や会話が可能なレベルであっても、どこかにコミュニケーションの違和感が感ぜられますし、相手がいない一人での時間では殆ど無言か同じ動作の繰り返しであり、ただ生きているという力のない存在が、一層哀れを誘うのですが、本人にはそれが何なのかがわからないようです。このような姿を見ていて、もし自分がそうなってしまったら、どうすれば良いのか。そうならないためにはどうしたら良いのかを思わずにはいられません。

グループホームでの大量焼死者の事件は、このような高齢者の現状を含んで起っているものだということを承知しておく必要があり、その背景には、高齢者の個人としての生き方とその有り様とそれを受け止める社会体制のあり方という二つの重要な視点が秘められていると感じています。

くるま旅くらしの提唱の背景の一つとして、私は高齢者の生き方を活性化する働きがあることを強調していますが、生きがいや張り合いが失われた時に、その落胆がもたらす力が認知症に大きく係わっているのではないかと思っています。老化に伴うままならぬ自己コントロール力の低下に絶望し、落胆し、生きる張り合いや意味を失った時が認知症への入口であり、一旦そこに立ったならば一挙にレベルは悪化するように思えます。90歳を過ぎ、100歳を越えても矍鑠として毎日を過している人に共通しているのは、生きる楽しみ張り合いをしっかりと見出しているということではないかと思うのです。

今回のようなグループホームの悲惨な出来事を防ぐために、何よりも大切なことはグループホームなどのお世話にならない自分というものをしっかり作っておくことであり、それは気づいて取り組むのが早ければ早いほど良いということでしょう。しかし現実にはこのような個人の生き方についての社会啓蒙活動は殆どなされておらず、全て個人の裁量に委ねられているのが現実です。認知症は単なる病として扱われている感じがします。発症してからの病理現象として、治療の対象として扱われているようですが、薬などで治るような生易しい病ではないように思えてなりません。

高齢化と認知症が結びつくような社会は、過去にはあまり聞いたこともなかったのに、今何故なのかといえば、それは寿命(=平均余命)が伸びただけではなく、現在の高齢者が歩んできたのが、劇的とも言える社会変化の続く世の中だったからなのだと思うのです。第2次世界大戦を経験し、敗戦による戦後のどん底のくらしを経て、高度成長期から、気づけば高度情報社会の真っ只中。暮らしは楽になり、過去には夢だったものが今は当たり前となり、その恩恵を享受しているはずなのですが、本当のところは80歳を超えた世代で現代の情報化文明に対応できる人は、特別な人を覗いては殆どいない様に思えます。デジカメとカメラの違いがわかり、携帯電話と電話の違いがわかる高齢者は、数えるほどもいない感じがします。分ったふりをしている人は大勢いると思いますが、その心根はあやふやです。時代についてゆけず、自分自身の生きる拠り所を失えば、認知症への道が確実となるのは明らかです。

グループホームや多くの老人収容施設(語弊があるかも知れませんが姥捨て山よりはマシだと思います)は、時代に取り残された、かつての国づくりの貢献者の方々の、人生の終章における悲しいいこいの場であるように思えてなりません。そして油断をすれば、たちまち私自身もあっという間にそこへ移り住む危険性と可能性を孕んでいるのです。

個人から社会へと視点を変えてみた時に言えるのは、日本国の未来は老人の生き方が握っているということかと思います。通常なら国の未来は若者が担うのが当然であり、そこには新たな躍動感がイメージされるのだと思いますが、残念ながらこの国の未来は、人口の1/4を超える老人が握っているのです。老人の多くは生産活動からは次第に遠ざかるわけですから、国家予算の大半はこの老人によって費消されてゆくことになります。子供手当てを支給して将来の国の活性化につなげようというのが現政権の目玉施策の一つのようですが、この原資を難しくしているのが社会保障制度に係わるコストであり、その核に居座るのが老人なのだと思います。

病院が高齢者の社交場となっているなどという話を聞くと、真に居たたまれない気分になりますが、ある意味ではそのような老人を作ってきたという社会政策的な側面がこの国にはあったのではないかとも思うのです。何でもかんでも、ほんの少しでも体調が悪ければ直ぐに病院へ行き、薬を貰って安心と併せて、医師からもう一つ別の不安を提供して貰って再来し、その繰り返しで毎日を送るのは、ほかに本気になってやることがないからだとしたら、老人はこの国を蝕むばかりです。高齢者に生きがいを与える施策を本気で考えないと、この国は老人が病と一緒に食いつぶし兼ねないものとなってしまいます。これは悪夢ですが、正夢に転換する可能性を多分に孕んでいるように思えます。

高齢者、認知症、老人というような言葉には、かなりの抵抗感を覚えるのですが、社会現象の一つとして今回のグループホームの火災の大量焼死事件の発生を見ますと、その本質にあるものをしっかりと見つめて、少なくとも自分自身はそこに巻き込まれないための準備対応を実践行動してしなければと思わずにはいられません。幸いなことに、私にはくるま旅くらしという手立てがあり、これからも家内と一緒にその内容を膨らませて、単なる観光の旅ではなく、幾つかの視点からこの国を見て行こうという楽しみがありますので、とりあえずは大丈夫だと思っていますが、しかし、人生いつ何が起こるか分りませんので、油断は禁物です。最大の課題は医療機関のお世話になることの極小化を図った健康の保持にあると思っています。

最後に付加したいのは、この話は50代の方にも無縁ではないし、もしかしたら40代の方にも心の片隅に留め置いて頂いても良いのかとも思います。まだまだ若いと思っていても、間違いなく高齢者の人生に繋がっているのですから、人間一生を全うするに決して離れない(離さない)魅力的な目的や目標をものにしておくことは、早すぎることはないと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

愚政県政茨城県

2010-03-16 06:59:09 | 宵宵妄話

誰だって郷土愛というのはある。そう言う時代に育ち、そう言う価値観を持つことが当たり前として育ってきたのですが、次第に年を経て世の中のことが多少は見えるようになったと錯覚できるようになって、郷土愛というものが、愛おしさなどではなく、怒りに色づけられるということもあることを実感しています。

茨城県というのは、栃木や群馬とは異なり、海に面しているという点で都心から少し距離を置くロケーションではあっても、それなりに可能性を秘めている県ではないかと思っていましたが、それらのロケーションを本当に活かした取り組みなど置き去りにして、都心と拮抗するような愚かな施策を、長期にわたって県民を誑(たぶら)かしながら進行させてきた政治のあり方に心底怒りを覚えています。茨城空港の話です。

先日オープンした茨城空港は全国の笑いものに晒(さら)されていますが、それは開港のタイミングが不景気と相俟って真に悪かったというだけではなく、根本的な企画の誤りに起因していると私は思っています。昨年だったか、何処かの民放のインタビューに空港開設推進派の県会議員が応じているのをTVで見ましたが、空港の必要性に関する質問に対して回答している内容を聞いて、そのレベルが呆れて物が言えないほどの低さであり、質問者も唖然として次の質問に嫌気を覚えた風だったのが印象的でした。首都圏における空港のニーズの予測根拠が眉唾物の夢物語のような内容であり、現実の一般大衆の空港利用の感覚など全く考慮されていない、初めに空港あるべしの話でした。良くもまあ、こんないい加減なことをTVの前で言えるものだと、得々と喋るその県会議員を恥ずかしく思いながら見たのでした。

この愚かな政策を後ろから押し支えたのは、運輸政策研究機構とかいう国交省所管の財団だそうですが、その予測は度を外して発注者の要請に応えたとか言うもののようで、ここが何を研究しているのかわかりませんが、県は愚か、小さな村が空港を造りたいといってここにお願いすれば、その願いが叶うようなバックアップデータを作ってくれるのではないかと思われるほどの働きぶりなのでした。

このことは当の研究機構の会長が予測の誤りを自ら認めているのですから、呆れ返って物が言えません。国交省は内部に幾つもの悪質な詐欺集団を抱えているようなものではないかと思うほどです。ダム建設の予測データだって、建設側の要望一つで、研究機関なるものは、一桁や二桁のデータの改ざんなど、朝飯前だったのではないかと思われるほどです。この種の予測ほど当てにならないものは無い様に思います。

当初の茨城空港の予測乗降客は72万人だったそうですが、現在は20万人となっているようです。20万人というのは、毎日約550人の利用客があるということですが、そのような奇跡があるはずがありません。この数字も眉唾物であり、私の予測ではこの半分の10万人も難しく、恐らく7万人前後くらいではないかと思います。不便で大した見所もない場所にわざわざやってくる人は限定されるはずです。最初は期待を持ってやってきた人がもう一度リピーターとしてやってくる可能性よりも、この次はもっと便利な羽田や成田にしようと考える人の方が多いように思えるのです。

どんなに宣伝をしても、碌にインフラも整備されていない場所に好んでやってくる人が増えるはずがありません。紙や口でどんなに都合のいいことを言ったところで、現実や真実は覆いきれるものではありません。現地に行けば直ぐに分かることなのです。一見の乗客だけで空港の運営が成り立つわけがないのです。韓国からの定期便は真に有難いものだと思いますが、この路線一本のために更に税金が投入されるとしたら、県民の一人として私は、空港の継続運営に断然反対せざるをえません。

以前にもこの空港のことについて書いていますが、県民の殆どはその在り処()さえ知らないのです。百里基地という名は知っていても、それがどこにあるか知っている人は限られています。もしそこに将来の発展を期す空港を展開してゆくとするならば、もっと事前に県民全体にその可能性と実現の道筋を知らしめるべきです。茨城県に移り住んでまだ6年目ということなので、私自身がそのような情報を知らなかったということなのかも知れませんが、それにしても県民の空港に向ける冷たい視線や無関心は、一体何を意味しているのか。その応えは歴然としています。

この愚政を展開してきた一連の議員とその責任者としての知事には、追って進退を明らかにして貰いたいと思います。年金生活者からも税金を払わせていながら、このような愚かな政策に金を使うとは、何ごとだ!と怒り心頭に発しています。今これらの関係者が私の眼前に現れたら、私はたちまち暴力をふるったという犯罪者の中に加わるに違いありません。郷土愛が地に落ちたのではなく、地に落とすほどの愚かな政治に無念を感じています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする