山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

新しいくるま旅向けの築港を期待する(2)

2007-09-30 09:14:55 | くるま旅くらしの話

前回投稿からの続きです

このような実態を見ていて、何故MHPのニーズを考えないのだろうかという疑問を持つようになったのである。上記の5つの条件の内殆どのキャンプ場が②給排水設備、③トイレ施設、⑤ゴミ処理施設は具備しているように思う。残りの①駐車スペースの確保と④個別電源設備の確保さえすれば、MHPは出来上がるのではないか。そしてそれは莫大な費用の再投資を必要とはしないのではないか、と思ったのである。MHPを新規に造るとなれば、かなりの初期投資額となるであろうが、既存のキャンプ場を改造するのであれば、必要な費用を抑えることが可能ではないか。実際のことはしっかり計算してみないと判らないけど、年間を通して僅かしか利用されないオートキャンプ場を抱えてそのままにして置くよりも、MHPを用意することによってより多くの来訪者を獲得することの方が、経営上も或いは地域の活性化を図る上でも有利になるに違いないと思ったのである。

MHPを、年金くるま旅を目指す者のエゴイズムから願っている部分は、全く無いとは言えないかもしれないけど、年金くらしの高齢化世代であっても、地域の活性化に貢献できること、或いは貢献できる人は多く存在すると私は思っている。地域の方はもし本当に交流を望んでおられるのなら、MHPの利用者にどしどし注文をされればいいと思う。双方が黙っていて何のコミュニケーションもとらないのであれば、誤解や不理解はそのまま持続するだけである。

MHPを道の駅にも設けて欲しいという願いは、少し厚かましいかも知れない。しかし無料で夜間にエンジンかけっぱなしのトラックやゴミ処理など我関せずと簡単な分別も無視してゴミ箱の無い所にもゴミを置き去りにしていくような利用者対策に追われるよりも、真面目に質素な旅を楽しむ者のために、有料だけど模範的な利用を期待できるMHPを併設しても、国や市町村は世間から批判されることにはならないのではないか。

いずれの取り組みにおいても、実現に至るまでにはたくさんの課題が山積していると思うが、私の当面目標とする80歳までには、幾つかのMHPが出現することを願っている。シンポジウムでどなたかが、くるま旅の文化をつくってゆく必要があると述べられたが、それはMHPのようなものの出現なしには難しいように思っている。旅の宿というのは旅の活力をつくり出す源なのであり、これに不安を抱いている間は、本当の文化と呼べるものは生まれてこないように思うのである。

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新しいくるま旅向けの築港を期待する(1)

2007-09-30 09:14:29 | くるま旅くらしの話

珍しく雨降りの時間が長くなって、今朝も泣き出しそうな空模様である。秋霖雨という奴なのかも知れない。つい先日までの暑さがウソのようだ。北海道はもう直ぐそばまで冬が迫っていて、朝夕寒さに脅されていると、未だ旅から戻らない知人のブログを見て、チョッピリ羨ましくなったりしている。

昨日のブログが300人を超す方の目に留まったのを知り、驚いている。連日堅い話ばかりを書いているので、それほど読んで頂けるとは思っていなかった。やはりくるま旅への関心をお持ちの方は多いのではないかと、改めて思った次第である。そして、今日は休んではいけないのかも知れないと思い、再度先日シンポジウムでも提案したモーターホームポート(=MHP)のことについて述べて見たい。

最初に同じことの繰り返しとなるが、MHPの概要を説明したい。くるま旅の宿(=停泊地)の要件として、次のようなものが必要と考える。

①駐車スペース(幅4m×長さ7mくらいが標準か オーニング使用可)

②給排水設備(共同使用・簡易炊事場があればベター)

③トイレ施設(共同使用)

④電源設備(コイン式有料)

⑤ゴミ処理施設(有料) 

この他にも入浴施設、簡易売店、のようなものが備わっておれば更にありがたいことだと思う。

発想を変えれば、斬新なくるま旅用の施設は幾らでも造ることが出来ると思うが、最大のポイントは、このMHPのユーザーが1夜に幾らまでの支払い可能判断力を示すかということであろう。過剰設備を設けてユーザーを誘うのは逆効果となるに違いない。予想されるユーザーの大半は、年金暮らしの質素な旅くらしをしたいと考えている人が殆どだからである。1週間を超えるようなくるま旅は、現役の世代では無理と考えるのが普通だと思う。そして本当にリッチな高齢者は、車などに頼った旅など決してしないのではないか。となれば、支払い判断力の基準は恐らく現状では千円を超えないのではないかと私は思っている。

実際、北海道には1泊千五百円~2千円で泊れるオートサイトを持つキャンプ場が幾つもあるけど、くるま旅の9割以上の人は1200円程度で済むフリーサイトを利用している。立派な格安の施設があるのに、混み合うフリーサイトにざわめく人たちを見れば、何だ、この連中は!と思う人は多いのかもしれない。しかしそこにうごめく人の大半は、オートサイトに行きたくないのではなく、先々のことを考えて二の足を踏んでいるのである。フリーサイトとオートサイトの差は、オートサイトに電源と個別の水道がありトイレや炊事場も別棟になっているというだけで、その他はフリーサイトとあまり変わらない。だとすれば、電源の不安は抱えていても日中に走って充電しておけば、1200円で我慢した方が助かるし、仲間意識も大勢の中にいた方が確実なものとなると考えるのは、庶民の普通の感覚ではないだろうか。

日本人は、特に団塊の世代などといわれて、戦争の二次的影響を受けながら経済競争を生き抜いてきた人たちには、くらしの豊かさを味わう余裕など殆ど無かったに違いない。そしてそのくらしの習いは、くるま旅の中でも変わっていないように思う。旅車は思い切って手に入れたけど、リッチな暮らしまで同時に手に入れたわけでもなく、せめて心の世界の中ではリッチな旅をしたいと願っているに違いないと私は思っている。

その様な現実・実態を見ながら、自分自身もその中に身を置いて思うようになったのが、MHPのことなのだ。特に北海道や東北の旅で気づくのは、都市部と農漁村部の圧倒的な差だ。都市部の外観は大都市のそれと殆ど変わっていない。しかし農漁村のそれは一塊(ひとかたまり)の居住エリア(例えば町役場等があるエリア)を除けば人影を探すのは難しい。自由経済競争原理がこのような都市への集中化現象をもたらしていることは明らかだが、それを徒に批判しても始まらない。地方が活性化を渇望し、交流なるものを熱望していることは、例えば北海道を旅しているとどのような町村を訪れても必ず「交流」とか「ふれあい」と名の付く立派な建物や公園施設などが存在することでわかるのである。

その様な状況の中で、所々に立派なオートキャンプサイトを備えたキャンプ場が点在している。ある町に、出来立てのピカピカのオートキャンプ場があったので寄ってみたのだが、料金案内を見ると14000円とある。東京近郊ならば超安値のオートキャンプ場となるのであろうが、その立派な施設に泊っているキャンピングカーやワンボックス車は1台も無い。その日は平日だったから休日になれば何台かの愛好者がやって来るのだろうとは思ったが、果たして大丈夫なのだろうか。もしかしたら、年間の利用者は500台にも満たないのではないか。多分、その理由は設備に問題があるのではなく、利用料に問題があるに違いない。オートキャンプ場が利用者で埋まるのは、限られたエリアの限られた期間(例えばお盆など)に過ぎない。殆どはガラガラなのだ。

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年金くるま旅くらしに思う

2007-09-29 11:30:40 | くるま旅くらしの話

くるま旅くらしの提唱を始めたいと考えた当初は、「年金旅くらし」と名づけることを考えていました。この頃になって、やっぱりこのような呼び方の方が、リタイア後のくるま旅を論ずるには相応しいような気がしてきています。

というのも、一昨日のシンポジウム(JRVA主催の「よりよきくるま旅を目指して」)に参加して、くるま旅というものが、リタイア後の世代にとっては、キャンプ場めぐりをするようなものでは決してないということが、まだまだ世間の人には理解して貰えないのだということを感じたからです。

年金問題が今世上を賑わしていますが、既に年金暮らしに入っている者にとっては、現役の人たち以上に不安を抱かされる問題です。年金暮らしというのは、それ以外に大した収入源や蓄えを持たない普通人にとっては、いつでもどん底生活に入ってゆかざるを得ない危険性を孕んでいます。斯く言う私自身もその一人であることをしっかり自認しています。

それにも拘らず何故くるま旅のために大枚をはたいて旅車を買い、旅くらしをしたいと考えるのでしょうか。そのような決断というか思い切りを、多くの世間の人たちは贅沢というコンセプトで捉えているようです。派手なキャンピングカーなどをひけらかして旅などに出掛けるのは贅沢以外の何ものでもないと、「いいねえ!うらやましいねえ、」ということばの裏の、腹の底で思っている人が多いのではないかと思うのです。兄弟姉妹は勿論、もしかしたら我が子でさえもそう思っているのかもしれません。贅沢に対して同情するほど世の中は甘くはないことは重々承知しています。

しかし、私はくるま旅くらしというのは、決して贅沢ではないと思っています。だから少しは同情(=同じ心情になってその真実を理解すること)して欲しいと思っています。それは何故かといいますと、私の考えるくるま旅くらしというのは年金をベースとした質素で健康的な生き方なのだと考えるからです。一般的な旅のコンセプトには入らない旅のスタイルであり、くらしのスタイルなのです。その実態に贅沢などの入り込む余地はないように思います。確かに旅車だけは贅沢に見えるかもしれませんが、これがなければそもそもくるま旅くらしは生まれることも、成り立つことも無いのですから、ナンセンスな話となってしまいます。

何故それほど旅にこだわるのか?それは簡単です。老人というか、高齢化というのかその世代になっても、旅には残された人生を生きるための夢と希望が一杯詰まった時間と空間が用意されているからです。勿論旅に出なくてもそれは可能ですが、よほどに何か目指せるものを見つけていないと、未来よりも過去に浸る傾向が強くなってしまうのが普通人なのではないかと私は考えます。毎日昨日と同じ様なくらしの連続は、何時しか明日への夢を朧(おぼろ)にし、心と身体の倦怠はその浄化を置き去りにして、病の世界へと誘うようになるのではないか。少なくともいわゆる老後といわれる高齢化世代の医療への係わりはその様な暮らしぶりに端を発していることが多いように思うのです。

よりアクティブな生き方が実現できていれば、病に対する考え方も健康管理への取り組み方も違ったものとなるのではないかと思います。くるま旅くらしがその全てではないとしても、リタイア後の残された人生の活力源としての機能を果たすことは間違いないと思っています。病院を社交場とし、病の情報交換に毎日の大半を送るような生き方のほうが、そこに費やされる費用を較べれば、大して保険証も使わずにくるま旅くらしを楽しむ人たちよりも遙かに高額を要しているように思います。私から見れば病院を社交場としている同世代の人たちの方が、気の毒で贅沢な暮らしをしているように思えてなりません。私はこの1年間、健康保険証を一度も使ったことはありません。20年来の糖尿病なのですが、何としても旅がしたいので、食事を自制し、毎日10km近くを歩き、体調維持に気を配っています。糖尿病のお陰で旅が出来るのだと感謝しているほどです。

旅に出ると多くの人は元気になるのです。それは還暦を過ぎたばかりの人も80歳を超えられた人も皆同じです。そしてまともなくるま旅人は、年金暮らしでも充分に賄える質素なくらしを心がけています。その質素な暮らしぶりこそが生きる力を強めているのだと私は考えます。

先ほどのシンポジウムでは、くるま旅の中身や内容が区々であったため、議論が噛み合わない部分が多かったような気がします。私は、いわゆる団塊の世代といわれている方たちが、リタイア後に目指すくるま旅は、今日述べたような年金くらしをベースとした質素なものであると考えています。大枚の退職金などをはたいて購入する旅車は、これからの人生をよりよく生きるための旅くらしへの思い切った投資なのだと思います。

たった5万台程度の旅車を受け入れることが出来ないような旅の環境は、そのままでは社会問題を引き起こすのは当たり前でありましょう。どんなにマスコミがネガティブキャンペーンを行なっても、くるま旅の増加の流れは止まらないはずです。車の増加を止められないのと同じように、これからのくるま旅への願望の実現の流れは止まらないと私は考えます。だとしたら、環境整備に力を入れない限り、問題は続出し山積するのは自明のことのように思います。

シンポジウムでは、くるま旅を考える者は、社会資本の整備などに頼るべきではなく、何でもタダで旅をしようなどという甘えを捨て、それなりの覚悟を持って臨むべきだとのご意見もあり、確かにその通りだと思い、振返って自分自身もそのつもりでくるま旅くらしをして来たのだと思いましたが、それにしても現在のくるま旅の環境がこのままで良いのかについては、多大の疑問が残りました。大量の年金暮らしの者が構成するこれからの高齢化社会は、病院回避を目指して新たな暮らしをくるま旅に求める人が増えても、それを贅沢と拒否するニーズは殆ど無いのではないかと私はやっぱり考えるのです。日本RV協会だけが考える問題ではないように思えるのです。

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キャンピングカーとモーターホーム 

2007-09-28 04:40:24 | くるま旅くらしの話

 昨日27日、東京池袋の豊島区民センターにおいて、日本RV協会主催の「よりよきくるま旅を目指して」というテーマでのシンポジウムにパネラーの一人として参加した。ユーザー代表という途轍もない大役だった。

このシンポジウムは、キャンピングカー等RV車の製作・販売に係わる業界の代表機関ともいえる日本RV協会(=JRVA)が、販売後のユーザーの車の使い方に関して、マナー違反やモラル欠如等が引き起こす反社会的な問題に危機感を抱かれ、これを何とか改善して社会に受け入れられるより良いくるま旅の実現を目指すために、何が必要なのかを探る場の一つとして開催されたものである。

パネリストとして、マスコミ代表としてジャーナリストの中島祥和氏、キャンプ場代表として岩手県立陸前高田オートキャンプ場モビリア支配人の蒲生哲氏、ビルダー代表として()アネックス代表取締役の田中昭市氏、そしてユーザー代表として下名が、それぞれの立場でのテーマに関する考えの現状報告を行い、その後で日本RV協会会長増田英樹氏のコーディネイトにより、会場の出席者も参加して討議が行われたものである。参加者は総勢70名ほど、予想以上の盛況だった。

メインテーマは「より良きくるま旅を目指して」であるが、事前に頂いたのは、このメインテーマに関する次の4項目の問題提起であった。

           キャンピングカーユーザーの使用実態は如何なるものであるか。そこにはどのような問題点がひそんでいるのか。

           将来のキャンピングカーユーザーの宿泊場所として、どのような場所が相応しいのか。又新しい宿泊施設として、どのような場所が開拓できるのか。

           宿泊・休憩などによって生じるゴミ問題及びマナー違反問題などを解決するための有効な方法はあり得るのか。

           環境保全が社会の要請としてクローズアップされるような時代を迎え、キャンピングカーを製造する者と使用する者とが、一体となって社会に提案できるテーマはあるのか。

これら各項目に対して、それぞれの立場での現状報告や問題提起、或いは解決案の提示をするわけだが、いずれもたくさんの課題を抱えており、これを15分という決められた時間内に報告するのは至難のことだと思いつつ、5分ほど時間超過して①②③のテーマについて報告したのだが、④についてはあまりにテーマが大きすぎて報告できる内容を得るには至らなかった。

シンポジウムにおいてどのような議論が展開されたかについては、追ってご報告をしたいと思っているが、ここでは先ず、このシンポジウムを通して一番に感じたことを述べてみたい。それがタイトルの「キャンピングカーとモーターホーム」ということである。

私はくるま旅というのは、特に自由に使える時間が有り余るほどあるリタイア後の世代にとっては、キャンプというイメージから来るアウトドアの野営というような時間の過ごし方とは全く違ったものだと思っている。くるま旅というのは、その内容がどのようなものであれ、基本的には現役時代には果たせなかった様々な夢を実現するための一つの暮らしだと思っている。

旅と暮らしとは別の物であり、普段の暮らしを離れてこそ旅というものの意味がある、という考え方は正論だと思う。だけど、本当にそうだろうか?旅と暮らしとが一緒になってしまったら、それはジプシー(今は使ってはいけない言葉のようだが)のような存在となってしまうのではないか、という見方もあると思う。確かに似ている部分はあるけど、くるま旅くらしは本質的に違うのだ。ジプシーは初めから終りまで放浪暮らしという生活スタイルが本質だが、くるま旅くらしは出会いと()発見の楽しみが無限に詰まった生き方であり、いつでも本来の暮らしに戻れるという確かさがある。家にも戻らず生涯を車の中で流浪しつつ過ごすのはくるま旅くらしではない。それは流浪の暮らしそのものだ。勿論その良し悪しを論ずるつもりはなく、それはその当事者の判断に委ねるしかない。

それ故にくるま旅くらしというのは、車社会が生み出した新しい旅の形なのだと私は理解している。今手探り状態の中で、新しい旅の形が芽生えようとしている、と考えたい。まだ出来上がった旅の姿ではない。これから育ってゆく新しい旅の形なのだと思っている。

しかしこれを受け入れる環境は未だ整っていない。安心、安全に旅ができる環境として、最大の要件は宿泊場所の確保にあると思うが、今世の中に用意されているのは、アウトドアスタイルの生活をチョッピリ楽しむキャンプ場であり、車社会を支える基地の一つとして国と地方行政が用意した道の駅や高速道のSAやPAくらいに過ぎない。それらは本来くるま旅などというもののために用意されたものではないのに、勝手にくるま旅用として使おうとする者が、理不尽な行為をして批判を浴びているのが現状であろう。

今回のシンポジウムにおいてもこのような現状に関してどう改善に取り組むのか、取り組めるのかについて幾つかの意見が呈され、これからの自分自身のくるま旅を考える上でもいろいろ勉強になった。しかし、何だかモヤモヤとしたものが残っている。5万台を超えるユーザーの方々を代表する意見の開陳が出来たとはとても思えない。スッキリしないのである。

それで家に戻ってからいろいろ考えてみた。その結果辿り付いた考えの一つが、モーターホームとキャンピングカーの差を問題にすることが、くるま旅の環境整備の鍵になるのではないかということだった。キャンプ場にキャンプを楽しみに行くのにキャンピングカーなどというものが必要なのだろうか?という疑問が私にはある。よく考えれば、オートキャンプなどというのも何だか変な用語のようにも思える。キャンプ場にやって来て、テントも張らないでくるまの中に寝泊りするというのは、めんどくさがり屋の贅沢そのもののように思える。テントを張って野営をしている通常のキャンパーから見れば、あれは何だ!と異常視されて当然のようにも思える。その様なキャンピングカーがくるま旅を主張する資格がないのは明らかだ。しかしわが国の現状は、キャンプ場にキャンピングカーが泊ることにさしたる疑問も感じていない。ま、キャンプなのだからそのためにキャンピングカーというものがあっても、それがキャンプ場に泊っても、ガタガタ騒ぐようなことではないのかも知れない。

くるま旅というのはキャンプなのだろうか?キャンピングカーというのは連日キャンプをしながら旅をし続けるための車なのであろうか?これはノー!だと思う。くるま旅の中にキャンプが入ることはあるとしても、連日キャンプを続けるということではないと思う。それで気づくのは、今の時代、特にくるま旅という新しい旅が誕生しつつある状況においては、そもそもキャンピングカーという最初の命名が正鵠を射ていなかったと思わざるを得ない。何時、どなたが命名されたのか、海外においてもその様な呼称があるのか、日本国しか知らない私には知る由もないが、キャンピングカーというのは、くるま旅にはいかにも相応しくない呼び方だと思う。

くるま旅用の車は、キャンピングカーではなくバンコン、キャブコンなどの差を問わず全てモーターホームと呼んだ方が実態を反映できるように思う。キャンピングカーというからキャンプ場という風につながってしまうのだ。モーターホームというならキャンプ場という発想が直結することはないのではないか。キャンプ場にモーターホームの車が入ってきたら、違和感を感ずるのは当然であろう。モーターホームというような呼称が定着するにつれ、やがて、それ専用の宿泊設備が用意されてくるに違いない。キャンピングカーでは、何時まで経っても新しい宿泊設備は生まれてこないような気がするのである。

今回のシンポジウムでは、このことを含めてくるま旅が新しい旅の形であることについて、もっと主張すべきだったと反省した次第である。キャンピングカーからモーターホームへと呼称を切り替えるだけで、くるま旅の考え方は大きく進展できるような気がする。最初からモーターホームと呼んでおられるメーカーさんもあるが、もっと声を大きくしてそのことを主張して欲しいなと思うし、又旅車を安易にキャンピングカーと呼ぶことには見直しが必要ではないか。このことを改めて思ったのだった

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日の出公園

2007-09-25 08:57:06 | くるま旅くらしの話

北海道上富良野町のシンボルの一つが日の出公園だと思う。富良野と一口に呼んでいるが、富良野には南富良野町、富良野市、中富良野町、上富良野町と4つの行政機関がある。富良野メロンなどの蔬菜・果樹類は、南富良野町や富良野市の産物だが、ラベンダーを初めとするお花畑は中富良野町や上富良野町に多い。

富良野エリアをを訪れる時、私どもが一番お世話になるのが、上富良野町である。そして上富良野の何処かといえば、それは日の出公園なのだ。実際には日の出公園下の駐車場に車を止めさせて頂き、一夜を過ごすことが多いのである。

日の出公園は、7月のシーズンには、巨大なラベンダー畑を初めひまわりやカスミソウ、マリーゴールド、ナデシコ等など色とりどりの花が小高い丘一面に咲き競って、この辺りでは一番目立つ景観を呈するのである。いわば花の丘の公園といってよい。公園の丘の頂上には展望台があり、麓の駐車場からはシャトルバスも走っている。歩くと急な坂を15分以上も汗を掻かなければならなくなるので、太った体型の多いこの頃では、結構シャトルバスを利用する人も多いようだ。

丘の上に立つと、上富良野の市街は勿論、美瑛の丘の景観も遠望でき、晴れた日には南に雄大な十勝岳連峰の広がりを望見できる。足元の花を楽しみながら、ラベンダーの花の香りに浸って、人々の疲れた心を浄化させてくれるこの公園は、町に棲む人だけでなく遠くからの旅人にも嬉しくありがたいものなのである。

私がこの公園に特別の思いをもつようになったのは、丘の麓の片隅に小さな記念樹の木立ちがあり、そこにはこの公園一帯の開発に当って尽力した人たちの小さな記念碑というか、看板のようなものが立っているのだが、何年か前に、その中に大子農林学校の名があったのに気づいたからである。大子は茨城県の北部にある町で、そこにある大子第一高校は、県内でも珍しい林業科という専門学科を持つており、その前身が大子農林学校ではなかったかと思う。偶々実弟が此処の卒業生なので、その名を見た時いっぺんに親近感が増したというわけなのだ。自分が直接係わったわけではないのだが、我がふるさとからも此処まで大地を耕し、木を植え、花を咲かせるために、はるばるやって来て汗を流した人がいるかと思うと、妙に嬉しくなってしまったのである。

北海道の開拓は、今でこそ大規模な機械力が取り入れられ、山でも坂でも巨大な農業機械が唸りを上げながら土を掘り起こし、種を播き、刈り取りを行なっているけど、数十年前までは、筆舌に尽くしがたい苦労を強いられての開墾であり、農作業だったのではないかと思う。北海道を北の大地と誇らしげに呼ぶ人がいるが、北の大地はその広大さにおいては内地の比ではないかもしれないが、土地そのものは決して肥沃ではない。むしろやせ衰えた栄養分の少ない土地なのではないかと思う。

日の出公園の花が植えられているその土を手にとって見ると、石と見間違うばかりの荒れたカサカサの土なのだ。このような水分のない石ころのような土に、よくもまあ植物は花を咲かせるものだと驚くくらいなのである。種を播き、苗を植えて面倒を見る人間の力がなかったら、決して花はこのように豊かには咲かないのではないか。北海道の花畑を訪ねる度に、その厳しい自然環境とそれを乗り越えて花を咲かせている人たちのエネルギーのすごさを思わずにはいられない。ラベンダー畑も、花だけを観ていればただ美しさだけにしか気づかないが、その花の根元を見、その根元の土を見ると、その美しさを支えているものが何なのかということを考えさせられる。それは花を咲かせようと懸命に取り組んだ人たちの思いの強さに他ならない。

今年はその日の出公園に合計4泊ほどお世話になった。北海道の夏の日の出は早い。7月は、4時半ごろにはもう日が昇っている。日課の散歩に車のドアを開けて外に出ると、もう公園の丘の端には日の光が眩しく輝いていた。真(まこと)に日の出公園に相応しい朝の一瞬である。思わず拍手を打って太陽を讃え、それから花の丘を一歩一歩と、先人たちの苦労を偲びつつ、その思いの結晶である花たちを愛でながら丘の頂上を目指すのである。

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男の美学

2007-09-23 08:29:39 | くるま旅くらしの話

年の北海道の旅くらしの中で最も印象に残った人物は、愛媛県は松山からお出でのWさんご夫妻でした。今日はそのことについて少し書いてみたいと思います。

今年は2ヶ月の旅の中で、20日間を根室の北に隣接する別海町のキャンプ場で過ごしました。1箇所の滞在期間としては、今までの最長記録でした。Wさんご夫妻は、この別海町のキャンプ場(ふれあいキャンプ場)に私たちよりも随分早くお出でになり、私たちがお別れした後もしばらく滞在されておられたようでした。このキャンプ場創設以来のファンで、もう15年も毎年此処へ長期滞在にお越しになるとのことでした。

ところで、このWさんご夫妻はお二人の年齢を合計すると165歳にもなられるのです。ご主人の方が年下で、いわゆる姉さん女房のご夫妻なのでした。奥さんは体調優れず、足が不自由で介護用車椅子を必要とされております。ご主人が三度の食事の調理を始め食事後の洗い物などを全て一人でこなしておられます。勿論それだけではなく、買物や洗濯などの家事一切をご主人がなさっているのでした。

20日もご一緒していると、いろいろとお話を伺う機会も見出すことができますが、私どもの場合は家内が外交官の役を担っているのですが、何度かお邪魔しているうちに、いつの間にか家内は奥さんの娘のような存在になってしまったようでした。キャンピングカーという小さな住まいですが、お互いに行き来させて頂くようになり、ご夫妻のことも少しずつその人となりを知るようになりました。

Wさんご夫妻は、定年(55歳?)ごろからくるま旅を始められたということですから、もう20年以上が経っており、これはもうくるま旅の草分け的存在の方なのでした。夏の北海道はもう現地の方よりも知り尽くしておられるのかも知れません。私たちが知らないキャンプ場のことも、何でも知っておられて、それが話しの随所に出てくるのです。キャンプ場のことだけではなく、北海道の地域のあれこれについても造詣の深い方なのでした。私は、自分よりも年長の方には敬意を表することをモットーにしていますが、このようなくるま旅の先達にお会いできると、ひたすらに尊敬の念を禁じ得ません。今年又新たな先達に巡り会えることができて、本当に嬉しく思ったのでした。

Wさんご夫妻のように四国の遠方から北海道にやって来られる方の殆どはフェリーなどの船便を利用されることが多いのですが、Wさんご夫妻は、船は大間からの最短のコースだけで、あとはご主人が車を運転されて地上を走って来るというのですから驚きです。松山から別海町までですと、片道で1,500kmくらいはあるのではないかと思います。勿論時間をかけながらの日程だと思いますが、80歳台になっても、キャンピングカーを駆ってこんな遠くまで楽しみながらやって来られるというのは、ものすごいエネルギーの持ち主なのだなと思わずにはおれません。

 いろいろお話を伺っていて驚いたのは、何とご主人は今年の4月に、前立腺癌で手術を受けられたというのです。普通ですと予後の静養が大切で、とても長旅など許されないと考えるのだと思いますが、Wさんの場合は、家で静養しているよりも北海道でのくるま旅くらしの方が、健康の回復がはかどると考えられたようでした。残されている人生の時間を考えれば、好きなことをしている環境の方がずっと大切なのだという様なこともおっしゃっておられました。この方は、本当にくるま旅の名人なのだなと改めて思いました。旅が人間を元気づけ、生きる力を強めるということを、身を以て実践されているのだなと思いました。もし私自身が同じ境遇に置かれたとしたら、私もWさんのご主人と同じ道を選びたいと思います。家内以外の家族や親戚は大反対をすると思いますが、それは旅の本当の底力を少しも知らない哀しい人たちの、健康と安全に対するカビの生えた固定観念なのだと思います。

Wさんの奥さんは足が不自由なため、直ぐ近くにあるトイレへは杖を使っての歩行が大丈夫のようでしたが、それ以上の距離になると、介護用車椅子が必要となるため、どうしても車の外に出られることが少なくなり、普段は車の中で絵を書いておられることが多いようでした。耳も少し遠いようでしたが、会話はしっかりと出来ますので、まだまだお元気です。家内はこのお母さんのお話を聴くのを楽しんでいたようでした。なかなか個性的な方で、旅くらしの家事の殆どをお父さんに依存しながらも、決して卑屈になったり弱気になったりされないところが素晴らしいのです。人間というのは、誰かのお世話に頼らざるを得ないようになった時には、自分の主張を失いがちになることが多いのだと思いますが、お母さんにはそれが少しも失われていないのでした。 

ご主人の話を伺った中では、家事のことは会社勤めを辞めるまでは、自分でやったことは何一つないとのことでした。それが今では毎日の食事のメニューから、食材の調達、調理、あとかたづけ、洗濯一切など、家事の全てをこなしておられるのです。私の理想も家内がいなくても家事の一切をこなせるようになるということなのですが、ここにそれを実現されている大先達出会って、感無量でした。

ふと、「男の美学」という言葉が浮かび上がってきました。キャンプ場の上の丘にある温泉から、入浴を終えて坂道を下ってくる車椅子のWさんご夫妻の姿を見ながら、それが微笑ましいというのを通り越した、人間としての美しい姿というか、美しい生き様の極致の一つのように思えたのです。Wさんのご主人は、男の美学を実践されている。そして奥さんはご主人のその男を一層引き立てておられる。素晴らしいご夫婦なのでした。

これが本物の男の美学なのではないかと思ったのでした。男の美学という場合、その人の男としての何かへのこだわりが、時として光を放つような場合に使われる言葉のように思いますが、そんなものはこのWさんご夫妻の生き様に較べたら、実に取るに足らないもののように思えるのです。年を取って労(いた)わりあうだけではなく、車椅子に座っていても自分の主張を曲げたりはしない妻を、何事もなく、淡々と押しながら歩いている、80歳を過ぎた男の姿に、私は無上の美しさを感じたのでした。

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デジカメ日記のこと

2007-09-21 09:27:10 | くるま旅くらしの話

旅の記録を残す方法に関して、デジカメ日記を推奨したいと思います。今日はそのことについて書いて見たいと思います。

私は旅というのは、楽しみ方に3つのステップがあると思っています。それは、①前楽(又は予楽) ②現楽 ③後楽の3つです。前()楽というのは、旅に出かける前に旅の準備をしながらこれからの旅のあれこれを想って楽しむことであり、現楽とは旅の実際の場で毎日を楽しむことです。そして後楽というのは、旅から戻ったあと、これまたあれこれと旅の思い出を楽しむことです。

それぞれのステップにそれぞれの心がけというかその様なものが必要と考えますが、後楽を充実させるためには、記録のデータが必要です。

私は今まで記録としては、日記と旅の立ち寄り先ごとに作成したメモを使って、旅を終えた後それらの記録をエッセー風の日記にまとめて残すようにしていますが、昨年の7月以降はこれに強力な助っ人が加わりました。それがデジカメ日記というわけです。

これはTVを見ていて、ある方が何か問題を感じた時にはデジカメに撮って残しておき、それを使って問題解決をされるという話を聞き、なるほど!と手を打って同感し、その翌日から自分もそれをデジカメ日記という形で実践してみようと開始した次第です。

実際には、毎日これは残しておいた方がいいなと気がついた時にその景色やら人物やらをデジカメで撮影し、1日が終わったあと、パソコンに収録して1枚1枚に簡単な見出しをつけるというやり方です。デジカメの写真は撮影日時が自動的に記録されますので、簡単なタイトルさえ付けておけば、それが何処の何だったかを思い出すのは難しくありません。特に気になる出来事については、写真のプロパティの概要欄にコメント書いておけば確実にその出来事を思い起こすことが出来ます。

それまではデジカメも従来のカメラと全く同じように人物の記念写真や風景写真のようなものを撮るだけの使い方でしたが、デジカメ日記をつけるようになってからは、カメラの活用度は今までは想像もできなかったほどの多用のレベルとなりました。毎日カメラを携帯し、機会あるごとにシャッターを切っているからです。旅に出て、多いときには100枚近くの写真を撮る時もあります。あとで見出しをつけるのが大変ですが、馴れてくると写真を見た瞬間に見出しのフレーズが決まるようになるから不思議です。今ではデジカメ日記は毎日の当たり前の仕事として定着しています。

デジカメ日記は、旅の記録ということでなくても、普段の生活の記録として有効、有用だと思います。文字の記録も大切ですが、説得力という点では映像の記録の方が遙かに上のような気がします。口でどんなに弁明しても1枚の写真が語る力の方が大きいのは、TVの事件ドラマなどでは不断に取り上げられているシーンでも明快す。昔でしたら、アルバムというような形で写真の整理をしたわけですが、今はその様な煩わしい手間をかけなくてもパソコンの中に簡単にたくさんの記録を保存することが可能なのです。

少し煩わしい部分もあります。小さいデジカメでも、常時携帯して持ち運ぶというのは、面倒で邪魔臭いのですが、慣れてくればどうってことはなくなります。私の場合は、ベルトに専用のデジカメ収納の小さなバッグを取り付けて活用するようにしています。

デジカメを「ハイ、チーズ!」と記念写真のようなものばかりに使っているだけでは勿体ないと思います。何気ない不断の映像記録を撮るということに意義があるのではないかと考える様になりました。旅に出たときは勿論、在宅の毎日の暮らしの中でも今はデジカメが離せなくなりました。10年もこれを続ければ、これは自分にとっては大きな財産になるに違いないと思っています。

何だか自慢話のようになってしまい、失礼しました。

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花オクラです

2007-09-19 08:16:08 | くるま旅くらしの話
今日のブログに書いた花オクラの花です。花の大きさは、直径15センチくらいあります。今朝は30個以上もの花を咲かせていました。 (写真をダブルクリックすると少し拡大して見ることができます)
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花オクラのこと

2007-09-19 00:19:11 | 宵宵妄話

今日は、旅の話ではなく私の在宅時の楽しみの一つについて書いて見たい。 いつも旅の話ばかりでは、自分自身も些か疲れを感じてしまう。

旅から戻って、今の毎日の楽しみは、朝一番で畑に行って花オクラの花を摘むことである。花オクラというのをご存知だろうか?本当ならここに写真を添えるべきだと思うけど、ブログに写真を自分の思うままの大きさで掲載する技術を私は知らない。

花オクラは知らなくてもオクラならご存知であろう。六角形ほどの角ばった細長いグリーンの錘状の野菜で、食べるとぬるぬるする食感のあの植物である。オクラの花は綿の花に似て、花の後の実の姿とは打って変わった上品な美しさがある。

花オクラは勿論オクラの仲間である。花オクラというように、こちらはオクラと較べて花の大きさも美しさも格段優れた存在である。最初にそれを見た時には、どきりとした。いとムツクケキ爺いなのだが、私は花に弱いのである。

尊敬する榊獏山先生(書家)の書で、九州の何とか言う焼酎のパックだったかに「花あるときは花に酔ひ、酒あるときは酒に酔ふ」というのが書かれていたが、この文句がたまらなく好きだ。実に素晴らしいキャッチコピーだと思う。獏山先生の書は若い頃からのファンで、奔放な中にも落ち着いた味があって、それに益々磨きがかかり、この文句の表現には実にぴったりなのだ。「花に酔ふ」というのは、酒に酔う以上に素晴らしい酔い方だと思う。

花オクラはそれを見る人を酔わせる力のある花である。そしてこの花が素晴らしいのは、それを食することが出来るということだ。花を食べるというのは、食用菊くらいで他にあまり聞いたことがなかったのだが、花オクラは食べられるのである。尤も、どんな花でも食べる気になりさえすれば、毒が無い限りは食べられるものなのかもしれない。花オクラは、摘んだあと花びらを集め、これを包丁で叩いて細かくする。何度も何度も叩いていると、次第にぬめりが出てくるのだが、それがかなり出てきたところで叩くのをやめ、小皿にとって、酢醤油やポン酢などをかけて食べるのだ。オクラと同じような食感があって、酒の肴にも合うし、身体にも良い様だ。通じが良くなるというのは、漢方の有効食品の一つにつながるのかもしれない。

この花オクラを摘みに毎朝7kmほど歩いて行く。市から借りている菜園は、近道を往復すれば30分足らずの距離なのだが、2時間近く遠回りをして市内のいろいろな道を散策するのが楽しみなのだ。どのコースを選んでも、今のところは必ず畑の花オクラのところに寄って、持参したビニール袋に20個ほどの花を摘む。花オクラは一夜花なので、摘まないまま放置すればたちまち萎れて花を落としてしまう。摘んでやると、翌朝には大輪の美しい花を必ず20個ほど咲かせてくれるのである。

今年は北海道の旅に7月初めに出発したが、その時植えた苗は、僅かに5cmほどだった、2ヶ月経って戻った時には、1m近くに生長していたが、ものすごい雑草(主としてメヒシバ、スベリヒユなど)に埋もれていて、花を咲かせる余裕がなかったらしく、僅かに1、2個の花が見えただけだった。汗まみれになって雑草を取り除いてやると、しばらく経って、すっかり元気を取り戻し、毎朝美しい花を咲かせてくれるようになった。

花オクラからみれば、幾ら雑草を取り除いてくれたからといって、毎朝やってきては折角咲かせた花を摘み取り、しかも食べてしまうという奴に恩義は感じているはずもないと思う。しかし、私は毎朝花に酔い、その花を夕餉に食して今度は酒に酔うのである。それが今のところ最高、最大の楽しみなのである。

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今、「より良きくるま旅を目指して」に求められるもの

2007-09-17 10:19:29 | くるま旅くらしの話

来る9月27日、日本RV協会主催のシンポジウム「より良きくるま旅を目指して」に、ユーザー代表のパネラーとして出席することになっているのですが、果たして自分がユーザーの代表に相応しいのかという問題は措くとして、今日はそのことに関連して少し私見を述べてみたいと思います。

日本RV協会さんが、「より良きくるま旅」を何故取り上げるのかということについては、実は、くるま旅の現状から寄せられる多くの情報の中で、最近特にキャンピングカーなどのユーザーのマナー違反が目立ち、道の駅などでの宿泊利用お断りのニュースなどが増えてきている実態にあるからです。

私は、現代もそしてこれからの世も、人類は決して文明の利器たる自動車を手放すことはないと考えています。石油が枯渇しても人間は必ずそれに変わる車を動かすためのエネルギー源やエンジンを新たに開発するに違いないと思っています。そして、車を使ったくるま旅は、新しい旅の形として世の中に広まってゆくに違いありません。

今、くるま旅が取り上げられているのは、いわゆる団塊の世代の皆さんの大量リタイアを迎えて、定年後の暮らし方の一つの選択肢として、キャンピングカーなどを手に入れて日本一周の夢を叶えたいという様なムードが高まってきていることからなのでしょう。しかし、決断さえすればその様な夢の実現が可能となった今の時代は、団塊の世代に限らず、くるま旅を指向する人は、これから着実に増えてゆくに違いないと思います。

旅は古来より人々の心を惑わし満たす憧れでした。未知の世界への訪問は、様々な出会いの予感に溢れていて人々をわくわくさせます。のんびりと心を癒したいというのも旅の憧れの一つでありましょう。それがどのような旅であっても、旅は人を元気づけ、人生を活性化するきっかけとなるように思います。その旅の自由度を最高に楽しめる可能性を持っているのがくるま旅なのだと思います。列車や航空機や客船など、時間や空間の規制に縛られながらの旅も又良いものでしょうが、好きな所に好きな時間に行くことが出来るという旅のあり方としては、くるま旅ほど自由度の高いものはないと思います。拠点を決めれば、1日の行動範囲は、100kmくらいは当たり前の自由さなのですから。また、好きな場所から動かない自由さも自在に近いと言っていいと思います。

定年を迎え、今までの労苦を洗い流し、新たな人生のスタートを切るに当って、くるま旅は大きな力になるに違いありません。そして更に年齢を重ねても、くるま旅はたくさんの出会いと発見の喜びに支えられて、その人の向後の人生の活力源となるに違いないとも思っています。少なくとも私自身はくるま旅をその様に考え、老化に伴う心身の病気を避けうる最大の力となると思っています。くるま旅を楽しむためには健康でなければならず、くるま旅を楽しめば更に健康になれるという相乗効果の関係があるように思います。残された人生の時間をどのように使うかはそれぞれの自由でありますが、時間の使い方を誤ると老化に伴う心や身体の病があっという間に忍び寄り取り付いてきます。病院に通う毎日よりも健康で旅先の新鮮な空気を吸える生活がどれほど生きている実感を確認できるかは明らかです。

というわけで、私はくるま旅を単なる観光旅行の延長線のような捉え方ではなく、リタイア後の人生の暮らしの柱として考えているものですから、「くるま旅くらし」の提唱となっているのです。

ここで本論に戻って、「より良きくるま旅」を実現するために、今何が求められるのかについて私見を述べたいと思います。

今回のシンポジウム開催の背景には、前述のように心無いユーザーのマナー違反がもたらす地域社会からの厳しい批判があり、これに対する業界としての不安・心配といったものがあります。私もユーザーの一人として、今夏も北海道を中心に丁度2ヶ月を過ごしてきましたが、途中幾つかのマナーやルール違反の現実を見てきました。その最大の問題はゴミ処理にあるようです。これはキャンピングカーよりもむしろその他の、くるま旅以外の人の違反が多いように思いますが、キャンピングカーが違反すると、ものすごく目立つだろうなと思いました。幸いなことに違反をしているキャンピングカーを見かけたことはありませんでした。

ところで、ゴミ処理をどうするかという問題をここで取り上げるつもりはありません。これについては、このブログでも何度か取り上げていますので、繰り返すことは止めにします。

今回のシンポジウムの中で私が最も主張したいのは、「くるま旅のインフラの整備」ということです。もっと簡単に言えば、毎日安心して安価な費用(1泊千円以下)で宿泊できる駐車場所の整備といっても良いかも知れません。それではどのような条件を備えている必要があるかといえば、絞れば次のようなものとなると思います。

①給排水の設備があること(共同使用でよい)

②トイレがあること(共同使用でよい)

③電源設備があること(個別使用で、出来ればコイン利用)

④ごみ処理設備があること(分別・有料)

この他にも付加すれば便利という設備や装置はいろいろ考えられると思いますが、最低限この4項目は不可欠です。そして駐車場の1区画のスペースは、幅4m長さ7mくらいが必要と思います。私はこれらの要件を備えた施設を仮に「モーターホームポート(Motor Home Port略称MHP)」と呼ぶことにしたいと思います。

問題はこのようなMHP施設を誰が、どのように造るのかということですが、一番期待したいのは、これをビジネスチャンスとして、どなたかが新しいスタイルのくるま旅用の施設をつくり上げ、営業展開をして頂けることです。北海道を除けば各県に2、3箇所の施設があれば、かなりの利用頻度が期待できるのではないかと考えます。

しかし、初期費用はかなりのものとなると思いますので、より現実的な実現への道としては、既存の道の駅やキャンプ場などを改造したり、新たに併設するような形で運用を開始するのがベターだと考えます。これには道の駅の推進・運営している国交省や市町村の関係者への働きかけが必要です。そして民間のキャンプ場経営者に対してもアウトドアライフを楽しむためのオートキャンプ施設とは違った、くるま旅用の施設としてMHPを用意して頂くよう働きかける必要があります。MHPの利用は年間を通してニーズがあり、別途販売施設等を併設すれば、収益の面でも貢献できるはずです。世の中全体の流れの中で、くるま旅がこれからの新しい旅の形として定着して行くことを理解頂き、その基盤を支える施設や設備が不可欠であることをわかって頂くことが大切なのだと思います。

実際に事業を行なうとなれば、より詳細なコスト計算等が必要となるでしょうが、それは各論のレベルで明確にしてゆくべきものと思います。一つだけMHPについて留意しておくことは、オートキャンプ場ほどの高額料金では利用は期待できないということです。

このような、いわばくるま旅のインフラが整備されることによって、現在起こっているキャンピングカーなど旅車のマナー問題もかなり改善されるはずだと思います。現在の多くの問題は、インフラが未整備のために起こっているように思えるのです。既存の公共施設である道の駅などで、ユーザーの一部の人は、設備の不足分を自分の都合のいいように考えてルール違反をしたり、迷いつつも皆でやれば怖くないと、ゴミを所定以外の場所にそっと置くといったようなことを行なっているように思います。最初から悪意の、不正を不正とも思わぬような輩は、論外で、くるま旅の対象者としてカウントする資格も必要もないと思います。正しいくるま旅の実現のためにも、是非ともくるま旅のインフラの整備を提言したいと思っています。

シンポジウムは次のような要領で開催されます。もし興味・関心がおありでしたら、是非ご来場下さい。

○期日;9月27日(木)13時から16時まで

○会場:コア・池袋(豊島区民センター)5F音楽室

○テーマ:「より良きくるま旅を目指して」

○パネラー:キャンピングカー製造者代表(アネックス代表取締役:田中昭市氏)、メディア・マスコミ代表(ジャーナリスト:中島祥和氏)、キャンプ場の代表者(陸前高田オートキャンプ場モビリア支配人:蒲生哲氏)、キャンピングカーユーザーの代表者(山本馬骨)     

なお、詳細については、日本RV協会へお問合せください。

URL:http://www.jrva.com/

E-mailinfo@jrva.com

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