Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

日本モデルに思う

2020年06月01日 | Weblog
安倍晋三首相は25日夕の記者会見で、新型コロナウイルスについて「日本ならではのやり方で、わずか1カ月半で流行をほぼ収束させることができた。日本モデルの力を示した」と述べた。そのうえで「すべての国民のご協力、ここまで根気よく辛抱してくださった皆さまに心より感謝申し上げます」と述べた。

この言葉に批判的な報道やコメントがかなり出ています。「日本モデル」とは何だ?というコメントです。
次のコメントは、デーブスペクター氏のコメントです。

「アメリカでさえ、マスクの着用率が飛躍的に上昇し、人々は“ソーシャルディスタンシング”でお互いの間隔を確保し、飲食店でも感染防止に力を入れています。これはアメリカのコロナ対策で“日本化”が進んだ結果だと思います。でも、安倍首相が誇らしげに語るほど、行政は“日本モデル”を実施したでしょうか。それこそ当の日本人が疑問視しているはずです。アベノマスクにしても、届かない10万円にしても、日本人は国に怒っています。その一方で、日本人は一丸となって“日本モデル”を日常生活で実施しました。そこに欧米メディアは注目しているのだと思います」

確かにそうです。ここで、私は、「そもそも行政が実施するのが日本モデルではない」と思っている自分に気がつきました。これは、日本人が何千年という歴史の中で身につけてきた、生活様式であり行動様式であり、心構えのようなものです。長くなるので書きませんが、勿論、これにも長所があり、短所があります。だから、「誇らしげに」とも感じていなかったのです。

おそらく、首相が誇らしげに語ったと思われるのは、次の報道と関連があると私は思います。

「防疫当局と医療陣の献身と国民の協力が力になった。『K防疫』が世界標準になる」。文氏は二十七日の大統領府会合で、早期のPCR検査と隔離治療を軸に成果を上げている防疫措置を海外で人気の「Kポップ」をもじって誇った。 」

つまり、韓国が言った言葉に対抗する意識が、そうした言葉遣いになったのではないかということです。

しかし、K防疫にせよ、日本モデルにせよ、諸外国で通用するかと言えば、私はそうは思いません。
K防疫は極端な情報管理で人権侵害に繋がりかねないリスクを孕んでいます。
日本モデルは、何千年という日本の歴史と、島国であり水と緑に恵まれた環境に守られ続けてきたという自然の恵みを抜きにしては語れません。
中東やアフリカとは大きく異なる地理的・気候的条件の下にいます。
そうした条件が異なる国で同じことが急に通用するとは思えないのです。
それは、それぞれの条件が、長い年月をかけて培ってきた、人間の習慣や意識の違いでもあるからです。






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