Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

教育する心①

2010年06月21日 | Weblog
 国語の先生方に「詩の授業」に関しての私なりの試論をお伝えしようと思い、中原中也の年譜をまとめていた。年代を追って出来事をまとめていたのだが、ひょいと思いついて、その時々の中也の詩や言葉を年譜の中に盛り込んでいった。周辺の人たちの言動も盛り込んでみた。詩はその詩人の心を投影した言葉の芸術であるからして、人生における出来事や、そのことによって受けた心理の変化とは絶対に無縁ではいられない。面白がってついつい没頭してしまった。結果、実によく中原中也の心象風景が浮かび上がってきたのではないかと、少々の自己満足を得ることができた。あとは諸先生方のご批判を待つだけである。
 詩の授業で何を伝えるか。評論の授業で何を伝えるか。小説の授業で何を伝えるか。私には、「それぞれの作品世界をどう読み解いていくかという方法論を伝える」という明確な指針がある。それさえ出来たら、後の鑑賞については感性の世界のことであるから、それぞれが好きに感じ取っていけば良いのである。生徒たちの方が、私よりもはるかに素晴らしい感じ方をしてくれることは間違いない。ただ、「読み方」という方法論を伝えておくことには、文学や評論を囓ってきた者として、多少の意義があると思っている。
 受験対策だけを考えるのであれば、本当は、教師が教える現国の授業など数時間で良いのである。読解方法さえわかれば、後は自分で本を読んだり、漢字を書けるようにしたり、語句の意味を調べて語彙力を鍛えたりすれば良いのである。くだらない私の講釈を聴いて貴重な時間を無駄にする必要などどこにもない。
 ただ、教師が本当に、心の底から、その作品に感動し、その作家の人生に興味を持ち、語り尽くせぬものを心の中に持っていれば話は別である。友に語るが如く、汲めども尽きせぬ話ができるのであれば、その話は面白さを持つからである。しかし、これとても独善に陥ってはならない。あくまでも相手あっての対話だからである。
 人間として作家たちに向き合っていくこと。これが現代の国語教育に求められる最も大切なことなのだと思う。生徒にとっても教師にとっても、言葉が無機質な記号としてしか存在しないということが、国語教育の危機であり、ひいては教育の危機でり、人間性の危機であると思う。詩も小説も評論も、みんな人間が書いたものである。「言葉」というものは、切れば血が出るものだと私は思う。また、「温度」を持つものだと思う。それを教育の中で私は取り戻していきたい。それは実に手間暇のかかる、要領の悪い作業ではあるのだが、たとえ嘲笑されても、私はそれをやり続けたい。なぜなら、それが「教育する心」に他ならないと思うからである。
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