山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第67回>

2018-07-31 05:02:24 | くるま旅くらしの話

【今日(7/31:火)の予定】 

本別町義経の里キャンプ場 →(R242他)→ 本別町歴史民俗資料館 →(R242・)→ 足寄町郷土資料館 →(R)→ 陸別町関寛齋記念館 →(R)→ オンネト―湖 → その先未定

 

【昨日(7/30:月)のレポート】 天気:曇り後晴れ

<行程>

本別町義経の里キャンプ場 →(R242)→ 足寄動物化石博物館 →(R242)→ 道の駅:足寄銀河ホール →(R242)→ 本別町義経の里キャンプ場(泊)

<レポート>

 昨夜は2時頃に起き出して、ブログの発信を済ませる。夕方涼しくなる筈の天気が、いつになっても気温が下がらず、しかもかなり湿度が高くて、来道以降初めての熱帯夜を体験することになった。内地の方たちは毎晩このような状態なのかと、たった一夜の出来事を必要以上に愚痴ることもあるまいとは思いつつ、エアコンなど付いていない狭い車の世界では、もう窓を開けて風を通すしかない。夜明け近くなって何とか涼しくなって、ようやく生きた心地がするようになった。

 二度寝の後5時半には起き出して、いつものように6kmほど付近の散歩に出かける。このキャンプ場は本別川に沿って造られており、今朝は今まで行ったことのない上流の方に向かう道を選んだ。その先に何があるのか知らずに歩いて行ったのだが、道は途絶えることなく続いており、1kmほど行くと、小麦畑や、韃靼蕎麦の畑などが広がっていた。開拓は既に大分前からこのような場所まで進んでいたのだということを知り、人間の持つ力の大きさを知った感じがした。3kmほど行ったら、「ヒグマが出没するので注意!」という立て札があり、これはヤバいかなと思って引き返すことにした。キタキツネ君なら積極的に逃げてくれるけど、熊君の場合はそうはゆかないだろうと思う。とにかく戻った方が無難と考え、来た道を戻る。道端の野草たちの観察に気をとられながらの散策だったが、早やくもヤマハギが咲いているのを見つけて、どこかにもう秋が忍び寄っているのだなと思った。昨夜の暑さは消え去って、今は寒さを覚えるくらいの曇りの朝となっている。車に戻って一息入れて、今日の行程を見直す。

 当初はここ本別町の資料館訪問は諦め、今日は足寄の動物化石博物館を見た後、阿寒湖の方に向かおうと考えていたのだが、もう一度思いなおして、太平洋戦争の末期ここ本別町も空襲を受けて被害を蒙っているという話を聞いているので、やっぱりこの地の歴史を知っておく必要があると思った。それに足寄町にも郷土資料館があるというのを知り、又陸別町の関寛齋記念館は是非とも見ておかなければならないと考え、いずれも今日は休館日となっているので、今日は足寄の動物化石博物館だけを見て、もう一度この義経の里キャンプ場に戻り泊って、明日その3カ所を見た後阿寒方面へ向かうことにする。

 ということで、8時半頃出発して先ずは近くにある道の駅:ステラ☆ほんべつへ行き、トイレの処理等をする。トイレはキャンプ場よりも道の駅の方が数段優れているので、多くの場合そのように対処している。トイレの後足寄に向かって出発。本別の中心街から足寄の中心街までの距離は14kmくらいしかない至近である。しかも動物化石博物館は本別側寄りにあるので、15分ほどで到着した。9時30分開館なので、ほぼ1番乗りといった感じだった。実のところ化石というものにそれほど興味関心があるわけではない。65歳以上は半額の200円では入れるので、折角だから見ておこうという野次馬的な考えなのである。動物化石というから古代の生物のものなのだろうと入っていたのだが、それはアショロアと呼ばれる海に住んでいた動物の化石がこの地で発見され、引き続きべヘモトプスなどという別の種類の化石も発見されて、この博物館が作られることになったようである。こんな山奥で海の生物の化石ばかりが見つかり、館内にはそれらの想定骨格標本が幾つも展示されていて、この地球の歴史の変転の凄まじさを表わしている感じがした。それにしても部分の一部しかない骨の化石から、よくもまあこれほどまでの全体像が想定できるものだと、専門家の執念のようなものに感動した。先日の三笠博物館でのアンモナイトの壮大な展示やむかわ町穂別博物館のむかわ竜など、北海道の太古の海は豊かであって、多くの生きものが生息していたのだなということに改めて不思議を覚えた。

 1時間ほどの見学を終えた後は、近くの道の駅:足寄銀河ホールにもちょっと寄って、何か変わったことはないかと覗いたりした。博物館に入っている間に天気は一変してすっかり夏空になっていた。気温はぐんぐん上がり、これではキャンプ場は厳しいなと思った。風が通ってすれればいいのだが、昨夜のように無風だと灼熱地獄となってしまう。椅子やテーブルなどのキャンプ用具を持参していれば、林間の木陰の中で涼しい時間を過ごせるのだが、今回は移動中心の旅なので、小さな折りたたみ椅子しか持参していない。不安を抱きながらキャンプ場に戻る。

 その後は予想していた通りの灼熱地獄の暮らしとなった。車の中は34℃を超す暑さとなり、その中で1時間半ほど昼寝を試みたが、ギブアップして起床。邦子どのが窓を全て開放して、ようやく30℃となり、少し風が通るようになったが、それでも暑い。時々林間に逃げ出して涼をとり、16時近くになってどうにか雲が日を遮ってくれるようになり、風も吹き出してくれたので、ようやく生き返った感じがした。内地の、特に大水害で被災された方々のことを思えば、贅沢な愚痴など言っていられないのだが、人間いざとなれば大自然の寒暑には太刀打ち出来るものではなく、暑い!の愚痴ばかりである。19時を過ぎるとようやく北海道らしさの夜が近づいてきたようである。それでも今夜は窓を開けたままの就寝となった。明日このエリアの訪問を終えたら、道東の方に向かわなければならないなと思っている。道東には熱帯夜はないと信じている。やれやれの一日だった。

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第66回>

2018-07-30 02:36:32 | くるま旅くらしの話

【今日(7/30:月)の予定】 

本別町義経の里キャンプ場 →(R242)→ 道の駅:足寄銀河ホール →(R242他)→ 足寄町動物化石博物館 →(R241他)→ オンネト― →(D・R241)→ 阿寒湖駐車場 → その先未定

 

【昨日(7/29:日)のレポート】 天気:曇り後晴れ

<行程>

道の駅:しほろ温泉 →(D・R274)→ 道の駅:ピア21しほろ →(R274・R241・R38・R242他)→ 池田ワイン城 →(D)→ 池田町郷土資料館 →(D・242他)→ 本別町義経の里キャンプ場(泊)

<レポート>

 昨夜は夜中に雨が降ったらしい。夢うつつの中に天井を叩く雨音が聞こえていた。朝4時半頃外を見ると一面の霧の海だった。ブログの投稿を終えて外を見た時は、霧は既に消え去って。曇天だけが空を覆っていた。これなら大丈夫と思い、歩きに出発する。道道の池田方面に行く道を往復7kmほど歩いた。道の両側には小麦やジャガイモ畑などが広がっていた。小麦も収穫時を迎えているし、ジャガイモも葉が枯れ出しているので、間もなく収穫の作業が始まるのであろう。2kmほど行った所に下居辺(おりべ)小学校があって、体育館の外壁に「ありがとう心のふるさと下居辺小学校」と書かれていた。良く見るとその脇に小さな字で、2012年2月10日下居辺小学校閉校記念式典挙行と書かれていたので、ああ、もうこの校舎は使われていないのだと思った。昔の学び舎が消え去って行くのは寂しいことだなと思う。斯く言う自分の中学校も今は消え去ってしまっている。そのようなことを思いながら歩いていると、1kmほど先にこの地で初めて学校らしきものが建てられた場所という案内板が建てられているのを見つけた。そこに建てられたのは僅か46㎡ほどの草葺の小屋だったという。開拓者の人たちはどこの地域でも子どもたちの教育を決して忘れることはなかったのだ。当たり前のように思うかもしれないけど、素晴らし取り組みではないか。世界に誇ってもいい日本人の特性ではないか。開拓の歴史を知るにつれて、この思いは次第に強く確実なものとなって来ている。とてもいい発見をした思いに感動しながら車に戻る。

 ここは落ち着かない場所なので、前回同様もう一つの士幌町の道の駅:ピア21しほろの方へ移動する。新しい道の駅なので設備も新しいし、何よりもありがたいのは、この道の駅では有料でごみ袋を買えばその後はそのまま回収して頂いて、分別は道の駅の方でして貰えるのである。少し溜まっていたゴミを安心して処理することができた。10時近くまであれこれ整理をした後、帯広方面に向けて出発する。今日の予定は池田町の郷土資料館の訪問だけである。その他近隣の町では休館のところが多いのだが、ここだけは開館しているようなので、ありがたい。先ずは少なくなりかけた燃料を音更町で給油して、そのあと食料などの買い物を郊外のスーパーで済ませて池田町方面へ。

 丁度12時の到着だったので、資料館に行く前にワイン城で食事をすることにして向かう。随分前だが、ここのメニューに牛一頭というのがあって、肉の部位のことは分からないのだが、頭から尻尾までの肉を調理してものがその内容なのだった。今はそのようなメニューはなく、普通の肉料理のメニューとなっていた。4Fのレストランに上がって直ぐに食べられるのかと思っていたら、何と待ち時間が30~40分もあるとのこと。いつもだとそれなら止めるということになるのだが、今日は邦子どのの好きな肉料理を不意にすることはできない、と心に決めて待つことにした。その間、車に戻ってパソコンの中身の整理をする。時間が来て、昼食は豪華だった。肉料理のほか、自由に取って食べられるものがたくさん揃えられていて、もうそれだけでも満腹近くなってしまうほどだった。ただ一つ、アルコール類が飲めないのが残念だった。これは仕方ない。十二分に満足してワイン城を後にする。

 その後は13kmほど道道を走って間もなく郷土資料館に到着する。驚いたのは、元中学校の校舎が町の郷土資料館となっていた。それもつい最近に開館となったようである。中に入って見ると、町の歴史が順を追って丁寧に展示紹介されていた。それによるとこの町は大きく二つの農場から開拓が始まったようである。鳥取藩池田家の池田農場ともう一つは民間の高島嘉右衛門という方の高島農場ということだった。その後いろいろな歴史の経過を辿って今日に至っているとのことだが、池田町は農業だけではなくその他の産業においても優れた業績を残して来ていることも判った。写真も撮りやすくて、あとで役立つと思った。

 その後は今日の宿は本別町にある義経の里キャンプ場にすることにして向かう。20分ほどで到着する。思っていたほど混んでいなかったので良かった。ここは以前にも利用させて頂いたことがあり、義経の里というのは何やら伝説があるらしい。北海道には義経の伝説が何箇所かにあって、確か別海町にもあったのを思い出す。英雄伝説は日本人でなくても皆憧れるのであろう。ここ本別町にも今日に生きるほどの義経ファンがいたということか。

 17時を過ぎれば涼しくなるだろうと期待していたのだが、どういうわけなのか今日はいつまでたっても風は吹かず蒸し暑さが残っていた。車の室内は28度を超えていた。もしかしたら今年初めての熱帯夜となるのかもしれない。やや寝苦しい夜を初めて迎えながら眠りに就く。

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第65回>

2018-07-29 04:49:24 | くるま旅くらしの話

【今日(7/29:日)の予定】 

道の駅:しほろ温泉 →(D・R274)→ 道の駅:ピア21しほろ →(R274・R241・R38・R242)→ 池田町郷土資料館 →  その先未定

 

【昨日(7/28:土)のレポート】 天気:くもり一時晴れ

<行程>

道の駅:忠類 →(R237)→ 道の駅:なかさつない →(R237・D)→ 芽室町郷土資料館(ねんりん館)→(D・R38)→ 清水町郷土資料館 →(D・R38・D274)→ 鹿追町郷土資料室 →(D)→ 道の駅:しかおい →(R274)→ 道の駅:ピア21しほろ →(R274・D)→ 道の駅:しほろ温泉

<レポート>

 2度目の道の駅:忠類の朝も前回と同様に朝霧が立ち込めどんよりと曇っていた。涼しいのはありがたいことである。今日の朝の散策は、忠類の道の駅からは山側にある、もう一本の筋道を歩くことにした。この道は国道よりは30m以上は高い位置にあるので、左方眼下に町の中心街を俯瞰することができる。しばらく歩いていると、町の共同墓地があった。整然と墓の並んだその墓地は、まだ新しいのか、まだ登録のない空きがあるようだった。旧忠類村に係わる方たちの墓地ということなのであろうが、この村が何時の頃から開拓が始まったのかはまだ知らないので、何とも言えないのだが、新しいところを見ると、もしかしたら戦後に開拓が始まったのかなと思ったりした。その後キタキツネ君に会ったりしながら、2kmほど歩いて折り返し、車の戻った時は1万歩を少し超えていた。途中に旧役場の庭に「拓魂」と書かれた開村30周年記念の碑があり、それは昭和54年建立とあったので、この地区は戦後の昭和24年に村が始まったというのを知った。従って墓地も新しいというのが腑に落ちた。今回の旅を始めてから2ヶ月が経って、昔に対する視点がそれなりに勘が働くようになっている気がした。

幕別町の忠類神社付近で出会ったキタキツネ君。キタキツネに逢うのはさほど珍しくもない。彼らは人間の住む場所に次第に近づいてきている感じがする。

 忠類の道の駅を初め近くのキャンプ場を含めると50台を超す旅らしき車が屯しており、一大集落を形成しているかの如き様相をしていた。10数年前には自分たちもここで大勢の仲間とパークゴルフを楽しんだのを思い出す。一度勢いが衰えた感じがしていたのだが、もう一度盛り返したのかもしれない。しかし、明らかに世代交代は進んでいるようである。自分たちが老人になっているということなのであろう。

さて、今日はまだ行ってない十勝エリアの近郊の町の郷土館などを見て回る予定にしている。当初隣の大樹町の郷土資料館から開始しようと考えていたのだが、開館が10時というので、それまで待つのは厳しいと判断し、先ずは芽室町の方から開始して、次は清水町、その次は鹿追町というふうに回ることにしている。

食事の後いつものように片付けなどをして出発は9時過ぎとなった。先ず中札内の道の駅に寄り、給水をする。ここの道の駅には清流札内川からとった美味い水が汲めるようになっている。それを頂戴して、飲料水の他車の水槽を満たす。これでしばらく飲料水も買わないで済むことになる。ありがたいことである。

その後芽室町の郷土資料館(ねんりん館)に向かう。ナビ依存なので、どこを走っているか判らないのだが、左右に広がる田園風景は、芽室町の豊かさを存分に感じさせるものだった。ジャガイモ、ビート、豆類、そして麦秋を思わせる熟れた広大な麦畑など、どれも内地では見られないスケールの大きいものだった。間もなく郷土資料館のねんりん館という所に到着。驚いたのは、この地が昭和後期の大相撲横綱の大乃国の出身地ということだった。館の入り口に手形入りの記念碑などがあって、有名人はどの地でもこのように町の誇りなのだなと改めて思った。その後中に入ったのだが、ここは子どもたちが昔を学びながら遊ぶような形をとり入れた施設となっているようで、夏休みでお母さんに連れられてやってきた子供たちが賑やかな声をあげて走りまわっているので、落ち着いて見学ができず、又展示や解説内容もどちらかといえば学童向きに作られているようで、物足りなさを禁じ得なかった。町の紹介のVTRがあったので、ゆっくり鑑賞しようと思ったのだが、子どもたちのはしゃぐ声に音声はかき消されてよく聞こえず、散々な目に遭って退却した。それでもこの地がやはり晩成社の幹部の一人鈴木銃太郎という方の力で開拓が始まったことなど、幾つかのポイントは押さえ知ることができた。

次は隣町の清水町の郷土資料館へ。ナビのガイドが終わってもどこにあるのかが判らず困惑したのだが、何と郷土資料館は図書館の二階にあったのだった。ネットなどの情報では、そのようなことは書かれていないので、現地では困惑することがしばしばある。もう少し勘を働かせる必要があるのであろう。2階への入口のチエンを外して頂いて、担当の方にご案内頂く。展示の概要はすっきりし過ぎていて、具体的な内容が明示されていないため、歴史は理解できても得るものが少なくてガッカリした。町の歴史年表などがあればありがたいと係の方に訪ねたのだが、結局町史掲載の年表しかなく、それをネットで検索して見て頂ければとのご案内を頂き、ここではもうそれ以上はお願いすることは止めにした。邦子どのは対応が気に入らなかったらしく、何だか余計な質問をしていた。悪い癖である。

清水町の後は、鹿追町の郷土資料室を目指す。途中、目的地近くに邦子どのが「鹿追開拓発祥の地」と書かれた碑があるのを発見。直ぐに車を停め見に行く。平成6年に建てられた、下鹿追開拓50周年記念碑とあった。それほど古くからの入植地ではないということが判った。そば屋さんがそのすぐ傍で営業していたので、店に入り蕎麦を食す。邦子どのがいろいろ店の女将さんに話しかけていて、おかみさんは東京から20年ほど前にこちらに来られたとか。話しが弾んで、他もお客さんまでが加わって、一時の賑やかさが溢れた。自分は黙ってひたすら蕎麦がやって来るのを待った。いつものことではある。

その後、目的地の鹿追町郷土資料室へ。中に入ったのだが、ここはまさに資料室という感じで、館というレベルではなかった。資料の大半は皆どこかでお目にかかっており、特に得るものは無くて残念。これは致し方ないことなのであろう。

その後は、今日の宿は士幌町の道の駅:しほろ温泉にすることにして出発。途中先回も寄った道の駅:ピア21しほろに寄ったりしながら着いたのは15時半近くだった。一休みの後、併設されている温泉に入りにゆく。ここの温泉はモール温泉で、湯の色が茶色である。北海道のこの辺りにはモール温泉が多い。太古の草の積もる地層を潜って地上に沸いた湯は、それらの温泉ミネラル(?)を含んだ独特の湯を提供してくれるのであろう。その湯にたっぷり浸かって車に戻り、ビールで一杯やって、何も文句なし。たちまちの爆睡となる。

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第64回>

2018-07-28 05:18:08 | くるま旅くらしの話

【今日(7/28:土)の予定】 

道の駅:忠類 →(R237他)→ その先未定(十勝地方の郷土館などを訪ねる予定)

 

【昨日(7/27:金)のレポート】 天気:曇り後晴れ

<行程>

道の駅:むかわ四季の館 →(D・235)→ 日高山脈博物館 →(D・R235)→ 新冠郷土資料館 →(D・R235)新ひだか町博物館 →(D)→ 新ひだか町アイヌ民族資料館 →(R235・R238)→ 様似町等樹院 →(R238・R236)→ 浦河町郷土博物館&馬事記念館 →(R236・R237)→ 道の駅:忠類(泊)

<レポート>

 朝いつものように付近を散策する。ここに泊まったのは二度なのだが、前回は大雨だったので、散策などとてもできない状況だった。今日は中心街の全てを歩こうと考え、先ずは中央通りと書かれた表示のある道を歩く、しばらく歩くと鵡川駅逓跡と書かれた昔を感じさせる建物があった。この町の昔については殆ど知らないのだが、想像するにシシャモだけではなくイワシなども含めた漁業で生業をしていた場所ではなかったか。しかし交通が発達すると更に発展の幅が広がったに違いない。あれこれ考えながら歩いたのだが、まあ、その歩きにくいこと。わざわざうねって歩きにくい歩道をつくったのではないかと思うほど、とにかく歩きにくいのである。我慢しながら1kmほどを歩いたあと、少し遠回りをしながら郊外を歩いて車に戻る。

 さて、今日の予定といえば、今日から日高地方の資料館を訪ねることにしているのだが、先ず日高山脈博物館を訪ねるつもりだったのだが、調べてみると何ととんでもない遠さなので、直ぐに変更する頃にした。日高町というのはとんでもない広さなのだということを忘れていたのだった。それで、先ずは新冠町の郷土資料館から始めて、新ひだか町の博物館、アイヌ民族資料館を訪ねた後、浦河町の郷土博物館と馬事資料館を訪ね、そのあと様似の三官寺の等樹院を訪ねることにしている。泊りは未定で、状況判断で決めることにしている。

 ということで、まずは新冠町郷土資料館に向かって出発する。未完で無料の日高道を走って10時過ぎには到着する。早速見学開始。とても分かりやすく展示解説がなされていたので、新冠町が明治以降どのように開拓が進められ、今日に至っているのかをしっかり理解することができた。ここには皇室の所有する御料牧場というものがあり、それが戦後の農地解放から、敗戦で故郷を失くした人たちなどの新入植者に解放されて、それ以降開拓が進んだというようなことが書かれていて、ふと思ったのは、北海道の開拓というのは一本線の時系列的な発展の歴史を辿っているのではなく、幾つかの時代背景のもとに進展があって今日に至っているのではないかと思った。この間に様々な人たちの交代ひしめきがあって、その結果が今日をつくり上げているのではないか。そのようなことを思った。

 その後新ひだか町の博物館へ。新ひだか町というのは平成の合併で生まれた町なのだが、自分にとっては何とも判りにくい町である。静内といえば直ぐに土地勘が働くものを、新ひだかなどというものだから、さっぱり見当もつかない場所になってしまっている。その静内の博物館へ行ったのだが、何と金曜日なのに休館となっていた。通常は月曜休館なのにである。わざわざ休館にしたのは何やら整理する作業があるということだったが、何で又この日なのだと思わずにはいられなかった。ここを訪ねるチャンスはこれで消えることになるに違いない。残念。その後はもう一つあるこの町の資料館のアイヌ民族資料館へ。高台にあって、ここなら余ほどの津波も大丈夫という場所だった。ここは開館中でじっくり見学することができた。訪問する前から、シャクシャインの戦いを指揮しアイヌの大酋長シャクシャインの像がここにあるというので、それを見たいという思いが強くてここに来たのだが、それを見ることが出来て感激した。直ぐ近くにシャクシャインが築いた砦(シャチ)跡があって、そこから静内の町全体と太平洋と町の景観の全てが俯瞰できる場所だったので驚いた。

シャクシャイン記念館脇、シャクシャインシャチのあった場所近くに建つ英傑シャクシャインの像。この像をどうしても見たかった。感動した。

シャクシャインという人物は、和人との交易に対してはアイヌの人たちが持つ誠実さそのもので対処して来たにもかかわらず、その後あまりにも不当な行為に明け暮れる和人に対して、我慢辛抱の限界を感じて抵抗の戦いに立ちあがったのだが,戦の力では及ばず敗れて虚しくなったという。松前藩の治世、アイヌとの交易に絡む商人の暗躍などを知るにつれて、この人物の心情の遣る方なさに同情が膨らむのである。像に表現されていたシャクシャインは、アイヌの英雄であることを存分に表現していた。

 その後はもう一度静内の町に戻り弁当を買って昼食を済ませた後、休憩なしで次の浦河町の方へ出発する。この余裕のなさが邦子どのには気に入らないのだと思うけど、遊山ではないので我慢してもらうしかない。当初今夜の泊りは浦河の後、もう一度来た道を引き返して三石の道の駅に泊ろうと思っていたのだが、邦子どのが地震が起きて津波が来たら逃げるのに困るのでアルコールは飲むななどというものだから、もうこうなったら、浦河の博物館や馬事資料館を見た後は、遠く大樹町か幕別町の忠類の道の駅まで行ってしまおうと決断する。

 浦河の前に少し足を延ばして、蝦夷三官寺の一つの等樹院のある様似迄行って写真を撮ることにする。その途中博物館と馬事資料館の場所も確認することが出来たので、迷うことなく行程を進めることができた。様似から戻って、浦河町博物館では、この地区が明治に入る前から馬の育成が行われていたようで、明治になってもかなり早い時期から開拓が始められていた場所であることを知った。詳細は帰宅後の課題となる。馬事資料館も傍にあって、馬の発生の歴史や生育のあり方などについても解説・説明があると共に、日本の競馬界を沸かせた数々の名馬の紹介などもあって、小さいながらも充実した資料館だった。

 その後は、まだ少し時間に余裕がありそうなので、天馬街道を走って幕別町にある道の駅:忠類に泊ることにして出発する。天馬街道(R236)を走るのは今年二回目である。先回は雨の中の走りだったので、周辺の様子がさっぱり判らなかったのだが、今回は晴天の中の走りだったので、標高500m超の高さを感じながらの走りとなった。数多くの渓谷などを眼下に見ながら走って平野に出て、16時半頃道の駅:忠類に到着。ここも今年二度目の泊りの来訪地となる。

 夕刻までかなり日射しの強い天気だったが、18時を過ぎると一気に涼しさが増して、快適な夜を迎える。ビールで一杯やって、その後はいつもの通り。昼は一時の灼熱地獄の場所があるけど、北海道は総じてやはり天国である。ありがたいことである。こうして真老の身でありながらも元気に旅が出来ているのは、天国を歩いているからなのだと思う。そして多くの先人たちが密かに支援して下さっているからなのではないか。旅はもう既に3カ月目に入っている。残りの時間も元気で行けるよう、心がけて行きたい。

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第63回>

2018-07-27 05:33:27 | くるま旅くらしの話

【今日(7/27:金)の予定】 

道の駅:むかわ四季の館 →(D・235)→ 日高山脈博物館 →(D・R235)→ 新冠郷土資料館 →(D・R235)新ひだか町博物館 →(D)→ 新ひだか町アイヌ民族資料館 →(R235)→ 浦河町郷土博物館 → (その先未定)

 

【昨日(7/26:木)のレポート】 天気:曇りのち晴れ

<行程>

道の駅:花ロードえにわ →(R36・D)→ 勇武津資料館 →(D・235)→ 道の駅:むかわ四季の館 →(R235・D)→ むかわ町穂別博物館 →(D・R235)→ 道の駅:むかわ四季の館(泊) 

<レポート>

 昨夜はすっかりご馳走になってしまい、そのままストンと寝たかったのだが、その後少し書きものなどをしていたら、あっという間にその日が終わってしまい、就寝は今日となってしまった。しかし老人それほど眠る必要はなく、深い眠りを4時間ほどものにして目覚めたら、もうすっきりした気分となって、ブログを発信した後付近の散策に出発。恵庭の道の駅には何度もお世話になっているのに、殆ど付近を散策したことが無く、道の駅と構内の野菜や花卉の直売所をうろうろするだけだった。今日は漁川(いざりかわ)の堤防を1時間余り歩いたのだが、それは素晴らしい散策の道だった。堤防の道だけではなく、この辺りは運動施設や公園などが造られていて、緑も多くて素晴らしい環境にあることを知った。今日は6kmくらいの散策だったが、今度来た時はもっとたっぷりと歩きを楽しみたいと思った。

 さて、今日からは日高エリアの資料館等を訪ねることにしている。先回は雨のため、平取町以外は一気にパスしてしまっているので、それを挽回しなければならないと思っている。9時過ぎに出発して、先ずは昨日訪ねた勇武津資料館へ向かう。これは番外のことで、実は昨日邦子どのがドジをしてレインコートなどを忘れて来てしまっていたのだった。気がついて電話をしたら、二階堂さんの方でも気づかれて連絡をされたらしいとのこと。自分の名刺に記載している電話番号が自宅のものだったため、連絡が取れずご迷惑をおかけしてしまった。忘れ物の所在ははっきりしているので、お詫び方々取りに行くだけである。レインコートなどどうでもいい、というわけにはゆかないらしく、何やら何年か前にファーム富田で購入したもので、今はもう売っていないレアな物だとか。

 40分ほど走って到着する。直ぐに二階堂さんともう一人の館員の荒川さんがニコニコ顔で迎えて下さったとか。その後車でお出でになり、お二人としばらく歓談した。これからはこの近くを通る時は必ず寄らせて頂いて、ご挨拶をしなければならないと思っている。とても話好きの楽しい方たちである。お会いできて本当に良かった。

 さて、その後は取り敢えずむかわ町の道の駅へ行き、一息入れることにして出発。道の駅:むかわ四季の館は、先回泊めさせて頂いた場所なのだが、とんだ大雨でむかわ町としては記録的な雨量だったと聞いた。そのため、町中の様子も道の駅の構内のことも良く判らないままなので、少し覗いて見ることにした次第。

 この後の行程をどうするか考えた結果、今日は少し離れたむかわ町の穂別地区にある穂別博物館を訪ねた後、ここに戻ってそのまま静養することにしようと決める。というのも、少し疲れも溜まり出しているので、ここにある温泉に入ってエネルギーをチャージすることにした次第。本当は穂別博物館は、恐竜化石中心の展示だけだと思うので、行かなくてもいいかと思っていたのだが、折角の機会なので、むかわ竜とやらを見ておくのも悪くないと思った。町の開拓の歴史などについては、昨日の苫小牧博物館で凡そのことは見て来ているので、勇払原野全体の開拓として捉えればいいのかなと思っている。

 ということで、またまた大幅な変更となってしまったが、今回は誰にも迷惑はかからないだろうと思うことにした。直ぐに穂別エリアに向けて出発する。途中までの道は先回平取の二風谷ヘ行った時と同じである。途中から別れて向かったのだがそこからの距離は平取の二風谷へ行く3倍もあるので驚いた。あまり舗装が良いとは言えない道を30分ほど走って穂別博物館へ到着する。

 早速中に入って見学開始。夏休みとあってか、小さなお子さん連れの若い両親たちが何組か訪れていた。子どもたちには恐竜というのは興味関心大のものなのであろう。むかわ竜というのは、首長竜の仲間で、海竜であるという。つまり海に住んでいたというから、ネス湖のネッシーの仲間が海に住んでいたのもいたということなのかも。とにかく、今の日高山脈のことを考えると、かつてこの穂別の地が海だったというのは想像もできないことである。地球というのは、かなりのスピードで内部、外部共に変動続けているらしい。人間の一緒などでは決して経験できない時間単位で動き続けているようだ。かつて北海道が人間の住みやすい環境であったこと。それゆえに北海道には各地に数多くの縄文遺跡などが残っている。化石はそのような短い時間では測れない地球の歴史を証明する証のような存在なのであろう。幾つもの恐竜の骨やレプリカが展示されていたが、何が何やらさっぱり判らず、ただ只むかわ竜が自分たちにいま何を告げようとしているのかだけを考えながらの見学だった。予想通りむかわ町の開拓の歴史などの展示は論外で、それについては何も知ることができなかった。でもいい体験だった。

ホベツアラキリュウの全身復元骨格。(全長8m、高さ3.8m)この地が海であり、このような生き物がアンモナイトの小さなものを丸のみにして食べていたなんて、信じられない想像の世界である。

 見学を終えた後は、再度道の駅:むかわ四季の館に向かって走り、14時半頃到着する。朝からの午前中は、少し寒さを覚えるほどの曇りの天気だったが、次第に雲がほぐれて、いつの間にか晴れの天気となっていて、暑さが急速に戻って来ていた。1時間ほど休憩の後、むかわ温泉に入りに行く。少し濁りのある湯だが、足を延ばしてゆったりと湯につかっていると、疲れが足の先から抜け去ってゆくのが判る感じがした。サウナにも入って汗を流し、体重を図ると出発時と殆ど変らず、今のところ自分の身体のマネジメントは問題ない様だなと思った。

 風呂から戻ってしばらく休憩の後、今日の夕食は特別に外食とし、むかわ名産のシシヤモを食することにする。これは邦子とのの長年の願望である、本物のシシャモを食べたいというのを実現させるためのイベントのようなものである。結婚50周年記念のささやかな食事なのだ。生ビールで乾杯し、シシャモは炭焼きで食べ、味わうことにした。自分的にはスーパーで売っているのも、ここの本物だというのもそれほど味は変わらないように思うのだが、それはあまり強調しないことにしよう。うまいビールにタコザンギを追加して、ささやかな晩餐を終え車に戻る。その後は、TVも見ずに寝床の中に直行する。

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第62回>

2018-07-26 05:36:18 | くるま旅くらしの話

【今日(7/26:木)の予定】 

道の駅:花ロードえにわ →(R36・D)→ 勇武津資料館 →(D・235)→ 道の駅:むかわ四季の館 →(R235)→ その先未定(日高エリア各地の資料館等を訪ねる予定)

 

【昨日(7/25:水)のレポート】 天気:曇りのち晴れ

<行程>

道の駅:ウトナイ湖 →(R36・D)→ 苫小牧美術博物館 →(D)→ 勇武津資料館 →(D・R234)→ 早来郷土資料館 →(R234・R237)→ 道の駅:マオイの丘公園 →(R237・D)→ 道の駅:花ロードえにわ(泊)  

 <レポート>

 朝少しばかりウトナイ湖の湖畔付近を散策する。ここは初めて泊った場所なので、付近がどのようになっているのかが良く判らない。すぐ傍に湖全体の保護施設のようなものがあり、そこから散策道があってネイチャーセンターまで行けるようになっているので、その道を歩くことにした。あまり人が歩くことがない様で、くもの巣や足元の草たちが群がって生えていて、少し歩きにくかった。無人の林の中を一人歩いていると、熊さんなどが挨拶に出て来るのではないかとちょっぴり不安を感じながらの歩きだった。所々ウトナイ湖を見渡せる場所があって、静かな穏やかな眺めを楽しんだりした。ネイチャーセンターにはまだ人気はなく、そこから引き返すことにしたが、帰り道は歩きやすいR36の歩道を歩くことにした。こちらは大型のトラックなどがひっきりなしに通るので、先ほどの散策路とは大違いの無粋な歩きとなった。

 今日は3~4箇所の訪問を予定している。本当はもっと多かったのだが、再度ネットで調べてみたら閉館している所があったりして、変更を余儀なくされたのだった。先ずは地元苫小牧市の美術博物館というのを訪ね、そのあと市内の郊外らしき所にある勇武津資料館を見て、更にその後安平町の早来郷土資料館を訪ねることにしている。時間が余った時は長沼町の郷土資料館を訪ねるのもいいなと思っている。

 9時半ごろ出発して、先ずは苫小牧市の美術博物館へ。ここはその名の通り美術館と博物館が一緒になっているという少し変わった施設だった。自分たちは見たいのは博物館の方だけなので、美術館の方は敬遠することにした。博物館の方はさすがだなと思うほどに洗練された展示がなされていた。主に町の歴史等を中心にした見学だったが、この町の成り立ちをよく理解できたように思う。その昔この町は勇払と呼ばれる松前藩の会所があった所で、北前船の寄港地の一つであり、又松浦武四郎が探検をする際の基地の一つでもあって、海運をベースに発展してきた町なのだというのを知った。その他得るものは大きかった。

 その後、勇武津資料館へ。地理的にここがどんな場所なのかは地図を見て知ってはいても、現地に着いて見ると一体どういう場所なのかが判りにくい感じがした。ただ、この資料館は明治になる前の江戸の末期に、江戸の八王子の千人同心と呼ばれた人たちの内の100名が、往時の国際事情からロシアの南下侵入から国を守るために、手を挙げて志願してその防備と開拓のために入植した場所であるということは知っていた。中に入るとその経過等が表示説明されていたのだが、文字が小さくて良く見えない状態だった。邦子どのが館員らしき人に苦情的なことを言ったら、その方も同感とのことで、その後いろいろ話をしている内に、千人同心に関する詳しい説明データをコピーして頂けることになり、真に有難かった。千人同心の人たちは悪条件のために多くの人たちが命を失い、結局は失敗に終わったのだが、その志は決して無ではなかったのではないかと思った。資料は後で読むことにして、その後二階堂さんとおっしゃる館員の方から、様々なお話を伺って大へん参考になった。特に興味深かったのは、イザベラ・バードというイギリスの女性探検家・旅行家が書かれた「日本奥地紀行」の初版本がここにあるという話と、東洋文庫でその訳本を書かれた元京大教授の金坂さんという方が、英国で手に入れたという日本の地図があるということだった。自分もそれを見せて頂いたが、英語の原文での著書を見るのは初めてだったので、興奮した。また、地図は実に精巧なもので、英文で各地名が表示されていたが、この地図は一体誰が作成したものなのか。それを伺ったら、どうやら彼の伊能忠敬の作成したものとのこと。門外不出を幕府が堅く禁じていた地図も、知らぬ間に外国へも渡っていたのだということを改めて知った。その他たくさんの興味あるお話を頂いて、すっかり時間が経つのを忘れ、気づけば12時半を過ぎていた。

 その後は次の早来郷土資料館へ向かう。途中昼食を食べられる場所があったらと思って行ったのだが、見つからぬままに資料館に到着。実はこの資料館がなかなか見つからず苦労したのだった。ナビの案内が終わっても見当たらないし、誰かに訊こうと思っても誰もいないのである。少し走りまわって、ようやくそれを見つける。ところが、中に入って見ると無人で、受付に名前を書いて、照明を点けて自由に見るという仕組みだった。一応昔の生活用具や開拓に係わる用具などは展示されてはいるのだが、町の歴史に関しては極めて大雑把で明治時代のことは数行しか書かれておらず、大正時代もほぼ同じで昭和のことは数多く書かれている年表が貼ってあっただけである。何だか少しがっかりしてしまった。町としては学童向けにこのような資料を展示するくらいの扱いしかしていないようで、あまり力を入れているという思いは伝わっては来ず残念だった。

 その後は道の駅:マオイの丘公園まで行き昼食をとる。14時半を過ぎており、かなり遅い食事となった。ま、これは致し方ない。その後もう1カ所くらいと、地元の長沼町の郷土資料館へ行こうとナビに行く先を入力するのだが、何度やっても福島県須賀川市の長沼郷土館しか出て来ないのである。後で邦子どのに指摘されて半笑いとなったのだが、先に調べた住所や電話そのものが須賀川市だったのである。そしてここの長沼町にはそのような施設はなかったのである。とんだドジな話だった。それを指摘した邦子どのもレインコートがないと騒ぎ出し、どうやら先ほどの勇武津資料館に置き忘れたらしい。二階堂さんに電話してそれを確認して、明日もう一度出向くこととなった。やれやれの話である。

 今日は実は我々の新しくなった健康保険証を知人の恵庭市在住の荒津さん宅に取りに行くことになっている。郵送先をお願いして、それが今日届いたというので、参上することにしたのである。夕刻にお邪魔しようと考え、それまでの間とうきびを茹でたり、水を汲んだりなどして時間を過ごす。それらの一連の作業が完了して、今日泊るのを予定している道の駅:花ロードえにわに向かう。17時頃に到着して、間もなく奥さんがお出でになり、お宅の方へご招待頂くこととなった。お宅は恵庭の道の駅から至近距離にあり、車を道の駅に置いて、歩いてお宅までご案内頂いた。先日ブログで恵庭の道の駅に泊ると予定を書いた際には、当日変更してしまったので、奥さんは道の駅までお出でになり、車を懸命に探されてても見当たらず、全く失礼してしまっているので、この当日変更というのは、決してやってはならないと深く反省している次第。

 4年ぶりにご尊顔を拝して、お元気そうなので安堵する。先日ご主人とはお会いしてしばしの歓談をしているのだけど、奥さんの方は今日までお会いできなかったのである。その後は、まあ、奥さんの心づくしの美味なる、魅力的な食べ物や肴の数々をご馳走になりながらサッポロならではのビールを頂き、話題のつきない歓談がいつまでも続いた。自分の好物のジャガイモもご用意いただいて恐縮した。旅では食べられない家庭料理の数々を頂けることは、本当に嬉しく有難いおもてなしである。又、帰り際には数々のお土産を頂き、恐縮の限りだった。娘と息子の里帰りのような気持なのだとおっしゃっていただき、そのお心遣いにはただ只頭が下がるだけである。本当にありがとうございました。今日は、ご主人は別荘の方へお出でになっており、話ができなかったのが心残りだけど、今度来た時はご主人ともゆっくり話をしたなと思った。しみじみと人の情愛を感じ味わったいい一日だった。

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第61回>

2018-07-25 05:58:10 | くるま旅くらしの話

【今日(7/25:水)の予定】 

道の駅:ウトナイ湖 →(R234・D)→ 勇武津資料館 →(D他)→ 早来郷土資料館 →(D)→ 厚真郷土資料館 →(D)→ 追分郷土資料館 →(D・R36他)→ 苫小牧美術博物館 →(R36)→ 道の駅:花ロードえにわ(泊)    <行程は前後するかも>

 

【昨日(7/24:火)のレポート】 天気:曇り一時晴れ

<行程>

道の駅:伊達歴史の杜 →(R37)→ 虻田郷土資料館 →(R3他)→ 室蘭市民族資料館 →(R36他)→ 登別市郷土資料館 →(R36)→ 道の駅:ウトナイ湖(泊)

<レポート>

 久しぶりの伊達の道の駅は静かで快適な夜だった。気温も全く暑くも湿気も無くて、何の不満も無い一夜だった。内地の人たちのことを思うと、何だか申し訳ない気持となったりした。朝になっても快適さは変わらず、今日もこのような天気の一日であって欲しいと思った。

朝の歩きで、この近くにある開拓記念館へ行ってみたら、閉鎖中とあった。やはりそうなのかと少しがっかりした。今回はダメでも来年は新しく生まれ変わった資料館が見られるのだから、それに期待することにする。そういえば今日訪問する予定だった白老町のプロトコタンも改修等で現在閉館中とのこと。時間経過とともに各種の施設も補修や改修などをしないと維持が難しくなるのであろう。致し方ないことではある。

さて、今日は先ず洞爺湖町の旧虻田町地区にある虻田郷土資料館を訪ね。その後室蘭の民俗資料化を見学して、さらに少し先ののぼりべつまで足を延ばして登別郷土資料館を訪ねて、泊りは戻って室蘭市の道の駅:みたら室蘭で泊る予定にしている。

9時過ぎ虻田資料館に向かって出発する。15分ほどで虻田地区に着いたのだが、場所が役場とは別だったので少し手間取ってしまった。資料館の前に入江・高砂貝塚館というのがあって、最初はそれが町の歴史なども展示しているのかと入ったのだが、こちらは全くの貝塚専門の資料館で、縄文の土器などがたくさん展示されていた。その後下方になる資料館を見たのだが、残念ながらこちらの方は学童ら郷土の昔を学ぶと行ったレベルのものでしかなく。諦めて戻ることにした。

伊達市の方向に向かう途中にある道の駅:あぷたに寄りたいと邦子どのが言うので寄ったのだが、どうやらその真意はここで食べられるウニ丼の評判を何やらの情報誌で知ったらしく、積丹で食べ損ねたウニ丼のことが再び燃えて甦ってきたらしい。しかし食堂の開始は11時からだという。それまで待つわけにはゆかないので、諦めてもらって伊達の道の駅まで行き小休止。何だかそのまま次に行くのはカワイソウナ気がして、もう一度11時前に道の駅:あぷたに行くことにした。そこで念願のウニ丼にありついて、どうやら少し納得した様子だった。自分はこの種の食べ物はどちらかといえば苦手である。従って、邦子どのが戻るまでの間、伊達の道の駅で買ったキタアカリのシンジャガを茹でて食する。ウニなどよりもこちらの方がはるかに美味なのに、気の毒だなと思う。これは本心である。

その後は、もう一度伊達の道の駅に寄り少々買い物をしたあと室蘭の民俗資料館に向けて出発する。室蘭の資料館は山手側にあって、思ったよりも早く到着することができた。室蘭といえば鉄の町、貿易の町ということができるが、この地も明治の当初には屯田兵が入植して開拓をしながら北方の守りに就いていたとのことである。屯田兵に関しては僅かな資料しか展示されていなかったが、もうそれが無くても凡その状況は推察できると自分は思っている。それ以外の展示や解説に着いては、概ね納得のゆくものだった。ところで、この後は登別の郷土資料館を見たあともう一度引き返して、室蘭の道の駅に泊るつもりでいたのだが、工業都市のシンボルとも言える排気ガスや粉塵などの臭いが立ちこめていて。民族資料館の辺りまで漂って来ていたので、邦子どのはマスクを着用し顔をしかめている状態だった。これでは戻って来て泊るのは無理だと考え、登別が終わったら、今日の内に苫小牧の方まで行ってしまおうと決める。泊りは道の駅:ウトナイ湖にすることにした。

登別の町に立ち寄るのは今回が初めてである。何度も通過してばかりいて、温泉の立ち寄り湯もしたことがない。従って、どのような町なのかもさっぱり判らない。ナビに従って行ったのだが、郷土資料館は町の奥の方にある大きなダムの傍にあった。このような場所では、ダムの水が溢れた時に大丈夫なのかちょっと心配になった。最近の気象状況は想定外のことが数多く発生しているから、要注意ではないかと思った。余計なことなのかもしれない。

中に入って知ったのは、この町は温泉依存などではなく、宮城県白石市の城主だった片倉氏が入植の決意をして来た場所だったのである。片倉氏の先祖の片倉小十郎といえば、伊達本藩の正宗公の時代の重臣として信頼の厚かった人物である。伊達藩とは言えないのであろうけど、殆ど伊達家の一族と考えてもいいのではないかと思った。知らないとはいえ、この末裔が一丸となって築いた町が現在の登別市であるとは、真に迂闊だったとしか言いようがない。明治3年から入植が始まり、その後も続いていて、ここはすっかり片倉氏のつくり上げた町なのだった。長くなるので、今回はまずその驚きを書くだけに止めたい。

その後は只管R36を走って、苫小牧に入り、千歳がぐんと近づいた場所にある道の駅:ウトナイ湖へ。16時半を少し過ぎた頃に到着する。駐車場がかなり込んでいたので、奥の方にある第2駐車場の方に錨を下ろす。夕食にはここの名物らしいホッキ貝の押しずしを奮発して、それを肴に一杯やってたちまちの爆睡となる。

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第60回>

2018-07-24 05:42:59 | くるま旅くらしの話

【今日(7/24)の予定】 

道の駅:伊達歴史の杜 →(R37)→ 虻田郷土資料館 →(R37)→ 伊達市開拓記念館 →(R37他)→ 室蘭市民族資料館 →(R36)→ 登別市郷土資料館 →(R36・R37)→ 道の駅:みたら室蘭(泊)

 

【昨日(7/23)のレポート】 天気:曇り

<行程>

道の駅:真狩フラワーセンター →(D) 真狩湧水汲み →(D)→ 道の駅:230ルスツ →(R230)→ 道の駅:とうや湖 →(R230・D・R453)→ 壮瞥町郷土資料館 →(R453)→ 道の駅:そうべつ情報館i →(R453・R37)→ 伊達温泉 →(R37)→ 道の駅:伊達歴史の杜(泊)

<レポート>

 今日は月曜日なので郷土館等は休みの場所が殆どとなる。従って自分たちは静養日としてじっとしていればいいこととなるのだが、なかなかそうはゆかなくて、一つでも開いている所があれば出掛けるということになる。この近くで今日開いているのは壮瞥町の郷土史料館だけである。ということで、今日の第一の目的はそこへ向かうこと。そして次がどこかの温泉に入ることである。

 さて、天気の方だが、昨夕羊蹄山はすっきりと見えたのだが、今日はどうなのだろうと、朝外に出て見るとそのままの状態だったので安堵した。晴れの天気ではないのだが、羊蹄山には雲がかかっていない。大体は曇りの日の場合、羊蹄山は見えないことが多いのだが、今年はラッキーといえるのかもしれない。とにかく目前にその壮大な山容を見上げると、心は落ち着くのである。気温も20℃くらいしかなく、涼しいというより寒さを覚えるほどだった。今朝の歩きは、道の駅から2kmほど離れた所にある真狩温泉という日帰り入浴施設までを往復した。途中はジャガイモ畑やビート畑、それにすっかり色づいた小麦畑などの中の道をカメラを構えながらの道中だった。羊蹄山を上手く捉えたいのだが、どのようにすればこの山の大きさを表現できるのか途方も無く難しい。結局どうでもいいような写真ばかりしか撮れなかった。

今朝の真狩村から見る羊蹄山の偉容。この大きな山を大きく撮ることは難しい。結局はこのようなものばかりとなってしまう。

 車に戻り二番寝をしていた邦子どのも起き出して、朝食となる。パンとレタスとスープだけの粗食である。朝は大体この程度の食事であり、自分のカロリー計算では凡そ5単位(1単位=80Kcal)、即ち400Kcalくらいとなる。現在1日1600kcalを目標にしており、あまりオーバーしないように毎日毎食の凡その摂取単位を記録するようにしている。このところ2~3単位ほどオーバーする日が多いので要注意である。それでも体重の方は入浴時の検針では、ほぼ同じ重さを維持しているので、ま、大丈夫だろうと思っている。糖尿君はいい加減な喫食を決して許してはくれないので、これと付き合うのは嫌なのだが仕方がない。

 9時過ぎに出発して、先ずは真狩湧水を汲みに向かう。昨日も少し汲んだのだが、今日は本格的に飲み水以外の分も水槽を満たすことにしている。10分ほどで汲み場に着いたが、もう大勢の先着者が水を汲んでいた。羊蹄山の湧水としてはここと京極町の噴き出し公園が有名だが、この真狩の方が水は汲みやすい。給水のための出しっぱなしの蛇口が幾つもあるのだが、24時間いつも出っぱなしなのに水の勢いが絶えることがない。改めて羊蹄山の大きさを思った。

 水を汲んだ後は隣の留寿都村の道の駅に行き、野菜などを買う。ここの野菜類も新鮮で品質の優れたものが多い。来た時は必ずここで買うのを忘れることはない。ほんとは店の中に豆腐が置いてあるのを期待したのだが、まだ届いていないようなので、直接それをつくっている豆腐屋さんまで行って買うことにした。1丁275円は少し高いのだけど、豆腐の大きさは普通のサイズの倍以上はあり、むしろ安いというべきであろう。自分の好みにあっているここの豆腐も又外すことはできないのである。手に入れて満足した後は、少し先の洞爺湖町の道の駅:とうや湖へ寄る。ここは特に買うものはないのだが、何故か寄って見たい気分になる場所なのだ。今日もただ寄るだけだった。

 そのあとは、洞爺湖の湖畔を時計回りに回って、壮瞥町に向かい、しばらく走って壮瞥町の北の湖記念館・郷土史料館へ。この傍を何度も通っているのだが、ここの寄るのは初めてである。横綱北の湖がこの町出身なのは知っていたのだが、記念館を訪れるほどの相撲ファンでもなかったということである。ただ、この場所が郷土史料館だったというのは今回初めて知ったのである。

 さて、中に入って見ると、ここは半分以上が北の湖礼賛の場所であり、20分ほど懐かしい現役時代の映像を楽しんだ。その後相撲の方はざっと見て、史料の方を見学したのだが、先ずはここはすぐ傍に不気味な有珠山や昭和新山が控えている場所であり、過去のこれらの火山の噴火の歴史などが詳しく展示されていた。この火山のことについては、道の駅の2階にも展示があるので、その恐ろしさについては先刻承知のことではある。肝心の町の開拓の歴史についてはあまり資料展示が無く、その経緯が良く判らなかったが、橋口文蔵という方がこの地の開拓や農業に先鞭をつけた方であるということだけを知った。粗末な拝み小屋も展示されていたので、やはり他の地区と同じように先人たちは悪戦苦闘しながらこの地の開拓に係わったに違いない。そしてあの昭和の大横綱の一人北の湖のパワーはそれらの先人たちの開拓魂を一丸にしたものから来ているに違いない、そう思った。

 その後は近くにある道の駅に行き昼食を済ます。少し休んだ後、どこの温泉にするかを調べたのだが、伊達市に伊達温泉というのがあるので、そこへ行って入浴の後は道の駅・伊達歴史の杜に行って泊ることに決めて出発する。伊達市までは20分足らずの距離である。温泉に入る前に伊達市のイオンで買い物を済ます。その後伊達温泉へ。ここの温泉は、自分はまあまあかと思ったのだが、邦子どのはもう来ないと何やら憤慨していた。ドライヤーの話などもしていたが、髪の毛に係わりのない自分にはよくは分からない。不満や憤りの種は無尽蔵のようである。

 その後道の駅に行って錨を下ろす。(錨などないのだが、その気分である)この道の駅に泊るのは2度目だろうか。久しぶりなので、何だか始めて来たような感じがした。ここへ来る前に伊達市の開拓記念館を確認しておこうと訪ねたのだが、ナビのガイドする場所には該当するものが見当たらなかった。ネットなどでは、建て替えのため閉館しているなどの情報もあるのだが、よく判らない。明日もう一度調べた上で対処することにしたい。夕刻になってかなり気温が下がり、20℃近くになった。TVのニュースを見ると、熊谷では41℃を超えるような暑さの新記録を記したとか。各地で暑さのために多くの犠牲者が出ているのを知り、今北海道にいることを有難いことだと改めて思うと同時に大水害で被災した人たちの健康と安全を祈らずにはいられない気持となった。どうぞ万全の配慮を心がけて下さい。地球は人間の感知出来ない新しい時代に入りかけているのではないか。そしてその種はもしかしたら人間という生き物が知らず負の種を播いてきたことに起因するのではないか。最近の気象状況などを見ていると、何だか地球の歴史の転換の始まりのような雰囲気を感ずるのである。今日は終わり。

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第59回>

2018-07-23 05:28:53 | くるま旅くらしの話

【今日(7/23:月)の予定 

道の駅:真狩フラワーセンター →(D)→ 道の駅:230ルスツ →(R230)→ 道の駅:とうや湖 →(R230・D・R453)→ 壮瞥町郷土資料館 →(R453・R37)→ 伊達市開拓記念館 →(R37)→ 道の駅:伊達歴史の杜(泊)

 

【昨日(7/22:日)のレポート】 天気:曇り一時雨のち曇り

<行程>

積丹町美国海岸キャンプ場 →(R229・R5他)→ 道の駅:スペースアップルよいち →(R5・D)→倶知安風土館 →(R5・D)→ ヒラフスキー場 →(D)→ 道の駅:ビュープラザニセコ →(D)→ 道の駅:真狩フラワーセンター(泊)

<レポート>

 昨夜は些か飲み過ぎたようで、ストンと爆睡に移ったと思ったら、そのままトイレにもゆかず朝まで眠りこけたのだった。5時頃目覚めて急ぎブログを発信して後、付近の散策に出かける。美国という港町はどのような場所なのかを知ろうと先ずはたくさんの漁船が係留されている港の構内をグルグル回って歩いた。この町は直ぐ近くまで山が迫っており、漁業で暮らしを成り立たせているのだということが直ぐに解った。その後住宅が比較的多い平地部を歩いたのだが、何とその中心部に積丹町の役場があるのを知った。ここは古平町を通過して直ぐの場所だったので、まさかここが町の中枢機能のある場所だとは思わなかったのである。積丹岬まではここから30km近くあり、随分偏った場所だなと思ったのだが、それなりの理由があるのであろう。町中には山〆と呼ばれた番屋も残っており、やはり昔からの漁業の町なのだと思った。積丹といえばウニが有名だが、本当に食べさせてくれる店はそれほど多くはなく、看板だけが残って、廃業となっている店も結構多い様である。1時間ほど歩きまわって車に戻る。

仲間の皆さんももう起き出しており、帰り仕度をされている方もおられた。今日は曇りの予報なのだが、現在は霧雨が降っていて、時々雨の粒も混ざって、かなり寒さを覚える天気に戻ってしまっている。暑くないのはありがたいのだが、寒さも度を超すと体調を狂わすので要注意だなと思った。今日の自分たちの予定は、このあと倶知安町の郷土風土館というのを訪ね、その後は未だしっかり調べ終わっていない胆振エリアの自治体を訪ねることにしているので、洞爺湖の方に向かうことを考えている。具体的な泊り先などは未定であり、体調や天気などの様子を見ながら決めることにしている。

9時少し前、皆さんとお別れして出発となった。倶知安に向かうのに島牧村や神恵内村を経由して行く道と、昨日来た道を戻って仁木町経由で行くのと、どちらを選ぶか少し迷ったのだが、雨混じりのこの天気では、日本海側を通っても何も見えず積丹岬なども霧の中ではないかと考え、結局昨日来た道を戻って余市から仁木町を経由して行く方を選ぶことにする。余市の道の駅に寄り休憩の後市内で給油と買い物を済ませ、R5を一路倶知安へ。11時少し前に着いて、早速館内へ。

町の歴史のことを知ろうといつも同じ視点で見て回っているのだが、ここの風土館にはそのような材料が乏しく、簡略化して展示されていたので、あまり参考にならなくて残念。年表関係の資料も現在作成を検討中とかで、今は配布できないとのこと。250円の入館料は少し高い様な気がした。

その後は倶知安の町中で弁当を買って昼食を済ませ、ヒラフスキー場へ向かう。一昨日余市の水産博物館で知り合った立花さんがこのスキー場で働いているので、ちょっと寄らせて頂いて、お話が出来ればいいなと思った次第。ナビに従ってスキー場の下の大駐車場に着いて、早速電話をかけたのだが、ただ今電波の届かないところにいるとのこと。これではどうしようもないので、諦めることにして、ニセコ町の道の駅に向かう。

走りながら思ったのは、今日は真狩村の道の駅に泊ることにしよう決める。昨日の飲み過ぎのこともあり、やや疲れているようなので、早やめに落ち着いて休養をとるようにしたい。14時過ぎには着くだろyから、それが十分可能である。ニセコの道の駅には良質の野菜類がたくさん並んでいる。もう半分くらいは在庫が少なくなっていて、良いものは残りが少なくなっていた。その中から新ジャガイモがあるのを見つけ、買う。相変わらずの人混みで、人気の場所だなと思った。

その後は途中で真狩湧水を少し汲んで道の駅:真狩フラワーセンターへ。今回2度目の泊りとなる。途中の畑などを見ると、前回の6月時点ではまだ小さかったジャガイモたちは大きく生長して花を咲かせ始めていた。ビーツの葉も大きく生長していた。この地では食用や観覧用の百合の栽培が盛んだが、早咲きの百合はそろそろ花を咲かせ始めているようである。明日はゆっくりそれらを鑑賞したいと思った。

道の駅には旅の車は少ない様で、自分たちの他数台程度のようである。いつもの定位置に車を留め、錨を下ろす。曇っていて見えなかった羊蹄山が、夕刻近くになるとその全容を現してくれて、その大きさに心を打たれた。これほどの山を目前に見上げられる場所はそれほどない。真狩村はいまでが恵まれた場所の一つではないかと思った。先人の場所の選択とその後の労苦・尽力が実って、今日があるのだと改めて思った。一旦午睡をとって、夕刻前に起き出し、夕食の後は少しTVなどを見ながら再び早やめの就寝となる。これで疲れはかなり解消するだろう。静かな夜を送る。

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第58回>

2018-07-22 05:14:10 | くるま旅くらしの話

【今日(7/22:日)の予定】 

積丹町美国海岸キャンプ場 →(R229・R5他)→ 倶知安風土館 → その先未定(胆振方面に向かう予定)

 

【昨日(7/21:土)のレポート】 天気:曇り後晴れ、蒸し暑し

<行程>

道の駅:スペースアップルよいち → 余市町内コインランドリー →(R229)→ 積丹町美国海岸キャンプ場(北海道HMCCの皆さんとキャンプ)(泊)

<レポート>

 余市の朝は最初は涼しかったのだが、町の中を一回りして歩いている間に湿気が増え出したらしく、7時過ぎに車に戻る頃はやたらに蒸し暑くなってきた。天気予報は曇りなのだが、時々晴れ間が覗く暑い一日となるのかもしれない。とにかく今日は海岸近くのキャンプ場で過ごすことになるので、蒸し暑いのは敬遠したいものである。

 キャンプ場へ行くのは午後にすることにして、それまでの間かなり時間があるので、溜まり出している洗濯物を何とかすることにして近くのコインランドリーに行くことにした。夏としてはそれほど汗をかかなかったので洗濯物は少ない方なのだろうが、それでも気がつくと結構な量となっている。邦子どのはかなりの綺麗好きなので、着衣については喧しい。自分は不潔レベルが低いので、なかなか対応が難しいのだが、あまり逆らわないことにしている。コインランドリーは冷房が不備だったので、大汗をかきながらの洗濯となった。2時間ほどで終わったが、邦子どのは気分が悪くなったようで、大丈夫なのかと不安になった。ま、どうにか回復して昼食は道の駅に行き、そうめんを食す。そうめんといっても水がないので、にゅう麺という奴となり、再び汗をかきながらの食事となった。

 一休みの後、今日のメインイベントである、北海道HMCCの皆さんのキャンプ会場である積丹町の美国海水浴場へ向けて出発する。初めての場所なので、どのような状態なのか判らないのだが、ま、行って見れば何とでもなることなので、不安はない。R229を30分ほど走ると積丹町に入ってすぐの場所が美国という所で、海水浴場は直ぐに判った。大きな駐車場があり、すぐ傍が海水浴場となっていて、今日は大勢の人たちがやって来て駐車場は満車の状態だった。仲間の方たちが予め場所をとっておいてくれたので、労なく駐車することができ安堵した。

 HMCCの集まりに参加するのも4年ぶりである。先日美深のキャンプ場でお会いした垂水、藤原のお二人も参加されていて、今日は会長の久保さんともお会いできて嬉しかった。また、小さなお子さんなども来ておられて、それなりに賑やかな早やめの夕食タイムとなった。飛び入りは自分たち二人だけで、その後は日が沈んで暗くなるまで楽しい歓談の場となった。

 久保会長が用意されて来た生ビールは実に美味かった。中ジョッキくらいの量を自分は10杯位は飲んだのではないか。中身の濃い超美味なるビアだった。ほどよく酔って、そのまま車に戻って天国へ。年に一度くらいはこのようなことがあってよい

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