山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘13年 秋の関西方面への旅レポート <第5回>

2013-10-31 06:55:24 | くるま旅くらしの話

 【今日(10/31)の予定】 

  道の駅:伊勢本街道御杖→(R369・R165・R169)→大神神社駐車場→山の辺の道散策→(R169・R165・R166・R370)→道の駅:宇陀路大宇陀(泊)

【昨日(10月30日)のレポート】     

<行程>

道の駅:あいとうマーガレットステーション→(R307他)→ 日野商人館→(R307・R1)→道の駅:あいの土山→(R1)→道の駅:関宿(重伝建地区探訪)→(R1・R25)→道の駅:針T.R.S→(R369)→道の駅:伊勢本街道御杖(泊)

<レポート>

昨夜は寝入り端に雨が降り出し、しばらくの間天井を叩く音が姦しかったが、間もなく静かになったようだった。19時前には眠りこんでしまったのだ、外の様子はさっぱり判らない。朝起きて見ると、雲の間から旭日が射して来ていたので、今日の天気は大丈夫なのが判った。湿っていた路面も間もなく乾いて、8時を過ぎるころはすっかり天気は回復したようだった。昨夜は12時前には目覚めてしまい、2度寝をしたのだが、それでも寝過ぎの気分は変わらず、頭は少し重い感じがした。ここの道の駅は、優れた農産物やその加工品等の直売所があり、9時からの開店に合わせて、早朝からかなりの数の車がそれらの産物を運んで来ていた。ここには水汲み場も設けられており、車旅の者にはありがたい場所である。今回は昨日瓜割りの名水をたっぷり汲んでいるので、ほんの少し用水を満たしただけだった。いつものように8時の朝ドラを見た後、行程の再確認をする。

今日のメイン目的は関宿の重伝建エリアを歩くことなのだが、その前に近くの日野商人の町を訪ねて見ることにした。というのも、昨日の五個荘と並んで、日野商人もまた近江商人の重要な位置を占めた存在だからである。重伝建に指定されるようなエリアは残っていなくても、商人の歴史を語る場所は残っているはずであり、日野商人館というのがあるのを知り、そこを訪ねることにした。関宿の探訪の後は、当初の予定を変更し、少し遠くなるけど、御杖村にある道の駅に行き、併設されている温泉に入ってゆっくり休むことにした。

9時になり、売店を覗いたが、特に魅力的な産物も見当たらず、キャベツや大根などの野菜は関東の地元などと比べると、少し高めの価格であり、手を出すのは止めにした。すぐに出発する。ここから日野までは10kmほどで、それほど時間はかからない。20分ほど走って日野商人館の駐車場に到着する。ここは日野商人の歴史を紹介する資料館となっているけど、300年の歴史を持つ山中兵右衛門という方の屋敷とのことだった。中に入り、様々な展示物を館内のガイド担当の方の説明を聞きながら見て回った。自分の感覚では、日野商人といえば「陰徳善事」をモットーとする近江商人という理解だったが、それは外れてはいなかったとしても、その商いの幅の広さと哲学の深さの理解において、真に不十分で、本当は何も知らなかったようなものだと、改めてその浅薄さに恥入った。

      

日野商人館、旧山中兵右衛門住宅の景観。豪壮というよりも質素な雰囲気の家だけど、中に使われている用材は超豪華な物が何気なく使われて建てられている。この家も不景気の時代に職人さんたちを支援する意図で造られたとか。

日野商人は、湖東出合っても八幡や五個荘とは異なり、大都市圏には目も触れず、関東の北部など貧しいエリアに根を張っての商売を形成していった商家集団なのだった。主な商品はお椀と薬が始まりだったとのこと。商法も、現金取引ではなく、掛け売り(=ツケ)が中心だったとのこと。富山の売薬商法なども掛け売りで知られているけど、その開祖は日野の方だったのかもしれない。一旦販売した商品の支払いは、次回の訪問時に現金が無ければ米などの農産物で支払ってもらうようにし、その米などを使って酒造りを行い、それを販売するなど、巧みに戦略を展開していったとのことである。展示場の床の間らしき場所に、それらの造り酒屋で造られた酒の瓶がかなりの数並べられていたが、その中に茨城県は桜川市真壁の「花の井」という銘柄のものが入っているのを見て驚いた。西岡酒造というその店もれっきとした日野の近江商人だったのを知った次第である。その他学ぶことは多かった。それらをここに書くのは不可能である。現役の頃にもっと早く来て、多くを学ぶべきだったと、引退老人の思いは愚痴にもならない。

11時近くまでお邪魔して、ようやくの出発となった。次は関宿の探訪である。天気も良く、いい勉強をして、少し元気が増したような気分だった。もはや実務の役には立たないような学びであっても、人生にはたとえそれが慰めに過ぎないようなことでも、やっぱり必要なのだなと思う。間もなくR1に入って、亀山市方面へ。関宿は今は亀山市となっている。平成の大合併は、必要な昔の地名をどんどん消滅させているけど、これも歴史の為せる不可避の現象なのだろうか。先ほどの日野商人の歴史を研究されている館長さんも、現在の地名の変更に随分と苦労させられていることを嘆いておられた。全く同感である。途中に道の駅:あいの土山というのがあったので、ちょっと立ち寄り小休止する。

関宿の道の駅には12時を少し過ぎた頃の到着だった。重伝建エリアは、道の駅からは歩いて直ぐの近くになるようなので、ここを拠点にして訪ねることにした。その前に昼食、休憩。今日のお昼は、昨日仕入れた鯖寿司である。出来立てのものを買ったのに、時間が経って少し堅くなってしまったが、味の方はまだまだ大丈夫だ。じっくり噛みしめながら、今年最後となるであろう、味を身体にしみ込ませた。うめ~。春の旅の時に買った、日野の北山茶も寿司にぴったり合って美味かった。昼食の後はしばらく動くのを止め、休憩をする。

13時近く、宿場町関宿の探訪に出発する。関宿は東海道五十三次の内の江戸から数えて四十七番目の宿である。そのようのパンフに書いてあった。ということは京の都からは七番目ということになるのであろう。ま、そのようなことはどうでもいい。道の駅からは坂を上って300mほど行って付き当った通りが旧東海道の街道筋となっており、細い路地から出ると、その通りの両脇にびっしりと昔風の建物が立ち並んでいたので驚いた。宿場町とは知っていたけど、これほど長く建物が連なっていると想像しても見なかった。今迄幾つかの宿場町を見てきたけど、ここは街道の筋一本の両側に建物が並んで、町を形成していた。2km近くあって、東追分と西追分とに挟まれて中心部が作られているようである。道の駅からの路地はほぼ中心部近くに出るようになっていたようで、先ずは右手の方の東追分の方に向かって歩くことにした。もうこの時点で、相棒とは別行動である。同じような建物がずっと続いていた。現在も現役の店などが多いようで、車の行き来が結構多くて、写真を撮るときにどうしても車が入ってしまうのが嘆かわしかった。現代なのだから、いた仕方ないのであろう。建物の中には現役の銀行や郵便局などがあって、何だかそれらが江戸の昔から続いている感じがするのは不思議な感じである。しばらく歩いてゆくと、少し坂道となったので、そこで写真を撮って引き返すことにした。

      

関宿。東追分あたりの景観。ここは下り坂になっており、この通りの先に一の鳥居があるという。

今度は西の方に向かって歩く。途中で見知らぬ人から声をかけられた。どこからですか?というのに、つくばからですと答えたら、その方は自分も15年間ほど土浦の千代田という所に住んでいたとのこと。これで急に距離が縮まり、話が前に進んだ。その方はこの地が地元らしく、ここに戻って、案内のボランティアなどもされているらしかった。一の鳥居まで行かれましたかというので、いや、途中で引き返したと話したら、それは残念、是非行ってみてください。関宿はあそこから始まるのですとの話で、その鳥居が伊勢神宮の遷宮に合わせて取り換えられる、珍しいものなのだという話をされた。20年の式年遷宮に合わせて、本宮の建物の古材を用いて、宇治橋の鳥居が造られ、更にその鳥居のお古がここの一の鳥居になるのだとのこと。ということは、ここの鳥居は伊勢神宮の40年後の本宮の用材を使っているのですねと話したら、その通りとのことだった。ま、ありがたい存在の鳥居ということなのであろう。自分は伊勢神宮には森以外にはあまり興味関心が無いのだが、そのことを言ったらこの方は気分を害されるに違いないので、勿論緘口、緘口である。

それから少し歩いて、江戸から丁度106里という場所に作られた展望所に上がり、2階から関宿の家並の景観を味わった。高さが足りず、半分くらいしか俯瞰できないのが残念だった。更にぶらり歩きを続け、地蔵院に着き、参詣する。関の地蔵堂は立派な建物であり、この中に納まったお地蔵さんは、村の外れの赤い前掛けのお地蔵さんとは随分違うなと思った。お地蔵さんも場所と時代によって、扱われ方が相当に違うのは、人間どもの気まぐれであり、先刻ご承知のことなのだろう。お地蔵さんは苦笑しながら、この自分を見ておられるに違いない。般若心経を唱えてお許しを頂くことにした。その先からが西追分となるのだが、同じような建物がずーっと並んでいるので、切り上げることにして戻りに就く。それから20分ほどかけて道の駅に戻った。相棒の方は、途中ですれ違った時は、何処かのばあさん風の人と話込んでいたようなので、帰りは遅くなる予感がした。しばらく待ったけど、14時半を過ぎても帰ってきそうもないので、電話をしたら、これから帰るところだったとのこと。いつもこの調子だけど、そのあとすぐ戻ることは少ない。ご帰還はその後15分経ってからだった。

      

関の地蔵堂の地蔵院。ここの本尊は地蔵菩薩というのであろうが、がっちりと固められて囲まれた本堂の中には、中を覗くことも叶わず、ありがたさが届かないのが少し気になった。

      

関宿・西追分の家並の景観。ここまで来てこの先に行くのを諦めた。随分と長い街道に沿った宿場町であるのを実感した。

15時少し前、道の駅を出発して今日の宿の御杖村の道の駅に向かう。御杖村は奈良県だけど三重県に近い山奥にあり、その昔は奈良と伊勢を結ぶ街道の通っていた場所である。それで、道の駅も伊勢本街道を名打っているようだ。2度ほど訪れたことがあり、閑静な山の中にあり、ここには温泉も併設されており、今日はそれらをゆっくり味わうことにしたいと思っての選択だった。間もなくR1からR25に入り、ひたすら天理方向を目指して走る。R25は高速道並みのバイパス道で、走行している車は皆70km以上のスピードである。SUN号は登り坂道に弱いので、そこへ行くといつも一番左車線専用の走行である。40分ほど走って、針ICで降りて、近くの道駅:針TRSに寄り一息入れて御杖に向かう。

それからは山の中の道をしばらく走り続ける。久しぶりの来訪なので、以前とは違った道を走っている錯覚に襲われ、随分遠いなと不安を抱いたりした。しかし、道の駅に着き、その場所をしっかり思い出し、やっぱり間違ってはいなかったと安心する。17時近くになっており、辺りはすっかり暗くなっていた。駐車場に意外と車が多いのは、温泉に入りに来る人たちで結構賑わっているからなのであろう。自分たちもさっそく入浴の準備をして、姫石の湯に行く。ぬるめの湯だが、良く温まり、満足して車に戻る。今日は先日手に入れた鯖のなれず寿司を酒の友とすることにした。初めての味わいだったが、それは深いものだった。なれ寿司特有の臭いは全くなく、臭いに超敏感な相棒でさえも、美味い、美味いを連発していた。これは燗酒に合うタイプの肴だなと思った。今日は冷酒だったので、お湯割りの焼酎でも試して見たのだが、一段と美味さを増した感じがした。これから先が楽しみである。

TVの設定を止め、ラジオで日本シリーズを聞いていたのだが、終わりは知らぬままに眠りに入った。結果は明日の楽しみである。

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‘13年 秋の関西方面への旅レポート <第4回>

2013-10-30 04:31:35 | くるま旅くらしの話

【今日(10/30)の予定】 

  道の駅:あいとうマーガレットステーション → (R307・R1他)道の駅:関宿→(R)→伊賀焼き窯元探訪→(R)→道の駅:宇陀路大宇陀(泊)

 【昨日(10月29日)のレポート】 

<行程>

道の駅:若狭おばま→(R162他)→小浜市郊外・田烏集落(民宿佐助)訪問→(R162他・R27)→瓜割りの滝(給水)→(R27・R303・R161)→道の駅:藤樹の里あどがわ→(R161・R477他)→鮎家→(R477・R8他)→東近江市・五個荘重伝建エリア探訪→(R8・R307他)→道の駅:あいとうマーガレットステーション(泊)

<レポート>

 朝起きたら昨日とは打って変わった雲の多い空となっていた。寒くはないけど、暖かさのない半端な天気の一日となりそうな感じがした。今日は早くも旅の3日目を迎える。小浜の昨日一日は真に年寄り向きの過ごし方で、その延長線が朝まで残っていた。というのも、相棒が昨日焼サバ寿司などを作っている店にお願いして、朝一番でそれを手に入れることにしており、又もう一つの店では鯖のなれ寿司をオーダーすれば、その製造時期が来た時に製造元から送ってくれるというので、それをお願いしようということになっており、食べ物の入手に対する老人の執念のようなものが続いていたのである。店の開店が9時だというので、それまでの間、道の駅で過ごす。

 今日のメインの訪問先は、近江商人の拠点の一つだった、湖東の五個荘の金堂というエリアの探訪である。ここは重伝建に指定された農村集落である。そこへ行く前にいつもの瓜割りの滝の湧水を汲むつもりでいる。また、途中時間があれば、熊川宿などの重伝建エリアにも寄りたいし、他の道の駅などにも寄って、見聞を膨らませたいと考えている。

 9時近くになって、昨日オーダーした店に出向く。それらの店は小浜港近くの若狭フィッシャーマンズワーフの傍にあって、道の駅からは5分ほどの距離にある。先ずは鯖寿司の方へ行く。すぐに戻るのかなと思ったら相棒がなかなか帰ってこない。どうしたのかと思ったら、何と、ただ今作って貰っている最中だという。おしゃべりに帰りを忘れたのとは違っていた。少し待って出来立ての寿司を手に入れ、もう一軒の店に出向く。ここでは、突然の出会いが待っていた。相棒がなれ寿司を送ってもらおうと頼みに行くと、何とその製造元の民宿の方が来訪されていたのに出合ったのである。この店ではなれ寿司は販売斡旋だけで、製造はそこの民宿(=佐助という屋号)のものだったのである。昨日の話では、なれ寿司は製造の時期があり、もう少し寒くならないとダメなのだと聞いていたのだが、今日その製造元の方の話では、今頃は年中の製造が可能となっているとのことだった。今手に入るのかと相棒が訊いたら、大丈夫とのこと。今日出したものがあるので、何なら家まで来て頂ければお分けしますというので、それじゃあ、と行って見ることにした。何だかわけが判らぬまま、頂戴した名刺のあて先をナビに入力しての出発となった。

 さあ、それから先は全くのナビ頼りで、どこへ行くのやら土地勘は全くないままの運転となった。どうやら浜の民宿を経営されているらしく、車はR162に入って、まだ一度も行ったことのない小浜市郊外の海岸線を走り続けた。20分ほど走って、田烏(たからす)という集落が眼下にあり、急坂を下ってそこへ行くようにナビがガイドした。きれいな浜が湾になって穏やかな波に洗われていた。全部で50軒そこそこの漁師町の集落が櫛比して建っていた。その浜に近い道を少し入った場所に民宿佐助はあった。まだご夫妻は帰宅されていないようなので、相棒が電話をすると途中で買い物をしたりしたので、少し遅れるという。しばらく待つことにした。

 15分ほど待って軽トラのご夫妻が戻られた。さっそくなれ寿司一本を手に入れる。その後しばらくなれ寿司やへしこ、それにその材料の鯖の話になり、いろいろと勉強になった。この集落はその昔から京都に運ぶ鯖を獲っていた漁師町なのだそうで、20年ほど前まではきんちゃく網漁をしていたとのこと。集落全体が一体となって漁をしていたらしく、今でも密集している家々は、全戸が親戚なのではないかと思うほどである。鯖のなれ寿司の話を聞いたのは、つい先日のNHKの番組を見ていてのことであり、その時初めてそれを知り、ぜひ機会があったら食べて見たいと思っていた。それが突然にも実現して嬉しさを通り越して不思議な気持ちだった。鯖のなれ寿司は、へしこから作るのだとのこと。へしこというのは、鯖を塩と糠で発酵させて作る保存食だが、そのへしこを使って更に麹などを使って作るのがなれ寿司とのこと。詳しいことを知るのはこれからの課題だけど、大雑把にはそのような工程だとお聞きした。又、その作り方には家々で様々な工夫があるようで、同じ集落の中でも微妙に味が違うという話だった。

ご主人はとても話好きの方で、相棒とはいい勝負だなと思ったりした。あれこれ話をしている内に、ついにはへしこを一本無料でプレゼントして頂き、恐縮した。年末近くなったら、再度なれ寿司とへしこをオーダーすることにしたい。なれ寿司は人により好き嫌いがあるとのことだけど、自分には無関係の話である。まだ食べてはいないのだけど、この手の発酵食品は、酒の肴に不適などということはあり得ない。明日が楽しみだなと思った。まだまだ学んだことはたくさんあるけど、ここに書くのには無理がある。ご夫妻にお礼を申し上げての出発となった。

 予定外の出来事に少し驚かされたが、いい出会いだった。旅の出会いの大半は、外交官役の相棒のおしゃべりから始まっているけど、今回も同じパターンだった。私がいなかったら、出合いは滅多にないのじゃないか、というのがこの頃の相棒の自慢になりつつある。ま、ええか、である。そのようなことを話しながら、次の目的地である瓜割りの滝に向かう。11時少し前に到着。ここで給水をする。瓜割りの滝から流れ出る名水は、名水の名にふさわしい。ここを通る時はかならず寄って車の水槽を満たし、ペットボトルやポリタンを満たすことにしている。ここの水を汲むには、手形が必要で、古いポリタンにはそれが貼ってあるのだけど、今日は新しいポリタンも持参したので、もう一枚手形を買い入れ貼り付けた。いつもお世話になっているお礼のつもりである。瓜割りの名水は、北海道の羊蹄山の湧水ほど規模は大きくないけど、水質においては勝るとも劣らないと思っている。何しろ若狭は古来よりの名水の本場なのだ。奈良の二月堂のお水取りは春を迎える行事として有名だけど、そこで汲みとられる水は若狭から送られてきた水なのである。小浜近くの神宮寺では、お水送りの神事がある。ここへ来るといつもそのようなことを思ってしまう。十二分に水汲みに満足して出発。

 お昼は五個荘に行く途中にある道の駅:藤樹の里あどがわで摂ることにして、途中の熊川宿はパスする。ここも重伝建指定の宿場町だけど、もう何度も散策しているので、名残はない。しばらく走って、琵琶湖西岸に出て、湖西道路を少し走ると合併で高島市となっている安曇川の道の駅に着いた。比較的新しい道の駅で、設備も良くいつも混雑しているのが少し残念。隣の図書館脇の駐車場に車を止め、昼食休憩。お昼は今朝小浜で買った小鯛の寿司だった。鯖寿司だけかと思ったら、抜け目なく鯛の方も手に入れていた相棒だった。上品な味で、雑食性の自分には勿体ないような感じもした。40分余り休憩して出発。

 引き続き湖西道路を走って、琵琶湖大橋に向かって左折する。琵琶湖大橋は有料で200円也を払って通過。そのまま五個荘に向かう前に、久しぶりに琵琶湖湖畔にある鮎家に寄ってみることにした。鮎家は本店は堅田にあるようだけど、湖畔にあるのは大型の観光ドライブインで、琵琶湖周辺の地産物や加工品など食品関係の各種商品を販売している。ここに行けば、近江近郊の土産は何でも手に入るというわけである。観光バスの寄るコースに含まれているらしく、いつもかなりの観光客でにぎわっている。

この店では、試食品がたくさんあり、食べて見させて買ってもらうというのは、納得性のある販売方法で、これも近江商人の商法の一つなのかなどと感心したものだったが、年を追うごとに試食品の提供は数を少なくし、前回3年ほど前に行った時には10種類くらいに減っていた。今回はどうだろうと一回り中を覗いてみたけど、前回に増して試食品は減っており、何だかますますこれは近江商人のやり方ではないなと思った。京都のケチ商人の根性が出始めているのかなと思ったりした。しかしまあ、相変わらずシルバー世代中心の観光客があふれているのは結構な商売上手ということなのであろう。自分は直ぐに車に戻ったが、相棒は何やら手に入れてきたようである。

 鮎家におさらばして、今日の本命の五個荘金堂集落に向かう。鮎家からは、ナビ任せで、思ったよりも時間がかかって到着する。観光センターという所の駐車場に車を置き、歩くことにした。近江商人は、湖西と湖東に大別されるが、五個荘は勿論湖東商人の一つである。現役時代、マーケティングという観点から近江商人について少し研究をしたことがあり、その時に五個荘のことについても調べたことがあったのだが、現地に行って実際の様子を見聞するには至らず、知識として近江商人の哲学や方法論などを調べたりしただけだった。それが、今は理屈ではなくこうして実地を半ば観光気分で歩き回れるというのは、何とも不思議な感じがしている。

 重伝建の指定では、五個荘金堂エリアは、農村集落となっている。農村といえば、田舎の山村の景観などをイメージしてしまうけど、五個荘は、とてもそのような雰囲気はない。歩いて訪ねた金堂集落は、超豪華な、しかしどこかに控えめさを秘めた屋敷や寺院などが集まった一角だった。ここが農村であったというのは、集落の外側には現役の田畑が囲んでおり、そのまま首肯できるのだが、立派な建物には農家の匂いも気配もないように思った。金堂集落は、元々農村だったのが、農業だけでは食べてゆけないので、行商を始めた者があり、それが次第に数を増し、成功を収めて、いわゆる近江商人といわれるものに発展したということである。

      

五個荘金堂エリアの中のあきんど通りの景観。重厚な建物が立ち並んでいるが、豪華さの中にも控えめな雰囲気が漂っているように思った。

五個荘の特徴は、成功した農村出身者が、故郷を大事にし、故郷には店舗などを一切設けず、拠点としての家を大切に守ってきたということである。つまりは商売を抜きにした故郷として自分の家を先祖共々大切にしてきたということであり、成功するにつれて故郷の家屋や屋敷も規模が大きくなったのであろう。農村集落という指定の形を不思議に思うとともに、その昔、天秤棒を担いでの行商から始めて、これだけのスケールの大きい家々を持つまでに育て上げた農家の人々の根性というか、精神に畏敬の念を覚えたのだった。

 観光センターの傍に「プラザ三方よし」というのがあり、ここが五個荘観光案内の拠点となっているようだった。「三方よし」とは、近江商人の商売哲学を代表する言葉であり、「自分よし」「相手よし」「世間よし」の三つの良し、すなわち良き関係を意味している。これはバラバラにして三つがそれぞれ大切だという意味ではなく、この三つが常に一つになって商売するものの頭の中に入っての行動でなければならないという、意味なのである。つまり、商売は常にこの三つが一つになって守られていなければならないということで、辛酸を舐めつくして成功を収めた商人魂の極理を言い表しているのだと思う。そのような説明がこの建物の中のどこにも見られなかったのは、残念だなと思った。先人の遺産を単なる観光資源として安易に食いつぶすのではなく、今日につながる精神面の大事さをもう少し讃えるような紹介の仕方という取り組みがあってもいいのではないかとも思った。(ま、知ったかぶりなのかもしれないけど)

 1時間ほど散策をしたけど、じっくり見るには時間が足りず、相棒は、今回はとりあえず下見をしに来たことにするなどと言っていた。建物内部には入らず外観ばかりだったので、集落の構成などは判ったけど、次回は何箇所かある公開されている屋敷の見聞もすることにして、今回の探訪を終わることにした。帰り際、相棒が何処かへ消えたなと思ったら、間もなくにこにこしながら、「あった」と何かを手に掲げて戻ってきた。何と、枝豆を探し当てて買ってきたのだという。ここまで来る途中の畑や田んぼにまだ青い葉を残している大豆を見つけて、黒豆の枝豆が手に入るかもしれないとひそかに期待していたのだったが、まさかこんな所で相棒が見つけて手に入れて来てくれるとは思わなかった。念願が叶って、万歳!である。さっそく今夜の一杯に供することにして、泊りを予定している道の駅:あいとうマーガレットステーションに向かう。

15分ほどで、道の駅に到着。16時を少し過ぎた頃なのに、今日は雲が多くて、既に暗くなり始めていた。雨も少し降り出したようである。さっそく鍋を取り出し、枝豆をゆで上げる。見た目には全く冴えなくて、とても旨そうには見えないのだけど、食べて見ると期待に違わずの美味だった。酒とビールの在庫が無いため、今夜は焼酎での一杯となった。まだ、17時半である。いい気分となりだした18時からプロ野球の日本シリーズの放映が始まったが、とても最後まで見るなど無理である。19時前いには寝床にもぐりこみ、ラジオの実況放送を聞くのに切り替えて、しばらく経って楽天が4点を先取したというのをかすかに聴いたのが最後で、あとは早や白川夜船の世界となる。

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‘13年 秋の関西方面への旅レポート <第3回>

2013-10-29 07:11:40 | くるま旅くらしの話

【今日(10/29)の予定】 

  道の駅:若狭おばま→(R27)→瓜割りの滝→(R27・R303・R161・R477他)→東近江市・五個荘重伝建エリア探訪→(未定)→道の駅:あいとうマーガレットステーション(泊

昨日(10月28日)のレポート】     

<行程>

道の駅:若狭おばま → 小浜市内重要伝統的建造物群保存地区・西組(商家町・茶屋町)探訪 → 小浜市内フィッシャーマンズワーフ →(R27)→ 小浜市内浜の湯 → 道の駅:若狭おばま(泊)

 <レポート>

小浜の道の駅では、快適の一夜を過ごせた。昨夜はTVの設定をさぼって、ラジオで日本シリーズを聞いていたが、楽天が先取点を上げたところまで我慢していたのだが、その後は結果を知らぬままに眠りに就いてしまった。夜中にトイレに起きたけど、目覚めて寝床を抜け出したのは、6時少し前だった。騒音もなく旅の第一夜を過ごせたのは、ありがたいことだった。今日も快晴の朝で、雲ひとつない青空だ。昨日の床の湿気の被害が後を引いているので、朝食の後は、好天にお願いしてしばらくの間カーペットなどの天日干しをすることにした。今日の予定は、午前中は小浜市内の重伝建エリアを散策することにしており、その後は近江八幡近くの休暇村の温泉に入った後、東近江市の道の駅あいとうマーガレットステーションに行って泊ることにしている。特に無理のある行程でもなく、のんびり行こうと考えている。

小浜の道の駅は、地産品などの売り場の前に、大きく「オバマ大統領」と書かれたのれんの様なものが掲げてある。近づいてみると、その上に「祝再選」と書かれていた。何のことはない、昨年のアメリカの大統領選の結果再選されたオバマ氏を祝うものだった。最初の時も騒がれたが、若狭の鯖などの町が、同名というので、遠いアメリカという国の大統領を祝う時代になっているのである。日本国の総理が再選されたとで、それを祝うのれんや幟を掲げる地元などないような気がするけど、この現象はダジャレの浸透した証拠なのであろうか。面白いような、バカバカしいような、妙な気もちがした。

      

道の駅:若狭おばまの売店入口の様子。遠くから見ると「オバマ大統領」と見えるので、それが店の名前かと驚いた。

10時過ぎまで天日干しを続け、そのあと荷物などの再整理をして重伝建エリアに向け出発する。道の駅からは10分ほどで、重伝建エリアの一角にある小浜公園に到着した。海のすぐ近くにあり、幼稚園の子どもたちが遠足にでも来たのか、先生の指示に従って、広場に丸く集まってお話を聞いていた。駐車した直ぐ傍に奈良ナンバーの旅車が停まっていたので、挨拶をする。なんとなく旅などの話になり、しばらく相棒も混ざっての懇談となった。その方の話では、今迄ハイエースで旅をしていたのが、今回キャブコンに乗り換えられたそうで、今日はその車を大垣の業者まで取りに行っての、今がその帰り道とのことだった。これからTVのアンテナなどの装備品をどうするか考えておられたようで、SUN号の地デジアンテナやBSアンテナを見て、興味を示しておられた。SUN号の場合は、大げさすぎてとても他人さまにお勧めできるようなシロモノではないので、あまり参考にはならなかったと思う。今年はご主人が病気で入院されて、北海道行が不意になってしまったと話されていた。来年は、新しい車で存分に夏の北海道を楽しまれますようにとエールを送って別れる。

重伝建指定の西町エリアは、公園のすぐ近くにあり、それから1時間余り掛けて、ゆっくりと町の造りや建物などを見て回った。古い建物はあまり残っていないようで、昭和に入ってからの建物が多いように感じた。初めに三才町と書かれたエリアの香取区という所へ足を入れたのだが、この地区は料亭などの茶屋町の名残をとどめた町並みだった。今でも現役の料亭も何軒かあるようで、その昔はかなりの賑わいを見せた町の面影をしのばせるような雰囲気の一角だった。小浜は江戸の昔から、北前船の寄港地の一つであり、全国各地との交易で栄え、この茶屋町もそれらと一緒に栄華を誇ったのだと思う。

      

重伝建小浜西組の茶屋町の風景。左右に料亭が軒を連ねている。日中とあってなのか、人っ子一人見えない静けさが町を包んでいた。

その後、幾つかの町並みを足の向くままに歩いていると、町並み保存資料館というのがあったので、中に入ってみた。町並みの中にある建物の一つを資料館にしたもので、その建物自体が町並みの昔をしのばせる風情を保有していた。案内をして下さった方の話によると、この家は元小間物問屋だったそうで、20年ほど空き家になって壊れかけていたものを借り受け、補修して使用しているとのこと。京都などの町屋の造りに似ていて、間口は狭いけど奥行きの深い構造で、蔵の他に石室なども造られており、なかなか工夫を凝らした建屋であったらしい。相棒は石室の中に入ったりして造りなどを確認しているようだったが、閉所恐怖症のある自分は、そのようなあやしい場所にお断りした。奥の方に立派な土蔵があったが、滅多に開けられそうもなく頑丈な造りで、鬼平犯科帳に出てくる正統派の盗人でも、このような蔵の中のお宝を頂戴するのは、なかなか難しいだろうなと思ったりした。

      

小浜西組重伝建地区町並み保存資料館の外観。その昔は丹後街道に面した小間物問屋だったという。間口は狭いけど、奥行きが深いのは、京都に近いことからも想像できる造りである。

今迄小浜には何度も来ているけど、このようなエリアに足を運んだのは今回が初めてであり、小浜は鯖の串焼きや鯖寿司ばかりではなく、江戸の昔につながる文化遺産なども幾つも残っている場所だというのを、改めて知った思いがした。やはり、旅というのはより幅のある視野で、様々な切り口からその場所を覗いてみないと、本当の味は味わえないのだとも思った。

12時半近くになっており、腹のすき具合も丁度いいタイミングだったので、すぐ近くにある若狭フィッシャーマンズワーフというお魚観光市場の様な場所へ車を移動する。ここはこの辺りを通るときには必ず寄る場所で、鯖の串焼き初め小浜近海の海の幸が並べられ、販売されている場所である。今日は昼食に寿司を食べることにし、相棒は焼サバ寿司を買い求めていた。その後、店内のテーブルで、無料サービスの味噌汁とお茶を頂きながら、昼食を楽しむ。昼食の後は、食後の腹ごなしを兼ね、近くの魚の市場や専門店を覗きあるいて、今夕のメインデッシュである鯖の串焼きを探した。どこにも同じようなものが並んでいたが、結局はいつもと同じ店での購入となった。自分の購買行動とは、最初の一回目を外したくはないようで、いつも同じ店で同じものを買うことになるようだ。変化を求めない(=好奇心のボリュームが微少?)タイプなのかもしれない。

買い求めた串焼き鯖をぶら下げながら、さて、これからどうしようかと迷っていたら、相棒が近くにある御食国若狭おばま食文化館という建物内にある浜の湯というのに入りたいという。ここは、知り合いの関西HMCCの皆さんが、こちらでキャンプをするときにいつも利用されている温泉でもあり、それじゃあ、今日も小浜の道の駅にご厄介になることにしようか、と突然の決定となった。先ほどまでの予定では、これから近江八幡市近くにある休暇村の温泉の無料入浴を考えていたのだが、そこは15時までに入浴を済ませないとダメとのことなので、行くのを諦めたのだった。温泉博士という雑誌には随分とお世話になったけど、先月から新版になってからは、無料の温泉入浴が大分しにくくなったようで、がっかりしている。そもそもタダで風呂に入ろうなどという考えが、間違っているのかもしれない。これからはこの本のお世話になるのは止めようかと思った。

ということで、今日は完全に「年寄りの半日仕事」を守れることとなった。その後は、車を小浜港の広場に移動させ、再度カーペットを干したりして、2時間ほどのんびりと過ごす。相棒は食文化館の展示ルームに出かけて行ってなかなか戻らなかった。その間、パソコンを取り出し、記録の整理などをする。15時過ぎになったので、戻った相棒と一緒に浜の湯に出かける。

温泉は3階にあって、眺望が良い。眼下に小浜湾なのか、小島を浮かべた海が広がっていた。久しぶりに体重を測ったら、いつもより1kgほどオーバーしていた。要注意だなと思った。しかし、今夜はあこがれの鯖の串焼きとの対面なのだから、例外だなと思った。このようにして、旅に出ると体重コントロールは難しくなる。温泉には露天の他薬草の風呂、サウナなどもあって、万遍なく利用させて貰って、入浴を楽しんだ。帰りがけの体重は1kg以上減っていたので、少し満足した。先の車に戻っていた相棒も満足したようだった。身体が冷めないうちに宿まで急ぐ必要がある。湯上りの後の楽しみといえば、冷たいビールと決まっている。その在庫が無いので、途中でスーパーにより急ぎ買い入れて、昨日と同じ道の駅:若狭おばまに着いたのは、17時を少し過ぎた頃だった。

さて、それからは大急ぎTVの設定や夜を迎える準備を済ませ、乾杯のビールにありつく。念願の焼サバは殊のほかに美味だった。このサイズの鯖は、今頃は若狭湾では獲れないと思うけど、ノルウエー産だって、少しも引けは取らないのではないかと思っている。相棒にもお裾分けをして味を楽しんで貰った。TVを見ようとしたけど、この地では地デジは4チャンネルしか入らず、今日は日本シリーズも休みなので、早めに寝ることにした。寝床にもぐりこんだのは、19時前だったのではないか。途中で目覚めたら、その後はしばらく眠るのに苦労するだろうなと思いながら、それでも為すことが無ければ、寝るしかない。相棒も早めに眠りに着いたようだった。今日は確実に「年寄りの半日仕事」が実行できたなと思った。半日の又その半日くらいの動きだった。車の走行距離は10kmにも満たない。いい一日だった。

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‘13年 秋の関西方面への旅レポート <第2回>

2013-10-28 07:35:37 | くるま旅くらしの話

今日(10/28)の予定】 

  道の駅:若狭おばま → 小浜市内・重伝建(西組~商家町・茶屋町)探訪 →(R27他)→ 琵琶湖・湖東方面 → 道の駅:あいとうマーガレットステーション(泊)

 【昨日(10月27日)のレポート】     

<行程>

自宅 → 谷和原IC →(常磐道・首都高・東名道・名神道・北陸道)→ 敦賀IC →(R27)→ 道の駅:若狭おばま(泊)

 <レポート>

ようやく出発の日が来た。既に昨日までに準備は完了している。それでも水を補給したり、冷蔵庫をガス冷却に切り替えたりするなど出発前にやることはいろいろあって、一段落した時は8時を過ぎていた。快晴の朝である。1週間待たされただけのことはある、と考えることにした。留守の間のことは倅夫婦に頼めるのがありがたい。嫁女に見送られて、旅に出かける心境になって、いよいよ出発となる。

直ぐに高速道の運転となる。常磐道谷和原ICは、我が家からはおよそ1km、2~3分の距離にあり、ウオーミングアップも間もなくの高速運転に入る。快晴の朝の高速道は、日曜日とあってこの時間まだ車も少なく、快適なドライブ条件である。願わくばこのまま都心をさっと通り過ぎることができますようにと思わずにはいられない。利根川に架かる橋を渡ってしばらく走ると、遠くに富士山が雲を従えてこちらを見ているのが見えた。今日は富士山も我々を励ましてくれている、などと勝手に嬉しがったりした。

間もなく常磐道から首都高に入り、都心を通過する体勢となる。首都高に入る前から少しずつ渋滞が始まった。いつものことなので、既に諦めの気持ちは出来上がっている。ノロノロ運転は、高速運転よりもある意味ではより安全かもしれない。前の車の動きに合わせていさえすれば、渋滞が解消するまでは、神経の使用度は少ない感じがする。浅草の辺りを過ぎるまでは渋滞は解消しなかったが、都心に入ると一挙に流れが良くなって、丸の内、霞が関、渋谷をあっという間に過ぎて、間もなく多摩川を渡って、東名道に入る。しばらくぶりの都心の横断だった。海老名SAに着いたのは、丁度10時だった。まあまあのペースである。

それから先は、全くの順調な車の流れで、東名道をマイペースで走り続ける。御殿場から新東名道経由で行くことにした。ところが御殿場に近づくと何故か渋滞が始まり流れが停まった感じがした。開いている車線を走っていると、どうやら御殿場ICの出口で混んでいるらしい。箱根や富士山方面への車で動かなくなっているようだった。まさか新東名が混んでいるのではなかろうとは思ったが、やれやれという気分だった。それにしても都会の人たちの休日の近場観光への意気込みというものは大変なものだなと思った。

御殿場からは、快調に名古屋方面へ進む。途中静岡SAで昼食。山の中なのだが、由比のエビやシラスなど海産物の名物のかき揚げ丼があったので、それを腹に収めた。今回の旅では、外食を少し増やしたいような意向が相棒にあり、今回がその第1回目ということになった。新東名道は、いつだったか時期は良く覚えていないけど、開通間もなく上り線を走ったことがある。その時の旅では往路東名道を走った時には、まだ新東名道は開通しておらず、復路に初めて利用したのだった。新しい道は快適で、SAなども物凄い混雑ぶりだった。今回は道路の状況は開通時と少しも変わらず快適で、SAも適当な混みようで、やはりこちらを選んで良かったなと思った。

浜松を過ぎて、三ケ日JCTから東名に入り、名古屋方面へ向かう。車の燃料が少なくなってきたので、補給しようと上郷SAに立ち寄る。給油スタンドに行ってみると、何と軽油が149円/Lと表示されていた。びっくり仰天である。高速道では高いのは承知していたのだが、これほどとは思わなかった。守谷市近郊では、高くても130円を超えることはなく、自分が入れている店は123円である。いくらなんでも26円も違うとはひど過ぎるなと思った。少しでも害を少なくしようと、20Lだけ入れることにした。

その後は、名古屋郊外を順調に走り、名神道に入って、長良川、木曽川を渡って、やがて揖斐川を渡る。この三つの川は、日本国では大河という区分に入るのかもしれない。アマゾンや黄河などに比べれば、小川なのだろうけど、日本人にはこれくらいでちょうどいいのだと思う。とまあ、つまらぬ妄想などしながら、間もなく養老SAに到着。当初の予定では、今日はここに泊るつもりでいたのだが、まだ15時半であり、とても夜を待つ気分にはなれない。先に行くことにした。明日は小浜市内にある重伝建エリアを訪ねるつもりなので、この調子なら北陸道を敦賀まで行って、そこから一般道のR27を1時間ほど走れば、18時ごろまでには小浜の道の駅に着けるのではないかと考え、それにチャレンジすることにした。若しそれが無理な時は、何処か途中で降りて、琵琶湖湖畔近くに幾つかある道の駅のどれかに厄介になればいいとの考えだった。

その後も流れは順調で、少し暗くなり出したけど、17時少し前には敦賀ICを出て、R27に入る。ここで再び少なくなった軽油を補給する。L辺り134円とあったので、少し高いけど高速道よりは安いとホッとして給油したのだが、清算書を見ると、137円となっていた。134円は、メール会員の場合だとのこと。そればかりを強調していて、同じ現金で払っているのに、3円も高い値段なのは、詐

欺行為ではないかと思った。この手の給油所が流行っているようで、何とも腹が立つ。この先も燃料の価格に関しては、何度も腹の立つ場面を迎えるに違いない。そう思った。それでもその後の小浜市に近いスタンドを見たら143円などというのが普通なのを知り、このエリアの車を使う人たち全員が被害を受けているのを知り、文句を言うのは控えねばなるまいと思った。

 17時50分、小浜の道の駅に到着。もう辺りはすっかり暗くなっており、駅の売店なども終わって人の気配もまばらだった。もう、TVなどの設定は止めて、そのまま寝床の準備をして、夕食に取り掛かることにした。今日は車の中で一大トラブルが発生し困り果てている。というのも、昨日までの雨で室内の湿気が液化したらしく、断熱材を敷いているカーペットを濡らして、靴下を濡らすほどに溜まってしまっていたのである。これを退治するのに、大わらわだった。ようやくスリッパをはいて水分から逃れられるようにあなったけど、台風の雨は、決して甘くはなかったのだということを思い知らされた気分だった。

 今回は「年寄りの半日仕事」を掲げたのだけど、今日は553kmも走って、これでは到底市の様な事を守ったとは言えないなと思った。明日からはまじめに年寄りの心得を守ることにしよう。相棒がへたっていないのが、ま、良かったというべきであろう

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‘13年 秋の関西方面への旅レポート <第1回>

2013-10-27 04:54:48 | くるま旅くらしの話

 【今日(10/27)の予定】 

  自宅 →(R294・常磐道・首都高・東名道)→ 養老SA(泊)

 【昨日(10月26日)のレポート】     

<行程>

自宅(出発準備)

 <レポート~ 旅に出る前に>

今年2回目のちょっと遠出の関西方面への旅に出掛けることを決めた。当初の出発予定日は、10月20日だった。ところが、その週の初めに台風26号が関東地方を襲い、伊豆大島を始め各地で甚大な災害を被った。その被災対応も困惑しているのに、再び今週中に台風27号が襲来するという。しかも、今度の奴はより勢力が大きくて凶暴性を伴う危険性があるという。これじゃあ、予定通り出発したら、旅先で安全な場所を求めて逃げ回るなどという、とんでもないことに巻き込まれるかもしれない。そのようなことは真っ平御免、というわけで、出発を台風通過の後にすることにした。ところが、ところが、である。何と来週も又、今度は台風28号がやって来るというのだ。一体今年の天気の狂い様はどうなっているのだろうか。不気味である。しかし、このような天気の状況ばかりに囚われていると、秋の旅も不意になってしまうかもしれない。そう考えて、28号が襲来を諦めるのを期待しながら、とにかく安全を期しながら、明日は出発することを決めたのだった。

と、まあ、ここまでは一昨日(10/25)までの心境だった。昨日台風がようやく去って、影響力も無くなり夕方から青空が見え出すと、何だかこの一週間の待機延長がアホらしく思えて来た。確かに雨は少々降ったけど、棲んでいる守谷では特段心配する様な状況は全くなかったので、旅に出掛けたとしても大丈夫だったのではないかと、直ぐにそのようなことを考えてしまった次第。なかなか、年寄りの半日仕事の判断、実践は難しいものだなと改めて思った。(このレポートのこの部分だけは出発の今日書いているけど、他の記事は数日前に書いておいたので、少し変な感じがするかもしれない。ご容赦あれ。)

今年は6月に同じ関西方面へ、北陸や東海を回って3週間ほどの旅に出掛けたのだが、その後7月下旬の頃に出発を予定していた北海道の旅が不意になってしまい、長く異常な暑さの夏を耐えて来たのだった。相棒の母親が一時危篤状態となり、旅どころではないという状況が続いたのだが、病状も少し回復し、小康状態を保ってくれているので、今回はいつでも1日以内に引き返せる範囲で、3週間ほどの旅を考えたのである。となると、やはり関西エリアが妥当ということになる。名所旧蹟も多いし、未だ訪ねたこともない場所も無数にある。それにしばらくお邪魔していない懐かしい場所も幾つかある。今回は、そのような思いを実現させようと考えていた。

しかし台風の所為で出発を遅らせたため、日程を1週間短縮することとなってしまった。後の方を延ばせればいいのだけど、いろいろ他の都合もあって、帰宅の期限を延長することができないのである。そのため、当初の目論見とはだいぶ違うものとなってしまうのはいた仕方ない。ゼロベースで見直すのも面倒なので、大雑把に当初の前段の1週間分の行程をカットすることにした。つまりは、朝来市の竹田城跡訪問や倉吉市の重伝建・打吹玉川まで足を延ばすことは止め、琵琶湖周辺(但し鯖君への願望があるため、若狭の小浜までは行くことにして)から奈良の方に向かい、その後は紀伊半島をぐるっと回って、岐阜の郡上八幡から飛騨へ出て信州に抜け、上州経由で帰宅するというコースを考えている。

この頃の旅の訪問先の一つに、国の重伝建(重要伝統的建造物群保存地区)がある。自分的には特に建築物に興味関心があるわけではないが、そこへ行くと日本の昔が残っているのが見られるという楽しみがあるからである。今回の旅では、福井県小浜市商家町を始め、滋賀県東近江市の五個荘金堂の農村集落、奈良県五條市五條新町の商家町、和歌山県湯浅町の醸造町、岐阜県郡上八幡の城下町などの訪問を楽しみにしている。今の時代は新しいものにばかり関心が向き過ぎている感じがしている。それらの多くは何だか非人間的な薄っぺらなものが多いように感じているのは、生来の曲がったヘソの所為なのかもしれない。この頃は、歳相応に古いものに惹かれるようになっている。今の世に残っている古いものには、インチキなものなど皆無なのだ。先祖の本物の暮らしを垣間見ることは、生きている間の責務であるような気もする。

秋の味覚も忘れてはいない。先ずは関西の枝豆を味わいたい。豆の殻が黄色く枯れていても黒豆の枝豆の味わいは、東北山形のダダ茶豆に引けを取らない。自分的には黒豆の方に軍配を挙げたい。(しかしこれは残念ながらもう終わってしまっているだろうと思う。その時は来年に持ち越しだ)次が紀州のミカンである。日本のミカンの発祥は奈良県大和だと聞いているが、紀州ミカンはその後の我が国の主流を占めて来ていると思う。もう出回っているに違いない。三番目は信州のリンゴである。わざわざ信州を通るのは、リンゴを手に入れたいがためというのが本心なのだ。こちらの方も楽しみである。

それから旅の在り方について、もう一つ今回心に決めていることがある。「年寄りの半日仕事」というのをモットーとして、可能な限り無理な行程とならぬように心がけたい。これは、三浦雄一郎氏と野際陽子氏のTVでの対談の中で、三浦氏がエベレスト登山に際して心がけられたモットーだと伺った。自分的には、いつも年寄りであることを忘れてしまい、見境もなく全日仕事に没頭してしまう悪い癖がある。前回6月の・北陸・関西方面への旅の際も、走り過ぎてしまい、相棒が疲れ果てて、目の前に温泉があって、しかも無料で入れるのに、入れなかったという実績がある。今回はこのようなことが無いようにくれぐれも無理をせぬように心がけたいと強く思っている。

出鼻を挫かれて、少し気が抜けた感がしないでもないけど、旅への期待はそれなりに高まって来ている。短い期間だけど、さて、今度の旅ではどんな宝物を探し当てることができるのだろうか。

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平将門の史跡を訪ねる

2013-10-24 22:09:24 | その他

 新聞を見ていた家内が、坂東市のさしま郷土館ミューズという文化施設で、平将門の生誕1111年記念の特別展が開かれているので行って見たいというので、その提案に乗った。台風騒ぎで旅の出発を遅らせていたこともあり、手持無沙汰だったので、好都合だった。坂東市は守谷市の我が家からは、道を間違えなければ、30分ほどの距離なのだ。

道を間違えなければと言ったのには理由があり、この市で、目的地を探すのは、大へん難しいという苦い経験が何回かあるからである。将門に関わる史跡は、その殆どが市街地を離れた場所にあり、田園地帯なので、同じような景色の中に同じような道が幾つもあり、事前によほどしっかり地図を見ていたつもりでも、現地に行くと迷ってしまうのである。その昔、東京に住んでいた頃、この地にある新東京ゴルフクラブという所でゴルフコンペがあり、20数名の集まりだったが、スタートに間に合ったのは半数ほどで、他の者は皆道に迷って、遅刻してしまったという思い出がある。ナビなどない時代だった。ゴルフ場でさえ迷うほどなのだから、点在する史跡を探すのは、そう簡単なことではないという予めの覚悟が必要なのである。今回はナビを使っての訪問だったので、無事にさしま郷土館ミューズに着くことが出来たが、途中又間違うのではないかという不安に何回か襲われたりした。やはり、何とも分りにくい地形である。

さて、道に迷うという話は措くとして、特別展の感想などを述べてみたい。平将門といえば、西海の藤原純友と時を同じくして朝廷に反旗を翻した坂東武者として知られるところである。今棲んでいる守谷市も将門公の事跡と無縁ではない。原形を僅かに止める守谷城址は将門公の築城と言われているし、将門軍団の中にいたという七人の影武者と言われる人たちの墓は、市内の海禅寺に残っている。これらの史跡はもう何度も訪ねている。勿論本拠のあった坂東市岩井の国王神社や延命寺なども何度か訪ねている。しかし、肝心の平将門という人物が一体どんな人だったのかと言えば、実のところ殆ど何も解っていない。一般的な話を聞きかじりしているだけで、史料など何も読んでいない。そのような状態なので、今回も野次馬気分での見物だった。

特別展の会場に行って見ると、何種類かの資料が展示されていたが、多かったのは江戸時代に描かれた錦絵の類で、これは将門記などを読んでいない自分には、何の場面を描いたのか、解説のコメントを読んでも今一ピンと来るものが無く、ただへえそうなのかと、著名な浮世絵師の名前を思い出しながら、感心するばかりだった。底の浅い知識では、歴史の欠片(かけら)さえも理解できないことを、改めて突きつけられた感じがした。絵巻物や物語の巻物なども展示されていたが、物語は殆ど読むことが叶わず、絵巻物も解説を読んで辛うじてなるほどと思うのは、錦絵を見る時と同じレベルなのだった。

一番参考になったのは、往時の地形を示す絵図と反りの入った錆びた往時の本物の古太刀の展示だった。地形の絵図を見ると、現在のこの辺りの地形とは相当に違った状況を呈しており、湖沼や湿地帯の多い未開の原野が広がっていたのを想い起させるものだった。坂東武士と一口に言うけど、その実態はといえば、この広大な原野を駆け巡って鍛えられた戦闘人(いくさびと)だったようだ。牧と呼ばれる軍馬を飼う牧場が幾つかあり、そこで育った馬を駆使した戦法の先駆者の一人が平将門だったと言える様である。又、反りの入った太刀は、騎乗の際の戦いに向いており、それまでの突きを主流の真っ直ぐな刀よりも、動きの速い殺傷力を発揮するのに向いていたと解説にあった。自分的には、錦絵などよりも、はるかに往時の将門の活躍を彷彿させる史料だなと思った。

平将門という人物については、もっと勉強しなければならないなと改めて思った。今から1111年前の平安時代は、まだ武士の地位が低く、貴族階級に仕える下働き的な役割しか与えられていなかったのである。貴族のために命をかけて戦っても、その見返りはほんの僅かであり、報われているという実感は無かったのであろうと思う。それでも一旦つくり上げられた社会システムは、そう簡単に崩れることは無かったのであろう。そのような貴族社会に一つの風穴を開けたのが、平将門という人物だったのだと思う。同族・他族入り乱れて骨肉相争う中で、将門という人は、一体どの様な考えから新皇を名乗るに至ったのだろうか。僅か38歳にしてこの世から消え去ったという人物の、歴史における意義とは何だったのかを思った。その反骨の行為は、どこから生まれ出たのだろうか。興味津々である。今までは、そのようなことをあまり深く考えたことが無かったのだが、今回この特別展を見ながら、この野次馬的興味事項を、もう少し突っ込んで考えてみようと思った。

帰りに、家内が既に行っている筈の延命寺を覚えていないというので、ついでに国王神社と合わせて訪ねることにした。この二つの史跡には家内も同行しているのに、良く覚えていないという。国王神社は将門公の娘と言われる人が父の霊を弔うために建てたといわれる神社であり、現在も茅葺きの社が残っている。又、直ぐ近くにある延命寺は、将門公の菩提寺ともいわれ、ここの茅葺きの山門も印象的である。現地に行って見て、家内も思い出したようで、あれこれと歩きまわっていた。近くには幾つかの史跡があるのだが、空腹の方が気になり、この日は一旦家に帰ることにした。

 

左は国王神社本殿。将門公の三女が父の木像を刻み祀ったという。右は延命寺の山門。この写真は参道の脇の方から撮ったもの。この寺は手入れが不十分で、かなり寂れた感じがしていた。

翌日、何だか忘れ物をした気分が残り、もう一度近くの史跡を訪ねることにした。先ずは神田山(かだやま)という所にある延命院というお寺を訪ねた。ここには将門公の胴体の部分が葬られているとか。将門という人は、よほどに往時の中央貴族界から恐れられたのか、死後も身体をバラバラにされ、身一つには葬られなかったようである。東京の大手町には将門公が怒りにまかせて空を飛んで行ったという首塚があり、以前そこを訪ねたこともあるけど、全国各地に様々な伝説があるようである。延命院は落葉焚く煙がたちこめていて、静かなたたずまいだった。六地蔵の向こうにある墓は苔むして侘しさを覚えさせた。

      

神田山(かだやま)地区にある延命院にある将門公の墓地。巨大な栢(かや)の木の根元にある墓には、将門公の胴体が葬られているという。

その後、西念寺という所を訪ねた。ここは将門公にまつわる鐘があるとかで、今でも鐘楼の中にその鐘が吊り下げられていた。その後、昨日来た国王神社と延命寺を再訪した後、近くにある島広山といわれるその昔の将門公の営所跡を訪ねた。営所というのは、陣営のあった拠点ともいうべき場所のことであろうか。民家の脇に小さな碑が立っているだけだった。更に近くにある石井の井戸とその井戸の存在を将門公に教えたという謎の翁を祀った一言神社を訪ねた。

      

島広山の営所跡。ここが将門公の軍の拠点であったという。今は周りに住宅や田畑が広がり、往時の面影を思い浮かべるのは困難だ。

石井の井戸というのは、合併前の岩井市の命名の元となっているのではないかと思われる泉のあった場所で、石井は「いしい」と読むだけでなく、その昔は「いわい」とも呼んでいたからである。又一言神社は、奈良県御所市の一言主神社とは関係が無いようで、水を求めていた将門公に、その翁が一言水のありかを指し示して石を持ち上げたことに由来する命名とのことだった。粗末な社殿は、今の時代は、その故事などは大事にされていないなというのが窺われた。

 

左は石井の井戸の跡地。田んぼの一角に盛り土がしてあり、昔の面影を偲ぶのは困難。右はその井戸のありかを将門公に教えたという謎の翁を祀ったという一言神社。トタン屋根の簡易な建物だった。

その後、近くにある九重の桜というのを見に行った。勿論花の季節ではないので、早やすっかり葉を落とした小ぶりの桜の木が一本あるだけの狭いスペースがあっただけだった。九重というから、八重以上に細かい花びらをつける桜なのかと思ったら、九重とはその昔の中国の王城の門が九重に造られていたことから、王宮を意味する言葉であり、この桜は都の紫宸殿にあったのを株分けしてここに植えたものだとか。坂東武者もやはり都に憧れていたのかと思った。あれこれと思いを巡らしながら、2回の訪問を終えたのだった。

      

九重の桜。昔は何本かが自生していたとのことだが、現在は一本が残るのみ。春にならないとどんな花が咲くのか判らないのが残念だった。この地にあって、将門公といえども、遠い都に憧れてこの桜を植えたのだろうか。

しかし、平将門という人物のことは依然として解っていない。折角坂東の地に住むようになったのだから、これからはその昔のこの地が生んだ英雄のことを心して勉強しようと思った。先ずは将門記なるものを読まなければなるまいと思っている。この本を読めば、少しは理解が前進するに違いないと思っている。

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秋の旅の出発を延期しました

2013-10-20 08:25:18 | くるま旅くらしの話

  準備万端整えて、楽しみにしていた関西方面への旅なのですが、1週間ほど出発を遅らせ、旅の期間もその分だけ短くすることにしました。「年寄りの半日仕事」の考え方に基づく大英断でした。

 その理由は、台風27号の襲来です。つい先日26号が関東地方を中心に襲って来て、伊豆大島では恐るべき山津波が発生して、多くの人命が失われ、家屋等も跡かたもなく破壊されるなどの極めて甚大な被害が発生しました。お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りいたしますと共に、被災された皆様には心からお見舞いを申し上げます。

 その大災害をもたらした26号の後を追いかけてやって来るという27号の悪魔は、26号よりもよりもはるかに強力な勢力を持っており、しかも再び同じようなコースを辿って日本を襲うつもりのようです。台風の予測・予報が外れることは少なく、恐らく27号もかなりの凶暴性を発揮して日本各地を痛めつけるつもりに違いありません。このような、かなりはっきりした予測の中では、伊豆大島などの受けた被害の甚大さに基づく教訓を活かすことこそ大切であり、くるま旅も何とかなるという安易さは捨てるべきと考えました。

 今度の27号が関東エリアにだけ豪雨を降らせるとは限らず、関西や日本海地方なども、何らかの影響からは逃れられない筈です。そのような大自然の如何ともし難い恐怖に翻弄されながら、安全を求めて動き回るとなれば、それはもはや旅などではなく、愚かな逃避行となってしまいます。1週間のロスは大きいなとかなり迷いましたが、我が身の老化のレベルを考えると、無謀さは度し難いものと思い知って、出発を台風が去った後にすることに決めました。

 それに付け加えますと、第一目的地の竹田城址については、聞くところによると、来訪者の急増により、違法駐車やルールを無視した登山者が増えるなど、地元は歓迎よりも規制へと動かざるを得ない状況になっているとのことです。先回の春の旅の時に寄るのを忘れていた場所なのですが、最近になって突然と言っていいほど観光地としての人気が爆発したようで、駐車場も有料となるし、各種の規制も強まっているということなので、何だか嫌気がさして来ています。勿論竹田城址そのものには何の問題もなく、群がる群衆の一人の中に自分たちが巻き込まれるのはご免こうむりたいという心境なのです。このバカ騒ぎが何時収まるのか判りませんが、当分の間は、もうここには足を向けられないなと思っています。

 これから、もう一度2週間の行程を考え直すことにします。もう黒豆の枝豆は終わってしまうかな?今年は夏が長かったので、大豆たちも実りを遅らせてくれているかな?などなど、失われそうな楽しみに対する愚かな欲望の欠片(かけら)が頭の中を巡り続けています。ま、ダメな時は楽しみは来年に持ち越すことにします。いやどうも、お騒がせしました。

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関西方面への秋の旅に出掛けます

2013-10-18 00:59:43 | くるま旅くらしの話

  長く暑い地獄の夏でした。10月に入って中旬となった今でも時々猛暑日がぶり返すという異常さは、原発事故処理の不気味さと重なって、この国のこれから先がどうなって行くのか、言い知れぬ不安と恐怖に怯えさせられます。自分に残されている時間が、日一日と少なくなっているというのに、安心の要素が減るばかりのこの頃には、老人は諦めるしか手立てを持てないのかと虚しく落胆の気持ちが深まるばかりです。

 今年は、夏の間に二度ほど信州への旅をしました。合わせても一週間にも満たない日数でしたが、北海道への旅を断念したこともあって、自分たちにとっては救われる時間でした。10月に入って、さすがに朝夕だけは暑さの方も少し遠慮し始めたのか、めっきり涼しくなりました。幾らなんでも、10月の下旬ともなれば、日中でも過ごし易くなるに違いないと考え、関西方面への秋の旅を企画しました。今日はその予告です。

 あれこれと思い悩んだ結果、ようやく大ざっぱな行程を決めました。20日(日)に家を出発して、来月の9日までには帰宅するという計画です。コースは、関西方面を中心に回って、帰り道は飛騨から信州を通って戻るという様に考えています。ざっと3週間の内の7割を関西で、残りの3割の時間をその他の場所で過ごそうという目論見です。

 今回の旅では3つのメインの楽しみを掲げました。

その1は、まだ訪れていない重伝建(=国指定重要伝統的建造物群保存地区)エリアを訪ねること。日本の昔というのか、昔の日本というのか、それらが今日に生きて残っている場所を訪ねるのは、老人の好奇心を大いに満足させてくれる楽しみです。自分たちの棲む茨城県には、重伝建はたった一カ所(=桜川市真壁町)しかないのですが、日本文化の中心だった関西エリアには、かなりの数の重伝建地区が残っています。それらの幾つかを訪ねる考えでいます。

その2は、古都奈良を再吟味しながら訪ね歩くこと。関西の観光といえば断然京都となるのでしょうが、自分的には京都よりも古都奈良に大いなる魅力を感じています。何度も訪ねている奈良県各地ですが、大和の発祥の地としての魅力は、無限と言っても良いように思っています。今回も山野辺の道を歩くなどして、遠い遠いご先祖様に思いを馳せたいと考えています。

そしてその3は、秋の味覚として、①関西の黒豆の枝豆、②紀州のミカン、③信州のリンゴなどを堪能したいと考えています。たくさんあるはずの生きる楽しみの中で、食べる楽しみは、生きものとして欠かすことはできません。糖尿病なので、果糖の摂取には要注意ですが、本場での新鮮な味わいを、欲を抑えながらも大いに楽しみたいと思っています。

 旅の行程に関してもう少し詳しく話しますと、先ずは一気に高速道を利用して、最初の訪問予定地の兵庫県朝来市の竹田城址をめざします。その後は、今回の予定では最西端となる鳥取県倉吉市まで行き、重伝建の打吹玉川地区を訪ねる考えです。それからは、引き返して、日本海側を余部橋梁や香住海岸等に寄り道しながら、今年の春に行った豊岡市の出石城下町をもう一度訪ねてみたいと思っています。その後は福知山から酒呑童子伝説の大江山を回って再度日本海側に出て、いつも通過ばかりしている舞鶴市内の名所などを、今回は途中下車のつもりで訪ねる考えです。その後は、福井県に入り、小浜に立ち寄って鯖の串焼きを手に入れ、さてどうするか、今でも依然として迷いの中にあるのですが、一応は小浜からは周山街道を通って、京都の山岳地帯を通り、山の中に茅葺きの集落の残る南丹市の美山を訪ね見ようかと考えています。その場合は、そのあと京都の中心街は素通りして、一旦琵琶湖の周辺に出てから、奈良方面へは伊賀上野の古窯の地を訪ねた後で向かうつもりです。奈良市エリアでは、まだ行っていない平城宮跡なども訪ねてみたいと思っています。桜井市の大神神社から天理市の石上神宮までの山野辺の道の歩きも楽しむ考えです。そうそう、奈良市内では美酒「春鹿」も手に入れなければなりません。

奈良エリアの後は、吉野川から名を変えた紀ノ川に沿っての道を走り、和歌山に出たあと、有田辺りでミカンを手に入れ、そのあとは途中で温泉等を楽しみながら、のんびりと紀伊半島をぐるっと回り、途中で那智の滝や青岸渡寺などにも寄りたいと考えています。その先の伊勢神宮には、タイミングが合えば、参拝して行こうかと思っています。でも遷宮を終えてかなりの人出らしいようですから、休日にぶつかってしまった場合は、参拝は避けることにします。

その後の名古屋市周辺などはパスすることにして、美濃から郡上八幡に出て、ここの重伝建となっている城下町を散策するつもりです。それが終わったら、R156の越前街道と別れ、R256の山道を通って飛騨街道(=R41)に出て、そこから北上して下呂市郊外の乗政という所に、しだれ栗があると聞いているので、是非ともそれを見てみたいと思っています。先回の信州への旅で、塩尻の小野という所にあるしだれ栗の自生地を訪ねましたが、それとどう違うのか、しだれ栗の正体は何ぞ?という好奇心を大いに満たしたいと考えています。ま、そんなことをしながら飛騨の高山に入り、一息入れた後は、日本アルプス下のトンネルなどを潜りながら、信州の松本へ抜け、更には小布施辺りまで足を伸ばしてリンゴを手に入れ、その後は草津の湯にでも浸りながら旅の疲れを癒すなどして、帰宅するという段取りです。

 今回の旅からは、「年寄りの半日仕事」というのをモットーとする考えでいます。このことばは、この春に80歳でエベレスト登頂を成し遂げられた三浦雄一郎氏が、先日のTVで野際陽子氏との対談の中で話されていたもので、登頂に至るまでの間は、決して焦らず、無理をせず、ゆっくりと前進を続けられたという、その心構えがこの「年寄りの半日仕事」という昔からの言い伝えなのだということでした。この話を伺って、自分もこのモットーを頂戴して、これを大事にしたいと思いました。旅に出ると、ついつい欲が出て、休憩も取らずに先を急いだり、日程を一日前倒しにしてしまうほどの無理をすることがあり、相棒が疲労困憊で温泉にも入れないほどの状態をつくり出すという、そのような我が身の愚かな行為を諫めたいと思ったのでした。

自分の性格では、年寄りであることを心底自認するというのは、今の調子で行きますとあの世に旅立つまで困難なことだと思っていたのですが、三浦さんのこのお話を聴いていて、ハッと己の愚に気づいた思いでした。旅は動き回る「量」よりもじっくりと味わう「質」の方が大切だと思います。それを解ったつもりでいながら、行動はお粗末だったことを、三浦さんから教えて頂いたのでした。ここに紹介させて頂いた行程はあくまでも予定であり、実際はどうなるのか分りません。特にこの新しいモットーのもとでは、大幅な変更があるに違いありません。さて、どうなりますことやら。楽しみはもう既に膨らみ始めています。

いつものように、旅の状況については、ブログで一日遅れの報告をさせて頂こうと考えています。

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TPP交渉の欺瞞と本心

2013-10-16 04:12:28 | 宵宵妄話

 前回の続きの話である。

 TPPの交渉が大詰めに近づいているらしい。しかし、実際の所、我々には、何がどう動いているのかさっぱりわからない。この解らなさは、政治家の欺瞞のレベルと同じ感じがする。欺瞞というのは、解っていながら相手を騙すということである。TPPの場合は、騙される相手のメイン対象は農民というのか、農業従事者ということになるのであろう。恐らくTPP交渉に参加すると決めた時点で、政府は聖域などいう議論は、国内での小さな障害に過ぎないくらいにしか思わなかったに違いない。一応公約に掲げて、大事にしているという素振りは見せることにしたのであろう。今時、公約を破るなんてことは、国民は、民主党政権で慣れていると踏んだのかもしれない。自民党が公約を破ったとしても、トータルで国益が増して経済の活性化が実現できれば、大して影響力のない農業分野など問題ではないと考えているのかもしれない。かつて選挙に絶大なる影響力を持った農業は、今や政治家にとってそれほどの脅威にはならないという判断があるのかもしれない。様々な勘ぐりが成り立つ。今頃になって、聖域における細目の検討が必要などと言い出しているけど、初めから承知している、とってつけたような話である。

 ところで、自分はTPPについては基本的には反対論者である。何故かといえば、どんな時代でも農業は国の基幹産業であり、食料の調達という人間にとって最重要な資源の供給を担う産業であるからである。中国などの歴史を見ると、農政の失敗が亡国につながっているケースが多いように思う。日本においては、必ずしもそうではなかったかもしれないけど、農業が国の基幹であったことは疑うべくもない事実であろう。だから、この国の基幹とも言える農業をつぶすような交易要件を呑むというのには反対なのである。

 しかし、この頃少し農業界に疑問を感じ出している。以前からJA(=農業協同組合)に対しては何かと疑問を感じているけど、この頃は個々の農家に対しても疑問を感じ出している。というのも、自分は健康保持のために毎朝10km近く歩いているのだが、その途中の田園風景が、年を経るごとに変化してきている。守谷市はいま急速な都市化の中にあり、耕作放棄地など草茫々の土地が増えてきている。休耕地もあるようだけど、そのまま放棄されてしまいそうな予感がしたりする。また、隣接するつくばみらい市でも、かなり前なのか、区画整理の大工事を済ませたと思われる田んぼが、葦やコオリヤナギの生い茂る荒れ地となっていたりするのを見ていると、何だかがっかりしてしまうのだ。

お寺の本堂と見紛うばかりの大邸宅の中には、年老いた夫婦二人しか住んでいない。そのような家がかなりあるようだ。同居していても、子供たちは農業とは無縁の仕事に就いている家が殆どのようで、若者が畑や田んぼで働く姿を見ることは滅多にない。そのような状況を見ていると、もはやこの辺りの農業の未来は尻すぼみだなと思わざるを得ない。市当局も農業に対する新たな改革案の提起など皆無の様である。守谷市の場合は、つくばエキスプレス開通後、都市化に拍車がかかっている状況にあり、TPPへの加入など関係なく、農業は衰退の一途を辿るような気がする。このような状態では、TPPもヘチマもないだろうと思ったりするのである。

 しかし、全国を旅していると、様々な農業経営の現実を垣間見ることができる。特に北海道などでは、大規模経営(国際的には中規模にも満たないのかも?)の牧場や水田、ビートやジャガイモやトウモロコシ畑など、農業という産業の地力といったものを感ずることが多い。これらの農家の経営がこれから先TPPによってどのような影響を受けるのか、具体的には判らないけど、外国からの安価な産品に席巻されて、数代にわたる積年の開拓の苦労の結果も虚しく、牧場を荒れ地に戻し、牛馬のいない草叢にしてしまったとしたら、それは単なる農家個人の問題ではなく、国家としての犯罪ともいうべき事態となるのではないか。

 農業という産業に関しては、TPPに拘わらず抜本的な構造改革が求められているように思う。戦後の農地改革は占領政策に基づいて行われ、土地の所有という抜本問題に絡んで、わが国の農業から大地主を消滅させ、小作人を無くすという甚大なる結果を招来させたが、今その改革の成果が壁にぶち当たっている。農産物のグローバルマーケットでの競争に参加するには、わが国の農業の経営規模はあまりにも小さ過ぎて、諸外国と全く太刀打ちできないからである。これらの根本課題をそのまま置き去りにして、わが国の農政は保護政策ばかりに力を入れ、農家もそれに甘えて自己革新を怠ってきたという現実がある。

 それが、ここへきていきなりTPPである。TPPは関税保護をぶち壊す国際協定である。農業の生産システムの基盤が変わらぬままでは、TPPに反対するのは当然であろう。今迄厚い毛布にくるまって、薄い下着一枚でもぬくぬくと過ごしてきた老人が、突然風雪吹きすさぶ外界に、耐寒の覚悟もないまま、防寒服無しで放り出されるのである。生き残れる者がどれほどいるのか。或いは突然の環境変化に素早く対応できる知恵を持ったレベルの者がどれほどいるのか。恐らくその多くは、抵抗する力もなく、肺炎に罹って行き倒れ、この世から消え去ってゆくに違いない。これは極端なイメージのシナリオだけど、農業の現状を見ていると、TPPが多くの農業破綻者を生み出すことは想像に難くない。そして、その破たん現象の先には、自国の食料調達の不安定な招来に対する拭いきれない不安がある。農業関係者以外でも反対せざるを得ないというのが、自分などの立場であり、理解なのである。

しかし、反対ばかりで済む問題なのだろうか、とも考える。他の産業がもみくちゃにされながらも世界の市場で戦い、生き残りにしのぎを削っているのに、農業だけが甘え続けることが、いつまでも許されるのだろうか。他の産業に関わる人たちの、国際競争における破たん・埋没者は、数え切れないほどなのだ。と、大きな疑問を抱えながらのTPP反対なのでもある。

 TPPの問題は、原発の問題とは根本的に違っている。原発は科学の生み出した恐るべき負のパワーが、人類を一瞬にして混乱と破滅に至らしめるという、恐るべき事態が如実に証明されたという、その現実を踏まえた対処のあり方の問題なのだが、TPPは人類を滅亡させるようなテーマでも、或いは日本国の農業の全てを壊滅させるようなテーマでもない。日本の産業の一分野である農業生産のあり方に係る問題であり、知恵の出しようによって、解決の道は見出されてゆく、そのような性質の問題ではある。

その根幹には、日本の農業生産システムの改革という重大な命題が潜んでいる。戦後の占領政策の一つである農地改革の成果が、現在の世界経済の動きについてゆけなくなっているのである。このアンマッチングの状態に、保護以外何の改革もしないまま、もはや限界に来たと見限って、いきなり世界経済の激流に放り出すというやり方が問題なのだ。保護ばかりにうつつを抜かし、抜本的な改革に何の手も打たなかった農政、そして自己改革のニーズを真剣に自覚もせず、ぬるま湯に浸ってきた生産者やJAなどの団体。今、これらの人たちが、保護などされなくても生き残ってゆく力をどう身につけ、どう未来を切り開いてゆくかということが問われ、試されているという問題なのだ。

 今回の政府・自民党(或いは他の政党でもその本音は同じなのかもしれないけど)の振る舞いは、TPPを引き金にして、農業界の荒治療をしようと目論んでいるのかもしれない。他の産業と同じように、熾烈な競争の世界に農業も放り込んで、自ら生き残る力をつけさせようとしているのかもしれない。順序が逆であっても、結果は同じだと考えているのかもしれない。いつまでも自動車や電機など他の産業が稼いだ税金でぬくぬくと保護されると思うな、という厳しい離縁状を突き付けるつもりなのかもしれない。

 これからの農政改革の基本政策も明確に示さぬままに、聖域などと使ってはならぬ文語を賑々(にぎにぎ)しく公約に掲げながら、政治家の欺瞞はいつもながら巧みだなと思う。これから先、おそらくTPPは聖域なるものを極小化し、保護政策の骨を抜いて、やがてそれは笑い話となるのかもしれない。自分が生きている間に、それらがどのように現実化して行くのか。残されている時間を知らないので、見届けることはできないかもしれないけど、農業の姿はこれから大きく変わってゆくに違いない。血を流すような苦難の道を辿るのかもしれない。しかし、いつかは必ず、若者が農事に数多く志願するような農業の生産システムが生まれてくる筈だとも思う。そうあって欲しいと強く願っている。

この世から、この国から農業が消え去ることなどあり得ない。縄文、弥生の時代からこの国に住む人と国を支えてきた農業が、たかがTPPなどで壊滅するなどあってたまるかと思う。政治家の欺瞞に耐えながら、農業関係者は、保護などかなぐり捨てて、知恵を振り絞って立ち上がるしかない。それが出来た者だけが、世界に伍してこの業界で生き残れるのだと思う。まさに試練の時が来ているのだと思う。TPP反対の立場は変わらないけど、事態がこのようになって来ている今では、徒(いたずら)に虚しい反対声を上げるだけではなく、農業界は、開き直って自ら生き残るための知恵を働かせるしかないと思う。今は、そう切望するしかない。

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原発事故の事後処理の現状に思う

2013-10-14 00:03:13 | 宵宵妄話

 この頃は世の中のあらゆる出来事についてウンザリしており、チマチマと愚痴的な思い上がりのコメントなどを書いても仕方が無いと思うようになって、それらに関するテーマは避けるようにしてきた。しかし、一昨年の大震災に絡む原発事故の事後対応状況やTPP交渉の有り様については、糠に釘打つほどの虚しい戯言(たわごと)であると知っていても、何か一言言わずにはいられない気がして、書くことにした。

 今、総理をはじめとする国政の関係者は、二つの大罪を犯すべくチャレンジしているかのようだ。その一は原発に対する考え方と対応のあり方、もう一つはTPP交渉についての農民への欺瞞である。そして、罪の重さは原発事故への対応の方が、TPPなどとは比べようもないほどに大きく、これからの歴史に、大きな汚点として残るほどではないかと思っている。先ずはその原発事故の事後処理についての所感である。

原発については、当面考えなければならぬ重大事項が二つあると思う。その一は何よりも事後対策の完璧を期すことであり、もう一つはその現状を踏まえて、これからの原発に対する根本的なあり方を決めるということであろう。この二つに関しては、勿論後者の方が基本的な重要性を持っており、その結論は、すべての原発の廃止以外にない。

 何故原発は廃止しなければならないのか。その理由は明確である。原発には絶対的安全というコンセプトが当てはまらないからだ。原子力エネルギーには相反する正と負の両側面があり、平和利用は人間にとって正の面の活用となるけど、この活用のためには負の面での絶対的完璧な安全が保証されなければならない。しかし、原子力に手をつけてしまった人類は、現在、負の面の処理・対応に関して何一つ抜本的な解決の力を持っていないのだ。負の面の最大の問題とは、放射能という不気味な粒子線・電磁波の処理方法である。すなわち一旦事故が起きてコントロールが不能となった時に、放出される何種類もの放射能を除去する理論も技術も皆無に等しいのである。使用済みの燃料棒でさえも、ただただ、地下深く穴を掘って埋めるだけの能しかもっていないのだ。そして、そのような穴を掘る場所すらも見出せない狭い日本国なのである。

 今回の東日本大地震による災害の中で最大の被害は、福島第一原発の事故がもたらした恐るべき人類滅亡への恐怖ではないか。多くの人命を奪った津波の破壊作用の被害が軽いなどとは決して思わないが、原発事故は二重・三重の被害を今でも増幅させている。しかもその被害は、目に見えず、短時間で消え去るものではなく、生きている人間の記憶を超えて、将来の世代にまで悪影響を及ぼし続けるのである。

 このような超重大な恐るべき事態を、今回の事故は我々の眼前に証明したのである。これに対する解決の抜本的結論は、原発の全廃の他にあるはずがない。為政者はこの明確な結論を、期限を含めて決断し、表明しなければならない。このプロセスを経て初めて、次のステップである代替エネルギー等の課題へ取り組みが本格化できるのである。これらの決断に基づく取り組みには、多くの困難が予想されるが、人類が自ら招いた負の悪魔を始末するためには、困難を乗り越えて行く勇気と忍耐が不可欠なのだと覚悟すべきであろう。

 しかし、現在の政治家・官僚や事業者の大半は、この問題の本質に目をそむけようとしているようだ。恐るべき事態を目の当たりにしているのに、それを受けとめる感性は、外国の為政者よりもはるかに鈍いようだ。その多くは、現在のエネルギー供給システムを根本から作り直すなどできるはずもなく、原発の再稼働は止むを得ないと考えているようだ。多少の危険性を孕んでいるとしても、今までの原子力行政に傾注したコストやこれからの廃止にかかるコストなどを考え、或いは代替エネルギー開発の困難性などを考えると、安定した電力供給のためには、再稼働は必要不可欠ということなのであろう。

 それらの考えが今の日本国の常識であり、時間経過と共にこの常識は問題の本質をうやむやにし、やがては将来より大きな災禍を招来することにつながってゆく。人類の歴史の多くはそのようにして積み上げられてきたのだと思うが、科学の一部が異常に発達した今日では、問題の本質の誤った理解や解釈が、未来を破滅に導く危険性を孕んでいることは、わずか半世紀前の時代の比ではないほどなのだ。現に地球温暖化の問題は、歯止めを持たないまま多くの異常気象を地球全体に発生させている感がある。もし大自然の怒りのパワーが日本を襲い、同時多発的に原発事故を発生させたとしたら、日本国の未来はあるはずもなく、世界全体に対しても甚大で深刻な影響を及ぼすことは必至であろう。

 そのような、起こるかどうかも解らぬ机上の空論に、かまっている暇はない。危ないのならそれに対応できる手を打って、再稼働に一日も早くこぎつけるべき、というのが今の日本国の主流の考えとなりつつある感じがしてならない。重大な教訓から何も学ばず、過ちを拡大生産させようとしているかのようだ。福島から遠く離れた、原発のあるエリアの行政責任者や関係者の間では、国に対して再稼働を早めるようにとの嘆願書を提出している所があるとも聞く。当面の暮らしのためには、未来などにかまってはいられない。今を生きなければ未来はない、という理屈は説得力があるようにもみえる。しかし、それは現実という悪魔が、いざという時の恐るべき現実の到来を封じ込めて、当面の利便のための理屈を正当化しているようなものではないか。原発から少し離れた村で、平和に暮らしていた人たちが、ある日突然に故郷を失ってしまったという、厳然たる現実があるのである。そのようなことが、自分たちには来ないという保証は何もないのである。原発事故の本質は、解決が存在しないという現状・実態の中にあるのである。だとしたら、その対処の結論は、原発を全廃するしかない。それこそが今回の事故で思い知らされた究極の結論なのだ。しかし、世の中は再稼働に動いている。しかもすぐ傍に原発がある村の人たちまでが、‥‥‥。

 次に原発事故の事後処理の問題だが、これは、国を挙げての当面最大の課題のはずなのに、国も東電も政治家も官僚たちも、この上なくおざなりの感じがしてならない。オリンピックの招致が成功したのは良かったのかもしれないけど、原発事故の事後処理が完全にコントロール出来ているというようなセリフがそれをもたらしたとするなら、茶番劇の感じがする。この世は茶番で動くものと知ったら、事故の現場で放射能被曝の恐怖と対峙しながら、手探り状態のままに、命をかけて働いている人たちは、バカバカしくてやってられないという気持ちになるのではないか。

この頃、事故処理対応のために原発の現場で働いている人たちのミスが連発しているとの報道がある。その都度、東電の同じような顔触れがTV画面に現れ、謝り役を務めているけど、必死さが伝わって来ず、虚しく可哀そうな景色に見えてしまう。もっと偉い人たちは事後処理に対して、一体何をしているのかさっぱりわからない。放射能の見えない恐怖と闘いながら、命を擦り減らして疲労困憊の状況で作業をしている人たちを、下請けだとか、孫請けだとかで差別して、責任を曖昧にしているような現在の取り組みのあり方を、東電の経営者はこれで仕方がないなどと思っているのだろうか。そして東電の大株主たる国の関係政治家・責任者も、この状況を本気で何とかしようと考えているのだろうか。恐らく、非常事態という当事者意識は薄く、一般の発注業務処理と同じように、それぞれの事業者に分化して発注したのだから、それぞれの事業体の責任者の問題として事態が動いているのであろう。

トップダウンされるにつれて、上位者はその責任を下位者に押し付け、他人事として見ている感覚が窺えてならない。国は東電の対応を批判し、東電は下請けを叱咤し、下請けは孫請けを脅し、現場の末端にいる作業者は無理を強要され続けている。もしそのような体制でこの困難な事故処理対応の仕事が継続されてゆくとしたなら、これからもチョンボは続出し、抜本的な対応策も見出せぬまま、地下も海もより複雑な放射能汚染の度合いを増し続けるに違いない。ぞっとするほど恐ろしい現状だ。海外諸国の注意関心もこの点に集中しているようだ。しかし、日本国では、関東に住む者でさえ、その大半の人たちは、原発事故は遠い場所の出来事で、遠い昔の事件だったくらいにしか思っていない。こんな調子では、原発の再稼働は時間の問題となるに違いない。

完全にコントロールされているなどというセリフが、一国の総理から世界に向かって放たれるという現実は、政治用語として常識なのかもしれないけど、違和感は拭えない。形式的には、事故処理対応の仕組みはきちんと動いているという認識なのだろうけど、あまりにも安易過ぎるのではないか。人を安心させ、元気を出させるためには、嘘も方便ということも時には必要かもしれないが、欺瞞であってはならないと思う。

七年後のオリンピックまでの間に、コントロールされているはずの福島の海が、セシウムのみならず高濃度のストロンチウムなどのより悪質な放射能に汚染されていないことを祈るばかりである。

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