山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

時々「近況報告」:放射線治療始まる

2021-10-09 04:00:57 | 宵宵妄話

昨年末に前立腺癌を宣告されて以来、その後の治療計画では、まずは9カ月ほど癌細胞の増殖を抑える薬を継続服用した後、放射線治療により完治を目指すということになっていた。1月から9月までの間は、所定の薬剤を毎日1錠服用したほか、何カ月に1回か腹に注射も打たれた。これでPSA値はかなり低下したようだった。

9月の半ばになっていよいよ放射線治療に入るということで、つくば市の病院に通うことになった。担当医の話では、計28回の照射が予定されているという。9月の16日に少しの不安を感じながら行ったのだが、直ぐにでも照射が始まるのかと思ったら、とんでもない話で、準備をするとかで、開始までに1週間ほど時間がかかった。どうしてそんなに時間がかかるのかなと思ったら、前立腺という器官は固定されてはおらず、他の臓器の影響を受けて移動するというものらしく、ターゲットを定める為に、基準となるポジションを決めるために、直腸と膀胱をコントロールする必要があるということで、直腸は照射を受ける前にガスを含めて空っぽにしておくこと、それと膀胱は照射時には一定量の膨らみが必要であるらしく、これらの状態を決める為照射の1時間ほど前に決められた量の水を飲むことが必要という話だった。膀胱の方は大して難しくもないのだが、直腸の方となると、これは前日等に食べたものを消化して出さなければならないことになるので、簡単にはゆかない。

何しろ腸というのは頭脳からの指令とは別の独自の指令系統を持っていると聞くので、幾ら頭で考えて頑張っても出ないモノは出ないのである。

それまで自分には自分なりの食べ方と出し方があって、便秘など皆無で順調にやって来たのだが、それは食べるのはある程度時間が決まっているけど、出す方は腸の機嫌次第で、時間など決めないことにしていたのである。毎日決まった時間に出そうとすると、却って便秘になったり痔になったりして苦労するという経験を何度もしており、ある時からこの固定化された出す時間を壊して、腸の思うままに任せることにしたのである。勿論偏らない食べ方は不可欠なのだが、そのような考えで出し方を考えるようになってからは、出口のトラブルは皆無となったのである。

ところが、この放射線治療を受ける為には、毎回(=毎日)決まった時間に直腸を空っぽにしておかなければならないことになり、今までの考えを改めなければならないことになってしまったのである

本当は腸のご機嫌に合わせて照射をして貰うようにすれば良いのだけど、そのようなぜいたくな振舞いができるはずもない。毎日決まった時間に出せなどということを、果たして腸が聞き入れてくれるのかどうか、この準備期間の中で不安が膨らんだ。説明を聞いた翌日の朝、どうなるかと心配していたら案の定、腸は言うことを聞いてくれなかった。今日一日だけでもこうなのだから、これから毎日となるとこれはかなりの難事だなと思った。貰った資料によるとどうやら下剤を服用するのが行われているらしい。排泄日誌というのを記録することが課せられており、そこにどのような薬(下剤)を飲んだか記入する欄があり、これは何なのだろうと思っていたら、薬の力で腸に言うことを聞かせてしまうということなのだ。

このやり方は承服できないなと思った。自分は長年の経験から腸と仲良くやってゆく方法をようやく見出し、薬など無用で安定して出口の管理が保てるようになったのである。薬など無用でやってゆきたいのだ。そう強く思った。

準備期間中に偶々休日が続いて、4日ほど通院がなかったので、この間に何とか腸に言うことを聞いて貰えるようあれこれ考えて試してみた。そこで思いついたのは、これはやはり出口の問題ではなく、根本は入口の方、つまり何をどう食べれば出すのがスムースになるかということなのだと。今までと同じ様な食事や飲み方をしていただけでは、それに慣れている腸は出すタイミングを簡単には変更してはくれないだろうと、そう思ったのだ。今までの食事では、毎日ビールやハイボールなど炭酸類を多飲しているし、ジャガイモを初めイモ類など繊維は多いけどガスを発生させ易い食物が好きなのである。あれこれ考えた結果、とにかく野菜中心の食事にして、それらをナマではなく煮て食するスタイルにしようと思ったキャベツ、たまねぎ、人参、などの青物野菜を中心に、コンニャク、キノコ、海藻類、それらをごった煮(形振り構わず食材を一緒くたにして煮る調理)にして食べることにした。元々自分は戦後の飢えの時代を潜って来ているので、食べ物に対して美味いとかまずいとかのこだわりは殆どなく、何を食べても美味いと思っているので、このような野菜のごった煮などには何の抵抗もなく、むしろ好みなのである。家内に適当に味付けをして貰ったのだが、これがなかなかの美味なのである。酒類は、ビールや炭酸飲料は一切やめて、水割りやお湯割りに切り替えた。酒は自分の生命の源なので止める考えは一切ない。

 ま、そのようなことで準備期間の通院が休みの間、いろいろ試行してみた。最初はなかなか言うことを聞いてくれなかったが、4日目辺りから、少し手ごたえを感ずるようになった。食のスタイルを変えるということは、老人にはつらい部分もあるのだろうけど、自分は、却って興味津々の好奇心もあり、何処かに楽しむ気分があるのである。今まで食べたこともない野菜のごった煮も面白いなと思いながら食べているうちに、腸の方も多少気に入ってくれたらしく、少しずつ言うことを聞いてくれる感じがするようになったのである。

 そして、今月に入ってから、いよいよ放射線治療の本番が始まった。今日(8日)で10回目が済んだ。あと18回が残っている計算になるが、この先スムースに行くかどうかは判らない。2週間目の頃副作用が出ることがあるという話だが、来週以降の話だ。あまり悲観的には考えないことにしている。もはや傘寿だし、死ぬ覚悟は決まっている。

 放射線治療そのものは、どうってことはない。ただ装置機器の台の上に仰向けに身を横たえ、腹を出してじっと動かず10分間ほど我慢するだけで、放射線を見ることも感ずることもない。頭で考えても身体は何も感じていない。これで本当に癌細胞が消えてくれるのだろうか。そんなことを時々思いながら、禅の呼吸を15回ほど終えると、「はい、終了です」と技師の方から声がかかり、起き上がってお礼を言って帰る毎日である。

 この治療で最も重要なことは、放射線を浴びることではなく、毎日腸の機嫌をとって、如何に順調に出口の管理をするかということ。今のところそう思って治療を続けている。恵まれているなと思い、医療の進歩に感謝している。切腹もせず、毎日10分ほど寝るだけで、トラブルが解決するというのは何ともラッキーな病との遭遇だなと感謝している。けれども決して油断はせず、しっかりと対処してゆきたい。卒寿までくるま旅を実現したいというのが、この病に対峙するに当っての決心である。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時々「近況報告」:62年という時間

2021-10-01 04:12:01 | 宵宵妄話

9月は、コロナ禍の中、閉ざされた世界の中で、窮屈な日々を送ったのだが、自分だけは結構忙しく楽しい日々を送った。そのことをホンの少し書いてみたい。

自分は高校を卒業してから、早や62年が経っている。往時18歳だった少年は、今は80歳の老爺となっている。誰でも生きてさえいれば、そうなっているのは当たり前のことに過ぎない。

ところが我々が少し当り前ではないのは、高校卒業時の我がクラスは、それから今までの62年間、今回のコロナ禍で2回の集まりを失った以外は、毎年新年時にクラス会を欠かしたことがないのである。このような事は広い世間には稀にはある事かも知れない。しかし、我々のクラスが少しばかり違うのは、新年会ばかりではなく、経年の節目に文集を発行していることがある。第1号は、勿論卒業時であり、それから30年経った年に往時のクラス担任だった先生からその第1号の復刻版が送られて来たのである。多くの仲間はそのようなことを忘れていたのだったが、これを機に先生の求心力発揮は強固なものとなり、それまで有志だけだった新年会の集まりは、俄然目覚めたように多くの参加者の特別の集まりとなった。それ以降恩師を囲んで毎年20名近くが出席するようになった。そればかりでなく、時々卒業時の文集に続いて、記念文集を発行するようになった。今まで7号まで発行しており、恩師が亡くなられた後でも集まりは絶えず続いており、今回は傘寿を記念してもう一度文集を作ろうということになったのである。第8号なのだが、年齢を考えると、恐らくこれが最後の文集となるに違いない。

それで、その発行を任せられたのが自分なのである。この企画は一昨年前の新年会の集まりの際に誰かが言い出し、少なからずの賛同があり、その実務作業が自分に回って来たという次第。それから何度も原稿提出の催促をして、2年がかりでようやく発行が可能な分量となり、先月末の最終締め切りを経てこれからその製作作業に取り掛かることになっているのである。

文集を作ることなどさほど難しいことではない。作業は多少面倒くさい嫌いはあるけど、何が難しいといって、原稿を集めることほど難しいことはない。原稿が集まらなければ、発行は不可能なのだ。傘寿という歳回りでは、普段ものを書くということなど殆どないであろうから、使命感は覚えていても、いざとなると苦痛を覚えるほどのものであろう。それを乗り越えて、ようやく十数編が集まった。当初は集まらない原稿に文句や恨みをぶつける心境だったが、2年の間にようやく発行が可能となって来ると、心境が変わり、よくぞ出してくれたと、感謝の気持ちとなるのは不思議だ。

さて、そのようなことでこれから少しばかり発行作業で忙しくなるのだが、実はコロナ禍の下、なかなか原稿が届かないのを待ちわびて退屈なので、ヒマつぶしを兼ねて思いついたことがあり、それが第1号の復刻版を作るということだったのである。というのは、30年前に恩師から送られて来た第1号の卒業記念文集の復刻版は、ガリ版の手書きで用紙もわら半紙だったため、改めて読んでみると紙は劣化し、印刷も所々掠れて判別できない箇所がかなりあったのである。どうせヒマなのだから、第8号を作る前にこの第1号のリライト版を作成して、2冊合わせて皆に送りつけてやろうと考えたのである。

それで、9月に入ってその作業に取り掛かり、10日ほどで完成させた。この間、第1号を改めて精読することになり、ほぼ全員の作文が載っているそれを読みながら、格別な楽しい思いを味わったのだった。80歳の老人が62年前のあの頃を思い出して、にやにや笑っている姿は、少し不気味なのかもしれない。とにかく10日程の間は、書斎に籠って二ヤケ顔を続けていたのだから、知らない人が見れば、頭がおかしくなったのではと見るに違いない。

それまでは、62年前の若者たちが何を考えて卒業を迎えようとしていたのかなど考えても見なかった。卒業時のその頃も、殆ど皆の作文など本気で読んではいなかったと思う。それがはっきり自覚できるほど新鮮な感じで皆の作文を読んだのだった。現在どうなっているかを知っているメンバーも多いので、それを思うと、これはもう二ヤケ顔となるのは当然なのである。いやぁ、楽しかった。62年生きて来ていて良かったなとしみじみ思ったのだった。

出来上がったリライト版は、第8号の完成を待って机の脇に積まれている。これと2冊を送りつけたら、(送るのではなく、送りつけるというお仕着せがましい心がある)皆はさぞかし驚くのではないか。改めて62年前に思いを寄せ、現在との落差に何かしらの感興を覚えるのではないか。そう思うと、発行作業の面倒くささなど吹き飛んでしまう。独り占めの味わいだった。とにかく今月中には、第8号を作り上げ、皆に送り届けようと考えている現在である。コロナの感染もようやく下火になりだす兆候が見えて来たようだ。来年は新年会が可能だろうか?今は、それを心待ちしている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする