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未唯への手紙

未唯への手紙

「世界=本」を守ること

2016年12月26日 | 6.本
『起死回生の読書!』より 暴風雨の中の無風地帯 勝つための読書 ありうべき教養とは何か 「世界=本」を守ること

勝つための読書

 なぜ本を読まなければならないのか? あなたの運命に横やりを入れようとする悪魔は、こう囁くだろう。周りを見てみろ、誰も本なんか読んじゃいないだろう。だから、チャンスなんだよ。

 よく見ろ、こいつらはネット以外に情報収集ができない腰抜けばかりだ。やつらは機械にあやしてもらっている赤ん坊にすぎない。だから機械から供給される情報のほかに情報があるのをとんと知らないと来ている。

 彼ら現代の赤ちゃんたちがニュースサイトを1ページ読むあいだにスーパー・コンピュータは一〇〇億ページも読んだ上にそのまま正確に記憶してしまうんだ。だというのに、情報源が機械と同じじゃ勝てるわけがないだろう。

 彼ら、つまり横並びの赤ちゃんたちを出し抜くのは実に簡単なことだ。彼らがアクセスしようとしないメディアがあり、それがスマホの外にあるメディアのすべてだ。もちろん紙媒体も含まれる。誰もが漠然と必要性を察知していながら、誰も読まなくなってしまった現在だからこそ、本を読む習慣を身につけるだけで、ひとのしないことをする機会を手に入れたことになる。

 もちろん、本であればなんでもいいというわけじゃない。そのことには後で言及するとして、とりあえずは欲得ずくで読みはじめてもいいとしよう。

 私たち研究者は、欲得ずくの読者のことを普通は考えない。金儲けの指南書を書いて金儲けしようと企む研究者だって少しはいるかもしれない。しかし、そういう先生は本当をいうと、金儲けがあまり得意ではない。だから、金儲けの本を書いて儲けようと考える。

 だから、その手の本を手に取ったとしても、それで儲かるとは思わない方がよい。欲得ずくの動機がほんの少し満たされる程度で終わるだろう。とはいえ、そのような動機であっても、そこから別の志向性が生まれる可能性があるかぎりにおいて、ないよりはあった方が絶対にましなのである。

「世界=本」を守ること

 古代の戦争において、図書館を焼くことは、敵国の文化を根こそぎ破壊する行為だった。代表的なのはアレキサンドリア図書館になるだろうが、たび重なる破壊のため、古代人の叡知の大半が世界史から完全に姿を消した。中国の秦の始皇帝が大規模な焚書をおこなったことも有名な逸話だ。彼は秦を除く他国の歴史書すべてを焼き払えと命じたそうである。ナチス・ドイツがマルクスやハイネなどユダヤ系の著者の作品群を焚書の対象に選定し、大規模に燃やした例も有名だ。彼らは学術書や文学のみならず、美術品も「頚廃芸術」に指定して、多くの美術家を迫害し、いわゆる前衛芸術を世界から放逐しようとした。

 昨今では過激組織タリバンがいわゆる偶像崇拝の禁止を楯にして、バーミヤン渓谷の巨大な仏像を破壊した。岩石に彫られた仏像がダイナマイトで無残にも破壊される映像を覚えている読者も多いだろう。石像や寺院などのモニュメントを破壊する行為も文化(特に他者の文化)に対する攻撃であり、侮辱にほかならない。いわゆるイスラム国が破壊した世界遺産は数知れない。シリアのパルミラ遺跡はめちゃくちゃにされたし、イラクに広がる古代アッシリアの遺跡群も重機によって破壊し尽くされた。彼らの破壊はとどまるところを知らず、ある地域を侵略するとすぐにその都市の象徴的な像や遺跡、モスクなどを破壊し、図書館に火を放ち、蔵書を盗み出しては闇マーケットに投げ捨ててゆく。図書館やモニュメントの破壊、焚書などは、他者の文化を蹂躙するだけでなく、人類が築いてきた遺産を世界から葬り去り、無に帰す破壊なのだ。

 文化遺産の破壊は、人類の記憶に対する冒涜であり、露骨なまでの侮辱にほかならない。そうであるがゆえに破壊行為の映像や写真は全世界に一大スキャンダルとして報道される。しかし証拠が映像として全世界に流されれば、それがテロ組織にとっては恰好の広報活動になる。彼らが金を払わなくとも、通信会社や報道機関が勝手に宣伝してくれるのだ。つまり、テロ組織が不埓な行動におよび、乱暴狼籍を働けば働くほど、その活動はキャンペーン活動に似てくるのである。彼らは破壊というかたちで世界的なPR活動を行なっているのである。偶像崇拝の禁止が建前でしかないのは、目的の在り処がちがっているからである。

 ほかにも目に余る愚行は存在する。絶滅に瀕した動植物の惨状を目にし、保護に乗り出した人の輪の外から、絶滅寸前の動物をハンターたちが狙っている。ハンターたちの動機は精力増強の漢方薬の材料だったり、美食家の垂涎の的だったりする。金持ちの縁起かつぎとして貴重なサンゴ類が根こそぎ採られることも珍しくない。こういった情報を聞くにおよぶと、人間など滅びた方が地球のためによいのかもしれないと思ったりもする。

 しかし、そうやって人間を否定し、人間の死を願うとき、世界が最悪の状態に陥るのは間違いない。先に言及したように、死を願い、殺戮に走る道は、そのまま滅びの道に通じている。未来の世界を守ろうとするなら、過去の人間の歩みを肯定し、守ってゆく必要がある。人間の「知」の歴史を誇り、大事に抱くことによってこそ、最悪の道を避けることができ、また打開策を人智に求め、また未来の歴史を紡ぐ動機にもなってゆくからである。

 「知」をあきらめたら、間もなく未来も消えてなくなるだろう。そのような危うい綱渡りを現代人はしていると白覚しなければならない--と呟く声はほとんどの人には届かないだろうが……それゆえ、もっとも残酷な知にこそ、もっとも大きな悦びが宿ると信じることにしよう。

『独身40男の歩き方』というけれど……

2016年12月26日 | 7.生活
『独身40男の歩き方』より ⇒ これって、40歳に限ったこと? 独身に限ったこと?

メンタル 何か不安で、何に期待できるか

 通勤中、食事中、布団の中……頭の片隅から「そろそろヤバイ」の不安が離れない

 仕事はそつない反面、プライベートはからきし。ギャップにワケもなく落ち込む

 汚部屋に引きこもる休日。家族や友人を失ったとき、圧倒的な孤独が訪れる

 単調な毎日への嫌悪感にイライラ。パワハラ、デートDV、泥酔で逮捕も

 楽しいときにちっとも笑えない。ほおの筋肉がこわばり無表情に。笑い声が出なくなった

 アイドルのライブで泣けるのに、身内が亡くなっても涙が出ない。バーチャル依存で、涙のメカニズムが崩壊

 自分を守る言い逃れがうまくなり、「面倒くさいジジイ」として煙たがられる

 不意に、夢や子どもを完全にあきらめる瞬間が訪れる。「自分には何もない」虚しさが直撃 

 事実、全国の独身40男たちから、「どうしたらいいか分からない」との叫び声が殺到している

恋愛と結婚 女性なしの人生は考えられない

 「3人に1人は結婚できない」生涯未婚率の現実。1人で生きていく覚悟はあるか?

 「女の40代はキツイけど、男の40代はまだ大丈夫」の大ウソ。余っている上に早死にするのは男

 「若い子とつき合いたい」の無謀な夢。相手にしてくれる年下女性は、お金と在留資格狙いの外国人のみ

 婚活サイト、婚活パーティーでの悲しすぎる現実。「一度会うのすら嫌」の扱い

 「ブス」「デブ」「年上」「性格に難アリ」「家事下手」〝普通の子〟は結婚できない? 

 交際相手から突然捨てられて一人に。同僚や友人からもダメ出しされ、恋愛に苦手意識が芽生える

 安易な同棲が、心離れや破局に直結。残された道は不本意な結婚か、捨てられた末の孤独か

 中途半端な交際が、猛攻撃を招く。浮気と二股、誹誇中傷、ストーカー、損害賠償の大ピンチー

仕事 上を目指すか、下を見るか。どう向き合ったらいいのか

 出世の見込みがなくなり、やりがいが消失……後輩の部下になり、リストラ待ったなし

 上司も部下も距離感が遠く、会社に話し相手がいない。ワーカホリックな日々に拍車がかかる

 自分のやり方が通用しなくなった。指示待ち20代、マイペースな30代、2層の部下に振り回されて、軽うつに

 スキルアップも副業もことごとく挫折。「時間があるからついやってしまう」が、すべて道半ばで放棄

 消えない独立願望の果てに、J取後の賭け以、脱サラ。現実の厳しさに早くも再就職活動

人間関係 プライベー卜の人脈は独身者の生命線

 学生時代の友人は、話が合わなくなる。会う機会はますます減り、もはや友人と言いづらい関係に

 同僚と飲みに行かなくなり、〝ひとりランチ〟にも慣れた。仕事のグチすらこぼせる人がいない

 「いいね!」がつかずコメントも一方通行。「実質、友人ゼロ」で、誰とも言葉を交わさずに休日が終わる

 年下の友人から、プチ仲間外れに。なぜか、自分だけ飲み会や合コンに呼ばれない

 家族からも一歩引かれ、腫れ物扱い。心配されず、されるのはお金のおねだりだけ

趣味とお金 ひとり遊びが不幸へと続く道

 唯一の趣味に依存。こだわり、金のかけ方、心ない言葉……仲間との温度差が広がり、孤立する

 衰えやマンネリで、年下や女性との勝負にも完敗。虚しさで、大好きな趣味が嫌いに

 運営コミュニティを荒らされる、アイドルの熱愛発覚、ペットロス……突然、生きがいを失ってしまう

 「趣味なし」の人が最も危険! 引きこもり、暴飲暴食、重病発症、孤独死のフルコース予備軍に

 「既婚者が家族にお金をかける分、僕は趣味に投資しよう」趣味依存症が老後資金を使い果たす

 お金への不安が生活レベルを下げる。食を乱し、安部屋に引っ越し、幸せを感じられぬまま、小銭を失う

ファッション 世間は40男の見た目をこう思っている

 予想以上のスピードで進む薄毛。髪型を変えなければ、60代のジイサンだと思われる

 ギトギト顔とカサカサ顔が同居。「脂ぎった中年」と「枯れた老人」の落差にショック

 ただのデブでは済まない不自然なぽっこり腹。「キモイ」「早死にしそう」の陰口

 スーツが似合わなくなった。サイズ、シャツ、ネクタイ、革靴、すべてがダサくなる

 自覚なき若作りファッションの罠。笑われ、ドン引きされ、痛いジジイ扱いを受ける 226

健康 笑顔で生きていくための処方箋

 40代男性の死因はがんと自殺のツートップ。突然襲われる心疾患、脳疾患も多い

 「俺は大丈夫!」の自己暗示が、救急搬送→手術→入院の一大事に。ぽっくり死ねず生き残る恐怖

 飲酒、喫煙、孤独と嫉妬、遅寝早起き。生活の乱れとストレスが転じて若年性認知症に

 日々のダメージが積み重なり、男性でも更年期障害に。まさかのEDに大ショック!

 ケータイすら持てない恐怖の四十肩。5m走っただけで肉離れ、じん帯損傷、アキレス腱断裂

西アジアの時代区分 アラブの覚醒のためのイスラム教

2016年12月26日 | 4.歴史
『世界史のながれをつかむ技術』より 「歴史とはなにか」--自分と世界をつなぐもの 西アジアの時代区分 一神教の誕生 前6世紀~7世紀 アラブ帝国とイスラム帝国 7世紀~13世紀

多神教のローマで迫害されたキリスト教

 旧約聖書を題材にした映画『十戒』でもおなじみの、紅海を割るモーゼの「出エジプト」の話は、前13世紀後半ごろのできごとではないかと考えられています。この段階でユダヤ教が成立していたと考えてしまうのですが、ユダヤ教は、古代ユダヤ人の大きな試練である、前6世紀の、新バビロニアによる「バビロン捕囚」の悲惨な経験を反省しながら成立することになります。

 そのユダヤ教では、ヤハウエ(神)への絶対的ともいえる服従、ヤはウェの救済の対象をユダヤ人のみとする排他的な「選民思想」、そして「救世主(メシア)」などを特色にし、洪水伝説など古代メソポタミアで語り伝えられていた神話や伝説も取り込み、壮大な世界像を作り上げています。

 アケメネス朝ペルシア帝国によってバビロン捕囚から解放されたユダヤ人ですが、その後も試練は続きました。しかし、セレウコス朝シリアの支配下でハスモン家を中心にユダヤ人国家を建設しましたが、それはローマによって滅ぼされ、ローマの支配下に入りました。ユダヤ人がイエス・キリストをメシアとして期待したのは、紀元前後、ローマで帝政が始まったころなのですが、そのイエス・キリストはユダヤ人が期待する動きには同調せず、ユダヤ人の救済より広く人類の救済を説き、ユダヤ人を失望させました。

 イエス・キリストはローマの手によって処刑されるのですが、すぐに「復活」したという信仰が生まれ、彼を救世主とする信者たちによって「キリスト教」が形成されていきます。しかし多神教世界のローマにあって、ひたすら神に救済を祈るという一神教信仰はなかなか受け入れられず、ネロによるものなど、しばしば迫害されました。

 迫害にもかかわらず信者を拡大していったキリスト教は、4世紀になると公認され、国教化されるに至ります。すると今度はキリスト教が、異教や異端を排除する立場に回るのです。

 国教化されたところで、イエス・キリストその人が大問題になってきました。彼は具体的な姿をこの世のなかに示した存在です。キリスト教徒にとっては信仰の原点になる存在なのですが、彼を神と考えたら神が2人もいることになってしまいます。彼を「神」としていいものかどうか、困った問題が出てきます。さまざまな論争がおこなわれたのちに、「神・キリスト・精霊」は一体にして「神」である(三位一体説)という考えを正統教義として解決を図りました。

 ところで、ローマ帝国は4世紀末に東西に分裂、西ローマ帝国は5世紀に滅亡します。ローマに拠点を置くキリスト教会はゲルマン社会に新しい信者を求めるようになりました。

世俗主義を受け入れなかったイスラム教

 一方の東ローマ(ビザンツ)帝国は西アジアになお大きな影響力をもっていましたが、東方のササン朝ペルシア帝国との慢性的な対立が続いていました。そんななか、両者の対立していた南方、アラビア半島で新しい動きが出てきます。この地域の住民はペルシアやシリアなどとの交易を盛んにおこなうようになっていたのですが、それに従事していたムハンマドがユダヤ教やキリスト教の影響を受け、7世紀の初め、イスラム教を始めました。

 イスラム教は聖職者を認めません。多神教信仰がおこなわれていたアラビア半島で一神教のイスラム教は迫害されましたが、ムハンマドの巧みな指導もあり、多神教の中心であった都市メッカに勝利したことで、一挙にアラビア半島の住民の支持を勝ち取りました。『コーラン』が最高の権威をもち、信者の義務も「六信五行」と至ってシンプルです。ムハンマドはアラブ(アラビア半島の住民)の覚醒のためイスラム教を始めたのですが、その教義から普遍的な世界宗教になっていくことになります。

 最後にもう一言、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も基本的には政教一致の世界の建設を目指します。しかし、民族宗教としての性格の強いユダヤ教でも世俗主義が出てきます。キリスト教も信仰の純粋性を追求した宗教改革がありますが、最終的に政教分離を受け入れます。しかしイスラム教には政教分離という感覚はありません。「六信五行」によって日常生活そのものが信仰=宗教生活になっています。もちろん世俗主義も出てきており、20世紀にはカリフ制度を廃止しますが、世俗主義は少数派というのが現状です。

 多神教世界と一神教世界を単純に比較することはできないでしょうが、一般論として、多神教世界では多くの立場が認められ、寛容の精神が生まれやすいのではないかと思えます。それに対して一神教世界は、異教や異端を排し、非寛容な傾向が出てきがちです。しかし、ひとつにまとまるということは政治的に考えれば有効なこともあります。

 キリスト教が国教化されたのはローマ帝国の衰退期です。イスラム教も、アラブ世界の混乱が背景にあります。ユダヤ教も、バビロン捕囚以降、各地に散ったユダヤ人をまとめていくために強い神が求められたとも考えられます。多くの人々をひとつにまとめていくという観点から一神教の成立と必要性を考えてみたらどうでしょう。

普遍的な存在になるとともに、「アラブ」から「イスラム」へ

 ムハンマド亡き後のアラブ世界は混乱したのですが、ムハンマドの後継者となる「カリフ」を中心にイスラム共同体(ウンマ、イスラム教信者からなる社会)の維持を図ります。そのため対外戦争が続けられ、ビザンツ帝国と戦い、ササン朝ペルシア帝国を滅ぼします。ムハンマド亡き後4人のカリフは「選挙」で選出されたので、その時代を「正統カリフ時代」といい、5代目カリフのムアーウィヤからはカリフの位が世襲化され、ウマイヤ朝となります。このウマイヤ朝時代に、アラブの支配する領土は、東は中央アジア、西はイベリア半島にまで及びます。

 なお、ムアーウィヤと対立した正統カリフの第4代目のアリーはムハンマドの従弟でかつ娘婿になり、多くの支持者がおりました。彼のムアーウィヤヘの対応に反対する一派によって彼は暗殺されるのですが、その息子はウマイヤ家のカリフ世襲化に反対し反乱を起こし失敗に終わります。

 それ以降、アリーこそが真実のカリフであるという集団が生まれ、彼らのことをシーア派(シーアットアリー、「アリーの一派」の意味)と呼ぶようになります。少数派なのですがイランを中心に根強い信者かおり、現在イスラム世界の混乱の一因を作っています。シーア派に対する正統派がスンナ派になります。

 イスラム教は異教・異民族には寛大でジズヤ(人頭税)を払えばそれぞれの信仰が認められていました。しかしこのジズヤはイスラム世界において他の宗教の信仰が保障される「非信仰税」のようなものであり、改宗した民族からの不満が大きくなってきます。やがてイラン人を中心にイスラムに改宗した人々がジズヤの不払いを要求し、さらにウマイヤ朝の同族支配に反対する人々などがアッバース家を中心に反ウマイヤ勢力を結集し、750年、ウマイヤ家を追放し、アッバース朝を建てたのです。

 イスラム教は名実ともに普遍的な世界宗教になり、正統カリフ時代からウマイヤ朝時代を「アラブ帝国」というのに対し、アッバース朝は「イスラム帝国」と評価します。

西アジアの時代区分 古代オリエント世界

2016年12月26日 | 4.歴史
『世界史のながれをつかむ技術』より 「歴史とはなにか」--自分と世界をつなぐもの 西アジアの時代区分 古代オリエント世界 前3000頃~前4世紀

世界の東西・南北を結ぶ懸け橋

 今日、「中近東」といわれる地域は、5000年にもなる長い「歴史」をもっています。まさに人類文明の発祥ともいえる地であり、今日に至るまでこの地域は世界史で中心的役割を果たしています。地図を見ても、この地域の重要性は認識できます。「文明の十字路」といういい方がされるように、自らも高度な文明を生み出しただけでなく、世界の東西・南北を結ぶ懸け橋になり、さまざまな文物が交流したのです。

 そしてその地域の支配を狙って、周辺からさまざまな民族・勢力がやってきます。その結果、この地域の支配者は交替し続けています。学ぶ側からいくと、これほど面倒なことはありません。

 さらにもうひとつ付け加えますならば、この地域で、現在の世界を動かしているキリスト教、ユダヤ教、イスラム教という3つの「一神教」がすべて誕生しているのです。

 ここでは、この5000年に及ぶ中近東地域の歴史を「古代オリエント文明2700年(前3000年ころ~前4世紀)」「一神教の成立(前6世紀から後7世紀ころ)」「アラブ帝国とイスラム帝国(7世紀~13世紀)」「オスマン帝国(14世紀~20世紀)」と区分してそれぞれの時代の特色を紹介します。

エジプトとメソポタミアを結ぶ「歴史的なシリア」の重要性

 まず、古代オリエント世界を見ていきます。古代オリエントの長い歴史のなかで、数え切れないほどの民族・国家が興亡しました。そのような長い時間に多くの国家が凝縮されているこの地域を理解しようとするのは簡単なことではありませんが、いくつかの視点を据えて見ていくと概略だけは浮かび上がってきます。

 とくにエジプトとメソポタミア、ともに大河に育まれた文明ですが、両地方をつなぐ「歴史的なシリア」(シリア、レバノン、イスラエル、ヨルダン)と呼ばれる地域の役割にも注目してください。この地域は地中海の東海岸に面し、交通・貿易の重要な場所として、争奪の的になったのです。

 また、エジプトとメソポタミアの地形を比較すると、エジプトは砂漠と海に囲まれた「天然の要害」になっています。このため、異民族の侵入が少なく、エジプト人の王朝が長く維持されました。その繁栄を代表するのが、前27世紀ごろから始まり、雄大なピラミッドで知られる古王国時代、そして前16世紀ごろから始まり、ラムセス2世の対外積極策、ツタンカーメン王の豪華な墳墓などを残す新王国時代になります。さすがに新王国時代を過ぎると、周辺民族の侵入に苦しめられますが、ヒエログリフ(文字)を頂点にエジプト文明が残したものは今日になお大きな影響を与えています。

 一方のメソポタミアでは、豊かな農耕地帯を狙って周辺の民族が次々と侵入し、多くの国家・民族の興亡が見られます。この地域で最初の「国家」を建設したのはシュメール人です。とはいうものの、彼らの国家はいわゆる都市国家であり、広い版図を有する領域国家ではありません。しかし、彼らは視形文字や太陰太陽暦など高度な文明を生み出しました。それらは、以後の諸民族によって継承されていきます。

 このシュメール人の都市国家をまとめ、最初の領域国家を作ったのが、前24世紀ごろのアッカド人です。さらに前19世紀ごろにはバビロン第1王朝(古バビロニア王国)が成立しますが、この王朝の(ンムラビ王が作成した「法典」はこの時代のメソポタミア社会を知る超一級の歴史史料になっています。

 このバビロン第1王朝を滅ぼすのが、小アジアから侵入してきたヒッタイトになります。鉄器を最初に実用化したとされる彼らは新王国時代のエジプトとも戦いました。その戦場になったカデシュがシリア地方にありますが、このシリアがヒッタイト・エジプト・ミタンニ(カッシートとともにバビロン第1王朝に代わった国家)の角逐の場になるのは、その後のシリア地域の重要性を暗示しています。

国家の発展のモデルケース

 前12世紀ごろ、地中海東海岸一帯は「海の民」といわれる民族が略奪を繰り返しました。その混乱が一段落した後、シリアの海岸地域にいたのが地中海交易で活躍するフェニキア人、内陸部にいたのが内陸アジア方面との交易に従事したアラム人、さらにパレスチナの地に住みついたユダヤ(ヘブライ)人になります。ユダヤ人は前10世紀ごろ古代ヘブライ王国を作りますが、イスラエルとユダに分裂、のちにユダ王国が受ける試練がバビロン捕囚になります。

 前8世紀ごろ、シリア・メソポタミア北部から拡大したアッシリアがシリア・メソポタミアはもちろんさらにエジプトまでの広大な地域を初めて統一しました。最初の「世界帝国」の成立になります。しかしアッシリアの支配は厳しい武断政治のため、被支配民族の抵抗により崩壊し、リディア(小アジア)・新バビロニア(メソポタミア)・メディア(ペルシア)・エジプトの4国対立状態が生まれます。前6世紀の中ごろ、メディアの一地方から強大化したアケメネス家がアッシリアの版図を再統一し、2番目の世界帝国を建設しました。アケメネス朝ペルシア帝国はアッシリアとは異なり被支配民族の寛大な統治をしたことで知られます。新バビロニアのおこなったバビロン捕囚からユダヤ人を解放したのはその一例です。

 前4世紀、バルカン半島に出たマケドニアのアレクサンドロス大王はシリアーエジプトのみならず、ベルシアから北西インド、中央アジアまで広大な地域を制圧しました。彼はそこで民族融和の新しい世界を建設しようとしましたが、部下には聞き入れられず失敗、プトレマイオス朝のエジプトやセレウコス朝シリアなどが分立します。この間、ギリシア文化が中近東世界に拡大し、ローマの支配下ながらエジプトのアレクサンドリアがヘレニズム文化の中心になりました。

 今日に連続してくるさまざまな文明を生み出した古代の西アジア地域は、歴史とはこのように展開するのかということを教えてくれるかのごとく、都市国家から領域国家へと典型的な発展をしていきます。領土の拡大は、やがて諸勢力の対立を生みますが、その場所がシリア・パレスチナ地域になり、エジプト・小アジア・メソポタミアの諸国家がせめぎ合います。

 さらに、これらの全地域をまとめるアッシリアやペルシアの「世界帝国」が建設されることになりますが、西方ギリシアから出てきたマケドニアがその支配を継承、さらには文化的な融合も図りました。そのような民族・文化が混在するなかで、次に見ていくように一神教が創始されていくのは興味深いことです。

クリスマスの生活

2016年12月25日 | 7.生活
 クリスマスの生活

  クリスマスもインスタントラーメン。ファミマチキン位は付けて欲しい。
  昨日、奥さんの誕生日で買った、ザッハトルテ。セブンイレブンは不正解。ファミマよりも50円高くて、美味しくない、とのこと。なぜ、スタバは出さないのか。シンプルで好きなのに。

 生きることは考えること

  未唯宇宙第7章生活編の前半の四項目で生活の四つの面がハッキリした。考える。存在する。生きる。生活する。池田晶子さんの「生きることは考えること。考えるのは生きること」の影響をかなり受けている!

 OCR化した本の感想

  『新市民革命入門』

   まあ、サファイア循環の小さい方に当たります。地域の拠点としてのコミュニティでの商売と知識と意識、そして、武器としてのSNSまで書いて欲しい。

   重要なポイントは市民の覚醒とその動機でしょう。

  『ロシアの歴史を知るための50章』

   飢饉は農業集団化の結果であり、その最大の被害はウクライナであった。ソホクリスに次はどこへ行きたいかと味噌煮込みを食べながら、聞かれた時に浮かんだのがウクライナで会った。ロシアの境界線をバルトから縦にトルコまで下る夢を語った。ウクライナ動乱の半年前だった。

   大祖国戦争はスターリンにとっては共産主義よりも民族主義の方が強いことを実感すると同時に、スラブ民族は国家に依存しないと存在できないと実感した戦いであった。

   ソ連と中国の関係は朝鮮戦争で複雑になった。核戦争を避けたいソ連、核戦争を辞さない中国、そして、当事者でありながら、単なるコマになってしまった北朝鮮。何千万人を犠牲にしながら、物事は進んでいった。

  『戦艦武蔵』

   象徴としての大和一艦なら理解できるが、なぜ、武蔵まで作ったのかを知りたかった。海で戦うのであれば、ドイツのように、潜水艦を大量に作ることが米国に対抗する手段であった気がする。

   攻撃機を三機も搭乗できる技術があったのに。海軍の中に潜水艦を低く見る傾向があったのは確かです。真珠湾攻撃の時に、存在を示すために特殊潜航艇を出したのは、その裏返しの真理なのでしょう。捕虜第一号の酒巻少尉の息子が中学の同級生の中に居た。

なぜ新戦艦武蔵を造ったか

2016年12月25日 | 5.その他
『戦艦武蔵』より 戦艦武蔵の建造

なぜ新戦艦を造ったか

 とはいえ、日本海軍部内では、のちの大和型に至る新戦艦計画の段階ですでに、将来の戦争が戦艦から飛行機に移ることは一部で予見されていた。

 新戦艦設計作業中の一九三四~三六年に連合艦隊司令長官を務めた高橋三吉大将は三六年ごろ、将来の艦隊の主力は戦艦から飛行機へと移るのではないかと考え、海軍首脳の人々にそう話したところ、「君は航空戦隊司令官〔在任一九二八~二九年。海軍初の空母部隊一をやっていたからそう思うのだ、恰かも末次〔信正〕大将が嘗て潜水戦隊司令官をやったので潜水艦の価値を過大視するようなものだ。海軍首脳部では今や「長門」の二倍位の大戦艦で主砲一八吋を搭載するようなものを計画しているのだ」と聞かされたと、敗戦後の一九五八年に回想している(高橋信一編『我が海軍と高橋三吉』)。一部の先駆的な若手航空士官の放言ではない。

 高橋は「これに対し私はまだ航空主力論を強く主張しなかったのを今でも残念に思って居る」と書いているが、これは敗戦後の結果論である。彼が三六年の段階で「強く航空主力論を主張しなかった」のは、続けて「当時艦隊で考えて居った「制空権下の艦隊決戦」という意味は、戦闘機隊を以て彼我上空を制し、爆撃機隊、雷撃機隊を以て敵を攻撃しつつ漸次水上部隊の戦闘に導き、それと呼応して更に水中〔潜水艦〕航空の全攻撃力を以て敵を撃滅するという意味で決戦は巨砲に侯つなどとは最早考えて居らなかった」と述べているように、来たるべき決戦は水上・航空・水中の総力を挙げて行うことになっていたからである。艦隊決戦が航空母艦中心となるのは実際の対米戦開始後である。

 そうである以上、戦艦についても「「長門」の二倍位の大戦艦」もあるに越したことはなかった。前出の中沢佑が新戦艦の速力不足に抗議して辞表を出そうとまでしたのは、この「制空権下の艦隊決戦」という作戦構想が画餅に帰しかねなかったからである。

 海戦の主役を戦艦と航空機のどちらにするかはともかく、高橋が現役の連合艦隊司令長官として一九三六年の大衆雑誌『日の出』(新潮社)で「日本は、いまだ嘗て米国のモンロー主義を否定したこともなければ、英国の欧州における指導的勢力たることに難くせをつけたこともない。にも拘らず、彼等が日本の東洋における優位を認めないとすると、それは彼等がながいあひだ有色人種に対してゐた理由なき優越感と解するほかはない」とアジアの指導者たる自国の正義を叫び(本書一四頁で紹介した、北岡伸一のいう「妥協が困難」な「理念」とはこういったもの)、万一米英と戦争になっても「短刀で大業物と渡り合へと云はれれば、結構立派に渡り合って見せる」と国民に大見得を切っていた(高橋「我に必勝の信念あり」)のは事実である。海軍にとっては飛行機だろうが戦艦だろうが先立つもの--予算の獲得が必要であり、そのためには納税者たる国民の支持が不可欠だったのだ。

大和・武蔵は国民のため?

 日本海軍が「量より質」の考え方に基づいて膨大なエネルギーと予算を投じ、結果的にはほとんど役に立たなかった大和型戦艦を極秘裏に建造したことは、いっけん国民不在のきわめて独善的な行動にみえる。

 たとえば、一九三四年一〇月三一日、軍縮条約の廃棄を原則的に確認した元帥会議で軍令部第一部長・嶋田繁太郎少将が行った説明には「〔軍縮〕協定不成立の場合、生起することあるべき建艦競争の対策としては、我は現在条約維持の場合に要すべき海軍経費と大差なき範囲において特徴ある兵力を整備し国防の安固を期しうる成算がある」との一節があったという(「戦艦武蔵建造記録」刊行委員会編『戦艦武蔵建造記録 大和型戦艦の全貌』)。この説明には「新戦艦の計画をにおわせた」という解釈があり、そうであるならば「量より質」の大和型建造は、軍の最高指導者間ですら秘密の構想だった、ということになろう。

 しかし興味深いことに、戦艦(主力艦)についてほぼ同じ意味のことを、現役の海軍大将・末次信正(軍事参議官)が一九三六年の一般向け講演で国民に向かい、「無条約になれば主力艦は三万五千噸、巡洋艦は」万噸と云った様な艦型の拘束がなくなるから、自国の国情に合った艦を造り得る、今迄は同じ型の艦を造るから数の競争になる。今後は、自分の好きな経済的且つ効果的なものを造るのであるから、必ずしも数の競争をしなくてもいゝのであります」(『海軍大将末次信正閣下述 軍縮決裂と我等の覚悟』)と直接訴えかけていたのである。

 巨大戦艦構想は確かに極秘だったが、この講演を同時代の聴く人が聴けば、ははあ、これは量(「数」)より質の巨艦を造るつもりだ、と察知できたのではないだろうが。なお、末次は続けて、今日の海軍軍備は飛行機や潜水艦なども進歩しているので、「是等海上兵力を構成する諸要素を綜合大観すると、主力艦丈がものを云ふのではないから、其の国情に応じて種々の組合はせが出来る」、つまり貧乏な日本の「国情」に合わせて工夫したい、と訴えている。彼とて、とにかく戦艦だけをたくさん造りたいなどと言っていたわけではない。

 末次は、当時の海軍部内で対米英協調、ロンドン条約締結に強硬に反対した、いわゆる艦隊派の頭目として、今日の歴史家の間で評判のきわめて悪い人物である。だが彼は日本国民に対し、金食い虫の戦艦は「経済的且つ効果的なもの」とする、これからの戦争は戦艦だけでもない、国家財政に過度の負担はかけない、だからどうか軍艦を造らせてくれと、それなりに筋道立った理屈に基づき理解を求めていたのである。このことが大和型の設計上、コスト計算がやかましく言われた背景となっている。

 翌三七年、末次は予備役に編入されて海軍部内での発言権を失うが、その後は内閣参議・内務大臣に就任するなど、海軍軍人の中では国民との接触面が多かった。彼が中国における権益擁護と海軍軍縮の問題は不可分--権益を守りたいなら海軍軍備は必要不可欠、と述べていたことは先に紹介したが、末次にとっての軍備とは、あくまでも国民の理解と協力を得た上で整備すべきものであった。そのためならば、国民に対しても極秘のはずの大和型戦艦建造を自ら進んで「におわせた」のである。海軍にとっては予算獲得こそが最優先課題なのであり、機密保持はその後であったとも言える。

 大和・武蔵建造が始まった一九三七年、海軍は国民に向けて軍事予算の確保を訴える宣伝パンフレットの中で、次のように述べていた。

  〔議会の〕協賛を経たる海軍予算に就ては海軍に職を奉ずる者は何人も之等国防費は究極するに国民全般の辛労心血より生れ出たる貴重なる結晶であることを瞬時も忘るることなく之を使用する上に於ても出来得る限り節約を旨とし最大の効果を挙ぐることを心掛けて居る次第である。(海軍省海軍軍事普及部『予算上ょり見たる帝国海軍』〈同部、一九三七年〉)

 海軍が国民にこうした懇願ともとれる宣伝をしていたのは、二度の軍縮に伴う人員・予算削減と、昭和恐慌による農村疲弊の記憶がいまだ生々しかったからだろう。

 とはいえ、私は、海軍が組織防衛の論理、「お家」の欲得だけでこの話をしていたのではないと思っている。ここまで引用してきた海軍作製の諸宣伝パンフレット中の記述は、軍人だちが、海軍とは国益擁護という国民からの負託を受けた組織、つまり国民のための組織であると本気で信じていたことの証しでもあるからだ。

 国のために軍艦を造ることと、海軍のために予算を取ることとは、彼らの中でまったく矛盾していない。海軍が大和・武蔵の建造に膨大なエネルギーを発揮し得たのは、末次のような人々が納税者たる国民への使命感と、組織利益拡充の欲望を同時に強く持っていたからこそであった。しかし軍事予算が議会の承認を必要とする以上、窮極的には国民が戦艦はいらないといえば造れない。そこで機密保持を後回しにしてでも「大和型建造は畢竟国民のためだ」と解釈できるような説得が行われたのである。

 次の戦争を用意し、結果的に一九四五年の無残な敗戦をもたらしたのは、軍人たちのさもしい私益追求のみではなく、大陸権益は絶対擁護されねばならない、それが国民のためだという正義感、使命感であった。それらが組織の強力な推進力となったのは、当時誰にも否定できない正義であったからに他ならない。


ロシアに未来はあるか

2016年12月25日 | 4.歴史
『ロシアの歴史を知るための50章』より

ロシア革命とは復古的な革命でもあった。農民革命で共同体が蘇った。パリ・コンミューンの再現どころか、ソヴィエトは「聖なるルーシ」を求め、モスクワを「第三のローマ」と信じるような勢力に支えられた。もともとはヴォルガの革命家であるレーニンもまた、異端派の宗教ネットワークこそソヴィエトの本質であることを、秘書で古儀式派研究者でもあるポンチ=ブルエビッチ(最初のソヴィエト政府の官房長官)を通じて、ソヴィエト運動が古儀式派の環境で生じたことを理解していた。スターリンもソヴィエトは純ロシア現象であると見た。「全権力をソヴィエト」へと言ったとき、マルクス主義者が驚いたわけである。こうしてロシア革命とは古い信仰に忠実な農民兵の反乱であった。第一次世界大戦末、700万人いた農民兵はソヴィエトを通じて土地を得た。レーニンはこの土着的運動をフィンランドの隠れ家で書いた『国家と革命』のなかでマルクスの言うパリ・コミューンの再来であると解説した。

しかし革命の夢は長くは続かない。権力をとると直ちに生じたのはインフレと穀物不足。レーニンとトロッキーが中心となった政権は、直ちに食糧独裁を宣言、穀物と馬を持つ農民に負担を求めた。トロツキーは赤軍形成に際し旧軍将校団の協力を求め、ソヴィエト活動家としばしば衝突した。ソヴィエトは衰退するか、共産党と名を変えた権力党とぶつかるかした。労働者反対派のシュリャプニコフやメドヅェージェフなど古儀式派系活動家は、トロツキーの党運営に抗議、とくに労働組合まで軍の支配とすることに抵抗した。1920~21年の党内闘争はこのような状況の所産であったが、地域では「コムニストなきソヴィエト」運動がウラル・シベリアなどで広がった。

ロシア革命とはその意味では最初から「裏切られた革命」であった。1928~1929年の農村で生じたスターリン官僚と共産党右派との戦いでは、赤軍の幹部となっていた活動家が工業化を求め、スターリンの工業化路線に賛意を表明する。それでも1932~1933年に広範囲な飢饉が襲うと、赤軍やスターリン系党地方幹部も不満を表明する。スターリンは欧米協調の外交路線でかろうじてこの危機を乗り切ると、1937年前後の大粛清でこの体制を一掃する。

第二次世界大戦での赤軍をよく見ると、少なくとも戦闘では冬戦争、1941年6月のように敗北の連続である。しかし聖なるルーシ、モスクワまで脅威にさらされると兵士は反撃に転じる。こうして1812年のナポレオンと同様ヒトラーも結局敗北する。正教を復活させて勝ったのは古いロシア、「大祖国戦争」であることを神学校出のスターリンはよく了解していた。ロシアとは幾重もの皮に覆われた存在である。その表皮を剥いていくとさらに古い核がある。ロシア革命同様ソ連崩壊にもこのロシア史の分裂した意識が姿を現す。

ソ連邦とは形式的には地名のない国家であって、どの民族もソヴィエト的統治を採用すれば参加可能であった。憲法はソ連からの離脱の自由もうたっていて、この条項は無意味なものに思われたが、1991年末ソ連はこの規定に従って、つまりは合法的に崩壊したのであって「陰謀」の所産では必ずしもない。15の共和国がそれぞれ主権を主張する形でこのソ連国家の崩壊過程が進行していた。

ソ連崩壊は、四半世紀後の現代もまた議論の焦点である。プーチンがこれを「地政学的破局」と言ったことを引き合いに出してソ連社会主義という「未練学派(E・H・カー)にしがみつく論者が、ロシアなどで時折見られる。西側でもこれを逆引用して、ロシアがソ連回帰に戻っているという議論がある。プーチン自身は、この引用の後に「ソ連に戻りたいものは頭脳がない」と付加していることは都合よく読み飛ばされがちだ。歴史の法則性にこだわる論者にこのような考えが見られる。

しかしその1991年を1917年の政治過程と比較すると有意義な認識が得られそうだ。ペレストロイカを始めたゴルバチョフらは、1916年末に宮廷クーデタを考えていた二月革命の指導者たちと同様「体制転換」までは構想していなかった。しかし始まってみると「下」に新しい権力核が生じ、「上」の企図とは別の政治力学が展開される。1917年のソヴィエト運動は、1991年の共和国の主権を呼号する共産党民族派同様、「上」の、あるいは改革指導部の思惑を超えてしまう。1917年9月のクーデタを考えていた将軍たちは、1991年8月のゴルバチョフ周辺の保守派と同様な思惑で動いた。しかしそれ自体がまた「革命派」を鼓舞し、事態を真逆の方向へ動かしたのである。いずれについても回想などには「陰謀」や「裏切り」を論難する議論が後を絶たない。しかし生じたことは歴史の現実なのである。

ペレストロイカが始まった時、これを主導した指導者ゴルバチョフは「歴史の見直し」を始め、それまでのイデオロギー化した歴史に別れを告げた。新しい歴史や解釈が現れ、ロシアーソ連とは「予測できない過去を持つ国」であるという評価がはやった。その意味でロシアの歴史研究とは常に未完の企画だと言えよう。

自由化が始まった80年代後半以降「予想できない過去」を持つ国から、ソ連や冷戦史料などの認識や情報が流れ出しだのは偶然ではなかった。この過程はプーチン時代になって奔流は止まりかけたものの、それでも史料公開の流れは完全に終わったわけではない。ロシアや旧ソ連国内でも若手研究者たちが立場を超え研究を進めている。

同時にロシアはその相貌を急速に変えてきた。「もっと社会主義を」で始まった改革運動だが、ソ連崩壊前後は「民主ロシア」が輝いた。やがて経済を中心に民営化をすすめる「自由ロシア」を経てプーチン政権での「保守的ロシア」へとキーワードも変化している。ロシアの変動はあたかも円環のようである。エリツィンがいった「好きなだけ主権を」といった崩壊容認論は過去となり、国家統合がすすむにつれ崩壊が社格となってきた。ソ連崩壊は「20世紀最大の地政学的悲劇」と言ったのは、巷間言われるプーチン大統領ではなく、どうやらウクライナの政治家であったようだが、ロシアもまた崩壊の経験をした後は安定が価値となった。

兄弟国家であるウクライナはロシアにとって反面教師でもある。第40章でも言うように、正教的イデオロギーを嫌ったレーニンがロシア革命後、小ロシア、新ロシアなどと呼ばれた地域をベースに作った行政単位=共和国がウクライナであった。当時クリミアはロシア領、カトリック系の西ウクライナも当初は別の国であった。そのウクライナが輝いていたのは軍産部門からでてきたブレジネフのソ連期であった。しかし1992年に独立して以降のウクライナ史とは、国民国家形成どころか、むしろ分裂と崩壊の歴史であったと言っても誇張とは言い切れない。

ソ連末期のウクライナ共産党官僚から初代大統領だったレオニードークラフチュクは独立25年目の2016年9月、ウクライナは1954年フルシチョフ第一書記によってクリミアを押し付けられたのだと発言、一部で注目されている。フルシチョフが、ウクライナ共産党第一書記アレクセイ・キリチェンコに対し、クリミアには水も食糧もないから、これをウクライナに併合するようにすすめた、というのである。結局、ソ連最高会議でウクライナがクリミアを領有するように押し付けたのが真相だ、と語った。ウクライナとロシアの和解への動きと理解したい。

同様に独立後のロシアもまた、チェチェンなどの分離主義による国家崩壊におびえる歴史もあった。一体純粋「ロシア人」なるものは存在するのか。宗教以外でロシア人を束ねるものは何か。イスラム教徒はロシアにおいて何者か。国家にとって少数民族や宗教はどう共存できるのか。ウクライナ危機とクリミア併合以降、ふたたび「ロシアとは何か」という問いがだされるが、しかし容易に回答はない。

歴史研究は危機によって触発される。その意味ではロシア史も常に再解釈され、読み直され、そして読み替えられる。読者はこのような素材として本書を利用していただければこれに越した編者の喜びはない。

ソ連と中国--同盟、対抗、そして戦略的パートナーシップヘ

2016年12月25日 | 4.歴史
『ロシアの歴史を知るための50章』より

緊張を孕んだ同盟

 1949年に中国共産党政権が成立してから50年代の後半まで、ソ連と中国は表面上「一枚岩」に見えた。しかし、第二次世界大戦後、中国共産党が政権を掌握することが決定的になるまで、ソ連はその性格と実力に対して懐疑的であった。ソ連が中国共産党を本格的に支持するようになったのは、1949年に入ってからである。1~2月のミコヤン訪中と6~8月の劉少奇訪ソにより、中国共産党は「向ソ一辺倒」を宣言、冷戦のなかでソ連を中心とする東側陣営の大国となった。しかし、歴史的に蓄積されてきた民族感情の対立や国境問題など、潜在的不安定要因が常に存在していた。1950年2月に中ソ友好同盟相互援助条約が締結されたとはいえ、両国の関係は当初から「緊張を孕んだ同盟」であった。

 このことは、建国後まもない1950年に勃発した朝鮮戦争に端的に現れている。北朝鮮の指導者金日成が発動したこの戦争は、スターリンの同意を得たものである。だがアメリカなど国連軍の介入は予想外であった。イデオロギーよりも安全保障のため、毛沢東は北朝鮮支援を決定し、朝鮮半島で米中「熱戦」が始まることとなる。スターリンは第三次世界大戦への危惧のために、朝鮮戦争を引き延ばそうとし、北朝鮮と中国に対して強硬な態度をとっていた。1951年に金日成の停戦要請を拒否し、さらに翌1952年に周恩来に対しては、アジアでミニ国連を組織してアメリカに対抗することさえ提案していたのである。朝鮮戦争の停戦協定が結ばれたのは、スターリン没後の1953年7月であった。

関係の亀裂から対立へ

 東側の絶対的権威であったスターリンの死後、ソ連の積極的援助のもと中国は1953年に第一次五ヵ年計画に着手し、1955年に一気に社会主義改造を実行する。他方、ソ連は権力闘争のなかで非スターリン化か進み、1956年2月のソ連共産党第二十回党大会でフルシチョフによるスターリン批判と平和共存路線の提起がなされたが、これこそが中ソ対立の起源となった。

 ソ連のスターリン批判に対して、中国は当初2月の『人民日報』社説では評価したものの、4月の論文では、スターリンヘの賛否両論を併記した。そして中国の社会主義化における矛盾は、スターリンのやり方をそのまま踏襲したからだと考えるようになっていく。同月、毛沢東は「十大関係論」で対ソ独自路線を打ち出した。またポーランドとハンガリーでの10月の動乱に積極的に関与し、社会主義国家間でも平和共存の原則を適用すべきだと主張する一方、ハンガリーでは、ソ連の武力介入を進言した。

 1957年10月、ソ連と中国の間で核技術の提供を含む国防新技術についての協定が調印される。翌11月、モスクワでのロシア革命40周年記念式典に参加するため訪ソした毛沢東は、「東風は西風を圧す」と主張、核戦争で世界人口が半分になっても社会主義は生き残ると、フルシチョフの平和共存政策を暗に批判する講演を行った。この後、中ソ関係に亀裂を広げる一連の重大な出来事が生じた。

 1958年に中国は、ソ連による連合艦隊の創設の提案を主権侵害だとして峻拒した。また内政面でも「大躍進」や人民公社など、ソ連モデルではない、中国独自の社会主義建設へと邁進するようになる。こうしたなかで、1959年、ソ連から国防新技術に関する協定の破棄が通告される。1960年4月、中国は『人民日報』と『紅旗』の共同社説「レーニン主義万歳」を発表し、中ソ論争が表面化する。6月、ソ連は中国に派遣していた専門家を全員引き揚げた。1961年以降中ソ貿易は著しく減少した。

 その後、中ソ論争が全面的に展開されるようになる。イデオロギー論争と党関係以外では、核兵器をめぐる戦争と平和の問題が重要な争点となった。具体的には、①「戦争と平和の問題」について中国側は、帝国主義と階級が存在する限り戦争は不可避であり、帝国主義と対決してのみ平和が守り得ると主張するのに対し、ソ連は社会主義国の団結を砦とする平和勢力の結集が第三次世界大戦を回避する可能性をもたらすのだと主張した。②核戦争について中国が、核兵器は「張り子の虎」であり、戦争の決定的要因は人民であると主張、米ソは核独占の地位を保持し、各国人民の革命闘争を抑圧しようと企んでいるとした。これに対しソ連は、東西間の戦争は不可避的に核戦争へと発展し、そうなれば人類文明を根底から破壊してしまうので、絶対に避けるべきだと主張した。③平和共存について中国が、平和共存は便宜上の戦術であり、国際共産主義運動の基本戦略とすることは誤りであると主張するのに対して、ソ連は核兵器が存在するなか、核戦争による人類の破滅か、平和共存の二つにIつしかあり得ないと主張した。

 このように中ソ論争が激化した背景には、1962年10月のキューバ危機、翌年7月の部分核停止条約の締結以外に、中国自身による核開発の進展、そして1964年10月に中国が核実験に成功したことがあると思われる。その10月フルシチョフ首相が失脚すると中国はこれを歓迎し、翌11月周恩来を団長とする代表団をモスクワヘ派遣し、ブレジネフら新しいソ連指導部と会談を行った。しかし関係改善となるどころか逆に対立が深刻化、国家間関係は断絶に近い状態にまで冷え込んだ。

軍事的対立と米中デタント

  966年に中国で文化大革命が始まり、外交も極左化していくなか、両国はベトナム戦争などをめぐってそれまで以上の論争と非難を交わした。とくにヨーロッパから中国へ帰国する途中の留学生か、赤の広場でレーニンの墓に献花した後に、毛沢東語録を朗読した1967年1月の赤の広場事件や、1968年の「プラハの春」に対するソ連の弾圧と「ブレジネフ・ドクトリン」などを契機に、相互の非難の激しさは増す一方であった。

 1969年3月、中ソ国境のウスリー江上のダマンスキー島(中国名は「珍宝島」)上で大規模な国境武力紛争が発生し、悪化した中ソ関係の度合いは極度にまで高まった。発端は中国による挑発であった。その意図は共産党の九全大会開催の前に、事件を利用してその激しい反ソ感情を一層刺激することによって国民を結束させることにあった。一方、ソ連も同年6月に開催される世界共産党会議を控えて、事件を中国の「冒険主義」を非難する絶好の材料としようとした。このような軍事的対決によって、当時中ソ間の核戦争が一触即発の可能性があると思われたほどであった。それでも9月、北京でコスイギンと周恩来は中ソ国境会談を行い、その結果、武力衝突は沈静化した。

 翌年10月、中国は「敵の敵は味方である」という米ソの矛盾を利用して米中関係を打開する戦略を出した。これが当時ベトナム戦争に苦しむアメリカと見事に戦略方針や利益が一致していたため、米中国交の正常化への動きが始まる。ただし、1971年のキッシンジャーの秘密訪中が公表されるまで、中国は表面的に米ソ双方を非難し続けた。

 1972年2月、ニクソン大統領の歴史的な中国訪問で、米中デタントが実現し、1979年に国交が正常化するが、その後、中国とソ連の対立は深刻化する。同年4月、中国は中ソ友好同盟相互援助条約を延長しないとソ連に通告した。

関係正常化への道のり

 1976年に毛沢束が死去し、中国はようやく文化大革命を収束する。鄙小平を中心に改革開放路線がとられ、82年に米ソのどちらにも頼らない「独立自主」外交方針をとった。同年3月、ブレジネフ書記長はタシケントで対中関係の改善を呼びかけ、9月、中国側は、①中ソ国境と中蒙国境におけるソ連軍の駐留、②ベトナムのカンボジア侵攻へのソ連の支持、③アフガニスタンのソ連軍の駐留、という「三大障害」の除去を前提条件として提出した。

 経済分野などでの関係改善が見られるようになるなかで、「ペレストロイカ」と「グラスノスチ」を唱えるゴルバチョフが登場した後、政治面の関係改善も進展するようになる。1986年、ゴルバチョフが対中関係の正常化を提案し、また「三大障害」の解決にも具体的な動きを見せたこともあり、関係正常化のための首脳会談が開催されることとなった。1989年5月、ゴルバチョフは北京を訪れ、関係正常化を盛り込んだ共同コミュニケを発表した。もっとも改革の旗手であるゴルバチョフの訪中は民主化運動を刺激し、その直後の6月4日に「天安門事件」が発生する。

冷戦終結後の中露関係

 米ソ首脳のマルタ会談で冷戦の終結が宣言され、ソ連が1991年8月クーデター後解体し、中国とロシアはともに市場経済に重点をおくようになった。ロシアは一応民主主義体制をとっているのとは対照的に、台頭する中国は未だ共産党の一党独裁を堅持している。もっとも国際関係においては両国とも、多極化を主導し、非同盟、非対立、第三国を対象としない関係とする、「戦略的パートナーシップ」という「新型大国関係」を標榜している。このような進展が、国際社会に如何なる影響を及ぼすか、今後も中口関係の行方は目が離せない。

交通のリローカル化--コンパクトタウンとタウンモビリティ

2016年12月25日 | 5.その他
『新市民革命入門』より リローカリゼーションの時代へ 地域循環型経済と暮らしへの道 経済のリローカリゼーションは何をもたらすか

相互扶助のあるコミュニティの再生へ向けて、交通はどのような役割を果たしうるのでしょうか。自動車過剰社会となって、道路は車に乗っ取られ、コミュニティは分断され、中心市街地は空洞化してしまいました。交通のリローカル化とは、道路をコミュニティの人々に取り戻すことです。中心市街地への自動車乗り入れを規制し、周辺農漁業者との連携を取り戻し、自然との関係を取り戻し、人々が集まってコミュニケーションできる「コンパクトなまちづくり」を考える構想が世界で議論、実現されています。

それは、自動車をできる限り規制し、徒歩、電動車椅子、自転車、路面電車(LRT)、バスを中心とする新しいタウンモビリティを構築することにあります。とくに自転車とLRTは、新しいまちの公共交通機関として再評価され、新しいタウンモビリティの時代が起ころうとしています。

交通のリローカリゼーション(地域回帰)とは、「タウンモビリティ」(コミュニティ交通)を考えることです。タウンモビリティとは、新しいまちづくり(都市計画)の構想として、誰もが自由かつ安全に外に出かけられ、人々が出会い、コミュニケーションし、助け合い、周辺の農漁村や自然をも大切にできる、そうしたコミュニティの回復を目指せる交通のあり方を考えることです。

現在の日本は、一方では地方都市の中心市街地が深刻な空洞化に直面しており、「シャッター商店街」は地方都市を語る共通語になっています。車過剰社会は限界にきており、環境汚染のみならず、まち中の道路建設・補修工事や駐車場建設への投資コストも高くなっています。そうして建設された幅広い道路がまちを分断し、人々の出会いを遮り、コミュニティを破壊しています。

他方で、今後の地域社会(コミュニティ)を見渡すと、地方都市でこれから人口が増える見込みはきわめて低く、都心へ通勤するための郊外のニュータウンでも、巣立っていった子どもたちはどの程度戻ってくるか分かりません。人口減少、高齢化、ライフスタイルや価値観の変化、それによる世帯構成の変化などに対して、どのようなまちをつくればいいのか。

明確なのは、人口減少と高齢化の急進展です。日本の人口は五〇年足らずの間に四〇〇〇万人も減少します。高齢化率は二〇二五年には三三%に達します。三人に一人が高齢者となる「まち」のあり方とは、地域の企業や公共施設などの建物が高齢者対応型であるだけでは足りません。すべての住宅・施設が高齢者対応型であるだけでなく、まち全体が高齢者・障がい者対応型のバリアフリーのまちになっていなければならないことを意味します。それには道路・歩道をはじめ公共交通機関のあり方が最も重要な課題です。

新しいまちづくり計画構想として、国際的に「コンパクトシティ(タウン)」の考え方があります。ヒューマンスケールで個性のあるまちを目指し、「コミュニティ再生」と結びつけた「コンパクトなまちづくり」を追求するものです。その中核的テーマはタウンモビリティ(コミュニティ交通)です。自動車交通をできるだけ規制し、徒歩や自転車や路面電車を促進して地域の自然や景観を大切にしつつ、人々の出会いの場をつくり上げ、市街地の活性化をももたらすまちづくりです。

車過剰社会からの脱出

 「コンパクトシティ(タウン)」は、きわめて包括的な概念ですが、国際的にすでに長きにわたり議論され、具体化してきています。欧米では「コンパクトシティ」「サステイナブル・コミュニティ」「アーバンビレッジ」「スマートシティ」などと呼ばれているもので、これらは各々強調点に若干の違いはあるものの、ほぼ同じ系譜の考え方です。

 コンパクトシティとは、地球環境の改善(二酸化炭素等地球温暖化ガスの排出抑制など)に取り組みながら、同時に都市の再生にもつなげられる都市構想を目指すものです。具体的には市街地の範囲を限定し、高密度化させ、自然をできるだけ浸食しないようなまちづくりを行う、低成長時代への対応型都市構想でもあります。

 欧州では、コンパクトシティヘの取り組みは、まず地球環境問題への対応から、自動車が排出する二酸化炭素削減から始まりました。次いで田園や自然環境保全などへと結びつき、人々の生活のあり方を問いかけるものとなり、それが都市間の国際的ネットワークの形成へとつながり、地域の持続可能性を高めるものとしてとらえられてきました。

 これに対して、日本のコンパクトシティ構想は、中心市街地の空洞化、郊外へのスプロール化、人口減少・高齢化への対応が発端となっています。具体的には中小規模の地方都市の中心市街地再生を目指すという考え方が中心となっています。

 EU(欧州連合)は一九九四年に欧州サステイナブルシティ&タウン・キャンペーンを行い、その一環として「オールボー憲章」を採択し、自治体の都市計画の柱として、以下のような具体的な提案を提示しました。これがその後コンパクトシティの構想の基本となってきました。

  ①より高い密度による、効果的な公共交通とエネルギーの供給

  ②ヒューマンスケールの開発

  ③複合機能の促進による、インナーエリアや計画的な新市街地開発における移動の必要性(交通需要)の減少

  ④自動車交通の必要性の減少

  ⑤徒歩・自転車や公共交通の促進

 日本では、一九九九年策定の阪神・淡路大震災後の神戸の復興計㈲書の中にコンパクトシティの概念が組み入れられていました。しかし、日本全国の自治体がコンパクトシティをキーワードに位置付けていくのは、二〇〇六年のいわゆる「まちづくり三法」の全面的見直し・改正後です。改正によって、これまで立地が原則自由に認められていた白地地域への大型ショッピングセンターや公共施設の誘致なども他の開発や立地と同様許認可の手続きを必要とすることとなりました。施設の郊外立地や市街地の拡大を基本的に抑制し、中心市街地への立地誘導を図ることを目指す方向への改正でした。この時の議論に使われた言葉がコンパクトシティでした。この概念は、青森市、金沢市、福井市、神戸市などの都市づくりのマスタープランとして導入されていきました。

自転車優先のまちづくり

 日本の交通政策は、大量の車をいかに効率よく捌くかに焦点があてられてきました。そのため道路は地域生活の中心としての役割を奪われ、単なる車の通路として認識されるようになってしまいました。車対策として、全国の自治体がとったことは、バイパスの建設と広い道路横断のための歩道橋の設置でした。

  自動車利用を前提とした道路政策によって、道幅はできるだけ広げられ、それがまちを分断してきました。空き地は駐車場となり、自動車を収容するための無機的な建造物に都市の貴重な空間を浪費する結果となり、隣人との触れ合いは阻害されてきました。

  自動車は、道路と駐車場のために巨大な空間を消費する空間浪費型の交通手段です。その空間処理のために莫大な財政が投資され、今や不効率となっています。さらに、自動車利用を前提とした都市では、自動車を利用しない人、利用できない人には住みにくいまちとなり、「社会的な格差(交通格差社会)」を生じさせることになりました。

  日本では、車の混雑・渋滞への取り組みとして、地方都市では市街地を貫通していた幹線道路のバイパスを建設していきました。このバイパス沿線や周辺に商業施設が開発されていき、さまざまな店舗がひしめき合うようになりました。一時はバイパス建設があたかも市街地拡大による地方都市発展の起爆剤と考えられるようになり、各地で続々とつくられていきました。

  しかし、バイパス周辺への大型商業施設の進出によって、中心市街地の商店街は急速に空洞化していき、シャッター街となっていきました。と同時に少子・高齢化に加え低成長、さらに若者は相変わらず都市へ流出することによって、購買力は拡大せず、外縁の農地を開発したスーパーなどのショッピングセンターも閉鎖されるところが目立つようになりました。大型空き店舗などが発生し、失業問題、後継店舗対策、取り壊し予算の発生などの問題が起こってきました。

  郊外への大型店進出によって、小売業の店舗面積は増大しましたが、これに比例して雇用数や販売額が増えてきたわけではありません。雇用数の伸び悩みは効率化と説明できるかもしれませんが、販売額の伸び悩みは所得の伸び悩みと人口減少という本質的問題によるものです。こうして市街地の空洞化と近隣のスーパーマーケットの閉鎖によって、障がい者・高齢者にとっては買物をする場が失われる「買物難民」の登場という事態さえ発生することにもなりました。

  買物難民をもたらしている理由には、郊外への大型店の進出のみならず、交通の利便性の衰退によります。これを回復するには、商店街の回復と活性化が必要ですが、同時に誰もが利用できるバリアフリーの公共交通の構築が必要なのです。

『そして、私たちは愛に帰る』ドイツとトルコを結ぶ第二世代

2016年12月24日 | 3.社会
『ワールドシネマ・スタディーズ』より ドイツとトルコを結ぶ第二世代の物語

三組の親子の葛藤は、移民第二世代のかかえる苦悩とそれを克服しようとする、それぞれのあらがいを映し出す。これは現代のヨーロッパの多くの都市に見られるテーマであり、映画はこの問題を活写している。現代の若者をとりまいているのはどのような世界で、この世界はどのように成立したのか。この世界を生きていくために逃れることのできない苦悩を、ファティ・アキン監督は、どのように克服していこうとするのか、彼の描く世界像をたどっていく。

うす暗い街角、ブレーメンの裏町を、数人の男が罵声を発しながら駆ける。男たちのことばはトルコ語で、同国出身の娼婦を追っている。映画は、こんな場面からはじまる。

ドイツの都市で、トルコ系の人々の姿を目にすることはめずらしくない。この映画は、その上うな卜ルコ系の人々が、ドイツ社会のなかで、どのような居場所をみつけているのか、その居場所を得るためにどのような葛藤をかかえているのかを考えさせる。物語は、トルコ系ドイツ人の第二世代の男性を中心に、三組の親子をめぐって展開する。ドイツとトルコという、二つの文化のライフスタイルや価値をめぐるすれ違いが、親と子の感じ方や考え方の違いと重なって描き出される。

子どもは、ときに親と違う視線で世界を見る。だが、移民の第一世代と第二世代の場合は、その違いはラディカルにあらわれる。いま、自分が生きている世界への入り方が、親と子で大きく異なるからである。トルコ系の人々が、どのような経緯でドイツに暮らすようになったのか、見ていこう。

トルコ系の人が多くドイツに生活する現在の状況は、ドイツ政府がトルコから労働者を募ったことに起因する。そのときドイツにやってきた労働者が、現在、子供や孫の世代を迎えているのである。

ドイツは一九五〇年代半ばから、「経済の奇跡」と呼ばれる高度経済成長期にはいり、深刻な労働力不足に陥った。高度経済成長期、日本では地方から工業地帯への人口移動によって労働力需要を満たしたが、西ヨーロッパの国々では、外国に労働力を求めた。二国間協定にもとづいて行う労働者募集がそれである。ドイツ政府は、一九五五年、イタリアとの協定を皮切りに、ギリシャ、スペインとも協定を結び、四番目の相手国としてトルコとの協定を一九六一年に結んだ。

トルコで募集に応じた志願者たちは、アンカラやイスタンブールで審査を受けた。とくにドイツから派遣された医師の健康診断は厳しく、申し分なく健康な人だけが、ドイツの各都市に送られた。トルコからきた外国人労働者は、南欧出身者に比べて、まじめによく働いたことが知られている。

政府は、外国人労働者の募集を一九七三年に停止する。石油危機も起こったこの年は、高度経済成長期の終焉を印すことになった。募集停止によって、外国人労働者人口の極端な右肩上がりは抑制されたが、外国人人口そのものは減少することなく、その後もゆるやかな増加を続けた。労働者の多くが、仕事がなくなっても故国に帰らずに、そのままドイツに留まるようになったからである。彼らは、いったん帰国すれば再びドイツで働くことができなくなることを考慮して、次の仕事を探しながら滞在を続けた。滞在の長期化にともなって、トルコから家族を呼び寄せて、ドイツで家族生活をいとなむようになった。こうして、トルコ人家族がドイツ人家族の隣人として、集合住宅やスーパーマーケット、学校や病院、役場や公園など、あらゆる生活場面に関わりをもつようになっていった。

ことばや信仰、食物や生活習慣の違いは、さまざまな出会いとともに、数えきれないすれ違いや無理解も引き起こす。第一世代にとって、それはしばしば片い経験として記憶される。だが、第二世代にとって、世界はさらに複雑である。家庭では、トルコ語を話し、故郷の生活や風景を最善のものと考えている両親に育てられているのに、学校では、ドイツ語を使い、ドイツの制度や文化を学ぶことを求められる。家庭で絶対的に強い立場にある父親が、いったん外に出ると、ひじょうに弱い立場におかれることを理解するのは容易ではない。第二世代は、家庭の内と外で、異なる価値のなかで成長していくことを余儀なくされている。第二世代のドイツ人社会に対する考え方やドイツ人との関わり方は、第一世代とは大きく異なるものになっていく。

このことは、もちろんドイツ人の親子関係にも影響を及ぼす。トルコ系の子どもとともに学ぶ経験は、親世代が経験しなかった若年世代の新しい経験である。それゆえ子どものトルコ系との友人関係は、親が理解しにくい側面もある。そうしたずれが、親と子のライフスタイルや文化的な価値をめぐる考え方の違いを、露見させることにもなる。

主要な登場人物は、三組の親子六人である。一組目の親子は、娼婦街に出入りする初老の男(アリ)とその息子(ネジャッ)である。アリとは対照的に、ネジャットは知的な大学教授で、ハンブルクに住む。休日に父を訪問するが、娼婦に金を払って同居させるような父を嫌悪する気持ちをおさえきれない。アリの年齢や風体は、外国人労働者として渡独した男の老後を描き出す。年金生活で金には困っていないが、金だけが彼を支えている。父と子のライフスタイルは、まったく異なっている。

二組目の親子は、アリと同居する娼婦(イエテル)とその娘ティテン)である。イェテルは、娘の将米だけを楽しみに、娼婦として稼いだ金を娘の学費として送金している。アイテンはイスタンブールの大学生だが、政治運動に奔走している。学費を送ってくれる母親は、店員として働いていると信じて、母を頼ってドイツに逃亡する。

三組目の親子は、ドイツ人学生(ロッテ)とその母(スザンヌ)である。衝動的で未熟なロッテは、アイテンに魅せられて盲目的に彼女を支援し、母親と衝突する。ロッテは、母親のミドルクラス的なライフスタイルを嫌悪する。一方のスザンヌは、娘と衝突しながら、娘の影響のもとに、時間をかけて卜ルコの友人に心をひらいていく。