山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

老人の夢(「剣客商売」を読みながら思うこと)

2012-01-31 00:13:59 | 宵宵妄話

 今、眠り薬に池波正太郎先生の「剣客商売」を読んでいます。もう何度目の読み返しとなるのでしょうか。この本を購入したのが、昭和61年(1986)年ですから、25年以上が経っており、少なくとも10回以上読んでいることは確実です。私は池波先生のファンであり、その著書の殆どを読んでいますし、所有してもいます。先生には幾つかの長編のシリーズものがありますが、その中でもこの「剣客商売」と「鬼平犯科帳」とそれから「仕掛人藤枝梅安」は超愛読書といって良く、これらの作品の中から人間の生き様というものをどれだけ学んだか数え切れません。

 

 最初に読んだ時は、息をのむ面白さに絡め捕られる如くに全冊を買い求めて、それこそ仕事のことなど忘れ果てて、夜も寝ないで読み耽ったものでした。何度も繰り返して読んでいるうちに次第に落ち着きを以て読めるようになりましたが、今頃ではとっておきの飴をしゃぶりながら無上の夢を味わう様な気持ちで読んでいます。その中でもこの「剣客商売」のシリーズは、この年齢になってからは、いっそう楽しみながら読むようになりました。

 

 「剣客商売」の主人公は秋山小兵衛という小柄な体躯の剣の達人です。登場人物は多彩ですが、主人公を支えているメインの人物といえば、妻女のおはる、子息の大治郎とその妻の三冬それに身近の何人かの知人がいますが、それらを一々説明するのは止めることにしましょう。でも家族の人たちはそうはいきません。妻女のおはるは、何と小兵衛よりも40歳も年下なのです。子息の大治郎も又みっちり修業を積んだ大柄な体格の剣客であり、その腕前は名人の父を凌ぐほどのものなのです。そしてその妻、小兵衛とおはるからは嫁女ということになりますが、三冬は何と時の老中田沼意次の娘で、元は女武芸者といわれた、これも相当の剣の腕前なのです。実に面白くも巧みな人物構成です。

 

 この家族を中心に善悪入り混じっての様々な出来事が展開して行くわけですが、剣客商売というタイトルが表すように、それらの物語の中核をなしているのは、剣という絶えず生死が賭かる厳しい道の中に在る、情理相俟っての人の生き方の哲理なのです。この剣の道を、商売のレベルで扱うというのは、これは常人にはなかなか出来るものではありません。池波先生らしい、人の生き様を自在に描けるパワーがあってこそ書ける物語なのだと私は思っています。商売というのは一途に成果を求めて出来るものではなく、千変万化の駆け引きの上に成り立つものであり、人の営みの裏も表も知り尽くすことが前提となるものなのだと私は理解しているのですが、さて、池波先生は何とおっしゃいますやら。

 

 池波文学の魅力は、何といっても文章が江戸前だということです。山本周五郎、藤沢周平、司馬遼太郎、山手樹一郎、平岩弓枝、吉川英治等など時代小説の大家はたくさんいらっしゃいますが、江戸っ子しゃきしゃきの文章の書き手といえば、これはもう池波先生を措いては居ないと私は思い込んでいます。とくにこの剣客商売や鬼平犯科帳などは、その軽快でリズミカルで歯切れのよい書きぶりは、茨城県の田舎で育った私にとっては、昔からのあこがれでした。何度読んでも、凄いなあと感じ入っています。

 

ま、独りよがりでこのようなことを書き連ねてもあまり意味のないことなのだと思いますが、剣客商売を読んでいると、この頃は秋山小兵衛という主人公の生き方が、益々羨ましいと思うようになりました。自在の生き方をしているからです。夫婦関係も、親子関係も、師弟関係も友人・知人関係も、時には犬や猫との関係さえもその時々において最適と思える言動を自在に為していると感じているからです。

 

この本を初めて読んだ頃は、私は50歳にも届いておらず、江戸時代ならばこのような暮らしぶりもあるのかなあと、毎度生起する様々な事件に対処する小兵衛さん達の活躍ぶりを、感嘆の目を以って楽しませて頂いていたのですが、自分の齢が小兵衛山を超えてしまった今では、感嘆よりも羨ましさの方が層倍しています。おはるとの係わり合いぶりなどは、家内の手前もあって迂闊には言えませんが、小兵衛さんの剣の冴えとは又違った意味で、羨ましいなと思ったりします。倅の大治郎との関係も、少なくとも今の自分よりは上出来であり、やはり羨ましさを覚えます。(親子関係の江戸と現代を比較するなど元々ナンセンスなのは解っていますが)

 

それにしても池波先生という方は、まあ、「くらし」というものを知る大家のように思います。人間のつくる世の中そのものがくらしの集大成であり、それは人間の本性がもたらす様々の現象によって成り立っているのですが、これを自在に取り出して説明してみせるという力は、常人にはなかなか出来るものではありません。池波先生はそれを自在に成し遂げておられるのです。秋山小兵衛を中心とする人間どもの暮らしぶりを、実に楽しみながら、時に己の思いを小兵衛に託し、時に大治郎に託し、ある時は岡っ引きの手下に託したりして、ものを言わせたりしています。

 

私は「善の中に悪があり、悪の中にも善がある」というような池波先生の考え方こそがこの世を成り立たせている現実ではないかと思っています。善と悪はどちらか一方だけで存在できるものではなく、生きものにとっては、双方のバランスの上に成り立っているように思っています。つまりは矛盾という世界に生きているということです。建前と本音、裏と表、右と左、戦争と平和等々、この世を成り立たせている現実の奥に潜んでいるのは、この巧みな矛盾バランスのような気がするのです。このようなことについての解説を、池波先生は様々な作品の中で、小出しに行っておられます。この剣客商売というシリーズの中でも、何回かそれを読んで感じ入ることがあるのですが、たとえば、次のような一節があります。

~~~

そもそも人間という生きものが、矛盾をきわめている。

 秋山父子のように、剣の修業をきわめたものには、それが実によくわかる。

 肉体の機能と頭脳のはたらきが一つに溶け合ってくれればよいのだが、なまじ他の動物とはちがって頭脳がすぐれているだけに、動物としての機能が頭脳によって抑制されたり、又は反対に、肉体の本能が頭脳に錯覚を起こさせたりする。

「まだしも、野獣の方が正直にできているのさ」

 などと父の小兵衛が冗談めかしていうのだ。

「獣は、つまらぬこと、よけいなことを考えぬ。だから人よりも、むしろ、暮らしがととのっているのじゃよ」

 小兵衛にいわせると、矛盾だらけの人間が造った世の中も、これまた矛盾だらけということになる。

「ごらんな。ああ一日も早く死にたい。死んでしまいたいなどと暇さえあれば口に出す爺や婆あが、道を歩いていて、向こうから暴れ馬が飛んで来たりすると、お助けえと大声を張り上げ、横っ飛びに逃げたりするのも、その一つじゃ。頭がはたらき、口がはたらいて言葉をあやつるから、こんなまねを平気でやる。鳥獣や虫、魚などは、こんな阿呆なまねはせぬよ。もっと、することなすことが正直なのだ。もっとも他人ことはいえぬ。わしも、よいかげん、阿呆ゆえな……」(「剣客商売」春の嵐 善光寺・境内の中の一節より)

~~~

 このような解説の中には、きれいごとだけでは生きられない、人の世の本質が的確に指摘されていると思うのです。本質であるがゆえに、それは現代にも通ずることなのです。私たちはこのような矛盾の世界に生きていながら、己自身は常に合理的な世界で正義に取り巻かれて生きているなどと錯覚していることが多いのです。マスコミの流す情報に乗って政治のあり方を一方的に批判したりしている人が、選挙の投票には一度も参加していなかったり、法を守るのを職業としている関係者(警察、裁判所など)が、大悪、小悪の事件に自らを絡ませているなどということは、今の世にも絶えることがありません。斯く言う私自身だって、偉そうなことをいう資格も権利も全く無いほど、小悪にまみれた、いい加減な日常を送りながら、時には善人ぶって正義めいた主張をしたりしているのです。だから人の世は面白いのです。善悪綯()い交じって人の世は出来上がっているのです。

 

 剣客商売や鬼平犯科帳などの池波先生の本を読む度に、私はなんだかホッとするのです。今回の剣客商売は、既に半分以上を読み終えました。残っている分にどんな物語が書かれているのか、もう大抵のことは読みはじめれば直ぐ解るのですが、それでも毎回ワクワクしながら読んでいます。TVの鬼平犯科帳や剣客商売も欠かしませんが、読み本に比べれば興奮度は遥かに低いものです。空想力などがはたらく余地が大幅に圧縮されてしまっているからです。けれども、読み本は常に新鮮です。70歳には70歳に相応しい読み方というか、読んでいてのイメージの膨らみがあり、それを味わうのが、まあ、何ともいえぬ楽しさなのです。

 

老人が見る夢もまんざら捨てたものではなく、もしかしたら老人ならではの人生の至宝を手に入れて、その魅力を自分のものとして楽しんでいるのではないか。そんな風にも思えるのです。

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三椏の告げる春

2012-01-28 07:05:10 | 宵宵妄話

  三椏という木をご存知でしょうか?三椏と書いて「みつまた」と読みます。この木は楮(こうぞ)の木と並んで、和紙の原料として有名です。和紙の原料として有名なことは知っていても、楮も三椏もその木の姿や花や実となると、意外と知らない人が結構多いようです。茨城県の北部に生まれ育った私は、幸いなことに子どもの頃からそれらの木にお目にかかることが出来ました。茨城県の常陸大宮市に山方町という所があり、そこの西野内という地区は黄門様の時代からの和紙の産地となっていて、今でも僅かながら紙を漉いている家が残っているようです。

 

 子供の頃は楮や三椏のことは知っていても、それは単にこの木から紙が出来るんだと思っていたくらいで、木そのものに対する関心は殆どなく、50歳代になる頃まで、それらのことはすっかり忘れ果てていました。それが紙の原料などということは抜きにして、これらの木や花に興味や関心を持つようになったのは、糖尿病になって運動療法としての歩きを余儀なくされた頃からの自然観察を始めてからでした。道端の野草や樹木たちの名前を覚えることから始めたのですが、様々な草木たちに毎日出会っている内に、それぞれの個性に気づくようになり、たくさんの発見をするようになって、今まで忘れていたものに対しても、格別の興味や関心を持つようになったのです。

 

 今住んでいる守谷市近郊には三椏も楮の木も結構点在しています。楮の方は自生というか空き地の藪の中などに他の灌木に混ざって逞しく生きているようですが、三椏の方は紙の原料という目的ではなく、鑑賞用の樹木として、早春からの花を愛でるために家の庭先に植えられていることが多いようです。

 

 さて、その三椏のことですが、この木の命名の謂われは、この木の幹から別れた枝が、全て三又に伸びていることにあることは明らかだと思います。枝の全てが三又になっているなどという木はそうそうあるものではなく、逆にいえば三又になっている木を見かけたら、それはもう三椏なんだと思って間違いないということかも知れません。

 

 三椏の木が目立つようになるのは、年末近くなった辺りからではないかと思います。新しい年を迎えて、しばらくは寒さの中で樹木たちのことなどは忘れてしまっているのですが、歩きの中で春の到来を気づかされるのは、三椏の木を覆う花のつぼみなのです。隣の常総市の鬼怒川運河に近い畑の脇に、2本の三椏の木が植え残っている場所があるのですが、今頃その脇の道を通ると、大きなグレーのビロード色の塊が光っているのに気づかされます。そう、その塊こそが春を告げる三椏の花のつぼみなのです。あっ、そうだ、三椏の木がここにあったんだっけ、そう、もう直ぐ春なんだ、というのが毎年の所感なのです。今年も同じでした。先日春告草のことを書きましたが、樹木の中では今のところこの木に気づいた時が、春の到来を実感する時となっているようです。

 

         

散歩の途中の常総市小絹地区、鬼怒川運河近くの畑の端にある三椏の木の一本。木全体を覆っている小さな白い塊は、膨らんできたつぼみである。(2012‐1‐22撮影)

 

 三椏のつぼみは、それから2カ月以上も経った3月の半ばを過ぎた頃に本物の花を咲かせます。これはなかなかのものです。美しいといっても言い過ぎではないように思います。やや厚ぼったい黄色い花びらが目立ちますが、嫌らしさなど微塵もない楚々たる風情を持った花なのです。三椏の花は、黄色のものが一般的なのですが、中には園芸種なのか赤い花を付けたものもあまりますし、又両色が入り混ざったものも散見されます。これなどは、恐らく人間が自分たちに都合が良いように、悪さをして作り上げたものに違いありません。しかし、花はともかくとして樹木そのものはやっぱり三又ななので、この木の特徴を変えるほどの力は人間には無いのだということを確認出来てホッとしている次第です。

 

         

3月下旬、満開の三椏の花。約2カ月かけてつぼみは春の日差しを吸い続けて膨らみ、やがて美しい花に変身する。(2010‐3‐23撮影)

 

 何はともあれ、今年の冬はちょっぴり冬らしい寒さが続いており、春の到来も遅れるのかなと思っていたのですが、なんの、なんの、三椏のつぼみは例年にも増してその全体の膨らみを増して、しっかりと春が近づいているのを教えてくれているのでした。「冬来りなば春遠からじ」ですが、三椏の春の先取りは、これはもう大したものだと思っています。

 

         

黄色と赤のの入り混じった花を咲かせている三椏の木。こうなると和紙のことなどすっかり忘れ果ててしまうのが、現代人の性向なのだ。(2010‐3.23撮影)

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市議会議員選挙に思う

2012-01-24 04:46:33 | 宵宵妄話

  この頃の郵便受けには、やたらに選挙の手前味噌記入チラシが放り込まれています。日に何枚も入ってくるので、何なんだと調べましたら、間もなく市議会議員の選挙があるとのことでした。月末近くに公示され、投票日は来月の5日とのことです。守谷に越して来てから今年は8年目を迎えることになり、市議会議員の選挙は確か2度目となるはずです。4年前の時は誰がどうなのかさっぱり判らず、いっそ棄権しようかとも思ったのですが、それはやはり国民の義務違反だと考え、よく判らぬままに取り敢えずの一票を投じたのでした。

 

 その時から早くも4年が経って、再び投票の義務を果たさなければならない時が巡って来たわけですが、正直のところ困惑しています。だれを選ぶべきなのか情報が殆ど無いからです。市長を選ぶのならば情報が限定されやすいので論点などが解り易いのですが、市議会議員となると、不断の面識もない状況ではその候補者が何を考えているのかさっぱり解りません。市議会だよりというのがあり、時々自治会を通じて配布されてきますが、その内容を読んでいてもそこに載っている議員さんがどれだけ活躍しているのかなどということはさっぱり判りません。ごく当たり前のことを質疑しているとしか思えないからです。このような思いで選挙に臨んでいる市民が大半ではないかと思うのです。

 

 守谷市の行政に関しては不満を覚えていることが幾つもあります。その最大のものは街づくりということなのですが、7年ほど前につくばエクスプレス(=TX)という、東京都心とつくば市を結ぶ新しい鉄道が営業を開始し、守谷市はその中間点としての車両基地のみならず、運行ダイヤに関しても有利な条件にあり、新たな駅前開発が期待されたのですが、その結果としての現状は、これはもう惨状そのものではないかと思えるのです。地権者の思惑そのままに中小のビルやマンションが好き勝手な方向を向いて建てられ、それらの建物以上に点在している空地の大半は、一斉に駐車場となっており、いつ訪れるとも判らぬ次の土地の値上がりやビジネスチャンスを待つかのように広がっています。ほんの僅かばかりの駅前広場がありますが、バスやタクシーの発着場の緩衝地帯という程度のスペースしかなく、市がTX開通に向けた駅前開発のためにわざわざ担当部署を設けたほどのニーズは無かったといってもいい様な結果となっています。

 

 ま、ここに至るまでには様々な事情が絡んでいるのだとは思いますが、20名を超す議員がいるのに、この程度のことしかできなかったことに対しては、とても評価など出来るわけがありません。慾得まみれの世界に分け入ってでも、未来の街のために身命を賭して汗を流そうという気もなく、しっかりとしたビジョンも信念もアイデアもないまま、目先の小さな出来事に捉われてウロウロしている間に、たちまち現状に至っているのではないかという感じがします。自分は議員さんたちの能力を超える要求をしているのかもしれませんが、現在の街の形成の様子を見ていると、市長以下の為政者に対する怠慢感を禁じ得ないのです。

 

 さて、そのような不満の中で、再び市会議員選挙に臨まなければならないのですが、前述の情報不足ということに関連して、選挙の度に不満がこみ上げ、怒りに近い思いが膨らむのは、選挙管理委員会のあり方です。この選挙管理委員会というのは、一体何のための組織なのか良く解りません。自分的にはそれが国政であろうと地方自治であろうと、その代表者である議員というものを選ぶために、一般国民に対して必要な情報を最大限の努力のもとに提供するというのがその役割なのではないかと思っているのですが、その現状は全くお粗末で、やっていることといえば、候補者の受け付けから選挙終了までの事務処理と選挙民に対してはポスターの掲示作業と選挙公報の配布くらいのものです。これで事足れりというのであれば、これはもう怠慢と言わざるをえません。ま、当事者の立場からは法律等で決められたルールに従っているだけとの回答があることは承知していますが、私から言わせれば今の世の選挙制度では、この管理組織のあり方に一番の問題があるように思っています。

 

今は既に高度情報化社会に入っているのです。それに相応しい情報提供の仕組みや方法を考え出すべきです。ポスターなんぞで人を選ぶなどというのは、明治・大正時代の手法でありましょう。又選挙公報にしても配布のタイミングは遅いし、その内容も立候補者任せで、碌に己の主張も解らないような代物を掲載しているのを見かけます。立候補者に対しては、選挙民が選択のために必要な基本事項を指定して、しっかりと述べさせるべきです。(尤も、自分が何を言っているのか解らないような奴が選ばれるはずはないのだから、正直に書かせてもいいのじゃないかというのにも一理はあると思いますが)いずれにしましても、立候補者と選挙民とをつなぐ情報のあり方を再構築しないと、このままでは投票率などは益々低下の途を辿るのではないかと思います。

 

当今の政治のあり方については、真に以って言語道断の感があります。地方の小さな自治体の選挙など吹けば飛ぶよなものなのかもしれませんが、このような抜本的な問題に手を付けて貰いたいものです。安っぽい問題指摘だけのチラシや市民のご機嫌とりばかりのチラシを見るにつけて、選挙管理委員会はもっとしっかりせい!と思わずにはいられません。斯様な課題に手を付けるというのを公約する人物がいたら、間違いなく一票を投ずることになると思います。

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布施弁天に行く

2012-01-22 02:18:47 | くるま旅くらしの話

  昨日(1/20)夕刻から一気に冷え込みが強まり、今日は雪混じりの雨が降ったりの暗い一日となりました。でも降雨量は大したことはなく、1カ月以上も続いていた乾燥注意報下の暮らしには、ちょうど良いお湿りだったと思います。そんな中を今日は隣の柏市にある布施弁天(紅龍山東海寺)へ行ってきました。お寺への参詣という気持ちもありますが、先ずは歩きのコースの新しい開発といった目的が主になります。

 

 布施弁天は茨城県取手市と隣の千葉県柏市とを分ける利根川に架かる新大利根橋を渡って直ぐの、田んぼに隣接した小高台に建っています。守谷市の私の家からは10km近くあり、これを往復するのは一寸無理なので、橋の近くまでは車で行き、そこから歩き始めるというコースになります。布施弁天には何度か行ったことがありますが、歩きのコースにしようと思いついたのは、守谷在住の取手市近くに住む知人から、利根川の土手や橋を渡っての布施弁天への歩きを仲間と一緒に楽しんでいる話を聞いたからでした。というのも、私の歩きのコースは住んでいる守谷市北部から隣の常総市やつくばみらい市の方面に次第に固定化しつつあり、どのコースも歩き尽くして、些か飽きが来ている感があったからなのでした。

 

 私は歩くということを自分のくるま旅と重ねて考えることにしています。単純に言うなら、私にとって歩くということは即ち旅をしているということなのです。旅の本質というのは、歩くことによって佇んでいる場所とは異なる新しい経験を得ることにあると思っているからです。車や飛行機等で遠くに出掛けることが旅なのではなく、距離には無関係にどこでもいいから歩いて何かと出会う、それが旅なのだと思っているのです。どんなに遠くに行っても何の出会いも得られないようなのは、旅ではなく只の移動に過ぎないのではないかと思うのです。ですから毎日住んでいる近くを歩きまわるのも旅だと思いますし、実際季節の変化の中で毎日必ず幾つかの発見をするのは実に楽しいものなのです。

 

しかし、まあ、より強い刺激が欲しいと願うのは人の常であり、私もまた時には今までとは少し違う場所を歩いて見たいと考えるわけです。現在在宅時の、車を使って出掛ける歩きといえば、週1回の家内のフォークダンスの練習日にお抱えられ運転手として同行するつくば市内の幾つかのコースがあるだけで、それ以外の歩きのコースを考えたことはなかったのでした。つくば市内のコースも次第にマンネリ化して来ている部分があり、今回知人からその話を聞いた時は目からウロコの感じがしました。そうなのです、近所で飽いた時は、車を使って少し足を伸ばして基地を作り、その場所での歩きを指向すればいいのです。どうしてつくば市以外にも、もっと早く気づかなかったのか不思議な感じがします。

 

さて、ということで、今日はその手始めということになりました。生憎とんでもない悪天候で、傘を持ちながらの歩きとなりました。利根川に架かる新大利根橋は、何年か前までは有料だったのですが、現在は無料となり、かなり交通量の多い道となっています。橋の長さは2.5kmほどでしょうか、利根川の流れの幅はそれほどでもないのですが、流れの両側の河川敷はかなりのもので、さすがに日本では流域面積の広さを誇る川だと実感しました。(アマゾンや揚子江と比べれば笑い話でしょうが)歩いて渡るのは今日が初めてでしたが、車なら3分ほどしかかからない道も、歩けばその10倍くらい掛かることを実感した次第です。橋の入り口から川の流れのある堤防まで10分、本流の堤防と堤防の間が10分、そこから柏市側の橋の入り口までが10分という区分けが出来そうです。今日はかなり風も吹いていましたので、川を渡った先の堤防からは下に降りて、田んぼの中の道を布施弁天に向かって歩きました。いつもは気づかなかったのですが、田んぼからは布施弁天の本堂の裏側が良く見えます。朱塗りの壁の上に緑青色の屋根が載った景色は、鐘楼や3重の塔を含んだ何本かの老大木に囲まれていて、何だか遠い江戸時代につながる景色のように思いました。丁度今池波正太郎先生の「剣客商売」を読んでいるのですが、その中に挿絵を描かれている中一弥画伯の絵とそっくりの雰囲気があり、ああ、あそこには確かに昔が残っているのだなあ、と思ったのでした。

 

     

利根川の堤防の方から見た布施弁天の景観。こちらは後ろ側からお寺の全体を眺め形となる。その昔は藁屋根であったのかもしれない。素朴な雰囲気が漂っているのが嬉しい。

 

裏側の道から正面に回って階段を登り、本堂に参詣しました。このお寺は大同2年(807年)に但馬の国朝来郡筒江村(現兵庫県朝来市和田山町筒江?)から、坂東武者が神仏を蔑(ないがしろ)にするのを改めさせようとやって来た弁天様の不思議現象から祀られるようになったとかで、そのご本尊の三寸余の弁天秘仏は、何と彼の弘法大師が但馬の筒江村に居られた時に刻んだものだったとのことです。何が何やら判りませんが、本堂に祀られている弁天像は秘仏ではなく代用に作られたもののようで、にこにこ顔でこちらを見ておられました。ご本尊がどのようなお顔なのかは、ご開張とやらの時にお目に掛かるしかありません。

 

     

正面から見た紅龍山東海寺(=布施弁天)の景観。正面の石段を登ると楼門(白く見える所)があり、更に石段を登ったその奥が本堂となっている。右手に三重塔とその奥に鐘楼がある。

 

このお寺の中で私が最も凄いなあと思っているのは、境内にある鐘楼です。この鐘楼は谷田部(現つくば市谷田部)の庄屋だった飯塚伊賀七という方が設計したものであり、他のお寺の鐘楼には無い斬新さがあります。飯塚伊賀七という方はからくり伊賀七と言われたそうで、その独創性、創造力は近郊にはかなり有名だったようです。今の世であれば、世界的な建築家となられていたのかもしれません。寒風の中、改めてその鐘楼に見入ったのでした。

 

     

飯塚伊賀七設計の鐘楼の景観。八角形の石組基壇の上に鐘楼が建てられており、その縁は円形、中の柱は十二角形となっており、からくり伊賀の思いを彷彿させる建物である。

 

参詣の後は、とにかく寒いので、早く車に戻ることにしてロクに景色も見ないままひたすらに帰途に就いたのでした。往復して2時間足らずの歩きでしたが、今までとは違う変化があって、これからが楽しみです。小貝川や鬼怒川での堤防の歩きは毎度経験済みですが、2kmを超える橋を歩くというのは、しまなみ海道の多々羅大橋や因島大橋以来であり、比較するのは無理というものですが、大利根川を演歌でも歌いながらゆっくり歩いて見たいなと思いました。今まで気づかなかったのですが、布施弁天の付近はあけぼの山公園となっており、その中には日本庭園などもあって、これからの歩き一層の楽しさを付加してくれるのではないかと思いました。ま、そのようなことでワクワクしながら帰宅したのでした。

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春告草

2012-01-20 07:00:33 | 宵宵妄話

 

 

今日(1/18)春告草が咲いているのを見つけました。気づくのが遅かったのかも知れず、もしかしたら数日前には花を咲かせていたのかもしれません。春告草というのは、私が勝手につけたこの草の名前で、本名(?)は「イヌノフグリ」と言います。この草にはもう一つ「オオイヌノフグリ」というのがあり、どちらも同じ仲間ですが、オオと名のついた花の方が少し大きめなのが、見分ける際の目印になります。

 

イヌノフグリとは、犬の陰嚢のことであり、この草の咲かせる楚々とした愛らしい花には、あまりにもイメージを損なう名前なので、私は勝手にこの草を春告草と呼ぶことにしたのです。この草に何故フグリなどという場違いの名がつけられたのかといえば、花が咲き終わった後につける実の姿形が、犬のそれにそっくりだからなのです。多くの人たちは、花は好んで見るけど、実を見るということをあまりしないので、気づかないのだと思いますが、この草を名付けた人は、よほどに咲き終わった後の実に興をそそられたのかもしれません。

 

毎年、この草の楚々たるブルーの小さな花が咲いているのを道端に見つけると、どんなに寒くても、ああ、春が来ているな、と思うのです。今頃はまだ数個の花しか見出すことはできませんが、暖かさが増すにつれ花は数を増し、4月を迎える頃になると、畑の片隅をブルーに染め上げるほどに咲き誇るのです。その頃には桜も咲き出して、春は一段と本格化するのですが、私は咲き誇っている時の花よりも、今の季節に、どの花よりも早く春の息吹を伝えてくれる、数個の花を見るのが好きです。小さいだけに見落としてしまいがちなのですが、今日は今年初めての彼女たちを見てちょっぴり興奮したのでした。

 

関東の南部エリアは、昨年からずっと乾燥した晴天が続いており、一向に雨の降る様子がありません。異常気象の話は、もう慣れっこになってしまっている感じがしますが、それでもこんな状態が続いていると、やっぱり水不足などが気になり出しますし、風邪の流行なども心配になり出します。そのような時には、この春告草の傍に行って、人間の杞憂などとは無関係に、大自然は確実に季節の時間を回していることを確認し、その流れに素直に身を任せることにします。

 

       

 道端で見かけた春告草(=イヌノフグリ)の花。このところの連日の霜で痛めつけられた葉っぱは、葉の先を赤い色の霜焼けにしているけど、それでも日中は頑張って早くも今年一番の花を咲かせていた。

 

 

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骨董市へ行く

2012-01-18 00:33:30 | 宵宵妄話

  最近のTVの人気番組の一つに「開運!なんでも鑑定団」がありますが、これは勉強になるのでいつも見ることにしています。勉強になるというのは、私自身に骨董趣味があって自身の収集の参考になるからというわけではありません。鑑定士の先生方の説明や番組制作者からの解説等が、各種の著名作者や作品或いは往時の時代背景などを理解する上でとても参考になるからです。また鑑定士の皆さんの本物を見分ける審美眼というか、その鋭い感性や豊かな知識・経験を垣間見ることによって、多くの刺激を受けるからなのです。自己流の常識とかいう奴にがんじがらめになって、本物を見る力を失ったというか、育てなかった、自分自身を初めとするその他大勢の仲間の人たちのため息を、一緒に味わっているという感じなのです。

 

 今日(1/15)は家内の予てからの要望で、骨董市なるものへ行って来ました。その骨董市というのは、初詣にも行ってきたばかりの、常総市にある一言主神社の境内で毎月第3日曜日に開かれているものです。この骨董市のことは、守谷市に越してきた頃から知っていましたが、それをひやかしに出掛けるのは今日が初めてでした。私には骨董趣味など全く無く、新しいものを欲しがる気持ちもこの頃は急速に消滅しつつあります。家内は裂織りという奴に力を入れており、不断から古布に対する関心が大きいのですが、最近はどういうわけなのか「洗い張り板」が欲しいのだそうです。古布を洗い張りして何かしたいと考えているのかもしれません。晴れ着以外の着物を見ることが少なく、浴衣でさえも使い捨て的になってしまった今の世では、新品の洗い張り板など売っている店があるわけがなく、もしかしたら骨董市をウオッチしていれば見つかるかもしれないという、密かな期待を膨らませたようなのでした。それで予てから噂のあった一言さんの骨董市に出掛けたというわけです。

 

 10時頃に着いたのですが、思いの外の人出で、たくさんある駐車場は早や満車になりかけていました。平日だと1台も停まっている車を見掛けない、神社から一番離れた大駐車場までもが8割以上の混み具合で、入庫を待つ車の列が見る間に詰まって行くのを、驚き呆れながら境内に向かって歩いたのでした。老樹に囲まれた境内の入口から拝殿までの参道にはもう何店もが店開きをしていました。その他にも境内の至るところに様々な道具類や古美術などを並べた店がびっしりと並んでいました。40年以上も前に見物に行ったことがある、世田谷のボロ市を思い出しました。ボロ市とは少し趣が違っていて、ここはよりコンパクトな骨董市という感じがしました。その道の好き者には掘り出し物が期待できる場所なのかもしれません。ちょっと見ただけでは値打ちの判らない怪しげ(?)なものが幾つもあったようです。

 

 先ずは参拝した後、ざっと一回りしてみたのですが、何しろ自分的には何の目的もないのですから、只雰囲気を味わうだけなのです。その昔は古い徳利や盃などへの関心が結構あったのですが、今では酒も遠ざけなければならない状況なので、そのようなものを集める虚しさの方が先に行ってしまうのです。中にはちょっと気を引かれる物もありましたが、全ては諦めの世界なのでした。

 

まあ、しかし良くもまあこんなにたくさんいろいろなものが残されているものです。中心となるのは明治・大正・昭和というここ120~30年間の時代を語るものが多いようで、さすがに江戸以前のものは少ないようでした。並べられているものは多岐に渡っており、大型の家具からビー玉類まで、金物、陶器、布や着物類、雑誌や看板、壊れた蓄音器、小型の天秤ばかり、木製の滑車などなど、60年前の子どもの頃にはどこの家にも一つや二つは当たり前のように置いてあったものが、たくさん並べられていました。それらの一つ一つには、様々な物語が秘められているのかもしれません。今まで昔を振り返ることが少なかった自分にも、これらの品々を見ていると何だか懐かしさがこみ上げて来ました。骨董市というのは、単に慾得で掘り出し物を探すためではなく、もしかしたら人それぞれの懐かしい昔を探し、それに逢いに行くための場所なのではないかとふと思ったのでした。

 

 家内がどこで何をしているのか判りませんが、目当ての洗い張り板は自分の歩いた店の中には見当たらないようでした。何周り目かに家内を見つけた時は、店の人ではなく、その店に来た客と思しき人を掴まえて、洗い張り板が置いてありそうなリサイクルショップを訊きだそうとしていたらしく、私を見つけて突然その人が言う店の場所を知っておくようにと頼まれました。彼女は地理的なことが苦手なため、ま、当方に課題を振ったということなのでしょう。いつものことであります。幸いなことにその方がおっしゃるリサイクルショップは、自分も知っている場所だったので、今度つくば市に行った時には寄って見ることにしました。

 

 再び退屈紛れに夫々の店を覗き歩いて30分も経った頃にようやく家内の方も一通りの目的を達したらしく、解放される時間となりました。彼女はといえば、何か袋に包んだ獲物を抱えていたようですが、それが何なのかなどには関心はありません。この間にも来訪者は増えるばかりで、この骨董市の人気ぶりを改めて思い知ったのでした。とにかく帰ることにして駐車場に向かったのですが、もう完全にどこの駐車場も満車の状態で、動かない車の列が長蛇の態をなしていました。ここへ来る交通手段は車しかないため、このような状態となるのでありましょう。ストレスなしに市を覗くためには、どんなに遅くとも10時前には到着できるようにしないと、車を置くだけで1時間以上も無駄な時間を要することになってしまうようです。

 

 家内は毎月でもここへ来たいようで、次回はもっと時間を掛けて見て回りたいようなことを言っていました。見て回るというよりも、店の人やお客さん達を掴まえて、あれこれ話をしたいというのが一番の願望のようです。何しろ話しかけても糠に釘の亭主なのですから、ストレス発散のためには、ちゃんと反応してくれる相手が必要なのでありましょう。次回からは、自分はここまで家内を送って来て一旦家に戻り、心行くまで見物と話を楽しんで頂き、それが済んだら連絡して貰って再びここへ迎えに来るという、そのようなやり方を確認したのでした。我が家からはここまで20分足らずの距離なので、十分に可能なのです。

 

 ま、このようなことで初めての一言さんの骨董市見物は終わりました。目的のない見物はどうも力が入らないのですが、それでも自分の知っている昔に会えたというのは、思いがけない収穫だったような気がします。次回は送迎に専念することになりそうですが、ま、家内のストレス退治のためには、これから毎月1回の骨董市通いも悪いことではないなと思った次第です。

 

     

常総市一言主神社の骨董市の風景。狭い境内には50店近くの店が、思い思いに昔の懐かしい品物を展げている。

  

翌日、つくば市に家内のフォークダンス行のお抱え運転手になり下がって出掛けた際に、聞いていたリサイクルショップに行きましたら、何と4枚もの洗い張り板の在庫があり、早速その中の1枚を手に入れたのでした。1枚2千円は安いなと思いました。世の中はうまく回っているところがあり、面白いものです。>

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歩ける喜び

2012-01-15 01:33:13 | 宵宵妄話

  このところ些か我が体調に疑念を感じていました。昨年辺りから身体の随所が思う様には働かなくなる感じが一挙に増して、どうやら本格的な老化が始まったことを思い知らされたのでした。元々身体を動かすのが好きで、体力には自信があったのですが、それが次第に思うように行かなくなり出しました。

 

 例えば、旅先での水汲みは楽しみの一つで、わざわざ水場からは少し離れた場所に車を停め、ポリタンで重さを味わいながら水を運ぶのですが、旅を始めた10数年前は20Lのポリタンでも苦になりませんでした。それがやがて10Lになり(それは今でも辛うじて続いていますが)この頃は5Lのものにしようかなどと考えています。というのも昨年の夏辺りから右肘の筋肉と神経が痛みを発するようになり、10Lの重さをもてあますようになってしまったからです。今は左手を使うようにしていますが、これとて使い過ぎると何時痛みを覚えるようになるやもしれず、ちょっと心配です。筋力の減退は腕だけではなく身体の全身に万遍なく及んでいる感じがします。

 

 ま、このようなことは老いを迎えた者なら誰でも体験しなければならない道筋なのだと思いますが、今年に入って急に心配が膨らんだことがあるのです。それは、左の足の裏の違和感なのです。歩きの際、土踏まず辺りの部位に綿を含ませ敷いたかのような感覚喪失感があり、加えて指先が痺れを感じ出したのでした。このような感覚異常は昨年の春の終わりごろから少し感じてはいたのでしたが、一応医師(内科)の診断を受け薬を処方して頂き、その後さほど進行している様子もないので、そのまま過ごしていたのですが、今年の新年を迎えて数日後に急にその違和感が強くなり、慌てました。

 

思うに私は20年を超える糖尿病の患者であり、それなりにこの病と付き合って来たつもりでいたのですが、それがどうやらまやかしだったということがここへきてバレてしまったようなのです。この足裏の違和感も恐らくそのまやかしに起因した糖尿君の怒りのなせる業だったのだと思いました。これはもはやいい加減な自己管理を止めて、もう一度原点に戻った病の管理をしなければいけないと覚悟したのでした。

 

何といってもくるま旅くらしを指向している私にとって、足の異常から歩けなくなるということは致命的ともいえる大問題なのです。足裏が感覚を失うなどということが本格化したら、旅など不可能となってしまうかもしれません。いや、それ以上に自分から歩きを取ってしまったら、人生の楽しみがいっぺんに失われてパニック状になるに違いありません。

 

 糖尿病の宣告を受けて以来20年以上、運動療法の一環として毎日万歩計の数値を記録し続けているのですが、凡その年間目標は500万歩であり、今まで未達成の年は皆無でした。多い年には700万歩を超えたこともあるのです。昨年も500万歩はクリアしていますが、このところややしんどさを覚えて来ており、もしかしたら足裏のトラブルも歩き過ぎが一つの要因となっているのではと心配になり、専門医の診察を受けるまではしばらく歩くのを休むことにしました。歩きを休んだ場合の1日の普段の歩数がおよそ6千歩だというのも判りました。

 

そのようなことから、昨日(1/13)専門医(糖尿病・内分泌科)の診察を受けたのでした。その結果はほぼ予想通りでしたが、足裏の違和感の症状は、全てが糖尿病に起因するとは思われず、左足のみが異常を来たしているのは、腰に何らかのトラブルがあるのではないかとの診立てでした。そして何よりも安心したのは、歩き過ぎと足裏のトラブルの因果関係は全く無縁だと断言されたことです。足指の痺れに関しては、糖尿病が関係していることは間違いないとのことで、これはもう自分自身がそう思っていることなので、やっぱり、という思いなのです。このまままやかしを放置し、グータラな食生活を決め込んでいると、痺れに止まらずやがてはちょっとした傷を治すことも出来ずに、壊疽の症状を来たして指を切断するとか、指に止まらず足を切断するというような重大な事態に進展するやもしれず、改めて糖尿君との付き合いのこれからを厳粛に受け止め、実践することを覚悟したのでした。幸いなことに、今のレベルではそのような重大事態に直行する心配は少ないようなので、全てはこれからの自分自身の実践に掛かっていると己に誓ったのでした。

 

 ということで、今日は10日ぶりに歩きに出かけました。快晴で少し風があり、関東の守谷市といえどもかなりの寒さを覚える天気でしたが、久しぶりの歩きは、そのような条件など全く気にならない嬉しさでした。歩ける、歩かせて貰えるということは、何と素晴らしいことだろうかと改めて思ったのです。田んぼのあぜ道に、冬の寒さにじっと耐えながら春を待つ野草たちを見ながら、時に真っ青な青空を見上げて、今自分がここを歩いている幸せを噛みしめたのでした。歩くのを休んでいた間は、車で諸々の所用を足していましたが、ずっと物足りなさを感じており、やはり自分の足で大地を踏みしめることが大事なのだと思ったのです。この先糖尿君とのお付き合いでは、面倒でがっかりするようなことがたくさん控えていると承知していますが、この歩けるという喜び、ありがたさを大事にして行きたいと思います。

 

            

歩きの途中にある蝋梅の植えこみ。丁度今が開花の最盛期を迎えようとしており、傍を通るとほのかに花の香りが漂ってくる。生きていることの喜びを実感できるひと時でもある。

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新年会出席雑感

2012-01-12 09:46:34 | 宵宵妄話

 

 先週土曜日に、毎年恒例の高校卒業時のクラス会を兼ねた新年会が開催され、県都水戸まで往復しました。54回目の新年会でした。高校を卒業したのが1959年3月ですから、計算では今年が53年後となりますが、この新年会がいつから開始されたのかは自分には判らず、誰かがそう言っているのを信ずることにしています。もしかしたら卒業する年にも開かれているので、通算回数が一つ多いのかもしれません。ま、そんなことはどうでもいいことで、多少自慢してもいいのかなと思うのは、半世紀以上も続いていることです。

 

 世の中には様々な新年会がありますが、学校卒業時以来毎年開いているものはそれほど多くはないと思います。数人の有志だけの集まりならばそれなりに存続しているのかもしれませんが、我々の場合は毎年今でも往時のクラスメンバー全員に連絡をして、半数近くの出席を得ているのですから、かなり珍しい存在ではないかと思います。

 

 この新年会のことについては、最近は毎年この時期になるとついつい書いてしまっていますので、これはもう老人の繰り言の一つなのかもしれません。そうは思いつつも、最近は少しずつ繰り言の快感を覚えるようになって来ています。ま、自分で気に入っている自慢ごとというものは、必要以上に口に出したくなるものであり、それは普通の人間の習いというものでありましょう。この新年会は、この頃は我が生涯の一つの誇りのようなものに育ちつつあるのです。何というのか、かつて少年クラブだったものが、やがて青年クラブとなり、更に壮年クラブを経過して、今は老人クラブになりかけているといったところでしょうか。私自身、この同一メンバーによるクラブの成長プロセスの全てに係わって来たわけではないのですが、壮年の頃から出席し始めて、今はもう毎年不可欠のものとなって来ています。

 

 ところで今回の集まりは当初17名の出席予定でした。それが開催日の直前までに2名の辞退の連絡があり、結局15名の出席となりました。辞退を余儀なくされた二人は、いずれも体調を崩したもので、風邪などの軽微なレベルではなく、それ以上に心配の大きな症状だったようです。また、この日の宴の途中で、貧血で気分が悪くなった者も居て、若い頃とはお互い大分違うようになっているのを改めて実感したのでした。メンバーの殆どが6回目の歳男を迎えており、ここまで辿り着くとなると、体調不全というのは誰にも身近に付きまとっている災厄なのかなと思った次第です。

 

 今年の新年会の話題といえば、何といっても昨年3月11日発生の大地震、大津波、原発事故のことに集中しました。出身が水戸であり、高校卒業後の学び舎も東北や関東が殆どですから、身内親族をはじめ知人等が被災に無関係の人は皆無といっていい状況でした。奥さんの実家が全て津波で流された人、震災で壊れた家の中の四方の壁の修理は終えたけど未だに屋根等の修理に手が届いていない人、修理のために300万円を超える出費を余儀なくされた人等など、話を聞く度に胸が痛くなる思いの連続でした。そのような話の中でたった一つ救いだったのは、亡くなった方が居なかったということだけでした。

 

大災害に係わること以外の話題といえば、やはり健康のことや趣味の話など日頃の暮らしぶりについての披歴や報告が殆どでしたが、中に一つだけ老人とは思えぬ話題がありました。そのことをちょっと紹介したいと思います。

 

我々のクラスは元々理系の進学コースであり、その進学先も理工学部等が殆どでした。文系の方に進んだ者もおりますが、3年生に進級した時点では全員が理系志望だった筈なのです。私のように途中で数値を計算したり図形を弄り回すのが嫌になって、受験間際になってから文系に進路変更した者は、言うなれば裏切り者ということなのかもしれません。クラスのまともな者は数学や理科を未だに愛好しているといっていいと思います。

 

さて、その生粋理系者と思われる一人が、ここ何年か若者たちとの交流が目的で、地元の大学に聴講に行っているとかで、グラフの理論とかに絡んで先日学生に向けて出題された問題を紹介していました。するとこの問題に興味・関心を示した人が何人もおり、会が終わった後日にその解答をメールで披歴しあうという状況なのでした。私などは最初からそのような問題には関心がなく、面白そうに話をする彼の姿を面白げに観察して楽しむばかりなのですが、理系愛好者というのはこの種の問題には敏感に反応されるようで、目が輝いているのです。いやあ、只々感嘆するのみでした。

 

 新年会でこのような話題が相当の関心を以って取り上げられる間は、この仲間たちは、身体的な老化は別として、精神的な逞しさの方はまだまだ大丈夫だなと思いました。しかし、私自身については、さて、理系の好奇心に負けないものをどう保持して行くか、これは大きな課題だなと思った次第です。来年の再会が楽しみです。

 

ご参考までに、その問題とやらを掲げます。(私自身には問題そのものも良く理解できないところがあるのですが、興味のある方はチャレンジしてみてください)

 

問題1 7CC,4CC,3CCの三つのカップがあって、7CCのカップに7CC

の水があり、他の二つのカップは空である。水6CCのカップをつくれ。3回の操作

である。

 

問題2 12CC,7CC,5CCの三つのカップがあって、12CCのカップに12CCの水があり、他の二つのカップは空である。水6CCのカップをつくれ。11回の操作である。

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「絆」の必要条件

2012-01-10 06:38:33 | 宵宵妄話

  毎年年末に恒例の、京都の清水寺貫主が揮毫される今年の漢字一字に、昨年は「絆」が選ばれました。これはもちろん3月11日に東北地方太平洋岸を襲った大震災に立ち向かう、彼の地の人々をはじめとする多くの復旧・復興に係わる人々の、人間同士の心の強い結びつきの大切さを表した一字だと思います。

 

 この文字が選ばれたことについては、何の異存も違和感もないのですが、このひねくれジジイには少し気になることがあるのです。そもそも絆というのはどういう意味を持っているのか、ご存知でしょうか? 広辞苑には、①馬、犬、鷹など動物をつなぎとめる綱②断つにしのびない恩愛、離れ難い情実。ほだし とあります。でも一字ですから漢和辞典も覗くことにして、新漢語林を見ますと、①きずな。ほだし。牛馬などの足をつなぐ縄、ものをつなぎとめるもの、自由を束縛するもの②ほだす。つなぐ。つなぎとめる。 とあります。又角川漢和中辞典には、「半」が音を表し、ひっぱるの意の語源「挽」から来ている。ひっぱるつなの意。と書かれています。

 

 これらの内容から、改めて絆ということばを考えてみますと、そこには二つの大切な意味が含まれているように思えるのです。その一つは結びつきはしっかりしたものでなければならないこと、その二は絆には自由を束縛されるという側面があるということ。「しっかりしたものでなければならない」というのは、いい加減につないでおれば、つながれることを嫌うものはたちまち逃げ出すということになるでしょう。そして「自由を束縛される」ということについては、本質的な抵抗を含んでおり、結びつきに対しては相矛盾するものがあるということです。

 

私が気になっているのは、この二番目の自由の束縛という側面です。簡単にいえば絆というのは、何がしかの不自由を伴ったものであるということです。絆の大切さは瞬間的に感ずるレベルならば、自由の束縛などの考えが入る余地などないのでしょうが、絆を大切に維持するということになりますと、これはもうたくさんの不自由さがついて回ることになります。私たちは絆の大切さを忘れないためには、このことをしっかり受け止めてくことが必要ではないかと思うのです。

 

何故こんなことを言うのかといえば、今回の大災害で見直されたというか、再発見、再確認された絆の大切さというのは、それが現代社会における我々の抱えている暮らしの問題点の裏返しにつながっていると考えるからです。というのも、日頃の我々の暮らしの中では、絆を無視したり否定したりしていることが明らかな出来事や現象が多数起こっているからです。別の言い方をすれば自分勝手というのか、他人無視ということかもしれません。

 

これらのベースとなっているのは、個人主義の高揚というか蔓延ということのような気がします。良し悪しを抜きにして個人主義が定着し、社会全体よりも個人が大切という考え方が当たり前となり、結果的にそれが人と人との結びつき即ち「絆」を弱いものとしているように思えるのです。個人主義を安易に批判する気持ちはありませんが、若者たちが「カンケー(関係)ねーよ」などと、澄ました顔をしてほざいているのを耳にすると、冗談じゃねえよ、と思ってしまうのです。この世の中で「カンケーネ~」などというものがあるわけがないのであり、「風が吹けば桶屋が儲かる」のストーリーがいい加減とは断定できない現実が厳存しているからです。世の中の成り立ちは、全てのものが何らかの関係があってこそ可能なのですから、個人主義の生み出している「カンケーネ~」という安易な無関係思想は、絆を否定する危険な考え方のように思うのです。

 

今回の大災害には、多くの若者が復旧・支援のためのボランティアに駆け付けてくれましたが、これらの人たちは決して「カンケーネ~」などとは思っていない筈です。恐らく普段から様々な状況、立場に置かれた中で、個人主義の限界を感じ、絆の大切さを本能的に知っている人たちなのだと思います。

 

今の世の中、不自由さを自由と考えることが出来る人たちの出現が「絆」というものを支えているのではないかと思ったのでした。個人主義の自由というのは、無制限の自分勝手で成り立つものではなく、他人を慮るという不自由さを当たり前のこととして受け入れることによって成り立つものなのだと思うのです。今回の大災害で絆というものの大切さが再確認されたということは、歴史的な意義があるように思えます。それは誤りかけていた個人主義に「喝!」を入れる出来事だったような気がします。

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新兵器を獲得する

2012-01-08 05:41:59 | くるま旅くらしの話

  新兵器と言っても武器ではありません。旅先での情報発信用のツールのことです。わかり易くいえば、モバイル用データ端末器の利用契約をしたということです。ドコモのXi(クロッシー)という高速データ通信契約を申し込み、今手元にその端末器と小型のパソコンがあります。パソコンはサービスで無料の提供を受けました。しかし、これらの機器については今のところ使用できるようにセットしただけで、試行を1回した後は全く使っていません。というのも在宅時は光通信でのインターネットを使っていますので、わざわざモバイルなどを使うと、とんだ高額料金の支払いとなってしまいますので、旅先以外は使用禁止です。

 

携帯電話、光ネット、それに今回のデータ通信と、今の世の中、通信にかかるコストはバカにならない状況です。これらを統合した機能を持つスマートホンなどの方が好都合なのかもしれませんが、今のところ使い勝手という点でスマートホンに切り替える気はありません。これらがもっと利便性を加えて一本化される時期が遠からずやってくると思いますが、少なくともあと2年は現状を変更する考えはありません。

 

さて、何ゆえに今頃これが新兵器なのかといえば、私の旅先でのブログへの投稿記事は、今まで全て携帯電話で行っていたからなのです。旅の間の投稿は全て一発勝負であり、変換文字の誤りの修正や文章の推敲などは、一度投稿してしまえば、もはやどうにもならないのでした。今使っているやや古いタイプの携帯電話器では、投稿した画面へのアクセスにも時間がかかり、ブログの編集画面へのアクセスも面倒なため、投稿結果がどうだったかを確認できるのは、旅が終わって帰宅した後でのことなのでした。

 

又原稿を作成するのも大変な作業で、両手を使って打ち込むのですが、毎日早朝から作業を開始して最短でも2時間はかかっていました。5千字を超えるような時もあり、あれこれ思いを巡らしたりして熱が入る時は3時間を超えることもありました。更には時々事件も発生し、何かの拍子で消去となるボタンを誤って押してしまい、せっかく作成した2時間分の原稿を一瞬にして失ってしまい、茫然としたことも何度かありました。そんな時は、もう一度書く気にはなかなかなれないもので、チョンボの自分に腹が立ってブン殴りたい気持ちになります。でも、毎日読んでくださっている方もおられるに違いないから、やっぱり止めるわけにはゆかないと気を取り直して、又2時間かかる作業に取り組んだのでした。まあ、我ながらバカなことをやっているものだと、時々呆れ返っていたことでした。

 

それが、今度の新兵器の導入によってかなり負担が軽減されると思っています。モバイル用のパソコンは画面が小さいので、老人には目の負担が大きくなりますが、携帯よりはずっとマシだと思います。時々打ち込みの練習をしていますが、馴れるまでには時間がかかりそうです。通信速度と受発信可能エリアが問題ですが、ネットを覗くニーズは殆どありませんので、ブログやメールなどの交信が可能であればそれで充分だと思っています。今まで携帯利用時の最大の問題点だったボタンの押し間違えによる記事の消去などということは、これからは無くなりますので、少し余裕をもって記事の作成に取り掛かれると思っています。又使うことが面倒だった写真も多用できることになりますので、読んで頂く方には、少しはくつろいで頂けるものと思います。

 

ところで、新しいものを使わずに傍に置いておくといのは辛いものですね。今、旅に出掛けたくてウズウズしています。旅といってもしばらくの間遠出は無理ですから、もう少し経ったら近場の2~3日の旅にチャレンジしてみたいと思っています。そして新兵器の威力を試してみたいと考えています。ま、こんなことを思いつくのは、旅のためのツールだけではなく、本物の兵器についても同じなのではないか、などと人間の思いつくことや考えることは大同小異なんだなと思ったりしています。

 

      

新兵器のモバイル用パソコンとデータ端末器(赤い物)。少し小さいので画面や文字の入力に馴れるまでに時間がかかりそう。老人には乗り越えなければならない試練である。

 

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