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ロシアに未来はあるか

『ロシアの歴史を知るための50章』より

ロシア革命とは復古的な革命でもあった。農民革命で共同体が蘇った。パリ・コンミューンの再現どころか、ソヴィエトは「聖なるルーシ」を求め、モスクワを「第三のローマ」と信じるような勢力に支えられた。もともとはヴォルガの革命家であるレーニンもまた、異端派の宗教ネットワークこそソヴィエトの本質であることを、秘書で古儀式派研究者でもあるポンチ=ブルエビッチ(最初のソヴィエト政府の官房長官)を通じて、ソヴィエト運動が古儀式派の環境で生じたことを理解していた。スターリンもソヴィエトは純ロシア現象であると見た。「全権力をソヴィエト」へと言ったとき、マルクス主義者が驚いたわけである。こうしてロシア革命とは古い信仰に忠実な農民兵の反乱であった。第一次世界大戦末、700万人いた農民兵はソヴィエトを通じて土地を得た。レーニンはこの土着的運動をフィンランドの隠れ家で書いた『国家と革命』のなかでマルクスの言うパリ・コミューンの再来であると解説した。

しかし革命の夢は長くは続かない。権力をとると直ちに生じたのはインフレと穀物不足。レーニンとトロッキーが中心となった政権は、直ちに食糧独裁を宣言、穀物と馬を持つ農民に負担を求めた。トロツキーは赤軍形成に際し旧軍将校団の協力を求め、ソヴィエト活動家としばしば衝突した。ソヴィエトは衰退するか、共産党と名を変えた権力党とぶつかるかした。労働者反対派のシュリャプニコフやメドヅェージェフなど古儀式派系活動家は、トロツキーの党運営に抗議、とくに労働組合まで軍の支配とすることに抵抗した。1920~21年の党内闘争はこのような状況の所産であったが、地域では「コムニストなきソヴィエト」運動がウラル・シベリアなどで広がった。

ロシア革命とはその意味では最初から「裏切られた革命」であった。1928~1929年の農村で生じたスターリン官僚と共産党右派との戦いでは、赤軍の幹部となっていた活動家が工業化を求め、スターリンの工業化路線に賛意を表明する。それでも1932~1933年に広範囲な飢饉が襲うと、赤軍やスターリン系党地方幹部も不満を表明する。スターリンは欧米協調の外交路線でかろうじてこの危機を乗り切ると、1937年前後の大粛清でこの体制を一掃する。

第二次世界大戦での赤軍をよく見ると、少なくとも戦闘では冬戦争、1941年6月のように敗北の連続である。しかし聖なるルーシ、モスクワまで脅威にさらされると兵士は反撃に転じる。こうして1812年のナポレオンと同様ヒトラーも結局敗北する。正教を復活させて勝ったのは古いロシア、「大祖国戦争」であることを神学校出のスターリンはよく了解していた。ロシアとは幾重もの皮に覆われた存在である。その表皮を剥いていくとさらに古い核がある。ロシア革命同様ソ連崩壊にもこのロシア史の分裂した意識が姿を現す。

ソ連邦とは形式的には地名のない国家であって、どの民族もソヴィエト的統治を採用すれば参加可能であった。憲法はソ連からの離脱の自由もうたっていて、この条項は無意味なものに思われたが、1991年末ソ連はこの規定に従って、つまりは合法的に崩壊したのであって「陰謀」の所産では必ずしもない。15の共和国がそれぞれ主権を主張する形でこのソ連国家の崩壊過程が進行していた。

ソ連崩壊は、四半世紀後の現代もまた議論の焦点である。プーチンがこれを「地政学的破局」と言ったことを引き合いに出してソ連社会主義という「未練学派(E・H・カー)にしがみつく論者が、ロシアなどで時折見られる。西側でもこれを逆引用して、ロシアがソ連回帰に戻っているという議論がある。プーチン自身は、この引用の後に「ソ連に戻りたいものは頭脳がない」と付加していることは都合よく読み飛ばされがちだ。歴史の法則性にこだわる論者にこのような考えが見られる。

しかしその1991年を1917年の政治過程と比較すると有意義な認識が得られそうだ。ペレストロイカを始めたゴルバチョフらは、1916年末に宮廷クーデタを考えていた二月革命の指導者たちと同様「体制転換」までは構想していなかった。しかし始まってみると「下」に新しい権力核が生じ、「上」の企図とは別の政治力学が展開される。1917年のソヴィエト運動は、1991年の共和国の主権を呼号する共産党民族派同様、「上」の、あるいは改革指導部の思惑を超えてしまう。1917年9月のクーデタを考えていた将軍たちは、1991年8月のゴルバチョフ周辺の保守派と同様な思惑で動いた。しかしそれ自体がまた「革命派」を鼓舞し、事態を真逆の方向へ動かしたのである。いずれについても回想などには「陰謀」や「裏切り」を論難する議論が後を絶たない。しかし生じたことは歴史の現実なのである。

ペレストロイカが始まった時、これを主導した指導者ゴルバチョフは「歴史の見直し」を始め、それまでのイデオロギー化した歴史に別れを告げた。新しい歴史や解釈が現れ、ロシアーソ連とは「予測できない過去を持つ国」であるという評価がはやった。その意味でロシアの歴史研究とは常に未完の企画だと言えよう。

自由化が始まった80年代後半以降「予想できない過去」を持つ国から、ソ連や冷戦史料などの認識や情報が流れ出しだのは偶然ではなかった。この過程はプーチン時代になって奔流は止まりかけたものの、それでも史料公開の流れは完全に終わったわけではない。ロシアや旧ソ連国内でも若手研究者たちが立場を超え研究を進めている。

同時にロシアはその相貌を急速に変えてきた。「もっと社会主義を」で始まった改革運動だが、ソ連崩壊前後は「民主ロシア」が輝いた。やがて経済を中心に民営化をすすめる「自由ロシア」を経てプーチン政権での「保守的ロシア」へとキーワードも変化している。ロシアの変動はあたかも円環のようである。エリツィンがいった「好きなだけ主権を」といった崩壊容認論は過去となり、国家統合がすすむにつれ崩壊が社格となってきた。ソ連崩壊は「20世紀最大の地政学的悲劇」と言ったのは、巷間言われるプーチン大統領ではなく、どうやらウクライナの政治家であったようだが、ロシアもまた崩壊の経験をした後は安定が価値となった。

兄弟国家であるウクライナはロシアにとって反面教師でもある。第40章でも言うように、正教的イデオロギーを嫌ったレーニンがロシア革命後、小ロシア、新ロシアなどと呼ばれた地域をベースに作った行政単位=共和国がウクライナであった。当時クリミアはロシア領、カトリック系の西ウクライナも当初は別の国であった。そのウクライナが輝いていたのは軍産部門からでてきたブレジネフのソ連期であった。しかし1992年に独立して以降のウクライナ史とは、国民国家形成どころか、むしろ分裂と崩壊の歴史であったと言っても誇張とは言い切れない。

ソ連末期のウクライナ共産党官僚から初代大統領だったレオニードークラフチュクは独立25年目の2016年9月、ウクライナは1954年フルシチョフ第一書記によってクリミアを押し付けられたのだと発言、一部で注目されている。フルシチョフが、ウクライナ共産党第一書記アレクセイ・キリチェンコに対し、クリミアには水も食糧もないから、これをウクライナに併合するようにすすめた、というのである。結局、ソ連最高会議でウクライナがクリミアを領有するように押し付けたのが真相だ、と語った。ウクライナとロシアの和解への動きと理解したい。

同様に独立後のロシアもまた、チェチェンなどの分離主義による国家崩壊におびえる歴史もあった。一体純粋「ロシア人」なるものは存在するのか。宗教以外でロシア人を束ねるものは何か。イスラム教徒はロシアにおいて何者か。国家にとって少数民族や宗教はどう共存できるのか。ウクライナ危機とクリミア併合以降、ふたたび「ロシアとは何か」という問いがだされるが、しかし容易に回答はない。

歴史研究は危機によって触発される。その意味ではロシア史も常に再解釈され、読み直され、そして読み替えられる。読者はこのような素材として本書を利用していただければこれに越した編者の喜びはない。
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