Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

2021年01月08日 | Weblog

福岡市にも雪が積もりました。会社のベランダからの風景です。

私が子どもの頃にも深い雪の日があったと思います。ちなみに、子どもの頃はもっと毎年寒かった記憶があります。

そこで、天気予報で、「平年並み」という言葉にいつも違和感があるのはなぜだろうと思って調べてみました。

気象庁のホームページに書いてあることを転載します。

3つの階級について

「季節予報では、1か月間や3か月間の平均的な天候(気温や降水量など)が平年よりも低く(少なく)なるのか、平年並となるのか、平年よりも高く(多く)なるのかを予報します。

この「低い(少ない)」、「平年並」、「高い(多い)」といった3つの階級は、1981年~2010年の30年間の値のうち、11番目から20番目までの範囲を「平年並」として、それより低ければ「低い」、高ければ「高い」と定めています。このように3つの階級を定めることで、過去30年間の値では3つの階級それぞれの出現回数が10回ずつとなり、出現率が等分(33%ずつ)となります。これを気候的出現率といいます。

たとえば向こう1か月間の平均気温を予想するとして、もし予測資料が何もないと、「低い」となる確率、「平年並」となる確率、「高い」となる確率はすべて等しい(気候的出現率)と予想することになり、各階級の予報確率は33%、33%、33%となります。

下の図に、平均気温を例に「平年並」の範囲の決め方を模式的に示します。「平年並」の範囲は地方や予報対象期間ごとに異なり、また、10年ごとに値が更新されていきます。次回は2021年になると1991年~2020年の値に更新されます。」

なるほど、道理で違和感しかないはずです。私にとっての基準は、子どもの頃ですから、それより暖かくて平年並みと言われてもねぇと思うわけです。

今の「平年並み」は、1991年から2020年までの気温が基準になっているわけですから、私が子どもの頃より寒くなくても、「平年より低い気温」という判断になるわけです。

本当の、日本らしい、福岡らしい気候って何だろう?難しい問題です。

 

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子規の死

2021年01月08日 | Weblog

「葬式の広告など無用に候。

家や町内も狭き故、大勢来ると、柩の動きもとれまじく候。

戒名も無用に候。

柩の前にて通夜することも無用に候。

柩の前にて空涙は無用に候。談笑平生の如くあるべく候。」

『坂の上の雲』で、正岡子規のなくなる場面、子規の葬儀の指示が、このように語られていた。

「葬儀無用のこと」私の父が書き遺した言葉は、ここから来ていたのかと思った。

子規のなくなるシーンを見ていて、亡骸に取りすがって涙したり、棺に花を皆で入れていったり、死を送る場面が、今の時代、本当に少なくなっているように感じた。そう思うのは、私だけなのだろうか。

家族葬も多くなった。死は、益々私たちのところから遠ざかっているように思う。

生と死は表裏一体。死を深く噛みしめなくなったということは、生を深く噛みしめていないということかもしれない。

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