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山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

明日からしばらくブログ更新を休みます

2010-10-22 03:04:02 | 宵宵妄話

 

明日から今年の秋の旅に出かけます。明日はどこまで行けるのかわかりませんが、明後日には山口県は萩の街を訪れるつもりでいます。今のところ決めているのはそこまでで、あとは帰りの日は来月の13日頃になるのかなと思っているだけです。行程のイメージとしては、今回は瀬戸内海周辺を中心にしたいと思っており、萩のあとは、しまなみ海道経由で四国を通って関西に出て、その後は信州などの紅葉も見てみたいと欲張っているのですが、さて、どうなりますことやら。

 
いつもだと携帯を使ってブログの更新をしているのですが、今回は寄る歳の波の厳しさに甘えることにして、そのようなややこしいことはせずに、旅だけを味わい、楽しみたいと思っています。ということで、明日からはしばらくの間ブログの更新を休ませて頂きます。しばらく音信不通となりますが、悪しからずご了承下さい。旅の途中で公共ネットが使える所がありましたら、その時の状況だけでも伝えさせて頂きたいと思っています。

 
ま、いつも毎回長ったらしい駄文を書き連ねて、皆様にご迷惑をお掛けしていますので、この機に改めてごゆっくりと再読でも賜われば嬉しく思います。では、失礼いたします。(馬骨拝)

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自然栽培への関心

2010-10-21 03:24:51 | 宵宵妄話

 今日は日帰りでRVランドの農園へ行ってきました。旅の出発日が決まったので、その準備もあるため日帰りとした次第です。先日播いたライ麦は元気良く芽生えて生長していましたし、ほうれん草や春菊も芽を出してくれていました。種を見ている時は、これが生きているとはなかなか思えないのですが、芽生えた小さな緑色の葉が風にそよいでいるのを見ると、ああ、生きているんだなあとハッキリ確認することが出来ます。農事をしていて一番嬉しく感激する時です。

 今、園主のAさんと自然栽培の勉強に取り組み始めています。そのことにちょっと触れたいと思います。

一般的に自然農法と呼ばれている農作物の生育方法があります。その基本は、耕さない、草取りをしない、肥料をやらない、農薬を使わないという考え方に基づいたやり方で、要するにやることといえば種を播くことと収穫をすることだけという方法です。農業に従事する人にとっては、真に好都合な農法で、種まきをすれば後は実りの獲物を得るだけというのですから、誰だって憧れる筈の農法です。でも、現実にはこのようなやり方を取り入れている農業関係者は少なく、特別視されているのが現状です。

 私自身もその昔、農事に携わっていた亡き母の手伝いをさせられましたが、勿論自然農法などではなく、種を播く前に良く耕し、堆肥などを入れて地力をつけ、種まきの際には元肥を施し、生長が始まったら途中で追肥などを行なって、生長を邪魔する憎っくき雑草どもを退治しながら稔りを待ち、やがて待望の収穫の作業に入る。これが農業の基本パターンだと思っていました。使用する肥料は化学肥料を含めて、作物の種類によって食物の三大栄養素であるN(=窒素)・P(=燐酸)・K(=カリウム)のことを考えながら施すのだと信じていました。

 この農事のサイクルの中で、どれだけ汗を流すかが百姓の勝負どころなのだと母に教えられたのを覚えています。頭を使うのを忘れ、身体を動かすのを怠けていると、その結果はたちまち作物の出来具合に反映されるのだとも。私の母は、元々農業などには無関係の人だったのですが、戦後の食糧難の時代に父と共に開拓地に入植し、やがて会社勤めに復帰した父の分を埋めるべく、子供たちのためにもと、働きに働いた人でした。好きでもなかった農業もやがては母の人生を完全に支配するものとなり、母はその中から多くのことを学び、自分の信条としていったように思います。その母の教えは、今でもいろいろな場面で生きていると思っています。

 ところが自然農法というのは、一見では真にグータラで、一所懸命農事に勤しむ百姓を愚弄するような感じがするのです。何しろ耕しもせず、肥料もやらず、雑草もほったらかしにしていて、最後の獲物だけをものにできるというのですから、真面目にやっている者から見れば信じられないというよりも、これはデタラメの放言に過ぎないと思わざるを得ないと思います。

自然農法の提唱者の中では、福岡正信、岡田茂吉などという方が有名ですが、まだ現役の頃にこれらの方の発想に興味を持ち、関連著書などを読んだことがありますが、農法というものは、頭の中で解るだけでは何の役にも立たず、実際実践してみて初めてその価値が解るものであり、土地も畑もない会社勤めの身では、ヘエーなるほどで終る結果となりました。半ば信じ、半ば信じられないなというのが感想でした。しかしまあ、現実にそのやり方を実践して成果を挙げておられるのですから、そのことだけは否定は出来ないと思いました。

それが、Aさんの農園を手伝うようになって、ちょっぴり関心が高まっていたのでした。そんな時、Aさんから自然栽培の話が出たのです。泊りの時の一杯やっている話の中で、りんご農家の木村さんという方の話が出ました。その時、これを読んだことがありますかと出されたのが、「リンゴが教えてくれたこと」(木村秋則著 日経プレミアシリーズ)という本でした。Aさんの話では、この木村さんという方は、自然栽培に取り組んで、あらゆる試行錯誤を重ねても上手くゆかず、切羽詰って死のうとした時に、ふと大自然の中に生きる樹木や草の有り様に気づき、そこにヒントを得て死の縁から甦って更に研究を続けて、ついにりんごの無農薬・無肥料栽培を成功させたとのことです。幾つかのエピソードや自然栽培(木村さんは自然農法とは言わず自然栽培とおっしゃっている)についての不思議な成果などについて「すごいですねえ」と話すAさんの感想を聞きながら、自分もその本を読んでみようと思ったのでした。

翌日早速本屋に行き、その本とついでにもう一冊関連本を買い求め読みました。一気に読み終え、そのポイントをメモしました。イヤア、久しぶりに感動しました。半端な取り組みではありませんでした。それまで全く存じ上げていなかったのですが、木村さんは今では広く海外にまで名の知られた方で、NHKのプロフェッショナルという番組にも出演されており、その自然栽培に関する普及活動は多くの成果を生み出しつつあるようです。又自然栽培に関する考え方も、種を播き収穫するだけというような極端なやり方ではなく、科学的な裏づけもきちんと為された真に合理的なもので、一々首肯できる説明に心を打たれました。

しかし、これだけではやっぱりダメなのです。農業とか農法とか言うものは、実践がなければダメなのです。理屈だけでは作物はその通りには育たないのです。理屈だけで育つのは、不自然栽培なのです。大自然のありのままの力をそのまま使って、力強く育て稔らせた(=稔ってくれた)という事実があって、初めて本物となるのだと思います。

このことは深い意味を持っているように思います。大自然というのは、実は皆同じではなく、極端に言うなら皆全く違うのです。木村さんのりんご農園のある青森県の岩木町と茨城県の筑波山麓のRVランドの農園とでは、自然のありようが本質的に違うのです。ということは、木村さんがおやりになったことをそっくりそのまま行なっても、同じ成果は期待できないと考えるのが正しいということでしょう。木村さんが気づかれ、強調されていることは自然栽培に関する原理・原則に過ぎないのです。このような言い方は無礼千万であるかもしれません。でもそのことは木村さんも認めてくださるのではないかと思っています。応用編は自分自身で見つけ出さなければならないのです。原理・原則を眼前の実態の中でどう活かしてゆくかは、自分自身の課題だと思っています。

ということでAさんと自然栽培についての勉強を始めることにしました。勿論リーダーはAさんです。Aさんも私も同い年なので、残りの時間があまり多くないことに気づいています。何しろ果樹中心の農園ですから、生育に時間が掛かるのです。樹木たちが早く育って早く実を付けてくれるとありがたいのですが、自然の有り様を崩せばこれはもう自然栽培とは言えず、さりとて悠長に構えてもおられず、辛いところです。ま、100%自然栽培とはいえなくても、安全で安心のレベルを確保しながら、良いとこ取りをしつつ、RVランド農園らしい成果を挙げてゆけばいいのではないかと思っています。

それにしても、この歳になってこのような楽しみを味わえるというのは真に嬉しいことです。Aさんに感謝すると共に、これからも一緒に大自然に学んで行きたいと思います。

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秋の旅は関西方面へ(予告です)

2010-10-20 01:25:05 | くるま旅くらしの話

 

毎年の旅は関東以西方面へ出かけることにしていますが、今年もそれを実現させようと考えています。思い立って、今週末あたりから2~3週間ほどの旅に出ようと考えています。只今あれこれとその行程について思案中ですが、なかなか妙案が見当たりません。今回は、あまり知人の方々にご迷惑をお掛けしないようにしたいとも考えています。そして出来るならば、動き回るのをなるべく少なくして、同じ場所に長く滞在してゆっくりその地の秋を味わいたいと考えています。


今のところ先ずは山口県の萩に行って、幕末の歴史を偲びたいと思っています。萩は何回か訪ねては居ますが、立ち寄ったのは松下村塾と松蔭神社くらいで、現地を見て、なるほどここが維新のエネルギー始動の拠点の一つかと思った程度でした。というのも、水戸出身の自分には、維新の契機は水戸学の興隆が多いに寄与していると考えているからで、その尊王攘夷思想の影響を受けて、最終的に維新につなげたのが長州や薩摩ではないかと思っているからです。


つまり、時系列的に見れば幕末の閉塞感を打破しようとしたのは、初めに水戸ありきなのだというわけで、これはかなりのこじ付けだとは理解しているのですが、幕末における水戸藩の動きというのは、声高に尊皇攘夷を唱えたものの、結局は藩内部においては、内紛に徒に時を浪費し、宗家徳川の御三家という立場、しがらみから抜け出ることが出来ず、時世を真に動かす力とはなりえなかったというわけです。間もなく映画「桜田門外の変」が公開されるようですが、この伊井大老暗殺事件は往時の水戸藩の複雑な有り様をも反映しているのではないかと思います。


ちょっと脱線しますが、私は水戸藩領地内で生まれ育った馬の骨だと思っており、その所為なのかあまり水戸の殿様方が好きではありません。超有名人の光圀という方についても、それほど尊敬できないと思っています。昨年、岡山県備前市の旧閑谷
(しずたに)学校を訪ねて改めて思ったのは、光圀の大日本史編纂などという事業よりも、庶民を含めての人材育成に力を注いだ閑谷学校をつくられた池田の殿様の方が世の中・人のために遙かに寄与されているなと思ったのでした。黄門漫遊記は作られた漫談であり、当時の時代背景を考えれば、権力者と庶民の間にあのような美しい関係がある筈もなく、それは大衆の単なる夢に過ぎず、仮に実話があったとしても本当に美談といえるのか疑問のように思います。また水戸では第九代藩主の徳川斉昭(=烈公)に人気がありますが、確かに歴代の藩主の中では出色の人物だったには違いないとしても、馬の骨から見れば、自己顕示欲の強い人物で、本当に世の中の太平を思って行動した人なのか疑問を感じます。ま、このようなことを言ったら、往時なれば高札場に極悪のお尋ね者として張り出され、草の根を分けても探し出されて、火焙りの刑に処せられたのかもしれません。


そのように水戸藩や水戸学について必ずしも好意を持ってはいないのですが、それでもやはり愛郷心というものがあり、長州や薩摩などの話を聞くと、ちょっぴり反発心のようなものがムックリと頭をもたげるのです。でも今回の旅では、そのような意味の無い心情を捨て去って、歴史の名残りと面影を素直に偲んで来たいと思っています。


次に考えているのは、もう一度しまなみ海道の島々のどこかでのんびり瀬戸内の秋を楽しみたいということです。4年前の秋、この地を訪れたときのことが思い出されて、もう一度それを味わいたいと思っています。高所恐怖症の癖に生口島と大三島に架かる多々羅大橋を3日間毎日歩いて往復したことを思い出します。守谷の地や北海道などでは決して味わえない旅情でした。今回は釣りをするのは止め、自転車を活用できればいいなと思っています。


もう一つ考えているのは、淡路島に寄って名産のタマネギを買い求めたいということです。どうしてそのようなことを優先的に思っているのか自分でもよく解らないのですが、とにかくその思いが強いのです。もしかしたら、淡路のタマネギが自分たちを呼んでくれているのかも知れません。これも楽しみの一つです。


今のところ以上3項目が旅の予定として決めている事項です。その他の予定はハッキリしていません。日本海側に行って夕陽を見るとか、鯖の串焼きを食べるとか、京都の表舞台を支えた裏側の世界を訪ねるとか、或いはもう一度古都奈良の史跡を巡ってみたいなとも思っています。又久しく訪ねていない紀州の各地も魅力的だし、帰り道のついでに飛騨や信州の秋も楽しみたいなどと、まあ、そんなに欲張ったら、ちっとも落ち着いた旅くらしなど出来るわけがないことに、あれこれと思いをめぐらしているところです。


何れにしましても行った先々での出来事や家内の体調を見ながらの旅くらしとなることと思います。この間ブログの更新は止めることにします。携帯電話からの投稿は疲れますし、新たなツールを用意するところまで行っておりませんので、旅の様子は戻ってからお知らせすることにしたいと考えています。

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掠れ行く結婚記念日

2010-10-19 08:58:25 | 宵宵妄話

 

今月ももう半ばを過ぎました。依然として日中の暑さは続いていますが、朝夕は寒さの到来を予感させるに十分です。長い間北海道の旅の記録を掲載している内に、いろいろのことがありましたが、その一つに私共の結婚記念日があります。(確か)42年前だったと思います(家内には内緒ですが、実のところ年度が曖昧なのです)が、10月10日がその日でした。当時は、その日は国民の祝日の体育の日で、毎年確実に祭日として記念日を迎えられると思っていたのですが、いつの間にやら祝祭日が移動するような法律が作られて、10月10日は必ずしも休日ではなくなってしまいました。 

タイトルに掠(かす)れ行くと書きましたが、実は私共のこの日は結婚した翌年だけはそれらしいムードもあったのですが、その又翌年からはずっと掠れ続けて来ていて、今頃は正直言ってその日が過ぎてから、ああそうだったか、という按配なのです。というのも結婚した翌々年の10月10日に家内の父(=義父)が海の事故で帰らぬ人となってしまったからでした。つまりその日は義父の命日となってしまったのです。亡くなった人を供養する日に、結婚のことを祝うとかいう気にはなれず、そのような気持ちで毎年この日を迎えている内に、いつの間にか忘れてしまうことが多くなってしまっていました。

同じ日に幸と不幸の出来事が重なるというのは、人生では良くあることなのかも知れません。この様な場合、その後の人生でどちらを優先するかといえば、これはその人によって様々な考え方があるのだと思いますが、私の場合は不幸の方が大切ではないかと思っています。人生の深みというのは、ちょっとオーバーにいえば、悲しみを知ることによってのみつくられて行くと思うからです。嬉しいこと、楽しいことを人は求めることが好きなようですが、悲しみや苦しみを伴わない喜びなどというものは、真に薄っぺらなものではないかと思うのです。だから10月10日は、私にとっては嬉しい日ではなく、不幸な出来事を思い出し、同じ轍を踏まないように思いを新たにする日なのでした。

しかしこの頃、この日を少し違う考え方で迎えてもいいのかなと思うようにもなりました。何しろ、もう42回もこの日を迎えたのですから、不幸絡みのことは脇に置いて、人生を一緒に歩んだ意義(まっこと難しげな話ですなあ)について考えてみることも必要ではないかと思うのです。このまま掠れさせてしまうと、今、何故二人がここに一緒に暮らしているのかに疑問を感じてしまうような気がするからです。

夫婦のことをお互いが水と空気のような存在と思っている在り様を、一つの理想とするような考え方がありますが、確かにそうかも知れません。直ぐそばにいつもあるのに、水も空気もその存在に心底気づくまでは、その大切さがわからないというのが、その意味するところだと思いますが、夫婦というのも現実の暮らしの中では、お互いの存在の大切さに気づくことそのものが異常なのだと思い続けていました。つまり、気づくということは、何かとんでもない難事にぶつかった時なのだと。だから気づかない方が平和なのだと。この考え方を全く放棄するつもりはありませんが、10月10日が私共にとって悲しみの思い出の日としてだけではなく、新しい出発の日であったことを確認する日として浮かび上がらせる必要があるのではないかと思いました。

考えてみればこの日は、新しい我が家のビッグバンのような日でもあったわけです。この世に生を受け、お互いの紆余曲折の時を経て二人の出会いがあって、私共の家庭というものが、スタートした日であり、そこから我が家の歴史が始まったともいえるのです。42回もその日を数えるとなれば、その内容はハッピーなどという言葉で彩られるものではなく、もっと枯れた重い大切なものという受け止め方になってきているように思います。これを掠れさせてしまっていると、最後は本当にその大切さが失われ消え去ってしまうような気がして、今回はハッと反省させられたのでした。

しかし、それに気づいたのはもうその日が過ぎてから後のことで、反省(=後悔?)先に立たず、です。今年は黙って見過ごしてしまいましたが、来年からは必ず何かを行なって、我が家のビッグバンを振り返るようにしたいと思いました。

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莫山先生の死を悼む

2010-10-18 03:11:50 | 宵宵妄話

 

の10月3日に莫山(ばくざん)先生が亡くなられました。有名人の方が少しずつこの世から去ってゆかれるのを知る度に、それぞれの方々が作られた時代が、又一つ終ってゆくのだなという思いが強くなります。

 
莫山先生とは、書家の榊莫山先生のことです。書家というよりも詩人というのか、或いは現代の飄々たる革新的風流人というのか、とにかく一風変わった生き方をされたアーティストではなかったかと思っています。それは莫山先生の書に見事に表現されていますが、その真髄は先生の生き方そのもの(=人生)が一つのアートであったことにあるように思えるのです。

 
私事ですが、中学から高校に進学した時、芸術科目として絵画・音楽・書道の3教科があり、その中から1つを選択しなければならなかったのですが、字が下手で汚い自分は是非とも書道を学びたいと選んだのでした。ところが、どういうわけなのか(多分文系ではなく理系志望だったためなのかと思うのですが)強制的に音楽の教科に繰り入れられてしまい、授業で書を学ぶ機会が失われてしまったのでした。やむなく独学で書を学ぼうと少しばかり取り組み始めたのですが、生来のグータラは如何ともし難く、高校・大学と中途半端なままに時間を過ごして来たのでした。それは本質的に今も変わっていないのですが、書に対する関心だけは、今も忘れないで居られるのは、莫山先生の書と出会ったからだと思っています。

 
20代の中頃、私は莫山先生の書と出会いました。40年を越える昔の話です。就職して仕事に慣れ出した頃に、もう一度書を学び直してみようと思い、書店で手本となるようなものを探していました。千字文や王義之の拓本などの手本はそれなりに持っていて、とにかく忠実にそれを真似ることばかりに励んでいたのですが、そのようなことばかりで良いのかと時々嫌気が差して、何か面白いものはないのかと思っていた時に莫山先生の書に出会ったのです。イヤア、その時の感動は今でも忘れません。形にとらわれず、躍々として、しかもどこかに気品のある、まさに活きた線が作り上げた字なのでした。それは簡単に真似のできないものでした。しっかり基本をマスターすれば、このような自由な心境を表わす表現ができるのだという手本だったのです。

 
それから後は肩の力を抜いて字を書くように努めました。私にとって字はアートではなく、表現の手段の又手段というような存在です。ものを書くためのツールであり、それが判りやすいツールであることが大切というような考え方なのです。もし字をアートと考えるならば、やはり莫山先生のように本物の詩を作る力が必要のように思います。心の吐露としての詩情の表現が、文字となり書となってそこに現れたとき、本物のアートとなるのだと思います。


 「花アルトキハ花に酔ヒ、風アルトキハ風ニ酔フ」という自然と人とのふれあいの微細なる感覚から「花アルトキは花ニ酔ヒ、酒アルトキハ酒ニ酔フ」というコマーシャル含みの表現への自在の変転は、書の力と相俟って、その心境の無限の広がりを感じさせてくれます。莫山先生の作品に触れると、単に字を巧みに書くだけの書家は、人間としては本物ではないように思えるのです。


ところで、最近は滅多に字を書かなくなりました。ペンを握って字を書くのは日記ぐらいで、その他は(手紙でさえも)殆どパソコンのワープロ機能に依存しています。ましてや筆を持って字を書くというのは、年に一度もない状況です。本当にこれでいいのかと不安を抱くことがあります。確かにパソコンは加筆も修正も自在であり真に便利なツールです。時に辞書を引くことさえも省略してしまうこともあるほどです。その利便さに馴れるに連れて、自分の頭の中が次第に軽く薄っぺらになってゆくような気がして、これじゃあ不味いんじゃないのと、一しきり反省の黒雲が広がるのを覚えるのです。


間もなく古希を越えようとしていますが、これを機に、そして改めて莫山先生の書と出会った時の感動の原点に戻って、物書きの世界とは別に書というものの世界にも足を踏み入れてみようかなと思っているところです。


莫山先生には一度もお会いしたことがなく、書籍やTVの映像などでお目に掛かっただけなのですが、とにかく心惹かれるお方でした。お亡くなりになられたことは本当に残念です。頂戴した感動の大きさに感謝しつつ、心からご冥福をお祈りいたします。

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収穫の秋から

2010-10-17 02:20:46 | 宵宵妄話

 

 実りの秋は収穫の秋でもあります。このところ雨の降らない限りは、毎週1泊2日で我が家からは50kmほど離れた石岡市の八郷地区にあるRVランドの農園に農作業のボランティアに出かけています。これが実に楽しみで、毎回旅に出かけるような気分なのです。ボランティアを開始したのは5月の連休明けからでしたが、7月下旬から8月一杯は旅に出ていて農事のことからは離れていましたが、戻ってからは暑さの酷い時は避けて、最近は安定的に通えています。

 5月の時に何種類かの野菜などを植えたりしましたが、それらの幾つかは酷暑に耐え切れずに姿を消してしまったものがあり、ちょっぴり残念に思っています。しかし猛暑を力にして育った作物もあって、旅から戻った9月ごろには花オクラが全盛期でした。オクラと言えば花が咲いた後の実を食べるのが普通ですが、花オクラは花を食べるのです。農場には農場主のAさんも常駐というわけではないため、花オクラの大半は一夜花として食に使われることもなく、畑の一角を見事な大輪で飾るだけでした。何しろ20株ほどもあるので、積んだ花を一時に全部食べるというのは難しい状況で、泊りの日にはAさんと二人で贅沢な花のご馳走を満喫したという次第です。

 
花オクラの咲いている様子。右は摘んだ花の様子。オクラの花よりもかなり大きく美しい。このようなものを食べてしまうのが許されるのか?心配後無用です。先ずは食べてみることです。はい。

 
ところで、花オクラというのはどうやって食べるの?と言う疑問が、まだ食べたことがない方には浮かぶことかと思います。ちょっと紹介しましょう。概して我が国では(外国のことは知りませんが)花をもろに食べるという発想は少ないようです。董立ち(=蕾から花になりかけた状態)した頃を食べる野菜はありますが、花びらそのものを食べるというのは少ないと思います。思いつくのは食用菊くらいのものです。さてその花オクラですが、先ず巨大な花びらを茎の所から摘んで、花の元の部分を千切って、花びらをバラバラにします。花の中には小さな蟻が花の蜜を求めて入っていることが多いので、注意してそれらを取り除きます。集めた花びら(数十枚ほど)を包丁でざく切りにした後、更に細かく切ってから、俎板の上でトントンと切り刻みます。しばらく同じ作業を続けていますと、オクラと同じ様にぬめりがでてきます。これを包丁で寝返しながら数回トントンを続けます。するとぬめりの塊のようなものが出来上がります。これでOKです。この塊を小丼にとって、ポン酢や白だし醤油にちょっぴり酢をたらすなどして食するのです。また、花びらをサッと湯がいてもオクラと同じ味が出てきますので、ポン酢や白ダシで食べるといいでしょう。基本的にはオクラと同じものですから、形が花となっているだけで、食味はそれほど変わらないといって良いと思います。花オクラを売っている店は都会ではなかなか見つからないと思いますが、もしお目にかかったときには是非試してみては如何でしょうか。

 少し回り道をしてしまいました。今回の秋の収穫の本命はサツマイモでした。その話をします。サツマイモは3種類を植えました。私が用意した苗は、ベニアズマとムラサキサカリの2種、そしてもう1種はIさんによれば案納芋ということでした。ベニアズマというのは食用のサツマイモの代表的な品種で、黄色のホクホクとした食感の芋です。ムラサキサカリはまだ食べたことはありませんが、紫芋の一種で、身が濃い紫色をしているとのことです。又安納芋は、本場種子島などのプレミアム付の有名品種で、良く手に入ったものだと内心驚いたのでした。Iさんはその苗を知人から大量に分けて頂いたとの話でした。

 サツマイモは暑さに強い作物です。ヒルガオと同じ仲間だといいますが、その花を見るまではとても同じ仲間だとは思えないほどです。ハマヒルガオなどは砂地に根を張って頑張って咲いていますから、サツマイモも元々痩せた土地などの厳しい環境でも育つ頑健な作物なのではないかと思います。今年程度の暑さには十二分に耐える力を持っているに違いありません。ということで、旅から戻ってみてみると、どの畝もしっかりと蔓を伸ばし、葉を繁らせていました。

 
ツマイモの花。右は北海道は浜頓別町のベニヤ原生花園のハマヒルガオ 。親戚だけあってさすがよく似ている。しかし根の育ち方は随分と違うようだ。

ツマイモの収穫は、子供の頃の感覚ではいつも中秋の名月にダンゴと一緒に初掘りのものをお供えするのが我が家の慣わしだったように記憶しており、先月下旬に3品種それぞれ1株ずつ試し掘りをして見ました。そしてそれらを何本か一緒に茹でて食べてみました。ムラサキサカリの紫色は強烈で、外の芋たちの色合いを脅かす存在でした。ベニアズマはまあまあの実り具合でしたが、安納芋と呼ばれる奴はどうもそれらしくない出来栄えで、まだ未熟の感じがしました。やはりもう少しそのままに置いておく方が良かろうということで、今月の今まで延ばしていたわけです。

 9月の彼岸過ぎから暑さが一段落すると、畑の多くの作物に虫が多量に発生して、サツマイモの葉もかなり虫に食い荒らされる状況となりました。虫たちもあまりの暑さに食欲を無くしていたのか、或いは増殖を休んでいたのか、とにかくあっという間に葉が蝕まれてゆくのです。自然界の生物の鬩(せめ)ぎ合いの凄まじさを見る思いがします。それで、まだ少し早いかなとは思いつつ、本格的な収穫作業を開始したというわけです。

 蔓を払って、一株ごとに丁寧に掘り起こしましたが、どの株も思った以上に順調に育っており、満足できる状況でした。先ずはめでたしめでたしという感じです。しかし実際に食べていないと、本当にいい出来具合かどうかは分りません。それで今度は紫色の侵略を避けるために、各品種毎に大きく輪切りにして蒸かして食べることにしました。その結果は上々でした。先ずムラサキサカリは今まで食べたどのムラサキ芋よりもホクホクして、冷めても食感は抜群でした。ベニアズマはこれはもう何の問題もありません。形も収量も満足できるものでした。ところがもう一つの安納芋は、どうやらムラサキ芋の一種だったらしくて、前回の試し掘りの時は未成熟で中途半端な色でちょっぴり疑問を抱いていたのですが、今回成熟したのを食べてみたら、何と普通のムラサキ芋ではないですか!安納芋なら橙色で、糖度も抜群のはずなのですが、そのような気配は全く見られず、どう見ても只のムラサキ芋そのものだったのです。Iさんが聞き間違えられたのか、或いは分けてくれた知人の方が勘違いをしておられたのか、その真因は判りません。安納芋には大いに期待していたのでちょっぴり残念ですが、そう簡単にこの地で出来るはずがないと思えば、不当な欲をかくことは禁物なのかも知れません。安納芋は幻でいいのだと自分に言い聞かせた次第です。

 というわけで、我が家では我一人がこのところ連日サツマイモを主食にしています。子供の頃にあまりにも毎日サツマイモを食べさせられた記憶が残っていて、大人になってからは、その反動なのか殆ど食べることがなかったのですが、この歳になって再びサツマイモ攻めに甘んじているのは、我ながら不思議だなと思っています。家内も倅もほんの少し食べればそれでもういいというので、残ったものの処理は自分が一手に引き受けているという状況です。

それにしても、しみじみ思うのは、サツマイモの味がその昔とはとんでもないほど上等になっていることです。焼き芋屋の客寄せ文句に「九里(栗)より美味い十三里半」(九里+四里=十三里+α)などとありますが、今のサツマイモには、栗を超えた紫色のホクホクのものが現われたりしていて、子供の頃の品質レベルとは格段に違っていることに驚かされます。そのことに感謝する一方で、食味の殆どが甘さの方に向かってしまって良いのかなとの心配を覚えながら、且つ昔のあの不味さをもう一度味わってみたいなどとも思うのです。老いて来た証なのかもしれません。収穫の秋の断片所感でした。

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北海道旅の記録の長期連載を終えて

2010-10-16 00:10:06 | 宵宵妄話

 

 1カ半という長期にわたる旅の記録の連載でした。読まれた方の中には、毎日同じ様なことばかり、良くもまあ飽きもせずに続けるものだと呆れた方もおられるのではないかと思います。でも日々の暮らしというものは、それが旅であってもなくても、とてつもなく劇的というような出来事はなかなか起きないものです。平凡な出来事の中に、ちょっぴり心を騒がせ浮き立たせるようなことが混ざるのが暮しというものです。旅の暮しというのもその意味では似た様なものだと思います。でも一つ大きく違うのは、旅暮しは毎日が新鮮で刺激的だということです。私共が飽きもせずに毎年北海道の夏を訪ねるのは、単なる避暑や観光などではなく、様々な出会いを通してその新鮮さと刺激に憧れるからなのだと思います。

 さて、長い間記録の掲載をしている間に、熾烈だった猛暑の怨念も次第に収まって、今では朝夕は涼しさを通り越して寒さを感ずるほどの気候となりました。ようやく生きた心地がするようになったと言ったら、些かオーバーなのかも知れませんが、今年の暑さは自分自身の加齢から来る体力の衰えに追い討ちをかけるほどの厳しいものでした。やはり人間が人間らしく穏やかに生きてゆくためには、ほどほどの暑さとほどほどの寒さが必要なのだなとしみじみ思うこの頃です。

 この記録を掲載している間は、真に怠惰な時間を過ごした感じがします。何しろブログの更新の方は転写の作業だけで済みますので、書くための努力を必要としません。書くことをライフワークのスタイルにしようと考えているくせに、一度楽する味をモノにしてしまうと、煩わしいことは忘れてしまおうなどと平気でそう思うようになってしまうというのは、呆れ返るというよりも恐ろしいことのように思います。反省しきりです。

 この1ヶ月半の間に、世の中ではいろいろな出来事がありました。天気の変動だけではなく、政治・経済界の動向も大きなものでした。民主党の党首選び騒動の後の中国のゴリ押し外交問題などの発生、景気の先行き不安感の増大等など毎日毎日良くもまあこのような暗い話ばかりが湧いてくるものだろうと、世の中の流れの方向が楽観ではなくひたすらに悲観を目指しているように思えてなりませんでした。辛うじてノーベル賞をお三方が受賞されるという話などがあって、そう、昨日はチリの落盤事故で地下700mに69日間も閉じ込められていた33人が全員無事に救助されたという明るい話もありました。ま、ちょっぴり救われた感はありますが、それが世の中の流れを明るい方向へ引き戻してくれるとも思えません。

このような時に何が一番自分の迷いを解きほぐしてくれるかといえば、本当は旅に出かけることなのだと思っています。でもそれが直ぐに叶わぬ状況の中では、とにかく自然と対峙してありのままのその姿を見つめることが有効のような気がします。それを一番実現できるのが歩きです。

北海道から戻った後の歩きは、旅の間にあまり歩けなかった反動もあってなのか、9月などは毎日の平均が1万7千歩を超え、月間では52万歩を超えました。歩きのときの自然観察は実に楽しく、またあれこれと思いをめぐらすのも至高の楽しみです。道端の野草たちや川の流れ、樹木たちと風との囁きあいなどを立ち止まって聴く時には、戦国時代の世捨て人のような感覚に捉われます。どんなに地球が破壊され浸蝕されても、大自然というものには悲観も楽観も存在せず、世捨て人にいろいろなことを教えてくれるようです。(自然と対峙している時にはもはや自分は世捨て人となっていることは明らかのような気がします)

もう一つ迷いを覚ましてくれるのは農事に勤しむことです。現在市からお借りしている菜園は、わずか30平方メートルに過ぎませんので、野菜の手入れなどをしてもすぐに終わってしまい、物足りないのです。それでこのところ雨が降らない時には、毎週1泊しながら、我が家から50kmほど離れた石岡市にあるRVランドの農場に出かけて、果樹や蔬菜園芸などの面倒見のボランティアをさせて頂いています。1.5ha(約4500坪)の農場の中での様々な樹木や作物や雑草とのしみじみとした対話は、歩きの時とは違った空間の中で満たされたものとなっています。


「マリちゃんよ、暑かったなあ今年の夏は」

「んだね、あんまり暑いんで、わだしも花を持ち上げる元気がなぐなっちゃったよ」

「そこは高畝なので、なかなか水が来ないからなあ、悪いなあ」

「そうだよ、アンタがわだしをこんなどこさ植えっからだよ」

「だけどなあ、マリちゃん、お前さんに囲んで貰って、中のケール君の葉っぱにつく虫を追っ払って欲しかったんだよ」

「そんなごど言ったって、わだしが参っちゃったら、元も子もねがっぺよ」

「そりゃまあ、そうだけど。でもケール君も全滅しちゃったなあ」

「虫に食われる前にしなびて消えちゃったんだがら、それはやっぱりアンタの畑作りと、種のまき方がへだ(下手)だったからだっぺよ」

「そうだよなあ、勉強不足だよなあ」


マリちゃんというのは、マリーゴールドのことです。茨城の地のマリーゴールドは、茨城の田舎ことばに染まっています。今の時期、辛うじて生き残った畑の脇のマリーゴールドは、涼しさを味わって生き返ったように最後の花を勢いづかせて咲いていますが、その心境たるや複雑に違いありません。育ちそこなったケール(キャベツの原種で結球しない植物。日本では青汁などに使われることが多い)の残した何も生えていない地面を見ながら、マリーゴールドに叱られるのに甘んじなければならないと思った次第です。

 ま、このようにして時々浮世の迷いから開放されながら日々を過しています。しかし何時までも世捨て人の真似事のようなことをしてばかりいるわけにも行かず、そろそろ目を覚まして浮世の迷路を少しずつ前進してゆかなければならないと思っています。ということでこれからは再び物書きの難行苦行(?)の楽しみに向かうことにしました。

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2010年北海道くるま旅でこぼこ日記:第44日(最終日)

2010-10-15 00:01:45 | くるま旅くらしの話

第44日 <8月21日(金)>(最終日)

 

【行 程】 

阿武隈高原SA → (常磐道へ) → 中郷SA → 友部SA → 自宅(帰着)

<201km>

 

今回の旅も今日で終わりとなる。高速道のSAでの泊りは味気ない。まさに仮眠と言う感じだ。道の駅も本来は仮眠なのだろうが、くるま旅くらしの中では仮眠のレベルよりはずっと上の方に位置づけられるような気がする。今回の旅でも熟睡した道の駅の夜は多かった。道の駅もSAも本質的な機能は同じだと思うけど、高速道という道は親しみを削っている様なところがある。自動車専用道路というのは、そのような特性を排除できないものなのかも知れない。などと思いながら、朝外に出てみると、周辺の山には靄が掛かっていて、朝ぼらけという雰囲気だった。それほどの高さはない様に思うけど、やはりここは高原なのだなと思った。排気ガスで汚れた空気を只今浄化中ということなのかもしれない。

邦子どのが今回の旅の最後の朝寝を楽しんでいる間にご飯を炊いておこうと、コンロを外に持ち出し、公園のベンチの横の石の上に置いてその作業に取り掛かる。これが今回最後の飯炊きかと思いながら、20分ほど辺りの景色を眺めて楽しみながらの時間だった。このところ炊事作業は自分がすることが多い。邦子どのの腹の調子があまりよくないのは、そのせいなのかもしれない。いや、これは冗談。

少し早めに食事を済ませ、最後の走りにとりかかったのは7時半だった。あと200km余の走行である。ゆっくり走っても3時間ほどあれば帰宅できる距離であろう。磐越道も常磐道もここからは2車線以上なのでゆっくり走るのには心配が少ない。昨日からずっと追い越され続けているが、今日もまたそのペースを崩さずに行くことにする。

いわき市郊外から常磐道に入り、中郷SAにて小休止。もうここは地元の茨城県である。10分ほど休憩して直ぐに出発。少し走ると日立市である。山と海の狭間の狭い土地に工場と住宅が密集している。ここが自分の生まれた場所なのだが、戦争で疎開したままで戻れなかったので、実際にどこに自分の家が在ったのかは全く知らない。太平洋は暑くて膨れ上がった空気の彼方にけぶっていた。山沿いを走る常磐道の幾つかのトンネルを通過すると、坂を下って平野部となる。それをしばらく走ると我が故郷の水戸市となる。この辺は見慣れた懐かしさを感ずる景色が広がっている。間もなく友部SAに到着。ここで一息入れて、最後の一走りとなる。次第に出発前の暮しの欠片が混ざった風景となり出し、間もなく谷和原IC。そこを出ると2分も掛からぬうちに我が家となる。

10時15分我が家に到着。最後の方は少し走り急いだのか、思ったよりもかなり早い到着となった。暑い。めちゃくちゃの暑さである。土曜休日で在宅していた倅の話では、これでもまだ良い方だという。倅は夏風邪を引いて体調を崩しているらしい。炎暑地獄の中に車を止めて、最後のメモを書き込む。全行程5,090kmの旅だった。

 

 

<旅から戻って>

これほどの灼熱地獄が待ち受けているとは思わなかった。絶対的には過去にももっと暑い夏があったのかも知れないけど、この歳になってこれほど悪意に満ちた自然界の暑さというものを感じたことは無い様に思える。とにかく旅から戻った日は、荷物の降ろし運びはしたものの、日中のあまりの暑さに身の危険を感じて外へ出ることを控えたのだった。それでも庭に蔓延る雑草とこの暑さにもめげずにのさばる畑の雑草は許しがたく、夕方になって蚊の攻撃に備えるべく万全を期してその退治に敢然と挑戦したのだったが、それが終るともはや何をする気も無くなって、ひたすらに惰眠を貪る時間が続いたのだった。

旅が終って早や1週間が過ぎようとしている。長いはずの時間なのだが、怠惰の身にはあっという間の時間だったような気もする。今回は旅の当初からブログの投稿が叶わず、中途半端な更新となってしまったため、それに気づいた後は今までに無く丁寧に毎日の記録を書くように努めたのだった。携帯でのブログの更新が無かった分だけ、その後の記録の整理は自分の思いをより多く書き留めることが出来たように思う。

そのようなことから、記録の整理は順調に進んで早めの印刷が可能となった。しかし、毎日丁寧と言うか、あるいは余計なことをと言うか、やたらに感想籠めて書いたため今までにない枚数の多いものとなってしまった。読むのが苦手の方には迷惑な話となるに違いない。

今年の北海道は総括的な所感を述べれば、異常気象に攪乱された暮しだったの一言かも知れない。例年次第に異常気象の兆しを実感するようになって来ているのだが、近年ますますその酷さの度合いが増していると思わずにはいられない。蝦夷梅雨は確実に定着し、内地の梅雨に連動して日本の雨季を拡大している感じがする。北海道に梅雨は無いという何年か前まで当たり前だったコメントは、もはや神話化した感じすらある。どの時代にも似たような気象異常という現象はあったのだと思うが、少なくとも今まで自分が生きてきた時間の中では、これは最近明確に認識できる事実である。

7月の北海道は、夏を実感させる日が少なかった。内地は猛暑日が膨れ上がり、連日熱中症による被害が報道され、実際出発までの暑さには辟易していたのだったが、北海道に来ていると、どこに熱中症の天気があるのかという感じだった。とにかく太陽の顔を見られる日が少なかった。太陽が居座れば内地と同じように暑さが問題になるのだと思うが、7月の北海道にはそれはなかったように思う。寒くて半そでシャツやTシャツを着ることができなかった昨年の別海の7月に比べれば、今年はずっと夏らしい日が多かったと言えるけど、それにしても蝦夷梅雨はもはや蝦夷などと言う呼び方を取り除いて定着してしまったということなのであろう。ま、何時までも天気についての愚痴などいっても始まらない。

ものごとには全て広さと深さがあると考えるが、旅における出会いについても、同じことが言えるように思う。出会いにおける広さと言うのは、別の言い方をすれば出会いの多さであり、新しい出会いの回数と言うようなことになるのかもしれない。そして、深さと言うのは、出会いの中身の深化を意味するのではないかと思う。このように考える時、今回の旅においては圧倒的に深さが増したように思う。新しい出会いも幾つかあったけど、今回は旧知や知己の方々との交流の深まりが大きかった。

結局のところ、旅というのは出会いや感動という宝物探しだと思っているけど、その落ち着く先は見出した宝物を磨き、その輝きを堪能することにあるのではないか。今回は、幾つかの宝物が光り輝くのを見たというのが、大きな収穫だったような気がする。これから先も、宝物探しを続けて行くつもりであるけど、同時に懐中の宝物を徒(いたずら)に秘匿しているだけではなく、少しずつ磨いてゆきたいと思っている。

邦子どのの静養という目的もおかげさまで叶えることができ、たくさんの元気を恵んで頂いた皆様に心からお礼申し上げたい。ありがとうございました。

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よかった~、。チリ落盤事故の救出に思う

2010-10-14 07:44:39 | 宵宵妄話

 今日(1013)は早朝からTVは賑やかで、どの局もチリの落盤事故の救出報道一色に染まっていました。さもあらん、8月5日に発生した落盤事故から2ヶ月以上も経って、夢としか思えなかった救出のその瞬間の日を迎えたというのですから、世界中が興奮するのは当然だと思います。この出来事を知っていて平然と横見して見過せる人がいたとしたら、それは人間性を失ったとんでもない破綻者か、或いは心情感覚を失った似間だといわれても仕方ないのではなでしょうか。

考えてもみて欲しいのです。真っ暗闇(多少の灯かりはあったとは聞いていますけど、もしそれが断たれたら闇以外は何もないという恐怖の世界なのです)の世界の中に、33人の仲間が居るとはいえ、たった50㎡の退避のために作られていた空間と崩落していない真っ暗な坑道が2km足らずしかない世界に閉じ込められているのです。先の見えない生死の境目に居るのです。想像するだけで身の毛もよだつ感覚に襲われずにはいられません。生き埋め地獄と全く同じではありませんか。その様なとんでもない環境に2ヶ月以上も閉じ込められているなんて、これはもう人間の限界を超えた恐るべき超体験といわざるを得ないような気がします。

 私は閉所恐怖症持ちです。ですから、このような闇の地下の世界などに出向く勇気など全くありません。名のある鍾乳洞でさえも、入るなど真っ平ご免なのです。それなのにこの人たちは、生活の糧を得るためとはいえ、5kmもあるらせん状の坑道を辿って、地下700mもの現場で採鉱の仕事に携わっていたのでした。その勇気に感嘆すると共にその様な仕事を選ばざるを得なかったという暮らしの現実にやりきれない人の世の過酷さを呪いたい気がします。好き好んで危険を冒してこのような仕事を選ぶ筈がありません。ハイリスク・ハイリターンというのが本来の稼ぎの定理みたいに言われていますが、この人たちは決してそうではないように思われます。ハイリスクの割り合いにはローリターンというのが採鉱労働者の実態ではなかったかと思うのです。

 今回の事故については、考えなければならない側面がたくさんあるように思いますが、私は何よりも先ず、33人の人たちがこの想像を絶する困難事態を生き抜かれた力、人間としての力を思わなければならないと思うのです。

突然の崩落事故で、地上との音信の断たれた暗黒の世界に、当初は救いの兆しも無いままに17日間も頑張って生きながらえたのです。この間地上の人たちは彼らが無事で生きていることを全く知らなかったのです。17日というのは短い時間ではありません。ましてや暗黒の世界に取り残された状況なのです。人工衛星から見放されて宇宙に投げ出された飛行士よりも、何も見えない暗闇の中に居るというだけでも、より過酷であるといえるかも知れません。

17日経って、地上からのたった直径10cmのボーリングの穴が届き、それを見つけたときの全員の歓びは如何ばかりだったかと思います。まさに暗闇の中に一筋の光明を見出したことでありましょう。その喜びは察するに余りあります。このことは彼らに絶望から希望へと生きる力を与えたに違いありません。しかし、現実はやはり暗闇の中であり、何時本当の助けの手が届くかははっきりしないのです。地上からの励ましや国を挙げての様々な支援は、彼らの生きる希望を少しずつ強くしていったとは思いますが、閉じ込められた世界の中では、常に不安と絶望が押し寄せて、いたたまれなくなる時が何度もやって来たに違いないと思うのです。なんといっても地上からの最初の救出見込み時期はクリスマスまでにはということだったのですから。

中国の古人の教えに、人生五計というのがあります。生計、家計、身計、老計、死計の五つの生きるための計りごと(=計画)を指しますが、今の私にとっては、老計、死計のことが大きく身に迫っててきている感じがします。即ちどのように老いるか、どのように死ぬかということです。未ださっぱり見当もつきません。仮にその筋道が見えたとしてもそれが実現できるかどうかは分からず、今気づいているのは、老も死も覚悟をしておくことが重要だという気づきだけです。PPK(ピンピンコロリ)があの世に逝く理想形だなどと冗談めかして言っていますが、その実現は不明であり、そうなることを願って何よりも健康であることが絶対条件だと考え、身計に努めているところですが、それだけでは老計、死計を乗り越えることは出来ず、やはり肝要なのは覚悟ではないかと思っています。

さて、今回の崩落事故のことを思って見ますと、老計も死計も平常心でいられるときの話で、その様な悠長な話は現実世界ではそれほど通用しないような気になるのです。老計はともかく死計というような計りごとなどは、通用しないように思うのです。何の前触れもなく突然やって来るのが死というものの実相のような気がします。病に取り付かれてしまった時の死は、ある程度残りの時間の計算ができるかも知れませんが、PPKで逝こうとする場合は予測が不可能のようです。

いつ何時大地震が発生して、出先のビルの中で、或いは地下道の中で崩落等があり閉じ込められ、そのまま救出不能の状態で終りを迎えるかも知れず、或いは又いつ交通事故に出くわすかも知れず、予想もつかない死に方が待っているかも知れません。その様なことを思う時、やはり今の内からしっかり覚悟を決めておくことが大切だと改めて思うのですが、一体覚悟を決めるというのはどういうことなのか、これが又難しいように思います。いずれ生き物は必ず死ぬのだとは解っていても、予めの覚悟などというのは世迷言に過ぎないのであって、最後の最後まであがき続けるのが人間の姿であり、動物の本能なのかも知れません。

今回の崩落事故で、生き地獄の苦しみに苛まれた人たちは、死というものに対して、その覚悟ということについて、どのような葛藤を抱きながら、過されたのでしょうか。その本当の姿を知りたいと思いました。それは決して興味本位のことではなく、死計を真剣に考えようとする気持ちから、ご教示頂きたいことなのです。いずれ手記や実録などが世に出ることだろうとは思いますが、純粋な心情を知りたいというのが私の願いです。そのことは私自身のこれからの生き方(=死に方)に大きな影響を及ぼすに違いないと思っています。

今回の崩落事故では、真に幸いなことに、奇跡の生還を果たすことが出来ました。そのことは何よりも嬉しいことであり、踊り狂って祝福を奉げても何の支障もないと思います。本当によかったなあ、と思います。

しかし残された課題も多いと思います。特に大きいのは、このような事故を起こさずに済んだはずなのにという、治世のあり方ではないかと思っています。このあと、この炭鉱は恐らく閉鎖されるのだと思いますが、奇跡の生還を果たしたということで観光名所などにして治世の関係者が浮かれるなどしたら、恥知らずと軽蔑せざるを得ません。200年も採掘をし続けて、その危険性が指摘され改善や閉鉱の決めをしながら、それを形式で終わらせ、採鉱を続けさせた国の責任、危険防止対策を放置したまま経営を続けた経営者、それぞれいろいろな言い分があるのでしょうが、弱者の立場の人間を過酷な環境で働かせることに対して然したる責任も感じなかったこの人たちの責任は重く、彼らはそのことを思い知る必要があるのではないかと思うのです。起こるべくして起こった事故なのですから。仮にも救出してやったなどという思い上がりがあったとしたら、怒りを通り越して人間社会の空しい虚構に対する絶望感と悲しみが膨らむだけです。この33人の方たちが味わった恐怖と苦悩を、為政者や経営者達は、彼らも生まれた時には備えていた筈の、人間としての大切なものに照らして、これからの仕事の中で肝に銘じて活かして行って欲しいと思います。


昨日はボランティアで不在だったため更新が遅くなりました。8月の旅から戻ってから、ニュースでこの事故を知って以来、他国のことながらこのショッキングな出来事は、ずっと心に引っかかっていて、閉所恐怖症の私にとっては見逃すことのできない関心事でした。ずっと、一日も早く救出の時が来るのを願っていたのですが、それが実現できて何よりも嬉しく思います。>

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2010年北海道くるま旅でこぼこ日記:第43日

2010-10-13 05:13:03 | くるま旅くらしの話

第43日 <8月21日(金)>

 

【行 程】 

道の駅:七戸 → 三沢市内にて給油 → (第2みちのく道から八戸道へ) → 二戸PA → (東北道へ) → 岩手山SA → 滝沢PA → 長者原SA → 安達太良SA → (磐越道へ) → 阿武隈高原SA(泊) <495km>

 

今日と明日はただ移動するだけの日である。高速道の運転なので、何よりも安全第一で走行できればそれで十分。信号がない分だけゆっくり走ればいいのだと考えている。今日も暑くなりそうで、早朝から星が輝き、ピカピカの青空が出番を待っている感じだった。

Mさんご夫妻は8時過ぎ出発されていった。それを見送った後、9時の開店を待って野菜などを買い入れる。ここの地産物売り場は全国でも有数の優れた売り場だと思う。いい野菜を安価で供給すると言う意味で、である。昨日買ったトマトは中玉が8個でたったの120円だった。最近これほど安い、得をした気分になった買い物はない。美味いのである。ということで、明後日からの暮しにも役立てようと野菜類などを多めに買い込んだ。邦子どのはキュウリの漬物を作るとかで、大量のキュウリを買い込んだ。当分の間はキュウリを食べ続けなければならないなと思った。大好きな枝豆も買い込んだ。これは今日と明日の主食にする考えでいる。

9時半丁度七戸を出発する。途中高速道に入る前に三沢で給油することを考えている。このエリアでは三沢市付近が油の価格が安い。R4やR45沿いのスタンドは結構高い価格で販売している。ということで、県道を三沢市に向かって走る。最初に出合ったスタンドはとんでもない価格でこりゃあとんだ道草をしたかなと思ったが、市内に入り何件かのスタンドの中にリーズナブルと思われるのを見つけて満タンにする。その後は六戸町の第2みちのく道路から八戸道へ。この道はつながっており、そのまま東北道へともつながっているのだが、みちのく道の方はETCが使えないのである。八戸道に入る前の料金所でETCの方はその旨申し出ろとか書いてあったらしいけど、それを見落としてそのまま八戸道に入ってしまった。出るときにその旨話せば何とかなるだろうと思っていたが、邦子どのがやたらに心配してうるさい。ETCの入口でのチエックがないままなのだから、明日谷和原ICを出るときにはETCの出口からは出られないのではないかと言う心配なのである。何度もしつこく言うので、それならば八戸道の何処かのIC一旦下りて、もう一度そこから入り直せばいいんじゃないかと、九戸ICでそれを敢行することにした。この区間は無料実験中とかで外に出ても千円取られる心配はない。ま、そのような馬鹿げたことをして、ようやく邦子どのは安心を得たのであった。

それから後は、ただひたすら東北道の南下を続ける。天気が良いので今日は岩手山が見えるかなと岩手SAに寄ったのだが、やはり山の機嫌は悪いようで、雲を巻いて顔を隠していた。このところあの雄大な山容を目にしたことがない。丁度昼時だったので、軽く食事をする。このとき今夜用にと先ほど買ってきた枝豆を茹でる。今晩が楽しみである。食事が済んで少し眠気を覚えてきたので寝ようかと思ったけど、何しろもの凄い暑さである。それに枝豆を茹でたりしたので車の中はかなり温度が上がっている。これじゃあ寝るのは無理と判断して、少し走って車を冷やしてから休むことにして出発する。15分ほど走って、どうしても眠くなり、近くの滝沢PAに入って仮眠することにする。20分ほど休めばいいやと思っていたが、目覚めると1時間近く経ってしまっていた。

今日はできれば常磐道の近くまで行って泊りたいと考えている。あまり遅く着くのもどうかなという気持ちと、暑いので暗くなってからの方が却って安全に走行できるのではという思いとが錯綜する。北海道とは違うので、熊や鹿が飛び出してくることはあるまい。何はともあれ急ぐ必要はないので、行ける所まで行くことにして走行を続ける。長者原SAにて休憩の後、福島県に入り安達太良SAにて最後の給油をする。

郡山JCTから磐越道に入りいわき方面へ。もう日が沈み辺りは暗くなりだしている。トンネル以外でのヘッドライトを点けながらの走行は久しぶりだ。ゆるい上り下りの道をしばらく走って、阿武隈高原SAに着いたのは19時近くだった。冷えた車の中から外に出ると、辺りの空気はムッとする暑さに包まれており、こりゃあ寝るのは大変だなと思った。ここに泊まるのは何回目だろうか。初めてではない。静かになったのは22時を過ぎた頃だろうか。

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