Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

教育はできない

2015年05月03日 | Weblog
吉田松陰先生が、

「僕は君たちに教えることはできないが、一緒に学ぶことはできる。」

と語った言葉の意味の深さが、
最近、益々心に響いてきます。

教えようと思って教えられるものはたいしたことはないのです。

そもそも、教えてやろうという心根が尊大であり、
学ぶ者の心を遠ざけているのです。

教え子たちが、
自分自身の学ぶ姿勢や、
生き方を感じ取ってくださることに、
一縷の望みを見出すしかないのです。

だから、共に学ぶしかない。

それだけのことです。

自分で気づき、
自分自身の志を立てていくような学びこそが、
本当に影響力のある学びだと確信しています。

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批判のための批判

2015年05月02日 | Weblog

私が聴いていて気分が悪くなる物の一つに、

「批判のための批判」があります。

本人は正義感満載で話しているようですが、

聴いている側からすれば、

「で、あなたには何ができるのですか?」
「より良い具体的プランは何ですか?」
「実行力と実行のための権限はあなたにあるのですか?」

という「?」が、常にわき起こってきます。

そういう言葉を発している人の顔つきは、
どうにも美しくないように感じられてなりません。

なかなか難しいことかもしれませんが、

「私は何を実現していくのか」

その思いに充ち満ちた生き方であろうと思います。

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破邪の剣

2015年05月01日 | Weblog
法律にせよ宗教にせよ、
それは人々の叡智の集積と言えると思います。

だから、それは、
人々を救ってくれるものでもあります。

しかし、その力を、
善用する人と、
悪用する人とは必ず出てきます。

それは、人間が神仏になれないということを意味します。

では、その力を正しく行使するためには、どうしたらよいのでしょうか。

私は、そのためには、
多くの人々の幸せを願う心が根底になくてはならないと思います。

その人が、
自分のためではなく、
多くの人々のためになるように判断し行動しているか。

ここでいう多くの人々とは、社会全体を指します。

私利を共有する多くの人たちの意味ではないのです。

法律の力も、宗教の力も、
大きな利他の心がなくては、
人々を不幸に貶めていくものになります。

しかし、残念なことに、
そうしたことが多々起こってしまうのが人の世の実相です。

だから時として、
破邪の剣が求められるのです。



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