山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

佐原のお雛様は可哀そう

2016-02-26 04:56:50 | 宵宵妄話

 先日真壁のひな祭りを見に行って来たので、今回は佐原のひな祭りを見に行ってきました。佐原のひな祭りは、「さわら雛めぐり~お雛さまの舟遊び」と称して、1月29日から3月21日までの長期間に亘って開催されるイベントです。どんな様子かと楽しみにしての来訪でした。

 さわらとは「佐原」と書き、元の千葉県佐原市であり、平成の大合併策で、佐原市の他小見川町、栗源(くりもと)町、それに山田町を加えて、現在は人口約9万人の香取市となっています。栗源と山田地区は、市の西部に位置する丘陵山地エリアですが、佐原と小見川は、利根川に近い水郷地区として名を馳せています。特に佐原は利根川に連なる水利を活用した江戸との交易が盛んで、今でも小江戸と呼ばれる往時の町並みが残っており、千葉県唯一の重伝建(=重要伝統的建造物群)指定地区となっています。また、佐原を有名にしている人物に伊能忠敬がおり、その測量技術は現代にも通用するほどのものと高く評価されており、町では彼をして大河ドラマに描いて貰う運動が起こっているようです。

 さて、その香取市を訪れたのですが、何よりもまず現在の市名となっている、その大本(おおもと)である香取神宮に参拝することにしました。香取神宮は、利根川を挟んで少し離れた場所の鹿島神宮とは親戚のような関係にあり、共に軍神を祀った場所として古来より尊崇されています。合併の度に著名な地名が消えてゆくのを寂しく思っていますが、この香取市の場合は、佐原が消え去ってようやく本命の地名が表に出て来たような感じがしています。

 香取神宮に参拝するのは確か2度目で、前回はもうかなり前だったので、境内のレイアウトなどはすっかり忘れている状況でした。近くを何度も往来しているのに、なかなか参拝に至らないのは、自分の神に対するご都合主義の現われであり、今の世は軍神や武道などの必要性はゲームのなかに閉じ込められつつあり、現実の世の中では、今一ピンとこないからなのかもしれません。

車を留めて鳥居をくぐり、参道を真っ直ぐ進むと左手に階段があり、そこをあがると拝殿と本殿が控えていました。やはり神域はイヤシロチ(癒代地)であり、境内の森のなかに入ると一気に心が洗われる感じがします。古来から浄化されて来た溢れるほどの大気を呼吸していると、心身が自然と清められるのです。来て良かったと、改めて感じながらの参拝でした。境内では丁度結婚式なども執り行われていて、真にめでたいなと祝福の気持になりました。

     

香取神宮本殿の景観。どっしりとした風格のある佇まいは、さすがこの国の武神の住まいに相応しい。歴史を感じさせる貫録がある。

     

要石。これがオオナマズを抑え込んでいる石棒の頭だという。水戸の黄門さまが、数日かけてこの石に沿って掘り起こさせたけど、途中で諦めたという話も伝わっているとか。

その後、鹿島神宮と対をなす要石(かなめいし) [この地の地下に棲むオオナマズが悪さをして地震を起こさぬよう、その頭と尻尾を抑えるために、石の棒を打ち込んだ、その石の先端部が現れているのが、要石だという。香取神宮のは尻尾に打ち込まれており先端が凸の形、鹿島神宮のは頭に打ち込まれていて先端が凹の形となっている] などを見物して神宮をあとにし、近くの道の駅にて昼食休憩の後、街中のひな祭り散策に出発しました。

 

もう何度も佐原の古い町並みを訪ねていますが、ひな祭り関連では2度目だと思います。この祭りは家内の方のテーマなので、自分的にはお雛様よりも町自体の昔を訪ね歩く方に関心があり、ホンのついでにお雛様を覗くというのが実態なのです。今回もそのような形となりました。前回は東日本大震災の後でしたので、被災した家もかなり多くて、ひな祭りのイベントに参加するのは厳しい状況だったと思います。特に古い家ほど被災の程度がひどかったように見えました。あれから4年が経って、表面的には回復しているように見えても、その実の世界では未だご苦労が続いているように思える今回の来訪でした。

     

水郷さわらの小野川の景観。中央の橋は樋橋(とよはし)で、通常はじゃあじゃあ橋と呼ばれ、用水を流す働きもしており、丁度今水が流れているところ。この近くに伊能忠敬の住まいもある。

一時間ほど町中を歩き回った後に、ひな祭りの中心地区の水郷の象徴ともいうべき小野川の掘割りに沿ってしばらく歩きました。所々に船着き場のような箇所があり、その何箇所かにお雛様を飾る壇囲いが設けられて、そこに幾つかのお雛様が飾られていました。しかし、遠いのでお顔などは見えず、近くへ行っては、これ又近過ぎて横から覗くくらいしかできない状況でした。きちんと正対して飾りを見られないというのは、どういうことなのだろうかと疑問を持ちました。掘割り沿いのひな飾りは、どうやら舟での観光客のためのもののようで、陸を歩いている者には無縁のもののように思われました。

     

小野川川端の雛飾り。このような船着き場に3箇所ほど雛飾りが設けられていたが、これらは舟遊びの観光客用のもので、陸路からの見物には無理があるように思えた。

民家のお雛様を覗くのは止めましたが、あとで家内から聞いた話では、食事ができる店では、食事をしない者が見るのはお断りということらしく、少し憤慨していました。交流施設のようなところに飾られているお雛様もありましたが、作者名しか表示されておらず、いつの時代のどんなものなのかなどという情報は皆無の案内で、残念に思いました。

思うにひな飾りというのは、ただ賑やかに派手に飾れば良いというものではなく、代々大切に引き継がれてきた子女の幸せを願って飾るものであり、そこには家々の思いのようなものがたくさん籠められているものではないかと思います。ですから、折角飾って公開するのであれば、そのお雛様の歴史・情報のようなものを表示することが大切ではないかと思うのです。この町のひな祭りイベントには、そのような心配りが何だか抜けているようで、残念に思いました。「さわら雛めぐり~お雛さまの舟遊び」というタイトルとそのPRポスターは立派でしたが、お雛さまの舟遊びという優雅さはどこにも見出すことができず、ただ堀端に吹きさらしの遠いお雛様の憂い顔を想わせるだけの景色を寂しく思いました。

祭りを比べてあれこれコメントするのは、まともな人間のすることではないとは承知していますが、真壁のひな祭りの関係者の思い入れと佐原のそれとでは、随分と違うなと思わずにはいられませんでした。香取の軍神は、恐らく真壁の方に軍配を挙げるに違いないと思いました。旧佐原市内の重伝建エリア辺りの道路状況は厳しく、歩道が無いため道脇を歩くのですが、何段もの細かい段差に満ちていて歩きにくく、すぐ傍をスピードを上げた車がひっきりなしに通り抜けてゆくので、生きた心地もしない状況でした。歩行者天国は無理としても、このまま放置しておくと、折角の重伝建目当ての観光客の中から、交通事故の犠牲者が発生するのではないかと思えるほどです。真壁と比べると遥かに観光の条件が良いのですから、もう少し工夫して頂くと、安心して観光を楽しめるのではないかと思いました。

2~3年後には、孫娘を連れて見物に行ければ良いなと思っています。老人の不満混じりの退屈話でした。

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糖質制限ダイエットに思う

2016-02-19 00:06:01 | 宵宵妄話

 この頃は思うことが多いですね。ま、思わなくなったらお終いが近づいたということになるのでしょうが‥‥。

 先日糖質制限ダイエットとかいう、その推進に係わる第一人者の方が突然死されたということで、ひとしきり話題となっています。亡くなられた方には、只、ただご冥福をお祈りするのみですが、この突然死を巡って、その原因がご本人の推奨されていたダイエット方法そのものに係わっているとしたら、やはり要注意ということになるのではないかと思います。

 この方(桐山さん)が糖尿病になられたという経緯やその後真剣にダイエットに取り組まれ、確信を持てるような成果を上げられたということについては、私自身の体験に極めてよく似ているように思います。それで、もし糖尿病で今回の事件に対して心配を持たれている方がおられるとしたら、参考までに自分の取り組みと考えにつて披歴しておきたいと思った次第です。

 先日のTV朝日の報道では、彼が糖尿病の宣告を受けるまでの経緯は自分と酷似しており、その内容といえば、長期間にわたり忙しさにかまけて、食事のことには気に掛けず、いわゆる暴飲暴食の上に運動不足の暮らしを続けていたということ。その結果、ある日突然原因不明の体調不良に陥り、いろいろな検査の後に判ったのは、異常な高血糖値状態にあり、これが原因であるとして、糖尿病を宣告されたということです。

 私の場合も全くと言っていいほど同じ状況で、50歳半ばを前にして糖尿病を宣告されたのでした。その後、2週間ほど家内と一緒に専門医に通い、糖尿病治療に関する三つの療法等の知識を学びました。すなわち、①食事療法②運動療法③医薬療法の三つです。この中で最重要と受け止め取り組んだのが①の食事療法でした。この時の私の体重は80kgもあり、明らかに太り過ぎであり、ダイエットが必要なことは一目瞭然のことでした。

桐山さんの場合も90kg以上の体重があり、それで糖質制限ダイエットに出会って実践に取り組まれたのだと思います。彼の場合は超短期間で20kgほどの減量に成功され、そこからこのダイエット法の推進者となられたようなのですが、私の場合は、少し違ったプロセスを辿りました。半年ほどかけて10kgほどの減量に成功したのですが、同じ食事療法でも糖質制限が旗印ではなく、専門医の指導のもとに食品分類に基づくバランスを取りながらのカロリーコントロールの食事でした。

これは80kcalを一単位として、一日の摂取カロリーを20単位(=1600kcal)とか15単位(=1200kcal)とかいう指標を決めて食事に取り組むもので、当初はそれを覚えるのに苦労しました。なにしろ食品分類は6区分もあって、それらをバランスよく摂取する必要があるのです。家内と一緒に2週間ほど専門医に通って指導を受けました。この療法では、調理をする人が重要な役割を担うことになり、調理能力のプアーな男性の患者本人だけでは対処できない難しさがあります。又カロリー計算には何をどれだけ食べればよいかという基本命題があり、当初は徹底するために携帯用の秤まで買い入れて、食べ物を計量しながらの取り組みでした。

当初は目標を15単位としての取り組みでしたが、半年ほどして10kgほどの減量に成功したので、それ以上無理をするのを止め、20単位に切り替えました。その結果68kg前後の体重を維持しながら60歳台を乗り切ることができました。この間、毎日の歩きを中心とする運動と、ほんの少し医薬の力を借りてHa1c(ヘモグロビンエー・ワン・シ―)のデータレベルを概ね6%前半以内に保つことが出来ています。

その後住居の移転に伴う専門医の変更などを余儀なくされ、一時は油断連続の暮らしに陥って、データが悪化することもあったのですが、65歳を過ぎた頃から再び信頼できる専門医に出会うことができ、70歳を過ぎた頃から体重を60kgほどに落として、薬無しの食事と運動を柱とする暮らしぶりで、何とか健康レベルを保持している状況です。しかし、最近はややアル中(?)の傾向があるのか、データが悪化する傾向にあり、これを何とかしなければならないと、楽しみながらその改善に取り組んでいるところです。

糖尿病というのは不治の病であり、一度取りつかれたらもう決して逃れられる病ではないのです。しかし、この病がありがたいのは、しっかり食事や運動の対処法を実践さえしていれば、健康レベルを維持できるという性格のものだということです。ほんの少しでも油断して食べ過ぎたり、運動をさぼっていたりすると、たちどころにHa1cのレベルが上昇してしまい、健康レベルではなくなってしまうのです。ですから、糖尿病とは生涯仲良く付き合うことを覚悟する必要があるのです。険悪な関係になってしまうと、たちまち様々な合併症を引き起こし、生命の危険にさらされることになってしまうのです。この危険はゆるりとやってくるように考えがちですが、残りの時間が気になり出す世代では、すぐさま取りついてくると考えた方がベターだと思います。

糖尿病を宣告された人は、基本的な対応として、定期的な専門医のチエックをうけることと、そのデータを確認しながらの摂取カロリーのコントロール、そして適当な運動が不可欠なのです。薬を飲んでデータが改善されれば病が治ったというわけではなく、ましてやサプリメントのようなものを飲んでいるから大丈夫だなどということは、決してありえないと自分は思っています。

今回の桐山さんのケースが、果たして本当に糖質制限ダイエットによるものなのかどうかは、今後の専門家の判断を待つしかありませんが、一つ気になるのは、食事というのは偏向(片寄る)してはいけないのではないでしょうか。米やパンやうどん・そばを一切食べない、避けるといった食事の在り方は、確かにダイエットには有効だとしても、どこかに副作用(例えば米やパンやうどん・そばが持っている大切な栄養素を置き去りにしてしまうことからもたらされる弊害)を生み出しているように思えるのです。何事も極端過ぎるのは不調和の源となるように思います。やはり人が健康に生きるためには、何事においてもバランスが不可欠なのだと思います。

そもそも糖尿病に取りつかれた原因といえば、過食や運動不足というバランスを失った暮らしぶりにあるわけですから、ダイエットを指向するなら、その基本はバランスや調和といったコンセプトが、最重要ではないかと思うのです。もしかしたら、桐山さんの失敗は、このバランスを失ったことにあるのかもしれません。現在も熱心に糖質制限ダイエットなるものに取り組まれておられる方がいるとしたら、バランスを失う取り組みの怖さを見直し、極端に走らない喫食を心がけて欲しいと願います。

人が健康に生きるためには、極端であってもいけないし、いい加減であってもいけないし、真に難しいものだと、改めて思うこの頃です。PPK(=ピン・ピン・コロリ)と逝くためには、健康であることが必須条件だと考えているのですが、PPKは、やり残しの少ない、後悔の無い終わり方を理想としており、桐山さんの場合は、まだまだこれからだという課題やテーマも多かったのではないかと思われ、PPKには該当しない突然死のように思うのです。ま、このようなことをはじめ、あれこれ思うことの多いこの頃です。

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真壁のひな祭りを見に行く

2016-02-13 04:16:23 | 宵宵妄話

 ひな祭りというのは、古来3月3日の桃の節句のイベントのことなのですが、この頃は気が早くなったのか、かなり前倒しになって、各地でひな祭りのイベントが開催されています。

 我が家から近い開催地としては、茨城県では真壁のひな祭り(桜川市)、千葉県の佐原のひな祭り(香取市)があり、この季節になると思い立ってそれを見物に出かけます。真壁のひな祭りは桃の節句の1か月前の2月4日から、佐原のひな祭りはなんと1月の29日からという早い時期から始まっています。

 この二つの町に共通なのは、いずれも国の文化財に指定されている重伝建(重要伝統的建造物群指定地区)という、昔の面影が残る古い建物群があることです。関東には重伝建は少なくて、茨城県と千葉県にはこの1カ所しかありません。その双方にひな祭りのイベントが開催されるのは、雛飾りが昔の名残をとどめる町に相応しい雰囲気があるからなのだと思います。

 真壁のひな祭りが始まってから今年で14回目を迎えるそうですが、家内の話では私どもは今年で7回ほど訪ねているということです。ここ2年は雑事が重なり行けなかったので、今年は思い立ったらすぐにということで、開始間もない9日の日に見物に行ってきました。

 家内が張り切っていたのは、昨年9月に同じ屋根の下に住む長男夫婦に孫娘が誕生して、初めての女の子の祭りを迎えることになるためなのだと思います。私どもは二人の息子だけで、5月の端午の節句のイベントだけしか縁が無かったため、家内にとっては今年は格別の思いのあるひな祭りなのだと思います。真壁のひな祭りを見に行く前から、どこにしまっておいたのか、木目込み人形の内裏雛などを初め様々なお雛様絡みの人形などが並べられて、一人悦に入っていたようでした。孫娘の方は、未だ5カ月しかこの世を見てはおらず、お雛様に気づき興味関心を示すまでにはかなりの時間が必要な様です。

      

我が家のお雛様。この40年間に、いつ、どこで手に入れたのか知らないけど、家内がどこかに仕舞っていたコレクションが、ようやく日の目を見たようだ。

 さて、今年の真壁のひな祭りは、3年前よりも展示件数が少し減っているようで、参加されている家は154軒でした。とても全部を見るのは不可能で、お雛様に関心のある家内でも、その家の方とお喋りしながらの見物が多いので、せいぜい20~30軒ほどが限界ではなかったかと思います。もう7回目にもなるので、特徴のある雛はどこにあるのかは凡そ見当がついており、それを確認に行くといった感じなのだと思います。

     

造り酒屋さんに飾られていた、昭和10年代の木目込み雛かざり。関西からのものとのこと。真壁の造り酒屋さんは、近江商人との係わりが深いと聞いている。

 自分といえば、元々お雛様にはさほど関心があるわけでなく、最初の頃はそれでもまじめに一軒ごとに覗いていたのですが、この頃はもうそれはあっさり卒業して、ひたすら真壁の古い町並みを歩き回ることに喜びを見出しています。5年前の大地震で、この町の古い建物もかなりの被害を被っており、未だ復興の見通せない建物もあるようで、それらを見ながらの歩きは、少し複雑な気持となるものでした。

 家内とは最初から別行動で、駐車場に車を置いてから歩き初め、殆どノンストップで90分ほど歩き回り、一息入れに車に戻ったのは正午近くでした。歩きの中で最も関心があるのは、町中の民家の庭にある天然記念物のサイカチの古木で、来る度に元気でいるかが気になっています。この季節の落葉樹は、残酷なほどに樹齢を露わにしたむき出しの樹姿なので、樹齢が500年ほどと推定されるその古木は、一体果たして息をしているのかが気になります。古木と呼ばれるものは、やはり若葉が芽吹いたあとでないと、その消息を確認できないものだなと、今年もそう思ったのでした。ひな祭り以外にはなかなかお邪魔の機会が無いので確認は出来ないのですが、未だ頑張って生命をながらえてくれているのだと思います。

       

真壁を訪ねる時には、必ずこの老木にお目にかかることを常にしている。樹の姿からすると、まだまだ元気でいてくれそうで安堵した。

 今回は旅車で来たので、外食を止め、昼食は車の中で簡易に済ませました。家内が戻ってきたのは、13時をかなりオーバーした時刻でした。どうも我々夫婦の腹の空き具合は常に一致せず、自分は早め、家内は遅めのようです。一致させようとするとお互いの健康に悪影響しそうなので、干渉はしないようにしています。遅い昼食を済ませたその人は、15時半をリミットとして再び巷に出かけて行きましたが、自分の方はその後は近場の豆腐屋さんに豆腐を買いに行っただけでした。この頃は手づくりの豆腐屋さんが見つからなくなって来ていますが、ここへ来るといつもの豆腐屋さんが店を開いてくれているので、必ず買うことにしています。90歳を超えているのではないかと思われるおばあさんが店番をされており、今年もお元気な姿を拝見して、安堵して車に戻った次第です。

ひな祭りの見物と言いながら、この頃は一体何をしに行っているのか、我ながら判然としないのですが、真老のおのこがお雛様をまじめに見て歩いている姿は、却って異常なのではないかと、思うこの頃です。

来週辺りには、佐原のひな祭りもちょいと覗いて見ようかと、暇にまかせて考えているところです。

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継続と依存(清原事件に思う)

2016-02-08 05:49:52 | 宵宵妄話

 「続ける」ということばを表わす二つの用語があります。一つは「継続」であり、もう一つは「依存」です。この二つのことばの本質は同じと思うのですが、ニュアンスはかなり違って、「継続」が前向きであるのに対して、「依存」は後ろ向きのようです。「継続」は己の意思で目的的に続けることを表わしますが、「依存」の方はその逆で続けるのを止めようと思っても一時の苦難回避や快楽のために続けざるを得ない状況を表わしています。

 巷では時恰(あたか)も、依存の話で沸き返っています。超有名な元プロ野球人が、覚せい剤使用で逮捕されるというニュースです。この事件は、今は「依存」のテーマには至っていませんが、間もなく彼が「依存」に係わる状況だったということが話題の中に明確になることかと思います。覚せい剤というものが「依存」を本質とする薬剤であるからです。その「依存」が心身の破滅につながるようなものでなければ何も問題にはならないのだと思いますが、「依存」が「中毒」と呼ばれる心身の破壊作用につながるものであることは明らかなことであり、それゆえに法で厳しく律されているわけです。

 元プロ野球人の超有名人物であっても、所詮は一人の人間であり、彼が何をどうしようと大騒ぎすようなことではないのかもしれません。しかし、多くの人々の憬れや希望や尊敬などを裏切り、落胆させた責任は、超有名人であっただけに影響の大きいことでありましょう。

それでも世の中の善人の多くは、彼にある種の同情のようなものを抱くのかも知れません。突っ張らないと生きてゆけない、可哀そうな人だったとか、息抜きにはそんなことも多少はあってもいいんじゃないかなどと、寛大心を誤って使っている人さえいる感じがします。

私のような真老世代の人間となると、そのような同情心など欠片(かけら)も浮かんできません。「バカモン!」と大声で怒鳴りつけたい気持でいっぱいです。この元プロ野球超有名人が嫌いなわけではありません。嫌いでなくても許せないことは無限にあるものです。

準老世代(65歳以下)よりも前の世代の人間には、成功経験のある人ほど、時として「思い上がり」に気づかない者を見受けることが多いようです。そのような人でも更に歳を重ねると己の思い上がりや突っ張りの愚かさに気づくものなのですが、50歳前の超有名人の立場では、善にも悪にも都合のいいように踊らされて、己の思い上がりに気づかないこともあるのかもしれません。このような人を「愚か者」というのでありましょう。彼は真正正明の愚か者だと思います。愚か者というのは、人間として成長することを止め、過去の一時の栄光に浸っているものを言うのです。

世の中には、時として「愚か者になりたい」などという妙なあこがれがあるようですが、麻薬類に溺れるような愚か者があこがれであったら、この世の未来はただの堕落と廃頽だけの姿になってしまいます。今回の事件は、愛すべき愚か者では済まされない、重大且つ深刻な情報過剰時代の癌として受けとめ、再発を厳しく防ぐ必要を感じます。同じような予備軍を作らないように、特に芸能界とかいうのに係わる人たちには厳しく留意して欲しいものです。ちゃらちゃらと半端な芸をTVで振り回させて、一時の人気で使い捨てにしているような体質は、愚か者を生み出す温床の一つとなっている感がします。これら芸人の卵の中には、ヒヨコになる前に麻薬に手を出したくなるような気持の若者も多く混ざっていると思いますので、プロダクションとやらの経営者や幹部は、ただの道具的な人間の使い方は止めて、しっかりと人間としての扱いをしてやって欲しいものです。ま、これら業界のあり様については、老人が口出しするようなことではないのかもしれませんが。

話は「依存」に偏ってしまいましたが、私は人間に本当に必要なのは「継続」という「続ける気持・精神・心」なのだと思っています。同じ続けるでも「依存」は病の分類に入るものであり、「継続」は健康の証なのではないかと思います。

今までの自分の人生を振り返って、生きる上で何が一番有用だったかと思うと、それは「何かを続けたこと即ち継続すること」ではなかったと思うのです。その最大のものは、就職だったかもしれません。最初の就職先を最後まで勤め続けたことが、自分の人生を安定たらしめたということなのですが、一方で決して満足しているわけではなく、違うチャンスをモノにすべきだったという思いもどこかには残っているのです。しかし、真老の今となって見れば、タラレバ(=もし○○だったら、もし○○なれば)は幻想にすぎず、己の人生は、最初の就職先での仕事を続けたことにあるという確信があるのです。

その確信というのは、仕事の継続を通して自分自身を僅かながらも成長させて来ることができたからです。もし継続がもたらすものが成長につながらなかったとすれば、それはただの依存に過ぎず、繰り返しの執着に過ぎないのです。継続は必ず成長という結果をもたらしてくれるものなのです。

元プロ野球人の清原氏には、現状の真実を明らかにした上で、依存の世界から脱出し、新たな成長を期してしっかりとした目標を立ててこれからの人生を運んで行って欲しいと思います。まさに継続は力であることを証明して欲しいと思います。

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老と情報(ツール)について

2016-02-05 08:17:39 | 宵宵妄話

老をどのように生きるかを考える時に不可欠なのは、生きて行くための必要情報をどのようにして確保するかということです。

高度情報化社会の到来は、ほんの少し昔まで壮年者であった、現在の老世代の人たちが描き、つくり上げて来たものなのですが、それに直接係わった人たちを除く一般老世代大衆は、その恩恵を楽しみ味わうよりも、戸惑いや諦めの中にある人が多いように思います。

 現在はスマートフォンやアイフォン、タブレットPCなどの情報ツールが当たり前の世の中になっていますが、今から25年前の頃は、そのような情報ツールは無く、PCにしても一般の社会の中では特別の人を除いては触れるチャンスが無く、企業内においても情報システムの導入は喫緊の課題ではあっても、特定の部門に導入が開始されたというレベルでした。間もなく高度情報化社会(当時一般的にはそのような呼ばれ方をしていました)が到来するというのは理解してはいるものの、身近にそれを体験するツールが無かった時代では、なかなかそれを実感は出来なかったのです。

その後大幅にPCなどの技術が進展し、一般化が加速し出しましたが、この中で最も進んだのは、携帯電話の普及でした。いわゆる「携帯」は、それこそ、あれよあれよという間に世の中を席巻した情報ツールだったと思います。今の世に「携帯」を知らない人は殆ど見当たらないと思いますが、その「携帯」も20年経った今では、ガラケ―などと呼ばれるほどに過去のツールと化しつつあります。

それらの最新の情報ツールを当たり前の物として使用している若者や子供世代は、情報というものの本質など考える時間も無いままに、雑多な情報に振り回されている感じがします。ここ20数年の急激な情報ツールの技術進展は、それを使う者の情報選択力の未熟など問題とせずに、一方的に利便性や効率性、或いはゲームなどのバーチャルな興味充足を追求し続けています。

これから先この技術進展が人間にどのような禍福をもたらすのか、とても想像できません。今の時代は情報技術の発達が異常に加速しており、一方で生き物としての人間の精神の発達がそれに追いつかず、様々な奇異な現象が生起しています。今までにはあり得なかったような凶悪というか、人道(=倫理)を外れた犯罪や事件が生まれるようになったのも、このギャップが大きく影響しているように思えてなりません。世はまさに人道のカオスの世界に入りつつあるように思えてなりません。

さて、肝心なのは我ら老世代の者が、この異常な高度情報化の社会をどう生きるかという問題です。情報技術の進展の狭間にあった現役時代を経てきた老世代の多くの人たちは、もしかしたら順老世代(65~75歳)であっても、PCやスマホなどの情報ツールから離れて暮らしている人が多いのではないでしょうか。高齢者になるにつれて、今の時代の情報の実態を知らず、その割には矜持は高くて、パソコンやスマホなど、あんなものなど無くても幾らでも生きて行けるというような話しぶりの人が多いのですが、それはやがて愚かな強がりに過ぎなくなってゆくということを知る必要があるように思います。

これからの社会の暮らしの基盤の中に、更に進化した現在進展中の情報ツールが居座るような時代がやってきた時には、その扱いや考え方を知らない老人は、置き去りにされてゆく危険性があるのです。今の時代は江戸や明治、大正、昭和前半時代のようなゆっくりとした時の流れでは無くなっているのです。親の言うことを子どもが聞くには無理があるほど、暮らしや社会の環境が急速に変わってしまっているため、老世代にとっては困惑が溢れている時代ではないかと私には思えるのです。

情報ツールの歴史の変遷は、かわら版や新聞から始まって、有線の電話が普及し始めたのは大正時代の頃からであり、TVが出現し普及し出したのは、戦後しばらく経った昭和30年代後半あたりからでした。その後の無線技術の革新的な進化は、携帯電話やナビゲーションシステムなどの普及をもたらしましたが、それが始まってから僅か四半世紀(25年)ほどしか経っていないのです。これらの情報ツールの急激な変化は、短期間で暮らしの有り様を大きく変え、親から子へという世代間の伝承の在り方までも大きく変えてしまっています。多くの場合、新しい情報ツールは若い世代の方に馴染み易いため、親が子を律するという力が不足し、心も経験も未熟な世代に対して親はもはやアドバイスなど出来ない時代となってしまった感がします。多少極論を述べている感もしますが、親子の係わり合いなどと比べて、この情報ツールの変革のもたらした影響の枠の外に居るのが老世代なのではないかと私は思っています。

 

「老と情報」に関して、私自身が経験した一つの哀しい話があります。それを語ることにします。  

私は準老の世代からくるま旅くらしを夢見て、その実現に取り組んできました。長期間のくるま旅をするようになったのは、還暦を過ぎて現役をリタイアした頃からですが、その頃北海道の旅をしていた時に、日本海側のある場所で、軽自動車で旅をされている老夫妻に出会いました。お二人が仲睦ましく休んでおられるのを見て、近くで手に入れたサクランボを少しおすそ分けさせて頂こうと、家内に持ってゆくように頼んだのがきっかけとなって、話を交わすようになりました。

お話を伺う中で、北陸の金沢市近くにお住まいのご夫妻は、その時家を出てから早や1カ月もの間車での旅をされているという話に驚きました。使われている車は軽自動車で、中を見せて頂くと、驚いたのは全てご主人の手づくりで、狭い空間を巧みに活用できるように工夫がなされた作りとなっており、長旅も大丈夫なのでした。お歳を伺うとご主人は喜寿に近いということで、その時の私の考えでは、くるま旅はせいぜい70歳代の半ば辺りまでかと思っておりましたので、これ又びっくりしたのでした。お別れしたその後も、旅の間に別の場所で再会したりして益々親密となり、もうすっかりくるま旅の先達として尊敬するようになり、ついにはいずれお宅をお邪魔させて頂くこともお願いして、その年は別れたのでした。

その翌年には、ご自宅をお邪魔する機会に恵まれ、宿泊までさせていただいて、益々尊敬の念は高まりました。その後も北海道の旅でご一緒したり、ご自宅を訪問させていただいたりして、もはや旅で出会った単なる知人などではなく、親にも近い大先輩として尊敬するようになったのです。

何年か経って、4月のある時、あるTV局から、私どもにくるま旅の実際の姿を撮りたいという取材の申し込みがあり、6日間の予定ということで、ディレクターとの相談の上、途中のさくらの花などを見ながら、佐渡まで行くとことが決まりました。その時にディレクターから、その際に途中でどなたか知り合いのくるま旅仲間との出会いの場面を入れてもらえないかという申出でがあり、この時とっさに浮かんだのが、そのMさんご夫妻だったのです。

早速電話すると、ちょうどその時期から花を見ながら北上して夏の終わりころまで北海道で過ごされるということで、途中の出会いもOKとの快諾を得たのです。磐越道のSAを待合場所にして落ち合い、翌日は近くの名木滝桜を一緒に観に行きました。そしてそこで別れてMさんご夫妻は北海道へ向かわれ、私どもは佐渡へと向かったのでした。

ここまでは何の問題も無く、双方がTVの出演を喜び、その後の旅を楽しんだのでした。

問題はそれからしばらくして、秋になってMさんご夫妻が旅から戻られた頃に発生しました。TV局での編集が終わり、放映の分が確定すると、その分のDVDやVTRを送って来てくれることになっていました。今回はDVDをMさんの分を含めて私の方へ送って頂き、旅から戻ったら私からMさんに送付すると言うことで、事前に約束を決めておりました。それで、その通りにしたのですが、ここから話がややこしくなったのです。

TV局からDVDが送られてきたので、私としては、旅の知り合いの方などに自分のDVDの分をコピーして何人かの方に送付したのです。この中に旅の知人で福島県在住の方がおり、この方が偶々そのコピーのDVDを持参して北海道の旅に出かけられたのですが、その時にMさんに出会い、その動画を見せて下さったのでした。同じ旅仲間として勿論親切心でそうされたのでしたが、これをご覧になったMさんは、一つ大きな疑問を抱かれたようなのです。それは、何故自分よりも早くこの人がこのようなものを持っているのか。自分のところに来るはずのDVDを、あいつ(私のことです)はこの人の方に先に回してしまったのではないか、という疑問だったと思います。というのも、Mさんのご主人はVTRの世界までは知っていても、DVDやCDの世界については疎くて、コピーについても良く理解されていない方だったからです。

この懐疑はなかなか解けることが無かったようで、やがてそれは確信となってしまったのでした。それからしばらく経った後、ご主人から何故自分の分を福島の方に先回ししたのかという咎めの電話がありました。これはまさに寝耳に水、青天の霹靂(へきれき)の話でした。驚いた私は、電話だけでは足りないと思い、事情を詳しく書いた手紙を書きましたが、なかなか事情を理解しては頂けないようでした。恐らくご自宅まで行って説明しても誤解を解くのは難かしいのではないかと思いました。

なぜならMさんのご主人はDVDやCDのコピーのことを知らないのです。又、新しい情報ツールには興味があって、携帯やデジカメなども保有してはおられるのですが、それらは昔からの機能を使うだけで、付加されている新しい機能については知識を持っていない方なのでした。携帯はご主人専用管理であり、「もしもし、ハイハイ」の交信ツールとしての使い方だけだったのです。メールも写真もネットを覗くのも全く無しの、他の使い方などあり得ないという使い方だったのです。又、デジカメも持参しておられましたが、中に入っているメモリーカードは、今までのカメラのフィルムに相当するとだけの理解で、PCに取り込んで画像を保存して、何度も繰り返して使用するという発想は無く、旅先でカードがフルになってしまうと、その都度新しいカードを買い足して使い、旅から戻ってからカメラ屋でプリントアウトして貰うという使い方だけだったのです。このような状態でしたので、DVDのコピーの話をしても理解してもらうのは到底無理なことなのでした。

その後一年ほど経ったときにもお電話があり、「おまえは、世界一の嘘つきだ!」と決めつけられてしまいました。情報ツールに関する世代間のギャップは大きいなと、その時しみじみ思い知らされ、ご老体には、もはや新ツールの知識も技術も簡単には伝わらない時代となっているのを実感したのです。勿論、どのような世代でも新技術を取り入れ、慣れて使いこなす人もおられることは承知していますが、深老世代(85~95歳)以降の老の世代では、今の世の普通の情報ツールから取り残されている人が圧倒的に多いように思います。これはご本人の問題というよりも、世の中の進展変化が早過ぎるという方に問題があり、解決不能の課題ですから、手の施しようもありません。

それ以降私は、Mさんとの交流を断念せざるを得ませんでした。あれほど親しくお世話になったのに、誠に不本意とは思いながらも、どう説明しても「世界一の嘘つき」と決めつけられてしまっては、心を通わすことはできません。Mさんのことは、くるま旅の優れた先達者として、今でも尊敬していますが、もはやお会いすることは無いのだと覚悟しています。哀しい出来事でした。

この事件以降、旅先でのどのようなご老体の方との出会いにも慎重を期しています。歳を重ねるほどに思いこみも又強さを増すようなので、自分よりも年長の方とのお付き合いは、「淡交」をより一層「淡」とするようにしています。

これらの体験等を踏まえて、私は老と情報について、まず何よりも自分自身が置き去りにされないように留意することにしています。それは相棒である家内についても言えることで、現在PCはそれぞれが自分で活用することにしており、通信ツールについては先に家内にスマホを使って慣れて貰うようにし、自分はガラケ―で必要最小限の事案の処理をするようにしています。TVの録画や再生等については家内の独壇場であり、私は必要に応じでリクエストを出すだけです。平素は一応もの書きの暮らしスタイルなので、ブログを初めその他エッセーなどの作文作業は全てPCで行っており、ネットなども深入りしない程度で扱うことにして活用しています。

このブログ記事を書きながら、果たして同世代(=真老)のどれほどの方がアクセスして下さっているのか、いつも気にしているところです。この先、同世代からのアクセスが少しずつ膨らむのを期待しています。

老世代の情報の問題は、政治や行政などの社会へ依存できる問題ではなさそうであり、一人ひとりが、何よりも老に溺れずに自助努力を発揮しなければならない課題であるように感じています。

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老と病のこと:私の対策(その2)

2016-02-03 04:27:01 | 宵宵妄話

2.「快食」について

 「快食」とは、「何でも美味く腹七分」と書きました。つまり、何でも美味い、美味いと腹一杯食べるのは快食ではないということです。まず最初に、私の食と病の履歴のようなことについて、振り返ってみたいと思います。

私は幼少のころから食欲だけは旺盛でしたが、小学生時代は食糧難で食べるものが少なく、なかなか満腹を得るのは難しい時代でした。中学、高校となるにつれて世の中は次第に豊かになり、食べ物も種類が増えてきましたが、それでも好きなものを好きなだけ食べるのは難しい時代でした。大学を卒業して人並みに東京にあった会社に就職し、自立の道を歩み始めたわけですが、食べることに関してはしばらくの間は会社の寮での暮らしでしたので、そのルールに従っての食生活でした。それでも食事での摂取カロリーは学生時代の運動量に比べて殆ど汗を流さない暮らしとなったため、大幅にカロリーオーバーな暮らしとなり、58kgだった体重は、たちまち65kgのレベルに到達し、その後の30代の家庭を持った暮らしでは70kgに達しました。

この頃から仕事が終わってからの酒食が増え出し、何の制限も考えずに好きなものを好きなだけ飲食するようになり、40代になる時にはとうとう80kgの大台に至り、胴周りが1mに近づくというありさまでした。この頃から健康診断で糖尿病が迫っている「境界型」になりつつあることを医師から忠告されるようになりました。少し気にはなりましたが、さほど重大とは受け止めず、多少は飲食の量を減らしたり、食事の内容も野菜類等を増やすなどして注意し、運動の方も、休日に気が向けばジョギングなどをして身体を動かすよう心掛けたりしたのですが、かなりいい加減なレベルに終始していたように思います。

それが決定的に食のあり方を転換させられたのは、50代になった初めの頃のある日、突然出勤途中に、いつも乗る南武線の中の島駅の階段を登っている時に、急に身体全体が虚脱感に襲われ、脚がいうことを利かなくなって、歩くのも出来なくなるという出来事に出くわしたことでした。当時住んでいたマンションは、駅のすぐ傍にあり、家からは300mくらいの距離でしたので、しばらじっとしていた後、何とか家まで引き返したのですが、これは大変ショッキングな出来事でした。2日ほど休んで、ようやく歩ける状態になったので、病院に行って何がどうなのかを検査して貰ったのですが、はっきりとした原因は判らず、しばらく様子を見ることとなりました。その後も虚脱感というのか、心身共に気合が入らず、とても仕事ができる状態ではなく、1カ月ほど会社を休むという、私にとっては前代未聞の出来事に見舞われたのでした。

 その後病院に通う間に判ってきたのは、血糖値が異常に高いレベルにあり、これが何らかの悪さをして今回の症状をつくり出したのではないかということでした。それが糖尿病を宣告された時の状況なのです。心身の虚脱感や無力感をもたらす真の原因が、果たして本当に血糖値の異常だったのか、糖尿病だったのかということは、未だに不明のことなのですが、この時以来糖尿病の専門医に通い、糖尿病対策を堅持していることは、明らかなことなのです。

「快動」の項でも、糖尿病のことに触れましたが、この「快食」においても、糖尿病は私の「快食」に深くかかわっています。糖尿病対策の核となるのは何といっても「食事療法」であり、如何に適切な「快食」を実行し続けるかということが、糖尿病患者を病のレベルから健常者のレベルに引き戻して生きながらえさせるかにつながっているからです。

さて、「快食」の中身ですが、理屈的にはいろいろあると思いますが、

① 身体が必要としていないほどのエネルギーを決して取りこまないこと。

② どんなものでも、必要なものは「美味しい」と感謝して食べる こと。

この二つに尽きるように思います。この二つが守れない暮らしや生き様は、老を生きる際の大きな障害となり、必ず病を招来するに違いありません。

これをどのように実現させ、継続させるかということですが、私の場合は、①に関しては、現在の毎日の必要カロリーの摂取量を1600Kcal(=20単位)としており、これを守るための自戒の項目を、机の眼前に書き出して掲示し、毎日毎時目に入れて己に言い聞かせるようにしています。現在のその項目は5つあり、因みに紹介しますと、

・腹七分目

・間食断禁

・平時断酒

・野菜増食

・糖分減食

となっています。これらの項目は、2カ月毎に受診している糖尿病専門医の報告データなどを参考に、現在の自分に求められている飲食のあり方を考えた結果であり、楽しみながら守るようにしています。具体的な中身にはいろいろあるのですが、それは書かないことにします。加齢に伴って、或いは体調の変化に伴って、これらの項目も変わってゆくのだと思いますが、今のところはこれでいいのだと思っています。

次に「何でも美味しいと感謝して食べる」というのは、私の場合は、父母から貰った胃腸が丈夫だったこともあって、過去不味くて食べられなかった物など無く、何を食べても(気持ち悪いゲテ物はダメですが)美味いということなので幸いなのですが、生来胃腸が弱くて食が細い人などは、なかなか感謝に至るのは難しいことなのかもしれません。

今の時代は、飽食の時代と言われ、日本人の多くの人たちが「食」というものを安易に考える傾向にありますが、私などのように国全体が「飢える」という恐ろしさを体験した世代から見ると、飽食という現状こそがより恐ろしい恐怖のように思えるのです。TPPの論議の中で、国の食料自給能力などが問題となったりしていますが、今の時代もっともっと恐ろしいのは、「食」を安易に考え、動物としての本性を忘れ、「食」への感謝を喪失しているという人間の増加ではないかと思うのです。この思い上がりは、何時か必ずしっぺ返しを受けるに違いありません。TVなどでは、大食いを競わせるなどという、ただ一時の興味関心を煽るだけの番組が放映されたりしていますが、真に愚かとしか言いようがありません。大食いを暮らしの糧につなげるようなことをしている人たちは、いずれ必ず何らかの健康障害に見舞われるはずであり、可哀そうなことです。

老の世代に入ったら、人は皆もっと謙虚になって「食」の大切さに気づき、「食」への感謝の気持ちを持つべきと思います。真老世代(75~85歳)になっても、美味いの、不味いのなどと言って飽食に甘えているようでは、次の世代(深老・超老)に進むことは難しいのではないかと思えてなりません。

私は、老の世代の課題である「世代に応じて健康を保持して、活き活きと生きる」ための最大のキーは「快食」にあると思っています。他の三つの項目(「快動」「快眠」「快便」)も皆その根源となるのは「快食」なのだと思うのです。「快食」ができなければ他の項目も決して実現が叶わないのです。

では、どうやって快食を見出せばいいのかということですが、私のような過食傾向の人間は、前述のような方法などを取り入れたの自戒の食べ方が重要だと思いますが、それができない人は、基本的には徹底的に「飢え」を体験する必要があるように思います。つまり、人間(=動物)の本能である「食欲」を呼び起こすことが重要と思うのです。これはいわゆる「絶食療法」になるのだと思いますが、専門家(専門医)の力を借りながら、食べない体験を通して、何をどう食べるかを知り、やがて「食」への感謝に気づくというステップです。このようなチャレンジは、その人の根底に「謙虚さ」がどれほどあるかによって決まるものであり、それが無い人は老をうろつき回るだけということになるのかもしれません。

 

3.「快眠」について

 「眠る」ということについて、私自身あまり困惑するようなことが無いため、不眠に悩まされる方たちには殆ど頼りにならない話となるのかもしれませんが、私の快眠の秘訣は「眠くなったら寝る」というものなのです。私自身過去に眠れずに困ったという経験が全くなかったわけではなく、どうしたら上手く眠れるのかと悩んだこともあったのです。しかし、そのような時は眠ろうと思えば思うほど眠れなくなるばかりで、不眠の悪循環に嵌まるばかりでした。これを脱出した時にしみじみ思ったのは、眠るというのは人間の本能の一つであり、眠れなくてもそれを放っておけば、必ず眠りがやってくると気づいたことでした。それ以降は、眠れない時は眠らないことにし、眠りがやって来るまでは好きなことをしたり、好きな本を読んだりしていれば、もうそれで十分な対策となるということなのです。そして、眠りについても深いとか浅いとかあれこれ考えるのを止め、浅くても深くても眠りたい時に目覚めるまで寝ればよいということにしたのです。

 旅に出て、車を運転していると、時々運転中に眠気が襲って来て困惑することがあります。そのような時には無理して運転を続けるのを止め、適当な場所を探して車を止め、寝巻に着替えて寝床に横たわることにしています。たいてい1時間ほど眠れば頭はすっきりし、運転への不安は解消します。車の運転時に限らず、夜遅くまで起きていても、なぜか頭が冴えてしまって眠れない時があったりしますが、そのような時も眠くなるまでは寝ないでも大丈夫なのだと自分に言い聞かせ、本など読んだり、TVを見たり、音楽を聴いたりして眠りが来るのを待つことにしています。悩みごとなどで眠れない時も、その悩み事を堂々巡りさせるのを止め、別のことをしていれば眠りは必ずやってくるのです。

 又睡眠時間についてもあまり気にしないことにしています。眠りの浅深に係わらず、長くても短くても眠ることが出来さえすれば、その過不足は必ずどこかでバランスを取ってくれるのが人間の身体なのだと考えることにして、余計なことに惑わされ悩まないことにしています。私の場合「快眠」というのは眠れれば良いというだけで、その質を問うなどということはナンセンスだと考えています。

 ところで、「快眠」については、他の3項目が大きく係わってくるということも心しておく必要があると思います。すなわち、「快動」や「快食」或いは「快便」というのも関係が深いように思うのです。何よりも関係が深いのは「快動」でありましょう。動くのが苦手なのに良く眠れるという人は、却って要注意だと思います。肥満につながり易いと考えられるからです。又満腹を快食と勘違いしている老人も危険です。満腹の眠りは老の世界では必ずしも健康維持に貢献しないと考えられるからです。メタボを増進させ、各内臓の機能障害を来し易くする危険があるからです。腹七分目の快眠が大切なのだと思います。そして、「快便」というのも眠りに大きく係わると思います。出るものが出ないとストレスが溜まって不眠につながる結果となります。これもまた要注意です。

 

4.「快便」について

最後に「快便」についての考え方ですが、これは勿論「快食」とセットになっている重要テーマです。何をどれだけどう食べるかということが、それらをどう排泄するかにつながるわけです。私の考えでは、動物の身体というのは、簡単に言うと丁度竹輪(チクワ)のようなもので、真中が空洞となった身体を持ち、その空洞に口から栄養となる食材を流し込み、それを消化しながら栄養を吸収し、身体を動かし、育て、維持してゆく存在であり、最後に不要になったものを排泄するという仕組みを持っていると考えられます。これはアミーバ等の下等動物から人間のような高等動物まで、基本的には皆同じ構造を持っていると考えられます。食べるという行為は、身体を動かし生長させて行くために必要なエネルギーや栄養を獲得するための食材を取り入れることですが、このプロセスにおいては、吸収の全てが終わった後の残存物が、完全に排泄されることが重要なのだと思います。この作用が途中で不具合を来し、詰まったり、急ぎ流れてしまったりすると、身体全体に支障を来す原因となるわけで、食物摂取から排泄終了までの行程の流れは極めて重要だと考えられます。

下痢や便秘は人の常であり、これらに悩まされている人は多いように思います。元々消化器管が弱くて、体内の消化プロセスがうまく運用出来ない人もおられるのだとは思いますが、多くの人たちは「快食」が手に入らないために「快便」をモノにすることができていないように思います。生まれ来て物心がついた頃から人間は食事をするようになり、それをし続けて来ているのですが、例えば還暦に至っても或いは古希を過ぎてさえも、何をどうどれほど食べたら良いかが判らない人が多いのです。私もその一人に違いないのですが、もはや真老に足を踏み入れた今では、何とかこの厄介な「快食」を実現させようと悪戦苦闘しています。

実のところ、何をどうどれほど食べることが「快食」につながるかというのは、マニュアルのようなものがあるわけではなく、その個人の現在の身体状況に合わせて決めるべきものであり、これはもう相当に覚悟して取りかからないとなかなか実現できるものではありません。

私の場合は、今では常に「快便」を意識した食べ方を心がけています。大雑把に言うと、ベジタリアン指向の食事を心がけていることです。この背景には50代の初期に宣告された糖尿病への対策があり、私が食についてそれなりの知識などを得ることができたのは、まさに糖尿病のおかげであり、ある意味では感謝しています。一病息災ということばがありますが、私にとって糖尿病はまさに息災のための一病に違いありません。この糖尿病から学んだことは多く、一番役立っているのは、何をどうどれほど食べるかについてのカロリー計算をモノにしたことだと思います。

カロリー計算というのは、80Kcalを1単位として1日の摂取量を決める方法ですが、私は現在1日20単位の食事摂取を目安としており、これは1600kcalとなります。この20単位をどのような食べ物を選んで食べるかを考えるわけですが、ベジタリアン指向というのは、野菜等の食材を多く摂るという考え方で、これらの食物は低カロリーのものが多いので、多めに摂取してもカロリーオーバーとなることはなく、かつ繊維質も多く摂ることができるので、「快便」の実現に有効だからです。勿論、食事は偏向することには問題があり、栄養素摂取のバランスも考えなければならず、そのための工夫が必要ですが、馴れてくると、さほど面倒でも難しくもないように思います。

糖尿病のような食事に深く係わる病の体験のない人には、カロリー摂取の知識を得るのは面倒なことで、なかなか馴染みにくいのだと思いますが、とにかく強調したいのは、「快便」のためには「快食」の工夫が不可欠であり、悪しき食習慣から脱却することを心がけることをお勧めします。「快便」を実現するための食事を少しでも多く心がけ、それを継続することが何よりも大切なのではないかと思います。

 

以上老と病に関して私自身の考え方や取り組みについて述べて来ました。かなり冗長となった感じがしますが、まだまだ自分の考えや思いを十分に披歴出来ているとは思えません。この後も思いつくままに随時補填をさせて頂こうと考えています。ただ今真老世代に良足を入れたばかりですが、出来るならば深老を体験して、超老の世界にまで到達してみたいものだと思っています。(おわり)

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老と病のこと:私の対策(その1)

2016-02-01 07:01:19 | 宵宵妄話

先日偉そうに「老世代小論」などと称して、老人としての生き方について述べたのですが、それらのすべては自分自身の生き方についての思いを述べたのであり、私本人としてはその大風呂敷に従って、それなりに毎日を過ごしているつもりです。時々は(いや、しょっ中なのかもしれません)羽目をはずして、反省しきりのこともあるのですが、大筋では老を卒業してあの世に行くまでは「老の世代に応じて健康を保持し、活き活きと生きてゆきたい」と取り組んでいるつもりです。

さて、その取り組みの中で最大のものは、健康の保持であり、如何にしてそれを継続実行するかが最大の課題です。そう、「老と病」は不可避の重要テーマです。このことについて、私の考えていること、取り組んでいることを披歴したいと思います。(世代小論などと偉そうなことを言っても、何もしていなければ空念仏となってしまいますので、一応自身の考えや取り組みを示す責任があると考えています)

 まず最初に自覚しておかなければならないことは、人生には「無病」ということはあり得ないということです。生まれてからこの世を去るまで一度も病や怪我に見舞われたことが無いという人など居るはずがありません。どんなに頑強と言われる人でも、何らかの病や怪我をした経験はある筈です。そして、人間が動物という生命体である限り、その寿命は有限であり、必ず老化という現象がやってきます。老化というのは、生物としてのあらゆる機能が劣化してゆく現象であり、その劣化に伴って病や怪我が抵抗力を弱めさせられ、それらを取りこみ易くなってゆくものです。このことは、人間によらずどのような生命体であっても覚悟しておかなければならない自然現象であると思います。それを認めた上で、終わりが来るまで如何に環境に適応しながら快適な生き方を探ってゆくのかというのが、老世代に課せられた共通のテーマなのだと思います。

 このことに関して、今のところ私は次の4点を目標として日々実践しています。それは、

快動~「気持ちよく動く」ことを心がける

快食~「何でも美味く腹七分」を心がける

快眠~「眠くなったら寝る」を心がける

快便~「詰まらせない食べ方」を心がける

これらは、普通一般的には「快食」「快眠」「快便」の3項目が取り上げられるのだと思いますが、私はこれに「快動」の自作語を付加しました。以下に、その考え方と実践内容の幾つかを披歴したいと思います。

 

1.「快動」について

「快動」とは、気持よく動くことです。動物というのは動くことによって環境に適応し、生命を保持してゆく存在であることは、誰でも承知していることでありましょう。逆の言い方をすると、動物というのは、動けなくなった時に生命を維持することに支障をきたし、それが全く不可能となった時に生命を保持できなくなるのです。人間以外の動物は、飼われている犬や猫などの特別な動物を除けば、自然界に生息する全ての物が、動けなくなった時に生命を失うことになっているのです。「動物」という表現は、当り前のこととして軽く考えられていますが、まさに「動くもの」という深い意味を持っていると考えます。

人間は動物なのですが、動物の中でトータル的には動くのを出来る限り少なくて済むように、動くにしても出来る限り楽なように、と科学を進展させてきた唯一の存在だと思います。人間は、動くという本能を封じ込めても、安楽の効率性を追求してきた動物であり、そのことはここ1世紀足らずの間に急激に成果を高めて来ているように感じます。

私は、これは人間にとって、大変危険なことではないかと考えています。勿論安楽を獲得できたおかげで、過酷な労働等が少なくなってきたことには、感謝こそすれ否定など出来るものではありません。しかし、基本的な運動機能を減退させるほどに安楽の追求が偏っている部分については、要注意だと思うのです。

例えば、歩くよりは自転車、自転車よりはバイク、バイクよりは自動車というように、歩くことが動物の動く基本であるのを忘れ、何をするにも最も安楽な移動方法を選ぶという暮らしの習慣は、結果として多様な病を引き起こす要因となっているのではないか。それは、安楽なものを求め過ぎた暮らしの副作用のような気がするのです。何事も「過ぎたるは及ばざるに如かず」であり、現代人は古のその教訓を、知らず知らずに行っている感じがします。生活習慣病などと呼ばれている病は、そのほとんどが長い間この教訓を無視し続けた結果なのだと思うのです。

私たちは、自分自身の普段の暮らしぶりをじっくりとチエックし、「生きるために必要な動きのあり方」をしっかり把握するべきです。そして、その結果に基づいて暮らしの中に様々な決まりを設けて動くことへの意識を確立すべきと思います。その基本となるのが「歩く」ことであり、どんな時に、どのような歩き方を、どれだけ取り入れるかということを身につけることが大切だと考えます。私が「快動」というのはそのような意味であり、内容なのです。

さて、理屈はそのようなことなのですが、具体的に私がそれをどのような形で実践しているか、或いは実践しようと取り組んでいるのかを披歴させて頂きます。実は、私は糖尿病という病持ちで、その病を宣告されてから四半世紀を経ています。何故糖尿病となったのか、その原因は明白であり、過食と運動の超不足です。動くことを億劫がり、一方で好きなものを好きなだけ飲食を続けていれば、その時は快食で快適な体調に見えても、体内では使いきれないカロリーが堆積し、それをこなすだけのインシュリンが不足し、その他の消化機能もおかしくなるのは当然のことであり、20代の初めの頃58kgだった体重は、50歳時には80kgにもなり、ついに糖尿病を宣告される破目に至ったのです。

糖尿病というこの病は、一度取りつくと決して離れないしつこく厄介な病なのです。薬を飲めば治るというような安易なものではなく、インシュリン不足という消化機能の破損は、二度と元には戻らないというもので、唯一の救いは、節制をしていれば健康レベルに収まることができるというだけの、厳しい性格の病なのです。私は糖尿病をそのように理解しています。その節制というのは、インシュリンの不足をカバーできる範囲で①食事(=カロリー)をコントロールする[食事療法]②運動を増やす[運動療法]③必要に応じて薬の力を借りる[医薬療法]、というものですが、これらをしっかりと守ることで、健康者のレベルを保持することができるのです。

一般的に病というのは、薬を飲めば治る、患部を除去すれば治る、と安易に考えられがちですが、そのような病は少なくて、ケアをしっかり行わないと二度と元の健康レベルを保持できないというのが多いように思うのです。糖尿病はその典型的なもので、自覚症状が全くないため、薬を飲んで血糖値が下がれば治ったものと錯覚して、蛮行を重ねる人が多く、たくさんの悲劇が生み出されているように思います。

この糖尿病に立ち向かう、というよりも如何に仲良く付き合うか、というのが私の快動への始まりでした。勿論基本は億劫がらないで何事も身体を動かして対処するという心がけなのですが、それだけではとても必要な運動量を確保することはできません。そこで考えたのは、毎日継続的に歩くために通勤時間、特に出勤時間を活用するということでした。最初はいつも降りるバス停から一つ前のバス停で下りて歩くことから開始し、1カ月後にはバスに乗るのを止め駅から歩くことにし、その内にその駅の一つ手前から歩くようにし、更には数駅手前から歩くようになり、とうとう我が家から約20kmを歩いて職場まで行くという日を設けるようになりました。当時住んでいたのは川崎市の南武線中の島駅近くで、職場は都下小平市にありましたから、常識的には信じられない距離だったと思います。万歩計は平均で2万歩近くに達していたと思います。これは毎日の日課であり、この他に休日は多摩川の堤防の道を20kmほどのジョギングをしていました。

歩くことで大切なのは、病のために歩かなければならないのだというような切迫感や使命感を自己に課すことではなく、如何に楽しく歩けるようにするかということだと思います。通勤の歩きでは、最初は携帯ラジオ(FMやTV音声も聴けるもの)から初めて、ウオークマン(著名人の講演録や自己の話を録音したものなどを聴くため)、植物(足元の雑草などの名を知る)の観察、バードウオッチング、途中の史跡の探訪などなど、遅刻しない範囲での様々なトライをしました。おかげさまでその日のニュースなどは、職場につく前にすっかり耳に入っており、又多くの著名人の話に耳を傾け、道端の草たちの名前の大半を知ることができ、それらは仕事の中でも大いに活用することができたのです。

こうなってくると、歩くのは苦痛などではなく、毎日の楽しみとなって来ます。仕事を引退して10年以上も経った今でも、この楽しみは失うことはなく続いています。現在は毎朝三種の神器(携帯電話・ICレコーダー・デジカメ)を身につけて、今の時期はまだ暗い6時頃に家を出発し、8時少し前に家に戻るという歩きの基本パターンで、毎日コースを変え、歩きながら物書きのネタを考え、拾って録音し、気になる景色などをカメラに収めるようにしています。今の時代の携帯電話は、何かあった時のための連絡ツールです。約1万3千歩(7~8km)ほどの歩きとなっています。勿論この他にも、買い物等も多量の場合以外は車を使わず、自転車か歩くことにしており、1日が終わると万歩計は平均1万7千歩ほどになっています。早朝に歩くようにしているのは、空気がきれいで落ち着いていることが一番なのですが、毎日3時頃にはもう起き出しているため、気分転換に出掛けるのに最適な時間帯だからです。

身体的には老化を覚えることが多くなり出していますが、この習慣を変える気はなく、加齢につれて年間や月間の歩きの目標を下げるようにし、無理をしない、さりとて安楽にはしない範囲で、続けてゆけば良いと考えています。

動くことに関しては、この他にも「市中見回り」と称する自転車行とか、時には登山(筑波山が殆ど)にチャレンジするなど、チャンスがあればアウトドアにつながる行動を努めて意図するように心がけています。今のところ我が身の「快動」は実現できていると思っています。

(以下次回へ)

 

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