山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

マルベリー街道を独り占め

2022-05-29 04:20:49 | 宵宵妄話

 街道を独り占めするなんて、馬鹿な話だなと思われるに違いありません。でもこの傘寿を過ぎた老人には、そのように言わずにはいられない気持が膨らむのです。

 マルベリーというのは、桑の実のことです。この街道というのは、道の両側に桑の木が並んで生えている場所があり、それらの木々には、今まさに溢れんばかりの桑の実が熟れて連なっているのです。その豊かな稔りに気づいている人は誰もおらず、この老人だけが独り只管(ひたすら)にその実を摘んで口に入れ、有卦に入っているというわけなのです。

 利根川右岸堤防下の河川敷にあるマルベリー街道。写真左がメインの桑の木の連なり。右は点在という感じ。

鈴なりの桑の実と下はその一粒を拡大。

 

桑の実を摘み飽いて少年の日の夢叶う  馬骨

 

その昔、工業都市の日立市内で生まれた私は、太平洋戦争が拡大して住むのが危うくなり出したのを不安視した両親は、疎開を余儀なくされ、母の実家や祖母の実家にお世話になることになりました。その後終戦を迎え、仕事も住み家も失った両親は、往時戦争で暮らしを失った人たちを対象とする開拓地入植の募集があり、母の実家近くにあった村のその地に応募し、入植を決意しました。それが現在は常陸大宮市鷹巣という場所でした。そこは当初は軍隊が食料生産の一助として開拓し始めていたらしく,畑は未完で、大木の切り株が点在する灌木や雑草が生い茂る坂の多い荒れ地でした。そこに戦争で焼け出された20世帯ほどの人たちが各地から入植していて、それぞれが与えられた自分の土地を鍬と鎌などを持って開墾に取り組みました。牛馬も機械の力も借りることは叶わず、まさに自身の人力だけに頼る開墾の連日でした。当初の収穫と言えば、わずかにやせたサツマイモ程度のものだけでした。まだ小学校入学前だった自分には、父母の苦労はよく解りませんでしたが、それでも掘立小屋で、床には筵(むしろ)の畳、囲炉裏近くの出入り口も垂れ下がった筵一枚という、恰も縄文時代の竪穴住居のような家での暮らしの中では、子供心に父母の苦労を否応なしに理解しなければならず、わがままや贅沢は許されないと感じていました。

 

その入植地に住んで間もなく、小学校に入学することになったのですが、開拓地の村の小学校は、子供の足では通学に無理があったので、少し近かった隣村の学校に通うことになりました。片道4キロほどの道のりは、今では車で5分もかからないのですが、往時の国道に出るまでは細い山道を2キロ以上も歩き、更に砂利の国道を2キロほど歩いての通学は、慣れるまでに時間を要したように記憶しています。 この辺りの暮らしの状況を記せば切りが無いのですが、本題の桑の実のことを話したいと思います。

往時は、開拓地の自分たちの集落には、食べられる実のなる木は一本もありませんでした。子供なのでどれが何の木なのか知るすべもなかったのですが、学校へ通う途中で少し寄り道をした時に、熟した実のついた一本の木があるのに気づきました。小学校3年の頃だったでしょうか。当時は現在では到底考えられないほど食料事情は厳しく、小さな子どもでも本能的に木の実など食べられそうなものは、口に入れてみるのが当たり前なのでした。『これは何だろう?食べられるのかな?』と訝しく思いながらも、その熟れた黒い毛虫のような形の実を、恐る恐る口に入れてみました。「甘くてうまい!」と思いました。思わず手が動いて、更に3~4個を口の中に入れました。しかし、その木のある場所は、畑の脇だったので、これは勝手に食べてはいけないものではないかと気づきました。熟れた実はそれほど多くなかったので、それで諦めることにしました。そのようなことがあってしばらくの後、それが桑の木であることを知りました。その頃の村には既にカイコを飼う農家はなくなっていた様で、その名残の桑の木が畑の脇の道端にあったということなのでしょう。

その後桑の実が稔る季節になると、時々そこへ行って摘むのを楽しみにしていました。しかし、知らない農家のものなので、遠慮する気持ちが強くて、勝手気ままにそれを口に入れることはできませんでした。そして成長するにつれて、そのような桑の実のことは忘れてしまいました。

そのような貧しい暮らしの中での木の実との出会いは、忘れはしても、その木に出会えば、直ちに思い出し、その昔に帰れるものなのだと知りました。その後就職をして東京に出て、現役をリタイアするまでの40数年間、仕事で全国の様々な土地を訪ねたり住んだりしましたが、同じ季節にその木に出会うと、そこがどんな土地であろうと、手を出して桑の実を摘み口に入れて懐かしい子どもの頃のその思い出に浸ったものでした。

 

恐らくここが我が人生の最終棲息地(?)となるであろう守谷市に住んでから早や20年近くになり、齢も傘寿を過ぎてしまいました。健康保持の一環として毎日10kmほど歩くのを日課にしているのですが、3年ほど前の春の終わりの季節に利根川の堤防を行くコースを歩いている時に、常磐高速道守谷SAの傍の側道脇に数本の桑の木があるのを見つけました。その木の下には実が落ちて黒ずんだ浸みがあるので、それが桑の木であることが直ぐに判るのです。早速摘んで口に入れてその懐かしい味をしばらく賞味したのですが、どの木にもかなりの熟れた実がついていているので、そうだ!これらを摘んでジャムを作ろうと考えました。家に戻りボウルと笊を抱えて引き返し、それから大きなボウル一杯の実を摘み集めました。それを家に持ち帰り、実を洗って先端の茎をとってからジャム作りに取り掛かりました。半日ほどかかって、小ぶりの瓶に5個ほどのジャムが完成しました。それらのジャムは、家で食べたり、知人に配ったりして直ぐに無くなりました。まずまずの成果だったといえるでしょう。

 

さて、その後なのですが、昨年、高速道脇の桑の木たちから少し離れたその先にある利根川の河川敷の未舗装道路脇に、3km以上に渡って桑の木が並んでいるのを見つけました。何故ここにこれほどたくさんの桑の木があるのかは判りませんが、恐らくその昔の桑畑の残りの木がその後自然に増えていったのではないかと思いました。何しろものすごい数の桑の木の連なりで採れる実の量も以前の時とは比較にならないほど多いのです。その時もまた又その気になってジャム作りに挑戦しました。あまりに多いので、茎をとるのが面倒で、そのままジャムにすることにしました。以前より少し大きめの瓶を含めて数個が完成しました。さてその消費なのですが、コロナで旅に出かけられないため、貰ってくれそうな知人を訪ねることもできず、我が家では食べる人もいなくて、3年を過ぎた今でも冷凍庫の中に多量の瓶が眠っており、場所を占有していて邪魔だと、家内からは苦情が出ることしきりなのです。

 

さて、今年のことです。いつものように5月の半ば過ぎて、そろそろ実が熟し始めるころだと、利根川の河川敷のそこを訪ねました。あるある、木々たちは以前と少しも変わらず、青々とした葉陰に実をびっしりつけて待つてくれていました。改めて見てみると、河川敷の中の道路は4kmほど続いていて、その両側(一方は少ない)に延々と桑の木が並んでいるのです。木によって差はあるものの、多くの木には黒く熟れた実が触れなば落ちんといった風についているのでした。早速その一個を口に入れると、たちまち70年ほど前のあのときの味わいが甦って来ました。立て続けに摘んで口に入れていると、たちまち指先は紫色に染まり口の中もその色に染まりました。

今年はジャム作りは止めようと思いました。作る楽しみや喜びだけでは,作り甲斐がありません。作れば作るだけ顰蹙(ひんしゅく)を買うだけのことなのですから、今年は余計なことを考えるのは止めて、じっくりと味わいながら、一本一本の木に成っている実を選んで、少年のあの頃に果たせなかった夢を叶えることにしょうと思いました。

実を摘み、口に入れている人など全くいません。それどころかここが桑の実街道であることに気づいている人も皆無なのです。自分一人が街道の桑の実を独り占めにしているという満足感は、少年の頃の環境とは全く変わってしまっている現在では、何だか哀しみを伴って来るのを感じ始めました。

既にずいぶん前からカイコを飼うという暮らしは農村から消え果て、大切な飼料だった桑の葉も不要となり、放置しておかれた桑の木は自力で勢力拡大に努め、それがこの場所では人知れずマルベリー街道を作っているのです。70年前では想像もできない景色なのではないか。そう思いました。人間の都合で蔑ろにされた自然は、むしろそのことによって本来の自然を取り戻しているのかもしれない。豊かに実をつけた桑の木たちは、その昔の葉を食べられて碌に実もつけられなかった時のことを思って、現在を楽しんでいるのかもしれないなと思ったりしました。それにしてもあの貧しい飢えに満ちた時代から70年もが経って、この地にこのような豊かな夢の天国があるとは!満足はしながらも少し複雑な気持ちで今年の桑の実を味わったのでした。

どの桑の木も豊かな実をつけて輝いていた。

 

コメント
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