山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

今年の大ニュースに思う

2011-12-31 02:26:34 | 宵宵妄話

  今年も今日で終わりとなりました。毎年年末になると様々な報道機関などで、今年の話題となった出来事を、十大ニュースなどという形で取り上げています。我が家では、東京新聞を購読しており、それによれば、今年の十大ニュースとして国内に関しては次のような事項が取り上げられていました。

   1.東日本大震災と福島第一原発事故

  2.放射能汚染広がる

  3.浜岡原発停止、他も稼働せず

  4.計画停電、節電広がる

  5.首都圏でも被災者受け入れ

  6.「脱原発」などで市民が行動

  7.円 戦後最高値

  8.「なでしこ」世界一

  9.野田政権誕生とTPP参加表明・消費増税

 10.大相撲八百長問題

    (以上12月30日付東京新聞)

 

これを見て思うのは、①~⑥は同根のニュースであること、⑧だけが燦然と輝き、⑦⑨は東西のお粗末な政治に起因する暗い現象、そして⑩は現代社会の病理現象の典型の一つ、という私の見方です。

 

 これからのこの国を想う時、最も忌むべくして排除しなければならない問題は、大地震や大津波に対する対策などではなく、原発災害に対する人類生存権の確立であり、不気味な危険因子を無限に孕んでいる原発の中止・撤去・廃棄ということではないかと思います。如何なる理由があろうとも、人類が完璧に安全を確保できないものを使い続けることは、この地球で百万年以上に渡って生き続けることが出来て来た人類のご先祖に対する冒涜ではないかと思うのです。

 

 私自身は、原発に関して長い間曖昧な気持ちでその成り行きを見守り、石油の代替資源のことやコストパフォーマンスのことを考えればやむを得ないのではないかという妥協心があったのですが、今回の事故を契機として、これは人類が決して使ってはならないツールなのだという確信を持つに至りました。原発から撤退することによって新たに様々な問題が頭をもたげてくることは十二分に承知していますが、それらの全ては「だから原発は必要不可欠なのだ」という理由にはならないと確信しています。たとえ電気が使えなくなって、原始時代のような不便に満ちた暮らしに戻るようなことがあるとしても、それを甘受する覚悟は持っているつもりです。原発を継続することが許されるための条件があるとしたら、それは今回のような事故をはじめ、如何なる種類の事故が誤って発生したとしても、直ちにあらゆる種類の放射能や電磁波等を一気に消滅させる手立てが用意されているということです。それが見出せない限り、決して原発は造っても稼働させてもならないものであり、核物質を燃料として用いてはならないということなのです。

 

 それがどれくらい人類、否生きものの全てにとって重要なのかは、現在恐怖の真っただ中にいる福島県をはじめとする、近郊の行政区域に住む人々に降りかかっている、山積された法外な問題の深刻さを見れば明らかなことです。セシウム137だけが騒がれていますが、その他の放射能が皆無という保証はどこにもなく、セシウム137だって30年で解決する話ではなく、単に半減期がそうであるというに過ぎないのです。除染などと簡単に言われている印象がありますが、実質的には不可能と言っても過言ではないように思います。何故なら、除染個所の現状は無限に近い広さとも考えられるし、除染したとしても、その取り除いたものの中には依然としてセシウムは残され、しかも濃度を増しているわけなのです。発生したセシウムの絶対量は不変なのであり、決して短時間で消え去るわけではないのです。

 

 不幸にして私が住む守谷市は関東地区有数の汚染スポットに入っており、市のゴミ焼却炉では焼却灰の置き場所の問題が日を追う毎に深刻化しているという話を聞きます。このような事態が、いつでも全国のどこかで起こる危険性が全ての原発には確実に含まれているのです。今回の事故は、もはやどんな言い逃れの説明も許さない厳しい現実を我々に突きつけたのだと思います。これを甘く見たりいい加減に扱ったりすることは、もはや人類に対する冒涜だと考えざるをえません。

 

大震災については、復興を見守りたいと思っています。もはや老人には大した支援も出来ないと思いますが、心の中で祈ることはできます。浮ついた気持ちではなく、これから先、生きている間は忘れることなく、何年でも祈り続けて行きたいと思っています。

 

政治の貧困さは人々の価値観の多様化と変化にも拠るのでしょうが、世界的に無力感を抱かせる現象を来しており、その中でも我が国の政治の今年の混乱ぶりは群を抜いている感じがします。円高のチャンスを活かすような技量など日本の政治には期待不能というところでしょうか。失望して何も言うことはありません。

 

大相撲の八百長問題は明らかに今の日本国の世の中における社会病理現象の一つだと思っています。八百長などというものは、芸人のギャグと同類だというくらいにしか思っていない若者の力士は存外多いのではないでしょうか。国技などと重い受け止め方をしているのは、外国からやって来た力士の人たちなのかも知れません。今の時代、ショウスポーツの切り口からは、そもそも国技などという見方が無理な話なのでは?という実態があり、国技と呼ぶのは既に幻想化している感じがします。国技的風土が既に退化している以上は、これからも同類の問題は一休みの後に再発するに違いありません。日本人でもない関取がやがては半ば以上の数を占めるという状況では、もはや国技などとは呼べなくなるに違いありません。国際化が進んでいるのなら、マヤカシの勝負も計算に織り込んだショウスポーツとしての仕組みを新たに作ればいいのになどと思ったりしてしまいます。茨城県は守谷市に近い牛久市出身の稀勢の里が大関になったりして、古い人間には相撲は捨てがたい観戦スポーツなのですが、彼がいなくなったらTV中継など見なくなるのかも知れません。

 

最後に唯一明るい話題として選ばれたのは「なでしこ」ジャパンの女子サッカーワールドカップでの優勝でした。これはその内容(=プロセス+結果)から見ても全く文句なしの快挙でした。国民栄誉賞など当たり前のことです。あまり注目されていなかっただけに、その結果は衝撃的でした。男どもが足元にも及ばないことを全力を傾注して女子(おなご)たちが実現してしまったのですから。この快挙は今年一番日本国民を元気づけてくれた出来事だったと思います。「女のくせに」などとは、もはや口が裂けても声に出してはならないことばであり、禁句です。根性のひねくれたジジイでも素直に祝福の拍手を送りたいと思います。

 

国内版の東京新聞の十大ニュースをコメントしてきましたが、自分的には今年の大ニュースといえば、東日本大震災と原発事故に尽きると思っています。この二つはセットとなっている感じがしますが、その真因は別々のものだと思います。震災は天災ですが、原発事故は人災です。

 

今回の天災は歴史的には建国以来最悪のものだったと思います。課題は山積していますが、必ず復興は叶うはずだし、実現しなければなりません。被災された方々に対して改めてお見舞い申し上げますと共に、復興に係わるあらゆる方々のご尽力が一日も早く具現化し結果することを心から願っています。

 

そして、もう一つの人災に関しては、現在も拡大中であり収束の兆しなど見当たらないように感じています。何が本当なのか判らないような状況の中では、信頼できるものは殆ど見当たらず、この問題は、津波や地震といった天災よりもはるかに根が深い感じがします。一日も早くこの原発という即時に悪魔化する設備を撤去・廃棄することを願わずにはいられません。

(2011年12月31日記)

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ジジババ二人くるま旅漫遊紀行(2003年 西の方へ行くの卷)第20日(最終日)

2011-12-29 00:41:15 | くるま旅くらしの話

第20日(最終日) 道の駅:両神温泉薬師の湯(埼玉県)から自宅(東京都東村山市)まで

 

 とうとう旅の最後の日が来てしまいました。朝起き出す頃は昨日からの雨が涙雨となって降り続いていました。食事の後、荷物の整理に取り掛かりました。帰宅後には荷物の運搬というハードな作業が待っているので、手際良く行うため今の内からその準備をしておこうというわけです。このような種類の仕事はジサマには全く向いておらず、全てはバサマの言うがままです。力仕事だけが自分の役割だと割りきることにしていますので、事前の整理では殆どすることが無いのが実態です。雨の中を走りまわっての車の外回りの仕事がジサマの持番です。

 

 一段落の後、すでに開店になっている構内の地元物産売り場を覗きました。ここにもいつも魅力的なものが並んでいるのです。でも今回は、野菜類はもう既に満杯の状態ですから買うのは止めることにしたのですが。でも、中に渋柿の特大のものがありましたので、思わずこれは追加して買ってしまいました。

 

 出発の後は、もはや特に書くこともありません。道の駅からはR299に出て、この道をそのまま行って秩父市街を抜け、引き続き正丸峠下のトンネルを潜って曲がりの多い坂道をしばらく走るとやがて飯能市から入間市へ入り、R16に出ます。これをしばらく走って箱根ヶ崎から青梅街道に入って30分ほど走ると東村山の我が家に到着です。幸い雨も降っておらず、早く荷物を下ろしてしまおうと、それからあとはいつも以上のドタバタで大変でした。

旅の話はこれで終わりです。

 

<旅の後感>

 

今回の旅は、真に急に思い立っての出発でした。新たな出会いを求めてというよりも、どちらかといえば昔の出会いを確認し、それを深めようとした旅だったように思います。20数年ぶりの四国の各地の訪問、初めての明石海峡大橋やしまなみ海道の通行、懐かしい知人・友人との再会等など、実に思い出の多い旅となりました。

 

でも20日間で約3500kmを走り、1日換算では平均175kmも走り回って、これは明らかに走り過ぎであり、旅くらしというものではないと思います。ま、あまりそのような理屈にはこだわらずに、目の前の今日の一日を楽しめばいいという旅の考え方もありますから、今のところは旅くらしのための下見をしているのだと思うことにしています。いつかもっと一所の滞在を長くして、その地での暮らしを楽しむ旅をしてみたいと願っています。(終り)

 

【漫遊紀行としての所感~2011年年末時点での】

 

半月ほどかけて、取り敢えず20日間の旅の記録を再整理してみたのですが、どうも面白くありません。8年も前の記録を辿るという点では、懐かしさの溢れる再訪問のような感慨を味わいながらのリライトでしたが、今までのでこぼこ日記からの脱却が少しも見られず、面白味のない記述となってしまいました。こりゃあ、失敗だなと思いながらも終わりまで書かないとケリがつかないと思い、とにかくブログの掲載も年内に済ませてしまおうと、終盤は2回分を1回で掲載し、しかもそれが連日となってしまい、大いに足並みの乱れた投稿となり、真にお恥ずかしい次第です。

 

くるま旅についての材料はたくさんありますから、それらの使い方についてもっと工夫が必要だと改めて思いました。来年は何とかその道を見つけたいものだと思っています。キーワードは面白さにあると思っています。元々面白味のない人間が面白さなどを追及するなんてのが、そもそも無理な話なのかもしれませんが、生きている間にせめて一つくらいは他人様に面白いと言って頂けるような話をものにしたいと思っています。

 

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ジジババ二人くるま旅漫遊紀行(2003年 西の方へ行くの卷)第19日

2011-12-28 05:30:53 | くるま旅くらしの話

 第19日 道の駅:アルプス安曇野ほりがねの里(長野県)から道の駅:両神温泉薬師の湯(埼玉県)まで

 

 失敗の一夜が明けたのですが、眠りが中途半端で少し頭が重いのは仕方がないことです。昨夜からの雨は依然降り止まず、あまり嬉しくない天気が続いています。食事もそこそこに雨の中を走り回って車の定例処置を行いました。給水、排水、トイレの処理などの作業です。このような作業をしながらタイヤなどの点検も行います。SUN号のトイレはカセット式なのですが、これは普段の小用のみに使っています。夜間に外のトイレを使う必要が無いのは、ありがたいことだといえるかも知れません。でも、このために毎朝一晩に溜まった小水を捨てる作業が付随することになります。これはジサマの定番の仕事です。今日は8時ごろには全ての作業を終えていました。買い物の前に済ませておこうという考えからでした。

 

 さて、今日の予定ですが、今回の旅も明日で終わる予定であり、今日は売店のオープンを待って渋柿と野菜などを買い、その後は今日の泊りを予定している埼玉県の奥秩父にある両神村にある道の駅「両神温泉薬師の湯」を目指すことにしています。先ずは買い物です。

 

 売店のオープン時刻は8時半となっていますが、8時ごろにはもう買い物かごを抱えた人たちが何人か列を作って並んでいます。この間、7時半頃から農家の人たちの野菜を積んだ軽トラが続々とやって来て、夫々の販売コーナーに思い思いに採れたての野菜などを並べています。ようやく開店時刻がやって来ました。我々も早速店の中に入りました。先ず目指すのは渋柿です。ありました。大きめのものを選んで100個ほど買い入れました。干柿作りは家内の担当というよりも趣味のようなものです。ジサマの役割といえば皮を剥くといった作業だけで、出来上がった干柿もあまりに甘過ぎるので、殆ど手を付けません。ま、100個もあれば十二分と言えると思います。渋柿を買おうとする客は今のところ我々だけのようでしたので、存分に選ぶことが出来て満足でした。

 

 柿を買い終えた後は、野菜を何種類か買いました。どれも安くって新鮮です。なんといっても昨日までは畑で伸び伸びと育てられてきたものなのですから。ここでの一番の目玉はやはりセロリだと思っています。大株が200円ほどで、これは東京の東村山市内の店の1/4ほどの価格なのですから、ビジタリアン思考のジサマにとっては、興奮せずにはいられないのです。でも何株も買うわけにもゆかず、せいぜい3株ほどで我慢しました。これでしばらく野菜不足は解消されることと思います。家内は何束かの菊の花を買い求めていました。

 

 買い物が終わって出発です。今日の泊り先は決めていますが、コースは未定です。奥秩父の両神村に行くには、幾つもコースが考えられますが、大きくは2つになります。一つはここから諏訪湖の脇を通る甲州街道のR20を経由して甲府の先から秩父の山を越えて行くコースと、もう一つは佐久平から荒船山を越え、上州の下仁田を通り埼玉県の寄居町から入って行くコースです。しばらく考え迷った後、後者のコースをとることにしました。前者は往路で一部使っていますので、それを考えての選択でした。一つの旅では特別のことが無い限りなるべく同じ道を二度通らないことにしています。

 

 というわけで今日は、長野県から群馬県を経由して埼玉県の奥秩父を目指しての出発となりました。梓川の堤防をしばらく走り、橋を渡ってR19からR254に入り、直ぐに松本トンネルという全長2kmほどの有料トンネルを潜りました。何故か今は試供中ということで無料での通行はラッキーでした。しばらく山間に拓けた集落の中を走りました。周りの山々が黄色に紅葉し、通過する道の直ぐ傍には、格別の黄金色に染まった葉を満載した銀杏の大木があり、それはそれは鮮やかでした。深まった秋里の景色が静かに横たわっていました。お天気がずっと機嫌が悪くて、雨模様なのが残念です。しばらく行くと登り坂が次第に急になって来て、辺りに霧が立ち込め出しました。大変な濃霧で視界が数メートルほどになってしまいました。点灯して速度を落として進んでいても、何だか不安は増すばかりです。と思う間もなくトンネルに入りました。三才山という名の有料のトンネルでした。出口でしっかりと500円也を徴収されました。トンネルを出た先に霧は無く、先ほどの濃霧が嘘のようです。峠の南と北とでは天気は大分に違うのだなと思いました。しかし、空は暗く小雨がパラついていてこの辺りの今日の天気の根っこは雨ということなのでしょう。

 

 小さな駐車場があり、トイレがありましたのでちょっと寄って休むことにしました。ここのトイレは外見とは違って、とても奇麗なものでした。きれいなトイレに出会うと嬉しくなってしまいます。思わずありがとうと言いたくなります。旅先では様々なトイレに出会いますが、トイレというのは本来汚い場所ではなく、きれいな場所でなければならないものです。というのも、トイレは人間にとってはとても大切な場所だからです。何故なら、人間だけではなく生きものの全ては、生きるために必要なエネルギーの素を外部から取り入れ、それを体内で消化してエネルギーを取り出し、使用済みのものを体外に排出するという、そのような仕組みを有しているのですが、その排出の場所がトイレだからです。排出が不調になると様々な身体的不具合を来すようになるわけで、これを簡単に言えば病ということになるのだと思います。つまり人間や動物にはエネルギーを摂取するための入口と出口があるわけで、この両方とも等しく大切な機能なのです。一般的には入口に係わることばかりが重要視されがちですが、ジサマの持論としては入口よりも出口のことを考えての行動が大切だと信じて疑いません。入口、すなわち例えばどんなものを食べれば身体に良いのかというその答えは、出口によって必然的に決まるのだという考えです。出口がすっきり機能するようなものを食べることが大切なのです。そして、トイレはその出口の働きを見守る神聖にして大切な場所なのです。我々はもっともっとトイレというものを大切に考える必要があると思います。おっと、突然急なトイレ談義となり、失礼しました。

 

 丸子町の外れの方で道はR152に入りました。この道は八ケ岳山麓の白樺湖に向かう道です。少し先に道の駅「マルメロの駅ながと」というのがありますので、ちょっと寄ることにしました。この道の駅には温泉の入浴施設があるのですが、以前寄った時には休館日だったのを思い出しました。広い構内には、幾つかの地元の産物の加工や販売の建物があり、その中では漬物の店が一番賑わっているようでした。この店の前にはどういうわけなのかその昔に使われていたオート三輪車が置いてあり、それが結構目を引いて人を集めているようでした。この乗り物を見る度に、子どもの頃の時代を懐かしく思い出します。売店を覗きましたが、特に買いたいものも無くざっと構内を巡るだけでした。バサマが何を買ったのかは知りません。

 

 ところでマルメロというのはどんな植物なのかまだ見たことがありません。長野県の諏訪地方を中心に昔から栽培されていたということですが、名前の方は微かに聞いてはいるのですが、果実がどんなものなのかははっきり分らないのです。店の人に聞いても曖昧な説明で納得できませんでした。カリンに似たものだという話は聞いているのですが、具体的にどう違うのか一度その木と果実をじっくり見てみたいものだと思っています。カリンという呼び名も気に入っていますが、マルメロというのもいいなと思っています。道の駅の名前に掲げているのなら、せめて2~3本は駅の構内にマルメロの木を植えておいてもよさそうなのにと思ったのでした。

 

 長門町の道の駅を出た後は、R152を丸子町の方に少しもどって、右折して再びR254に入り佐久市方面へ。ちょっとした坂道を越えると浅科村という所に出ましたが、ここにも道の駅がありますので、昼食休憩とすることにしました。既に雨は止んでいて、空が少し明るくなって来ているようです。珍しく売店の中のレストランで何か食べることにしようかという気になって、店内を覗いたのですが、メニューを見ても値段の割には是非食べてみたいというものが見当たらないので、止めることにしました。その代わりに家内が先ほどの長門町の道の駅で買ってきた、長野名物のおやきを食べて済ますことにしました。店の中にゆで卵が売られていましたので、それを買って来て追加しました。お湯を沸かしお茶を淹れてのつましい昼食となりました。

 

 少しさびしさも加わった昼食を終えて出発です。R254をそのまま進んでゆくと、佐久市街を通り抜けてやがて群馬県の県境を越え下仁田の町に向かいます。県境近くに荒船山というのがありますが、これが岩石荒々しく山肌をむき出しにしたインパクトのある山容をしています。妙義山と似ており、ずっとこれが妙義山なのだと思っていたのですが、地図を見ていて明らかに位置が異なりますので、それと知ったのでした。それにしてもこの辺り一帯は太古の火山活動なのか、地殻変動なのか、凄まじい大地の揺さぶりのようなものがあったのではないかと勝手に想像してしまいます。

 

 曲がりくねった山道を下って、しばらく行くとこんにゃくとネギで有名な下仁田町に入りました。それらの名産品を買おうと店を物色したのですが、道脇にはなかなか良さそうな店が見つかりません。とうとう町の外れまで来てしまった場所にJAの販売所がありましたので寄ったのですが、ダメですねえ~。今朝の堀金村の道の駅の販売店とは比べ物にならないほど品質は劣るし、価格は高すぎるのです。JAも農家も一緒になってマンネリの仕事にどっぷり浸かったままのような感じがしました。概してJAにはそのような店が多いと日ごろから感じています。(このジサマはアンチJAなのです。JAは善良な農家を食い物にしていると思い込んでいるからです)ま、それでもせっかくだからとネギを1束だけ買いました。大して大束でもないのに600円もするのです。安いという感じはしません。全くの期待外れでした。バサマは下仁田をシモニタと発音するのが苦手で、ついシモネタと言ってしまうと悩んでいました。普段下ネタの話は軽蔑しているくせに、変な人だなと思いました。

 

 下仁田町を過ぎると一気に平地となり、付近の風景も大分に遠くを見通せるようになって来て、家や建物も増えて都市の臭いが漂い出してきます。富岡市、藤岡市を過ぎて、間もなく埼玉県に入りました。ここまで来ると我が家はぐっと近くなり、帰ろうと思えば今日中に十分に可能なのですが、今日は日曜日なので敢えて明日に延期したのでした。なるべく家には戻りたくないというのが本心なのです。

 

寄居町でR140に入り秩父市方面に向かいます。この頃から再び雨が本降りになり出しました。途中長瀞町の先から県道に入って吉田町の方へ。この町にも「龍勢会館」という勇ましげな名の道の駅があるのですが、ここには温泉がありません。ここには七平豆腐という気に入りの豆腐があるのですが、今日はまだ五箇山の豆腐が残っていますので、買うのは止めてパスすることにしました。しばらくその先を行くと宮戸という交差点がありこれを左折すると今日の宿のある両神村に向かうのです。いつもですと左折した後ちょっとした峠を越えなければならないのですが、今日は何と以前から工事中だったトンネルが既に開通していて、あっという間に向こう側に出てしまったのでした。いつも当たり前と思って潜っているトンネルも、それがあるのとないのとでは実に大きなタイムロスがそこに秘められているのだということを改めて実感させられました。近くのスーパーで少し買い物をした後、すっかり暗くなった中を道の駅「両神温泉薬師の湯」に到着しました。

 

 旅の終わりの夜は雨となりました。旅装を解いて(それほど言い方に恰好を付ける必要もないのですが)、先ずは温泉に直行です。ここの温泉は、サウナなど余計なものは一切なく脇の方から泡の出てくる浴槽が一つあるだけの簡単な造りです。それなのに料金が600円もするのです。これは普通だと敬遠するレベルなのですが、なぜかこの湯が気に入っており、度々入りに来ています。住まいのある東村山市からは比較的近いということからなのかも知れませんし、お湯にも相性がいいということかも知れません。ゆっくりお湯に浸って、旅の最後の温泉を楽しみました。

 

 お湯から出ると、この旅での最後の乾杯となります。今夜はいつもの似非ビールではなく、本物の恵比寿と黒ビールを特別に仕入れて用意してあります。それをコップに注いで「カンパ~イ」と声を上げ、一気に喉を潤したのでした。

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ジジババ二人くるま旅漫遊紀行(2003年 西の方へ行くの卷)第18日

2011-12-27 00:29:50 | くるま旅くらしの話

 第18日 遊湯館しぶきの湯(岐阜県)から道の駅:アルプス安曇野ほりがねの里(長野県)まで

 

 昨夜は良い天気だったので、今朝は冷え込みがきつくなるのではないかと思ったのですが、起きてみるとそうでもなさそうです。外に出てみると、曇り空に変わってしまっていました。起きた時、車の窓からオレンジの光が見えたので、日が昇って良い天気ではないのかと思ったのですが、それは外灯の消し忘れでした。とんだ錯覚です。こんな日は楽しくないことが起こることが多いので要注意です。

 

 この場所ではトイレの処理などが出来ませんので、早々に道の駅の方に移動することにしました。10分足らずで到着です。早朝なのに道の駅には大型、小型トラックが数多く留っていて、エンジン音がうるさく、排気ガスも付近一面に沈滞している感じです。営業車のトラックの殆どは、当たり前のように、どの車もエンジンを掛けっ放しのままに仮眠をとっているようです。酷い環境状況だなと思いました。これは何とか厳しく規制して欲しいなと思います。エンジンを掛けなくても仮眠が出来るようにして欲しいのです。それは運転手の責任ではなく、メーカーの責任や運送経営者の責任だと思います。或いは政治家の責任かもしれません。上の立場に立つ人たちが、もっともっと真剣に現実の状況を確認し、スピーディな改善に取り組まないと、本当に地球はダメになると思います。エライ人たちには、きれいごとばかりが多くて、やることが遅すぎます。昨夜はここに泊らなくて大正解だったと思いました。

 

 軽く食事をした後、高山市の方に向かって出発。今日は家内の要望で、高山市にある民家園の「飛騨の里」というのを見学することにしています。せっかくなので、そこへ行く前に高山の名物の宮川沿いの朝市を覗くことにしました。高山には一年ぶりの来訪です。我々の旅では、高山と古川はいつもセットになっています。どちらにもそれぞれの持ち味があって、その両方を楽しむのが当然だと思っています。何度も来ているのに、高山市内で駐車場を探す時にはいつも同じように間違って戸惑い、結局は細い道を通っていつも同じ駐車場に車を入れることになるのですが、今回もやはり同じ繰り返しでした。もはや記憶は後ずさりするばかりで、進歩は期待できないということなのでありましょう。

 

 歩いて坂道を下り、商店街を通って宮川に架かる橋の脇から朝市の人の流れの中へ。宮川の脇の細い道の両脇に幾つもので店が連なっています。最初にここへ来た時は、興奮してあれもこれもといろいろなものを買い込みましたが、この頃はすっかり落ち着きがでてきて、買うことよりも朝市の雰囲気を味わうためにここを歩くというのが多いように思います。今回は家内が自分用にゴマに飴を絡ませた(その反対なのかも)何とか云う菓子を買っただけでした。陣屋跡にある朝市の方にも行ってみましたが、特に目ぼしいものは見当たらず、こちらもざっと見ただけでした。家内がどうしても味噌を買いたいというのですが、古い屋敷町の方はまだ殆どの店が開店前でした。しばらく待つことになりました。この屋敷町も毎度お邪魔していますので、今日は味噌を買うだけにして貰いました。少し待って半年分とも思われる味噌を買い込みました。重い、重いのです。駐車場まではかなりあるので、こりゃあ大変な仕事です。この役割はいつもジサマのもの。我が家では、ジサマは運輸省であり、バサマは常に大蔵省なのです。今やどちらの国の役所も名前が変わってしまいましたが。

 

 ようやく車に戻り、飛騨の里に向かって出発です。飛騨の里は高山の市街地を少し離れた清見村の方向にあります。途中に大きな案内板がありましたので、迷うことなく到着することが出来ました。しかし、この後トラブルがありました。というのは、うっかりそのまま駐車場に入ろうとしましたら、そこは機械の受け付け装置のある駐車場で、表示を見たら何と千円となっているのです。普通車は300円ですから、随分差があります。SUN号はどこでも普通車で扱って貰っていますので、これは不当です。戻ろうと思っても後ろに車がいるので戻れません。やむなく入ってしまいました。駐車場の管理人に話をしたのですが、聞き入れてくれず機械が正しいという判断です。確かにSUN号は少しばかり図体が膨らんではいますが、大型バスと同じ料金というのはどう考えても納得できません。しかし、いくら話してもまけてはくれませんでした。不愉快になりました。

 

 家内の方は念願の飛騨地方の村の住処などを見られるので、張り切っていますが、ジサマの方は元々さほど関心がありません。というのも茨城県の山奥の村育ちですから、山村の貧しい暮しは子どもの頃十二分に体験済みなので、そのようなものを敢えて思い起こすようなことには係わり合いたくないというのが本心なのです。古民家などというものは、学術資料などという切り口から眺めれば、興味の持ち方が違うのでしょうが、暮らしの場という切り口からそれを受け止める場合は、当時そこに暮らした人たちの辛い生き様や苦労のあり様などの蠢(うごめ)きを想ってしまい、それに自分の子供の頃の終戦当時の惨めな思い出とが重なって、それが眼前に甦って来るので、ジサマの方は古民家などというものをあまり見たいとは思わないのです。

 

 というわけで、駐車料を大型バス並みにふんだくられてその上に高い入園料を払った上、更に昔の嬉しくない暮らしぶりを思い起こさせるような建物を見るなどという気はしなくなって、ジサマの方は中には入らないことに決めました。民家は山の斜面のかなり広い敷地の中に幾つも点在しており、それらを全部見るとなると、4~5時間はかかることでしょう。時間はたっぷりあります。バサマを見送った後は、先ず汚れている車の清掃です。車体を丹念に拭き、車内をきれいにしたりしているとあっという間に1時間が過ぎました。その後は記録の整理です。このところサボっていたので、これもかなり溜まっています。2時間ほどその作業に集中しました。それでもまだ時間がありますので、昼飯時なのでご飯を炊くことにしました。それとついでに、先日鳥取県の三朝で買ったムカゴがまだそのままだったので、これを塩茹でにしました。

 

 ま、ざっとこのようなことをしていますと、12時半ごろ意外と早く家内が戻って来ました。お昼にはちょうどいいタイミングです。早速昼食です。くるま旅では食事を作る作業は女性と決めるのは無謀というものです。在宅の時と同じように食事の用意は女性の仕事などと決めると、融通性の無いつまらない旅となることは必定で、恐らく女性の方から一緒に旅に行くのはお断りということになりましょう。それが嫌で3度の食事を外食などにしたなら、間違いなく何らかの病気になるに違いありません。我が家では食事はその時の都合で作れる人がつくることにしています。在宅のときだってジサマが食事を作るのも珍しくはないのです。

 

 ちょっと横道に逸れました。戻って来た家内の方は興奮さめやらず、もう上機嫌でいろいろ見て来た感想などを話したがります。聞いている内にだんだん疲れて来ますので、次第に聞いているふりをする度合いが強くなり出すのですが、家内の方はそれを無視して話続けようとします。そこでもう一段我慢して調子を合わせたりしているのですが、これはやはり不誠実ということなのでしょうか?どちらさんでも同じような現象が起こっているものなのか、知りたい気持ちがあります。ハイ。

 

 さて、これからの予定ですが、一応今回の旅は明後日には帰宅予定にしています。旅の終わりの頃には、干柿用の渋柿を信州で買って帰ろうと考えていますので、これから安曇野堀金村にある道の駅へ行って泊ることにしました。野菜や果物を買うならやっぱりあそこの道の駅が一番だからです。ということで、来た道を戻り高山市街地を通り抜けて、R158を丹生川村の山道へと入って行きました。長い登り坂はSUN号の最も苦手とする道ですが、平湯トンネルから安房トンネルを抜けるまではこの苦手の道がずっと続きます。後続車が無ければマーペースで気楽なのですが、そうでない場合は気楽というわけにはゆかないからです。どんなにアクセルを踏んでも40kmくらいしか出ない箇所もあって、何だか車が可哀そうになるのです。

 

 幾つもの坂を登って、トンネルを抜けると平湯温泉が見えました。ちょっと寄って風呂に入るのも良いかななどと思いながらも今日はその気はありません。安房の有料トンネルを抜けるとしばらく曲がりくねったトンネル付きの下り坂の道が長く続きます。間もなく上高地や穂高へ行く基地のある所を通過しました。上高地や白骨温泉にはまだ行ったことがありません。これから先の夏の間は、ずっと北海道で暮らすことを考えていますので、恐らく生涯大正池などを見ることは無いように思います。今の時期でも上高地に行く人は多いと見え、かなりの数の車が駐車していました。引き続き坂を下ってやがて道の駅「風穴の里」に寄り、ちょっと休憩しました。

 

 風穴の里というからには、近くに風穴なるものがあるに違いないのですが、まだ行って見たことはありません。ここには何度も寄っているのですが、通過の途中の休憩点としか考えていないので、本当は勿体ないことをしているのかも知れません。穴の中に入るようなことはあまりしたくはない(閉所恐怖症の気あり)のですが、一見はしておきたいなどという別の慾はあるのです。道の下には青い水を湛えたダム湖が横たわっていますが、それを囲む周辺の山は秋色に染まった全山紅葉が水の青さを一層引き立てています。しばらくその壮大な景色を眺めました。休日の所為なのか車が多く出入りが賑やかです。多くの人は売店やトイレ辺りを忙しそうに動き回っていて、ダム湖の景観を楽しんでいる人は皆無のようでした。世の中は何かと忙しいようです。

 

 一息入れて出発です。R158はこの辺りでは野麦街道と呼ばれているようです。野麦峠というのは別のルートで丹生川村の南に隣接する高根村からの県道で、その道が長野県の奈川村を経由して安曇村でこの道に合流するのです。野麦峠といえば、「女工哀史」(細井和喜蔵著)の、紡績工場に働きに出かけざるを得なかった、貧しい農家などの若い娘たちの過酷な労働の姿を思い浮かべますが、野麦峠は標高1700m近い細道の最高点なのでした。涙を流しながらその峠を越えてこの山道を下って行った少女たちがいたのは、今から100年も経っていない、ほんの少し前の時代だったのです。そんなことを想うと、今の時代というのは、やはり相当に豊かな恵まれた時代なのだと言えるのかもしれません。しかし、あまりそれが実感できないのは、恵まれ過ぎた故の驕りなのでしょうか。人の生き様というのは、やはり不可解のようです。

長野道松本ICの前で野麦街道と別れて左折し、堀金村に向かいます。梓川村を過ぎ三郷村に差し掛かる頃から急に道が混み出しました。僅か1年の間に、この辺りの道の両側にたくさんの全国版の大型の店が進出して来て、ショッピングモールを形成しているのでした。これはもう東京近郊の都市部の様子と変わらない様相を呈していました。この所為で車が渋滞しているのだと判りました。間もなく目的地に着きました。

 

 この道の駅には何度も来ており、我々の気に入りの場所の一つです。泊ったこともあるのですが、トラックなどが多いので、泊りにはあまり向いていないように思います。この道の駅の素晴らしさは、何といっても様々な農産物とその加工品などが高品質で、しかも安価に販売されているということです。この町の西側には常念岳はじめ日本アルプスの高山が連なっていますが、その山麓にはサラダ街道と呼ばれる野菜畑を縫う道が通っており、その辺りで生産される野菜は高品質のものが多く、それがここで手に入るのです。例えばスーパーなどで1本(=1片)100円もするようなセロリが、それを何本も束ねたような大株をここでは200円ほどで手に入れることが出来るのです。干柿用の渋柿もその一つですが、驚くほど安い値段で手に入るのです。いつ来ても道の駅の売店には活気がみなぎっており、それを感ずるだけで嬉しくなってしまいます。恐らくここでは生産者と販売者をつなぐ仕組みがしっかりと出来ており、それが上手く機能しているのだと思います。

 

早速売店を覗いてみましたが、もうたそがれ時となっており、売れ残りの僅かの商品しか残っていませんでした。明日が楽しみです。

道の駅の観光案内所の中の資料を見ていたら、その中に「ほりでーゆー四季の郷」というのがあり、そこには温泉入浴施設があるのを知り、そこへ行ってみることにしました。ここからは6kmほどの山寄りの場所なのでした。早速向かうことにしました。少し暗くなりかけた道を進んでゆくと、途中から小雨がフロントガラスを濡らし出しました。このまま大した降りにならなければ良いがと思いながら行くと、間もなく四季の郷に到着です。山の中腹に拓かれた台地に3階建のかなり部屋数のある大きなホテルのようなものが建っていました。この中に立ち寄り湯の出来る施設があるようです。駐車場も広く、泊っている車はかなり多いのですが、それでもまだかなり余裕があります。これなら今夜はここに泊っても大丈夫なのではないかと思いました。

 

 風呂から出て、特に断らなくてもこれだけ広いのだからいいだろうと勝手に決め、そのまま泊ることにして、建物からはかなり離れた駐車場の隅の方に移動して夕食としました。勿論風呂上がりの一杯は何よりの楽しみですから、缶ビールで乾杯です。風呂も良く温まって良い気分でした。毎日の就寝時刻といえば、20時を超えることは殆どありません。いい気持ちになって寝床の中に直行です。ところが、‥‥です。‥‥でした。

 

  一眠りして眠りが浅くなった頃だと思います。23時50分くらいではなかったでしょうか。ホトホト、コンコンとSUN号のドアを叩く人がいるのです。何か変な奴ではないかと一寸緊張しました。今まで真夜中に車のドアを叩かれたことなど一度もなかったからです。でも叩き方からは、まあ普通の人だろうと起き出してドアを開けますと、何とそこに立っていたのはガードマンと思しき人物なのでした。その人が言うのには、何かホテルに用があるのか?ということなのです。勿論、何も用などありませんから、そう答えますと、彼が言うのには、ここは0時までで営業が終了するので、用が無いのなら出て行って欲しいということなのでした。これには恐れ入りました。やっぱり最初にフロントで訊いておくべきでした。周りには1台の車も留っていないので、大して迷惑を掛けるわけでも無いじゃないかと思いつつも、やはりホテルの営業ということからはその敷地内に無断で泊るというのは問題だと思います。これは道理だと思いました。文句を言うのは止め、直ぐに準備をして出発することにしました。

 

その後は、堀金の道の駅を目指して、小雨の降る真っ暗な中を、坂を下ったのでした。又々の失敗談となりました。アルコールの方は大した量では無かったので酔いなどは完全に醒めており、運転には全く問題が無かったことを申し添えます。道の駅に着いて、なるべくトラックの騒音からかなれた場所を選んで車を留めました。かなり多くの車が留っており、やはりエンジン掛けっ放しの車も少なくはありませんでした。雨は次第に本降りとなり、天井を叩く雨の音も次第に大きくなり出したようです。こうなるともう簡単には眠れないので、お茶を飲んだ後はしばらく旅の記録のことなどをあれこれ考えたりして時を過ごしました。とにかく大失敗でした。

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ジジババ二人くるま旅漫遊紀行(2003年 西の方へ行くの卷)第17日

2011-12-26 01:17:00 | くるま旅くらしの話

 

第17日 道の駅:井波(富山県)から遊湯館しぶきの湯(岐阜県)まで

 

 少し早く起き出して水汲みや清掃など車に係わるいつもの仕事に精を出しました。これらの仕事は100%ジサマの担当となっています。今頃はもう習慣となって身についてしまっていますから、旅の間は何の疑問も湧きません。むしろ身体を動かすのが楽しくて仕方ないというのがジサマの本心なのです。水場は少し遠くて100mほど離れた公園のものを使わせて頂きました。10Lのポリタンを下げて6往復しましたから、結構いい運動になります。楽をするなら直ぐ傍まで車を持って行けばいいのですが、それはしないことにしています。水を汲むのは運動のためというのが目的の半分を占めていますから、楽をしてしまったら目的が不意になりますし、糖尿病にだって良くないのです。不便を楽しむというような心境がこの頃は当たり前となりつつあります。変人なのかもしれません。

 

 朝食の後、しばらく記録の整理などに取り組んだのですが、今日はどうやらここで何かのお祭りがあるらしく、祭り大好き人間の家内は開催時間を待ち切れずに早々に車を飛び出してどこかへ消えてゆきました。木彫りの彫刻に係わる何かのイベントのようですが、さてどんなものなのか祭りの方は家内に任せてジサマの方は写真の整理やら日記の整理やらと結構忙しい時間を過ごしました。しばらくパソコンの作業に集中していますと、家内が大きな平べったい箱を抱えて戻って来ました。何かとんでもない衝動買いをしたのかと不審に思ったのですが、話を聞いて驚きました。祭りのイベント会場で籤つきの小さな木彫りのペンダントを買いましたら、何とその後で引いた籤が当たって、2等賞をゲットしたというのです。何だろうと早速箱を開けて見ましたら、木彫りの葡萄を刻んだレリーフの額で、買えば10万円相当の作品とのことなのです。いやあ、たまげたねえ。こんな立派なものを本当に貰っちゃっていいのかと心配になるくらいでした。ジサマの方には生来この方籤運は全く無くて、毎年500枚も頂く年賀状も、ずっとお年玉切手ばかりを貰い続けていますが、家内という人は時々このようなものを頂戴しているようです。先日どこかの神社に参拝の際にジャンボ宝くじが当たるようにお願いしていたようですが、こんな大当たりを頂戴してしまった以上は、もはやそちらの方はダメになったに違いありません。いやあ、ちょっとした今年の出来事でした。

 

 ジサマもちょっと覗いてみようとその会場に出かけてみました。先ずは籤の担当者の所に行き、先ほどのレリーフを頂いたお礼の挨拶をしました。高額のものなので、それくらいのことはしなければいけないと思った次第です。木彫りの展示会場を覗くと、驚いたことに数多くの天神様(=菅原道真公)の座像が並んでいました。それらの多くはケヤキの木を用いて作られていました。どうしてこんなに天神様の像が並べられているのか不思議に思った家内が担当の人に訊きますと、富山県のこの地方では女の子が生まれた時にお雛様を飾ると同じように、男の子が誕生すると家々でこの天神様の座像を飾ってお祝いをするのだそうです。なるほど、しっかり勉強して将来はノーベル賞を頂いた田中さん(=2002年ノーベル化学賞受賞・田中耕一氏)のような優秀な子に育って欲しいという親たちの願いが込められた慣習なのだなと思ったのでした。かなりの方が見に来ておられましたが、その多くは我々と同じ世代の人たちであり、若い世代の方は殆ど見当たりませんでした。思うにこれらの購買者は初孫の誕生で天にも昇る心地になっているおじいさん、おばあさんなのでありましょう。何しろその座像というのは一体の価格が平均40~50万円もするのですから、若い親には欲しくても買うのはなかなか難しいことかと思います。それにしてもジジババの方も大へんだなと思いました。幸い(?)にして東京はいい加減な人の集まった所なので、我々にはそのような心配がないので良かったのかな、などと思ったのでした。その他にも見事な木彫り作品の数々が展示されており、目の保養となりました。

 

 さて、今日からは帰途につくという感じの行程となります。大まかには先ずは五箇山を訪ね、白川郷から飛騨に入って高山や古川を見物しながら、その後は信州を経由して家路につこうと考えています。出発は10時過ぎとなりました。R156に出て、これを庄川に沿って飛騨の山々に向かって進めば五箇山の方に行くことができます。井波は富山平野が飛騨の山裾につながる辺りにあり、庄川町から少し行けばたちまち山道に入ることになります。所々にダムがつくられており、それらの横を走る道は存分に曲がりくねった坂道なのでした。幾つもの洞門も潜りました。今年は今のところずっと暖かい日が続いている所為か、紅葉が今一という感じでしたが、さすがに幾つもの坂を登るにつれて木々の葉は色づきの濃さを増し、やがてそれらの木々に覆われた山はすっかり秋色に染め上げられる景色となりました。庄川に作られたダムの湛える深いブルーの水の色と鮮やかな紅葉との対比が見事でした。

 

 しばらく走り続けると道の駅「たいら」がありましたので、ちょっと寄って休憩です。ここには和紙の工芸館があり、そこで作られた何種類かの手漉きの紙を売っていました。家内は折り紙に興味関心があり、それ用のものを何種類か買っていました。ジサマの方はこの頃は書もやらず、手漉きの紙とは縁の薄い暮らしぶりです。でも和紙は好きなので何も買わないのを寂しく思い、一筆箋の用紙を一つだけ買いました。その内に家内が今朝の食事が祭りに気を取られて不足だったとかで、お腹が空いたのでご飯を食べたいと言い出し、レストランに入ることになりました。彼女は本格的なメニューをオーダーしていましたが、ジサマの方は大して腹も減ってはいないので、豆腐の刺身を一つだけ注文しました。豆腐の刺身というのは冷ややっこという奴で、これはジサマの大好物なのです。あとで別途豆腐を買う予定がありますので、ここでの注文は一番小さい半丁ほどのものでした。やむなくバサマの食事に付き合ったというわけでした。

 

 食事の後は、更に同じような山の坂道を登って行くと、やがて相倉の合掌集落入り口の案内板がありました。五箇山には幾つかの合掌造りの集落がありますが、今回はこの相倉の集落だけに寄ることにしました。もう何度もお邪魔していますので、写真を撮りたい家内の方にはご自由に出向いて頂いて、ジサマの方は駐車場の車の中に残って記録の整理などをすることにしました。しばらく経って、気分転換に外に出てみました。いい天気です。のどかな山里の風景が広がっています。丘の斜面に拓かれた畑に、赤蕪や白菜などの野菜が陽を一杯に浴びて育っていました。間もなくこの野菜たちも一面の雪の中に埋もれてしまうのだろうなと、山里の暮らしの厳しさを想ったりしました。大自然というのは不思議というか、恐ろしいパワーを秘めているものです。間もなくカメラを抱えて家内が戻って来て出発です。

 

 次なる目的地は合掌造りの大集落の白川郷です。引き続きの山道を更に進んで行くと上平村に入りますが、ここに山本豆腐店というのがあります。ここを通る時は必ず寄って五箇山豆腐と呼ばれるものを買うことにしています。五箇山の豆腐は縄で縛って持ち運びするといわれるほどの固い豆腐なのです。これはジサマの大好物です。京都の湯豆腐は有名ですが、あれも決して嫌いではありませんが、どうも柔らか過ぎて歯ごたえがなく、概して何ごとにも鈍感なジサマにはどうも今一はっきりしない味なのです。在宅の時は木綿豆腐しか食べないのですが、あこがれはその頂点にあるもっと固い豆腐たちなのです。ここの五箇山豆腐や白山の固豆腐などはチーズに近いような食感があって、如何にもたんぱく質を食べているというのを実感できるのです。先ほどの道の駅でも豆腐を食べているのですが、そんなことは問題ではありません。早速店の中に入って、豆腐を2丁と厚揚げを買いました。ここの豆腐の大きさは東京などで売られている木綿豆腐の普通サイズの4倍以上はあると思います。ですから狭い冷蔵庫には2丁を入れるのが限界なのです。買い置きが出来るのであれば、本当は10丁くらい欲しいのですが。今夜からおかずや肴の心配もなくなり、酒は山ほどあるしと、思わずほくそ笑んだジサマなのでした。

 

 富山県と岐阜県との県境の印の表示板を何回か出入りしながら間もなく白川郷の道の駅に着きました。白川郷には何年か前に民宿に泊まったりもしていて、何度か来ているので、今回は一寸休憩がてら写真を撮るといった程度のことしか考えていません。郷の中に入って行くと車も人も混み合っていて駐車するのも難しい状況なので、先ずは集落を見下ろせる大展望台というのへ行くことにしました。少し坂を登って直ぐに到着です。ここは昔の城跡でもあるのでしょうか、白川郷の合掌造りの大集落が下方に一望できます。その風景は世界遺産に登録されたものとしてそれなりの貫録を示している様に思えます。家内は早速カメラを抱えて飛び出して行きました。写真を撮るには絶好の場所のようで、立派なカメラを操作している人も何人か先着していました。ジサマの方は景色は一寸見るだけで十分なので、お湯を沸かしてお茶を入れ、しばらく休憩をしました。今日のこれから先の行程などを考えました。今夜は高山市の隣の古川町の道の駅に泊ろうかと考えており、本当はここからR360を行けば近いのですが、先ほど道の駅の人に訊いたところでは道は狭く離合が難しいというような話なので、敬遠することにしました。途中の天生峠(あもうとうげ)は標高1290mもあり、これはとんでもない高さです。

 

 一息入れてやっぱり郷の中もちょっと覗いてみようかと下に降りて行ったのですが、案の定大混雑で通行もようやくといった感じで、とても駐車など無理な状況でした。先に行くことにして、R156に出ることにしました。白川郷には一度雪の季節に訪ねたいなと思っているのですが、旅車では一寸無理でありましょう。バスなどでということになると、何だか大げさになってしまいやっぱり実現は難しそうです。イメージの世界に浸るだけで我慢することにします。しばらく走ると御母衣(みほろ)ダムが見えてきました。このダムはコンクリートで固め造ったものではなく、土砂というのか大小の自然石を積み上げて造られています。これをロックフィルダムというのだそうです。そこで使われた石の量はものすごいものだと思いますが、コンクリートのものよりはどっしりしている感じがあり、ジサマ的にはこのダムの方に親近感が湧くように思います。

 

 ダム脇の坂道を駆け上がると、大きなダム湖が広がっていました。御母衣湖です。ま、庄川が膨らんで水を湛えているということなのですが、その量はかなりのものになるのではないかと思います。しばらくダム湖の脇の洞門やトンネルなどを潜りながら行くと、途中に荘川桜と呼ばれるアズマヒガンザクラという樹種の桜の古大木が2本道脇に鎮座していました。この木はダムの湖底に沈んだ村のお寺の境内にあったものを、ここへ移植したものだそうで、樹齢450年といわれる大木です。まだ花を身にまとったその姿を見たことはないのですが、恐らく素晴らしく美しい姿に違いないと思います。湖底に沈んだ村の歴史の生き証人として、いつまでも元気に花を咲かせ続けて欲しいと思います。

 

 やがてダム湖が終わり、しばらく行くと新しく出来た道の駅「桜の郷荘川」というのがありましたのでちょっと寄って行くことにしました。庄川に係わる町村名には二つあって、下流の富山県は庄川町、上流の岐阜県のここは荘川村と書き、字が異なっています。庄川町はSHOUGAWAと発音し、荘川村はSHOUKAWAと発音するようです。面白いなと思いました。川の呼び方も夫々違うのかどうかはよく分りませんが、流れている川はつながっているのは確実です。この道の駅のは温泉もあるというので、ちょっと覗きましたら料金が700円となっていました。少し高いなという印象でした。入らずにパスです。

 

 道の駅を出て少し行くR156は高山市の方に向かう道との分岐に差し掛かります。これを左折してR158に入り30kmほど走って、古川町の方へ向かう県道90号線へ左折して入ることにしました。結構良い道なのですが良いなあなどと褒めながら走っていると突然道幅が狭くなって離合がやっとという状況になったりして、何度か肝を冷やされたことでした。山道というのは図体のでかい車には本当に要注意です。ナビなどに頼ったらとんでもないことになるのではないでしょうか。ナビなし主義でも山道を走る時は慎重に道を選ぶ必要があると思います。ようやく古川町のR41に出たのですが、ここから方向を間違えて富山側にしばらく走ってしまい、途中で気がついてあわてて戻ったりするドジなどがあったのですが、どうにか道の駅「アルプ飛騨古川」に着きました。

 

 まだ日暮れには少し時間があるので、久しぶりに古川の町中を散策することにしました。役場近くの町の駐車場にSUN号を留め30分ほど古い街並みを歩きました。飛騨古川は愛着を覚える町です。飛騨の山里の雰囲気が残っている懐かしさにあふれた町だからです。町の中を流れる堀には清流が流れ、たくさんの錦鯉が尾を振って泳いでいます。町中の表通りには造り酒屋や手づくり蝋燭屋など昔をしのばせる落ち着いた雰囲気の店が並び、旅をする者にとっては懐かしさに溢れた世界に出会うことが出来るのです。

 

もうここには何度も来ているのですが、最近はちょっぴり雰囲気が変わってしまったようで、気になっています。というのも、古川はNHKの朝ドラ「さくら」で有名になってしまった(?)所ですが、それ以前から来ている自分たちにとっては、あの朝ドラで名が知れたのが嬉しいというよりも迷惑感の方がずっと大きいように思えるのです。例えばその代表的な出来事として、手作りの蝋燭をてにいれることが出来なくなってしまったというのがあります。これは一時的な現象なのだとは思いますが、以前は何事もなく蝋燭を選んで買えたものが、昨年来た時は人だかりがしていて、店に近づくことも敬遠したくなるほどの雰囲気なのでした。今回もまだその状況が続いていました。人が多すぎるのです。こんな風にして有名になるのが本当に良いことなのか、当事者の方に訊いてみたいと思うほどです。あと何年か経ったら伺ってみたいなと思っています。

 

ここへ来た時にはやはり酒を買う必要があります。この町には「蓬莱」という銘柄と「白真弓」という銘柄の造り酒屋さんがあり、いつも来た時にはどちらかを買うことにしているのですが、今回は「蓬莱」の方を1本買わせて頂きました。何しろ正月用が既に12本もあるので、これ以上買うのは無理というものです。「白真弓」の方は次回には必ず買わせて頂くことにしますから、お許しあれ。

 

 暗くなり出したので散策を切り上げ、温泉に入ることにする。ここから少し山の手の方に宇津江四十八滝という名所があり、その近くに「遊湯館しぶきの湯」という温泉施設があります。去年そこを利用させて貰った実績がありますので、今回も行くことにしたというわけです。去年は風呂に入っている間に大雪となり、出て来たら20センチほど積もったのを見て驚き、タイヤチエーンを持って来ていないために困惑したのを思い出します。今年はまだ雪の気配など全く無い暖かさです。広い駐車場に車はまばらでした。今夜はここに泊めてもらえないかと受付けで聞いて見たらOKとのことです。ここならトラックなどは入って来ないでしょうから、道の駅よりも静かに過ごせるはずです。その代わり熊さんなどの訪問があるかも知れず、ちょっと心配はありますが、ま、じっとしていれば大丈夫でしょう。

 

 というわけで、風呂から出れば一杯やって寝るだけですから、その後はゆっくりと山の湯に浸ったのでした。この旅で何度目の温泉かなあなどと、指折り数えたりして、今、こうして湯に浸れるありがたさを噛みしめたのでした。何といっても旅の楽しみの中で温泉の占める割合は大きいと思います。毎日とはいきませんでしたが、それでも何度かいい湯にめぐりあってありがたいことでした。温泉から出た後は、ほんの少し車までの歩きとなりますが、空に満月に近い天球が輝いていました。先日(第7日)四国の佐田岬に向かう夜の道には、あの月は細く鋭い刃の形をしていたものが、今は丸くなって輝いているのです。時間の経つのは本当に早いものです。

 

 車に入り、いつものようにビールで乾杯して夕食です。その後は好きな音楽などを聴きながら寝床の中へ。TVもラジオもない暮らしにもうすっかり慣れてしまいました。無ければ無いで何も困らないのですが、でも音楽だけはやっぱり必要です。

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ジジババ二人くるま旅漫遊紀行(2003年 西の方へ行くの卷)第16日

2011-12-25 00:30:54 | くるま旅くらしの話

 

第16日 道の駅:中島ロマン峠(石川県)から道の駅:井波(富山県)まで

 

 昨夜は少し雨が降ったようでした。起きて外に出てみると路面が濡れていました。空に黒雲が多く、天の機嫌は悪そうです。雨が降らなければ良いがと思いました。昨夜は予想通り騒音もなく熟睡をすることが出来て快調です。ここは泊るにはお勧めの場所だなと思いました。朝食の後、いつものように車の給排水、トイレの処理、点検などをして少し早めに出発することにしました。今日のメイン予定は正月用のお酒を買うことです。その後のことはまだはっきり決めていません。お酒は珠洲市にある宗玄酒造という蔵元でつくられているその名も宗玄という名の銘酒です。

 

少し早めの出発となりました。ここから珠洲までは80kmくらいありますから、結構時間がかかります。能登半島というのは地図で見ているよりもはるかに広い感じがします。海岸線に近づいたと思ったら、たちまち山の中に入って急な坂道を登ったり、しばらく走ると再び海が近づいてきて、潮の香りが漂ってくるという実に変化に富んだ地形です。珠洲市は半島の東突端にあり、朝市で有名な輪島よりももっと遠いロケーションにあります。さすがにここまでやってくる車は少なく、道はずっと空いていて快適なドライブでした。1時間半近く走って目印の見附島が見えて来たのですが、いつもの造り酒屋さんがありません。見附島も道からかなり遠くなってしまっています。どうやら珠洲市の中心市街に向かう新しいバイパス道が出来上がったらしいようで、旧道に戻らないとダメなのだと気づきました。脇道から旧道に入り少し戻ってようやく酒蔵の前に到着しました。

 

 この酒蔵に来るのは今回で3度目になります。ここで造っている酒を知ったのは、以前勤務していた会社の上司との酒宴の席で、ここの酒が良い酒だと聞いたからでした。というのもこの人は能登の付け根にある羽咋市の出身で、地元の酒などには詳しい方だったのです。とにかく良いかどうかは飲んでみなければ判りませんので、仕事で金沢に来たときに試しに4合瓶を1本買って飲んでみたのですが、味の方もなかなかでしたが、何よりも気に入ったのが酔いざめがすっきりして良いということでした。別の言い方をすれば悪酔いをしない酒だということになります。酒の良し悪しの評価基準は人により様々なのだと思いますが、私の場合は一番大切なのは悪酔いしない質の水で、しかもその水が美味いということです。どんなに舌触りが良くても悪酔いにつながりやすい酒はダメなのだと思っています。1升飲んでも翌日は爽やかな気分の朝を迎えることが出来るような酒こそが上等というものです。飲む量とか体調によって酒の効能も変わるのでしょうが、それらの条件がどんなものであっても決して悪酔いしない美味しい水のような酒が最高なのです。ここの造り酒屋の宗玄という酒は、かなりその条件を満たしていると思っています。酒には吟醸酒や醸造酒など幾つかの区分がありますが、私の場合は冷やして飲んだりすることが多い吟醸酒は、悪酔いにつながり易くダメな酒の部類に入ります。常温で飲んで上手く、ぬる燗でも美味いというのが一番だと思っています。簡単に言えば昔から普通に造っている酒が良いのです。宗玄も上撰と書かれたものが一番だと思っています。上撰というのは、昔の2級酒なのかもしれません。それで良いのです。

 

 駐車場に見かけぬキャンピングカーが入って来たので、何事なのだろうと事務員の人たちは訝しげな顔をして迎えてくれました。今年も1ダースを注文し、6本ずつ箱に入れて貰って積み込みました。何も毎年わざわざここまで買いに来なくてもよさそうなものなのですが、この酒は東京には出回っていないので手に入りにくく、そうかといって取り寄せるほど入れ込んでは又別の問題が起きてしまいますから、年に一度正月用の酒をここで調達するという程度で丁度よいのです。正月に1ダースも飲むの?と驚かれる方もおられるかもしれませんが、知人などに配ったりしますので、これでも足りないくらいなのです。何しろお酒はジサマの小遣いの支払いとなりますので、これから先しばらくの間は耐乏生活を余儀なくされることになります。

 

 吟醸酒を1本おまけに付けてくれました。事務の女性の方が旅車の中を見たいとおっしゃるので、これは家内が担当してガイドすることにしました。旅先で車の中を見たいという方が居られる時は、いつも中に入って見て頂くようにしています。それは決して自慢したいなどという気持からではなく、くるま旅の楽しさを一人でも多くの方に知って頂き、仲間を増やせたら良いなと思っているからなのです。

 

 宗玄酒造の近くに見附島があります。見附島は軍艦島とも呼ばれている、特徴的な形をした小さな島です。お酒を買った後、そこへちょっと寄って行くことにしました。何度か傍を通っているのですが、実はまだ傍へ行ってじっくりと見たことがないのです。今日はそれを叶えようというわけです。いやあ、傍へ行ってみると相当の迫力を感ずる造形でした。本当に軍艦そっくりの形をしているのです。この島には干潮の時には岩伝いに歩いて渡ることが出来るようでした。大自然の中にはよくもまあこのような不思議な造形が出現するものだと、改めて驚いたのでした。しばらく付近を散策した後、出発となりました。

 

     

見附島(軍艦島)の景観。舳先の鋭い角度の大型の軍艦が直ぐ傍の海に停泊している感じの不思議な形をした島です。軍艦の甲板に、松の木などの樹木が生い茂っているのが何となく似合って、これまた何とも不思議です。

 

 これからの予定をまだはっきりさせていません。能登に来ているのだから輪島に寄るのが普通だなとは思うのですが、もう朝市の時間は終わっているし、塗り物を買う予定もないし、どうするかしばらく迷ったのですが、珠洲の反対側の海にある塩田の塩にも魅力を感じていますので、それを見がてら輪島に新しく出来たらしい道の駅をちょっと覗いて見ることにしました。

 

 能登半島の突端を横切って日本海に出て海沿いの道をしばらく走ると、仁江という所があり、ここに揚浜塩田というのがあります。詳しい製法は分りませんが、古来からの塩の作り方のようで、汲んだ海水を浜の砂の上に何度も振りかけて、濃度の濃くなった砂を海水に戻して釜に入れ煮詰めるといったような行程で塩を作るらしいです。能登の製塩は古来より盛んだったそうですが、それほど気候に恵まれていないと思われる地方で、何故塩作りが盛んだったのか、ちょっと不思議な感じがします。家内はここの塩がお気に入りで、来る度に手に入れているようですが、今年は天気が悪くて生産量が極端に少なかったとか、値段の方も高くなってしまっていたようでした。

 

 塩田に寄った頃には雨が降っていたのですが、輪島に近づくにつれて雨は止み、空が少し明るくなってきました。起伏とカーブの多い海岸線の道を走っていると、道の脇の樹に桜の花のようなものが咲いているのに家内が気がつき騒ぐので、一寸停まって下りて見てみると、まさに桜の花が咲いていました。今日は11月の6日です。桜の花の咲く季節ではありません。冬桜の一種なのでしょうか、花が少なくて寂しい季節に静かに咲いてくれるこのような花には、感謝しなければならんなと思いました。街路樹的に何本かが植えられていました。何枚か写真に収めました。少し先に道の駅「千枚田ポケットパーク」があり、ここまでくると輪島はもうすぐです。この道の駅からは歩いて千枚田の中に下りてゆくことが出来ますが、今日は上から立ち止まってしばらく、人間の力の結晶の一つとしての風景を見下ろすだけにしました。

 

輪島の市街に入り、新しい道の駅はどこなのか探したのですが、どうもはっきりしません。どうやら電車の駅舎近くらしいので行って見ましたら、何と駅前広場の横の方が道の駅の駐車場となっているのでした。鉄道の駅なのか、道の駅なのか建物も曖昧で、判別が難しい感じなのです。道の駅と書かれた駐車場は満杯で、駐車スペースなど全くありません。やむなく隣接するスーパーの駐車場に車を停め、駅舎の方に行ってみたのですが、何にもないのです。観光案内書の前に置いてある木造のベンチに腰を下ろした、如何にも輪島のお人らしい形(なり)をした二人のお婆ちゃんが何やら世間話をしているだけの風景でした。その他には何もなく誰もいない静けさばかりです。それなのにどうして駐車場は満杯なのか、どうも解せません。今まで数多く見て来た道の駅の中で、これほどわけのわからない道の駅は初めてでした。このような場所を道の駅と呼んでいいのか疑問を覚えました。旅をする者から見ると何の魅力も感じない空き家のような印象でした。

 

昼飯時なので、駅弁など何か適当なものはないかと探したのですが、駅舎の売店にはそのような雰囲気はなく、諦めて隣のスーパーの中を覗いたのですが、ここにも目ぼしいものは見当たらず、もうがっかりです。こうなると悪態をつきたくなるのがジサマの悪い根性です。悪態をつきながら早々に輪島を後にすることにしました。悪態というのは、例えばこの頃の輪島には、朝市にもさっぱり魅力を感じなくなったということです。観光客がすれっからしとなって来ている以上に売り手の側も儲けることばかりを考えているようで、何だか親近感を覚えないのです。本当にお客を喜ばせる素朴な地元の心というものが伝わって来ない朝市になり下がってしまったという感じなのです。名前ばかりが有名になって、それに乗っかって本来の姿を見失った商業の世界がそこにある感じがするのです。ま、これはこのジサマの独断なのかもしれませんが。

 

 輪島から逃げ出して県道を走って穴水町へ出て七尾方面へ。とにかく氷見の方に行くことにしました。泊りのことは氷見まで行ってから考えることにしました。七尾の市内を通る時に食祭市場というのがありましたので、何か良いものはないかと覗いたのですが、若狭の鯖の串焼きに匹敵するようなものは何も見当たりませんでした。しばらく海岸線を走っていると道の駅「いおり」がありました。もう14時を回っています。いくらなんでも昼食抜きというわけにはゆきませんので、ここで小休止することにしました。今日は道の駅の営業は休みのようで、売店は閉っていました。お湯を沸かしコーヒーなどを淹れて飲み、しばし疲れを癒しました。曇ってはいますが、今日の富山湾は風もなく穏やかで遠くまで見通すことが出来ます。晴れていれば立山連峰を望むことも出来るのかもしれません。もしかしたら、春うららの季節には魚津ならずとも蜃気楼も見えるのかも、などと妄想とも思える光景を頭に描いたりしました。

 

 氷見の道の駅に着いたのは、15時頃でした。ここも何度か来ている名所です。氷見といえば何と言っても寒ブリということになるのでしょうが、今の季節はまだそれには少し早いようです。でも何か目ぼしい獲物が手に入るに違いないと大いに期待しています。この道の駅には「氷見フィッシャーマンズワーフ海鮮館」というのがあり、そこにはこの近海で獲れた魚が並んでいるのです。富山湾の魚は一味レベルが上のような気がしていますが、その中でも氷見といえば中心基地のような存在だと思っています。前回ここに来たのは真っ暗闇の中で、しかも嵐並みの強風が吹いていて、泊ろうと思って辿りついたのに家内が高波に呑まれるのではないかと騒ぐので、諦めて再び逃げ出して確か福光町だったかの道の駅まで夜中を走ったのを覚えています。ですから、その時はせっかくの魚にもお目にかかれなかったのでした。

 

 ということで早速海鮮館の中にはいってみました。いやあ、魅力的なものがたくさん並べられていました。先ずは夕食用にと富山の名物の鱒の寿司を買おうと思ったのですが、今日は観光客が多かったらしく既に売れ切れてしまっていました。残念。仕方がありませんので、魚屋さんの手製らしい鱒の寿司を一つ買いました。この店のバアさんの態度が悪かったので、よほど止めにしようかと思ったのですが、もうそれしか残っていないし、腹の方がそれを思いとどまらせたという感じでした。他の店でイカの刺身とかまぼこなどを買いました。おかずというよりも今夜の酒の肴です。今日は吟醸酒が待っているのです。旅の途中では、この程度の買い物しかできず残念ですがやむをえません。

 

 さて、今夜の宿ですが、まだ日が暮れるまでには少し時間が残っていますので、道の駅「井波」まで行くことにしました。この道の駅には温泉ではないのですが入浴施設があるからです。一度泊った経験がありますので、大体の様子は承知しています。

 R160からR8に入り、直ぐにR156に入って砺波市方面へ向かいました。途中家内が高岡市内にある瑞龍寺に寄りたいと言い出しましたがこれは別の機会にして貰うことにしました。このお寺の仏殿が国宝となっており、それを見たいという話なのですが、市内は車が混んでおり渋滞気味だし、お寺に寄っているとかなり遅くなってしまうので、今回は諦めて貰うことにしたのでした。来年又酒を買いに来るでしょうから、その時にでも訪ねればと思った次第です。

 

 砺波の市街を抜けて井波の道の駅に着いた頃はもうたそがれ時になっていました。直ぐ風呂に入って休むにはまだ少し早い時間帯でしたので、少し歩いて町の中を散策することにしました。井波は彫刻の町です。加賀藩のお抱え彫刻師といわれる技術者が、ここで藩の必要とする様々な種類の彫刻を行っていたという、いわば匠の里でもあったわけです。その伝統は今でも続いており、町の通りには多くの彫刻店が軒を並べています。以前初めてこの町に来た時には、日本にはこんな町もあるのだと本当に驚いたのでした。道の駅はこれらの町の中心街からは少し離れた丘の中腹のような所にあります。車を置いて700mほど歩くと町の通りに出るのですが、この時間でも店先で彫刻刀や鑿をふるっている職人の方が何人も見受けられました。布袋様や天神様などの大型の人物像や額に入れて飾る様々なモチーフのレリーフ作品などが夫々の店に所狭しと並んでいました。この通りは外灯もあまり明るくなく、車も殆ど通らないので、江戸時代の一端にタイムスリップしたような錯覚を一瞬覚えたりしました。でも所々に自動販売機や化粧品などを売る店があるので、たちまち現実に引き戻されてしまいます。良い散歩の時間でした。

 

 車に戻って駅舎の中にある「ゆら湯ら」という名の浴泉施設に入りに行きました。ここは温泉ではないようですが、そんなことはどうでもいいと思える良いお湯でした。風呂から戻って、待望の飲酒タイムとなりました。今日はビールは止め、能登の銘酒宗玄の吟醸酒をくッと一杯、イカ刺し、かまぼこでやって大満足です。旅も残り少なくなってきました。一応の心づもりでは、あと4日くらいで家に戻ることにしています。もう出発してから2週間以上になるのですが、里心など全くありません。帰らなければならないのは、家には貯まっている雑用があるからなのです。こういうのはやっぱり変わった夫婦なのかしらん、などと二人で話しながら眠りに就いたのでした。

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ジジババ二人くるま旅漫遊紀行(2003年 西の方へ行くの卷)第15日

2011-12-24 07:55:26 | くるま旅くらしの話

 

第15日 野々市町(石川県)のMさん宅から道の駅:中島ロマン峠(石川県)まで

 

 いい天気となりました。実は昨夜のMさんご夫妻との話の中で、つくばねという不思議な植物が話題となり、明日天気が良ければドライブがてら、それが自生している場所に連れて行って頂けることになったのでした。つくばねというのは、その実がつくばねにそっくりな形をしている植物なのです。Mさん宅にそれが飾ってあったのを見て、大いに興味をそそられたのでした。このような不思議な実を付ける植物がこの世にあるとは知りませんでした。図鑑にもちゃんと載っており、故郷の茨城県だって探せば見つかるのかもしれません。でも何よりもまず実物を見て置くことが大切なのです。野草や植物に興味・関心大のジサマとしては、是非ともそれを拝見したい気持ちがあります。

 

というわけで、今日はMさんのご主人が運転する車に乗って、4人でのつくばね探訪のドライブに行くことになったのでした。朝食の後、奥さんは美味しそうな手づくりのお弁当をこしらえて下さっていました。もうすっかりピクニックというか、昔風の言葉ならば遠足という感じでしょうか、久しぶりのワクワク気分でした。さあ、出発です。

 

どの方面へ行くのか、土地勘が全くありませんので、見当もつきません。ガイドはお二人にお任せするしかありません。最初は金沢市の北部郊外なのでしょうか、住宅の多い通りを軽自動車は快調に走って行きました。途中前田家の墓所があるという近くを通りました。Mさんのお墓もこの近くに購入されたというお話を伺いました。加賀百万石の当主や親族のお墓というのはどのようなものなのか興味津々でした。その後道は次第に坂を登り始めて山の中に入って行きました。途中にMさんが昔お住まいだった家の近くを通過したりしました。現在はマンション住まいです。山に近づくにつれて何だか自分の生まれ故郷の田舎の風景に触れる感じがしてきました。

 

車は更に山奥へと進んでゆきます。何という川なのでしょうか、犀川の支流なのかもしれません。Mさんのお話では、金沢百万石の城下町を潤す辰巳用水の取水口がこの近くにあるとのことでした。辰巳用水のことは名前程度くらいしか知りませんが、その昔初めて兼六園を訪れた時、このような高台に作られた池にどうやって水を引いているのかを不思議に思ったことがあります。高低差を巧みに利用して辰巳用水がつくられているということですが、その実際を見たことはありません。お話を聞きながら、その昔の壮大な土木事業の様子が思い浮かばれたのでした。この辺りにはMさんはイワナなどを狙っての渓流釣りにしょっ中来ておられたとのことで、懐かしそうに話されていました。

 

 川が道から離れて次第に遠くなり出し、道幅も次第に細くなって来て、相変わらずの九十九折りの坂道が続いています。勝手知ったるMさんの運転は相変わらずの軽快さでしたが、先行きの様子を全く知らない私どもには生きた心地も震えるほどの恐怖心が時々かすめたのでした。やがて舗装が途絶えて未舗装となった箇所からほんの少し走った所で、ようやく目的地に着いたようでした。標高は既に500mは優に超えていたと思います。この辺りにつくばねが自生しているということです。

 

 ワクワクしながら車を降りて、軍手などして山行きの格好になっていよいよ探訪開始です。上手く見つかればいいなと思いながら杣道を登り始めると、何と、直ぐにつくばねの木が見つかったのです。Mさんが指さす所に行ってみると、まだ青いつくばねの形にそっくりの実を付けた木がそこにありました。その木の実はたった一つでしたが、大感動でした。ああ、これがそうなのだと肯きながらの感動でした。その木は思っていたよりも小ぶりで、柴や榊のような常緑樹のようでした。Mさんのお話では、この木は苔などの上に寄生しているらしく、持ち帰って庭などに植えてもなかなか根付かず育たないということです。不思議な木だなと思いました。

 

 小高い丘の頂きに向かって更に登って行きすと、その途中に幾つものつくばねの木の株が点在していました。大きな株でも全く実を付けていないもの、小さくても実をつけているものもあり、この木は雌雄異株なのかなと思いました。最初の内はつくばねの木を見つけるのに苦労しましたが、しばらく経つとつくばねの木の方から「お~い、ここにいるよ~」と声を掛けてくれている感じとなりました。このことは他の野草や樹木についても起こる、思いの届いた時のジサマと植物との関係なのです。

 

       

つくばねの実。邪魔な手が気になるけど、これは無視願います。自然界の中には本当に不思議なものが存在しているのを実感させられます。

 

 Mさんに、昔はこの辺りにたくさんの茸の生えていたという場所やたった1本立っていたブナの木の幹に引っかき傷があるのを見て、これは熊が爪でやった後なのだと教えて頂いたり、の楽しい山歩きでした。ご夫妻とも山歩きには慣れていらっしゃるようで、特に奥さんがたくさんの野草の名をご存じだったのには驚かされました。オヤマボクチなど久しぶりにお目にかかった野草もありました。ふと気づいたのは、4人の年齢を合わせると270歳にもなるということでした。「270歳のつくばね探訪ハイキング」だな、と思いました。このようなハイキングがあってもいいのではないかと思い、それを今自分たちが実現していることを幸せに思ったのでした。

 

 その後は車に戻り、更に別の林道をしばらく登り続けますと、急に視界が開けてきました。遥か彼方に金沢の市街地が展望できます。少し行くと展望所があり、テーブルも作られていました。ここで待望の昼食です。今朝奥さんがこさえてくれたおにぎりに舌鼓を打ちました。後ろを見上げれば紅葉に膨らんだ山が控えていました。この辺りは山菜も豊富な所で、Mさんは昔ぜんまいを15kgも採ったことがあると、懐かしそうに話されていました。都会に住むようになってからは体験できない、羨ましい話です。食事をしている間に空の雲が急に増え出して、寒さを覚えるようになり出しました。そろそろ引き上げ時となったようです。

 

 帰り道はどこをどのように通ったのか、往路よりもよく判らない感じでした。Mさんには我が家の庭を走りまわっているような感覚なのではないかと思うほど、軽快な運転でした。いつの間にか来る時に通って来た前田家の墓所の近くに来ており、せっかくのついでなので、ちょっと立ち寄ることになりました。藩祖の利家公、その奥方のまつの方はじめ、累代の藩主とその近縁の方々のお墓が夫々個別に築かれて並んでいました。前田家の全ての方々のお墓がここにあるわけではないのだと思いますが、それでも大へんな数でした。墓標などは思ったよりも地味な感じがしました。お墓には歴史を偲ばせるものがあります。ここに眠られる方々にも夫々の様々な暮らしがあったのだと思います。合掌です。

 

 帰宅したのは14時頃でした。いやあ、Mさんご夫妻どうもお疲れさまでした。本当にありがとうございました。実に楽しく嬉しい270歳のハイキングでした。念願のつくばねの木にもしっかり会うことが出来、美味しいお弁当をご一緒出来て最高の幸せでした。余韻に浸る間もなく、お別れの時間となりました。来年の旅先での再会を約して、名残を惜しみつつの出発でした。本当にありがとうございました。

 

 今日はこれから能登方面に向かい、どこか適当な場所を探して泊り、明日は正月用の酒を手に入れて帰途につく考えでいます。帰り道は信州経由にしたいと思っています。今日の能登では、和倉温泉に入りたいと考えていますので、一般道を行ったのでは遅くなって入浴時間に間に合わなくなる恐れがあるので、有料の能登道を行くことにしました。市街地から能登道に入って日本海に沿ってしばらく走ると、有料道路には珍しい道の駅「高松」というのがありました。ここはSAでもあるようです。ちょっとトイレに行こうと寄ったのですが、ちょいと事件(?)がありました。

 

 トイレの個室に入って用を足していますと、突然ガヤガヤと声がいり混ざって大勢の人が中に入って来たようです。バスできた団体さんの観光客が抑えて我慢していた生理現象の処理のために押し掛けて来たようでした。それはそれでいいのですが、どうも入って来たのは皆さんご婦人のようなのです。あれっ、俺はもしかして婦人用の方に入っていたのかな?と一瞬驚きました。確かに男性用の方に入った筈なのです。とにかく、何の話やらべちゃくちゃと超うるさいのです。出るべきか嵐が収まるのを待つべきかしばらく迷いましたが、思いきって出てみますと、なんと、なんと、おばさんの大群なのでした。「あらっ、ここ空いたわよ」などと言っているのです。男性用も女性用も無視して、全てのトイレは私たちのもの、という雰囲気なのでした。これにはもう、腹が立つよりも呆れ返るというしかありません。人間切羽詰まると、男女の区別など無関係ということなのかもしれません。これが若い女性の場合だったらどうなのだろうかとふと思ったりしました。もし同じ様だったら、この世は終わりだなと思った次第です。犬や猫たちと同じような振る舞いは、やっぱり人間社会を堕落させるのではないかと思ったりしました。とにかく驚いた事件でした。この件について家内のコメントはありませんでした。

 

能登道から見る今日の日本海は穏やかで、昨日の尼御前SAから見た海とは全く別であるかの如き様相をしていました。やがて道は山の中に入り、徳田大津IC途いう所から一般道に入って和倉温泉の方に向かい、16時少し過ぎ温泉街に到着しました。もう薄暗くなり出しています。

 

 和倉温泉には何回か来ています。くるま旅を始める前に来た時には、一晩何万円もの宿賃を払って団体の一員で来たことがあり、その旅館は今でも最大手の位置にあるようですが、どうもあまりいい印象が残っていません。馬鹿げた料金に見合わせるためなのか、金ぴかの風呂や騒々しい雰囲気の空間をやたらに作って、少しも落ち着いた気分にはなれず、まあ、団体だからこんなものなのかと思うことにした記憶があります。しかし、今はあのような馬鹿げた出費やケバケバしい雰囲気に邪魔されなくてもゆったりと温泉を楽しむことが出来るのに満足しています。去年ここに来た時に、「総湯」という一般大衆向けの浴場があるのを知り、入って見るとこれがなかなか良いお湯で大満足をしたのでした。年金旅くらしには、高級旅館の立ち寄り湯は向いてはいないような気がします。少なくともこのジサマは偏屈者なので、公衆浴場の方が心が落ち着くのです。ということで、今年も総湯の温泉をじっくりと味わわせて頂きました。

 

 湯から出た後は、一番近い道の駅の「なかじまロマン峠」に泊ることにして出発です。辺りはもうすっかり暗くなって夜となってしまっていました。30分ほどで道の駅に到着です。海の直ぐ傍にあるように思っていたのですが、峠と名がついている様に、山の中の道の駅でした。初めての利用なので、暗くて周辺がどうなっているのかが良く判らないのですが、夜間はトラックなどの通行は殆どないようですから、静かな時間を確保できるのではないかと思いました。泊る準備を終えて、ようやくビールにありついて夕食です。今日は楽しかったなあとつくばね探訪ハイキングのことなどを思い起こしながら、間もなく寝床に入っての爆睡となったのでした。

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ジジババ二人くるま旅漫遊紀行(2003年 西の方へ行くの卷)第14日

2011-12-22 00:17:51 | くるま旅くらしの話

 

第14日 道の駅:しんあさひ風車村(滋賀県)から野々市町(石川県)のMさん宅まで

 

朝起き出して外を見ると、やはり昨日の天気を引きずったままで空模様は少しも改まっていませんでした。この道の駅には以前にも泊ったことがあるのですが、その時もやはり同じような天気でした。どやら我々はこの地にはあまり気に入られてはいないような感じです。我々の方はここは夜間にトラックなどの騒音が避けられるので、とても気に入っているのですが、相性というのは早々簡単に一致するというわけではないようです。どうやら先日の足摺岬と同じような感じです。

 

昨日は雨の中を走ったこともあり車の汚れがかなりひどい状態となってしまっていました。やっぱり少しはきれいにして走りたいと思い、出発前にボディの清掃をすることにしました。清掃といってもぬれぞうきんで丹念に汚れを拭き取るだけなのですが、SUN号のサイズは長さが5.3m、幅が2.2m、高さが3.1mもありますので、普通の車の3倍以上の作業面積があるのです。小1時間ほどかかるかなりいい運動となります。この作業を家内が手伝ってくれたことはなく、全てジサマの担当となっています。

 

直ぐ傍に昨夜泊られたらしい名古屋ナンバーのキャンピングカーが停まっておられて、そこから下りて来られたご婦人が話かけて来られました。ご夫婦の趣味がダイビングなのだそうです。琵琶湖に潜りに来られたのかと驚きましたが、お話を伺っていると、今回は潜りではなく温泉巡りの旅となってしまったとか。くるま旅の目的に何を選ぶかは興味があるところですが、ダイビングという話を聞いたのは初めてでした。きれいな海辺近くに車を置いて海底の散策にチャレンジするのも良いなあと思いましたが、泳ぎの苦手なこのジサマは、この歳になってはもはや叶わぬ夢にもなりえない遠い話だなと思いました。

 

 さて、今日の予定といえば、石川県は金沢市に隣接する野々市という町があるのですが、そこにお住まいのMさんご夫妻のお宅をお邪魔することなのです。これは今回の計画を思いついた時に、帰り道に寄ろうと決めた一つのメイン目標なのでした。Mさんご夫妻は私ども夫婦にとってくるま旅の大先輩なのです。何年か前の北海道の旅で初めてお会いし、その時Mさんのご主人は79歳でした。くるま旅を始めたばかりの私にはこれが可能なのもせいぜい70歳くらいまでかと考えていたのでしたが、このMさんご夫妻にお会いしてその考えは一変したのです。 

 

 矍鑠(かくしゃく)とした79歳のその人は、軽自動車を旅車に仕立て上げ、奥様と一緒に全国を旅して回っておられるのでした。いろいろお話を伺っている内に旅の可能性がグーンと広がるのを感じました。それ以来のお付き合いでご自宅にもお邪魔して今では人生の大先輩として尊敬しているご夫妻なのです。ご夫妻には今日お訪ねさせて頂くよう、予め連絡済みなのです。

 

 9時過ぎ出発しました。コースは久しぶりにここから琵琶湖を左回りして、琵琶湖大橋を渡った後は、彦根辺りから高速道に入って金沢方面に向かうように考えています。先ずは琵琶湖大橋の袂にある道の駅「びわ湖大橋米プラザ」を目指すことにしました。琵琶湖湖畔に沿って走るR161は順調な流れなのですが、所々工事をしている個所があり、せっかくのドライブ気分をぶち壊してくれるのが残念でした。志賀町に入り琵琶湖大橋が近づくにつれて渋滞気味となり、もうこの辺から京都圏の人波が押し寄せて来ているのかと思いました。道の駅についてしばらく休憩です。この道の駅から見る琵琶湖大橋も巨大で、先日のしまなみ海道を思い起こさせてくれました。こちらの方はもうかなり利用されているというか、造られてから時間が経っているのか、橋全体に疲労感が漂っていました。それにしてもこの大きな湖を横切っているというのは、やはり凄いことだなと思わずにはいられませんでした。

 

 一息入れて出発です。橋を渡って直ぐに左折して、さざなみ街道と呼ばれる県道を5kmほど走ると鮎家という近江近郊の産物や土産者などを売る店があり、この辺りを通る時には必ず覗くことにしています。この店では販売品の種類も多彩なのですがそれらの多くを試食出来るのが魅力なのです。食品に関しては食べてみないと本当の味は判らないのですから、試食が出来るといのは買い手にとっては納得性が高くなるわけで、その分販売者のコストは高くなるのでしょうが、本来商売とはそれくらいのコストは当然のような気がします。この店では近江商人のモットーを今の世に実現しているのではないかなどと思ったりしています。

 

 この店に来る度に、一度名物の鮒寿司というのを食べてみたいと思っているのですが、未だにその夢は実現していません。というのも高価なものですから試食品はありませんし、一番小さいものでも5千円ほどするものですから、いつも見るだけで終わってしまっています。恐らくこのトライは永遠に続く形なのだろうと思っています。今回も同じパターンでした。知り合いに少し土産を送ったり、我々の土産などを調達して出発となりました。

 

 今来た道を戻ってR417からR8に入り、彦根のICを目指しました。R8に入る頃から天気は次第に回復の兆しを見せ始め、暖かさを取り戻し始めました。琵琶湖を取り巻くこの辺りはその昔の近江商人と言われた人たちの本拠地があった所です。近江商人のことには興味関心があり、ジサマなりに調べ、学んだことがあります。江戸時代でも全国を商売の対象として活躍した商人と呼ばれる人たちが何グループかありますが、その中でも近江商人がナンバーワンだったと思います。「お客よし、世間よし、自分よし」の考え方は、今の世にも十分に通ずるものであり、優れた商業道ともいうべきものだと思います。以前近江八幡市を訪ねたことがありますが、いつか時間を作って湖東・湖西の近江商人の活躍の跡を辿ってみたいと思っています。

 

 彦根市の手前で給油をして、彦根ICから名神高速道に入りました。少し風が吹いていましたので、図体の大きいSUN号には嬉しくない走行条件です。スピードを抑えて安全走行を心がけました。米原JCTから北陸道に入り、あとはひたすら北陸を目指すだけです。高速道の道行きというのは、景色が後ろに飛ぶばかりで、さっぱり味わいがありません。風が強いので、ハンドルを取られないように緊張しながら運転するのは疲れが倍加する感じです。

 

 長浜、浅井、虎姫などという戦国時代に係わる幾つかの地名が出てきました。信長、秀吉、家康、長政、勝家などという歴史上の人物が往時はこの辺りを戦場にして生死の境をさ迷いながら命を掛けて走りまわっていたのでしょうか。そのような思いに駆られながら走っていると、賤ケ岳SAに到着しました。ここも天下分け目に近い戦いのあった場所として有名です。しかし、どれがその山なのかさっぱり判りません。秀吉と勝家の戦いで、これに勝利した秀吉が天下人への大きな前進を果たしたということですが、有名な七本槍などという話は、本当に自慢話などになりうるものなのかどうか、所詮は人殺しの成果を勝利者側が勝手に評価したに過ぎないものであり、お調子者の民衆がなびいて讃えたものに過ぎない話だと思うのですが、さてその実態とはどんなものなのでしょうか。今では想像もつかない大変な時代だったのだと思います。

 

 ここで昼食休憩です。お湯を沸かしお茶を淹れて、先ほど鮎家で買ってきた鱒の寿司を食べました。富山のそれと比べると何となく上品な味と思えるのは、食べる者の先入観なのでありましょうか。美味でした。満足です。出発前にオドメーターを覗きましたら、3万キロを突破していました。購入後1年8カ月ですから、旅車としてはまあまあの活用レベルではないかと思いました。この車は40万キロくらいまで乗りたいなと思っているのです。つまり、車が先に壊れるかそれともジサマの寿命が先に途絶えるのかという関係です。さて、どうなりますやら、先のことは全く分かりません。

 

 風は一向に止む様子はなく、却って強まる傾向にあるようです。坂道も多くて、図体の割にはパワーのないSUN号には厳しい走行条件となりました。とにかく一番左側がSUN号の指定車線だと考え、安全を期しての走行が続きました。敦賀、武生、鯖江を通り、福井を通過しました。時間があれば永平寺に寄りたいなと思っていたのですが、今回は無理をしないことにしました。加賀を過ぎて日本海に近づくと、尼御前SAがあります。ここで一休みすることにしました。賤ケ岳SAを出てから既に100km以上走っていますから、休憩は不可欠です。もうここまで来れば野々市までは一息の距離です。

 

 一息入れた後、直ぐに出発して、松任の手前の美川ICで高速道とおさらばし、R8に入ってひたすらに金沢方向へ向かいました。間もなく野々市町に入りました。ここまで来れば道を間違えるなんてなかった筈なのですが、少し気持ちが焦っていたのか、一本手前の道を右折してしまったて、少し行ってから気がつき、あわてて戻ったりして、余計な時間を掛けてしまいながらもMさん宅に到着しました。

 

 ほぼ1年ぶりのお邪魔です。今年の夏は北海道ではお会い出来なかったので、お久しぶりの訪問となりました。お邪魔させて頂くのは今回で3回目。何だか実家に帰ったような気分です。ご夫妻ともお元気そうで何よりのことと思いました。

それから後のことは、書けば切りがないほどありますが、それは秘密にしておきたいと思います。大先輩から学ぶのは旅のことだけではなく、その他にもたくさんあるということです。

 

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ジジババ二人くるま旅漫遊紀行(2003年 西の方へ行くの卷)第13日(その2)

2011-12-21 01:10:05 | くるま旅くらしの話

 

第13日 リフレかやの里(京都府)から道の駅:しんあさひ風車村(滋賀県)まで(つづき)

 

さて、我々の方は籠神社の参詣を終えた後は、天橋立を向こう側の知恩寺の所まで歩くことにしています。対岸まではおよそ3kmほどの道のりですから、歩くのにはちょうど良い距離です。往復となると家内には厳しいかもしれないので、帰りは船を利用して戻ることにしました。天橋立のこの辺には何度も来ているのですが、意外と通過するだけのことが多く、ゆっくりと観光などしたことがありません。天橋立へ行った?と訊かれたら、うん、行ったよ、とは答えられるのでしょうけど、じゃあ磯清水って知ってる? などと訊かれても、うんにゃ何それ?というしか言えない状況だったのです。今来られている観光客の大半も股の下から覗いた天橋立くらいで終わっており、そこを歩くなどという無駄なことはしないのが普通なのだと思います。観光というのは、くるま旅をするようになってからは、その現地の裏側まで覗いて初めてそこへ行ったと言えるのではないか、そのような思うようになりました。その意味では、我々の今までのくるま旅はその殆どが下見に過ぎないものであり、点の旅となってしまっている様に思います。ですからこれからは何度もその地の本物の観光が出来るのだと、却って楽しみが増している様に思っています。

 

 歩くというのは良いですね。天橋立は福岡の海の中道によく似ています。海の中道というのは、福岡の本土と金印の発見で有名な志賀島をつなぐ長さが8kmほどの砂州ですが、この天橋立はそれを箱庭風に圧縮した感じがします。幅もせいぜい200m足らずだし、長さも3kmほどですからまるで砂州の標本のような感じがします。砂地に植えられた松の林がずっと続いており、歩きの道としても実にすばらしい環境にあると思いました。何といっても日本三景(松島・厳島・天橋立)の中の一つを歩いているのですから、その満足感というものは言うにいわれぬほどのものがあります。右手の海は阿蘇海と呼ばれるようで、これはもう海ではなくて湖という感じです。左の方は宮津湾でこちらは松に遮られて海を見ることはできません。それにしても押し寄せる波の働きが積もり積もってこのような道を造り上げるというのは何とも不思議なことです。これを科学的に説明するのが好きな人もいるようですが、ジサマ的には不思議は不思議のままで良いような気がしています。しばらく歩いていると天橋立神社に到着。参拝の後、境内にある磯清水というのを覗いてみました。一口飲んでみましたが、あまり美味いという感じの水ではありませんでした。でもこのような周囲が海に取り巻かれた中に真水が湧いているというのは不思議なことであり、それゆえ名水といっていいのだと思いました。終点は知恩寺というお寺で、文殊堂というお堂が有名なようです。ここにお参りして3kmちょっとの歩きは終わりました。くるま旅の中にこのような歩きを入れることはとても大切なことだなと改めて実感しました。

 

 近くにある乗船場に行き、籠神社方面へ行く観光船を待つことにしました。ここには海の上から船に乗って天橋立を見るという観光コースがあって、砂州の両端をつないで高速船と普通の船との2種類の観光船が往復しています。その普通の船の方に乗りました。僅かに10分の船旅でした。お客さんの全部が座席には座らずに甲板に出てしまっているので、ジサマ一人が全座席を一人占めした気分で景色を楽しんでいましたら、あっという間に終点に着いてしまいました。                            

 

 車に戻って、さてこれからの予定なのですが、明日は金沢市の隣にある野々市という町にお住まいのMさん宅を訪ねることになっており、そのことを考えて今日はこのまま日本海側を進んで、行ける所まで行って適当な場所を決め、そこに泊ろうと考えています。途中少なくなった飲料水をカバーするために、いつも汲ませて貰っている瓜割名水には寄ることにしたいと考えています。これはついさっきまでの間にざっと考えたことなのでした。

 

 宮津には、以前来た時に伊根町に行く途中に若狭の魚を売る店があり、そこでサバのへしこ(塩鯖をぬか漬けした保存食)を買ったりしているので、何か獲物はないかと一寸足を延ばして行ってみることにしました。ジサマは魚大好き人間で、肉を敬遠するタイプの人間なのです。サバの串焼きとかぶりの刺身のようなものがないかと期待して行ったのですが、残念ながら意に沿うようなもの見当たりませんでした。引き返して舞鶴の方に向かうことにしました。

 

 由良川の川沿いを走り、橋を渡ってR175に入ってしばらく走ると舞鶴の市街地に入る少し手前に新しい道の駅「舞鶴港とれとれセンター」というのがオープンしていました。どうやら魚の市場のようなものがあるらしいようです。俄然魅力を感じて是非覗いてみようと車を留める場所を探したのですが、これがもう全く留める空きスペースがなく、どこへ行ってもびっしりと車が埋まっており、見つけることが出来ないのです。10分ちかくぐるぐると探しまわったのですが、とうとうギブアップでした。恨みごとの悪態をつきながら先に向かうことになりました。

 

 この頃から空の方が怪しくなって来て、次第に雲の量が増え出してきました。今にも雨が降り出しそうな気配となって来ました。舞鶴からしばらく走って、高浜町という所のスーパーに寄り今夜のおかずなどを探しました。この辺りには必ずあるはずのサバの串焼きはないかと見渡しましたら、ありました。昨日の羽合の道の駅のよりも値段が高くて小型なのには不満でしたが、とにかく期待を裏切らなかったので安堵しました。若狭エリアのサバの串焼きは、たとえそれが若狭湾以外の場所で獲れたものであっても、やっぱり美味さは日本一なのだと勝手に信じ込むことにしています。ですから、ジサマにとってはとにかく先ずはゲットすることが大事なのです。買い物をしている間に降り出した雨は少し雨脚が強くなり出したようです。

 

 少し行くと「シーサイド高浜」という道の駅がありました。最近オープンした所のようでした。ちょっと寄って覗いて見ることにしました。構内には入浴施設もあり、駐車場も広くてなかなか良い所です。ここに泊っても良いかなと思うほどでしたが、まだ少し休むには早いし瓜割の名水を汲む必要もありますので、先に行くことにしました。

 

 高浜町から大飯町、小浜市と、この辺りは福井県ではありますが、ジサマの心の中では京都の裏庭というか、陰で都を支えた人たちの暮らしが息づいているエリアなのだという感じ方が大きいのです。表である都の方は光が当たって賑やかだけど、こちらは裏方としての力強さが芯にあるといった感じです。都につながる名刹も幾つかありますし、若狭あっての都だったということも幾つかあるように思います。例えば鯖街道の名で知られた都を結ぶ往時からの産業道路ともいうべき道は、若狭と都がしっかりつながっていたことを語っていると思います。又京の都だけではなく奈良の都の方だって、例えば東大寺のお水とりというのは春を告げる行事の一つとして有名ですが、その水はどこの水なのかといえば、それは若狭の神宮寺(小浜市)からであり、ここのお寺にはお水送りの行事が行われているとのことです。若狭というエリアは優れた水の湧く所であり、それが都でも高く評価されていたということなのでありましょう。そのようなことを考えながら走っていると、間もなく瓜割の名水のある上中町の瓜割の滝に着きました。幸いなことに雨も小降りになって来ていて水を汲むには好都合でした。

 

  瓜割の名水を汲むのは今回が2度目です。初めて来たのは一昨年だったか、確か300円を払って、水汲みOKの手形を買い、それが通行手形のようになっており、それを持っておればその後は何度でも無料で水を汲めるというものでした。今回はそれを持参するのを忘れて来てしまっていましたので、新たに手に入れようとしましたら、手形ではなくラベルとなっていました。 水を汲む場所も整備され一度に数人が汲めるようになっていました。飲み水と調理用の水を2Lのペットボトルに12本に満たした後、SUN号の水槽にも70Lほどいれました。ここの水は市販されてもおり、美味しい水をふんだんに手にれられるというのはもうそれだけで嬉しい気分になってしまいます。我々の他にも入れ替わり立ち替わり大勢の人たちがやって来て、様々な容器に水を汲んでいました。20Lの大きなポリタンを持参している人、ドライブの途中にちょっと汲むという感じで小さなペットボトル1本だけの人、中にはよくもまあそんなに飲んだものだと呆れ返るほどたくさんの4L入り焼酎ぺっとびボトルを箱の中から続々と取り出す人等など、水汲み一つ見ていても人々の様々な暮らしの一端が覗ける感じがして飽きがこない風景です。

     

 大学生の息子さんと一緒に京都からドライブで来たというお母さんが、SUN号に興味があるようで寄って来られて盛んに話されるのですが、最初はくるま旅の話をされていると思いましたら、あっという間に息子さんの自慢話となり、ドライブの楽しさをアピールする話ばかりとなりました。お母さんは息子さんと一緒にドライブをしている嬉しさにもう舞い上がっている感じでした。真に羨ましいお話でありました。

 

 水を汲み終えた時はもう16時を過ぎており、宿を決めなければならない時間帯です。最寄りに同じ町中にある熊川宿という道の駅があるのですが、ここは以前にも泊ったことがあり、その時はトラックの騒音に悩まされことがあります。街道筋なので夜間の車の通行も結構ある様なので、あまりいい印象は残っていません。それよりも少し遠くなるけど新旭町の琵琶湖湖畔にある道の駅「しんあさひ風車村」の方が静かで良いだろうと考え、そこへ行くことにしました。

 

 R27と別れてR303を少し行くと熊川宿ですここには名物の鯖寿司がある筈です。鯖の串焼きは先ほどゲットしているのですが、あわよくば寿司の方も手に入れたいという欲望があるのです。それで道の駅の売店を覗いたのですが、あるにはあるのですがあまりにも高値なのに呆れて見送ることにしました。串焼きが無かったら思い切ったかもしれませんが、年金くるま旅でもありますから、自ずと限度を超えるような暮らしぶりは身の破滅につながることになりかねません。まあ、良い決断だったと思います。

 

 R303は昔からの鯖街道と呼ばれる道の一つです。この道は熊川宿の少し先から二つに分かれ、一つは朽木村を通って京都の大原に抜ける道ともう一つは琵琶湖沿岸を通って大津から京都へ向かう道です。その昔の鯖という魚の京都という都における位置づけがどのようなものだったのか判りませんが、鯖街道と言われたくらいですから、若狭の鯖がかなり高い評価を得ていたことは確実だったと思います。ジサマだって若狭の鯖がどうしてこんなに美味いのかともうメロメロなのですから。(都の評判とは関係ないか)串焼きだけでなく鯖寿司も最高です。京都だけではなく、以前奈良の今井町で食べた鯖寿司も、わが人生の中では忘れられない美味さでした。世の中には鯖君のことを快く思わないお方もおられるようですが、実にお気の毒だと思います。このジサマも過去1度だけジンマシンに見舞われたことがありますが、それは鯖の所為ではなく自分自身に問題があるのだと思いました。これは正解でした。その後鯖を食べておかしくなったことは一度もありません。

 

 すっかり暗くなった道を今津に向かい、新旭町からオランダ風車のある道の駅へ。17時になったばかりなのに、まるで深夜のような暗さなのでした。レストランは空いていたようですが、お客は皆無のようでした。こんなに暗くて雨が今にも降り出しそうでは、アベックさんでもロマンチックな気分などにはなれず敬遠してしまうことでありましょう。当方は食事を早めに済ませ、早や寝る準備に取り掛かるといった状態でありました。小ぶりの鯖の串焼きも味の方は本格的で、十二分に満足できるレベルでした。予想通り泊りの車など一台もなく、出入りするトラックも皆無で、真に静かで快適な一夜を過ごしたのでした。

 

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ジジババ二人くるま旅漫遊紀行(2003年 西の方へ行くの卷)第13日(その1)

2011-12-20 01:27:31 | くるま旅くらしの話

 

第13日 リフレかやの里(京都府)から道の駅:しんあさひ風車村(滋賀県)まで

 

 曇りの朝でした。今日から天気は下り坂に入ってようです。この辺りも山陰のエリアに入る場所なのかもしれません。山陰の旅では、雨降りなどに出会ったことは比較的少なかったのですが、今回はこれから先さてどうなるのでしょう。まだ大丈夫のようです。リフレの里はなかなかいい場所につくられており、小高い丘の上から下方に広がる景色を展望することが出来ます。初めて来た場所なので、見ている景色のどこが何なのかはさっぱり分かりません。加悦という漢字を「かや」と読むことは知りませんでした。地名というのは読み方の難しい所があり、その地に行って見て初めて解るということが時々あります。この加悦の読み方も地元の人たちはともかく、関東エリアから初めて訪れた人間にはせいぜい「かえつ」と読むくらいしか出来ないのではないかと思います。

 

  加悦町はその昔から丹後ちりめんの産地として有名だったようですから、京都近郊に住む人ならばだれでも加悦をかやと読むくらいは当然のことだったのでありましょう。道の駅がシルクのまちかやというのも、その歴史にちなんで命名されたのだなということが解ります。温泉施設の中のお土産店では絹に絡む製品が販売されており、家内は何点かをものにしたようでした。今でも絹織物の製造が行われているのかよく判りませんが、今度来る時には予め調べておいてそのような施設があれば見学するのも良いなと思いました。今回の旅はジサマが目指そうとしている本来のくるま旅からは遠く、何やら再来のための下見の旅をしている感じがします。

 

  給水の後、少し離れた道の駅の方に移動することにしました。車の汚れが少し目立つようになったので水で拭いを掛けようと考えました。昨日の夕方登って来た坂道をそろそろと下って道の駅の駐車場に車を入れようとしていると、下の方から中年の男の人が登ってくるのが気になりました。ゴルフのアプローチの練習にでも行くのか、ショートアイアンを2本自転車の前かごに差し込んでいます。その方は旅車に興味があるらしく、盛んに車を見ておられましたが、その内に声を掛けてこられました。いろいろと話しかけられるので、それならば車の中に来て頂いて話をした方が解りやすいだろうと、中に入って頂くことにしました。キャンピングカーに興味をもたれた人から話しかけられた時には、いつも車の中を覗いて貰うことにしています。多くの方々は中がどうなっているのだろうと興味関心大のようですから、見て頂くのが一番だと思って、そうすることにしています。車を使って旅をする仲間が一人でも増えたらいいなと思っているものですから、車内が汚くなっていることなど気にしないことにしています。

 

 お話によると、Oさんとおっしゃるその方は、最近まで栃木県の宇都宮に住んでおられたとのことですが、ご両親がお歳をとられて健康上の不安が増してきたので、出身地であるこの町に戻って来られたとか。今でも週に何日かは仕事のために宇都宮の方に出向かれておられるということです。SUN号が東京の多摩ナンバーだったので、特に親近感を抱かれて声を掛けられたようで、ご自分でもくるま旅をしてみたいと考えておられるようでした。

 

 Oさんは何か経営コンサルタントのようなことをしておられるようで、何やらビジネスを企業化するような仕事だとおっしゃっていました。ジサマにはその内容はよく判りませんし、わかろうとも考えません。大変話好きな方で、仕事の話やらくるま旅の話やら、広範囲に渡っての話題につい時間が経つのを忘れてしまい、気がつけばい1時間以上も話し込んでしまいました。当方はビジネスのことなどは久しく忘れていたのですが、Oさんに会って思い出すこともあり、さながら異次元の世界からUFOに乗ってやってきた人に突然出会ったという感じでした。優秀なビジネスマンなのだなと思いました。又ビジネスのみならずその生き方においても八面六臂の活躍をされておられるようで、ボランティアとして福祉や環境問題にも取り組まれているとか。何やらの懸賞論文に応募したのが入選となって、近く福祉国家のご本家である北欧のスウェーデンに出かけるとも話されていました。それにしてもどうしてこのような不思議な人がここにおられるのだろうか、そしてどうして自分などと出会うのだろうかと、改めて旅の不思議な力を感じたのでした。

 

 この辺の土地の状況について、Oさんからいろいろと参考になる面白い話をお聞きしました。特に歴史に絡む古い話は興味深く、神話の時代にさかのぼってこの地が由緒ある所であるのを知り、勉強になりました。例えばその話の一つとして、天橋立の北浜に鎮座する籠(この)神社というのがあるということで、ここは伊勢神宮の故郷なのだそうです。神々の歴史は複雑で古事記などをざっくり読んだくらいでは夫々の関係などとても覚えきれるものではありません。伊勢神宮の祭神が何であり、どのようないきさつで伊勢に祀られるようになったのかなどさっぱり分からないのですが、もともと丹後のこの地の近くの籠神社に住まわれていたのだという話は初めて聞いたことであり、思いもよらないことでした。要するにそれほど古い歴史を有しているということなのでありましょう。お伊勢さんと呼ばれ、全国からの参拝者が今日でも絶えることのない伊勢神宮に故郷があり、その地がこの近くなのだという話は何とも面白く、是非今日はそこに参拝しようと思った次第です。実に楽しくありがたい時間でした。Oさんに感謝、多謝です。

 

 天橋立はここからは20分もあれば行けるロケーションです。出発する前に、直ぐ近くの広場で収穫祭らしきイベントが行われているようなので、ちょっと覗いて見ることにしました。

地元の野菜や海産物などが並んでいました。野菜類にはあまり魅力を感ずるものが見当たりませんでしたが、海の幸の中には、かなりの大きさの赤イカが驚くほど安い値段で売られており、これにはかなり心を吸い寄せられました。しかし手を出すにはあまりにも大きすぎるのです。 あれを1匹買ったら、多分3日ぐらいは毎三食に腹一杯になるまでイカを食べなければならなくなるでしょう。いくらなんでもそんなことをしたら、それでなくとも高いレベルにあるコレステロール値が益々上がってしまって、動脈硬化の危険性はいや増すに違いありません。諦めが肝心というのはこのようなケースをいうのだなと、自らに言い聞かせたのでした。

 

 出発して大して時間も取らずに籠神社に到着です。確かに天橋立の北側の入り口近くに位置していました。天橋立は初めてはないのですが、今までこの神社の存在など全く知りませんでした。神社はかなりの参詣者で賑わっていました。今日はそう言えば11月3日の文化の日です。七五三の本番の日でもありますから、着飾った子どもの手を引いた若い夫婦、それにそのつき添いのジジババなどの善男善女の何組もが、三々五々と連れだってお参りをしていました。先日の吉備津神社の時よりもはるかに多い人数です。七五三の人たちの他にも、近くの駐車場に停まった大型の観光バスの中から、続々と吐き出されてくる人たちがいます。間もなく高齢者の仲間入りしそうな勤めを終えたばかりのセミ老人中心の団体さんのようです。この方たちは、一先ず神社にお参りした後、境内の裏手にあるケーブルカーの乗り場の方へぞろぞろと歩いて行きます。これらの動きは、もう一つの決められた観光ルートとして指定されてしまっているような感じです。ケーブルカーの上の展望台から身体を折って股の下から天橋立を覗きこむというのが皆さんの楽しみの予定なのでありましょう。今日はいい天気なので、その景色も格別ではないかと思います。でも、中にはお腹が膨らみ過ぎてどう頑張っても首がそこまで至らない人も混ざっていて、あの人はどうするのだろうかなどと要らぬ心配をしたりしたのでした。人間観察は実に面白く、様々な人たちの人生を垣間見ることが出来ます。(つづく)

 

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