今年の北海道の旅で最も印象に残った場所といえば、それは朱鞠内湖の一日である。朱鞠内湖は雨竜郡幌加内町の北部にあり、凡その見当としては、旭川の北部に位置する士別市・名寄市の西部辺りに位置しているというところか。もう15年以上も北海道を訪ねているのに、今年初めて行った場所なのである。その感動を思い出しながら振り返ってみたい。
日本国は山国である。その背骨にあたる数々の山脈が列島を形成しているのだが、その山麓からは無数と言っていいほどの川が流れ出ている。どの川も最終的には海に流れ込むということになるけど、海に行く前により大きな川と合流してそこに流れを預けるという川も多い。北海道には石狩川という全国でも五本の指に数えられる大きな川があるが、朱鞠内湖を造り出したのは雨竜川や朱鞠内川他の幾つかの川たちである。その朱鞠内湖から流れ出る雨竜川は、なお幾つかの川を合わせながら流れ下って、やがて石狩川に合流する。
日本国には数多くのダムがある。川をせき止めて水をため、洪水に備えたり、飲料水として利用したり、或いは水力発電を行って電力の確保をしたりと、ダムは多目的な用途を目的に今もなお建設が検討されている様である。今の時代となって、その必要性がどれほどのものなのかは、凡人には想像もつかない話であるけど、旅をしていて、あまりにもダムの多いのに気づくと、何故それほどまでにという疑問を拭いえなくなる。この頃はその必要性について論じられることが多くなったが、それは飽和状態に近づいたことを示す証なのかもしれない。
朱鞠内湖を造り出した雨竜第一・第二ダムは、昭和2年(1927年)に着工され16年の歳月を要して昭和18年(1943年)に完成したという。当時の国情を考えると、このダムの建設には様々な事件というのか、今の時代では想像もつかないような出来事がその中に含まれていたに違いな。ダム建設のいきさつや状況などを調べてみると、少し複雑な思いにとらわれる。ま、そのことは措くとしよう。
朱鞠内というのはどういう意味なのかを地名辞典で調べてみた。二説あって、一つはこのエリアの川には石ころが多いことから、アイヌ語でシュマ・リ・ナイ(=石・高い・川)から来たのではないかというのと、もう一つはこの辺りには狐がたくさん住んでいたことから、シュマリ・ナイ(=狐・川)という説である。湖畔の説明板には後者の方を取り上げた内容が書かれていた。それで、自分的にはナイ=沢と解釈して、朱鞠内=狐沢と呼ぶことにした。というのも、近くでキャンプしていた人の話では、夜中に狐がやって来て、それをカメラに収めたとのこと。それを見せて貰って、今でもこの辺りにはキタキツネの子孫がかなり住んでいるのだなと思ったからである。
ほんの少し知ったかぶりをしたけど、これらは朱鞠内湖に関する基本情報のようなものである。感動したのは、そのようなことではない。湖の景観と雰囲気に心を奪われたのだった。今まで相当数の湖といわれる場所を訪ねているが、この朱鞠内湖ほど深沈とした水を湛えている所はなかった。ここへきてキャンプ場の管理事務所の受付に行くと、一晩泊るだけで一人600円という料金を聞いて、どうするかをためらった。二人で1200円、水とトイレはOKだが、電源は別料金だし、ゴミは持ち帰りだという。北海道の中では、あまりにも高額な料金なのでためらわざるを得なかったのだ。それでも泊る気になったのは、下見に行って眺めた湖面の景観が、大空を映して何とも言えない巨大な鏡のように見えたからである。これは金には代えられない景色だ。そう思ったからだった。
今日は快晴で、風もなく湖面は鏡のように静まっていた。泊りの車も少ないようで、湖畔近くの小さな高台に車を置くことが出来た。ここからは湖畔にある何本かの樹木の向こうに、鏡の水面に映る真っ白な雲を見ることが出来る。樹が少し邪魔だったけど、大空に浮かぶ雲がこれほどくっきりと鏡に映るのを見るのは初めてのことのように思えた。さざ波すらも無く、まさに天然の水鏡なのである。しばらくその大きな景観に見入った。料金のことなど忘れてしまっていた。
朱鞠内湖の湖面は大空に浮かぶ白雲を映す巨大な鏡だった。これほど大きな鏡をかつて一度も見たことがない。
翌日はいつものように早朝の5時には起き出したのだが、辺りは一面の霧で、湖面すらも見えないほどだった。1時間ほど待っていると、次第に霧は薄くなり出し、間もなく湖水に僅かに逆さの景色を写した岸辺の様子が墨絵ボカシのように現れて来た。まさに水墨画の世界だなと思った。昨日は洋画の世界だったのだが、今眼前にあるのは、黒白の色の世界なのである。これもまた一瞬息をのむような感動の世界だった。大自然のこの変化は、どこから生まれ出てくるのだろうか。元の天然色の世界に戻るまでの僅かの時間だったけど、この景観を見ることが出来たのは幸運という以外にない。
早暁の朱鞠内湖は霧の中で何も見えなかった。しばらくすると少しずつ薄れ出した霧の中に水墨画の風景が現出した。
間もなく日が昇って、晴天に白雲を浮かべる景色に戻ったのだが、これら一連の光と影の戯れの中に垣間見たのは、湖の不動の存在だった。「明鏡止水」ということばがある。邪念がなく静かに澄んだ心境のことを言うと広辞苑にあるけど、この湖と自分の心が一体となれたなら、このことばの意味が本当に理解できるのかもしれない。未だ邪念に溢れ、ささやかな出来事にさえも揺れ動いてばかりいる自分の心の拙さを思い知らされた気がした。この先、心に波立つ時には、せめて一時でもこの景観を思い出し、深呼吸をしなければと思った。深い感動を心の奥にしっかり仕舞っておこうと思った。
明鏡止水の景色というのは、このような姿を言うのかもしれない。霧が晴れた後の朱鞠内湖は、神々しいほどの静寂に包まれていた。