山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第17回>

2018-06-11 05:52:11 | くるま旅くらしの話

【今日(6/11)の予定】 

道の駅:マオイの丘公園 →(R274・R234・D)→ 夕張市石炭博物館 →(D・R234・R274・R337)→ キウス周堤墓遺跡 →(R337)→ 道の駅:サーモンパーク千歳 →(R36)→ 道の駅:ウトナイ湖(泊)

 

【昨日(6/10)のレポート】 天気:晴れ雲多し

<行程>

道の駅:マオイの丘公園 →(D・R234)→ 由仁町郷土資料館 →(R234他)→ 栗山町郷土資料館・泉記念館 →(R234・D・R337他)→ 恵庭市郷土資料館 →(D他)→ 道の駅:花ロードえにわ →(R36他)→ 北広島市郊外知人宅訪問 →(R36・R337・R275)→ 道の駅:マオイの丘公園(泊)

<レポート>

 昨夜は寒くて夜中に毛布を1枚足して眠ったりした。この調子の日が続くと、体調を壊しかねない。要注意である。でも朝外に出て見ると青空が広がっており、これならば暖かさも戻って来るだろうと少し楽観の気持ちとなった。いつもと同じようにパンとチーズ、それにレタスとインスタントのスープを一杯食して、コーヒーを飲んで朝食を済ませる。これで大体5~6単位(=400~480cal)となる。今回は4カ月間医者には行けないので、自己管理でいい数値を維持しなければならない。それで毎食のカロリーを記録するようにしている。歩く時間が少なくなって、運動量も減るので、特に食事には気をつけなければならない。糖尿病患者は気を使うのである。

 さて、朝食が済んで一休みの後、今日の当初の予定を変更し、近くの由仁町とその隣の栗山町の郷土資料館を訪ねることにした。というのも、明日は殆どの郷土館の類の施設は休みとなるので、今日の内に開館している場所を調べたら、そういう結果となった次第。

 ということで、先ずは由仁町の資料館「ゆめっく」に向かって出発する。15分ほどで到着して、中に入ると、巨大なマンモスとオオツノジカの像が迎えてくれた。マンモスはまるで生きているかのごとくよく出来ており、迫力があった。この町のどこかの遺跡から歯や骨などが出土したらしい。この町にはかなり古い時代の遺跡が幾つもあり、現在も調査が継続しているらしい。今回の旅はそれほど古い時代ではなく開拓の歴史が中心なので、ざっと見て参考にすることにした。開拓の方は、明治20年代入ってから本格化したようで、当初は高知藩の人たちが入植したようだったが、間もなく開拓使がおかれて今までの藩制は無くなって彼らは返上を強いられて、その後は官主導で山口県の方からの入植者によって開拓が進められていったとか。図書館に併設されており、関係者の方から若干資料を頂戴してそのようなことが判った。いい勉強になった。古代のことは次に来た時のテーマとなっているかもしれないので、その時は再訪してしっかり学びたいと思った。

 次は引き続いて隣の栗山町の郷土資料館へ。10分もかからずに到着する。ここは泉記念館という名称も併記されており、隣接して古民家のようなものが併設されていた。本館の方に入ると、栗山町の歴史の説明とそれに係わる展示物が丁寧に並べられていた。又、古代の土器なども出土しているようだったし、ナウマン象などの歯の化石なども出土していたようだった。この町の発展には、なんと言っても宮城県角田藩出身の泉麟太郎という方の功績が絶大で、明治21年にこの方が中心となって、夕張開墾起業組合を設立し、角田藩の同士20数名とこの地へ入植して開拓を始められたということだった。この方は昭和の時代まで存命されて、この間町のリーダーとして発展に尽くされたとか。併設の記念家屋はその功績をたたえてのシンボルとなっているようだった。多くを学んだ気がした。

 栗山町の後は、少し離れた恵庭市の郷土資料館を訪ねる。矢継ぎ早の訪問なのだが、何しろ明日は殆どが休館なので、今日の内に見ておこうという気持ちが急がせているのである。本当はもう一つとなりの北広島市の郷土資料館も訪ねたかったのだが、こちらは日曜日も休館となっているので、諦めた次第。恵庭市の郷土資料館は、とても立派な施設だった。この辺りは開拓には格好の場所だったようで、明治3年には高知藩から70名ほどの入植者があったということだった。しかし、明治4年に開拓使が置かれると、高知藩の支配は取り上げられ返上されて官であるかいちゃ串に開発が委ねられることとなったとのこと。それ以降は山口県からの入植者を中心に開拓が進められてきたということである。どのような経緯があったのかは解らないけど、この地では島松軟石という石材が採れ、又、材木の伐り出しのための鉄道も敷設されたということだから、開拓の先進地区の一つであったのかもしれない。今は、札幌経済圏の中の一都市として、もはや大都市圏の一角を形成している感じがする。又、開発に伴う古代遺跡なども発見されており、現在も継続して研究が進められているようである。

 その後は、近くにある道の駅:花ロードえにわに行き、昼食休憩とする。この道の駅には新鮮な野菜類や花卉類などの産物が溢れて陳列販売されており、秋になるといつもここでジャガイモを入手するために、旅の帰りに立ち寄ることにしている。まだジャガイモ君は芽を出し葉を広げ始めたばかりだが、雪の中で越冬して甘みを増したという昨年のジャガイモが売られていたので、それを手に入れた。とにかくジャガイモ大好き人間なのである。14時半頃まで休憩する。

 その後は、15時にお邪魔させて頂くと約束をしている北広島市の大切な知人の垂水さんの別荘に向かって出発する。10kmも離れていない至近距離にあり、直ぐに着くと思ったのだが、この4年間の間に新しい道路や建物が造られており、少し迷って約束ギリギリの到着となってしまった。少し風が強まり出していて、外はかなり冷え込みがきつくなり出していた。直ぐに垂水さんが迎えて下さった。奥様にも是非会いたいというこれは邦子どのの願いだったが、奥様は膝の人工関節の手術をされた後の経過が優れない部分があって、未だリハビリ中で歩行に難儀されておられるとのこと。ご主人もこのところ体調のトラブルに見舞われて苦労なさっているとお聞きした。そんな中わざわざ迎えて頂き、真に申し訳なくも嬉しくありがたいと思った。

 垂水別荘(と自分たちはそう呼ばせて頂いている)は垂水さんが仲間の方体と一緒に手づくりで作られた2階建の立派な建物である。垂水さんとその仲間の方たちはここを小屋と呼ばれておられるようだが、とても小屋とは思えないログハウスにも引けを取らない手づくりの建物なのだった。その2階へご案内頂き、それから気がつけば18時半過ぎまで、楽しい歓談の時間となった。17時頃には辞すつもりでそうお話していたのだが、それをすっかり忘れてしまっていたのだった。というのも、話の楽しさだけではなく、奥様手づくりの総菜や垂水さんが自らお作りになった餅などたくさんのご馳走が並んで、話を膨らませてくれたりしたので、すっかり居心地が良くなってしまい、そうなると時間の過ぎるのを忘れることになるのである。

 垂水さんは、オホーツク海側のご出身で、今年150年を迎える北海道の名付け親と呼ばれている松浦武四郎が、その昔ご自分の出身地近くの常呂・紋別辺りの探検に訪れて、近所で1泊したという、その場所がどこだったのかを訪ねていろいろと調べられているとのことだった。しかし、残念ながら未だその場所を確定しておらず、難しいと話されていた。自分も当初今年の旅を松浦武四郎の辿った足跡をなぞりたいなどと考えていたのだが、そのあまりにも多大な行動範囲を知って、とても無理なことと思い知らされて、開拓の歴史の探訪に切り替えたのだった。

 人間という生き物には、心がバイブレートする存在の人が必ずどこかに存在するものである。決して数は多くないのだが、その人といると、大してことばも発しないのに、何故か心が通い合うのである。自分には5人ほどのそのような友人・知人がいる。垂水さんもそのお一人だと思っている。話をほんの少しするだけなのだが、楽しいのだ。尤も今日などは邦子どのが隙間なくことばを発するので、少しそれをもてあまし気味だったが、これはいつものことなので仕方がない。すっかり大ご馳走をに与かって暗くなり始める寸前に別荘を辞すこととなった。垂水さん、そして奥様、心からのおもてなし、お心遣いを頂き本当にありがとうございました。

 その後は、今夜も道の駅:マオイの丘公園に泊ることにして、着いたのは、19時を少しすきた頃だった。今夜の泊りの車は休日の終わりとあってか、昨日よりはかなり数が少なくなっているようだった。寒さは依然抜けて行かないようで、何だか冬に戻ったような感じだ。明日は晴れて暖かくなって欲しいものだと思いながら眠りに就く。

コメント
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