山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘14年 北陸・関西・中四国への旅 レポート <第22回>

2014-11-30 05:27:57 | くるま旅くらしの話

【今日(11/30)の予定】 

 米子市内知人宅 →(R431・R9)→ 鳥取・福知山方面(未定)

【昨日(11月29日:土)のレポート】  天気:曇り一時雨

<行程>

米子市内知人宅 →(R431・R9・県道45)→ 安来市・足立美術館見学 →(県道45)→ 道の駅:広瀬富田城 →(県道45・R9・R431)→ 米子市内知人宅(泊)

<レポート>

 昨夜はAさん共々相当に聞こし召して、ほぼ前後不覚状態となって寝床に辿り着き、あっという間に朝を迎えたのだった。夜中に雷鳴がとどろき、一瞬大地が震えた音を聞いたような気もしたけど、そのようなものに脅かされて目を覚ますような状態ではなかった。Aさんのピザハウスは、魔法の天国のようで、アウトドアライフの頂点を極めつつあるといった感じがした。何しろ手製のピザ窯を中心に、部屋の中にあるあらゆるものが手づくりであり、それらを守っているハウスも全てたった一人でこつこつと工夫を積み上げてつくり上げたものなのだ。アウトドア暮らしの粋を結集して出来上がっている感じがする。手づくりのロケットストーブの暖は穏やかで、春のぬくもりの中にいるようだし、料理名人のご主人の作られる広島焼きは絶品で、ここにいる間だけは糖尿君の勧告を無視して、ブレーキを開放することにしたのである。久しぶりの満腹、酩酊を味わい、老人であることを忘れたひと時だった。Aさんご夫妻との会話は、旅でであった者同士の相通ずる思いに包まれており、まさにそれは人生の宝物だなと思った。ありがとうございました。

   

Aさんの手づくりのピザハウスの内部。どんと構えているのがピザ窯。窯もハウスも様々な箇所に工夫が加えられているのだが、この写真で説明できるものではない。

   

オイル缶を3缶積み上げて造ったロケットストーブ。下部の横に焚口が作られており、燃焼効率も良く、温かさがじんわりとハウスの内部を満たしてくれる。

 今日の予定は、二つあって、その一は安来市にある足立美術館を訪ねること。もう一つは直ぐ近くにある尼子氏存亡に係る山中鹿之介の話で有名な月山富田城跡を訪ねることである。そして、今日はもう一泊Aさん宅にお世話になることになった。嬉しくもありがたいことである。10時過ぎに出発して、ナビのガイドに悩まされたりしながら、足立美術館に着いたのは11時を過ぎていた。

 足立美術館は、その名を知りつつも、近くを何度も通りながら今まで一度も訪ねたことがなかった。庭園と大観の作品が多く収蔵されていると聞いている。今見ておかないと機会を逸してしまうかも知れないと肝に銘じて、今回の来訪を決めたのだった。安来市の山の中に地元出身の実業家の足立全康氏がご自身のコレクションを公開するために造られたと聞く。来て見ると広大な駐車場の向こうに白い建物があり、その建物の向こうにもう一棟の建物があり、それが見術館の入り口だった。二つの建物は地下道でつながっており、入口がある方に日本庭園が造られていた。入って、庭を見て驚いた。全く隙のない作りで、何処のどの部分を見ても何かを感じさせる日本庭園なのである。足立さんという方の微細な美的感覚が伝わってくる感じがした。この庭園は、日本の春夏秋冬のいつでもどの部分でも、その季節の美を表現できるように作られているのを感じた。大変な審美眼をお持ちの方だったのだと思う。すごいの一言である。

  

足立美術館内の日本庭園の景観の一部。中央奥の紅葉した山は借景としての自然を取り入れたもの。このような景観を園内の至る所で味わうことができる。

 絵画の方は大観を中心にじっくり鑑賞した。横山大観は我がふるさとの水戸出身の方である。それゆえ、最初から親近感を抱いているのだけど、一度にこれほど多くの作品を見たのは初めてだったので、その感動は一際大きかった。水戸など問題ではなく、世界の至宝としての存在だったのだなと改めて思った。足立コレクションの中には130点もの大観の絵があると聞いているけど、それにしても大変な思い入れだなと思った。そこには財力など問題ではない足立氏の大観の美に対する傾倒があったのではないか。そしてこのような方がおられて、それを一人占めにされなかったことに対して我々は感謝しなければならないとも思った。私設の美術館で、これほどスケールの大きいものを自分は知らない。

 絵画だけではなく、陶芸関係でも魯山人や河井寛次郎の作品の数々も見ることができ、十二分に満足した。2時間近く鑑賞をし続けて、終わり近くになるとあまりの刺激の大きさに頭が混乱して来て、疲れが一度にどっと押し寄せてくるのを感じた。14時近くに外に出て、近くのそば屋で出雲の割りこそばを食す。

 その後、直ぐ近くにある道の駅:広瀬富田城へ行って休憩して一息つく。富田城への案内板を見たら、往復3kmを超える坂道を行かなければならないのを知り、探訪は止めることにした。上杉謙信の春日山城跡も大変な急坂だったけど、ここも同じような山城のようなので、相棒共々今日は無理だと判断した。無理はしないのが老人というものである。

 16時少し前にAさん宅に戻る。それからはたちまち乾杯。そして今日はピザをご馳走になった。以前にお邪魔した時は、ピザ窯が出来上がったばかりの頃で、もしかしたら試行錯誤の時だったのかも知れないのだが、今は堂々たる貫録の窯となっていて、焼く技術も格段に進歩されたのが判った。奥さんの生地作りも素晴らしく、4種類のピザをご馳走になった。これほどのもてなしを受けられるのは、夢のような話である。今夜も糖尿君警告を無視することにして、夜遅くまで歓談が続いた。幸せな時間だった。

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‘14年 北陸・関西・中四国への旅 レポート <第21回>

2014-11-29 07:48:34 | くるま旅くらしの話

【今日(11/29)の予定】 

米子市知人宅 →(R431・R9・県道45)→ 安来市・足立美術館見学 →(県道45)→ 月山富田城探訪 →(県道45)→ その先未定

【昨日(11月28日:金)のレポート】  天気:晴れのち曇り

<行程>

道の駅:燕逍園 →(県道他)→ 倉吉市・重伝建打吹玉川地区探訪 →(県道・R9・R431)→ 米子市内知人宅(泊)

<レポート>

 燕逍園というのは、何か日中交流の記念事業として造られた中国庭園のようで、道の駅はそのついで(?)に造られたようで、かなり広い駐車場がある。その一隅に泊めて貰ったのだが、朝になって時間があってもその中国庭園を見ようと中に入る気が全くしないのはなぜなのか自分にも解らない。産後の密漁や幾つかの一方的なごり押しのような現在の中国政府に腹を立てているのでもないのだが、このケバケバしさは、数々の偉人を生み日本国にも絶大なる影響を与えて来た中国の本当の姿とは違うような気がして、素直に中に入る気がしないのである。自分の勝手な勘違いなのかもしれないけど、中国に関してはその考えを変えることはできない。

 9時過ぎに出発して、倉吉市内にある重伝建エリアの打吹玉川の探訪に向かう。今日の予定はここの探訪と、その後は旅の親しき知人ご夫妻の住まわれる米子市の弓ヶ浜を訪ねて酒を酌み交わし、泊めて頂くことにしている。ということで、特別な日になることは予め承知している。間もなく倉吉市の市役所わきの観光駐車場に到着する。ここの重伝建地区は、白壁土蔵で有名なようであるけど、今まで全く知らずにいて、重伝建の探訪を考えるようになって初めて知ったことだった。旅をするにはテーマが必要だなと思うのは、行き当たりばったりとは違う新しい発見や出会いが、テーマによってもたらされるからである。もしこのテーマがなかったら、倉吉に寄ることはなかったのかも知れない。そのようなことを思いながら散策を開始する。

 玉川という用水のような小さな川が流れており、その両脇に膨らむようにして昔の町並みが形成されていた。あまり規模は大きくないけど、きちっとまとまった町並みだった。二度ほど往復して寄り道をして300mほどの長さの町並みを隅々まで歩き回った。白壁土蔵の写真も撮った。相棒が何処をうろついているのかは知らない。1時間半ほど歩いて倉吉絣という織物の店の様なのがあったので、これは相棒の世界では必見の場所だなと思い、電話して訊いたら見ていないという。それで珍しくお節介をして紹介したら飛んで来て中に入ってしばらく出て来なかった。結果がどうなったのかはしらない。そのようなことがあって、車に戻ったのは11時半近くになっていた。

   

倉吉の打吹玉川の白壁土蔵群。残っているのは数棟に過ぎないけど、傍を流れる玉川と調和して、往時の繁盛を偲ばせる雰囲気が漂っている。

   

この町並みには赤瓦と呼ばれる瓦を使った建物が並んでいる。下方から屋根の写真を撮るのは難しい。

 その後は市内で給油を済ませ、米子市方面へ向かう。途中道の駅:ポート赤崎で昼食。ここは港の近くで、昼食は近くにある魚料理の店で、久しぶりに煮魚定食を味わった。なかなか魚を食べる機会がないので、時にこのような外食も必要である。食事を済ませた後は、米子市の知人宅へ向かう。2時半近く、少し迷いながら知人宅に到着。嬉しい再会を果たす。

 親しき知人ご夫妻とは、今年の夏の旅の終わり近くに北海道でお会いしているのだが、それから2カ月ほど経っての再会だ。知人のAさんは自分と同世代で、何故か心の波長が合う人なのである。そのことについてはここに書くことは止めよう。世の中には心をシンクロナイズ出来る人が何人かいるはずで、その出会いはとても大切なのだと思っている。車を留めて以降、Aさん手づくりのピザハウスでたちまち乾杯。料理名人のAさんの作られたご馳走を味わいながら夜遅くまで嬉しくも楽しい歓談の時を過ごしたのだった。

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‘14年 北陸・関西・中四国への旅 レポート <第20回>

2014-11-28 05:56:39 | くるま旅くらしの話

【今日(11/28)の予定】 

道の駅:燕逍園 →(県道他)→ 倉吉市・重伝建打吹玉川地区探訪 →(県道・R9・R431)→ 米子市内知人宅(泊)

 

【昨日(11月27日:木)のレポート】  天気:晴れ  走行98km

<行程>

道の駅:久米の里 →(R181・R53他)→ 重伝建・津山市内城東地区探訪 → 津山城跡探訪 →(R181・R179)→ 道の駅:奥津温泉 →(R179)→ 三朝温泉(駐車場なしで♨を諦める)→(R179他)→ ハワイ温泉(ここは休館日だった)→(県道)→ 道の駅:燕逍園(泊)

<レポート>

 昨日までは雲の多い空だったが、今朝はもう雨の心配のない晴れを確信できる空となっていた。昨夜はやはりかなりの騒音だったが、旅も20日目に入ると騒音の環境にも慣れ出して来たのか、それほど気にしないで眠りを得ることができるようになった。慣れというのも、旅の中では大切な要素のように思う。

 道の駅:久米の里には、何故か機動戦士Zガンダムの巨大な模型が置かれていて、その高さは7mにも及び重さは2トンもあるという。説明によると、この町在住の中元さんという方が、自ら設計図を書き独力で製作したものだそうで、コクピット内に入って人が操縦できるように作られているとか。約7年の時間をかけて1999年12月に誕生したと書かれていた。大変な方がおられるものだと思った。孫がもう少し大きくなったら、連れて来て見せてやりたいものだと思った。

   

機動戦士Zガンダムの巨大な像。光の加減で頭の部分が良く見えないのが残念。孫に見せたいけどまだ10カ月。見られる頃には時代は変わっているのかも。

 今日の予定は、津山市内の城東地区の重伝建エリアの探訪と津山城跡の探訪の二つである。9時過ぎに出発して、直ぐに重伝建エリアの駐車場に到着。津山は何時も車で通過しているだけで、留って探訪などするのは今日が初めてである。知っていることといえば、筆の生産くらいのもので、それもあやふやなレベルでしかない。今日は城と重伝建の城東地区をたっぷり歩き回りたいと思っている。

車を置いて早速散策を開始する。相棒とは最初の5分くらいは一緒だったが、たちまち別行動となる。西新町という所から歩きを開始して、30分ほどかけて宮川という城脇を流れる川のところまで行き、折り返すことにした。城東地区は思ったよりも広い面積で、残存する建物も多いのだが、少しムラがあって、同じレベルの建物が並んでいる場所は少なく、限られているように感じた。しかし通りの中には歴史を感じさせる貫禄のある古い建物も点在しており、重伝建としての価値は十分あるなと思った。1時間ほどして車に戻ったのだが、途中で一度会った相棒は、地元の人との会話に熱中していたようで、その後もなかなか戻ってはこなかった。11時半ごろになってSOSの電話があったので迎えに行ったら、地元の方からなにやプレゼントなどを頂戴したとかで、途中で運搬能力限界を越えた重さとなってしまったらしく、道端に止まって待っていた。あきれ返るというしかない。

   

          城東地区西新町辺りの町並み景観。

   

          城東地区林田町辺りの景観

   

町並みの通りを歩くと、家々の軒の下に、ククリザルと呼ばれるこのような手づくりのお猿さんがぶら下がって迎えてくれた。町のご婦人たちの歓迎の思い入れをそこに感じた。

 その後は、車を城下の観光案内所の駐車場に移動させる。津山城の探訪も勿論初めてのことである。どんな様子なのかと石垣の見える石段を登り始めたのだが、上がるにつれ、これは予想以上にスケールの大きな城だったのだなと思った。石垣の数も組み合わせも多く大きく、かなりの数の櫓のようなものが造られていたようだ。とても全部を万遍なく観て回ることなど無理で、主な櫓跡や天守閣の土台などを見るにとどまった。城の上から俯瞰する津山の町は、四方にびっしり建物が連なっており、繁栄しているのを実感した。写真を撮りながらの探訪だったが、一番写真を撮りたいアングルの近くに漫画のキャラクターを書いた看板が置かれていて、まじめに城を見ようとする者の気持を茶化されている感じがして、がっかりした。

   

津山城の石垣。数多くの石垣が入り組んで造られており、まるで迷路のようだ。しかし、石垣だけは確実にこの城の昔を語り、証明してくれているようにいつも思う。

   

城の上からの重伝建城東地区の俯瞰。武家・町家・神社・寺院などが密集していたのが良く判る。

   

津山城本丸の天守台跡。この石の上に五層の建物が建てられていたという。できればもう一度造って見せていただきたいなと思った。

   

津山城跡の石垣の下、紅葉の葉の積もる土のぬくもりの中に、何とオドリコソウが花を咲かせているのを見つけて驚き、感動した。今頃の季節にこの花が見られるのはどうしてなのだろうか?

 城の見学を終えた後は、観光案内所の中にある食堂で昼食。自分は、ご当地B級グルメで売り出そうとしているらしい、ホルモンうどんというのを食べて見た。焼きそばならぬ焼きうどんの類で、なかなかの味だった。今回の旅では、結構外食が増えている。カロリーオーバーに要注意である。食事を済ませて、今日は休みなしで先に行くことにした。向かうのは三朝温泉である。かなり歩いているので疲れもたまっており、温泉に入ってゆっくりしたいという考え。

 津山の市内を通り抜け、山の方に向かう。少し走って、吉井川の上流の奥津渓にある奥津温泉の道の駅に寄ったが、特段の獲物は見出せなかった。そこから先は、上斎原村。初めてここを通った時はこの字が読めなくて、困惑した。おかげで今は忘れなくなっている。というのもこの地区は一時ウラン鉱の人形峠の話で賑わったことがあるご当地だからである。今はどうなっているのか判らないけど、放射能はもうたくさんで、福島の分だけで終わりにして貰いたい。原発は早めに止めてもらいたいと思っている。ところで、人形峠というのは、何か伝説にでも由来する命名なのであろうか。

 長いトンネルを潜り下ると、そこからは三朝町で、温泉も間近かだった。右折して、川に沿った道を少し行くと温泉街に入った。で、思い出した。以前来た時も道が狭く駐車場がなくて停めることが出来ず、腹を立てながら引き返したことを。あれからもう大分時間が立っていて、そのことをここに車で思い出せなかったのだ。ま、今回はどうにかなるのではと期待したのだが、目的の温泉施設に行って見ると、やっぱり駄目だった。チンケな駐車場があったけど、軽自動車用としか思えず。しかも数台分しかない。近くを探しても全くダメ。お手上げだった。この車ではここの温泉はダメだなと改めて思い知らされた気がした。開湯850年だとかの幟が立っていたけど、残念というよりも糞くらえという気分だった。何ともはや、下品な気持ではある。

 気を取り直して、次の候補先に湯梨浜町のハワイ温泉のハワイゆ~たうんという所へ行くことにしたのだが、着いてみるとこちらは何と休館日だった。もう腹を立てるのもバカバカしくなり、近くの燕趙園という道の駅に行って早めに休むことにした。で、そこへ行ってTVの設定などをしていると、近くをグループでウオーキングされていた方々が駐車場に戻って来られ、キャンピングカーが珍しいのか皆さんが寄って来られて、あれこれ質問攻めにあう結果となった。ご夫妻で来られた方も何組かあったようで、なかなか賑やかだった。その会話の中で、風呂の話が出て、偶々今日は温泉に縁がなかったという話をしたら、グループの中のお一人が、近くの東郷温泉の養生館という所の割引券を持っているので下さるという。捨てる神あれば、拾う神あり(少し違うかな?)ということかなと思った。800円もするお湯には入らないと決めていたのだけど、その割引券なら500円で入れるのである。ありがたいことである。神様ならぬそのお方に感謝。その後は相棒と一緒にたっぷりと温泉を楽しみ、道の駅に戻り夜を迎えた次第。終わり良ければすべてよし、の気分だった。

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‘14年 北陸・関西・中四国への旅 レポート <第19回>

2014-11-27 02:38:02 | くるま旅くらしの話

【今日(11/27)の予定】 

道の駅:久米の里 →(R181・R53)→ 重伝建・津山市内城東地区探訪 →(R181) → その先未定なれど倉吉方面へ向かうつもり

 【昨日(11月26日:水)のレポート】  天気:曇り  走行134km

<行程>

道の駅:かよう →(R486・R180他)→ 備中松山城探訪 →(R180・県道)→ 重伝建・吹屋町並み保存地区探訪 →(県道・R180)→ 新見IC →(中国道)→ 院庄IC →(R181)→ 道の駅:久米の里(岡山県津山市)(泊)

<レポート>

賀陽の一夜は雨も降らず静かで快適な眠りを頂戴して満足だった。今日は、予報では二日連続の雨となっていたが、今朝は曇りで、もしかしたらこの後晴れるのではないかとの予感を抱かせる空の様子だった。この道の駅には地元の野菜や果物類などが豊富に並べられていて、どれも欲しいのだけど、とても調理の時間がとれないので無理。結果は白菜を一個買っただけだった。食事の前に付近をほんの少し散歩したのだが、実に曲線に富んだ農村の景観がそのまま残っており、何だか60年前の自分の田舎の故郷に戻ったような感じがした。野山の郷とかいう看板のようなものがあったが、確かにその通りだなと思った。もう一度泊りたいなと思った。

さて、今日の予定は先ず近くの高梁市郊外の備中松山城の探訪と、その後少し離れているけど、ベンガラの里である重伝建の吹屋の町並みを訪ねることにしている。備中松山城は初めての訪問、吹屋は三度目だろうか。先ずは城のある高梁市の方に向かって9時過ぎ出発する。R486というのは、初めて通る道なのだが、400番台を越えて500番に近い番号の国道には、何回か厳しい目に遭わされているので、要注意である。最初は良い道だなと油断していると、途中から突然道が細くなり、山の中に入って離合も出来ない崖っ淵の道となって、肝を冷したことがあった。まさか、ここは大丈夫だろうと思いながらの運転だったが、高梁市内でR180に出るまでは何の心配もない良い道路だった。高梁市内から城に向かう道は途中がかなり狭い所があり、心配は消えなかったが、少し坂を上ると公共の駐車場があり、そこに車を置いてふいご峠という所までシャトルバスが運行されていた。休日には大型のバスとなるとのことだが、平日の今日は小型のハイエースクラスの車だった。ふいご峠までの道はかなり厳しく、SUN号では無理だろうと思った。

ふいご峠からは徒歩で城まで急な坂道を歩くこと20分、ようやく城の大手門下にたどり着く。石垣が幾重にも見えるだけで、そこからは天主閣も櫓も見えなかった。更に少し石段の道を上るとようやく城の建物が見えて来た。天守閣と二重櫓だった。天守閣の方は補修後の時間が浅いのか、ピカピカの感じがした。後ろ側に見える二重櫓は、裏に回って見ると大きな岩盤の上に周囲に石垣を巡らして造られており、こちらの方がその昔をよく残している感じがした。写真だけ撮って、中に入るのは相棒に任せた。この城は日本を代表する山城である。幾重にも回らされた石垣の要塞は、しかし、戦国時代には本当に必要だったのか。何処の城跡を訪ねる時も何時も疑問を抱くのは、もしかしたら自分は往時の世代を錯誤して捉えているのかもしれない。一時の戦にはこのような城が必要かもしれないけど、戦の前後には治世という務めがあるのだから、このような山城はさほど必要ではないのではないか。そう思ってしまうのである。山城というのは守るための要塞であり、攻める際には不要ではないかと思う。戦国時代の歴史の中では、守りの城が勝利したという話は聞いたことがない。もし自分がその時代に生まれたのなら、決して山城などには関心を持たなかったように思う。ま、このような考えは、備中松山城に係った人たちにとっては、余計なお世話ということになるには違いはない。とにかく、先日の春日山城にも劣らない要塞だった。

   

備中松山城、大手門からの石垣の景観。上部にある城郭が見えないほどの入り組んだ石垣が敵の侵入を防ぎ守っているのがわかる。

   

備中松山城、二の丸から見た天守閣(一番上部)の景観。手前の城門が大きすぎて天守閣が少し映えないのが残念。

   

備中松山城の二番櫓の雄姿。この向こうに天守閣があるが、この城ではこの櫓が最も重要な役割を果たすことになっていたのではないかと思う。岩盤の上に造られているのがはっきりわかる。

   

備中松山城、太鼓櫓跡から俯瞰した城下町高梁市の景観。城主はこの城ではなく、この城下町の一角に館を作って住んでいた。

11時半過ぎに車に戻り、下の駐車場で昼食の弁当類を買い入れた後、吹屋に向かう。吹屋は成羽町の一集落だったが、今は合併して高梁市に属している。前回はまだ合併前だったので、まさか高梁市になっているとは思わなかった。ナビに従って走っていたら、とんでもない細い道幅の道路を走らされて、冷や冷やの連続だった。県道85号線というのは、化け物のような道で、どれが本物なのか判らない。これは細い国道どころの話ではなかった。もう二度と通ってはならない道である。やはり自分で地図を見て調べておかないとダメだなと思った。この頃は次第に横着になって来ており、要注意である。幸いに離合などの場面にもぶつからずにどうにか所定の駐車場について、食事を済ます。外に出ると、雨は降ってはいないが、何だか降り出したがっている空模様だった。その後町並みの散策に出かける。

吹屋は元々銅山で栄えた町だが、銅鉱に含まれるベンガラという顔料の生産で一世を風靡した町でもある。今回で3度目の来訪だが、この町並みの中で一番気に入っているのが、少し外れた場所にある吹屋小学校である。木造のきりっとした佇まいで、時代をしっかり証明してくれているように感じるのである。何年か前、TVを見ていたらその小学校が閉じられるという話を聞き、どうなるのかと気になり心配だった。早速そこへ行ってみたが、もはや現役ではなく、子どもたちの声はなく、無人のままにそのまま残っていた。この後、どのような形で保存されていくのか、見守りたいと思った。高梁市の対応を注視したい。町並みの茶色い屋根とベンガラ格子の建物は以前よりも少し古くなったなと感じた。一通り町並みを往復して車に戻る。

   

吹屋の町並みの様子。今日は平日で、天気も良くないとあってか人通りはほとんどなかった。

  

ベンガラ格子の吹屋郵便局。もちろん現役であり、局の前のポストには明治時代に使われていたのと同じタイプの書状集箱が置かれていた。

  

吹屋小学校の景観。今は現役を引退して無職のままという感じだったが、数年前にここを訪れた時には、元気に動き回る子供たちの歓声が聞こえていた。子供の数が少なくなっているのは、歴史の必然なのかもしれないけど、なんとも寂しく残念なことだ。最高の保存策を期待したい。

その後は、今日の宿は津山市にある道の駅:久米の里にすることとして、新見市の方に出て新見ICから中国道に入り、院庄ICで下りて、間もなく到着。途中で買い物をしたので、到着は16時近くになってしまった。ここに泊るのは、明日津山市内の重伝建エリア探訪に都合が良いためである。道の駅は国道に面しているので、今夜はもしかしたら騒音に悩まされるのかも知れない。

ところで、この後ハプニングがあった。嬉しくもありがたい出来事だった。今日の出来事を整理していると、車の外から声がかかり何だろうと外に出て見ると見知らぬ方が自分の名を呼ばれており、何と自分のブログを読まれていて、わざわざお訪ね下さったという。岡山市内在住のKさんとおっしゃる方で、何と自分の著書まで持参されておられ、サインを求められたのにはびっくりした。先日大三島の時にもびっくりしたのだが、これでこの旅二度目である。ありがたいことである。ブログは、ボケ防止の意味合いがだんだん強くなって来ているのを自覚しているのだけど、よりまじめに取り組まなければいかんなと、ますます反省の意を強くした。Kさん、ありがとうございました。

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‘14年 北陸・関西・中四国への旅 レポート <第18回>

2014-11-26 05:35:57 | くるま旅くらしの話

【今日(11/26)の予定】 

道の駅:かよう →(R484・県道他)→ 備中松山城探訪 →(R180・県道)→ 重伝建・吹屋町並み保存地区探訪 →(その先未定)

【昨日(11月25日:火)のレポート】  天気:雨 走行133km

<行程>

道の駅:たけはら →(県道・R2他)→ 道の駅:笠岡ベイファーム →(R2他)→ 国民宿舎サンロード吉備路(♨)→(県道・岡山道)→ 賀陽IC →(R484)→ 道の駅:かよう(岡山県加賀郡吉備中央町)(泊)

<レポート>

昨夜から怪しげだった空は、2時頃から本気で雨を降らせ始め、朝7時に起き出した頃は完璧な雨降り体制を整えていた。竹原の道の駅は国道に面していて、すぐ傍に信号もあるので夜間の騒音を覚悟していたのだが、それは全くの杞憂だった。途中からの雨音を除いては静かな一夜だった。12時頃トイレに起きた以降はなかなか寝付かれなくなって、起き出してブログを書く。眠くない時は起きるというのがマグロ性の自分の信念であり、無理して寝ようとしないことが肝要なのだと思っている。3時くらいにもう一度寝床に入ってからは7時まで熟睡してもう何の悩みもなくなっていた。

今日は移動日の予定である。終日の雨となりそうなので、途中気が向いたらと考えていた倉敷の美観地区の探訪などは初めから取りやめることにした。温泉博士に載っている総社市内の無料入浴OKの施設に行って、その後はどこか近くの道の駅で泊ろうかと考えている。

出発の準備を整えた後、もう一度竹原の町並みを探訪してから別れることにしようと、雨の中、傘を差しながら歩きに出かけた。9時を少し過ぎた頃だったが、気の早い観光バスが既に到着していて、そこから吐き出された観光客の人たちがそぞろ歩きを開始していた。マッサン人気は大したもんだと改めて思った。傘を差しながらの散策もなかなかいい気分なもので、小京都などというあまり好きでもないことばの表現でも何となく雰囲気を表わしているように思った。(自分は京都という町があまり好きではない)小一時間ほど昨日と同じ町を歩いたのだったが、少し景色が変わっているように感じた。雨の風情というのは、害ばかりではないというのを少し知った気がした。

   

    朝の雨の竹原の町並みは静かでしっとりとした風情が漂っていた。

10時過ぎ道の駅を出発して、先ずは福山市の先の笠岡市にある道の駅:笠岡ベイファームに向かう。今日は移動だけなので、笠岡の道の駅で休んだ後は、総社市の温泉に入って近くの道の駅で休むだけである。尾道からはバイパスに入って順調な流れだったが、福山からは街中の渋滞に巻き込まれで、なかなか前に進まず往生した。ようやく渋滞から解放されて笠岡バイパスに入り、道の駅に着いた時は12時をかなり過ぎていた。

笠岡といえば、何といってもカブトガニである。まだ標本でしか本物を見たことがないが、生きている奴を見たら、古生代(?)を体感できるのかもしれない。ま、そのようなことを考えながら、笠岡の道の駅に着いたのだったが、ここは予想以上に好感のもてるいい道の駅だった。地産の野菜類だけではなく、瀬戸内で獲れる海産物や鮮魚類が数多く並べられていた。今日は泊るわけではないので、買えないのが残念だったけど、今度来るときは泊るのを決めた上で海の幸を楽しもうと思った。取り敢えず笠岡港で獲れたというイイダコの煮付けなどをゲットした。その後、今夜のおかずの一品にと肉無し肉じゃがを作ることにした。30分ほどで完成する。

14時過ぎ笠岡の道の駅を出発して、温泉博士に載っている総社市の国民宿舎サンロード吉備路に向かう。途中給油したり何度かの渋滞に巻き込まれたりして、温泉に着いたのは15時半ごろだった。その後1時間ほど温泉に入って疲れをとった後、今夜の宿道の駅かようへ。一般道を行くつもりだったが、かなり暗くなって来ていたので、高速道を行くことにした。この頃は暗くなったら危ない道は通らないことにしている。道の駅:かようへの道が危ないかどうかは判らないけど、山道が多いようだし、それならば高速道を行った方がずっと安全だという判断である。17時半前には道の駅について、先ずは安全な夜を迎えたのだった。

暗くて周辺の様子がさっぱり判らない。この先に吉備高原都市があるということだから、かなりの高地で寒い土地なのかもしれない。雨はようやく止んだようで、今夜は雨音には悩まされずに済みそうである。湯冷めしないように、食事を済ませた後は早めの就寝となる。

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‘14年 北陸・関西・中四国への旅 レポート <第17回>

2014-11-25 01:37:17 | くるま旅くらしの話

【今日(11/25)の予定】 

  道の駅:たけはら →(R185・R2)→ 倉敷市方面(その先未定)

 【昨日(11月24日:月)のレポート】  天気:晴  走行193km

<行程>

道の駅:しまなみの駅御島 → 大三島IC →(しまなみ海道)→ 西瀬戸尾道IC →(R2)→ 道の駅:みはら神明の里 →(R2・県道)→ 道の駅:たけはら <重伝建・竹原市竹原地区探訪> →(R185・安芸灘大橋・とびしま街道)→ <重伝建・呉市豊町御手洗地区探訪> →(とびしま海道・安芸灘大橋・R185)→ 道の駅:たけはら(広島県竹原市)(泊)

<レポート>

 2日間お世話になった道の駅:しまなみの駅御島に別れを告げたのは丁度8時だった。珍しく少し早い出発となった。今日は重伝建指定の2か所を探訪予定なので、時間に余裕を持たせようと考えたからだった。直ぐに高速道に入り、瀬戸田PAでごみ処理を行い、引き続いて高速道を尾道に向かう。尾道からは自動車専用道のR2に入り、しばらく走って三原市の道の駅:みはら神明の里で小休止する。ここから第1目的の竹原まではそれほどの距離はない。ナビに従って県道を行き、9時半ごろには竹原の道の駅:たけはらに到着する。

竹原は、文字通り竹の多い所のようだ。市内に入る前は山道を通って来たのだが、それらの山の半分くらいには竹が密生していた。市内に入っても至る所に竹が生えていて、まさに竹原だなと思った。当初の予定では、先に呉市の重伝建の御手洗の港町に行き、その後で竹原に戻ってじっくりと探訪して道の駅に泊ろうかと考えていたのだが、もしかしたらTVの朝ドラで竹鶴酒造のことを知って観光バスなどが押し掛けて、混雑するのかもしれないと思い先に竹原の重伝建エリアを歩くことにした。

     

竹原には竹山、竹林が多いのが目立つ。自然に増えたのか、それとも何か理由があってこうなっているのかはよく判らない。竹細工の店などもあったから、竹が暮らしに関わって来ているのかもしれないなと思った。

マッサン人気が高まっているとはいえ、駐車場くらいは何とかなるだろうと安易に考えてやって来たのだが、驚いたことに既に満車となっていて、500mほど離れた臨時駐車場らしき場所へ行くように指示された。行って見ると大きな空き地で車は一台も来ていなかった。早速歩く準備に取り掛かり、ふと車の後部を見て見たら、何と、BSのアンテナ用のポ―ルが折れ曲がって、アンテナが垂れ下がっているのに気付き驚いた。今朝出発するとき、うっかり伸ばしていたアンテナをたたむのを失念し、そのまま走ってしまったのだ。生憎昨夜はアンテナのポールを高く伸ばさざるを得なかったので、それもまた災いの要因となっていた。何処でぶつけたのか全く気付かなかったけど、そのまま気付かなかったら、落下したりして誰かに迷惑をかけていたのかも知れず、ぞっとした。大急ぎで応急手当てをして歩きに出発する。

竹原を訪れるのは初めてのことである。広島や宮島は何回も訪ねているのだけど、それ以外の広島県のエリアについては殆ど何も知らないといっていい。竹原の重伝建エリアについては、自分よりも相棒の方の関心事であり、かなり前から訪ねたいと謎を掛けられていた。それがようやく実現することとなった次第である。TVのドラマに影響されて来たのではなく、静かなひなびた佇まいを期待しての来訪だった。しかし、現実はかなり違っていて、まさかこんな時期にぶつかってしまうとは思いもよらぬことだった。

最初少なかった観光客が、10時を過ぎる頃には次第に増え出し、やがては膨れ上がって来たという感じになった。多くの人たちの関心事は、竹鶴政孝氏の生家の小笹屋竹鶴酒造を見て、お土産にお酒を買って帰るというようなことらしく、古い町並みを見てもそれほど感動するといった雰囲気ではないようだった。自分たちは自分たちのペースで、古い町並みの探訪をすることとした。相棒とは勿論別々のペースである。相棒は重伝建の探訪に関しては自分よりも知識も経験も豊富で、とても一緒に写真を撮るなどという気は起こらない。

   

ニッカウヰスキーの創業者竹鶴政孝氏の生家、小笹屋。一部資料館となっているようだが、今日は休業の張り紙が出されていた。

先ずは一通り町並みの裏表を歩いた後、西方寺というお寺の境内にある普明閣という展望の効く建物に上って、町並みの全体を俯瞰した。竹原という所は製塩業で栄えた場所で、その昔は56か所もの製塩所があったという。元々は先日訪れた赤穂市の製塩技術の入浜方式を導入して始まったとのこと。今は海が何処にあるのかも判らないほどで、古い町並みは山裾にあるため、どうも海と係り合いのある製塩の町というのがピンとこなかった。この町並みで一番すごいなと思ったのは、空き家らしき古い家があまり見当たらないことである。殆どが現役、今でも人が住み昔からの家をしっかり守っておられるというのは、素晴らしいことだと思う。また、町並み全体のバランスを保って残っているのも素晴らしいなと思った。一番古い家は1600年代に造られたというから驚きである。ここにはマッサンブームが終わってから、もう一度ゆっくりと訪ねて見たいなと思った。帰りに土産に小笹屋竹鶴酒造の竹鶴を何本か求めようとしたのだが、寄った店では全く在庫がないという。小笹屋の方に行っても在庫は無いのではないかとのこと。今頃になって政孝氏が実家に絶大な貢献をしているのを不思議に思いつつ、この気まぐれブームが早々に終わることを切に願った。今度来た時は必ず酒を手に入れるぞと思いつつ一先ずの町並み探訪を終わりにした。

   

1600年の中ごろに造られたという吉井家。もちろん部分的な補修が加えられながら今日まで来ているのだとは思うが、400年近い木造の家が残っているというのはすごいことだなと思った。

   

西方寺は町を見下ろす山の中腹にあり、その境内にある普明閣という展望所らしき場所から見た町並みの屋根の様子。密集する家屋にも歴史の持つ一種の落ち着きを感じる。

その後は60kmほど離れた呉市豊町(大崎下島)の御手洗という重伝建地区に向かう。御手洗(みたらい)はお手洗いではなく、江戸時代の昔から風待ち、潮待ちの港町として栄えた所である。ここも初めての訪問だった。呉の市街地からは7~8km手前に、下蒲刈島に渡る安芸灘大橋という全長1.3kmほどの有料の橋がある。その橋を渡ると、その先上蒲刈島、豊島、大崎下島と橋を渡って島がつながっており、その大崎下島の突端近くにあるのが御手洗という港町なのであった。この島々を結ぶ道をとびしま海道と呼んでいるらしい。今回の旅で初めて知ったことだった。それにしてもこのような形で島々が結ばれているとは、瀬戸内に住む人でなければ、なかなか知り得ない知識のように思った。

駐車場に車を置き、すぐ近くの旅館の食堂で昼食をとる。その後、いつものように相棒とは別行動で、町並みの散策を開始する。なかなかそれらしい建物が見出せなかったが、しばらく歩いている内にその昔を思い起こさせる風格のある建物が見えて来た。毎度のことだけど、港町というのは建物が櫛枇していて、隣りとの空間が1mにも足らない細道なのには息が詰まる気がする。しかし、みんながお互いに助け合って暮らしを守って行くとなると、家の造り方も地区の造りもこのような形に集約されてゆくのかもしれない。1時間ほどで車に戻ったのだが、相棒は何時ものようにその後30分ほどして帰って来た。時刻は既に15時を過ぎていた。

   

豊町御手洗地区の町並みの様子。この辺りが昔の様子を一番残しているように思った。

   

町並みの一角にある七卿が隠れ暮らした家跡。幕末維新前の頃の出来事だったが、何だか歴史の一瞬の出来事が拡大され過ぎて残っている感じがした。

今日の泊りは竹原の道の駅ではなく、もう少し先(岡山寄りに)まで行こうかなと思っていたのだが、この時間では無理をすることになってしまいそうなので、やっぱり予定通り竹原の道の駅に泊ることにして出発する。17時近くに戻ったが、さすがにもうバスの観光客はいなくなり、普通の乗用車ばかりとなっていた。それでもまだかなり駐車場は混みあっていたが、どうやら適当な空きスペースを見つけて車を入れる。今日は風呂は無し。地酒の竹鶴は手に入らなかったので、焼酎で一杯やって夜を迎える。

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‘14年 北陸・関西・中四国への旅 レポート <第16回>

2014-11-24 06:36:01 | くるま旅くらしの話

【今日(11/24)の予定】 

  道の駅:しまなみの駅御島 → 大三島IC →(しまなみ海道)→ 西瀬戸尾道IC →(R2・R185・安芸灘大橋・とびしま街道)→ 重伝建・呉市豊町御手洗地区探訪 →(とびしま街道・安芸灘大橋・R185)→ 重伝建・竹原市竹原地区探訪 →(R185)→ 道の駅:たけはら(広島県竹原市)(泊)

 【昨日(11月23日:日)のレポート】 天気:晴  走行14km

<行程>

終日大三島にて休養する  道の駅:しまなみの駅御島(泊)

<レポート>

 今回の旅に出てから2週間が過ぎ、半月が経過した。途中多少の変更はあったが、概ね予定通りの内容の行程を辿ることが出来て満足している。天気も最初の頃は寒さに閉口する日などもあったが、その後は順調にいい天気に恵まれ、ラッキーだった。この後も同じぺースで旅が続けられることを願っている。

 さて、今日は終日この大三島に滞在して休養することにしている。休養といっても酒を食らって寝て過ごすということでもなく、先ずは移動を止めて動かない時間を増やすというだけのことなのだが、これがなかなか難しい。相棒によれば、自分はマグロと同じ生き方のタイプだそうで、何でもかんでも動き回っていないと生命が絶えてしまうのだそうな。マグロはそれゆえに美味なる肉体をつくり上げ、日本人の食卓を潤して来たのだけど、馬の骨の方は煮ても焼いても食えない扱いにくい存在だ。自分的にはだからマグロではないと思っている。これは余談。

 今日の休養の内容というのは、10時くらいまで御島の道の駅に居て、その後多々羅しまなみ公園の方に移動し、自分は昨日と同じように多田羅大橋を渡って生口島までを往復する考えでいる。相棒の方は、今日は橋の往復は止めて道の駅の中でのんびり過ごし、午後からは3時頃には温泉に行き入浴を楽しみ、その後もう一度御島の道の駅に戻って夜を迎えるという段取りである。

  食事の後、直ぐ近くにある大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)に参拝する。四国では最も格の高い神社だと聞く。境内には楠の大木が何本もあり、その内何本かは千年を超える樹齢だという。最高齢は1200年の寿命を今も保っているというから驚きである。それらの樹木たちに守られた境内神域は清浄そのもののイヤシロチである。20分ほどその空気をしっかり味わった。

     

大山祇神社の境内風景。中央は拝殿。そしてその横から四囲を社が取り囲んでいる。早朝からきれいに掃き清められていて、自ずと襟を正す気持ちとなる。

   

境内にある天然記念物の乎知命(おちのみこと)手植えの楠。樹齢は2600年といわれている。

10時少し過ぎに出発して、多々羅しまなみ公園の道の駅に車を停める。今日も日曜日とあって駅の中はかなりの人出で賑わっていた。相棒を置いて一人急な坂道を上り、橋の歩行者道路に入る。昨日はカメラを望遠レンズにしていたものだから、橋の写真は全く撮れず中途半端なものばかりだったので、今日は普通のレンズを持参している。これなら橋の全景がしっかり収まって、写真らしいのを撮ることが出来る。(ブログの写真は小カメラで撮ったサイズの小さなものだけを使用)昨日撮れなかった分までしっかりと収めながらの歩きだった。1,480mの橋は下を覗くのは厳禁だ。自分は高所恐怖症の気があるので、決して橋の海側の方は歩かないことにしている。自転車の通行とは無関係に、ただそれだけを守り続けた。今日の瀬戸内海は眩しいほどの光る海となっていた。30分ほどかけて橋を渡り、今日は瀬戸田PAまで行くのは止め、少し手前のミカン畑の脇にある無人販売所まで行き、ミカンを2袋買って戻ることにした。帰りはゆっくりと景観を楽しみながら橋を戻った。

        

多々羅大橋には端の南北に計84本のロープが張られている。一つの支柱に42本が東西21本ずつあるということになるが、これは南側の一番端のロープを示している。

    

今日の多々羅大橋の景観。これは公園の上にある展望所から撮ったもの。何度見ても飽きない壮観である。

 車に戻ると、車の後ろにもう一台普通車が停まっており、相棒がその持ち主らしき方と何か話をし始めたところらしかった。どうしたのだろうと思いながら近づいて話を聞いてみると、何とわざわざ自分に会うために岡山からお出でなさったご夫妻だったのである。いやあ、驚くと同時に恐縮した。お話では自分のブログを毎日ご覧になっていて、今日の予定を知り、会えるかもしれないとわざわざ岡山の自宅からお越しになったとのこと。そのような方がいらっしゃるとは夢にも知らず、この頃は雑なブログ記事を書き続けていたのを恥ずかしく思った。

その後、車の中にお入り頂いて、楽しい懇談の時間となった。Kさんご夫妻は岡山市在住の方で、ご主人は毎日自分のブログを見るのを楽しみにされているとのこと。もしかしたら自分よりも詳しくブログの内容を御存じなのかもしれないと思った。書いている本人よりもより詳しくその内容をご存じという読者の方がおられるというのは、書いている本人にとってはこれ以上ない嬉しさであり喜びである。その後の歓談の主役は相棒の方へと移った感じだった。ご夫妻ともその毒気に圧倒されたようだった。思いも掛けない楽しい時間が過ごせたのは、今日の最大の喜びだった。1時間余りの新しい出会いの時間に感謝、深謝である。Kさんご夫妻、遠いところをわざわざありがとうございました。(思いもかけなかった吉備団子、美味しかったです) この場を借りてあらためてお礼申し上げます。

 お二人を見送った後は、感動が収まるのを待って、少し早目に昨日の多々羅温泉に出向く。昨日よりも空いていて、今日はサウナに入ることも出来よかった。何しろ狭くて3人くらいしか入れないサウナなのである。それでもたっぷりと汗を流せて満足した。温泉を楽しんだ後は昨日と同じ道の駅:しまなみの駅御島に行き、泊ることにする。16時少し前だったので、まだかなりの混雑で、それから1時間ほどは定位置にSUN号を入れることが出来なかった。暗くなって来て殆どの車はどこかへ消え去って、一気に静かになり、夜を迎えた。

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‘14年 北陸・関西・中四国への旅 レポート <第15回>

2014-11-23 05:56:31 | くるま旅くらしの話

【今日(11/23)の予定】 

  終日大三島にて休養する 

 【昨日(11月22日:土)のレポート】  天気:晴  走行61km

<行程>

道の駅:今治湯の浦温泉 →(R197・西瀬戸自動車道他)→ 道の駅:よしうみいきいき館 →(県道他)→ 亀老山展望公園) →(しまなみ海道)→ 道の駅:今治多々羅しまなみ公園 → 徒歩にて多々羅大橋を瀬戸田PAまで往復 →(県道他)→ 多々羅しまなみ温泉 → 道の駅:しまなみの駅御嶋(愛媛県今治市)(泊)

<レポート>

 昨夜はずっとすぐ傍を走るR196の終夜の騒音にギブアップの感じだったが、相棒はそれとは無関係に安眠をたっぷり味わったというのだから何か変な感じがした。長い時間をかけて少しずつ感覚がずれてきているということなのかもしれない。寝にくかった方がずれていなという保証はなにもない。老いるということは、結構難しいのかなと思ったりした。

 朝は二度寝をして、7時頃に目覚めた。何やら朝市のようなものが開かれるらしく、農家の人たちの軽トラが結構並んでいた。特別に興味関心を覚えるほどの品揃えでもなかったので、外へ出ることは止め、パソコンに向かったままだった。だんだん横着になって来ている。

 今日はしまなみ海道に入って、大三島でのんびり過ごすつもりでいる。しまなみ海道に係る島々は、大三島までが愛媛県で、その先の生口島(いくちしま)からは広島県となる。この二つの島を結ぶ橋が多々羅大橋で、長さが約1.5kmある。この橋は世界一の斜張橋と聞いている。斜張橋というのは、支柱から両側に斜めにロープを延ばして重さを支えるもので、多々羅大橋には2本の支柱があり、これが1.5kmもの橋の重さを支えているのである。この橋の景観は、丁度白鳥が羽を広げたような形をしているように見えて、実に美しい。しまなみ海道にある橋の中では一番美しい形をした橋だと思う。この橋を眺めるのと、渡るのが好きで、今日はそれを楽しみたいと思っている。

 9時過ぎに道の駅を出発して、今治市内に入り、イオンがあったので少し買い物をする。その後今治北ICから西瀬戸道(これがしまなみ海道の正式名称らしい)に入り、あっという間に来島海峡大橋を渡って大島に。ここには道の駅:よしうみいきいき館というのがあり、ちょっと寄って今通って来た来島海峡大橋を眺めて写真を撮ることにする。今日は土曜日とあってか、まだ昼にはかなり時間があるのに、駅の中の海鮮類を焼いて食べるコーナーには何グループかが早くも煙とにおいを発していた。貸自転車があり、マイサイクルの人たちと合わせて自転車を楽しむ人たちが目立っていた。ここからは余り写真は期待できないので、近くにある亀老山公園展望所まで行って、眺めを楽しむことにした。

 亀老山というのはどんな山なのか見当もつかないけど。何やら伝説の様なものがあって、そこから付けられた名前らしい。10分ほど急な坂を上って、頂上の展望所へ。ここからは瀬戸内の海と島々が展望できるのだが、特に三連橋の来島海峡大橋の眺めは優れている。以前にも一度来たことがあるのだけど、その時は霧がかかっていて殆ど見ることができなかった。今日は天気が良過ぎるのか少し霞がかかっているので、よく見えるのかが心配だった。展望台に登って見ると、案の定、海も橋も船も霞んで朧な風景となっていた。写真を撮ってもぼやけてしまっているので、絵にはならないなと思った。がっかりである。もっと寒くなって、風の吹いた翌日の様な条件でないと、すっきりして景色は望めないのかなと思った。

   

吉海町の亀老山公園展望所からの来島海峡大橋の景観。今日は天気が良すぎて霞がかかっており、鮮明な写真を撮るのは無理だった。

 展望所を下りて元の道に入り、大島北ICから再び高速道に入って、少し走って大三島ICで下りて、すぐ近くにある道の駅:多々羅しまなみ公園へ。この道の駅には、先ほどの吉海町のそれとは比較できないほどの人々で混雑していた。目の前に多々羅大橋が美しい翼を広げているのが眺望でき、山海の産物があふれ、それを食べることもできるというのだから、人気があるのは当然であろう。特に自転車族が多くて、外国からの参加者も何人か混ざっていた。しまなみ海道を自転車で走破するというのは、若者なら一度は挑戦したいコースであろうし、家族連れでゆっくりサイクリングを楽しむというのもいいアイデアに違いない。そのような人たちでかなり混雑していた。

 我々の方は、歩いて多々羅大橋を渡り対岸の生口島にある瀬戸田PAまで行って、そこの名物のタコ飯を食べることにして出発する。これは何年か前にここに来た時に楽しんだ思い出を再現しようというものだった。急な坂を上って橋の入口に出て、そこからは下を見ないようにしながら橋を渡り始める。10分ほど行くと最初の支柱のある場所に着くのだが、そこには多々羅鳴き龍が棲みついている。両手でパン!と柏手を打つと、ウオ~ンガラガラという音が跳ね返ってくる。歩道は自転車やミニバイクも通行できるようになっているのだが、圧倒的に多いのは自転車の人たちで、ひっきりなしに行き交っている。それらの人たちはこの鳴き龍の存在など知らないようで、さっさと通り過ぎてしまっていた。

   

多々羅大橋の様子。車道に沿った右側が自転車や人の通行できる道となっている。ここは歩道の入り口近くの場所。

   

家族連れでジョギングやサイクリングを楽しむ人も多く見受けられた。海上50m以上もの高さから、瀬戸内の島々や海の景観を楽しみながらの、なんともうらやましい人たちである。

 ようやく橋を渡って、生口島に入り、そこからは自転車道と別れてミカン畑の側道を通って瀬戸田PAにたどり着く。とんだ坂道ばかりなので、上るのはかなりきつい。ミカン畑の作業は大変なんだろうなと、ここを歩くたびにいつもそう思う。さて、瀬戸田のPAに着いたのだが、楽しみにしていたタコ飯は何と、無くなっていたのだった。ご飯の中に赤っぽいタコが丁度いい塩味で炊きこまれているあのご飯がないのである。タコと名の付くメニューではタコ天丼くらいで、がっかりした。仕方なくそれをオーダーしたのだが、食べて見ると衣ばかりが膨らんでいて、何処にタコがあるのかも判らず、おまけにその小さな天ぷらを汁に付けて食べるというのだから、これはもう天丼などというものではない。これからはタコ飯が復活しない限りもうここでは食べるのは止めようと思った。食い物の恨みは恐ろしいぞ。

   

多々羅しまなみ公園からの大橋とその向こうに見えるのが生口島。この場所からの景観が最も多々羅大橋らしさを感じさせるように思う。先ほどあの橋を渡って向こうまで行って来た。

 がっかりしながら帰途に就く。途中ミカン畑の脇の無人販売所でミカンと柿を買って、再び多々羅大橋を渡り車に戻る。相棒は普段歩いていないこともあり、疲れ過ぎて気分が悪くなったらしく、しばらく車の中で休息をとることとなった。その後は近くの多々羅しまなみ温泉に。ここも何度か利用させて貰っている所だ。料金は310円のところが二人とも高齢者なので250円だという。相棒は嬉しいようなそうでないような顔をしていたが、自分は単純にありがたいなと思った。1時間ほど温泉を楽しんだ後は、大三島にあるもう一つの道の駅:しまなみの駅御島に行き、今夜の宿とする。

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‘14年 北陸・関西・中四国への旅 レポート <第14回>

2014-11-22 07:26:45 | くるま旅くらしの話

【今日(11/22)の予定】 

道の駅:今治湯の浦温泉 →(R197・西瀬戸自動車道他)→ 道の駅:しまなみの駅:御島 → この後は島に滞在して静養の予定

【昨日(11月21日:金)のレポート】  天気:曇り後晴れ  走行121km

<行程>

道の駅:みなとオアシス八幡浜みなっと →(R197他)→ 大洲市内観光 →(R56・R11・R196)→(松山市街地経由) → 今治湯の浦温泉:ホテルアジュール汐の丸(♨)→ 道の駅:今治湯の浦温泉(愛媛県今治市)(泊) 

<レポート>

 八幡浜の道の駅は、八幡浜港のすぐ傍にあって、そこからは間近に絶壁ともいえるようなみかん山が目に飛び込んでくる。八幡浜も宇和島と並ぶミカンの産地であり、この港から伸びる三崎半島に沿ってずっとミカン畑が続いている。先日の遊子水荷浦の段畑と同じようなこの辺に住む人たちの執着心の造り上げたのが、あのミカン畑ではないのかと思ったりした。このようなミカン畑は、半端な気持ちで出来るものではない。

    

八幡浜港の西方には見上げるようなミカン畑の山がどっしりと構えている。この辺りはミカンの名産地としても知られている所だ。

 昨日手に入らなかった海産物の獲物が何かないかと期待したのだが、焼き物はないようで、やはり名物のじゃこ天に落ち着いたようだった。じゃこ天というのは雑魚類のすり身を天ぷらにしたもので、自分的にはこれが最上の天ぷらだと思っている。パソコンに気をとられている間に、相棒が揚げたてのじゃこ天をゲットして来て、直ぐにそれを口に入れたのだが、うめ~の一言だった。瀬戸内海沿岸のじゃこ天は、魚種が多いだけに他の地域とは違った魚の本物のミックス味を味わわせてくれるような気がする。

 今日は基本的には移動日で、特に予定もないのだが、一応大洲観光を予定している。大洲は内子町の隣にあって、小京都なる雰囲気のある町並みが残っていると聞いている。しかし自分たちはまだ一度もそこを訪ねたことがなく、いつも通過しているばかりだった。今日は、少し時間をかけて歩いてみようと思った次第である。9時半ごろに八幡浜を出発して、30分足らずで大洲の道の駅ならぬ町の駅に到着。ここの駐車場に車を置いてしばらく町中の散策に出向くことにした。予めの情報では、観光の目玉は臥龍山荘と大洲城、それにおはなはん通りだという。それぞれがどのような歴史的な背景を持っているのかは全く知らないままの訪問だった。

 先ずは臥龍山荘という所を見に行く。大洲といえば今頃は鵜飼などが有名となっているが、何処でどのように行われているのかは全く知らないままでの訪問だった。この町には肱川(ひじかわ)という清流が流れており、臥龍山荘は、その川が小さな渓谷を刻んだ淀みの淵の上に造られた、なかなか風情ある建物だった。殿様や金持ち商人などが関わった遺産なのだろうなと思った。ま、経歴はどうであっても。今の世にまでこのような建物が残っていることは価値あることには違いない。何枚かの写真を撮ったが、あまりうまくは行かなかった。

    

肱川が刻んだ渓流の崖の上に、瀟洒な茅葺屋根の建物が遠望できるのだが、足場が悪くて、上手く写らなかった。

 その後は、相棒と別れて、宇和島城の方へ行って見ることにした。肱川の堤防を少し歩いて、赤レンガの遺産建築の大洲商業銀行の脇を通って、R56を横切ってお城の方へ行ったのだが、間近ないい写真が撮れると思って行ったのに、城を見上げる絶好の写真スポットの前には、不格好な市民会館とやらの邪魔ものが立ちはだかって、カメラの撮影を拒絶しているかのようだった。何でこの場所にこのような無風流な建物を造っているのか、行政当局者の意向が全く理解できない気持になった。わざわざ城の天守閣などを復元するのならば、それはこの町にやって来る人たちにより強い印象持って貰おうという考えがあってのことに違いないと思うのだが、この町では、ランドマークたる城郭の景観を只遠望するだけに任せているような気がしてがっかりした。大洲城というのは、遠くから見るだけの城であり、近づくと見えなくなる城である。そのような不愉快な印象を強くした。しかし、市民会館の裏に出ると城は目前で、きりっと姿を現した。今回は中に入るのを止め、そこで写真を撮るだけにして車に戻ることにした。今度来た時には中に入ってゆっくり見物しようと思った。

    

明治・大正期の遺産として残る赤煉瓦の建物。元大洲商業銀行。大正2年7月現在で、資本金64万円、積立額12万円と銀行の入口の看板に書かれていた。

    

大洲は鵜飼い船の観光でも有名なところである。今はシーズンオフなのか、肱川の河原には何艘もの観光船が休んでいた。

    

大洲城の景観の天敵とも思える市民会館。この建物の向こう側に大洲城があるのだが、その美麗さを遮断して止まない愚かな建物だと思った。

    

大洲城。この城は遠くからの眺めに応えるかのような雰囲気を持っている気がした。次回は中に入ってみることにした。

 おはなはん通りというのがあって、それはかなり昔にNHKの朝ドラで同名のドラマの放送があったのに因んで名づけられたようである。もうそのドラマのストーリーなどは忘れ果てているのだが、ここでは未だに大切にこのような形で歴史をなぞる形で残っているのを不思議に思った。映画やドラマが歴史の史実だというような捉え方には少し疑問も残るけど、歴史というのは疑問の塊で出来ているのだと思えば、まあ、いいかという気分にもなる。11時過ぎまで下見的な散策を続けた大洲の町だった。

    

おはなはん通りの景観。ここよりもむしろこの裏側(本当は表?)の方に大洲の昔が残っているようである。

 その後出発して、少し走って大洲の郊外でコインランドリーを見つけて、ここで今までに溜まった洗濯物の処理をする。今回の旅では第1回目の洗濯だった。これは相棒の担当で、自分は只待機するだけ。終了までに2時間近くかかったが、この間に昼食も済ませる。洗濯が終わるたびに、旅の時間が経過したのを実感する。

 その後は、ひたすら移動時間となる。大洲から内子を経由し、山を越えて伊予市に入り、松前町から松山市に入り、中心街を掠めてR11に入り高松方面へ。東温市という何だか違和感のある名称の新しい市を通って、山を越えて西条市に出て、県道経由で今治市の湯の浦温泉を目指す。今日は温泉博士に載っている湯の浦温泉にあるホテルアジュール汐の丸という所に行き、その後近くにある道の駅に泊るつもりでいる。洗濯するのが少し遅くなったのと、思ったよりも大洲からの距離が遠かったこともあって、温泉に入った時は17時近くになってしまっていた。それでもいい湯を楽しんで、道の駅には18時ごろに到着。既にすっかり日は暮れて、辺りは暗くなっていた。この道の駅はR196のすぐ傍にあり、加えて近くに信号のある交差点があるので、今夜の騒音禍は免れないなと思った。無理をすれば来島海峡の橋を渡って、しまなみ海道の中の道に駅にも届くのだけど、無理は禁物だと思っている。少し多めに眠り酒を飲んで眠りに就く

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‘14年 北陸・関西・中四国への旅 レポート <第13回>

2014-11-21 06:54:43 | くるま旅くらしの話

【今日(11/21)の予定】 

道の駅:みなとオアシス八幡浜 →(R197他)→ 大洲市内観光 → その先、内子町経由で今治市方面へ(詳細未定)

 【昨日(11月20日:木)のレポート】  天気:晴  走行57km

<行程>

道の駅:津島やすらぎの里 →(R56他)→ 宇和島城探訪 →(R56他)→ 西予市宇和町重伝建エリア探訪 → 道の駅:みなとオアシス八幡浜(愛媛県八幡浜市)(泊)

<レポート>

昨夜は21時頃まで近くで太鼓をたたく音が鳴りやまず、これはとんだ所に来てしまったと困惑したのだが、朝になってその音がした辺りに行って見ると、小さな舞台付きの倉庫みたいなのがあり、中を覗くと大小幾つかの太鼓が並んでいた。倉庫の上部に平安太鼓展示室という札が掛っていた。どうやら、昨夜はその太鼓の練習でも行われていたのであろう。平安太鼓なるものが何なのかは知らないけど、何かこの地でいわれのあるものなのだろうと思った。この道の駅は四方を山に囲まれていて、地デジは全く映らなかった。BSは快調で、何処へ行ってもさほど苦労なしで見られるようになっている。今朝はBSで少し早目の朝ドラを見て、その後少しゆっくりする。

今日の予定は二つあって、その一は直ぐ近くの宇和島の市街地にある宇和島城を探訪すること。もう一つは隣の西予市の宇和町の中にある重伝建エリアの卯之町という所の探訪である。そして泊りは八幡浜市に新しく出来た道の駅:みなとオアシス八幡浜にお世話になろうと考えている。

先ずは10時近くに道の駅を出発して宇和島城を目指す。20分ほどで到着したのだが、予想していた通り、駐車場がなくて困惑した。案内板のある城下の市営駐車場に行ったのだが、空いていてもSUN号の図体では機械が通せんぼをして、中に入れないのである。付近をウロウロしながら探したのだが、見当たらない。どうしようかと諦めつつ探していたら、市役所らしき建物があり、そこの駐車場に入れてもらえないかと、取り敢えず入ることにした。中は大変な混雑ぶりだったが、整理をされている方の案内で、少し幅のある道路スペースに停めてもよいとの指示を頂いた。お城の見学をしたいのだが、1時間ほどかかると思うと話したら、少し首を傾げられたが、どうにかOKを頂いた。

さあ、それからは少し急いで城の登り口へ。急な石段を上って行くと付当りに石垣が見えて来た。苔むした貫禄のある石垣だった。この城は1600年代に藤堂高虎が創建したとのこと。その後、伊予伊達家がこの地を治めることになり、以降明治まで治世が続いたわけである。この間に何度か改修や補修が行われたのであろうが、今の世までその雄姿を保っているというのは真にめでたいことと言わなければならないと思う。石垣の道を少し登ると、美麗な天守閣が見え出した。二の丸、本丸と上がり、その雄姿を存分に見ることが出来た。相棒は何時ものようにさっさと天主閣の中に消えて行ったが、自分は中の様子にはあまり興味はなく、一人城の周りをぐるりと何度か廻り歩いた。本丸から見ると、意外と海が近いのが判る。また、城を取り巻く小さな盆地は、今の時代でも多くの建物が密集して建てられているのが俯瞰できた。20分ほど本丸の景観を楽しんだ後は、下城となる。市役所の駐車場に戻ったのは、丁度約束の1時間後だった。しかし、朝の混雑は収まっていて、空きスペースも見られたので、それほど急ぐこともなかったのかなどと、たちまち調子に乗る考えが頭をもたげたりした。

      

石垣と宇和島城天守閣。三の丸辺りの石段を登りながらの景観。厳しい石垣の姿と城郭の頂点である天守閣とは見事に調和しているように思った。

    

本丸の天守閣の美麗なる姿。思ったよりも小さな印象を受けたが、天守閣は一種の威厳を示すシンボルとも思われるから、それほどの大きさは不要なのかもしれない。

    

本丸から俯瞰した城下町の様子。盆地にはさまざまな建物が密集している。今日でもこの城は町の繁栄を見守っているのであろうか。

    

本丸に上がって気づいたのだが、宇和島はこれほど海に近い場所に城があったとは思わなかった。天然の良港にも恵まれた地であることが良く理解できた。

その後は休憩なしに直ぐに車を出発させる。少し走って無料の高速道に乗ったので、西予市の宇和町に着くのは早かった。12時近くになっていたので、近くの道の駅:どんぶり館という所に行き昼食休憩とする。どんぶり館というからには、何か特徴のある丼物でもあるのかと食堂を覗いたけど、そんなものは全くといっていいほど無かった。妙な駅名を付けたものだなと思った。1時間ほど休んで、その後無くなりかけている飲料水を補給すべくスーパーに寄り2L入りを10本ほど購入する。そして重伝建エリアのある卯之町という所へ行こうとしたのだが、道が狭くて駐車場を探すのは困難だった。やむなく、ここでも市役所の駐車場にお世話になることにした。少し遠くなるけど、これは仕方がない。

その後は相棒とは別々にそれぞれ思い思いの道を辿って町並みを散策した。このような散策には常に相棒の方が積極的で、普段疲れているはずの人が、自分の倍近くも歩き回るから驚きである。今日は先日よりももっと時間をかけて歩き回っていたようである。自分は40分ほどで些か疲れを感じて車に戻ったのだが、相棒が帰って来たのは、それから30分以上も後だった。何か獲物があったらしく、どこかで重伝建のDVDなどを頂戴してきたらしい。卯之町は宇和島藩の在郷町として栄えたとのことで、往時をしのばせる商家や旅館、それに白壁の土蔵などが残っていた。建物にも幾つかの特徴があるらしいけど、それは相棒の世界で、自分にはよく判らない。重伝建エリアの商家町や在郷町に来ると、何だか何処も同じような町の造りのままに昔が残っているなと思うのが、正直な感想である。それゆえ、あまり感動しなくなってきているのが少し問題なのかもしれない。町の中に開明学校というのがあったが、その由来などは何も資料がないので解らなかった。しかし、四国の各地で、文明開化の時代に呼応して次世代を担う人材の教育が展開されていたのは、素晴らしいと思う。その多くは私塾のようなものから出発しているようだが、さて、今の時代どこかにそのような行動をなす人物が存在しているのだろうか。今の世も相当に乱れて来ているように思うけど、救国の志を持った人物が何処にいるのか全く知らない。もはや老人となり果てた自分には無縁のことなのかもしれないけど。

    

西予市宇和町の重伝建エリア卯之町の町並みの景観。軒脇に造られている漆喰の柱は、うだつの一種なのであろうか。この町も人通りは少なく、ひっそりとしていた。

    

坂の上の方に造られていた開明学校。幕末から明治の初めの頃では、このような学校の創設は珍しいことであったのかもしれない。往時のここで学ぶ人たちの心意気が伝わってくるように感じた。

15時近くに西予市役所の駐車場を出発して、ナビのガイドで一路八幡浜の港近くに出来たという道の駅に向かう。思ったよりも良い道で、距離も短くて、20分ほどで着いてしまった。港のフェリー乗り場に隣接して、魚などを扱う店や食べ物店などがきれいにレイアウトされて並んでいた。早速魚屋さんの並ぶ所へ行ってみたのだが、残念ながらこの時間帯では既に商売は終ってしまっていた。明日に期待することにした。その後は、今日までの旅の反省などをしながら、夜を迎える。

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